ブルーデイ・オーディオ。.... 佐久間學

(12/5/5-12/5/23)

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5月23日

MOZART/Flute Quartets
Kraus/Flute Quintett
Matthias Ziegler(Fl)
Casal Quartett
NOVALIS/CD 150 96-2


モーツァルトの「フルート四重奏曲」などを収録したCDですが、あの有名な4曲の四重奏曲は入っていません。ここで演奏されているのは、モーツァルトの別のジャンルの作品、「4手のピアノのためのソナタ」K 497と、ピアノ、クラリネット、ヴィオラのための「ケーゲルシュタット・トリオ」K 498をフルート四重奏に編曲したものと、モーツァルトの同時代(生年は同じで、没年もモーツァルトの1年後)の作曲家、ヨーゼフ・マルティン・クラウスが作った「フルート五重奏曲」の3曲という、非常に珍しい作品たちです。これらは、果たして「フルート四重奏曲第5番」や「第6番」となりうるのでしょうか。
モーツァルトの曲は、あのプレイエルが編曲したものです。なんでも、ここでフルートを演奏しているスイスのフルーティスト、マティアス・ツィーグラーが先生から譲り受けた楽譜の中に、そんなものがあったそうなのですね。その先生は、北イタリアの古本屋で見つけたのだとか。もちろん、プレイエルは彼の会社で出版するために自らこの編曲を行いました。その際には、やはり彼のビジネスマンとしてのセンスから、「演奏して楽しい」ように原曲を少しいじっています。要するに、「売れる」編曲を目指したのですね。こういうことは、この時代の編曲にはよくあることです。あのベートーヴェンでさえ、自作を木管合奏に編曲したときには、今の感覚では考えられないようなカットを、かつては行っていたのですからね。
しかし、これを見たツィーグラーは、そのような「改作」は許せなかったのでしょうね。なんと、そのカットされた小節を、今度はとある作曲家との共同作業ののちに「修復」してしまったのだそうです。でも、これはちょっと違うのではないか、という気がするのですが、どうでしょう。いくらカットが施されているとは言っても、それはその時代のプレイエルの考えが反映された編曲なのですから、それはそれでそのまま演奏した方が、より「オーセンティック」な態度なのでは、と思うのですがね。というか、そんな「修復」を加えてしまっては、そもそも「プレイエル編曲」というクレジットが意味のないものになってしまうのに。
かくして、モーツァルトの同時代の有名な作曲家が、彼の作品をどのように考えていたかを知ることができるはずの貴重な編曲が、ツィーグラーたちの「おせっかい」で、別物に変わってしまいました。そう、これは「修復」などという立派なものではなく、悪意に満ちた「改竄」にほかなりません。いっそ、「ツィーグラー編曲」としてくれれば、何の問題もなかったのでしょうが、名前を使われたプレイエルこそ、いい迷惑です。
そのような「あたりまえ」の編曲を施されたフルート四重奏曲は、なんだかあんまり楽しそうではありませんでした。何よりも、ソロ楽器としてのフルートが全然前に出てこないのです。
それに比べると、スウェーデンのグスタフ三世の宮廷楽長を務めたことから「スウェーデンのモーツァルト」と呼ばれることもあるクラウスの五重奏曲は、まさにフルートの魅力をふんだんに味わえるとことん楽しい曲です。まず、ちょっとした工夫があって、曲が始まっても弦楽四重奏が長いイントロを演奏する間は、フルートは全く聴こえてきません。いい加減じれてきたところで、やおらフルートの登場、あとはもういかにもフルートならではの軽やかなソロのパッセージを聴かせてくれる、という作り方です。こんな「憎い」演出はモーツァルトだってやっていませんよ。
ただ、次のゆっくりした楽章が、モーツァルトほどの深みがないのは、まあ仕方のないことでしょう。その代わり、無難な変奏で楽しませてくれています。最後の楽章は、やはり屈託のない明るい音楽で終わります。

CD Artwork © Audio Video Communications AG

5月21日

VERDI
Requiem
Galina Vishinevskaya(Sop), Nina Isakova(MS)
Vladimir Ivanovsky(Ten), Ivan Petrov(Bas)
Igor Markevitch/
State Academy Chorus
Moscow Philharmonic Orchestra
ICA/ ICAC 5068


