ドレス、出ん!.... 佐久間學

(14/7/17-14/8/4)

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8月4日

BRUCKNER
Symphony No.8
Mario Venzago/
Konzerthausorchester Berlin
CPO/777 691-2


世の中がLPからCDへと変わっても、その「顔」であるジャケットの存在は変わりません。なんたって「ジャケ買い」などという言葉があるぐらいですから、そこにはまず商品としての訴求力が必要です。そこで、一番手っ取り早いのが、アーティストの写真をあしらうことでしょう。ただ、「カラヤン」とか「諏訪内晶子」だったら間違いありませんが、「五嶋みどり」はやめた方が良いかもしれませんね。しかし、このCPOレーベルでは、知る限りアーティストの写真を使うことはせず、つねになにか暗〜いタッチの絵画などでジャケットをデザインしているような気がします。ただ、それはほとんど、何かしらその内容に即した、意味のあるものですから、なんとなくその音楽をイメージできるようなところがありました。
しかし最近、そんな「具象絵画」ではなく、見ただけでは何の意味も感じられない抽象的なジャケットを見かけるようになりました。それは、おそらくこのレーベルでは初めてとなるブルックナーの交響曲のようでした。いつの間にか、その無愛想なジャケットの数が増えて行って、最近、こんな、まるで抹茶カステラのようなジャケットのCDが出る頃には、殆どの交響曲が揃ってしまっていましたよ。
そうなってくると、無視もできませんから、この最新の「8番」を聴いてみることにしました。指揮者は、全く聞いたことのないマリオ・ヴェンツァーゴというスイス人だそうですが、名前からするとイタリア系でしょうね。聞いたことがないのは当たり前で、例の「音楽の友社」から発行されている、おそらく国内唯一の指揮者名鑑の最新版(とは言っても、発行されたのは2009年)には載っていません。最近出てきた若い指揮者、というわけでもなく、生まれたのは1948年というかなりのベテラン、実際は名門オケやオペラハウスでのれっきとした実績のある人でした。
実は、このブルックナーのツィクルスには、ある特徴がありました。それは、曲によってオーケストラを変えて録音する、というものです。それも、フルオケではなく小さなサイズの「室内オケ」を、最初の頃の作品には起用しているのですね。具体的には、「0番」、「1番」はフィンランドのタピオラ・シンフォニエッタ、「2番」はイギリスのノーザン・シンフォニエッタで、「3番」以降はスイスのベルン交響楽団とバーゼル交響楽団という、彼が何らかの形でポストを持っている団体を使って録音しています。
そして、この「8番」になって、初めてドイツのオーケストラの登場です。それは、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団、かつては「ベルリン交響楽団」と呼ばれていて、たとえばザンデルリンクなどの指揮による多くの録音によって知られていた旧東ドイツのオーケストラが、2006年にこんな名前になりました。さらに、彼らが本拠地にしている「コンツェルトハウス」というホールの写真がブックレットにありますが、そこもかつては「シャウシュピールハウス」と呼ばれていました(確か、バーンスタインが「壁」崩壊後にここで「第9」を演奏していましたね)。
このブルックナー、今までの録音をこちらなどでずっと聴いてみると、室内オケでは、人数が少ないにもかかわらず弦楽器の主張がはっきり伝わってくるのに、フルオケになると、全体の音も甘くなって「団子」状態になるとともに、弦楽器、特にヴァイオリン・セクションがかなり控えめな存在感になってしまっているのですね。もちろん、録音スタッフは皆同じです。
今回も、やはりそのちょっと「甘い」音になっているのが残念でした。表現自体はしっかりしているのですが、「音」そのものに張りがないために、なんか中途半端な印象しか受けないのですよ。もしかしたら、これがノーマルCDだったから、そんなのろまな音に聴こえてしまうのかもしれません。このレーベルではSACDは素晴らしい音が聴けるのに。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

8月2日

PUCCINI
Madama Butterfly
Alexia Voulgaridou(Cio-Cio San)
Teodor Ilincai(Pinkerton)
Cristina Damian(Suzuki)
Lauri Vasar(Sharpless)
Vincent Boussard(Dir)
Alexander Joel/
Philharmoniker Hamburg
ARTHAUS/108 106(BD)


