大工ストだ。.... 佐久間學

(16/4/28-16/5/21)

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5月21日

BERG
Wozzeck
Franz Grundheber(Wozzeck)
Hildegard Behrens(Marie)
Philip Langridge(Andres)
Heinz Zednik(Hauptmann)
Walter Raffeiner(Tambourmajor)
Aage Haugland(Doktor)
Claudio Abbado/
Chor und Orchester der Wienerstaatsoper
ARTHAUS/109 156(BD)


アルバン・ベルクが「ヴォツェック」を作ろうとしたきっかけは、原作であるゲオルク・ビュヒナーの戯曲のウィーン初演を1913年のある晩に観たことでした。ベルクは、すぐさまオペラ化の決心をして作曲にとりかかり、1922年には完成させます。原作は、1821年に実際に起こったヨハン・クリスティアン・ヴォイツェックという下級軍人が、愛人を殺害するという事件をモデルにして書かれています。ただ、戯曲やオペラでは彼は愛人を殺した後で、すぐに入水自殺を図るのですが、リアル・ヴォイツェックは殺人の罪で逮捕され、処刑される1824年までは生きていました。その際の取り調べでの精神鑑定書を元に、ビュヒナーは戯曲を創作したのですね。
ただ、この戯曲は完成することはなく、断片を記した自筆稿だけを残して、ビュヒナーは1837年に亡くなってしまいます。それが、カール・エミール・フランツォースという編集者によって1879年に出版されます。その際に、判読不明の個所が多い自筆稿からは「Woyzeck」が「Wozzeck」と読み取られたために、タイトルも「ヴォツェック」となっていたのですが、後に改訂された時にはきちんと「ヴォイツェック」と直されました。しかし、ベルクが参照したのは1879年版だったので、オペラだけは「ヴォツェック」というタイトルになってしまったのです。
オペラ化にあたって、ベルクは全部で26の場面に分かれていた原作を、それぞれ5つの場面を持つ3幕構成に直しました。そして、音楽的にも、それぞれの場面は一つの音楽形式(「組曲」とか「ラプソディ」)をとり、さらに幕の中の5曲にも緊密な関係をもたせ、まるでオペラ全体が巨大なオーケストラ作品であるかのように作られています。そこではワーグナーのような「ライトモティーフ」的なものも使われていますが、最初にヴォツェックに髭を剃られている大尉に与えられたモティーフが、ベートーヴェンの「田園」の第1楽章のテーマそっくりなのは、なぜでしょう。
この映像は、クラウディオ・アバドがウィーン国立歌劇場の音楽監督に在任中の1987年に行われたアドルフ・ドレーゼンの演出による公演のライブです。実は、おそらくこれと同じものの音声だけが、DGからCDとしてリリースされています。そのせいなのかどうか、この時代の映像にしてはあまりに音が良いことに驚かされます。画面が4:3の古臭いサイズなので、このいい音とのギャップがたまりません。それによって、特にオーケストラの個々の楽器がとても粒が立って聴こえてきて、ベルクの複雑なスコアが眼前に広がる思いです。とくに、チェレスタがくっきり聴こえてくるのはなかなかのもの、この華麗なオーケストレーションを、まず耳だけで楽しむだけでも価値がありそうです。ただ、歌手に関してはやはりライブですから、いくらか不満足なところも出てきますし、場合によってはプロンプターの声がはっきり聴こえてきたりするので、ちょっと興ざめですが。
映像監督は、この頃のオペラの映像を撮らせたらこの人しかいないというほどの売れっ子、ブライアン・ラージ。おそらく彼はスコアまできちんと読み込んでカメラのアングルなども決めているのでしょう、まさに今そこで最も重要なシーンが間違いなくアップになって示されているのは、感激ものです。そんなシーンで最も頻繁に使われているのが、アバドが指揮をしているシーンだ、というのはちょっと反則っぽいやり方ですが、この作品に限っては場面の合間に演奏されるオーケストラだけの部分も一つの「見どころ」ですから、仕方がありません。おかげで、アバドはこの複雑な作品を全曲暗譜で振っていることも、超絶技巧が必要なフルートのトップを、ヴォルフガング・シュルツが吹いていることもよく分かります。
歌手では、なんといってもマリー役のベーレンスのノーブラ姿でしょうか。ラージは、彼女の乳頭を見事にアップでとらえてくれていました。

BD Artwork © Arthaus Musik GmbH


5月19日

BACH
Matthäus-Passion
Hannah Morrison(Sop), Sophie Harmsen(Alt)
Tilman Lichidi(Ten)
Peter Harvey, Christian Immler(Bas)
Frieder Bernius/
Kammerchor Stuttgart, Barockorchester Stuttgart
CARUS/83.285


