おおむね、エッチ・・・。.... 佐久間學

(09/11/27-12/16)

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12月16日

Swing Sing'
Swingle II
SONY/88697 552462


ごく最近、「スウィングル・シンガーズ」のVIRGIN時代のアルバムのリイシュー・ボックスをご紹介したばかりですが、今度はまだウォード・スウィングルが在籍していた時代、1970年代の「スウィングル」のコンピレーションCDがリリースされました。
1962年にフランスで創設され、「ダバダバ・コーラス」で一世を風靡したグループは1973年に一旦解散します。そして、1974年にイギリスで全く新しいメンバーを集めて「リセット」されたときには、名前も「Swingle II」と変わっていました。それは、同じ「スウィングル」であっても、今までのグループとはひと味違うコンセプトをもっていることの主張だったのでしょうか。確かに、その名前でCBSからリリースされたファースト・アルバム「Love Songs for Madrigals and Madriguys」は、コーラスパートはルネサンス期のマドリガルをオリジナル通り歌い、それにピアノ・トリオ(ただし、ピアノパートはウォード自身がアープ・シンセサイザーやチェンバロを弾いています)の伴奏が付くという、今までになかった挑戦がなされたものでした。国内盤のジャケットの裏側が、アメリカ盤とほぼ同じデザインです。ちなみに、アルバムタイトルにある「Madriguys」は、「gals」という単語に敏感に反応した制作者のおやぢの造語なのでしょう。「Madrigays」ではなくてよかったですね。

このときのメンバーは、ロンドンで活躍していたフリーランスの歌手が集められました。その中にはソプラノのキャサリン・ボット、アルトのリンダ・ハースト、そしてテノールのジョン・ポッターなどのように、後の「古楽」シーンで重要な役割を担うことになる人たちが含まれていたのですから、ちょっとすごいことです。このファースト・アルバムでは、そんな「立派」な人たちが、あくまでそれまでの「スウィングル」のスタイルの、ちょっとハスキー気味の発声を貫いているのが、興味をひきます。
今回のCDは、それ以後にリリースされた3枚のアルバムからのコンピレーションのようです。なにしろこれが「70年代スウィングルの初CD化」というぐらい、冷遇されているカタログですから、正確なところは分かりません(1976年にCBSではなくDECCAに録音したベリオの作品集が1990年にCDになっていますから、「初CD化」というのは実はウソなのですが)。

今回のコンピ、メインには、1970年代当時、あのジョシュア・リフキンの手によって蘇ったジョプリンのラグタイムが中心になったアルバムからの曲が収められています。マドリガルから一転して「ヒット曲」指向になってしまったあたりが、後のこのグループの行方を象徴しているようですが、アレンジの技法としては、今までの「ダバダバ」を捨てて、きっちり歌詞を歌い込む方向性が強く感じられるのではないでしょうか。ここでは、元々インスト曲だったラグタイムの数々に、新たに新しい歌詞が付けられています。細かい音符一つ一つにまるで早口言葉のように歌詞を当てはめた、いわゆる「ヴォーカライズ」と呼ばれる、マンハッタン・トランスファーあたりがお得意にしていた手法ですね。しかし、ウォード・スウィングルが最初に参加した「レ・ドゥブル・シス」というグループも、「マンハッタン」同様、この手法の始祖「ランバート・ヘンドリックス&ロス」に影響を受けていたのですから、ルーツは一緒なのですよ。
他のアルバムからのナンバー、スティービー・ワンダーの「You Are the Sunshine of My Life」では、うってかわってハイスピードの「ダバダバ」の応酬、やはり彼らにはこれが一番似合うことに妙に納得させられてしまいます。
それぞれのアルバムのコンセプトを知るためにも、こういう形ではなく、この時期のCBS盤がオリジナル、あるいは2on1の形で復刻されることを切に望みたいところです。リフキンも出してくれたタワー・レコードさん、お願いしますよ。せめて「Madrigals」だけでも。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

