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便器製造。.... 渋谷塔一

(04/1/1-04/1/19)


1月19日

Songs of Paolo Tosti
Ben Heppner(Ten)
Members of the London Symphony Orchestra
DG/471 557-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1186(国内盤3月24日発売予定)
このところ、SACDがかなりの率で普及し始めています(とりあえずハイブリッド盤が多く、これはこれで問題もありますが。なにしろブキミ・・・それは「ハイレグブリッコ」)。最新録音だけでなく、昔の録音、例えばバーンスタインやカラヤンの音までSACDになっているのが不思議で、オーディオに詳しい友人に訊いたところ、「一つの音に重みと深みを与えたいんですよ」とのこと。思わず納得した記憶があります。今回のヘップナーのトスティは、SACDではありませんが、「音の重み」について、しみじみ考えてしまった1枚と言えましょう。
そもそもトスティと言うと、あまり重要な作曲家というイメージはありません。オペラ全盛の時代に生まれたにもかかわらず、歌曲のみを書いていたせいもあるのでしょうか。声楽家の卵たちの練習曲。(ピアノで言うとチェルニー)歌詞もメロディもただただ甘く、真面目に歌うと気恥ずかしくなる代物。テノール歌手の高音の見せ場のある曲。歌を勉強していた人はみんな口を揃えてこう評します。
最近、トスティを纏めて歌っていたのは、かのボチェッリです。美声を活かした彼の歌は、甘いケーキに更に砂糖を振り掛けた如く甘く、ロマンティックではありましたが、それ以上のものはありませんでした。トスティってやっぱり「サロン音楽なんだな」と感じた記憶があります。
しかし、今回のヘップナーを聴いて、そのイメージは見事に覆りました。何しろ、最初に置かれた「ideale〜理想の人」1曲だけで完全に魅せられてしまいました。夢見るような前奏に導かれ、「Io ti seguii〜」と歌い始める愛する人への賛歌。その前奏を聴いている時、実は私の頭はボチェッリの力強い歌い出しをリプレイしていたのです。しかし、ヘップナーの歌は、全く予想を裏切ったものでした。ボチェッリのように朗々と理想の人を賛美するのではなく、あくまでも柔らかく内省的に、訥々と語るような優しい声。クライマックスで一瞬燃え上がる情熱も痛いほど伝わります。いかにボチェッリの歌が、一本調子であったかもわかってしまうという恐ろしいくらいの感情表現。これはまさにベテランのみに許された高みなのでしょう。そして深い人生経験(これは想像ですし、もちろんボチェッリにそれがないとは言いませんが)、これらがたった4分間にしっかり凝縮された、まさに「理想の人」でした。一つ一つの音に込められたたくさんの思いを聴き取りたくて、この曲だけを何度も何度も聴き返してしまったものです。(最初は軽蔑していた)最後に高く伸ばすEの音がまるで青い空に溶け込むかのように消えていくと、思わず涙がこぼれてきてしまうくらい、ステキな歌でした。