2011年に設立され、多くの「初出」音源をリリースしてきたICA、この、マルケヴィッチが1960年にロシアを訪問した際にライブ録音したヴェルディの「レクイエム」も、ライナーを読む限りでは明らかに「初出音源」であるように思われてしまうものです。インレイには「FIRST CD RELEASE」の文字もありますしね。
実は、以前からマルケヴィッチがロシアで録音したとされるレコードはPHILIPSレーベルから出ていました。ただ、それは録音が「1961年」となっていましたし、オーケストラも「ソヴィエト国立交響楽団」というクレジットだったので、その1年前にモスクワ・フィルと録音されたものが見つかった時には、間違いなく「初出」と思ってしまったのでしょうね。ソリストが全員同じ人だったという「偶然」には目をつぶったのでしょう。
ただ、2006年に、日本国内だけでそのPHILIPS盤を原盤にしたCDが、日本のユニバーサルから限定発売で出ていたことがありました。そこには、このICA盤と同じように「モスクワ・フィル」、もしくは1960年録音」と表記されていて、LPでのミスは正されていたのですね。つまり、このCDのライナーノーツを執筆しているDavid Patmoreが言うような「このライブ録音の1年後に行われた、PHILIPSレーベルで最初にリリースされた商業録音」などというものは、はじめから存在していなかったのですよ。Patmoreさんは、この日本盤CDのことはまったく知らなかったのでしょう。
おそらく、このライナーノーツを鵜呑みにしてしまったのでしょう。国内で発売されるときには、日本の代理店の担当者は「初出音源」であることを目玉にして販売店に情報を流したのでしょうね。実はこれが初出でもなんでもないことが分かった時には、その男は真っ青になったことでしょう。間違った情報を訂正すべく、各方面に頭を下げまわったのでしょうね。その痕跡が、こちらの通販サイトに、何とも奇妙な言い回しで残っています。「CDにはこの演奏を初出音源と勘違いした英文解説が付されているものと思われますが、もしお買い求めの場合は、その点をご了承くださるようお願いいたします」という不思議な文章は、おそらく業界の人にしか理解できないような自分勝手な言い方です。すでに現物は出回っているのに、なぜ「英文解説が付されているものと思われます」なのでしょう。要は、「自分は悪くない」という明らかな責任回避なのですが、こんな文章は逆に販売店の誠意のなさを明らかにするだけのものであることが、「業界」の人にはわからないのでしょうか。というか、「思われます」なんて言って済ましているインフォなんて、何の役にも立たないものです。こんな文章を書いた人は、滝に打たれてください。
代理店が作った「帯」では、そんな不手際は見られません。おそらく、初出ではないことが分かった時点で差し替えたのでしょう。ただ、この「帯」には、合唱団の名前が「ロシア国立交響合唱団」と表記されています。英文は「State Academy Chorus」ですが、いったいどこからこんな「交響合唱団」なんて訳語をでっち上げたのでしょう。しかし、これはさっきのユニバーサルの国内盤CDを見れば、あの有名な「ソヴィエト国立アカデミー合唱団」であることがわかります。こちらにはちゃんと合唱指揮者も「アレクサンドル・スヴェシニコフ」と明記されていますしね。やはり、代理店の人も滝に打たれてください。
それにしても、こんなひどい録音を「商業録音」だと言いきるPatmoreさんも、すごい神経の持ち主です。カップリングの1957年録音のフランス国立放送管弦楽団とのロッシーニ序曲集は、LPからの板起こしだというのに、ノイズが全く聴こえない素晴らしい音です。こういうものを「商業録音」というのではないでしょうか。
業界人が寄ってたかってボロボロにしてしまったCD、彼らは、本当に「音楽」を聴く耳を持っているのでしょうか。

CD Artwork © International Classical Artists Ltd

5月19日

GRAUPNER
Passionskantaten
Hans Michael Beuerle/
Anton-Webern-Chor
aensemble Concerto Grosso
CARUS/83.457


あのバッハより2年前、1683年に生まれ、10年後、1760年に亡くなったという、まさにバッハの生涯を完全に包み込んでその一生を終えたドイツの作曲家クリストフ・グラウプナーは、ほとんどの時期をダルムシュタットの宮廷楽長として過ごしました。とは言っても、彼はかつてはバッハ以上に忘れ去られた作曲家、彼が唯一音楽史に登場したのは、そのバッハとともに同じポストを争った人物としてなのですからね。1722年にヨハン・クーナウが亡くなったために空席となったライプツィヒの聖トマス教会のカントルに、その翌年にバッハは就任したのですが、その選考の際の候補者がテレマンと、このグラウプナーだったのですね。
そもそもは、そのトマス教会でクーナウに音楽の才能を認められ、親しく教えを授けられたのがキャリアのスタートだったグラウプナーは、後にハンブルクのオペラハウスからダルムシュタットの宮廷楽団とその活動の場を移し、生涯に膨大な量の作品を残します。ところが、作曲家の没後は、それらの作品はすべて遺族ではなく、雇い主の所有物となってしまうのです。自筆稿はダルムシュタットの城の中にしまいこまれ、出版されることもなく300年近くもの間人目につかない状態にあったのです。当然、彼の作った音楽は世の中からは忘れ去られてしまいました。
しかし、もしかしたら、作曲家にとってはこれはかなり幸福な状況だったのかもしれません。なにしろ、すべての作品が散逸されることなく、見事に保存されていたのですからね。しかも、これらが「発見」されたのは、昔の作品は作られた当時のままに出来る限り近づける演奏を心がけるべく、楽器や奏法に関する研究が進んでいた時代でしたから、バッハのように全く見当はずれな演奏様式にさらされることもありませんでした。さらに、一次資料も揃っているのですから、作品目録を作る作業も、おそらくそんなに困難は伴わなかったのではないでしょうか。2005年には、Carus出版から、オスヴァルト・ビルとクリストフ・グロースピーチュの編纂に寄る「グラウプナー作品目録(GWV)」も出版されています。
その目録によれば、グラウプナーの作品は全部で2000曲という膨大な数に上っていることが分かります。ジャンルは多岐にわたり、オペラからシンフォニア、協奏曲、室内楽、独奏曲、そして多くの宗教曲が作られています。その中でも、教会の礼拝に用いられる「カンタータ」は、1400曲以上あるのですから、バッハの比ではありません。「GWV」では、カンタータを、それが演奏された教会暦と、上演年を組み合わせて、番号を付けています。たとえば、すべてが世界初録音のこのCDの最後に入っている「Mein Gott! Mein Gott! Warum hast Du mich verlassen?」は「GWV1127/31」という番号が与えられていますが、「1127」は「聖金曜日」を、そして「31」はそれが上演された1731年をあらわしています。
このカンタータは、合唱、バスのレシタティーヴォ、バスのアリア、コラール、テノールのレシタティーヴォ、アルトとテノールのデュエット・アリア、バスのレシタティーヴォ、コラールの8曲から出来ています。2つのコラールは、どちらもバッハの「マタイ」で何度も使われているお馴染みの「あの曲」なのですが、その飾り方がバッハとはずいぶん違っています。さらに、デュエット(カンタータだけでなくすべての自筆稿が、このようにネットで簡単に見られるようになっています)のイントロでは、3小節目から4小節目にかけて「副Vの和音」を用いた斬新なコード進行に驚かされます。これは、中島みゆきが「時代」のサビ「♪今日は分かれた恋人たちも」という部分で使ったコード進行と同じですね。もちろん、バッハでこんなものにお目にかかったことはありません。