12月14日

BERNSTEIN
West Side Story
Original 1957 Cast Recording
NAXOS/8.120887


バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」は、1957年9月26日にブロードウェイで初日の幕を開けましたが、これはその3日後に同じキャストがスタジオで録音したものです。とは言っても、もちろんこれは新譜ではなく、CDとしても何度も発売になったアイテムです。そして、それはこの録音の権利を所有していたSONYからりリースされたもの、その国内でのリイシュー盤は、こちらですでにご紹介していました。
1957年の初演、そして録音ということは、つい最近、2007年には「50周年」を迎えたことになります。事実、その時点で日本版の公演を行っていた「劇団四季」では、大々的にその事をアピールしていましたね。さらに、「50年」というのは、著作権や著作隣接権が切れてしまう時限でもあります。つまり、録音されて50年以上経過したものは、原則として録音者の権利が消失、その音源を誰が販売してもかまわなくなってしまいます。
言ってみれば音源に関するコストが「タダ」になるのですから、これをNAXOSが放っておくはずがありません。「NAXOS MUSICALS」などという大層なロゴを設けて、ジャケットもまるで別物のように新しくなったこんなアイテムを発売してくれました。
SONY盤もまだ現役で出回っているというのにこんなものを出すというのは、権利はともかく道義的にはなんだかなぁ、という気がするのですが、まあこの会社、ひいてはこの業界に道義とか倫理を問うことに意味がないのは明らかです。レーベルが違うから、別のテイクか何かかな、などと思って騙されて買ってしまうような被害が出ないことを、切に願うのみです。
もちろんそんな詐欺まがいに引っかかるほどの愚か者ではありませんよ。これがSONY盤と全く同じものであることは知っていて、敢えて買ったという「確信犯(?)」なのですよ。手元のSONY盤が出てからもう10年近くも経過していますから、その間のマスタリングの進歩が、もしかしたら反映されているのでは、という淡い期待があったからなのです。ジャケットにはちゃんとマスタリングとレストレーション(修復)のエンジニアの名前が明記されていますしね。
果たしてその結果は。このNAXOS盤を聴いてみて、最初のインストの「プロローグ」などは、SONY盤とほとんど変わらないクオリティのように思えました。ただ、全体に音圧が上がっているのでしょう、それぞれの楽器がより生々しいものに聞こえることもありますが、その違いは特にはっきりしたものではありません。しかし、そこにヴォーカルが入ってくると、様相は一変します。その声が、まるでコンサートの時のPAのように、力強さはあるものの、およそ人間の声とは思えないような潤いのない機械的なものになってしまっているのです。例えば「アメリカ」での女声合唱などは、そんな汚い声が重なり合って、とても聴くに堪えないものでした。
SONY盤は、2000年にDSDでマスタリングされたものでした。SACDが発表された直後ですね。これを改めて聴き直してみると、ヴォーカルはとても自然なものに聞こえます。なんせ半世紀以上前の録音ですから、物足りないところはたくさんありますが、それらを含めても当時としてはかなりクオリティの高いものだったことがよく分かるマスタリングでした。しかし、今回のNAXOSによるマスタリングは、一見磨き直された音のようであっても、実は単なる厚化粧でごまかしただけ、結果的にはとんでもない粗悪品になってしまったものでした。これは、耳の悪いエンジニアが、安易にデジタル・レストレーションに頼ってあれこれいじくり回したあげくに、醜い「整形美人」を作り上げてしまった結果です。こんなものを聴かされて、「やはり昔の録音は、音が悪いね」などと思う人がいたとすれば、なんと悲しいことでしょう。これでは、不満がたまるばかり(それは、「フラストレーション」)。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

12月12日

The Inaugural Concert
Gustavo Dudamel/
Los Angeles Philharmonic
DG/00440 073 4531(DVD)


ほんの2ヶ月前、10月8日にロスアンジェルスのウォルト・ディズニー・コンサートホールで開催されたロスアンジェルス・フィルの新しい音楽監督、グスタヴォ・ドゥダメルの就任記念演奏会の映像が、もうDVDになって世界中で発売されています。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートなども確か2週間ぐらいで世に出ていたはずですが、あれは早すぎ、というか、別格のイベントですから仕方がありません。しかし、たかが一人の若者がオーケストラのシェフに就任しただけのことなのにこれだけの扱いを受けるというのですから、これはほとんど「異常」。しかも、映像ディレクターが、その「ニューイヤー」を担当しているブライアン・ラージというのですから、どんだけ破格の扱いなのでしょう。確かに28歳の若さでアメリカのメジャー・オーケストラの音楽監督とはすごいことかもしれませんが、ズビン・メータがこの同じオーケストラの同じポストを手に入れたのは、確か26歳の時ではなかったでしょうかね。
客席を見ると、ハリウッドという土地柄なのでしょう、この演奏会のための委嘱作品を作ったジョン・アダムスとならんで、トム・ハンクスの姿が見られるように、そうそうたるセレブが招かれています。しかも、まるで「アカデミー賞」や「グラミー賞」の授賞式みたいに、客席の聴衆はすべてタキシードにイヴニング・ドレスという「正装」というのですから、すごいものです。ステージ上方に陣取ったユニークなデザインのオルガンや、豊田さんの音響設計によるホール内の美しい曲面と、このファッションは見事なマッチングを見せています。
そこに登場するドゥダメルくんも、ちょっと前までの田舎から出てきた元気な若者、といったイメージが見事に一新、まるでハリウッド・スターのジョン・トラボルタのような風貌に感じられるのは、単なる偶然でしょうか。
まず演奏されたのが、そのアダムスの「City Noir」という、3楽章の「交響曲」です。演奏時間は30分、ジャズのイディオムをふんだんに用いた、「第1楽章」あたりはバーンスタインを思わせるような複雑なリズムの曲です。まるで、このオーケストラの技量を試すかのような難曲ですが、ピッコロのおばちゃんのように、それを笑いながら軽快に吹いているプレイヤーは素敵です。
フルートの首席は、なんだかどこかで見たことのある人。たしか、シカゴ交響楽団の首席奏者だったはずのマテュー・デュフォーではないですか。公式サイトには「2008年に首席に指名」とありますが、シカゴのサイトでもしっかり首席奏者として紹介されていますよ。シカゴの首席をやって、しかご(しかも)ロス・フィルの首席を務めるなんて、すごいですね。このDVDの全体的にメリハリのない録音状態の中で、彼の音だけはひときわ目立って聞こえます。確かにこれだけ存在感のあるフルーティストは、他にはいないのかもしれませんね。
メインのプログラムはマーラーの「巨人」。この曲を操るドゥダメルは、百戦錬磨のロス・フィルのメンバーに対して、妥協のない自分の音楽を提示しているように見えます。特に、第2楽章のレントラー風の三拍子の舞曲の扱いはとても巧みなものでした。フィナーレも、決して煽ることはなく、実際には抑え気味に進めていくのに、そこからは巧まずして高揚感を発散させているのですから、すごいものです。確かに、彼にはオーケストラのメンバーを心から納得させられるだけの「カリスマ性」があるのでしょう。
演奏が終わるとスタンディング・オヴェーション、そして天井からは紙吹雪が舞い落ちてきます。新しいスターを迎えたこのオーケストラの喜びを、それこそ世界中に知らしめるようなそんな演出はいかにもアメリカ的、そこまでしなくても、という思いがわき上がるかもしれません。しかし、本編のあとのエンドロールでは、バックステージで引き上げてきたメンバーに次々にハグされている指揮者の姿が。どうやら、この「お祭り」には結構「本気」が入っていたみたいですよ。

