TopPage


普段のシャツ。.... 渋谷塔一

(02/5/7-02/5/27)


5月27日

CAGE/Three Dances
REICH/Four Organs
Michael Tilson Thomas(Pf, E.Org)
Ralph Grierson(Pf, E.Org)
Roger Kellaway(E.Org)
Steve Reich(E.Org)
ANGEL/7243 567691 2
70年代初頭、30年も前の録音ですが、初CD化ということで、取り上げてみました。実は、ジャケがとっても懐かしかったもので。
レーベルが「ANGEL」となっていますが、これも懐かしい「エンジェル・レコード」、日本でもちょっと前までは「東芝エンジェル」という名前でEMIの商品がリリースされていたものですが、今では見かけることはありません。しかし、アメリカではアメリカのEMIである「CAPITOL」のクラシック・レーベルとして、「ANGEL」はいまだに健在なのです。EMIの傘下にあり、ワールドリリースではきちんと「EMI」を使っているものの、このように自前で製作したものには、堂々と「ANGEL」マークを入れているあたりが、キャピトルとしてのこだわりなのでしょう。
このCDも、EMI=イギリスから連想される雰囲気とはちょっと違う、いかにもANGELCAPITOL=ハリウッドといった、西海岸の乾いた風が似合うものです。もともとは2枚のLPだったものをCD1枚に収録したお特用盤、私のお目当ては、もちろん、このジャケットのオリジナルのカップリング、ケージとライヒです。おいしそうですね(プリン、ケーキ、ライス)。
ジャケ写はスティーヴ・ライヒの「フォー・オルガンズ」のセッション。右側にいるのが作曲者のライヒ、その向かい側にはジャズピアニストのロジャー・ケラウェイなどという、すごいメンバーです。この曲は初期の様式の作品で、小さなモチーフを繰り返していくうちに次第に形が変わっていくという、まるでエッシャーの「メタモルフォーゼン」のような不思議な世界を音で描いたものです。マラカスが刻む不変のリズムの上を、4人のキーボードが淡々といつ果てるとも知れない音の断片を弾き続けます。何回か繰り返すうちに、いつの間にか音が増えていたり、リズムが変わっていたり、まるで、自然の風景の変化の一部分だけを切り取ってきたかのようなたたずまい。ひょっとしたら、これは「癒し」の効果も期待できそうで、そろそろネタ切れになってきたヒーリング業界に、うってつけなのでは。「ミニマル・エヴァー!」とか。
ジョン・ケージの「3つのダンス」は、2台のプリペアド・ピアノのための作品。これは、ケージが期待したように、まるで数多くの打楽器のアンサンブルように聴こえてきます。とても2人で演奏しているとは思えないほどの多彩な音色、言ってみれば、現代のデジタル楽器のさきがけでしょう。
さらに、もう1枚のLPに入っていたのが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の、作曲者自身による2台ピアノヴァージョンです。最近ファジル・サイの多重録音のCD(TELDEC/編曲はサイ自身)が話題になりましたが、MTTとラルフ・グリアソンは、あのようなほとんどイッてる演奏とは対極の、醒めたスマートな世界を繰り広げています。その結果、ケージ、ライヒとカップリングされても何の違和感も感じられないものになっているのは、あるいはストラヴィンスキーにとっては不本意なことなのかも知れませんが。