1月17日

SCHUBERT
Sonatinas
David Grimal(Vn)
Valery Afanassiev(Pf)
AEON/AECD0317
最近、メジャーレーベルの力が弱くなったのでしょうか。大物アーティストの名前を、想像もつかないようなCDで見かけることが多くあります。今回のアルバムもそんな一枚。AEONレーベルのアファナシエフです。まあ、何でも売っているジャスコのこと、アファナシエフがいてもおかしくはありません。(あのイオングループとは違うって)
一頃のアファナシエフと言えば、日本コロムビアのDENONレーベルの看板ピアニストでした。だから、国内盤には必ず付いていたあの黄色い帯がお馴染みでした。しかしいつの頃からか、日本コロムビアは、J−クラシカルアーティストなるものの発掘に夢中になり、会社の経営母体も変わって、社名もコロムビアミュージックエンタテインメント、DENONレーベルはいつの間にか消滅してしまいました。名演(奇演?)として知られる「シューベルトの最後の3つのソナタ」は今ではかなり入手困難なアイテムになっています。
そんなアファナシエフ、やはりシューベルトには並々ならぬ愛着があるのでしょう。今回のリリースもシューベルトの作品。ヴァイオリンのためのソナタ(ソナティネ)です。ヴァイオリンを弾いているのは、デヴィッド・グリマール。1973年生まれのまだまだ若手ですが、最近、バッハの無伴奏のライヴ盤もリリースしている注目の人です。そんなグリマールを優しく見守り、音楽的にはぐいぐい引っ張るアファナシエフの演奏、どんなものかは、聴く前から大方の予想がつくというもの。で、実際に聴いてみると、やっぱり予想通り。
シューベルト19歳の作品であるこのソナタ(ソナティネ)は、普通なら若書きの作品と片付けられそうなものですが、そこは天才シューベルト。普通の人の4050歳の作品と言っても良いほどの円熟の作風です。しかし、大方の人の演奏はさらっと軽やか。と、いうかあまり取り上げられることもありません。そんな曲をアファナシエフはいつもの如く、丁寧に丁寧に音を咀嚼していきます。D.385のイ短調は、テーマがベートーヴェンのピアノソナタ第9番の冒頭にそっくり。そのせいでもないでしょうが、全体に、まるでベートーヴェンの作品のような重厚さを与えられ、全く違う曲のような仕上がりになっているのは、まさに「スゴイ」の一言です。D.408の方は、幾分シューベルトらしさが漂う曲想ですが、やはりちょっと気を抜くとベートーヴェンに成り代わるような(これは、本当に変な表現ですが)緊張を孕んだ演奏になっているのがとても面白く、また「なぜ?」と考え込まされるのが、程よい刺激になるのです。
この果てしない緊張感に一筋の光明を見出せるのがグリマールの美しい音色でしょうか。アファナシエフの多大な欲求に見事に応え、なおかつ伸びやかな演奏を聴かせてくれる彼。「この人なら、どんな相手とても上手くやっていけるに違いない」と妙に納得してしまうだけの音楽性を兼ね備えているようです。

1月15日

Ray Conniff's Concert in Stereo
Live at the Sahara/Tahoe
COLLECTABLES/COL-CD-7433
先頃ベスト盤が国内で発売になった、男が好きなレイ・コニフ(それは、ゲイ・コニフ)、最近CDショップをのぞいてみたら、大量の輸入盤があふれかえっているのに、びっくりしてしまいました。これらは、一昨年あたりにアメリカで集中的に復刻されたもので、SONYのサブレーベルであるオールディーズ復刻の専門レーベルCOLLECTABLESからのリリースです。この分野での老舗、RHINOなどと同様、かつて発売されていたLPをまるまる2枚分まとめて1枚のCDに収録するという「2on1」仕様ですから、オリジナルの形をきちんと踏襲して集めることが出来るという、すぐれものです。レイ・コニフが日本で注目されていたのは、1970年代、その時にはおそらく、オリジナルLPの形では発売されてはいなかったはずですから、これはファンにとってはとても貴重なアンソロジーとなることでしょう。とりあえず入手出来たのは8枚、つまりLP16枚分ですが、これだけからでも、彼らがまだそのスタイルを模索していた1957年あたりから、当時のヒット曲を片っ端からカバーしていた1974年のアルバムまでの時系列を、興味深くたどることが出来ます。
そんな中で、唯一のライブアルバムが、この「サハラ・タホ・ライブ」です。サン・フランシスコの北東部の山中、風光明媚なタホ湖周辺のリゾート地が「レイクタホ」、そこにある「サハラ・タホ」というカジノホテルで1969年9月3日に行われたショーの模様が収録されているのが、このアルバムなのです。この時期は、まさに彼らの全盛期、アメリカで圧倒的な人気を誇った彼らのショーがどんなものであったか、窺い知ることができます。それは、オープニングの、トム・ジョーンズのヒット曲「ラブ・ミー・トゥナイト」を聴くだけで、十分に分かるはずです。スタジオ録音と寸分違わぬノリの良いプレイ、サウンド的にも(ポスプロかも知れませんが)スネアドラムのエコーのかけ方などはレイ・コニフ独特の華麗さそのものです。(余談ですが、「♪たまに会えない 日もあるけれど〜♪」という歌い出しの天地真理のヒット曲「ちいさな恋」は、完璧にこの曲のパクリです。)
スタジオ録音では決して聴くことの出来ないディキシーランド・ナンバー(もちろん、レイがトロンボーンを吹いています)とか、お客さんを巻き込んでのシング・アウトも、ライブならではの醍醐味です。お客さんに歌わせるために、「ジョン、最初の音、ちょうだい」と、レイがピアニストのジョン・ガルニエリに指示、それに合わせてお客さんが大声で何回か歌っていると、いつの間にかフルバンドが入ってかっこいいエンディングを決めるという鮮やかな演出は聴きものです。
彼らは1975年に来日、中野サンプラザでのコンサートでは、コーラスはもちろん正規メンバーですが、バンドはリズムとディキシー用のクラリネット奏者だけがオリジナルで、残りは「シャープス・アンド・フラッツ」のメンバーが担当していました。もちろん、きっちり譜面が出来ているものですから、全くなんの問題もなく、このアルバムと同じ構成の「生」を楽しむことが出来ました。そこで、日本人のピアニストにも「ジョン、最初の音〜」と言っていたのは、レイのおおらかさの表れでしょうか。