DVD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

12月10日

Sehnsucht
Lenneke Ruiten(Sop)
Thom Janssen(Pf)
Béni Csillag/
The Gents
CHANNEL/CCS SA 30109(hybrid SACD)


「ジェンツ」といえば、1978年生まれの若きペーター・ダイクストラが1999年に仲間を集めて作ったオランダの男声アンサンブルでしたね。独特の柔らかい響きでとても心が和むアルバムを何枚かこのレーベルから出していました。ところが、リーダーで指揮者であったダイクストラは、2005年に長い歴史を持つ名門合唱団、バイエルン放送合唱団の音楽監督に就任してしまいます。まさに大抜擢ですね。
今までに、彼が合唱指揮者を務めたオーケストラとの共演の録音はいくつかリリースされていました。最近この合唱団や2つのオーケストラを統括しているバイエルン放送が「BR KLASSIK」というレーベルを発足させ、日本でも流通するようになると、そこには彼が指揮をした合唱団独自のアルバムが見つかりましたので、彼がこの晴れ舞台でどんな仕事をしているのか、聴いてみました。聴いたのは2枚、マルタンの「ミサ」などが入ったもの(403571900500)と、なんと2枚組のバッハの「マタイ受難曲」(403571900900)です。

しかし、「マタイ」の方は、聴いてみるとメインはダイクストラたちの合唱(もちろんオーケストラも)ではなく、それはこの曲のことを長々と解説していたナレーションだったのですよ。その中に「参考音源」として、その演奏が挿入されている、ということなのでした。おそらく、そんなラジオ番組でもあったのでしょうね。それ自体は面白そうな企画なのですが、なんせ全編ドイツ語のナレーション(というか、ドラマ仕立て)ですし、対訳も付いていませんから、内容はほとんど分からないよう。いつの日か、この「マタイ」だけがリリースされる日を待ちたいものですが、ここで聴く限りはそれほど耳をそばだてるところはないような、何か平凡な演奏でした。
同じように、マルタン、コダーイ、プーランクと並べた、これはきちんとしたリサイタル・アルバムの方も、特段惹きつけられるものが感じられない、正直退屈な演奏でしたね。合唱の声もバラバラ、緊密なハーモニーにはほど遠い仕上がりです。ダイクストラくんの才能は、仲間うちでしか発揮できないものだったのでしょうか。
そして、残された「ジェンツ」が、2008年に新たに指揮者に選んだのが、1976年生まれのハンガリー人、ベーニ・チッラグでした。彼との最初のアルバムが、このドイツ・ロマン派の曲集です。これは、おそらくこの指揮者の意向による選曲なのでしょう。確かにダイクストラの時とは微妙に路線が異なってきているようには感じられます。
シューベルト(アルバムタイトルの「あこがれ」など)やシューマンでは、彼らの特色である柔らかい響きがちょっと裏目に出ているようで、ちょっと音色的に違和感がなくはないのですが、これも前の名曲路線を受け継ぐものととらえれば、そのようなある種「癒し」としての価値は捨てがたいものがあります。なまじ「オトコ」ぶって、荒々しさが強調されたよくある演奏よりははるかに魅力的です。
しかし、ヴォルフの「アイヒェンドルフの詩による宗教的な歌」あたりでは、そのような姿勢は曲の持つ力には対応できなくなってしまいます。独特の憂いを含んだ細やかな和声が、彼らにかかるとただのユルいだらしなさにしか聞こえないのが、辛いところです。
ただ、同じオランダ人の血をひくユリウス・レントヘンになると、俄然音楽が輝き出します。その中にある北欧的な涼しさが、おそらく彼らのテイストとうまく合致していたのでしょう。この「希望」と「フィエゾレ」という2曲は、最も心を打たれるものでした。
リヒャルト・シュトラウスは、ちょっと微妙。独特の広がり感はよく出ているのですが、なにかが足りません。
指揮者が変わっても、彼らの持ち味は全く変わっていなかったのは、「ジェンツ」にとっては幸せなことなのか、それとも・・・