5月25日

DVORAK
Serenades
Myung-Whun Chung/
Wiener Philharmoniker
DG/471 613-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1098(国内盤)
このところ、良いアルバムが次々とリリースされるおかげで、相変わらずドヴォルジャークにはまっています。
今回は、彼の若い頃の作品の「セレナーデ」、弦楽セレナーデと管楽セレナーデの2曲です。「弦楽セレナーデ」と言うと、まず殆どの人が、「おお人事、おお人事」を思い浮かべるのではないでしょうか?あちらはチャイコフスキーの弦楽セレナーデですが、印象的なコマーシャルのおかげで、使われた曲までもが多くの人に知れ渡ったと言うわけですね。曲名を知らない人でも、冒頭の弦のユニゾンを聴いただけで「ああ、あれね」と頷きあう・・・・ほど人口に膾炙した名曲です。もはや、あの曲を聴いて「コレナーニ」という人はいないことでしょう。
こちらのドヴォルジャークの弦セレは、チャイコフスキーほどには知られていないのが実情です。しかし、いかにも彼らしく、美しく哀愁の漂う旋律は聴く人の心を必ずや捉えるに違いありません。
今回の演奏は、あの大物指揮者チョン・ミョンフンがウィーン・フィルを指揮したと言うもの。すでにDGに「3、7番」と「6、8番」を録音しているチョン・ミョンフン。その上、この弦セレは、昔、他のオーケストラと録音した過去もある程、ドヴォルジャーク好きである事は有名なのです。
今回のセレナーデですが、とにかく音色が美しい!ウィーン・フィルの独特の弦の音を充分に活かし、曲の冒頭から「これでもか!」とばかりの美音で迫ってきます。(忠告:指揮しているチョン・ミョンフンの顔を想像するのはやめましょう)チャイコフスキーのような毅然とした風景でなく、もっと甘やかな懐かしい風景。交響曲第7番の第2楽章や、第8番の第3楽章にも通じるそこはかとない郷愁を、チョン・ミョンフンは余す事なく表現しているように思います。特に第2楽章のワルツのロマンティックなことといったら、言葉では言い尽くせません。
口の悪い友人は「この曲に指揮者がいるのか?」と言ってましたが、ある意味クセの強いウィーン・フィルから、こんなにも均一な響きを紡ぎだす事は、やはり並大抵な作業ではないはず。昔8番を聴いたときは、オケに指揮者が負けているかな?と思える部分もあったのですが、今回は完全に溶け合った見事な演奏です。
弦セレだけでなく、管セレも良いです。こちらもウィーン・フィルの独特の音を充分に堪能できます。特にホルンの響きは、ちょっと聴いただけでも陶然となること請け合いです。

5月23日

LIGETI
Atmosphères etc.
Jonathan Nott/
Berliner Philharmoniker
TELDEC/8573-88261-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11281(国内盤)
SONYからTELDECに移行したリゲティ全集の第2巻が出ました。今回はオーケストラ曲。有名な「アトモスフェール」を始め、「ロンターノ」や「サンフランシスコ・ポリフォニー」といった定番(どこが!)に加えて、1950年代の作品、「アパリシオン」と「ルーマニア協奏曲」の世界初録音という、超豪華なラインナップです。
演奏は、ジョナサン・ノット指揮のベルリン・フィル。ノットという指揮者、おそらくご存知ない方が多いことでしょうが(私も初めて知りました。アイ・ハブ・ノット・ノウン・イェット。)、2000年から例の「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の音楽監督を務めている、いわば現代音楽のオーソリティーです。1962年イギリス生まれといいますから、まだまだ若い指揮者ですが、同じ2000年にはバンベルク交響楽団の首席指揮者にも就任、そして、2001年の12月に、ベルリン・フィルの定期演奏会にデビュー、その時録音されたものが、このCDです。
さて、「アトモスフェール」といえば、キューブリックの2001年」という連想でイメージが固まってしまっているのは致し方のないことですが、実は、あの映画に使われていたこの曲には、かなり手が加えられているのです。映像が必要とするサウンドを満たすために、相当の量のSE(爆発音とかスウィープ音)が添加されて、ちょっと「くさい」ものに変えられています。従って、そもそもこの曲からあの映画の場面のような激しいイメージを抱くというのは、とても危険なことなのです。このノットの録音は、そんなことを強く再確認させられるような繊細なもの。刻一刻変化する音色をいとおしく味わいたくなるような、素晴らしい演奏です。ベルリン・フィルの厚みのある音色が、これほどリゲティの音楽に合致していたとは、新鮮な驚きでした。
初録音の、まだルーマニア民謡を収集してそれをもとに曲を作っていた頃の作品「ルーマニア協奏曲」は、彼の後の作風を知る上で大変興味深いものです。このままで行ったら、一生ローカルな作曲家で終わってしまっていたかもしれないと思わせられるような、素朴な作風、しかし、とてつもなく難しい(ベルリン・フィルの名人芸で、難なくクリア)最後の楽章には、明らかにその後のリゲティの萌芽が見られます。
興味があって、このセッションの前後のベルリン・フィルのスケジュールを調べて見たのですが、12月1日に、アバドの指揮で「パルジファル」を演奏会形式でやった後、6、7、8日の定期ではチョン・ミョンフンの指揮でヘンツェの交響曲第8番とマーラーの「巨人」、そして、131415日が、ノットとの定期という、ものすごいものでした。定期で取り上げたのが「ロンターノ」、「アトモスフェール」と「サンフランシスコ〜」(メインは「ツァラ」)、その他に、16日のセッションで残りの「世界初録音」をこなしてしまうのですから、とてつもないハードな仕事をやっているわけです。その結果が、こんな充実したアルバム、このオーケストラの底知れぬ能力には、圧倒されずにはいられません。