フリーダー・ベルニウスの演奏をCDで初めて聴いたのは、もう20年近く前のことです。その時には、定職に就かないで指揮をしているのか(フリーター・ベルニウス)とか、ペット関係のお仕事なのか(ブリーダー・ベルニウス)と思いましたね。
彼が生まれたのは1947年。自分の合唱団「シュトゥットガルト室内合唱団」を作ったのが1968年のはずですから、その時はまだ21歳の若造だということになりますからね。実際、これは彼がシュトゥットガルトの音楽大学の1年生の時だったそうです。さらに、このCDのブックレットの中で彼は「この録音についての個人的な意見」というエッセイを書いていますが、それによると1970年代の初頭には、あのヘルムート・リリンクの合唱団「ゲヒンガー・カントライ」のメンバーとしてアメリカ・ツアーに参加したそうですから、他の合唱団で修行中の身でもあったということも分かります。
さらに彼は、1985年にはピリオド楽器の団体「シュトゥットガルト・バロックオーケストラ」も設立します。そこでぶち当たったのが、例の「バッハでは合唱は1パート1人で演奏すべき」という「都市伝説」です。しかし、ベルニウスはこの方式の可能性自体は認めつつも、やはりその人数での物足りなさも感じていたようですね。このエッセイの中でもそれを暗に批判しています。
そのあたりが、彼がバッハを演奏するにあたっての基本的な姿勢なのでしょう。いたずらにバッハの時代の慣習をなぞるのではなく、作品を通して作曲家が伝えたかったことこそを演奏で生かしたい、と。
そんなベルニウスの思いが、この、彼にとっては初めてとなる「マタイ」の録音には込められているのでしょう。もちろん、それを後押ししたのが、このレーベルの母体である出版社が2012年に出版した新しいクリティカル・エディションであることは間違いありません。なんせ、新バッハ全集(Bärenreiter)が出版されたのがその40年近くも前の1974年ですから、長年ゲッテインゲンのバッハ研究所に籍を置き、新バッハ全集の編纂にも関与していたクラウス・ホフマンによって校訂されたこの楽譜はまさに待望のものです。もちろん、これは初稿ではなく改訂稿の方です。
まさに「満を持して」録音されたことがよく分かるこのCDは、ライブ録音のようなお手軽なものではなく、しっかり教会で5日間のセッションを設けて録音されています。マイクアレンジも、「コルス・セクンドゥス」の方を合唱もオーケストラも少しオフ気味に右奥から聴こえるように設定してあります。ただ、ソリストは常に中央に定位しています。つまり、アリアを歌うソリストはソプラノ、アルト、テノール、バスがそれぞれ一人ずつしかいません。さらに、テノールのソリストはエヴァンゲリストも歌っていますから、こんなこともセッション録音だから可能になっているのでしょう。
その、テノールのリヒディこそが、この演奏の落ち着いたたたずまいを支配している立役者ではないでしょうか。あくまで伸びやかなその声には、ことさら個性を発揮するというのではなく、歌っている中に自然と表現したいことが込められているという賢さが秘められています。他のソリストたちも、それぞれに同じような方向を目指しているように思えます。その中で、ソプラノのモリソンの澄み切った声は、まさに至福のアリアを届けてくれています。
合唱も、大げさな身振りをせずに音楽そのものにすべてを語らせるという、やはり賢さの極みを見せています。「バラバを!」という群衆の叫びも、減七の和音だけでなんの力みもなくすべてを語らせていますし、最後の長大な合唱のエンディングもいともあっさりとしたものです。
長年「マタイ」を様々なシーンで体験してきたベルニウスがたどり着いたのが、こんなに風通しが良くて爽やかなものだったことが、とてもうれしく感じられます。

CD Artwork © Carus-Verlag


5月17日

BERLIOZ
Symphonie fantastique, Lério
Gilles Ragon(Ten), 宮本益光(Bar)
渡部ギュウ(Narr)
Pascal Verro/
仙台フィル第300回定期記念合唱団(by佐藤淳一)
仙台フィルハーモニー管弦楽団
Onebitious Records/OBXX00009B00Z(2.8MHz DSD)


