あるいは ウェンディ・カーロスはいかにして豊満な乳房を手に入れたか

(00/1/25掲載)


 1999年の11月末に、新しい音楽雑誌が新潮社から創刊されました。タイトルは「グラモフォン・ジャパン」。このタイトルからもわかるように、これはイギリスの老舗の雑誌「Gramophone」の日本語版です。本家「Gramophone」はご存じのように長い伝統を誇る格調の高いレコード批評誌、イギリスで発売されたCDの批評に加えて、毎月テーマに沿ったCDが付録についてきます。
 いっぽう、日本には「レコード芸術」という歴史の長い雑誌がありますが、こちらは国内盤の批評がメインで輸入盤の紹介はほんの申し訳程度。肝心の国内盤でも、その批評は主観の勝った感想文でしかない志の低い文章で、「レコ芸の特選盤を買うようでは、マニアとはいえない」という諺(!)は、かなりの真実味をもって真のレコード愛好者の間には流布しているのです。
 そんなところに、この雑誌です。いままでの輸入盤情報に対する渇きが癒されるのではないかという大いなる期待をもって、発売と同時に震える手で(どっかで使った表現)創刊号を手にしてみました。ところが、期待というものは裏切られると相場は決まっており、この場合も例外ではありませんでしたね。なによりも、付録のCDがなかったのには、本当にがっかり。中身も、英語のCD評を日本語に訳したものにはそれなりの価値がありますが、日本語版の独自企画の国内盤の批評のあまりのお粗末さ加減には、あきれかえってしまいました。おそろしいものですね。普段日本人のものだけを読んでいたときにはあまり感じなかったものが、こうして同じ紙面に並べてみると、日本の音楽ジャーナリズムがいかに程度が低いか、白日のもとに明らかになってしまうんですから。
 そんなわけで、この新雑誌には見事に失望させられたものの、このおかげで、迎え撃つ「レコード芸術」のほうが、格段の充実をみせるようになったのですから、なにが幸いするかわかりません。最大の収穫は、いままでままこ扱いだった輸入盤紹介欄の飛躍的な充実。具体的に最新の
2000年1月号と先月号を比較すると、ページ数では5ページから16ページ、点数では14枚から55枚と、3倍以上の躍進ぶりなのですから、ほんとうにうれしくなってしまいました。

 この、新装なった「海外盤試聴記」の最後の欄に、とんでもないCDボックスの紹介を見つけてびっくり。(ここからが本題です。前置きの長かったこと。)なんと、あのワルター(ウェンディ)・カーロスの「スイッチト・オン・バッハ」のリマスター盤が、同時期の3枚とあわせて、ボックスセットで米コロムビア(ソニー)以外の聞いたこともないレーベルから発売になったというのです。
 シンセサイザーを用いてバッハの作品を演奏した「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムがリリースされたのは
1968年。私が生まれて間もなくのころです。したがって、記憶はほとんど無いに等しいのですが、不思議なことに、まわりの大人たちが大騒ぎをしていたことは、鮮明な原体験として残っているのです。
 それまでは、シンセサイザーなどという言葉もなく、オシレーターやフィルターを操作することによって得られていた、ある種SE的な不確定な音は、「電子音楽」というカテゴリーで、主に現代音楽に用いられていました。
60年代初頭に、ロバート・A・モーグという電子技術者は、キーボードを用いて音階を容易に出すことができる電子楽器を開発します。これが「モーグ・シンセサイザー」と呼ばれるもので、以後の音楽シーンを塗り替えることになる新しい楽器「シンセサイザー」の誕生でした。(ちなみに、モーグのラストネームMoogは、一部では「ムーグ」と表記されていますが、これは正しい発音ではありません。)
 
1964年にモーグと出会ったのが、ニューヨークで電子音楽を学んでいたワルター・カーロスという「男」です(のちに「彼」は性転換してウェンディという「女」になってしまいます。)。カーロスとモーグの共同作業によって生みだされ、米コロムビアからリリースされた初期の4枚のアルバムが、East Side Digitalというレーベルでリミックスをほどこされて、このほどボックスセットとして発売されたのです。
SWITCHED-ON BOXED SET
EAST SIDE DIGITAL ESD 81422
SWITCHED-ON BACH
THE WELL-TEMPERED SYNTHESIZER
SWITCHED-ON BACH II
SWITCHED-ON BRANDENBURGS
譜面台に乗っているのが、オリジナルのジャケット。「モーグ」の前に座っているのが、若かりし頃のウェンディ・カーロスです。最近のカーロスとちゃんとしたジャケ写は、下記のサイトで。
 4枚のうち、「ウェル・テンパード〜」と「SOBU」は今回が初CD化。これだけでもたまりません。さらに、ESDによるリマスターの成果は著しいものがあり、オリジナルLPのクオリティに迫るか、ノイズがない分より鮮明度と奥行き感が増しているという素晴らしさです。付属のブックレットには、ウェンディ・カーロスによる詳細なデータ、モーグ・シンセサイザーの各モジュールの説明などが掲載されていて、好きな人には涙が出るほどのアイテムでしょう。その中に、ファーストアルバムのジャケット写真に関するとことんマニアックなコメントがありました。その大意をご紹介してみましょう。
最初にリリースされた時に使われた写真がこれ。ヘッドフォンから聞こえてくる妙ちきりんな音に不快感を隠せないというバッハの表情がとても素敵ですが、実はこの写真には大きな間違いがありました。ヘッドフォンのプラグ(ピンクの矢印)は914というモジュールにつながっているのですが、差し込まれているのは"OUTPUT"ではなく"INPUT" の端子だったのです。これでは、バッハさんの耳にはなんの音も聞こえるわけはないのですよね。こんな細かいことは、言われなければ誰にも分からないものなのですが、この間違いに気がついてしまったカーロスは、レコード会社にかけあって、次の発売分からは、別の写真(下)に差し替えてもらったということです。

ウェンディ・カーロスの公式サイトには、さらに詳細な情報が満載です。興味のあるかたはどうぞこちらまで。