5月21日

MOZART
Piano Concertos No.13, No.22
Cyprien Katzaris(Pf)
Yoon K. Lee/
Saltzburger Kammerphilharmonie
PIANO21/21009
以前もご紹介した、シプリアン・カツァリスの新しいCDです。「本当に弾きたい物を弾くため自らレーベルを立ち上げた」カツァリス、菜食主義者としても知られています(それはヴェジタリアン)。今回は6点ほどリリースされましたが、どれもが興味深く、またやりたい放題なのはいつもの通りですね。とても全部には付き合いきれないので、比較的まともなモーツァルトのピアノ協奏曲から聴いてみましょう。
彼の演奏はどれもそうなのですが、何もないところから旋律を作り出すこと・・・。これがいつ聴いても不思議なのです。もちろん何もない訳ではないのです。楽譜にはきちんと書かれている音のみ。しかし思いもかけないところで音と音が結ばれて、聴いた事もないメロディが耳を打つ。あまりにも作為的と取る人もいますが、これは彼の個性でしょう。
今回の第13番と22番の協奏曲も、地味目な曲ながら聴き応えのある楽しい演奏です。まず13番ハ長調。冒頭の弾むような軽快なテーマに耳を奪われます。ソウル生まれの指揮者、ユン・クック・リーはあのシャンドール・ヴェーグやアーノンクールなどに師事、モーツァルトを得意とする人でして、なかなかオシャレな音楽を聴かせてくれますね。重苦しくなく、かと言って軽々しくなく、あくまでもカツァリスのピアノを引き立てながらも、締めるところは締める。そんな冷静なサポートです。さて、カツァリス。こちらの曲は意外にまとも(失礼!)に演奏しているようです。1楽章と2楽章に置かれたカデンツァも、モーツァルト自身の物を使うという、彼にしては珍しいアプローチ。彼らしい「やりたい放題」を期待するとちょっと肩透かしを食うかもしれません。3楽章はちょっと気持ちが先行しているのかな?と思わせるような始まり方ですが、これは、いかにもモーツァルトのロンドらしい、「後から後から湧き出るような」音楽に同化してしまったのかもしれません。
さて、第22番です。こちらはカツァリスの面目躍如。この曲は、以前ブレンデルの透明な美しい演奏を誉めたことがありましたっけ。あちらとは随分違う、何とも遊び心溢れた演奏です。随所にカツァリスの工夫が聞き取れますが、何といっても注目はカデンツァでしょう。自ら作曲家を自認する彼らしい、面白いカデンツァが都合2種類ずつ聴けるというお徳用盤(?)何しろアンコールで、第1楽章と、第3楽章のカデンツァの別ヴァージョンを弾きこなしているのです。それこそ何でもありで、いつのまにかベートーヴェンになってしまったり、ドビュッシーになってしまったり。実は、過去にも同じような事をしている人が何人もいますが、やっぱりカツァリスの遊び心はピカイチです。