2012年にハンブルク州立歌劇場で上演されたプッチーニの「蝶々夫人」のライブ映像です。タイトル・ロールはギリシャの若手、アレクシア・ヴルガリドゥ。彼女は、今年の1月末から2月にかけての新国立劇場で、この同じ役を歌っていたそうですね。ただ、初日だけは「体調不良」のために、代役の日本人歌手が歌ったのだとか、オペラの公演というのは、何が起こるのかわかりませんが、こんな不測の事態にすぐに対応できる「シャドー」がきちんと控えている、というのも、すごいですね。
その時のネット記事などを見てみると、彼女はミミやトスカはレパートリーに入っていても、蝶々さんを歌い始めたのは「2012年から」だということですから、もしかしたらこのプロダクションが彼女にとってのこの役の初舞台だったのかもしれませんね。それにしては、この演出はかなりアブノーマルな設定ですから、ちょっと「初体験」には辛いのでは、という気がしますが、逆に、もしかしたら彼女を想定してプランが立てられたのではないのか、と思えるほどの見事なハマり方でした。
常々、オペラという舞台芸術は西洋人が作ったものをずっと西洋人が演じてきたものですから、そこに日本人などの東洋系の顔をした人たちが加わるのには、少なからぬ違和感があったものでした。なんたって見た目が第一のオペラでは、日本人が西洋人のフリをして演じているのが、とても滑稽に見えてしまうことがあるのですよね。
「蝶々夫人」に関しては、主役が日本人という設定なのだから構わないだろう、という見方もあるかもしれませんが、これはこれで西洋人が全く似合っていない扮装やメークで開き直っている方が、むしろ自然に思えるから不思議です。なんたって、音楽は純然たる西洋音楽ですからね。引用されている日本の旋律の断片は、単なるオリエンタリズムの色付けに過ぎませんし。余談ですが、日本人の大切な大切な財産で、決して貶めてはならないとされている「キミガヨ」という楽曲がこんな風な使い方をされていることに対して、アベさんなどは激怒することはないのでしょうか。「茶渋をちゃんと取れ!」とか(それは「ミガキコ」)。あ、あの人はコイズミさんとは違って、軍歌は歌ってもオペラなんか見ることはないのかも。
とは言っても、やはり不自然さは隠せないと思う演出家は多いのでしょうね。ここでの演出を担当したブッサールは、とても面白いやり方で、見事にそこに解決の糸口を見出しました。まず、第1幕では、これまでの「へんてこな日本」をさらにデフォルメしたような、完全にハチャメチャな舞台で迫ります。これはある意味爽快、プッチーニのほとんど勘違いとも思える異国趣味を見事に具現化したものです。何しろ、十二単みたいな着物の人が、デコレーション・ケーキみたいな帽子をかぶっているのですからね。
ところが、第2幕になったら、なんと蝶々さんはジーンズにスウェットという服装に変身していました。スズキも、ドテラみたいのは着てますが、下はやはりジーンズですし、インテリアも大きな革張りのソファーがあるリビングになっています。これは別に突飛なことではなく、蝶々さんは「アメリカ人の妻」になったのだ、という、彼女自身の強い気持ちの表れになるわけです。こういう設定になれば、もうあとは普通のオペラとなんら変わらない表現が出来るのですから、ヴルガリドゥは伸び伸びと素晴らしい演技を披露してくれますよ。「ある晴れた日に」だって、こんなにすっきりと味わえたのは初めてです。
もう一つの演出家の企みは、蝶々さんの子供。普通は子役が登場するのでしょうが、ここではそれが人形に代わっています。そして、人形であることによって可能となった大詰めの演出、これはショッキングです。「蝶々夫人」というのは、蝶々さんのピンカートンに対する復讐劇だったのです。それは見事に成就されました。

BD Artwork © Arthaus Musik GmbH

7月31日

HINDEMITH
Complete Viola Works Vol.1
Tabea Zimmermann(Va)
Hans Graf/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
MYRIOS/MYR010(hybrid SACD)