仙台フィルのライブ音源によるハイレゾ配信を聴くのは、こちらの「第9」に次いで2回目、今回は収録されたホールも違いますし、おそらく何度も経験してそれなりのノウハウも蓄積されてきたのでしょう、見違えるように素晴らしい音で録音されていました。FLACとDSF(DSD)の両方がリリースされていますが、一応オリジナルということでDSDを購入です。
これは、4月15日と16日に行われた第300回という記念すべき定期演奏会の録音です。常任指揮者のパスカル・ヴェロの指揮で、ベロリオーズ、いや、ベルリオーズの「幻想交響曲」と、本来はそれとセットで演奏されるために構想された「レリオ、または『生への回帰』」というオラトリオが演奏されていました。「レリオ」の方はほとんど忘れ去られた存在になっていて、何種類かの録音は存在しますが実際にコンサートで演奏される機会は非常に稀です。
まずは、最初に演奏された「幻想」を聴いてみます。マイクはステージ上方に吊った2本だけですが、特に管楽器の粒立ちがくっきりと聴こえてきます。ホルンなどは、普通はほとんど聴こえてこないようなフレーズがはっきり聴こえます。こうなると、ソロのほんの少しのミスもしっかりわかってしまいますから、怖いですね。ホルンなどは、最後までちょっとピッチが不安定なのもとても気になってしまいます。
しかし、曲の運びはとてもきびきびしていて、メリハリのはっきりした音楽が伝わってきます。かと思うと、第2楽章の最後での突然のアッチェレランドのような、意表を突く表現が見られることもありました。3楽章はまさに絶品でしたね。とても深みのある響きに包まれて、ゾクゾクするほどの寂莫感が迫ってきます。特に、クラリネット・ソロのピアニシモは、心を奪われます。それに対して、第4楽章のなんと華麗なこと。ここでは金管楽器が、とことんゴージャスな音楽を仕掛けてきます。これは、普通とはかなり違うアプローチ。ところが、最後の、やはりクラリネット・ソロのひと吹きで、それが狂気に変わります。これは見事、これをきっかけに曲の目指すものがガラリと変わってしまうんですからね。
それを受けた終楽章も、Esクラリネットが出てくるあたりでギアがさらに狂気にシフトします。ここで、一瞬ファゴットが乗り遅れるというスリリングな場面も、いやあ、これは生で聴いてみたかったですね。
「レリオ」は、長いナレーションの間に音楽が挟まるという、ちょっと珍しい作り方、というか、そのために音楽としての価値がほとんど認められてはいないという不幸な目に遭っている作品なのでしょう。しかし、ここではそのナレーションを日本語に直してとても上手な役者さんが演技を交えながらほとんどお芝居のノリで語っていますから、それだけでまず引き込まれ、そこでの音楽の役割もとてもよく理解できるようになっています。一見すると脈絡のない小品の羅列のようでもありますが、それらはしっかり有機的に関係づけられているのですね。
それは、合唱が最初に出てくる「亡霊の合唱」で、しっかり印象付けられます。この演奏では合唱は客席の中で歌っていたはずですが、その2オクターブに渡る平行ユニゾンによる不気味な歌は、マイクから少しオフになっている部分も含めた広がりとなって圧倒的な力で伝わってきます。
男声合唱の「山賊の歌」の無駄な明るさも、前後の語りからその意味がはっきり分かりますし、最後の長大な「『テンペスト』による幻想曲」でも、ベースを欠いた軽やかな混声合唱のサウンドは、ベルリオーズのオーケストレーションの一部として異彩を放っています。
その前の「エオリアン・ハープの思い出」でのクラリネット・ソロの素晴らしいこと、仙台フィルって、いつの間にこんなすごいオーケストラになっていたのでしょう。

File Artwork © Label Gate Co.,Ltd


5月14日

SMOLKA
Poema de Balcones
Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
WERGO/WER 7332 2(hybrid SACD)


WERGOという名前を聞いただけで、なんだか難しそうな音楽ばかり扱っていて、聴く前からぐじゃぐじゃの音の攻撃に耐えなければいけないようなイメージが付きまとっているレーベル、という気にはならないでしょうか。
そのような大雑把なイメージのせいで、このアルバムもちょっと敷居が高いような先入観を持ってしまいますが、注意深くクレジットを見てみると、これはレーベルこそWERGOですが、実際に制作したのは、ここで歌っているマーカス・クリード指揮のSWRヴォーカルアンサンブルというおなじみの顔触れの演奏の録音をいつもリリースしているSWRそのものであることに気づくはずです。プロデューサーやエンジニアにはおなじみの名前が見られますしね。しかもSACDだというのですから、これはもうWERGOなんて余計な肩書を考えずに聴けば、さぞや素晴らしい体験ができることでしょう。それにしても、なぜWERGOだったのでしょう。親会社のSCHOTTから楽譜が出ているのでしょうか(おや、この作曲家の楽譜はすべてブライトコプフから出版されていますよ)。
このアルバムの作曲家、マルティン・スモルカは、1959年にチェコのプラハで生まれました。プラハ芸術アカデミー(Academy of Fine Arts)で作曲を学び、1980年代初めごろから、前衛音楽の旗手として作曲活動を開始します。彼が影響を受けたのはポスト・ウェーベルン、ミニマリズム、ケージのようなエクスペリメンタル・ミュージック、そしてペンデレツキなどのポーランド楽派だといいます。まさに当時の「前衛」の王道ですね。そして、1992年のドナウエッシンゲン音楽祭で演奏された「Rain, a window, roofs, chimneys, pigeons and so… and railway bridges, too」という18人のアンサンブルのための作品で、一躍国際的な舞台へと登場したのです。
これは彼が2000年以降に作った合唱のための作品集、最初に聴こえてくるのはフェデリコ・ガルシア・ロルカの詩集からの断片をテキストとして2008年に作られた「Poema de balcones(バルコニーの詩)」です。録音は2009年の3月17日と18日に行われていますが、彼らによって世界初演が行われたのが同じ年の3月21日ですから、初演に先立って録音されていたということになります。テキストはほとんど聞き取れないほどのヴォカリーズ的な声で歌われています。穏やかなクラスターが終始鳴り響くという、まるでリゲティの「Lux aeterna」を思わせるような曲想ですが、それよりはもっと具体的な情景を描写しているように感じられるやさしさが漂っています。それは、浜辺に打ち寄せる波の音とも、深い森の奥に吹き渡る風のざわめきとも思えるような、なにか心の深いところに直接イメージを送り込んでくる力を持ったサウンドです。ある時は口笛なども使って、それはより具体性を持つことになります。
2曲目の「Walden, the Distiller of Celestial Dews(ウォールデン、星の雫を蒸留する人)」は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの著書「ウォールデン、森の生活」からテキストが採られています。こちらは、5つの曲から成っていて、それぞれに技法も印象もまるで異なっている、ヴァラエティに富んだ曲集です。その中の4曲目「Blackberry」がとても印象的でした。とても緩やかな優しいテイストの部分とリズミカルな部分が交互に現れるのは、人間の二面性の投影でしょうか。
これは、ドナウエッシンゲンで2000年に初演されたもので、その時の、やはりこの合唱団(指揮はルパート・フーバー)による録音と、もう一つ、ペーテル・エトヴェシュ指揮のバイエルン放送合唱団による録音(NEOS)がすでに出ています。
3曲目の「塩と悲しみ」はタデウシュ・ルジェヴィッチのポーランド語のテキストによって2006年に作られラトヴィア放送合唱団によって初演されていますが、録音はこれが初めてのもの。これも、幅広い情景描写が魅力的です。
そのような振幅の大きい表現を、この合唱団は的確に表現しています。それは、SACDならではの素晴らしい音で聴く者にはストレートに迫ってきます。