5月19日

AUVERGNE CHANTS
Elysium
Peter Wolf/
Vienna Radio Symphony Orchestra
DECCA/466 963-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCL-1040(国内盤)
「エリジウム」というヴォーカルグループのデビュー・アルバムです。「Elysium」という単語、どこかで聞いたことがあると思ったら、「Tochter aus Elysium」でしたね。そう、その前に、「Freude, schöner Götterfunken」と入れば、合唱好きの人にはすぐ分かるはず。ベートーヴェンの「第九」の合唱の最初に出てくる歌詞ですね。で、ここは「堀内敬三」の訳詞だと「歓喜よ、神の火、天津乙女よ」ですから、「エリジウム」は「天津(あまつと読みます。天津甘栗ではありません)」に相当することになります。もっとも、この訳詞は無理やり文語体に当てはめた意訳ですから、正確には「天」というよりは、「理想郷」という意味に近いものなのでしょうが。
しかし、このジャケ写を見てみると、彼女達はいかにも「天津乙女=天女」のように見えてくるから、不思議です。もともとこの4人の天女たちは、中世の音楽を演奏するためにこのグループを結成したのですが、ここで取り上げたものは「オーヴェルニュの歌」、そう、フランス近代の作曲家マリー・ジョセフ・カントルーブの作品でお馴染みの、あの曲です。もっとも、これはカントルーブがフランスのオーヴェルニュ地方に伝わる民謡、それこそ中世あたりから脈々と歌い継がれてきた伝承歌を採譜して編曲したものですから、中世プロパーの彼女達が歌ってもいけないことは何もないのです。しかも、ここでは、カントルーブのメロディーは使っても、アレンジは全く新規になされたもの、さらに、全15曲のうち8曲はカントルーブに由来していますが、残りは別の人(J・B・ブイエ)、が集めたものが使われています。言ってみれば、素材としての「オーヴェルニュ」を、現代的な手法で再構築したものとなっています。
その、新しいアレンジを託されたのが、クレイグ・レオンという人。ちょっと前に「Izzy」というアーティストを一躍スターにしたプロデューサーですが、主なフィールドはクラッシックというよりはロック方面でしょう。ブロンディとかバングルス、さらに日本の「少年ナイフ」なども手がけているという大御所です。このアルバムでの彼の編曲のポイントは、時代を超えた要素の融合でしょうか。いかにも中世的なテイストを感じさせられるドローンを受け持つのは、ストリングス系のシンセ。そこに、ほとんどミニマルといってよいパターンの反復が、あるときは生のハープで、あるときはチェンバロのサンプリング音で加わります。さらに、ウィーン放送交響楽団(そんなのあったっけ?)のメンバーによる、ビブラートたっぷりのロマンティックなフルートやコールアングレが入ってくれば、もはや時代を特定することなど不可能な甘ったるい「癒し」のサウンドです。エリジウムの天女たちの歌声は、そんなオケの中で、時に清楚に、時になまめかしく響き渡ります。ここでは、ハーモニーの乱れなど気にせぬふりをしてゴージャスな音の海に浸りきるのが、現代人の正しい「オーヴェルニュ」の聴きかたというものなってくるのです。