SACD Artwork © Channel Classics Records bv, BRW-Service GmbH

12月8日

MOZART, WENDLING
Flute Concertos
Bernhard Krabatsch(Fl)
Ivor Bolton/
Mozarteumorchester Salzburg
OEHMS/OC 747


このジャケット、なんか、ぱっとしない中年オトコが2人並んでいる写真ですね。向かって右側の人なんか、「天才バカボンのパパ」に似てません?左側の人だって、一応楽器を持っていますが、建設現場で働いていてもおかしくないような風貌ですね。外観で判断してはいけないということは重々分かってはいるのですが、つい。
でも、この前のいかにもファッショナブルなセンスで「フルーティストっ」というイメージを全面に押し出したアルバムよりも、こちらの方がはるかに聴いていて楽しめたのは、なぜなのでしょう。やはり、人間、顔が全てではありません。
モーツァルトのフルートだけのための協奏曲は2曲だけ、LP時代でもそれだけで1枚のアルバムが作れましたから、今までには多くのものがリリースされていました。もちろん、最近ではオリジナル楽器であるフラウト・トラヴェルソで演奏したものも見受けられ、これらの曲に対する新たな側面からのアプローチも多々見られるようになってきました。今回のソリスト、ベルンハルト・現場監督・クラバッチュは、モダンフルートの演奏家ですが、使用しているのは「木製」の楽器です。彼は、もともとはこの楽器の現代での一般的な素材である銀や、後にはプラチナや金のものを使っていたのですが、最終的に現在の木製のものに落ち着いたのだそうです。基本的に同じベームのメカニズムを持つ楽器であれば、音色的にはそれほどの違いはないのですが、彼が使っているドイツの「メナート」という化粧品みたいな名前の楽器(それは「メナード」)は、木管ならではの暖かい音色がとてもはっきり伝わってくるものです。特に、低音部分の素朴な感触は、モダンフルートの最大の特色である力強い、場合によっては刺激的なテイストとは全く異なっていました。
音色だけではなく、クラバッチュの演奏は颯爽とパッセージを吹き飛ばすというありがちなスマートさを追い求めるのではなく、流麗さや滑らかさの陰に隠れてあまり表には出てこない「暖かさ」に焦点を当てているように感じられます。一見「地味〜」に思えるようなその朴訥さの中には、モーツァルトの音楽を一言一言慈しみを込めて伝えようとする確かな意志があります。
それをさらに助けているのが、ヘルムート・ドイッチュが作ったカデンツァです。モーツァルトのフルート協奏曲には作曲者が作ったカデンツァというものは存在せず(というか、この時代の「カデンツァ」はそもそもそういうものでした)演奏者が自分で作ったり、昔から楽譜が出版されているものを使ったりしているものですが、そんな「出来合い」の中にはモーツァルト本来のスタイルからはかけ離れたものもありました。ニ長調の協奏曲(第2番)でよく用いられるヨハネス・ドンジョンのカデンツァも、そのあまりに19世紀的な華麗さが鼻につく人は多いはずです。
このドイッチュのカデンツァは、そんなフレンチ・スクールの産物とは一線を画した、なんとも味のあるものでした。ことさらに技巧をひけらかすことのないシンプルさの中に、見事にモーツァルトの魂がこもっています。ト長調の協奏曲(第1番)のアダージョ楽章のカデンツァなどは、涙を誘われるほどに美しいものでした。
このアルバムには、そんなモーツァルトの珠玉の協奏曲を産み出すきっかけとなった、マンハイムの宮廷楽団のフルーティスト、ヨハン・バプティスト・ヴェンドリンクが作った協奏曲も収録されています。プレイヤー/コンポーザーにありがちな技巧的なパッセージをふんだんに盛り込んだ作品ですが、クラバッチュたちの演奏によってその技巧による装飾が剥がされてしまうと、その後にはモーツァルトには確かにあったはずの「素」の美しさが、何も残っていないことに気づかされることでしょう。

CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

12月6日

人生はハーモニー
谷道夫著
宮日文化情報センター刊


先日の飯野さんご逝去の情報(10日以上経って、やっと新聞に訃報が載りました)を受けて、あちこちネットをさまよっていたら、デューク・エイセスのリーダー谷さんの著作が出版されていることを知りました。なかなか興味のつきない本のようなので入手してみようと思い、Amazonなどで検索してみたのですが、どうも取り扱っていないようなのですね。情報によると、デューク・エイセスの事務所に連絡をすれば直接送ってもらえるようなので、公式サイトにあったアドレスにメールを出してみました。と、翌日、その送ったアドレスからの返信が届きました。なんと敏速な対応、と思って文面と差出人を見ると、それは谷さんご本人からのメールだったではありませんか。「個人的なことなので、私が直接お送りします」と書いてありましたよ。なんとも気さくなメールに、ちょっと驚いてしまいましたよ。
本が届いたのはその2日後、谷さん直筆の封筒に入っていましたし、本にはサインまで。

もうこれだけで、大感激です。なんたって日本のコーラスグループの先駆けとして、常にトップを走ってきて、来年は創立55周年を迎えるというあの尊敬するデューク・エイセスの谷さんが、これだけ親密なコンタクトを取ってくれたのですからね。まさに、ファンを大切にするという彼らの姿勢を、直に体験した思いです。
その本は、谷さんの出身地、宮崎の宮崎日日新聞に連載されたエッセイをまとめたものでした。1回分が見開きの2ページに収まっているというとても読みやすいスタイルです。ヒマのあるときに何回分か読んでいけばいいかな、と思って読み始めたら、その面白さに惹かれて、とうとうそのまま一気に最後まで読破してしまいましたよ。
それは、執筆中には70歳に手が届く年になっていた谷さんの、まさに「自分史」でした。ご自身の2代前のお爺さまの経歴から始まって、幼少時代の思い出につなげる、という壮大な導入です。少年時代のやんちゃな生活、それを見守るご両親など、当時は当たり前でももはや今では失われつつある温かい家庭が描かれるとともに、あの「戦争」の悲惨な体験も、いともさりげなく語られています。それは、単なる「自分史」ではない、その頃の日本人が共有できる確かな「歴史」の1ページとなっています。
最も関心のあった、谷さんがコーラスグループを作る経緯も、詳細に、そう、まさにご本人だからこその正確さをもって伝えてくれています。創設当時の状況や、その時期のメンバーの変遷なども、今まで断片的にしか知らなかったことが、一気に明らかになった思いです。一つ重要なのは、「先輩」の「ダーク・ダックス」や、「後輩」の「ボニー・ジャックス」たちのように、すでに学生時代に合唱団の中で一緒にやっていたメンバーが集まったわけではなく「ジャズが歌いたい」という人達がプロとして活動していくために集まった団体だ、ということなのではないでしょうか。なによりも「まず基本は練習だ」、という言葉には、長年第一線で活躍してきたグループとしての重みがあります。
折々に語られる谷さんの音楽観にも、納得させられるものがあります。谷さんは、昔からその時々のヒットチャートをしっかりチェックして、デュークの演奏にも取り入れてきていたそうですが、最近の「ラップやヒップホップ」には違和感を抱かずにはいられないとおっしゃっています。それは、日本語を美しく歌い続けることに心を砕いてきた谷さんたちの、切実な思いなのでしょう。
実はまだ、飯野さんに換わる新メンバー、大須賀さんが加わった新生デューク・エイセスの歌声を聴いてはいません。もう75歳にもなった谷さんたちが、また新たにハーモニーを築きあげようとしている勇気を、これから見守っていきたいと思います。そういえば、谷さんは食らいついたら離れない「戌年」生まれでしたに

Book Artwork © Makoto Wada

12月3日

VOGLER
Requiem
Sabine Goetz(Sop), Barbara R. Grabowski(Alt)
Christopf Wittmann(Ten), Rudolf Piernay(Bas)
Gerald Kegelmann/
Chor of the Staatlichen Musikhochschule Mannheim
Kurpfälzisches Kammerorchester
ARTE NOVA/ANO 716630