1月12日

Lieder by Schubert, Mozart, Hüttenbrenner
Sibylla Rubens(Sop)
Irwin Gage(Pf)
HÄNSSLER/CD93.076
シビラ・ルーベンスと聞いて、「ああ、あの人か」とすぐに思い当たるあなた。きっとあなたはかなりのバッハ通ですね。そう、ちょっと前ですが、ヘレヴェッヘの「マタイ」でソプラノ・ソロを歌っていた人です。東京の繁華街がお好きだそうで(それは、シブヤ・・・)。
最近「ソプラノ好き」になっている私としては、とにかく何でもいいから、新譜が出ると買ってしまうのですよ。で、このアルバムもそんな理由で全くの予備知識なしで購入したのです。もちろんその時は名前も思い当たりませんでした。まず聴いてみます。「うん?この歌い方は宗教曲関係の得意な人だな。」とすぐにわかる歌い方。レーベルがHÄNSSLERですから、これはもしかして・・・と思いブックレットを調べてみたら、やはりでしたね。バンゼやオルツェ、シャーデらと同じ、シュトゥットゥガルト・バッハ・アカデミーの出身。そして、調べてみたら、先のマタイでソロを歌っていた人だったというわけです。そして、ついでに言うなら、リリンクの「ロ短調」でも歌ってました。そして、ついでに言うなら・・・・・なんて感じで、いろいろなところで彼女の名前を見つけたのです。これには、「やはり、オペラの得意な人の方が日本では認知度が高いのだな。」なんて妙なところで思い切り感動してしまいましたね。
さてそんな彼女ですが、実は今回、まず以前の録音を聴きなおしてみたら、結構表現が濃いのですね。時として過剰となるくらい。しかし、全体を通しての印象は、そんなに浮いているわけでもないのですから、そこが不思議といえば不思議です。で、今回のアルバムですが、モーツァルト、シューベルト、ヒュッテンブレンナーの歌曲です。シューベルトのアヴェ・マリアも、聞きなれないヒュッテンブレンナーの作品も良かったですが、なんと言ってもモーツァルトの数々の曲が素晴らしいのです。モーツァルトと言えば、先頃バンゼのアルバムが話題になりましたよね。あちらは某評論家が絶賛したことで、記録的な売上になったと聞いていますが、こちらも絶賛してくれないものでしょうか。全く遜色のない出来あがりです。ビブラートを殆ど排した清潔な歌い方、かすかに香るコケティッシュな趣。ただし、バンゼが落ち着いた「夕暮れ」の雰囲気を醸し出しているのに比べ、こちらのルーベンスは、まさに「朝の光」。突き抜けるような美声が直接頭に響きます。
また一人、お気に入りの歌手を見つけて嬉しいおやぢです。