SACD Artwork © WERGO


5月12日

L'ESTRANGE
On Eagles' Wings
Nigel Short/
Tenebrae
SIGNUM/SIGCD454


1974年に生まれたイギリスの作曲家アレグザンダー・レストレンジの宗教的な合唱作品を集めたアルバムです。彼は合唱曲の作曲家、あるいは編曲家としては今や超売れっ子の存在、その編曲のクライアントとしては、「スウィングル・シンガーズ」、「ヴォーチェス8」そして「キングズ・シンガーズ」といった最強のア・カペラのグループが名を連ねています。
レストレンジ自身も、幼少のころからオクスフォードのニュー・カレッジの聖歌隊の一員としてエドワード・ヒギンボトムの指揮のもとでボーイ・ソプラノとしての演奏活動を行っていました。それと同時にジャズにも関心を示し、ピアノで即興演奏なども行っていたそうです。あるときなどは、聖歌隊でハーバート・ハウエルズの有名な聖歌「汚れなきバラ」を歌った時に、ホ長調の三和音で終わるその曲の最後に他の聖歌隊員と共謀して9音であるF♯の音をハミングで歌って、ジャズ風の「ナインス・コード」にしてしまうといういたずらをやったりしたのだそうです。
そんなレストレンジ少年は、幼少期の興味をそのままに伸ばして、それを職業とする幸せな生涯をたどっているところなのでしょう。現在では作曲家であると同時に、ジャズ・プレーヤーとしても、ピアノと、さらにはベースまで演奏するようになっているのだそうです。
このCDには、彼の、主に実際に礼拝に用いるために作られたもの以外にも、例えば結婚式のお祝いのために作られたものなど、最近の作品が収められています。最も古いものでは2001年、そして、最も新しいのが、2014年に、彼の古巣ニュー・カレッジの礼拝のために作られた2曲、「Magnificato」と「Nunc Dimittis」です。これらは英語の歌詞に直されていますが、その年にこのチャペルのオルガニストと指揮者のポストから引退することになっていたヒギンボトムのためのお祝いという意味が込められています。
それは、単に「お祝いの意味を込めた」という抽象的な「気持ち」ではなく、もっと具体的な技法として示されています。例えば、ホ長調で作られた1曲目の冒頭のオルガンのイントロが、最初に9度の跳躍が登場するというとてつもないテーマで始まり、それが続く合唱でのメインテーマとなるのですが、それは移動ドで読めば「ド・↑レ」、つまり「1度」と「9度」、そのあとに続く音が「シ・ラ」ですから、その4つの音で「1976」となります。これは、ヒギンボトムがこのチャペルのオルガニストに就任した年なのだそうです。さらに、もう一つのテーマがドイツ語読みで「E-H」(つまり「ド・ソ」)から始まるのですが、これはエドワード・ヒギンボトムのイニシャルですよね。2曲目でも、「レ・シ・ド・ファ」というテーマが使われていますが、それは「2014」(「シ」は「ド」の前なので「0」になります)という、まさにその引退の年になるわけです。
そして、そこにとっておきのジョークが加わります。この2曲目の最後のコードは、30年前にレストレンジ少年がヒギンボトムから大目玉をくらった「E9th」そのものだったのです。
オルガンの伴奏が付いたり、ア・カペラで歌われたりと続くレストレンジの作品は、やはり基本的にジャズのイディオムがあちこちに感じられるものです。アルバムタイトルとなっている「On Eagles' Wings」は、決して楽天イーグルスの応援歌ではなく聖書の中の「Eagle」がらみのフレーズを集めたものですが、オルガンと女声合唱で歌われるまさにジャズ・コーラスそのものです。最後のコードはメージャーセブンスから派生した高度なものですし。
そんな手の込んだ、しかしあくまで柔らかな肌触りを持つ曲を、「テネブレ」の、まさにかゆいところに届くような行き届いた演奏で聴いてきたら、最後になっていきなりピアノ伴奏のなんともシンプルな曲が現れました。この「An Irish Blessing」という曲は、実は彼の奥さんのジョアンナさんが作曲したものなんですって。