前回ご紹介したフォーグラーは、なかなかの掘り出し物でした。まさに三大グルメ(それは「フォアグラ」)。あれに味を占めて、もっと他の曲を聴いてみようとCDを集めているところです。そんな中で分かったのは、あのかなりレアな曲である「レクイエム」は、あれが世界初録音というわけではなかったということです。すでに1999年に録音されたものが存在していたのですね。それがこのARTE NOVA盤です。リリースされたのは録音直後、その頃はまだディーター・エームスが社長だったはずですが、程なく彼自身のレーベル「OEHMS」を立ち上げ、スクロヴァチェフスキのブルックナー全集などのアイテムを持って行ってしまったのでしたね。残されたARTE NOVAは、それ以後もBMG傘下のレーベルとして細々と活動していたのでしょうが、BMG自体があんなことになってしまったので、どうなったのか興味があるところでした。
そんな折、この「レクイエム」がまだカタログに生きているのを確認、しかも、2007年にはリイシューもされているということで、早速入手していました。これだったらギリギリ「新譜」でしょう。さらに、ちょっと気になることもありましたし。というのも、例によって他に資料がないので仕方なく頼りにすることになるメーカー(当時はBMGファンハウスでしょうか)のインフォを見てみると、「1777年に作られたレクイエム」などと書いてあるのですから、もしかしたら前回の1806年ごろのレクイエムとは別の作品ではないか、と思ってしまうではありませんか。もちろん、聴いてみればこれは先日のOEHMS盤と全く同じ曲、またしてもメーカー・インフォのデタラメさ加減が再確認されたことになります。
現物のクレジットを見てみると、ロゴマークだけは「ソニーBMG」(つまり、今のソニー)のものですが、レーベル自体はソニーとは別の「アレグロ」とかいうアメリカのメディア会社のものになっているようですね。ソニーからはリストラされたということなのでしょうか。
この「レクイエム」は、マンハイムの音楽文化に多大の貢献をなしたプファルツ選帝候カール・テオドールの没後200年を記念して録音されたものなのだそうです。合唱が、フォーグラーが創設したマンハイムの音楽学校の合唱団と、その由緒の正しさには事欠きません。しかし、演奏そのものはなんともユルいものに終始している、という印象はぬぐえません。冒頭の「Requiem」から、その合唱の、特に男声パートのだらしなさには、思わず笑いがこぼれます。オーケストラもなんだかまるで緊張感のない演奏で、なんとも惹きつけられるものがありません。OEHMS盤はオリジナル楽器のオーケストラでした。木管楽器、特に出だしで聞こえてくるクラリネットの不思議な音色や、とても柔らかなオブリガートを奏でているトラヴェルソだったからこそ、逆にその独自の様式感が光って感じられたものです。しかし、こちらはモダン楽器を用いたアンサンブルのようで、フルートあたりのかなり刺激的な音色は、先にオリジナル楽器の演奏を聴いてしまっているので、なおさら耳障りに聞こえます。
ハイライトともいうべき「Tuba mirum」のトランペットの掛け合いも、せっかくの広い空間を生かした(たぶん)構成が、全く行かされていない、ごく平凡なものに終わっています。エコーとしての「ラッパ」が、たまに聞こえてこないことがあったりするのですから、これは大問題。常に同じ音型が鳴り続いているからこそ、その特異なストラクチャーが明らかになって来るというのに。
おそらく、「世界初録音」という看板に惹かれてこの演奏を先に聴いていたとしたら、先日感じたようなこの曲の「先進性」などは、全く気づくことはなかったことでしょう。ほんと、最初の出会いというのはとても大切なものなのです。

CD Artwork © Allegro Corporation(USA)

12月1日

ABBÉ VOGLER
Requiem
Roswitha Schmelzl(Sop), Dominika Hirschler(Alt)
Michael Mogl(Ten), Wolf Matthias Friedrich(Bas)
Gerd Guglhör/
Orpheus Chor München
Neue Hofkapelle München
OEHMS/OC 922


アベ・フォーグラーという作曲家、ご存じでしょうか。阿部さんではありません。「ABBÉ」というのは名前ではなく、フランス語で聖職者に付ける敬称ですから、「フォーグラー神父」ということになりますね。ヴィヴァルディやリストのように、僧籍を持つ作曲家です。
ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーは、1749年に生まれて1814年に亡くなったといいますから、あのモーツァルトの生涯をすっぽり覆っている、言ってみればモーツァルトの同時代の作曲家です。多岐にわたるジャンルで非常に多くの作品を残した人ですが、現在ではほとんど、というか、全くそれらは知られることはありません。わずかに、「ベートーヴェンが『第9』を作る前に、すでに合唱付きの交響曲を作っていた作曲家」というぐらいの「雑学」のネタに使われることで、名前が知られている程度です(それ自体、かなりマニアック)。マンハイム、ミュンヘン、ダルムシュタットと、ドイツ各地の宮廷楽長を務めただけではなく、世界中を旅してまわりスウェーデンのグスタフ三世の宮廷指揮者を務めたりもしていました。
さらに、作曲家としてだけではなく、音楽理論家としても高名、マンハイムとストックホルムとダルムシュタットには音楽学校まで作ってしまいます。また、オルガンやピアノの演奏も超絶技巧の持ち主で、オルガンでは楽器の制作にまで携わるという、まさにマルチタレントとして大活躍していたのだそうです。なんせ、モーツァルトがその才能を妬んで、彼のテクニックにいちゃもんを付けたと言われているぐらいですからね。
この「レクイエム」は、ミュンヘン時代(1805-6)に作られたものです。1809年にハイドンが亡くなったときに、その葬儀に演奏したかったそうですがそれは叶わず、結局初演されたのは作曲家の死後のことだったそうです。
フォーグラーの作品には、時代を超えた新しさがあると言われていますが、この曲を聴けばそれが実感として納得できることでしょう。この時代の作品にはどんな作曲家が作ったものでも、何かしら同じ時代の「匂い」を感じることが出来るものなのですが、彼の場合には、それが全く当てはまらないのですよ。つまり、その時代の様式にどっぷりつかって曲を作っていたあまたの作曲家(中でも有名なのは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトという人です)とはかけ離れた、まさに彼自身にしか持ち得ない様式、というかテイストを武器に創作活動を行っていた、とは言えないでしょうか。
そんな、まさに「アヴァン・ギャルド」然とした彼の手法は、この曲の中にもてんこ盛りです。最も印象的なのは、なんとも劇的な広がりを見せる「Sequenz」です。その中の「Tuba mirum」で登場するラッパはお約束のアイテムですが、それがフォーグラーの手にかかると、まるで20世紀のミニマル・ミュージックのような雰囲気を醸し出すものに変わります。そもそも。オンステージのトランペットのエコーとして、オフステージにもトランペットを配したというアイディアが、すでにベルリオーズを超えています。そのトランペットは、なんとも単調な三連符のフレーズを、延々と呼び交わすだけ、そこにはモーツァルトが同じ箇所に使ったトロンボーンが持つ優雅なメロディなどは薬にしたくてもありません。
同じように、曲の中に多用されるのが、同じフレーズを何度も繰り返すという「オスティナート」の手法です。3曲から成る「Agnus Dei」では、そのオスティナートがそれぞれに楽器を変えて有機的に現れてくる様を体験出来るはずです。そして、なんと言っても極めつけは曲全体の頭に提示されたテーマが再現される終曲の「Requiem」でしょう。そのテーマが繰り返されるときの大胆な転調は、とても19世紀初頭のものとは思えません。ほんと、この曲にはすべてにわたって、21世紀でも通用するほどの新しさがあります。
カップリングが、いかにも18世紀然としたハイドンの「テ・デウム」、これは、その対比を際立たせるための選曲だったのでしょうか。

CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

11月29日

BACH
Flute Contertos
Magali Mosnier(Fl)
Michael Hofstetter/
Stuttgarter Kammerorchester
SONY/88697527002


タイトルはとりあえず「フルート協奏曲集」としてみましたが、実際は「ヨハン・セバスティアン・バッハによる、フルートとオーケストラのための最も美しいオリジナル作品と、編曲」という長ったらしいものです。それが、ドイツ語とフランス語だけで書かれていて、ライナーノーツもこの2カ国語だけ、本文には英語は全くないという潔い仕様です。ドイツのソニーの制作、アーティストはフランス人なのでこんな感じ、おそらくインターナショナルなマーケット向けではなかったのでしょう。
フルートのマガリ・モニエは、パリの高等音楽院を曲がりなりにも(いえいえ、「首席で」ですよ)1999年に卒業したといいますから、現在は30代半ばでしょうか、すでにお子さんが2人いるそうです。2001年のランパル・フルートコンクールや、2004年のミュンヘン国際音楽コンクールで優勝したという華麗な経歴の持ち主で、2003年からはフランス国立フィルの首席フルート奏者を務めています。
タイトルにある「オリジナル作品」は、この中には「組曲第2番」の「ポロネーズ」と「バディネリ」、そしてカンタータ209番のシンフォニアしかありません。あとはすべて編曲ものです。しかも、ちょっと他では見られないようなユニークな「編曲」ばかり、なにしろ最初に入っているのが、「イタリア協奏曲」なのですからね。もちろん、これはオリジナルはチェンバロ曲、ヘ長調だったものをト長調に直して、新たにソロとオーケストラのためにパートを作り上げた、というものです。確かにアイディアは素晴らしいもので、特に真ん中のゆっくりとした楽章はソロがたっぷりと歌い上げるなかなか美しい仕上がりになっています。
曲が始まるとすぐ気が付くことですが、ソロフルートは全くビブラートをかけないで演奏しています。もちろん、彼女が使っているのは金製のモダン楽器なのですが、あえてバロック時代のトラヴェルソに似せてノン・ビブラートにしているのでしょう。これは、実はフルート奏者にとってはかなり難しいことで、日頃ほとんど無意識に付いてしまっているビブラートを取ることは、逆に想像以上のテクニックを必要とするものです。それだけの努力を払っているにもかかわらず、彼女のフルートからは「バロック」の匂いが全然漂ってこないのは、いったいなぜなのでしょう。特に真ん中のラルゴでは、せっかくの美しい音色まで犠牲にするような無理に抑えた吹き方になっているために、伸びやかさが犠牲になってしまっています。
フルート協奏曲として演奏されることがほぼ定着しているBWV1056のチェンバロ協奏曲(オリジナルはヴァイオリン協奏曲?)でも、事情は同じです。こういう試みは、CDではおそらく1995年のペトリ・アランコ(NAXOS)あたりが最初に行ったのでしょうが、それ以来単にビブラートを取りさえすればオリジナル楽器のような演奏が出来るのだと勘違いしている人は後を絶ちません。彼女もそんな一人、まわりのオーケストラは普通にビブラートをかけてロマンティックなフレージングで演奏しているのですから、そもそもなんにもなりませんし。
最後に入っているマタイ受難曲からのナンバー「Erbarme dich」は、アルトソロのパートを1オクターブ上げてフルートで吹いているのですが、それにからむオブリガートのヴァイオリンはたっぷりのビブラートで朗々と歌っているので、その対比は際立ちます。
しかし、もう1曲、なんとイ長調のフルートソナタをハ長調の協奏曲に作り替えた、というものでは、編曲者が別の人になっていて、オリジナルのトリオ・ソナタ(チェンバロの右手が1声部)の形を生かしてコンチェルト・グロッソ風に仕上げているために、編曲自体はとても楽しめます。
とは言っても、モダン楽器でバッハを演奏することの難しさだけが痛感されるアルバムでした。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