なんたって、カンタータだけでも、まだ聴いたことのない「名曲」が1400曲もあるのですよ。それらが、順次録音されて行くのだと思うと、あまりのうれしさで気が遠くなりそう。

CD Artwork © Carus-Verlag

5月17日

DVOŘÁK/Symphony No. 9
TCHAIKOVSKY/Symphony No. 4
Constantin Silvestri/
NHK Symphony Orchestra, Tokyo
KING INTERNATIONAL/KKC 2049/50


昨年で創立85周年を迎えたNHK交響楽団の記念CDの中に、「コンスタンティン・シルヴェストリ」などという懐かしい名前がありました。
彼がN響を指揮するために来日したのは、1964年でした。その演奏会の様子が、なぜかコンスタントにテレビで紹介されていたので、それを見てすっかり「シルヴェストリさん」のファンになってしまったのですよ。もともと全く無名の指揮者でしたし、来日した5年後には亡くなってしまいますから、いまだに「知る人ぞ知る」マニアックな指揮者の名前が、そんなテレビの放送だけですっかり刷り込まれてしまったのですから、幼少期の体験というのは恐ろしいものです。その指揮姿は、それまで見ていた指揮者のものとはずいぶん違っていて、髪を振り乱しながら、とってもワイルドに迫っていたような気がするのですが。
これを買ったのは、そんな思い出の追体験、という意味もあったのですが、現物を手にしてこのジャケットの写真を見たら、もうがっかりしてしまいましたよ。この、なんだか新聞に載った写真でも使ったのではないかと思えるようなひどい写真はいったい何なのでしょう。それと、これと全く同じ時期に同じNHKによって録音されたクリュイタンスの「幻想」がしっかりステレオになっているというのに、こちらはモノというのも、なんだか情けない感じです。
さらにこの2枚組CDには全部で3日分、6曲収録されているのですが、録音会場はすべて「東京文化会館」となっています。しかし、ブックレットに掲載されている、実際にそのうちのどれかを聴いていた方のレポートによると、6曲のうちの4曲は、「旧NHKホール」でのものだというのですね。確かに、実際に聴いてみると響きが全く違います。これは明らかな、ジャケットの表記ミスでしょう。
ドヴォルジャークの「新世界」は、間違いなく東京文化会館での録音ですが、当時の放送局の録音の悪いところだけが目立ってしまう、やたらとストイックな響きに仕上がっていますから、オーケストラがとてもヘタに聴こえてしまいます。始まってすぐ聴こえてくる木管のコラールでのフルートときたら、チリメン・ビブラート丸出しのとても安っぽい音なので思わず力が抜けてしまいます。これが半世紀前のプロオケの実力だったのでしょうか。いや、このフルートは、それだけではなく、おそらく指揮者やまわりの団員のことなど全く聴いていないで、ひたすら自分の世界を追求しているようには聴こえないでしょうか。ちょっと平板な感じのする1959年にフランス国立放送管弦楽団と録音したEMIのスタジオ録音とは違って、ここではかなり大げさな身振りをオーケストラに要求しているようなのですが、フルートだけは全く知らんぷりなのですね。おそらく、この人は後にN響を聴いた時に必ず不快感を与えてくれた、あの男に違いありません。
どうやら、もっと膨らみのある音で、旧NHKホールでの録音と思われるチャイコフスキーの4番でも、この男がトップを吹いていたようですね。こちらの方は、まさに「爆演」そのもののものすごい演奏でした。シルヴェストリという人は、おそらく見せかけのバランスの良さなどを徹底的に嫌う人だったのかもしれません。第1楽章冒頭のファンファーレや、フィナーレのイントロなど、誰でも一直線にスマートに演奏したがるものを、彼はとことん流れに逆らって、至るところをせき止めて鈍重なまでの力強さを出そうとしています。それは、かなりの部分で指揮者の思いがオーケストラに伝わっているようでしたが、フィナーレも最後の方になってくると、ついいつものやり方が出てしまうのは仕方のないことでしょう。なんせ、このオーケストラは、最初にノリントンが来た時にも、完全に彼の意図を実現できたとはとても思えないような演奏ぶりでしたからね。