5月17日

MOZART
Requiem
Jos van Veldhoven/
Soloists, Choir and Orchestra of The Netherlands Bach Society
CHANNEL CLASSICS/CCS 18198
モーツァルトのレクイエムに、さまざまな「版」が存在しているのは、このサイトの常連でしたら先刻ご承知のことでしょう(一見さんのあなたには、こちらをご覧になることをおすすめします)。ひところは、多くの人の手によって、数多くの「版」が発表されていたものですが、このところは、新しいものの登場は一段落したようですね。大きな流れとしては、いろいろやってみたけれど結局スタート地点である「ジュスマイヤー版」にまた戻ってきた、そんなところなのかもしれません。
と思って、油断をしていたら、突然聞いたこともない版による演奏のCDが出たので、びっくりしてしまいました。それは、「フロスワス版」というもの、体が温まるような名前ですが(「風呂吸わす」・・・)こんなものはJP名物の「モーツァルトのレクイエム」にはなかったはず。しかし、あのページをよく読んでみると、「出版されていないもの」ということで、ちゃんと「Marius Flothuis」の名前が載っていましたね。この綴りで「フロスワス」と読むのですから、人の名前というのは・・・。
細かいことは、そのページを見ていただくとして、このフロスワス版、作られたのが1941年といいますから、バイヤーなどよりずっと昔に、ジュスマイヤー版の問題点に気付いていた人がいたということになりますね。というか、このフロスワスさん、実は、2001年に録音されたこのCDにライナーノーツを執筆していたりしているのです。それで、亡くなったのが2001年。おそらく、この録音にも立ち会っていたことでしょう。はからずも、ファン・フェルトホーフェンは、フロスワスを悼むために、彼の校訂によるレクイエムを録音したという、何か因縁めいたことが起ってしまったのです。
そんなことを考えたかどうかは分かりませんが、この演奏はなにか集中力に乏しい、大雑把なものになっています。「Kyrie」のフーガなど、レガートでひたすら柔らかく歌われますが、この曲が求めている表現からはちょっと遠いものがあります。
オーケストラはオリジナル楽器を使用。もともとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団という近代オーケストラのために作られた版で、おもに「コラ・パルテ」のトロンボーンをカットしたというのがフロスワスの仕事です。朗々としたモダン・トロンボーンを重ねてしまうと、ちょっと合唱が聴こえにくくなってしまうのを防ぐという配慮なのでしょう。しかし、オリジナル楽器の響きは、合唱をそんなに邪魔しない柔らかなものですから(これは、最近のオリジナル楽器によるジュスマイヤー版の演奏を聴けばよく分かります)、これを除いてしまうと、逆に物足りない点が出てきます。
結局、非常に珍しい版を実際に演奏して録音したということが、このCDの最大の功績なのでしょう。

5月15日

MARIMBA VIRTUOSO
神谷百子(Mar)
ユニバーサル・ミュージック/UCCP-1057(5月22日発売予定)
マリンバや打楽器を演奏する女性というのは、どうしてあんなに美しいのか考えてみたことはありまりんば?私が初めてそのことを意識させられたのは、ちょっと前になりますが、吉原すみれの演奏を見たとき。おびただしい数の木片と長さの違う金属のチューブを備えた、マリンバという巨大な楽器を操るだけでなく、そのまわりにさまざまな材質、大きさの何十個という打楽器をはべらせ、それらの間をめまぐるしく動き回る様には、まるで野生動物のように人を寄せ付けないものがありました。しかし、そんな険しさとはうらはらに、一人のたぐいまれな美貌を持つ女性の姿も、そこにはあったのでした。超絶技巧とその容姿との間の落差に、ある種の戸惑いを抱いてしまった感受性豊かな少年の脳内には、かくして、「マリンバ奏者=美しい女性」という刷り込みが形成されてしまったのでした。
それから何年たったことでしょう。最近私の前に現われた一人のマリンビストによって、はるか昔に封印したはずの意識が蘇ってしまったのです。その人の名は神谷百子、数々のコンクールでの入賞歴に見られる卓越したテクニック、音楽性と、とびきり美しい容姿をあわせ持つという女性との出会いです。
彼女の5枚目となるアルバム「マリンバ・ヴィルトゥオーソ」は、彼女が今までのリサイタルなどで現代の作曲家に委嘱した作品がメインになっています。そこからは、それぞれの作曲家の世代や作風によって、出来上がったものが極めて多様なキャラクターを見せているのを聴き取ることができます。若い世代の三宅一徳の「Chain」は、ミニマル風な始まりを見せますが、やがて心地よいスウィング感に支配される聴きやすいもの。さらに若い村松崇継の「Land」では、メロディアスなテーマが前面に出てきて、これらを聴くと最近の潮流が「親しみやすい」音楽であるという認識を新たにせざるを得ません。一方、現代音楽界の大御所一柳慧の作品では、エンタテインメントとは一線を画した作風に圧倒されます。「内なる聲」での精緻な変奏技法、「源流」で見られる、どこか弾けきれないリズム処理。しかし、神谷の演奏からは難解さとは無縁な、ひたすらリズミカルな躍動を感じとることができます。さらに、ジョン・スローワーの「4132」というヴォーカルの入った曲は、特定の語法にこだわらないおおらかな響きの中から、見晴らしのよい風景が広がってきます。また、ギター・デュオがオリジナルの形のアストル・ピアソラの「タンゴ組曲」からは、一度聴けば忘れられない特徴的なハーモニーと心地よいリズムが漂ってくることでしょう。
神谷の持ち味は抜群のリズム感のよさ。この天性の感覚は、完璧なテクニックに裏付けされて、小気味よいグルーヴ感となって、私達を魅了します。もちろん、ヴィジュアル的に魅了されるのは、言うまでもありません。