1月11日

LISZT
Années de pèlerinage Première année, Suisse
永岡信幸(Pf)
LIVE NOTES/WWCC-7444
最近、またリストにはまっています。きっかけは御存知の通り、先日のフジコとアラウの聴き比べから。友人と「そういえば詩的で宗教的な調べってCD少ないよね」なんて話をして、NAXOSを2枚買ってもみたり。すっかりリスト漬けの毎日です。
そんな私に、他の友人が「そんなにリストが好きならこれも聴いてください」と渡してくれたのがこれ。発売は少し前ですし、メインは巡礼の年第1年「スイス」。「巡礼の年ならベルマンがあるからなぁ。」と少々躊躇いがちの私に彼が一言。「何言っているんですか。最後の曲を見てくださいよ!」と。・・・・おお!「ノルマの回想」ではないですか。さすが、私の好みをわかっていらっしゃる。
リストの作品中、とりわけ大きなウェイトを占めるのが「パラフレーズ」であることは、私がしつこく取り上げましたからここの読者の方にはお馴染みの事項でしょう。衣類の虫除けには欠かせません(それは「パラゾール」)。その中でも、別格扱いされているのが、この「ノルマの回想」です。以前、ある書籍でヴィルトゥオーゾピアニストへの試金石のような書かれ方をして、一躍有名になった作品で、そこで推薦されていたアムラン盤は、某CD店で異例の売れ行きを示したそうです。もちろん「これが、あのアムランのノルマだ!」とコメント付きでしたが。
ベッリーニのノルマには美しい旋律で満ち溢れています。「清き女神よ」を始め(ただしリストはこのメロディを使っていない)、ドルイド教徒たちの合唱、ノルマとアダルジーサの息詰る二重唱など、さすが稀代のメロディメーカーと言われたベッリーニの最高傑作です。リストはその中から自由にメロディを拾い上げ、彼なりの目も眩むばかりの装飾を加え、まことに聴き応えのある作品として、再構築するわけですが、当然演奏は困難を極めます。そのせいか、リゴレット・パラフレーズほどには取り上げる人がいないのが残念なのです。
このアルバムで、今回この曲に果敢に挑戦したのは、永岡信幸さん。まだまだ日本にはCDを出していない優秀なピアニストがたくさんいるものでして、この方もそんな中の一人。大きなコンクールでの優勝経験はありませんが、そんなことはどうでもいい・・・・と思わせてくれるだけの実力のある人です。実は3年前、私は彼のピアノを実演で聴いていたのでした。と、言うのも、ちょっとした知り合いのロシア歌曲のリサイタルで伴奏されていたのですね。その時は歌ばかり聴いていたので全く記憶にありませんでしたが、今回こうして聴いてみて実にパワー溢れる演奏をする人だなと思ったのでした。何しろタッチが力強いこと。巡礼の年でも「嵐」や「オーベルマンの谷」などは素晴らしい迫力で、なんとも聴き惚れてしましました。反面「ワレンシュタットの湖」や「泉のほとりで」などの“水系”の曲はもう少し繊細さが欲しいかなといったところ。で、ノルマは・・・・なかなか良かったです。アムランのように、目を疑うような上手さとは違ってどっしり積み上げて行くような演奏とでもいいましょうか。とにかく、音になっているだけでも感謝!という曲なので、これで良しとする私です。

1月9日

RACHMANINOV
Piano Concertos Nos. 1&2
Krystian Zimerman(Pf)
小澤征爾/
Boston Symphony Orchestra
DG/459 643-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1182(国内盤 1月28日発売予定)
1年に2枚も3枚もCDを出す人もいれば、20年も正式なリリースをせず、ほとんど海賊盤に近いCDでも、みんな挙って買う!と言う人もいます。(しかし、あの田園は・・・・・)
今回のツィメルマンも、「寡黙の人」というか、「荷物の人」(それは、「詰めるマン」)。前作、あまりにも丁寧なショパンの協奏曲で巷の話題をさらってから、早4年。昨年の秋頃、「ラトルとブラームスを録音したらしい!」との情報が入ってファンが色めき立ったものですが、まさかこんな隠し玉があったとは。
実はこのラフマニノフ、録音されたのは1番が97年、2番が2000年ですから、それほど最近と言うわけでもありません。しかし、既に完成された音楽性を持つツィメルマンのこと、ここでも思わずため息がでてしまう程、美しい音色と歌に満ち溢れた輝かしいラフマニノフを聴かせてくれているのです。まず、有名な第2番。これを聴いて驚かない人がいるでしょうか。何しろ本当に細かいところまで、神経が行き届いています。今まで聴いたことのない音が聴こえてくるのはなぜ?とまで思ってしまったのは、ただただ正確な演奏の所以でしょう。逆に言えば、いかにスコアに書かれている音が多く、それをきちんと表現することが難しいか。これを心から実感です。あまりにも曲が美しいからこそ、そしてどこを切っても、血のにじむような情感が溢れ出してくる曲だからこそ、ある程度のテクニックさえあれば「感性のみで弾ききってしまう」ことも可能な曲なのですね。(もちろん、きちんと指が回るのは最低必須条件ですが)しかし、ツィメルマンは違います。一つ一つの音を心を込めて磨き上げた結果、音色はブリリアントカットのダイヤモンドのように光り、深い輝きを放っているのです。
小澤指揮のボストン交響楽団も、ツィメルマンの要求に完璧に応えています。前作のショパンでは、指揮者を立てることをせず、自ら指揮棒を取ったツィメルマンですが、このラフマニノフでは小澤を信頼しきっている様子。特に緩除楽章が素晴らしく、例えば2番のあの「フルート・ソロとピアノが絡む」部分など、冬空に震えながら輝く、たくさんの星を見上げるような、一種厳格な気分になるほどです。
あまり聴かれる機会の多くない第1番も、この盤でメジャーになるのではないでしょうか。
たくさんの人が、新譜のリリースを待っていて、「出た!」と訊くと大挙してCD店に押しかけるアーティスト。やはり完成度の高い、「聴いてよかった」と思わせるだけのもので魅了してくれるのだな、と嬉しくなりました。