先日聴いたMYRIOSレーベルのSACDがあまりに素晴らしかったものですから、少し前のこんなアルバムもゲットしてしまいました。ステファン・カーエンがレーベルを創設する時に最初に録音を行っていたアーティストである、ヴィオラのツインマーマンによるヒンデミットです。これは、ヒンデミットのヴィオラが含まれる作品集の第1巻、オーケストラとヴィオラという編成のものが収録されています。さらに、無伴奏ソナタやピアノ伴奏によるソナタが入った2枚組のSACDも、すでにリリースされています(MYR011)。
ヒンデミットと言えば、個人的に「有名」なのは、もちろん「フルートソナタ」と、「ウェーバーの主題による交響的変容」、さらに「朝の7時に、湯治場の二流の保養楽団が初見で演奏しているような、『さまよえるオランダ人』の序曲」あたりでしょうか。ウェーバーもオランダ人も、しっかりと「元ネタ」があって、それを「ほとんど崩していない」という作品ですから、オリジナルとは言えません。そうなると、やはり名前的になじみがあるのはこのSACDに収録されている「白鳥を焼く男」ということになるのでしょうか。
ヒンデミットと言えば「ヴィオラ」と言われるように、彼はこの地味〜な楽器をソロにした多くの作品を残しています。そんな中で、バックのオーケストラからは、なんとメインの楽器であるヴァイオリンとヴィオラを取り払ってまで、ソロのヴィオラを目立たせたいと思ったこの曲は、そんな特異な編成よりも、なんと言ってもそのユニークなタイトルによって、ほんの少し「有名」になっているのではないでしょうか。しかし、ほとんどこれが定訳となっているこの不気味なタイトルは、その内容を正しく伝えるものではありません。原題の「Der Schwanendreher」は、この曲の第3楽章に用いられている「あなたはSchwanendreherではありませんね?」という古謡のタイトルからきているのですが、この言葉は直訳すれば「白鳥を回転させる人」なので、どこにも「焼く」とせる部分などはないのですよ。
しかし、この単語の後半「dreher」は、シューベルトの「冬の旅」の最後の最後のテキスト「Deine Leier drehn?」でおなじみではなかったでしょうか。ここで旅人は「辻音楽士」に対して「ハーディ・ガーディを弾いてはもらえないだろうか?」と懇願していたのでした。この楽器はハンドルを「回転」させて音を出しますから、「回転させる」と「弾く」とは同義語になるわけです。
そこでヒンデミットです。この作品の中で用いられている古謡は、中世のミンストレルたちが、それこそハーディ・ガーディ片手に歌っていたもの、「Schwanendreher」こそが、その「ハーディ・ガーディ弾き」なのですよ。この楽器が白鳥に似ていることも関係しているのでしょう。
しかし、ヒンデミットがこんな本物の白鳥に串を通して「回して」いるという下手くそな絵を書いて、「これがタイトルの唯一正統的な説明なのだ」などと言ってしまったものですから(おそらく、これは彼ならではのジョークでしょう)これを真に受けた「白鳥を焼く男」という訳がまかり通るようになってしまったに違いありません。
ツィンマーマンの奏でるヴィオラの音は、この、まさに期待通りの素晴らしい録音によって、ヴァイオリンともチェロとも違う独特の魅力を持った楽器としての主張が伝わってくるものでした。そんなソリストのまわりで、ある時は控えめに、ある時はソリストと対等にふるまっているオーケストラの姿も、生々しく迫ってきます。
最後に収録されている「ヴィオラと大室内管弦楽のための協奏音楽」(これも、ツッコミどころの多い邦題ですね。「大室内管弦楽」って、なんなんでしょう)は、これが世界初録音となる「初稿」による演奏です。改訂された現行版は、これに比べると、なにか「軽さ」が強調されているような気がします。これもヒンデミットのサービス精神の賜物?

SACD Artwork © Myrios Classics

7月29日

BEETHOVEN
9 Symphonien
Herbert von Karajan/
Berliner Philharmoniker
DG/479 3442(CD, BA)


カラヤンが196112月から196211月まで、ほぼ丸1年をかけて録音した、DGでの最初のベートーヴェン交響曲ツィクルスが、まとめてセットになってリイシューされました。別にそれ自体は珍しいことでもなんでもないのですが、その際に5枚のCDの他に、全9曲が1枚に収められたBAも一緒だったので、迷わずに購入です。もちろん、BA24/96のハイレゾPCM音源です。
このツィクルスのハイレゾとしては、以前シングルレイヤーSACDで3番と4番のカップリングの国内盤を聴いていました。その時の、「同じスペックで全曲聴いてみたい」という願いが、これでかなったことになります。あの時には「4番」の前半と後半で全然音が違っていたのは、録音時期の違いによることがハイレゾでよく分かったのでしたが、今回全曲を聴いてみると、全体にわたって音の傾向がはっきり2種類に分かれていることが分かりました。「1年かけて録音した」とは言っても、実際のセッションは196112月から1962年3月までの間と、1962年の10月から11月にかけての2つの時期に集中しています。つまり、この間に半年以上のブランクがあるのですよ。そして、双方の時期に録音されたものが、見事に別の音になっているのですね。前半はちょっとおとなし目、ヴァイオリンなどはとてもすっきりした音ですが、後半ではヴァイオリンの高音が強調され、それぞれの楽器の音像もくっきり浮かび上がるという、かなり派手な音に変わります。この半年間に、ギュンター・ヘルマンスが「腕を上げた」ということなのでしょう。
ところが、そんな中で「5番」だけが、データでは前半に録音されたことになっているのですが、聴いてみると明らかに後半特有の「派手」な音に仕上がっているのですよ。確かに、このセットに載っている「録音記録」の現物にははっきり3月9日と3月11日の日付が入っていますから、セッションが行われたのは間違いないのですが、もしかしたら、後半の時期に録り直しをしていたのかもしれませんね。なんたって、この曲は全集の目玉ですから、カラヤンとしては物足りなくなって「新しい」音で録音したくなったことは十分あり得ます。
こんな比較は、やはりBACD900STで聴いたために、容易に出来たのでしょう。ついでにシングルレイヤーSACDとも聴き比べてみましたが、今回のBAよりはワンランク落ちる、芯のぼやけた音でした。これは、メディアの違いもあるのでしょうが、そもそものマスターが別物だということもあり得ます。つまり、こちらに書いたように、ほぼ同じ時期に出た全く同じ音源による国内盤SACDと輸入盤BAが、SACDは最初の2小節が欠落しているという不良品だったにもかかわらず、BAでは何の異常もなかったのですから、明らかにそれぞれのマスターが別物だったことがはっきりしますたー
この全集はかつてLPで出ていた時に入手していました。その時と同じデザインのケースを見たら、なんだか涙が出そうになりましたよ。この独特のフォントが、当時は「宝物」だったレコードの記憶をよみがえらせてくれます。ただ、悲しいかな、当時の安物の再生装置では、「第9」の合唱などは音が歪んでまともに聴くことはできませんでした。しかし、このBAは違います。最も後期に録音されたものですから、音の輝きはものすごいものがあります。そんな中で合唱はかなり注意深く録音されていたことが分かります。ちょっと音圧的には不満が残りますが、音楽として必要な音はしっかり収録されていますし、この「楽友協会合唱団」が、特に男声はかなりのレベルの高さだったことも分かります。
以前のシュトラウスのBAや今回のように、ボックスセットを出す時には一緒に24/96BAもついてくる、というのが一般化するとうれしいのですがね。このスペックだと、10枚分ぐらいは収まるはずですから、40枚のCDボックスにはBA4枚・・・夢ですね。