5月12日

DVORAK
Symphonies No.4 & No.8
Zdenek Mácal/
Czech Philharmonic Orchestra
EXTON/OVCL-00078
(5月22日発売予定)
このところのマイブーム、それはドヴォルジャーク。原稿には挙げなかったものの、弦楽五重奏(ラルキブデッリ)に涙したり、今更フレミングのルサルカを聴き込んでみたり。それに拍車を掛けたのが先日のアンゲロフの6番と言うわけで。
今回はもう少し遡って4番をメインに聴いてみました。この曲は1874年の作品で、この頃の彼はとりあえず教会のオルガニストとして1人立ちはしたものの、まだまだ安定とは程遠い生活でした。創作活動に打ち込むために、オーストリア政府の設けた奨学金を得ようと書き上げた作品の中の一つです。なかなか面白い曲でして、どこもかしこも意欲的な旋律で溢れかえってます。第3番までのワーグナー的な作風から一皮向けた、彼独自のロマンティックな面も見られ聴き所も多い曲といえましょう。特に第3楽章。この6/4拍子のスケルツォの何と印象的なことでしょう。わくわくするような前奏に続き奏されるテーマは、まるで一時期流行した特撮ヒーロー物のテーマ曲のようなカッコよさです。
演奏は、アシュケナージの後任として2003年からチェコ・フィルの音楽監督に就任する予定のズデニェク・マーツァルです(チェコ人ですが、アメリカに帰化したため、「マカール」とも表記されます)。あまり日本では馴染みのない指揮者ではありますが、81年にはN響に客演したり、92年にはミルウォーキー交響楽団を率いて来日している人ですから、実績の面では申し分ありません。チョコ・フィルといい、ミルキー交響楽団といい、おそらく、甘いものが好きな指揮者なのでしょう(しかし、アシュケナージは「チェコ・フィルとシュトラウスを録音していきたい」と語っていたはずなのに、なぜ突然の交代劇があったのでしょうか)。
最近リリースされたアシュケナージの「英雄の生涯」、「メタモルフォーゼン」と聞き比べてすぐわかることは、音が全く違う事でしょう。「英雄の生涯」の録音は200011月、「メタモルフォーゼン」が2001年9月。両曲とも響きがたっぷりとした上、金管も炸裂。何とも色彩感溢れる音楽です。特に「メタモルフォーゼン」の弦の音は艶もあり、まったりしたものでチェコ・フィル=東欧のくすんだ響きという図式は見事に払拭されてます。
それに比べると今回のドヴォルジャークは言うなれば昔の音。くすんだ、かつひなびた響きが曲の雰囲気にぴったりです。録音は1997年5月。諸事情でお蔵入りになっていたものが、今回の音楽監督就任を記念して急遽発売になるものです。同じオケ、ホール、録音エンジニアの顔ぶれも殆ど同じ・・・この面でもとても興味深い事例と申せましょう。「指揮者次第でオケの音が変わる」事を実感させてくれた聴き比べでした。
カップリングの8番ですが、この曲はもっと生き生きした響きが好きな私にはちょっと物足りなかった・・・かも知れません。ま、これは好みの問題なので、「ひなびたドヴォルジャーク命」の方には受け入れられる演奏、と言っておきましょうか(笑)。