1月8日

Opera Arias
Torsten Kerl(Ten)
Ivan Anguélov/
Slovak Radio Symphony Orchestra
OEHMS/OC 320
新年恒例、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは滞りなく終了、今年も1月15日頃には、この辺境の地日本でも、そのライブ盤がCDショップの店頭を賑わすことでしょう。「どうせCDで聴けるから」と、私は放映を見ませんでしたが、話によると、ムーティの指揮は至極真っ当な安全運転。昨年のアーノンクールのように、買おうと思った人が思わず手を引っ込めることもなく、一昨年の小澤のように、爆発的な売れ行きを記録することもないのでしょうね。
その小澤です。2004年のウィーン国立歌劇場のプレミエ公演(昨年の12月に初日を迎えました)に登場。「さまよえるオランダ人」の指揮を執りました。しかし、不出来な演出も手伝って(最後にゼンタが焼身自殺をするのだとか)、かなり大きなブーイングを浴びてしまっておざわぎ(大騒ぎ)だったのだそうです。もちろん観客の中には大勢の日本人もいたのでしょうが、彼らがどんなに身びいきをしたとしても、やはり指揮そのものも不出来だったのでしょうね。起死回生のチャンスがあればよいのですが。
前置きが長くなりました。今回のアリア集を歌っている、トルステン・ケルルは、その「オランダ人」でエリックを歌っていたとのことです。もう少し待てばもっと多くの情報が手に入るでしょうが、今のところはとりあえずこのCDで才能の片鱗を確認しようではありませんか。彼は、すでにドイツではかなりの人気者。HPも充実しています。いつも言われるように、本格的テノールの人材不足は世界的。イタリア系の人は、若干育ってきていますが、ドイツ物、特にヘルデン・テノールには「これ!」と言った人はいないように思うのです。このアルバムでは、ベートーヴェン、ウェーバー、ワーグナー、コルンゴルトというドイツ伝統の曲を歌っているのですが、やっぱり大満足の域までは達していませんね。どの曲も一本調子で、「これでいいのかな?」と思うこともしばしば。その上、オケの音が少々貧弱です。
しかし、それを超えた期待感があるのも確かです。テノールとは言え、かなり重みのある声でパワーもたっぷり。しっかり根を張って、歌い手としての気質を磨き上げていく、そんな印象を持ちました。何より、ジャケ写で見られるこの人懐こい笑顔、まるであの「キャッツ」のキャラクターのようなマスク。何となく応援したくなる表情です。そんな理由もありかな。と思ったのでした。