CD & BA Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

7月27日

PEREZ
Mattutino de' Morti
Roberta Invernizzi(Sop)
Salvo Vitale(Bas)
Giulio Prandi/
Ghislieri Choir & Consort
DHM/88843051022


ダヴィデ・ペレスなどという、三省堂の「クラシック音楽作品名辞典」という権威ある辞典(もちろん、これは皮肉です。これほどいい加減で情報量の乏しい辞典も稀です)にはもちろん載っていないようなレアな作曲家の作品などを聴こうと思ったのは、もちろんこれが世界初録音である「死者を悼むための曲」が収録されているからでした。
ペレスというのは、1711年に生まれて1778年に亡くなったイタリア人の作曲家です。若い頃はイタリア各地で数多くのオペラを作っていましたが、1752年からはポルトガル王のジョゼ一世の宮廷音楽家として仕え、亡くなるまでリスボンで暮らしました。そのポルトガル宮廷時代に、ペレスは多岐にわたる宗教曲を残します。それは「詩篇」、「ミサ」、「モテット」、「レスポンソリウム」、「レクイエム」、「スターバト・マーテル」、「ミゼレーレ」、「マニフィカート」、「テ・デウム」など、まさにあらゆるジャンルの宗教曲を網羅した作品群です。
そんな中で、1770年に作られたとされるこの「死者のための朝の祈り」は、1774年にはロンドンの出版社から出版され、ポルトガル国内だけではなく、植民地のブラジルでも、19世紀の末まで広く演奏されていたといいます。今回の演奏にあたっては、この出版譜のコピーをもとに、さらに自筆稿なども参照して指揮者のプランディなどが校訂を行った楽譜が用いられているそうです。
ソリストが数名(この録音では7人のソリストがクレジットされています)、それに、当時としてはかなり大規模な編成のオーケストラと合唱のために作られたこの曲は、おそらく「岬の聖母教会」への巡礼の際に初演されたのではないかと言われています。ジャケットに写っている建物が、その教会の宿坊です。リスボンの南に位置し、大西洋に面してむき出しの岩肌をみせるエスピシャル岬では、そこから眺める大西洋に沈む夕日がまるで聖母のように見えることから、中世からそこに巡礼するという伝統があったのだそうです。
そもそも「朝の祈り」というのがどういうものなのかは、このライナーノーツや、例によって間違いだらけの代理店のインフォ(今回の間違いは、あきれるほどのひどさです)などからは、皆目知ることはできません。一応、同じような構成の曲が3つあって、それぞれに「ノットゥルノ(夜想曲)」というタイトルが付いているのですから、どうのっとぅるのかますます訳が分からなくなってしまいます。朝なのか夜なのか、はっきりしてもらいたいものです。
それぞれの「ノットゥルノ」は、さらに3つの「レスポンソリオ」から出来ています。それは、まずオーケストラが、とても「明るい」音楽を演奏することで始まります。フルートやオーボエの華やかなフレーズが、それに彩りを添え、ソロや合唱が盛り上げます。最後がフーガとなってちょっと毛色が変わったと思うと、「ヴェルセット」という部分に変わり、そこではソリストがまるで「オペラ・セリア」のような技巧的なアリアを歌います。そのあとにさっきのフーガが繰り返され、一つの「レスポンソリオ」が終わります。しかし、3度目の「レスポンソリオ」では、そのあとに「レクイエム」の冒頭の歌詞による音楽が演奏されます。さらに、曲全体の最後の最後、3番目の「ノットゥルノ」の最後の「レクイエム」の前には、「ディエス・イレ」が演奏されます。
そのように、テキストだけ見るとこれはまぎれもない「死者のための」音楽なのですが、その「明るさ」は、その時代の様式を過不足なく反映していることを差し引いても、かなりの違和感がもたらされます。これは、おそらく「礼拝」というよりは「祝典」の意味を持って作られたものなのではないか、という気がするのですが、どうでしょうか?実際、このCDでの演奏家たちは、誰も深刻ぶってはおらず、楽しげに音楽を作っているように感じられます。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Italy Spa