CD Artwork © King International Inc.

5月15日

MOZART
Apollo et Hyacinthus
Andrew Kennedy(Oebalus), Klara Ek(Melia)
Sophie Bevan(Hyacinthus), Lawrecne Zazzo(Apollo)
Christopher Ainslie(Zephyrus)
Ian Page/
The Orchestra of Classical Opera
LINN/CKD 398(hybrid SACD)


スコットランドにある「Linn Products」と言えば、昔から超高級オーディオ・メーカーとしてマニアの間では知られていました。とても手が出そうもない価格の製品を見ながら、「いつかはLinnを」と自虐的に呟いている人はたくさんいることでしょう。最近では、パソコンやインターネットを駆使した「ネット・オーディオ」という新しい分野でも、このメーカーは指導的な立場に立って、次々と魅力的な製品を出しています。彼らが提唱している「DS」(ゲーム機じゃないですよ。「Digital Stream」の略語です)という概念は、いずれはオーディオ界の主流となっていくのでしょうか。
このメーカーの強みは、「Linn Records」というソフト部門を持っていることでしょう。ここで録音された音源は、まさに最高のオーディオ・システムで再生されることを前提としているのですから、その音が素晴らしいのは当たり前の話です。同じようなソフトとハードを両方とも手がけているメーカーは、例えばPHILIPSとかSONYのようなところがありましたが、その両者が手掛けたSACDは、もうこのレーベルから発売されることはありません。その点、Linnの場合は、大メーカーが多くのしがらみの中で必ずしもなしえなかった、「最高」のものを目指して、妥協のないアプローチで臨んでいけるのでしょう。
ネット・オーディオに関しては、まだ何とも言えませんが、パッケージ・オーディオではほとんどすべてのアイテムをSACDで出してくれているのが、そんな「最高」を目指す証でしょうか。今回は、このレーベルにとって2枚目となるオペラ、モーツァルトの「アポロとヒュアキントス」です。
M22」に従えば、モーツァルトにとっては2番目のオペラとなるこの作品は、彼が11歳の時の1767年に、ザルツブルク大学付属のギムナジウムで上演するために委嘱されたものです。この学校では、教育のためにラテン語による演劇やオペラを上演する伝統がありました。この作品の台本は、そこの教師で司祭だったルフィヌス・ヴィドルによって書かれています。ヴィドルは、ギリシャ神話に題材をとって、アポロ、ヒュアキントス、そしてゼフィルスの「三角関係」を描こうとしたのですが、オリジナルのままではあまりにも露骨なホモセクシャルの内容になってしまうので、「教育」にはふさわしくないと、新たに女性のキャラを加え、あくまでストレートの世界であるように改変しています。
その、最もノーマルなキャラのメリア姫を歌っているエクが、とても伸びのある可憐な声で楽しませてくれます。それに対して、3人の「神」は、本来は男性の役なのでしょうが指定は女声パート、アポロはソプラノ、あとの二人はカウンターテノールで歌われています。一番の「悪者」であるゼフィルス役のエインズリーが、とても個性的な声で見事な表現力を見せてくれています。
これはもちろんセッション録音ですが、キャストはこのために集められたものではありません。彼らはすでに1997年から「クラシカル・オペラ」という、指揮者のペイジを中心としたカンパニーを結成していて、様々なオペラハウス(その中には、コヴェント・ガーデンのような高ランクのところも含まれます)で、モーツァルトとその同時代の作曲家たちの多くのオペラを上演してきているのですね。もうすでに完成された形になったものが、LINNのスタッフによって録音されるのですから、悪いものが出来上がるはずがありません。さらに、ここでは録音ならではの工夫も見られます。オペラの中には「雷」や「風」が登場するのですが、それは、まるであのジョン・カルショーのような、効果音にもきちんと出演者としての魂を込めるのだ、といったとした意気込みがビンビン感じられるような、リアリティあふれるものでした。
これからも、彼らの録音からは目が離せません。

SACD Artwork © Linn Records

5月13日

PLEYEL
Symphonies and Flute Concerto
Patrick Gallois(Fl, Cond)
Sinfonia Finlandia Jyväskylä
NAXOS/8.572550