1月6日

"A LEAF"
Beatles Piano Transcriptions
岡城千歳(Pf)
CHÂTEAU/C10002
PRO PIANOレーベルから9枚のアルバムをリリースした後、自分自身のレーベルCHÂTEAU(「城」、でしょうね)を立ち上げた岡城の、そのレーベルでの第2作となるのが、これです。前作では、ブルーノ・ワルターが4手用に編曲したマーラーの「巨人」を一人で弾くという快挙を成し遂げた彼女が、次に取り上げたのがビートルズ、そのアイディアというか、旺盛なチャレンジ精神には誰しも脱帽せざるを得ないことでしょう。
もっとも、ビートルズをクラシックの作曲家がアレンジしたものを演奏するというコンセプト自体は、以前からもあったものです。中でも、80年代後期に現代音楽のオーソリティ高橋アキが世界中の47人の現代作曲家に委嘱した「ハイパー・ビートルズ」というプロジェクトは、質、量ともに画期的なものとして、今も語り継がれています。害虫も駆除しますし(それは「ワイパー・エースゾル」)。
実は、今回の岡城の企画も、この「ハイパー・ビートルズ」が下敷きとしてあったもの。先達高橋へのオマージュといった意味も込められているのでしょう、全8曲の収録曲のうち、4曲が「ハイパー〜」からの曲となっています。残りの4曲のうち2曲は、岡城の兄岡城一三によるビートルズナンバーの編曲、そして、残りの2曲はビートルズには全く関係のない曲となっています。とは言っても、タイトル・ナンバーの「A Leaf」は、ビートルズのメンバーであったポール・マッカートニーの作品ですから、「関係のない」わけはないのですが、なぜかここからは「ビートルズ」の姿が全く浮かんでこないため、そんな決めつけも甘んじて受け入れるしかないのでしょう。これは、ポールが「クラシックの作曲家」になりたいと望んでいた時期の作品。ポップ・ミュージックの作家として、誰にもなしえなかった偉業を達成したのですから、何もそれ以上のものを望むことはないと考えるのは、凡人の浅はかさなのでしょうか。しかし、あの「リヴァプール・オラトリオ」を聴けば分かるとおり、ポールの才能はメロディ・メーカーとして、ポップ・ミュージックの世界でこそ十二分に発揮出来るものですから、この路線はどう見ても中途半端なものであることは明白です。この作品に至っては、そのメロディの美しさすらも見られない、いたずらにドビュッシーなどの技法を導入したつまらないものになっています。
「ハイパー〜」にしても、この岡城のアルバムにしても、ビートルズをポップ・ミュージックとしてとらえるか否かという点で、大きく明暗が分かれてしまうことでしょう。そう言う意味での最大の失敗作が、坂本龍一の「Aki 2.2」。タイトルからしていかにも思わせぶりな、「プリペアド」とか「インサイド」といった「現代技法」の粋を尽くした作品ですが、そこからは作曲家の独りよがりな押しつけがましさは感じられても、ビートルズが発していたはずのメッセージを受け取ることは全く不可能です。
モンク・フェルドマンが素直にアレンジした「ミッシェル」と並べて収録した時点で、従って、このアルバムもコンセプトの定まらない失敗作となってしまっていたのです。

1月3日

PENDERECKI
Utrenya,The Entombment of Christ
Eugine Ormandy/
The Philadelphia Orchestra
Temple University Choirs
BMG
ファンハウス/BVCC-38303
オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団というコンビ、60年代末期まではCBS(米コロンビア)の看板アーティストとして、膨大な量のレコーディングを残していました。それが、1968年に競争会社RCAに移籍した時には、それまでのいかにもクリアで分離の良いCBSの音になれていたファンは、少なからぬとまどいを感じたものです。RCAの音は、いかにも鈍い、ぼやけた音だったのです。そのせいでもないのでしょうが、70年代いっぱい続いたRCAでの録音は、どうもあまり注目されなかったような気がするのは、私だけでしょうか。今回、日本のBMGからまとめてリリースされたこのコンビのCD、そのほとんどが「初CD化」であるのも、本家のRCAでさえいかにCD化に消極的、言ってみればカタログ的に見放していたかがうかがい知れようというものです。
しかし、そんな、あまり売れ筋ではないようなものまで、きちんとCDにしようとしている日本のメーカーの姿勢には、頭が下がります。そのお陰で、こんな珍しい、まるで宝物のようなアルバムが簡単に手にはいるようになったのですから。
私同様、ペンデレツキという名前を聞いて、「オーマンディ」ブランドとのあまりの隔たりの大きさに、一瞬信じられない思いに駆られる人は、多いことでしょう。しかし、この同じシリーズに含まれるショスタコーヴィチの後期の交響曲などは、実はオーマンディが(当時の)西側では最初に演奏、そして録音を行ったのだと知れば、それほどの違和感はなくなるのではないでしょうか(「15番」の日本初演が、このコンビです)。古今の有名なオーケストラのレパートリーを、華麗に、しかし、あくまで節度を踏み外すことなく穏健に演奏することが身上だと思われているオーマンディ、しかし、彼は、同時代の最新の音楽にも確かな目を向けていたのです。
そもそも、この、1970年に作られた「ウトレンニャ・キリストの埋葬」という曲は、オーマンディその人に献呈されたもの。アメリカ初演のあと、直ちに録音(もちろん、世界初録音)されたものが、ここで聴けるものです。その5年前に作られ、世界的なセンセーションを巻き起こした「ルカ受難曲」の、いわば続編と位置づけられるかのような、合唱、ソリスト、オーケストラのための宗教作品です。「ルカ」で見られた刺激的な作曲技法は、ここではさらに磨きがかけられ、とてつもない昂揚力を産むものとなっています。特に、合唱パートにおけるクラスターとか、ほとんど音をきちんと指定していない、いわば「不確実性」の要素の勝った部分での表現には、それまでの音楽が決して持つことのなかった、真の意味で新しい「力」を感じることが出来ます。オーマンディをして演奏するに足ると思わしめたその「力」、しかし、いかなる理由からか、その数年後には作曲家自らがそれを放棄してしまうのですから、こんな残念なことはありません。この録音からは、そんな、ある時期に確かに存在していたはずの音楽を懐かしむだけではない、確かなメッセージを受け取ることが出来るはずです。