11月27日

ORFF
Carmina Burana
Heidi Elizabeth Meier(Sop), Stefan Adam(Bar)
Jean-Sébastien Stengel(Ten)
大植英次/
Mädchenchor Hannover, Knabenchor Hannover
NDR Radiophilharmonie
RONDEAU/ROP6030


オルフの「カルミナ・ブラーナ」ほど、納得のいく演奏に出会える機会が少ないものもないのではないでしょうか。なにしろ、ソリストや合唱のハードルが異様に高すぎ。すべてに満足のいくメンバーを揃えるのは、至難の業です。まず、ソプラノ・ソロはハイ・ノートを軽々と出せるだけのスキルが求められます。しかし、それは朗々と歌い上げる、というものではなく、そこには清楚さが求められるのですから大変です。力は秘めているものの、あくまでも「清らかな女神」といったイメージでしょうか。そして、1箇所しか出番のないテノール・ソロほど、特異なキャラクターが要求されるものもありません。声の質はテノールというよりはカウンターテナー、さらにオーバーなほどの演技力も持ち合わせていなければなりません。最も出番の多いバリトン・ソロは、さまざまなキャラクターを歌い分けなければいけません。音域も、ファルセットでの高音から低音まで多岐にわたっていますし。そして、いかに芝居っ気を発揮しているときでも、他のパートに合わせるだけのリズム感も持っていなければなりません。
さらに、しっかりとしたグルーヴをもった大規模な混声合唱(特に、重厚な男声パート)と児童合唱、そして、それらを支える多くの打楽器を含むオーケストラと、必要なものは数知れず、そんなすべての要因を満たすような演奏などどこにもないのでは、とさえ思ってしまいます。個人的には、1973年に録音されたアイヒホルンの演奏が、そんな理想にかなり近いようにも思えます。これでソプラノのルチア・ポップがもう少し軽ければ、まさに完璧なのですがね。
大植英次が、1998年から首席指揮者を務めている、ハノーファーの北ドイツ放送フィル(ハンブルクにある「北ドイツ放送交響楽団」とは別の団体)と2008年の5月に行ったコンサートでのライブ録音では、果たして満足のいくものを聴くことは出来るのでしょうか。
まず、合唱のクレジットにちょっと?です。そこにあるのは「ハノーファー少女合唱団」と、「ハノーファー児童合唱団」という記載だけですから、男声パートはないように見えませんか?もしかしたら女声合唱バージョンなのか、と思ったのですが、ブックレットの裏表紙にある写真を見てみたら、ちゃんと大人の男声も演奏に加わっていたようなので、一安心です。しかし、この男声は、いったいどういう素性の人達だったのか、気になりますね。
演奏が始まると、いまどきの解像度の高い「ライブ」録音に比べると、いかにも一昔前のワンポイント録音に近いおおざっぱな録音であるのには、ちょっとがっかりさせられます。そう、さっきのリストからは抜けていましたが、「よい録音」という項目も、この曲には外せないポイントなのですよ。ここでは、バランスが悪いので、合唱が完全にオーケストラに隠れてしまっています。なにしろこの合唱団は、写真で見ると女声は人数だけはたくさんいるようなのですが、なんとも貧弱、なにもしなくても聞こえてくる、というわけにはいきません。男声の方はまずまず力は感じられますが、ライブのことですから最後までコンディションが維持できない、というのが辛いところです。
そんなライブのハンディがもろに演奏にあらわれてしまったのが、バリトンのアダムでしょうか。「酒場にて」あたりではそこそこいい味を出していたというのに、「愛の誘い」になるとなんとも苦しげな歌い方になってしまっていましたね。
大植の指揮は、適度にオーケストラを煽り立てて、高揚感を誘ってはいるのですが、あいにく合唱がそれについて来れなくて(あるいは先走って)空回りに終わっているところが多く見かけられます。そこまでを含めた統率力が、この「ライブ」ではあいにく発揮できなかったということなのでしょうか。怖いですね、奥さんは(それは「ワイフ」)。

CD Artwork © Rondeau Production

おとといのおやぢに会える、か。


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