「プレイエル」と言えば、ほとんど反射的に「ピアノ」という答えが返ってくるぐらい、その名前は歴史的なフランスのピアノ・メーカーとしてあまりにも有名です。あのショパンが愛用したピアノを作り、最近のことでは忘れられていた楽器、チェンバロを現代によみがえらせるために、ワンダ・ランドフスカの要請でピアノのフレームに弦を張ったいわゆる「モダン・チェンバロ」という、それまでの歴史の中では存在していなかった「新しい」楽器を開発したメーカーとして、間違いなくこれからも末永く語り伝えられていくはずの名前です。
ところが、その会社を設立したイニャス・プレイエルという人が、もともとは作曲家だったことを知っている人は、それほど多くはありません。このプレイエルさんはピアノ・メーカーを作る前には音楽出版社も経営していたという辣腕のビジネスマンでありながら、あのヨーゼフ・ハイドンに師事して多くの作品を残した、当時は「大作曲家」だったのですね。そういえば、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」のもとになったディヴェルティメント(Hob.II:46)も、実はハイドンの作品ではなく、このプレイエルさんが作ったものなのだそうですね。
オーストリアで生まれたプレイエルは、最初は「イグナツ・プライエル」と名乗っていましたが、ハイドンのもとでの修業が終わり、活動の場所をフランスに移すとともに、名前もフランス風に「イニャス・プレイエル」と発音するようになりました。このCDで演奏されている3曲のうち、2曲の交響曲は1780年代、彼がまだ「専業」の作曲家だった時代の作品ですが、フルート協奏曲は1797年と、すでに「メゾン・プレイエル」という名前の音楽出版社を作って、ビジネスマンとして精力的に働いていた時期のものなのだそうです。つまり、このころはまさに「2足のわらじ」を履いていたのですね。
まず、変ロ長調の交響曲を聴いてみましょうか。古典的な4楽章形式ですが、最初のアレグロの楽章が、よくある快活な感じではなく、3拍子のミディアム・テンポなのが、いかにもフランス風でしゃれています。ただ、それに続くアンダンティーノの楽章も、メヌエットの楽章も似通ったテンポなので、ちょっとメリハリがきかなく退屈に感じられてしまいます。おそらくそう感じてしまうのは、何事にも刺激を求めたい現代人としての感覚なのでしょう。曲が作られた当時のフランスでは、こんなユルさが多くのファンを呼んでいたに違いありません。
ですから、おそらく、そのあたりが、彼が「現代」では作曲家としてはほとんど忘れられている大きな原因なのでしょうね。ここには、時代を超えて訴えかけてくるようなものは、何も感じることはできません。あるいは、ガロワの指揮するシンフォニア・ユヴァスキュラがもっとこの曲の「楽しさ」を伝えるような「何か」を付け加えてくれればいいのでしょうが、彼らはひたすら愚直な作品を愚直に演奏するだけです。
もう一つのト長調の交響曲では、いくらかおもしろさが感じられるでしょうか。アンダンテ楽章が短調の変奏曲というのが、ちょっとした新鮮さを呼んでいます。ただ、これももう少し演奏でメリハリをつけてもらわないと、退屈に感じてしまうだけでしょう。
そして、ガロワの「吹き振り」で、ハ長調のフルート協奏曲です。ここでは、あのジャン・ピエール・ランパルが校訂した楽譜を使っているのだそうです。辛口じゃありませんよ(それは「ジンジャーエール」)。確かに、この協奏曲は、まさにランパル好みの名人芸満載、息もつかせず(実際、ほとんどブレスをとっていません)細かい音符を紡ぎだすのはとても爽快です。ランパルは、こんな時に、わざと早めに演奏して「どうだ、すごいだろう」と言っているように思えるような演奏をしたものですが、そんなところまでガロワが受け継いでいるのが、ちょっとかわいいですね。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