7月25日

Stabat Mater dolorosa
Music for Passiontide
Graham Ross
Choir of Clare College, Cambridge
HARMONIA MUNDI/HMU 907616


ケンブリッジ・クレア・カレッジ合唱団は、例えば同じ大学のキングズ・カレッジ合唱団のように高音を少年が歌うという古典的な「聖歌隊」の編成ではなく、ごく普通の学生による混声合唱団です。とは言っても、1866年に創設された時には、やはり少年が入った「聖歌隊」でした。しかし、キングズ・カレッジあたりではそういう少年はカレッジに付属した教育機関があるのでしょうが、「クレア」の場合は普通の小学生が参加していたため、やがて少年の「調達」が困難になってしまいます。結局、1971年からは、学生の女声を加えた合唱団として再スタートを切ることになるのです。その時の指揮者はピーター・デニソンでしたが、1975年からは、あのジョン・ラッターが指揮者になります。彼は、そのポストを1979年にティモシー・ブラウンに譲りますが、それ以後もこの合唱団とは緊密な関係を保ち、彼らのレコーディングの時にはレーベルに関わらずプロデューサーとエンジニアをかって出ています。
さらに、2010年からは、グラハム・ロスが指揮者を引き継ぎました。彼の名前は、まず「ドミトリー・アンサンブル」の指揮者として知りましたが、このケンブリッジ・クレア・カレッジ合唱団とのアルバムも、例えばイモジェン・ホルストのアルバムなどで聴いたことはありました。
自身が作曲家でもあるロスのことですから、この「受難節の音楽」というサブタイトルを持つアルバムは、なかなか凝った作り方がされています。まずは、タイトルにある有名な「スターバト・マーテル」という、十字架上のキリストの亡きがらの脇にたたずんで悲しみにくれる聖母を描いた聖歌のテキストが、ロス自身が校訂したグレゴリオ聖歌の形で歌われます。ご存知のように、このテキストはかなりの長さがありますから、ひとくさり終わったところで、今度は後の作曲家が作った、やはり受難節の間に歌われるキリストの受難を題材にした作品が演奏されるという仕組みです。
その「作品」は全部で15曲、16世紀のトーマス・タリスから、現代、1985年生まれのここでの指揮者グラハム・ロスまでの非常に長いスパン、そして、作られた地域もスペイン、フランドル、ドイツ、イタリア、イングランドと広範にわたっています。まさに、これはグレゴリア聖歌をバックグラウンドとした、時空を超えた「受難音楽」の一大絵巻と言えるでしょう。
そうなってくると、そんな脈絡のない作品の配列でも、工夫が必要になってきます。まず並ぶのがヴィクトリア、ラッスス、タリスと言ったポリフォニーの大家たちです。正直、このあたりだとこの合唱団のパートごとの音色があまりに違うので、何か落ち着いて聴いていられないという不安感が漂います。しかし、そのあとにしっとりしたホモフォニーのジョン・ステイナーなどが続くと、彼らのピッチなどにはかなりの精度の良さがありますから、少しほっとさせられます。
しかし、その次のジェズアルド、「Caligaverunt oculi mei」になったとたん、この作曲家の、時代様式からはあまりに逸脱した「危険な」ハーモニーの存在感を、見事に伝えきっている合唱団の姿が現れます。おそらく意識してのことでしょう、その、ほとんど前衛的ですらある微妙なピッチには、打ちのめらせてしまいます。つまり、これはその次のロスの作品の伏線だったのでしょう。これが世界初録音となる「Ut tecum lugeam」のような不協和音すら厭わない作風こそは、今のこの合唱団の本分なのではないでしょうか。
そうなってくると、同じ存命中のジョン・サンダースが「The Reproaches」でアレグリの「Miserere」を下敷きにしている意味も伝わってきますし、ブルックナーの「Christus factus est」での攻撃的な表現も理解できてきます。そして、最後のデュリュフレの「Ubi caritas」が聴こえてくるころには、まんまとロスとこの合唱団が仕掛けた罠にはまってしまっていることに、聴き手は気づくことになるのろす

CD Artwork © Harmonia Mundi USA

7月23日

IMAGINARY PICTURES
Kirill Gerstein(Pf)
MYRIOS/MYR013(hybrid SACD)