CD Artwork © Signum Records


5月10日

RAVEL
Orchestra Works・3
Leonard Slatkin/
Orcchestre National de Lyon
NAXOS/8.573124


2011年から、準メルクルの後任としてリヨン国立管弦楽団の音楽監督に就任したレナード・スラトキンは、直ちにNAXOSへのラヴェルの作品集の録音に着手したんだよん。今回の3集目となる管弦楽集は、他の作曲家の作品を編曲したものだけを集めるという、大胆なアルバムです。
ラヴェルが編曲した作品として最も有名なのは、もちろんムソルグスキーの「展覧会の絵」です。とは言っても、この曲を編曲した人はなにもラヴェルだけではなかったわけで、以前スラトキンはこんな全ての曲が「ラヴェル以外」の作曲家によって編曲されたものを集めたアルバムを同じNAXOSで作っていて、そのマニアックさを披露してくれていました。ですから、ラヴェル版を演奏する時でも、いくら1975年に録音されたVOX盤では楽譜通りの「ラヴェル版」を演奏していたとしても、油断はできません。現に、「サミュエル・ゴールデンベルク」と「リモージュ」の間に、ラヴェルはカットしたはずの「プロムナード」が入っていますからね。そしてそのトラックには「スラトキンによるオーケストレーション」というクレジットが加えられています。
さらに、曲を聴いてみると、なんだか普通の「ラヴェル版」とはちょっと違っているように聴こえるところがゾロゾロ出てくるではありませんか。まずは、「小人」で、これこそがラヴェルの編曲の極めつけ、と言えるほど印象的な、元のピアノ版にはなかった弦楽器のグリッサンド(スコアの「9番」あたり)がきれいさっぱりなくなっています。この時点で、もうスラトキンはラヴェル版をそのまま演奏する気はないのだな、と気づくことになるのですが、それ以後の「改変」はまさに衝撃的なものでした。まず、普通はピアニシモで始まり、だんだんクレッシェンドをかけていく「ビドウォ」が、そんなラヴェルのダイナミックスを無視して、いきなりフォルテシモで始まります(@)。さらに、一番ショッキングなのは、「卵の殻をつけた雛の踊り」のエンディング。そこには、リピートする場所を間違えたような「余計な」2小節が入っています(A)。となると、予想通り「サミュエル・ゴールデンベルク」の最後は「ド・レ・ド・シ」ではなく、「ド・レ・シ・シ」になっています(B)。
何のことはない、これは、こちらを見ていただければわかりますが、ラヴェルの編曲で「原典版によるピアノ譜」とは異なっている部分を、その形に変えただけのことなのです。確かにラヴェルは、当時はそれしかなかったリムスキー・コルサコフの改訂版を元にオーケストレーションを行っていますから、その部分を後の原典版の形に変える(@とB)分にはそれほど問題はありませんが、Aは改訂版にもあったものをあえてカットしているのですから、こうなるともはや「ラヴェル版」と呼ぶのもはばかれます。確かにジャケットでは作曲年代として「1874/1922/2007」という3つの年代が入っていますから、最後の「2007」は、「スラトキン版」が作られた年、と解釈すべきでしょう。ですからここは、単にプロムナードだけがスラトキンの仕事だという表記だけではなく、この組曲全体が「スラトキン版」なのだ、というクレジットが必要だったはずです。
他の曲が、それぞれディアギレフの委嘱によるシャブリエの「華やかなメヌエット」、そのディアギレフと「破局」したニジンスキーの委嘱によるシューマンの「謝肉祭」、そして、出版社ジョベールの委嘱によるドビュッシーの「サラバンド」と「舞曲」と、いずれもピアノ・ソロだったものにオーケストレーションが施されたとても珍しいものが並んでいる中で、「展覧会」だけがラヴェルのオリジナルのオーケストレーションではないものを収録したというのは、何とも中途半端な印象がぬぐえません。というか、せっかくこんな珍しい「スラトキン版」が聴けるのですから、それをもっと堂々と表記すべきだったのでは。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


5月7日

PASQUINI
La Sete di Christo
Francesca Aspromonte(Sop)
Francisco Fernández-Rueda(Ten)
Luca Cervoni(Ten)
Mauro Borgioni(Bar)
Alessandro Quarta/Concerto Romano
CHRISTOPHORUS/CHR 77398