5月11日

Kisses on the Bottom
Paul McCartney
HEAR MUSIC/HRM-33369-02


かなり昔のことで記憶が曖昧ですが、さる高名なクラシックの作曲家が、「ビートルズのような音楽は、20代の若者にしか作れない」というようなことを言っていました。ああいう音楽は年を取ったらやるものではない、というような意味が、その語感の中にあって、いかにもなロック蔑視だ、と、その時は思ったものです。
とは言っても、やはりその人が言うとおり、いい大人、というか、「初老」のジジイがいい年こいて大声を張り上げて「ロックンロールだぜ!」と盛り上がっているのがなんだかみっともなく見えてしまうのも、ひとつの真実ではないでしょうか。ロックに限らず賞味期間が存在する音楽というものは確かにあるようですね。かつてのアイドルが、還暦を迎えようというのに昔の持ち歌ばかりを歌っているというのは、間違いなく醜いものです。
そんな、かつては「ロッカー」であったポール・マッカートニーが、まさかと思われた「ジャズ」のアルバムを出したというのも、やはり年を重ねていった中での変化によるものなのでしょう。大げさな拒否反応を示す人もいたようですが、そんなに目くじらを立てずに、新しいポールを受け入れようではありませんか。なんたって、もうじき「古希」を迎えるのですからね。やりたいことをやらせてあげたらいいのではないでしょうか。
ここでのポールは「ボーカル」に専念しています。楽器は、すべて信頼のおけるジャズ・ミュージシャンに任せようという姿勢なのでしょう。もちろん、プロデュースやアレンジにも、クレジット上は一切関わっていないようですね。ただ、彼のクレジットが「Vocals」と、複数形になっているのが要注意です。
最初はリズム・セクションだけのバックで「I'm Gonna Sit Right Down And Write Myself A Letter」です。イントロのウッド・ベースのピッキングや、ブラシを使ったドラムスなどは、まさに「小粋なジャズ」という趣、それと、口やかましいジャズ・フリークにも通用しそうなとびきりの録音に、まず耳が反応してしまいます。このアルバムの音源の24/96FLACファイルがオフィシャル・サイトからダウンロード出来るそうですが、そんな「ハイレゾ」にも対応できるソースであることも納得できます。CDで聴くとボーカルがいまいちドライなのが気になるのですが、せめてSACDでも出してほしかったものです。
ここでは、コーラスがとても気持ち良くハモっています。それが「Vocals」ということだったのですね。基本的にここでのポールの歌い方は力を抜いたハスキーなもの、そこに彼自身のファルセット気味のコーラスが入ると、なんとも上品なハーモニーが生まれます。
次の「Home(When Shadows Fall)」になると、今度はなんとも渋いストリングスが入ってきます。演奏しているのはロンドン交響楽団。ポールはアメリカで録音していますが、このストリングスはロンドンのアビーロード・スタジオでのセッションです。もちろんスタジオ1でしょうが、ポールがさんざん使ったスタジオ2と同じ建物というのも、なにかの因縁でしょうか。実は、このアルバムには、スタジオ・ミュージシャンによる別のストリングスが入ったものもあります。それはアメリカで録音されているのですが、ロンドン響と比べると、弦の響きの深みが全く違いますね。
スタンダード・ナンバーに混じって、ポールの新作も2曲披露されます。「My Valentine」は、まさにマッカートニー節満載のキャッチーな、それでいてオトナの音楽で、見事に「ジャズ」になっています。「Only Our Hearts」は、ちょっとボーカルの印象が乏しい気がしますが、それはゲストのスティービー・ワンダーのハーモニカが、あまりにも存在感があり過ぎたせいなのかもしれません。
それが最後だと思っていたら、そのあとでジャケットにはなんの表示もないボーナストラックが2曲も入っていました。ちょっと得した気分。全くシャウトしていないポールも、なかなかいいものです。

CD Artwork © MPL Communications Inc.

5月9日

Bomtempo
Requiem
Angela Maria Blasi(Sop), Liliana Bizineche-Eisinger(MS)
Reinaldo Macias(Ten), Michel Brodard(Bas)
Michel Corboz/
Gulbenkian Choir and Orchestra
VIRGIN/6 02864 2


ホアオ・ドミンゴス・ボンテンポなどという、仙台藩主みたいな名前(それは「梵天丸」)の作曲家なんて、「レクイエム」を作っていなければまず一生関わることはなかったことでしょう。1775年に生まれたこのポルトガルの作曲家の「レクイエム」は、物の本には1994年にコルボによって録音されたものがあると記されていますが、そんなもはや廃盤扱いになった音源が、突然スッペの「レクイエム」との抱き合わせで、新装発売となりました。スッペは、すでに聴いていたので要らないのですが、ボンテンポはこれを逃したらもう出ることはなさそうなので、入手しておかなければ。
ポンテンポという人は、ポルトガルの宮廷楽師だったイタリア人を父親として、ポルトガルに生まれましたが、なぜかイタリアで音楽の勉強をすることはなく、パリでピアニストとして活躍、その間に多くのピアノ協奏曲などを作曲しました。この「レクイエム」も、パリ時代、1818年の作品です。彼は後にポルトガルへもどり、教育者としても活躍します。
ポルトガルの首都リスボンの団体、グルベンキアン合唱団や管弦楽団と長年関係を持っているコルボだからこそ、あまり知られていないポルトガルの作曲家を取り上げたのだな、と思っていたら、実は彼より先、1980年にすでにハインツ・レーグナーがベルリン放送交響楽団などの「東側」のアーティストと録音していたのですね。思っているより広範な支持を、この曲は受けていたのかもしれません。
ただ、そのレーグナー盤は現在では入手は不可能、しかしIntroit」の一部「Lacrimosa」だけが東独系の得体のしれないレーベルのコンピレーションの中に入っていたので、まずは「予習」の意味でそれを聴いてみます。なかなか表情豊かなオーケストラに乗って、なんだかモーツァルトの同名曲にどことなく似た合唱が聴こえてきたのはご愛嬌。ボンテンポの場合は間違いなくモーツァルトの作品を聴いていたはずですから、何かしらの影響は受けていたことがうかがえます。
そして、コルボ盤です。さっきのレーグナー盤のようにいきなり合唱が始まるのではなく、何やら神秘的な超ピアニシモの低弦によってちょっとパッサカリア風のテーマが聴こえてきたのにはびっくりしました。ただ、この「イントロ」は別に変奏されることはなく、そのまま合唱が、まさに「古典派」そのもののメロディを持った歌を歌い始めたので一安心です。繰り返して聴いてみると、やはりなんだかモーツァルトの影が強く付きまとっているような思いは確信と変わります。特にヴァイオリンの伴奏のフレーズがとてもよく似た情感を与えてくれます。
さっきの「Lacrimosa」は、ここでは「Dies ira」全体が一つのトラックとなっていて、21分半の間、途中の曲を頭出しすることは出来ないようになっていました。やはりどこかで聴いたことがあるような感じが常につきまとう部分が現れるうちに、やっとその曲の前奏が始まります。しかし、その前奏の弦楽器は、レーグナー盤のような起伏に富むものではなく、何とも薄っぺらなのですね。さらに驚いたことには、レーグナー盤では合唱だったところが、ソリストによって歌われているではありませんか。これで、この曲のイメージがガラリと変わってしまいました。コルボの演奏は何とも締まりのないユルいものになっているのですね。
ずっと付きまとっていた「デジャヴ」感は、「Domine Jesu Christe」で最高潮に達します。これはモーツァルトそのものですよね。というよりは、この時代の様式から予想される展開を決して裏切らない、落ち着くべきところに落ち着く音楽が続くという感じですね。
この「レクイエム」からは、特別な緊張感や、悲哀の情などはほとんど感じることはできません。ただ、そのような印象はもしかしたらコルボたちの演奏がもたらしているのでは、という気がしてなりません。