このMYRIOSというのは、2009年に創設されたというまだ出来立てほやほやのレーベルです。これを作ったのは当時35歳の若者、シュテファン・カーエン。
彼はエンジニアにしてプロデューサー、さらにはジャケットのデザインまで手掛けるという、まさにこのレーベルを一人で切り盛りしている人物です。同じようにすべて自分一人でやらなければ気が済まなかったのは、ノルウェーの「2L」レーベルの創設者、モーテン・リンドベリでしょうか。
2L同様、このレーベルが打ち出しているのが「よい録音」です。あちらは「DXD」という超ハイレゾのPCMが売り物ですが、こちらはもっぱらDSDにこだわっているようですね。ご存知のように、DSDというのは編集が簡単にはできないというフォーマットですから、なかなか最初からDSDで録音するエンジニアは少なく、まずPCMで録音、それを編集してからDSDにしたものが、普通はSACDのマスターになっています。ですから、最初からのDSDということは、編集することをあまり考えないで、ライブ感を大切にした録音を行うということにつながるのではないでしょうか。まあ、中にはDSDで録音したものを一旦PCMにして編集、再度DSDに戻す、というやり方をする人もいるかもしれませんが、それだったら最初からPCMで録ればいいのですからね。
最初の数アイテムはCDでのリリースでしたが、最近ではすべてSACDとなって、カーエンのこだわりはそのまま聴く者に伝わるようになっています。しかし、そんな、まさに「手作り」によるアルバムですから、5年目に入っても、品番で分かるように今回で13枚しか出ていません。このレーベルを扱っているのが、あのNAXOS。毎月何十枚と新譜を出している会社が、こんなゆったりとした歩みのレーベルの面倒を見ているというのも、なんか救われる思いです。
今回のアーティストは、このレーベルの常連、ロシア出身のピアニスト、キリル・ゲルシュタインです。なんか辛そうな名前ですね(それは「キリキリ、下痢したいん」)。いや、彼は1979年生まれの若手、かつてバークリー音楽院でジャズ・ピアニストを目指していたこともあるというユニークな経歴の持ち主です。今回は「想像上の絵画」というタイトルを掲げて、ムソルグスキーの「展覧会の絵」と、シューマンの「謝肉祭」を披露してくれています。いずれの曲も絵画的なイマジネーションが元になって作られている、ということなのでしょうか。
まずは、「展覧会」から。もう冒頭の単音から、この録音のすばらしさがはっきりと伝わってきます。細やかなタッチや、ペダルによる音色の変化が、まさに手に取るようにくっきりと聴こえてくるのですからね。それでいて、まわりの残響も過不足なく取り入れられていて、ほんのりとした存在感が味わえます。
この「プロムナード」でゲルシュタインがおそらく意識して取り入れているテンポ・ルバートは、この曲のオーケストラ版を聴きなれた人にとってはちょっとした違和感を誘うかもしれませんが、そもそもあのラヴェル版のようなきっちりとしたパルスの中で語られる音楽ではないのだ、ということが、ここからは分かるのではないでしょうか。これは、あくまでもロシア風の「歩き方」なのでしょう。もしかしたら、少しお酒が入っている人なのかもしれません。
そんなルバートの妙は、「テュイルリー」あたりではさらにいい味になってきます。細かい十六分音符のパッセージは、オーケストラではオーボエ奏者とフルート奏者がくそ真面目に書かれた通りのリズムで演奏しますが、ピアノではもっと自由に、「ちょこまかと動く子供」をリアルに表現できるはずです。リズム通りに走り回る子供なんていませんからね。そんな、久しぶりに聴くピアノ版の楽しさを、存分に味わいました。
それがシューマンになったら、ピアノの音色が全く別物のように変わってしまったのにはびっくりです。これも、カーエンのマジックなのでしょう。

SACD Artwork © Myrios Classics

7月21日

LARSSON
Orchestral Works Vol. 1
Andrew Manze/
Helsingborg Symphony Orchestra
CPO/777 671-2(hybrid SACD)