キリストの受難をモティーフにした音楽作品はたくさんありますが(「トゥーランドット」とか・・・それは「女難」)、最も有名なものはバッハの「マタイ受難曲」のように聖書の福音書で語られた受難のシーンをそのままテキストにしたものでしょう。
それとは別に、新たに台本作家が作ったテキストによって受難を描いたというものも、別の流れとして重要な作品がたくさん残されています。その代表的なものはオペラの台本作家として有名なピエトロ・メタスタージオが1730年に書いた「La Passione di Nostro Signore Gesu Cristo(我らが主イエスと・キリストの受難)」をテキストにした多くの作品群です。この台本は元々はアントニオ・カルダーラのために書かれたものですが、その後も多くの作曲家によって18世紀のみならず、19世紀になっても使われるという大ヒット作となりました。
今回の「La Sete di Christo(キリストの渇き)」というタイトルの受難オラトリオは、そのメタスタージオの台本よりも前、1689年に、ヘンデルのオペラ「セルセ」の台本の元になったものを作ったことで知られているニコロ・ミナートによって作られた台本に、ローマで活躍したイタリア・バロックの作曲家、ベルナルド・パスクィーニが作曲したものです。
ミナートの台本では登場人物は、ヴィルジネ(聖母マリア/ソプラノ)、ジョヴァンニ(聖ヨハネ/テノール)、ジュゼッペ(アリマテアのヨゼフ/テノール)、ニコデモ(バリトン)の4人のソリストですが、ニコデモ役の人はイエスとの「二役」を演じます。シチュエーションは、さっきのメタスタージオの場合の少し前、まさにキリストが亡くなる前後のシーンです。言ってみれば、有名な「スターバト・マーテル」のシーンの少し前になるのでしょう。
楽器編成は、ヴァイオリン2本とヴィオラに通奏低音というシンプルなものです。ただ、ここで演奏しているアレッサンドロ・クァルタ指揮のコンチェルト・ロナーノは、通奏低音に多くの楽器を使って、多彩な音色を追求しています。
曲は2つの部分に分かれていて、それぞれの最初には楽器だけでシンフォニアが演奏されます。第1部のシンフォニアは、本当に涙を誘うようなヴァイオリンのフレーズで始まり、それにカノン風に他の弦楽器が追いかけるというもの、これから起こる悲しい出来事を暗示しつつ、それぞれがそれから目をそらすことなく、一緒に悲しさに耐えていこうよ、といった感じでしょうか。
話の口火を切るのは聖母マリア、彼女たちはまさに処刑されようとしている十字架の下にいて、悲しみにくれています。そんな彼女の歌は、しかし、それを歌うソプラノのアスプロモンテの堂々たる歌い方によって、ある種の意志の強さが感じられるものでした。他の3人もそれに合いの手を入れます。
やがて、それぞれの出演者のソロ・アリアが始まると、各々の性格が音楽によって見事に際立つように作られていることが分かります。ヨハネとヨゼフは同じテノールですが、その声の質からして全然違います。ヨハネは少しやんちゃ、それに対してヨゼフはあくまでナイーヴ、ここでのチェルヴォーニはまさにうってつけのリリカルな歌を聴かせてくれます。ボルジォーニが歌うニコデモは、ちょっとにぎやかなキャラ、アリアもメリスマを多用した派手な音楽です。
曲のクライマックスは、なんと言っても第2部の最初、やはり悲しげなシンフォニアの後に無伴奏で歌われるイエスの「Sitio!(喉が渇いた!)」というレシタティーヴォでしょう。ここでのボルジォーネの一声には、皆が凍りつきます。そして、最後、聖母マリアの堂々たるダ・カーポ・アリア、「Piangi, Maria(マリアよ、泣きなさい)」の後奏で、最後のアコードが奏される直前の空白の時間の、なんと長かったことでしょう。そのパウゼは、この1時間を超える悲しみの物語を締めくくるための必然だと、クァルタは思ったのでしょうね。

CD Artwork © note 1 music GmbH


5月5日

DEBUSSY
Sonatas
Boston Symphony Chamber Players
Joseph Silverstein(Vn), Jules Eskin(Vc)
Michael Tilson Thomas(Pf)
Doriot Anthony Dwyer(Fl)
Burton Fine(Va), Ann Hobson(Hp)
PENTATONE/PTC 5186 226(hybrid SACD)