CD Artwork © EMI Records Ltd/Virgin Classics

5月7日

What Is Life?
Lone Larsen/
Voces Nordicae
FOOTPRINT/FRCD 045


スウェーデンのFOOTPRINTレーベルで、初めて聞いた名前の合唱団のCDを見つけました。1999年に出来たばかりという新しいその合唱団は、ローネ・ラーセンという女性指揮者に率いられた「ヴォーチェス・ノルディケ」です。17人編成と、ライナーには書かれていますが、写真を見ると19人いるのはなぜでしょう。まだ若い人ばかり、そのうち団内カップルも出来て、自慢し合ったりするのでしょう(それは、「ヴォーチェス・オノロケ」)。
北欧のこのぐらいの少人数の合唱団、そして女性指揮者とくれば、誰でも透き通るような音色と、繊細な表現を兼ね備えたピュアなサウンドを期待してしまうことでしょう。その上に、ここにはボー・ホルテンやエイノユハニ・ラウタヴァーラといった演奏が難しそうな「現代作曲家」の名前なども見られますし、何よりもタイトル曲などはこの合唱団のために作られたのだというのでは、その期待はさらに高まります。
何しろ、最初の曲がエリック・ウィテカーの「Leonardo Dreams of His Flying Machine」という、超有名曲なのですからね。まずは、すでに多くのCDが出ていて、さらには、今年はおそらく何度も「生」で聴けそうなこの曲で、この合唱団の「アタリ」をつけてみることにしましょうか。
まさに「現代によみがえったマドリガル」と言えそうなこのキャッチーな曲は、だからと言って軽々しく挑戦してみても作曲家の求めたおもしろさが出てくるわけではありません。特に重要なのが合唱団の持つソノリテなのですが、その点ではどうもあまりいい結果を出しているとは思えないような仕上がりでした。ソプラノがちょっと雑な感じで、とても「ピュア」な音色とは言えないのですね。後半に出てくるリズミカルな部分では、シンコペーションがかなりアバウト、何かノリの悪いユルさが目に付いてしまいます。もしかしたら期待外れ?
次のボー・ホルテンの「Regn og Rusk og Rosenbusk」という曲は、不協和音も多用した、なかなか手ごたえのある感じなのですが、ここでもソプラノの荒れた感じはちょっと違和感があります。続くオラ・イェイロという1978年生まれのノルウェーのピアニスト/作曲家のラテン語のテキストによる「Ubi caritas」と「Deus in adiutorium」は、なんとも静謐な、ヒーリング・ピース、とても「現代曲」とは思えない素直さです。
そして、タイトルにもなっているのが、アン=ソフィ・セーデルクヴィストの「What Is Life?」です。この合唱団のために作られた曲だということで少し身構えますが、聴こえてきたのはまるでノラ・ジョーンズのような、ちょっとハスキーな声とアバウトなピッチのアルト・ソロでした。ジャズ・ミュージシャンでもある彼女がこの合唱団に贈ったのは、ほとんど「ブルース」と言っていいような曲だったのです。なんか、方向が見えてきません。しかも、それに続く1983年生まれの、大学ではジャズを学んだというサラ・ニクラソンの「Frame and Content」は、和やかなフォーク・ギターの伴奏に乗った、もろ、モダン・フォークではありませんか。ここにもソプラノやテナーのソロがフィーチャーされていますが、いずれも合唱人にはあるまじきアバウトな歌を披露しています。そういう曲なのかもしれませんが、なにか、肩透かしを食らったような気がしてしまいます。
そんな歌を聴かされたあとに、ウッレ・リンドベリの「Sanctus」と「Agnus Dei」という、直球勝負のミサ曲が来ます。こうなると、もはやこの合唱団のユルさではとても太刀打ちできない、まさに限界のようなものを感じないわけにはいきません。
最後に控えるラウタヴァーラの「Die erste Elegie」も、健闘はしているのですが、もはや細かいコントロールなどは全く期待できません。クライマックスで派手にビブラートがかかったソプラノを聴かされる頃には、北欧にも上手ではない合唱団はたくさんあるのだな、というごく当たり前のことが理解できるようになっていたのでした。