もうすっかり指揮者業が板に付いたアンドルー・マンゼですが、ヘルシンボリ交響楽団の首席指揮者と芸術監督という2006年からのポストは今年の夏で終わり、2014/15年のシーズンからはハノーファーの北ドイツ放送フィル(かつて大植英次が首席指揮者を務めていたオーケストラ)の首席指揮者に就任するのだそうです。でも、10年近くのこのスウェーデンでの活動の中で、ベートーヴェンの「エロイカ」や、ブラームスの交響曲全集などを録音して、このオーケストラの知名度を飛躍的に向上させた功績は、称賛に値することでしょう。さらに、おそらくその「置き土産」として、彼はこんなアルバムまで作ってくれていました。この「第1集」を録音したのが2011年ですから、もしかしたらこの決して録音に恵まれているとは言い難いラーシュ=エーリク・ラーションの「オーケストラ作品全集」をすでに完成していて、残りもこれからリリースされるのかもしれませんね。
このアルバムには、1908年に生まれて1986年に亡くなったスウェーデンの作曲家ラーションの、1927年から1967年までという、かなり幅広い年代の作品が収められています。まず、その最も若い頃、1927年から28年にかけて作られた「交響曲第1番」です(彼は全部で3つの交響曲を作っています)。
この曲は、4つの楽章から成る極めて古典的なフォルムを持っています。音楽的にも、第1楽章あたりは殆どソナタ形式と言っていいような、2つの主題が登場する構成になっているようですし。そして、その作風は何の屈託もないロマン派の延長そのものでした。そこに、「初期のシベリウスやニルセンのような音楽」をほんの少し加えたという感じでしょうか。しかし、その北欧の2大作曲家のような、ちょっと屈折したテイストではなく、強いて言うなら、その前の世代であるグリーグあたりの音楽と、多くの共通点が見られるような気がします。テーマはどこまでもキャッチー、その展開も決して予想を裏切らないものです。第3楽章のスケルツォなどは、確かにシベリウス的ですが、あちらをよりシンプルにしたような音楽です。
次の時期、1937年頃に作られたシェークスピアの「冬物語」のための劇音楽のなかから4つの曲を選んで組曲とした「4つのヴィネット」も、まさに「劇伴」ならではの親しみやすさがあふれています。とてもセンスの良いフルート・ソロがあちこちにちりばめられ、それはまるでハワード・ブレイクが作った、こちらはアニメのための音楽「スノーマン」あたりのテイストと非常によく似たものが感じられます。2曲目の「インテルメッツォ」は5拍子という変拍子ですが、実に軽やか、あたかもルロイ・アンダーソンのような趣ですし、4曲目の「エピローグ」などからは、それこそグリーグの「ソルヴェーグの歌」を思い起こさせられるかもしれません。
ところが、それからさらに下った1949年の「オーケストラのための音楽」という、マルメのコンサートホール財団の25周年記念に委嘱された3曲から成る作品は、全く異なる様相を見せています。それは、「12音」や「音列」を使ったことがありありと分かるもの、そこからは、当時の「新しい」技法に、なんとか可能性を見出したいと悩んでいる作曲家の姿が、生々しく感じられるほどです。2曲目に現れる弦楽器だけのピュアなパッセージなどは、とても美しく響くものの、なぜかそれは彼が否定する対象のような扱いを受けているようには聴こえないでしょうか。
それが、1967年の、おそらくラーションの作品では最も演奏頻度の高い「抒情的幻想曲」になると、彼本来のロマンティシズムが、無調を体験したことによってより深みのある輝きを放っていることに気づかされます。香りも放っています(それは「ローション」)。
そんな「幸せ」な結末を迎えることが出来た作曲家の軌跡を、マンゼのチームは澄み切ったサウンドで、明らかにしてくれています。

SACD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

7月19日

RZEWSKI
Piano Music
Robert Satterlee(Pf)
NAXOS/8.559760


ジェフスキといえば、なんと言っても1975年に作られたピアノ曲、「不屈の民変奏曲」が有名ですね。もちろん、ジェフスキの作品はこれだけではありません。しかし、「不屈の民以外」の作品は意外と聴く機会はありません。2002年にNONESUCHからリリースされた7枚組の自作自演盤あたりが目に付くぐらいでしょうか。
そんな、待望の「不屈以外」のアルバムは、実は2007年に録音されていたのに、今頃リリースされたものです。ですから、その当時の最新作、2005年にここで演奏しているピアニスト、ロバート・サットリーのために作られた「Second Hand, or Alone at Last」が入っているのが目玉でしょう。これはもちろんNONESUCH盤には間に合いませんでしたし、何のクレジットもありませんが、これが世界初録音になるのではないでしょうか。この作品、サブタイトルとして「左手のための6つのノヴェレッティ」とあるように、左手だけで演奏するように書かれています。なんでも、これを作った時には作曲者は右手の調子が悪く、それならいっそのこと左手だけで作ってしまおうと思ったのだそうです。
ですから、タイトルの「Second Hand」というのは、表面的には今まで「二番手」に甘んじていた「左手」を主役にしたという意味が込められているのでしょうが、出来上がった曲を聴いてみると、どうやらこれは「中古品」という意味の「Secondhand」をもじっているのではないか、という気がしてきます。1曲目や4曲目を覆い尽くしている「12音」の響きには、もはやこの作曲技法が「中古品」でしかなくなってしまったという、ある意味自虐的な思いが込められているようには感じられないでしょうか。同じ意味で、2曲目のバルトークや3曲目のリゲティも、すでに「中古品」なのだ、と。
残りの2つの作品は、NONESUCH盤にも収録されていますので、比較しならが聴くこともできます。1989年に高橋アキのために作り、1999年に改訂を行ったという「Fantasia」は、そんな比較をしていたら全く別の曲のように聴こえてしまい、途方に暮れてしまいました。演奏時間も、サットリーはジェフスキの半分しかありません。そこで楽譜を見てみると、作曲者は頭から楽譜に書かれていない音楽を、即興で延々と演奏していました。これでは別の曲に聴こえるのは当たり前です。曲の途中でも、指定されたカデンツァ以外にもう一つアド・リブを入れていますし。まあ、そもそも「ファンタジー」というのは即興演奏のことですから、真面目に楽譜通りに弾いているサットリーに分はありません。
アルバムの中で一番長い作品「De Profundis」では、全ての音がきちんと楽譜に書かれています。このタイトルは有名な「深き淵より」という詩編130のものですが、これもそのまま受け取るとひどい目に遭います。ここでは、ピアニストは演奏すると同時に歌(というかラップ)を歌ったり声を上げたりと「弾き語り」を行っています。その時のテキストが、オスカー・ワイルドの同名の書簡集から取られているのです。しかしこれは詩篇とはなんの関係もない、ワイルドが、服役中に刑務所から「恋人」のアルフレッド・ダグラス卿に出した手紙を集めたもので、日本では定訳として「獄中記」というタイトルが一般化しています。ですから、この曲のタイトルを訳す時でもただ「深き淵より」ではそのあたりのニュアンスがすっ飛んでしまいます。
これはもう、ピアニストの圧倒的なパフォーマンスに酔いしれるしかありません。なんせ、ピアノの鍵盤の蓋を閉めて、それをたたきながら叫ぶ、などということもやらなければいけませんからね。まるで、P.D.Q.バッハのピーター・シックリーのような暴れよう、これも楽譜に指定されている口笛が吹けないサットリーが、あえなくジェフスキの軍門に下ることになります。なお、ジェフスキの楽譜は、ほとんどがネットからダウンロードできますが、この楽譜には13ページと14ページが入れ替わっているという乱丁があります。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