2004年1月1日

HAYDN
Die Schöpfung
Dorothea Röschmann(Sop)
Michael Schade(Ten)
Christian Gerhaher(Bar)
Nikolaus Harnoncourt/
Concentus Musicus Wien, Arnord Schönberg Chor
DHM/82876 58340 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCD-34016/7 (国内盤 1月28日発売予定)
さて、2004年の幕開けです。「今年こそ良い年になりますように」との思いを込めて取っておきの1枚。アーノンクールの「天地創造」です。あの金壷眼で世界の端から端まで見渡してもらえれば、少しはこの軋んだ世界も良くなるのではないでしょうか。
この曲は、DHMから以前ヘンゲルブロックの名演がリリースされていますね。こちらがリリースされた2002年半ばの時点では、オリジナル楽器による天地創造は恐らく8種類とのことでした。(そうすると今作のアーノンクールが9作目にあたるでしょう)そのヘンゲルブロック盤、天使ガブリエルを歌ったソプラノ、ジモーヌ・ケルメスばかりが気になって他はきちんと聴いていなかった記憶があり、今回もう一度ひっぱり出して聴きなおしてみました。もちろん、我がアーノンクールと聴き比べをしながらです。
聴く前は、コンチェントゥス・ムジクムの方が刺激的な音だろうな、と確信を持っていたのですが、実はそうでもなかったことが少々驚きでした。そして、良く言われるような「アーノンクールは作為的」という評価も改めて取り下げて欲しいな、と強く感じたのでもありました。何しろ自由度の面では、ヘンゲルブロックの方がはるかに高かったのですから。各曲のコントラストをはっきり取って、曲ごとの性格を際立たせているのはヘンゲルブロック。それに対して、アーノンクールは極めて厳格。細かいリズムまでしっかり管理して、三連符のひとつたりとも崩れることがありません。極めて荘厳で、きっちりとした音楽のみで構成されていたのです。
本来なら5人に振り分けるソロも、アーノンクールは3人で担当させています。その3人というのが、レシュマン、シャーデ、ゲルハーエルという、現在最高の人たちばかり。中でも私が個人的に注目しているゲルハーエルの素晴らしさといったら言葉に尽くせません。マスターお気に入りのレシュマンも素晴らしいです。例えば第5日目、水中生物と鳥類の誕生の場面。ここらへんになってくると曲も盛り上がり、創造主も大変です。どんどん生き物の数が増えてきます。音楽も色彩に溢れたもので、中でもこのアリアは技巧を駆使した華やかなもの。大空を高く舞う鷲の描写など、本当にため息がでるほど素晴らしいのですが、レシュマンは期待通りの歌を聴かせてくれました。そして、6日目でアダムとイヴが出来上がり。彼らに「知恵の実を食べるなよ」と忠告する場面で、この一大絵巻は幕を閉じます。しかしながら、もし、本当にアーノンクールが創造主だったら、アダムとイヴは恐くなって一生知恵の実には手を出さなかったかもしれませんよ。そうしたら私たちの生活ももっと変わっていたかも知れませんね。そんなことを想像しゅるのも、楽しいものです。

去年のおやぢに会える、か。


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