CD Artwork © Footprint Records AB

5月5日

Blu-ray Audio
MAHLER/Symphony No.8
(NBD0009)
LANCINO/Requiem
(NBD0020)
VERDI/Ballet Music
(NBD0027)


ハイビジョン画質の映像データがそのまま収録できるブルーレイ・ディスク(BD)は、1枚の容量は25GBと、CD700MBや、SACDDVD4.7GBに比べるとけた外れに大きなデータを保存することが可能です。さらに、最近になって出来たメディアですから、記録するデジタル音声のフォーマットも、大昔のCDで採用された16bit/44.1kHzPCMのようなちゃちな解像度ではなく、もっと高い規格、最高で24bit/192kHzまでサポートできるようになっています。普通に映像が入っているBDでは、その音声のデータは圧縮されてサイズが小さくなっていますが、映像がなければ高解像度(ハイレゾ)の音声データを圧縮なしで余裕をもって収録できるはずです。もちろん、2チャンネルのステレオだけではなく、6チャンネルの5.1サラウンドだって楽々入ってしまいます。
そんな、オーディオに特化したBDを初めてリリースしたのは、おそらくノルウェーのレーベル「2L」だったのではないでしょうか。2008年に、こんなステレオだけではなく、4種類の方式のサラウンドまですべて収めたBDを、SACDと同梱という形で発売したのです。このレーベルの音へのこだわりはハンパではなく、現在では32bit/352.8kHzという、業務用のDAWのスペックをはるかに上回るハイレゾで録音を行っていますから、それをパッケージとして可能な限り元のものに近い形で提供しようとすれば、SACDでは少々物足りなくなって、BDを使うことを考えたのでしょう。それ以後も何種類かのBDを、SACDとの同梱という形でリリースしてきましたが、最新のアイテムでは、ついにBDだけのパッケージとなっています。
2Lに続いて、この音声のみのBD、ブルーレイ・オーディオの市場に参入するメーカーが現れました。それは、今では世界最大のCD売り上げを誇るかつての安売りレーベル、NAXOSです。今回15点ほど発売されましたが、価格は2Lよりははるかに安いので、3点ばかり聴いてみることにしました。
再生に使ったのは、何の変哲もない安物のBDプレーヤーです。こちらの方面に関してはあまり知識がないのですが、そもそもブルーレイ・オーディオのための専用プレーヤーなどというものは存在していないようですね。ですから、ディスクに入ったデータをきちんと再生するためには、しっかりしたD/Aコンバーターなどを使わなければいけないのでしょうが、とりあえずプレーヤー内蔵の安物のチップでどの程度のものが聴けるか、という程度の報告だと思ってください。農家の方に借りるわけにもいきませんし(それは「コンバイン」)。
まずは、以前CDで聴いていたランシーノの「レクイエム」です。ほかのアイテムは24/96なのに、なぜかこれだけ24/48、そのせいなのか、CDと比較してもそれほど違っているとは、正直思えないような音でした。
次の、マーラーの「千人」も、やはりCDで聴いていました。これは24/96ですから、その違いははっきり判ります。CDでもかなりのものだったのですが、BDはいかにも余裕を持ってそれを再生しているという感じがします。
そして、かなり珍しいヴェルディのオペラのバレエ音楽だけを集めたものは、CDでは2枚組のものが1枚に収まっています。値段はほかのものと同じですから、ほとんどCDと変わらない値段で買えるはずです。これはBDしか聴いていませんが、最初の「オテロ」からのバレエで、ピッコロの音のリアリティに驚いてしまいましたから、かなりのものなのではないでしょうか。
ということで、「安物」で聴いてもCDとの違いははっきり聴き取れるほどのクオリティは感じられました。もちろん、しっかりした環境で再生すればさらに素晴らしい音が味わえることでしょう。
しかし、同じものがネット経由でFLACファイルとして入手でき、PCオーディオで楽しめるという時代にあって、ブルーレイ・オーディオのパッケージとしての将来は、SACD同様はなはだ心もとないものです。

BD Artwork © Naxos Rights International Ltd

おとといのおやぢに会える、か。


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