7月17日

BRAHMS
Ein deutsches Requiem
Sibylla Rubens(Sop), Daniel Ochoa(Bar)
Roderick Kreile/
Dresdner Kreuzchor
Vocal Concert Dresden
Dresdner Philharmonie
BERLIN/0300569BC


ドレスデンの聖十字架教会(クロイツ・キルヒェ)付属の合唱団「クロイツ・コール」は、ライプツィヒのトマス教会の合唱団(トマナー・コール)と並んで、ほぼ800年という長い伝統を誇る合唱団です。7・7・7・5ではありません(それは「ドドイツ」)。いずれもメンバーは男声だけ、変声期前の少年がトレブル・パートを歌い、成年男声が男声パート(時にはアルト・パートも)を歌うという編成です。それぞれ、本拠地である教会で演奏会やレコーディングを行っていますが、今回のCDでは、ドレスデンのクロイツ・キルヒェの中で彼らが歌っている写真が、ブックレットに掲載されています。ライプツィヒのトマス教会の内部は、今までいろいろな機会に映像などで見てきましたが、こちらは、映像はおろか、写真でも初めて見るものでした。その見開きの写真によって、その内部は、ほとんどコンサート・ホールのような空間になっているのを知って、ちょっと驚いているところです。
写真のアングルにもよるのかもしれませんが、この教会は柱の間が広く取られていて、真ん中がとても広々とした空間になっているうえに、その柱の外側に広がる2階のバルコニーもかなり奥行きが広く、10列ぐらいの客席が設置されています。さらにその上層にも同じだけのバルコニーがあるのですから、収容人員は軽く1000人を超えてしまうのではないでしょうか。
この会場で、クロイツ・コールは毎年教会暦の最後の主日、つまり、教会にとって最後の締めくくりとなる日に、このブラームスの「ドイツ・レクイエム」を演奏しているのだそうです。その習慣は、おそらくこの作品がライプツィヒで全曲初演された1869年からそれほど経っていない時期に始まったのではないでしょうか。そのぐらい、彼らにとってはまさに「特別な作品」としての位置づけが、「ドイツ・レクイエム」にはあるのでしょう。
これも、去年2013年の1124日、聖霊降臨後最終主日に行われた演奏のライブ録音です。オーケストラはドレスデン・フィル、そして、合唱は、クロイツ・コールの他に「ヴォーカル・コンサート・ドレスデン」という、クロイツ・コールのOBやドレスデン大学の卒業生がメンバーの30人ほどの大人の混声合唱団が加わっています。やはり、30人程度のクロイツ・コールだけではブラームスならではの重みを出すにはちょっと辛いのでしょうね。
あくまでも、「特別」な演奏会(というか、ほとんど礼拝)ということが感じられるような、とても慈しみ深いオーケストラの響きによって、曲は始まります。その薄い編成の中に込められた静かな情感は、確かに存分に伝わってきます。そして、合唱が入って来た時には、大人数にもかかわらず、しっとりとした「暗さ」がその中に宿っていることも感じることが出来ました。しかし、徐々にオーケストラの楽器が増えてくると、その合唱の主張が次第に薄くなって行くことも感じられてしまいます。おそらくライブ録音ならではのマイクアレンジの問題なのでしょうが、この巨大な空間と、良く鳴るオーケストラの中では、この合唱はあまりにも弱々しく聴こえてしまいます。
そのうちに、児童合唱のある意味欠点である、ソプラノ・パートのちょっとした弱々しさも、かなりはっきり表に出てくるようになってきます。その「無垢な声」は、時には演奏全体をぶち壊しかねないほどのリスクも秘めていることが、どうやらここでも明らかになってしまっていたようです。ほとんどア・カペラに近い状態だった後にオーケストラが入ってくると、そこでピッチが許容の限界を超えるほど狂っている、などという場面も数多く見られます。
年に1度の「特別な」演奏も、毎年繰り返すことで緊張感が薄れるというのはよくあることです。この録音では、そんな「特別さ」を維持することの困難さの方が如実に感じられてしまいました。

CD Artwork © Edel Germany GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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