おなじみ、PENTATONEのUNIVERSAL系のレーベルの昔のアナログ録音をSACD化したシリーズの中に、1970年に録音されたDGの音源がありました。いや、実はこの商品の案内が出た時には、ピアニストのMTTの名前が前面にあったので全く気付かなかったのですが、最近になって当時のボストン交響楽団の首席フルート奏者のドリオ・アンソニー・ドワイヤーが参加していたあのアルバムだったことに気が付いて、今頃入手したものです。ここでは、そんなボストン交響楽団の首席奏者たちが集まったアンサンブル「ボストン・シンフォニー・チェンバー・プレイヤーズ」が演奏、若き日のマイケル・ティスソン・トーマスがピアニストとして加わっていたのでした。
初出のアルバムジャケットが今回のブックレットにも紹介されていますが、実際に聴いていたのはその後廉価版でリイシューされたものでした。もちろんジャケットも全然違います。ただ、この中ではドワイヤーが演奏しているトラックだけ、つまりB面だけしか聴いてはいませんでしたね。
ドビュッシーは晩年に、彼の作品の出版社であるデュランから様々な楽器による6曲の「ソナタ」を作るように依頼されます。「6曲」というのは、昔の作曲家がひとまとめにして出版する時の曲数の単位として浸透していたもので、ドビュッシーもそれに倣ったのでしょう。それらの「ソナタ」の楽器編成なども計画し、表紙のデザインまで決まっていてあとは作曲するだけになっていたのに、結局最初の3曲を作り上げたところで、ドビュッシーよ、そなたは亡くなってしまったのじゃな。
それによると、その6曲とは
  1. チェロとピアノのためのソナタ
  2. フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
  3. ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
  4. オーボエ、ホルンとクラヴサンのためのソナタ
  5. トランペット、クラリネット、バソンとピアノのためのソナタ
  6. コントラバスと各種楽器のためのコンセール形式のソナタ
なのだそうです。もう少し長生きして、ぜひとも4曲目のクラヴサンが入った作品も作っておいてほしかったですね。「クラヴサン」と言ってますが、この頃だと世の中にあったのは「モダンチェンバロ」だけでしたから、間違いなくドビュッシーもこの楽器のために作っていたはずです。貴重なモダンチェンバロのための作品が生まれていたものを。
まあ、ないものはしょうがないのですが、作られたものの中にフルート、ヴィオラ、ハープという何ともユニークな組み合わせの「ソナタ」が入っていたのはこの上もなく幸運なことでした。ドビュッシーは、フルーティストのためにとびっきりの作品を残してくれていたのですからね。さらに、この作品からインスパイアされた武満徹までが、全く同じ編成の曲(「そして、それが風であることを知った」)を作ってくれたのですから。
せっかくですので、まずLPで今まで聴いてなかったA面の「ヴァイオリン・ソナタ」と「チェロ・ソナタ」を聴いてみることにしました。そのあと、今回のSACDと聴き比べてみたのですが、その音が全然別物になっていました。このレーベルでは、リマスタリングは元PHILIPSのエンジニアだった人たちが行っています。PHILIPSレーベルの音源ではそれが良い方に働いて素晴らしいものが出来上がっていたのですが、DGで同じことをやってしまうと、なんだか元の音源の密度が消え去ったスカスカの音になってしまっているんですね。シルヴァースタインのヴァイオリンも、LPでは感じることが出来た「はかなさ」のようなものが、SACDではきれいさっぱりなくなってしまっていました。MTTのピアノも、妙に甲高い音になっていますし。
お目当てのドワイヤーのフルートも、なんだか彼女の欠点ばかりが強調された音になっていて、LPでは確かにあったはずのの存在感が全然ありません。リマスタリングでこんなに音が変わってしまうなんて、恐ろしいことですね。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


5月3日

BRUHNS & SCHEIDEMANN
Organ Works
Bine Bryndorf(Org)
DACAPO/6.220636(hybrid SACD)


「北ドイツ・オルガン楽派」のアルバムです。それは、大体西暦1600年から1700年にかけて北ドイツの都市で開花した、オルガン音楽の黄金時代と言われる時期の作曲家たちの総称なのですが、もちろんそのような呼び名は後の人が付けたもので、当の作曲家たちが「おれは『北ドイツ楽派』の作曲家だ」とか言っていたわけではないのでしょうね。要は、バッハのちょっと前に活躍した作曲家によって作られた作品群で、もちろんバッハの膨大なオルガン曲にも影響を与えた素晴らしい曲がたくさん揃っています。
これは、今まで録音の面では決して裏切られたことのないDACAPOレーベルのしかもSACDです。タイトルになっているブルーンスとシャイデマンという、ともに「北ドイツ・オルガン楽派」を代表する作曲家の作品が収められています。
先に生まれたのはハインリヒ・シャイデマンの方。「楽派」の先駆けとでも言うべき偉い人なのに、タイトルが後になっていても気にしないという奥ゆかしい人です(シャイなマン)。父親がハンブルクの聖カタリーナ教会のオルガニストだったため、ハンブルクの教区会からの奨学金によって4年間アムステルダムでスウェーリンクの教えを受けることになります。ドイツにもどってからは、父親の後を継いで聖カタリーナ教会のオルガニストとなり、亡くなるときまでその地位にあり、その間多くの生徒を育てました。その中にはおそらく「北ドイツ・オルガン楽派」を代表する作曲家であるあの有名なディートリヒ・ブクステフーデも含まれていたそうです。
そして、そのブクステフーデの教えを受け、「楽派」の最後の輝きを支えたのが、ニコラウス・ブルーンスです。やはり父親がオルガニストという音楽家の家系に生まれ、リューベックで伯父のペーター・ブルーンスに弦楽器、ブクステフーデにオルガンを学んだ後、フースム市のオルガニストとなりますが、31歳の若さでこの世を去ってしまいます。
期待通り、まず聴こえてきたシャイデマンの曲は、とても素晴らしい録音でした。使われているオルガンは1555年にオランダのビルダー、ヘルマン・ラファエリスが作った、まだルネサンスの様式がリュック・ポジティーフなどには残っていた楽器です。その後何人かの人によって改修が行われた後、最終的には1991年に全面的に修復されています。その結果、1555年当時のパイプの音が甦っているのだそうです。
確かに、そのような鄙びた、特にリード系のストップの音が、このシャイデマンの「トッカータ」あたりではとてもリアルに味わうことが出来ます。ところが、その時のレジストレーション(ストップの組み合わせ)を知りたい人は「こちらのサイトを見ろ」とブックレットにURLが書いてあるのですが、そこにはブックレット以上の情報は何もないんですけど。せっかく残響も含めたこの大聖堂全体のアコースティックスも、とても生々しく響いているのが心地よい録音なのに、サイトが足を引っ張ってますね。
そして、後半のブルーンスの作品になって最初の「ホ短調のプレリュード」が聴こえてきた時に、そんなに有名ではない曲のはずなのにしっかりその中の細かいところまでがデジャヴとして甦ってきたのには、驚いてしまいました。確かに、何十年か前のLPしかなかった時代に、ARCHIVから出ていたロベルト・ケプラーの演奏による「北ドイツのオルガンの巨匠」というタイトルのレコードを持っていて、それを繰り返し聴いていたことがありました。
当時はコレクションは何枚もありませんでしたから同じアルバムを聴き込むことが出来たんですね。斬新なペダルの動きや、思いもかけない転調などずっと記憶の中に残っていたものがまさにこのSACDの中から聴こえてきたのです。
そんなとっかかりがあると、この中の他のブルーンスの曲もとても親しみやすく聴くことが出来ます。シャイデマンとはやはり全く異なる様式を持っていることも、そして、それはバッハとはまた違った魅力にあふれていることにも気づかされるのです。

SACD Artwork © Dacapo Records


4月30日

BACH
Johannes-Passion
Julian Prégardien(Ev), Tareq Mazmi(Je)
Christina Landshamer(Sop), Ulrike Malotta(Alt)
Tilman Lichdi(Ten), Krešimir Stražanac(Bas)
Peter Diykstra/
Chor des Bayerischen Runfunks, Concerto Köln
BR/900909


ペーター・ダイクストラとバイエルン放送合唱団は、バッハの大規模な宗教曲のうちすでに「マタイ受難曲」と「クリスマス・オラトリオ」を録音しています。そして今回は「ヨハネ受難曲」の新しい録音ですから、これで「ロ短調ミサ」を録音してくれれば、今までのバッハの大家と言われていた偉大な指揮者たちと肩を並べることになります。しかし、そのような精神的にストレスの多い仕事を続けていると、やはり頭髪への影響も並々ならぬものとなっているのでしょうね。ほんとに、彼の額がひたいに(次第に)上に広がっていく早さには、驚くばかりです。彼の師であるエリクソンと同じ風貌になるのには、そんなに時間は要らないことでしょう。
この録音は、今までと同じミュンヘンのヘルクレスザールで2015年の3月に行われたコンサートでライブ収録されたものです。しかし、ブックレットを見てみると、そのホールではなく別の教会で演奏されている写真が載っています。それは、単に会場が異なるという以上に、オーケストラや合唱とソリスト、さらには指揮者の配置がとてもユニークになっていることに驚かされます。演奏家たちは指揮者を囲むように座っていて、指揮者はその真ん中に立っています。さらに、エヴァンゲリストが歌う場所が一段高くなった廊下のようになっていて、彼はその上を歩いて歌っているようなのですね。どのようなコンセプトでこんなパフォーマンスが行われていたのか、知りたいものです。今までだと、CDだけではなくDVDもリリースされていましたが、そちらの映像ではこの教会バージョンが使われていることを期待しましょう。
このような、いわば「メジャー」なリスナーをターゲットにしているアルバムだからでしょうか、この受難曲を演奏する時の一つの試金石となる「版」の選択も、特に目新しいことはやらずに一般的な新全集版が使われています。クレジットでも「出版社 ©ベーレンライター」という表記がありますし、一応その楽譜の素性についてのコメントもきちんとライナーノーツで述べられていますから、これは正しい姿勢です。少なくとも、先日のヤーコブス盤でのダウンロード・アイテムのような「偽装」とは無縁でしょう。
エヴァンゲリストは、このところすっかりこのロールが板についてきたプレガルディエン(もちろんユリアンの方)ですし、そのほかのソリストも若い人たちが揃っています。プレガルディエンの伸びのある軽めの声に合わせたように、それぞれが爽やか目の声でとてもすがすがしい歌を聴かせてくれています。特に、もう一人のテノール、アリア担当ティルマン・リヒディが、本当にリリカルな歌い方なのには癒されます。ただ、アルトのウルリケ・マロッタが同じように軽めなのは、さすがにやりすぎ。「Es ist vollbracht」では、やはりもっと深みのある声が欲しかったところです。
その、ヴィオラ・ダ・ガンバのオブリガートが付く30番のアリアでは、使われているベーレンライター版では中間部ではガンバはソリストとユニゾンになるはずなのに、ここでは通奏低音のパートが演奏されていました。実はこの部分は、なぜかこの版の元となった「1739/1749年版」の自筆稿「↓」とは違っていて、あえて1732年稿(第3稿)の形に変えられているのですね。
そこで、今確認してみたら、ここには「あるいは、通奏低音と同じように」という注釈がありました。
ダイクストラは、きちんと自筆稿まで参照していたのですね。
彼は、やはり合唱に関してはとても緻密なアプローチに徹しているようです。特に第2部になってからの群衆の合唱の劇的な振る舞いには、思わず興奮させられてしまいます。24番のバスのアリア「Eilt, ihr angefochtnen Seelen」での合唱の合いの手の「wohin?」でも、途中のフェルマータをやめて「急ぐ」気持ちを抑えられないでいますし。
「おまけ」のCDに収められているレクチャーは、対訳がない限り全く何の意味もなしません。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH


おとといのおやぢに会える、か。



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