5月10日

FAURÉ/Requiem
FRANCK/Symphonie
Johannette Zomer(Sop)
Stephan Genz(Bar)
Philippe Herreweghe/
La Chapelle Royale
Collegium Vocale Gent
Orchestre des Champs Élysées
HARMONIA MUNDI/HMC 901771
(輸入盤)
キングレコード
/KKCC-473(8月21日発売予定)
お待ちかね、フォーレのレクイエムの新盤です。だいぶ前から「出るぞ、出るぞ。」と言われていたもの、実際、一度は発売になったのですが、製品に問題が発生したため(トラックのミス)発売延期になっていたものです。とは言え、フランスでは入手可能だったようで、すでに今月の「レコ芸」にはレビューが掲載されてましたっけ。
すでにご存知の通り、このCDはヘレヴェッヘの2回目の録音になるわけですが、今回は前回(88年)とは違う版を用いているというのがウリになっています。前回は第2稿のネクトゥー/ドラージュ版、あいにく、初録音ではありませんでしたが、今回は第3稿の1998年版、いわゆる「アメル新版」の世界初録音というわけです。このあたりの懇切丁寧なガイドは、もちろんこちら
88年に、第2稿でしかなしえないような、あれほど透明感あふれる演奏を残していたヘレヴェッヘが、なぜ、言ってみれば「まがい物」の第3稿を録音する気になったかは、窺い知ることは出来ませんが、まあ、人間、10年もたてば嗜好も変わるということでしょうか。しかし、そこはヘレヴェッヘ、彼ならではのこだわりが随所に見られる、聴き応えのあるアルバムに仕上げてくれています。
まず楽器編成では、パイプオルガンではなく、ハルモニウム(リードオルガン)を使っているということ。この第3稿があくまでコンサートホールで演奏されることを前提に作られたことを考えると、初演当時の状況を考えればハルモニウムのほうがふさわしいと判断したのでしょう。このレーベル、ハルモニア・ムンディに気を使ったというのは、風説に過ぎません。事実、この楽器の、特にダイナミックスの表情の豊かなことには驚かされます。「Offrtoire」の中間部、バリトン・ソロのバックでオルガンがソロになる部分があるのですが、そこのクレッシェンド/ディミヌエンドのかけ方など、パイプオルガンにはとても出来ない芸当です。
次に、発音へのこだわり。やはり、初演当時の発音を再現したということで、あちこち聴きなれないところがあります。たとえば「光を当てる」という意味の「luceat」という単語、普通は「ルーチェアト」と発音するものを「ルーアト」と、「硬音化」させています。
さて、演奏ですが、ヘレヴェッヘは版の違いをことさら際立てることはせず、その編成から生まれる響きを大切にしながら、88年の録音に見られた透明性を実現させています。特にバリトン・ソロにゲンツのような柔らかい声を起用することによって、第3稿の持つけばけばしさをかなり緩和することができています。合唱も、特にテノールとアルトは出色。「Offrtoire」の出だしなど、鳥肌の立つほどの美しさです。
ところで、ジャケットや背表紙を見ただけでは全く分かりませんが、このCDにはフランクの交響曲がカップリングされています。こちらも、当時の楽器を使って演奏した、多分最初の録音です。こちらも、音楽に自然に語らせるという気持ちよい演奏、3楽章の金管のコラールの、「ドルチェ・カンタービレ」を地でゆく響きには、天国的な美しさがあります。

5月7日

WEBER
Der Freischütz
Christian Gerhaher(Bar)
Christoph Prégardien(Ten)
Bruno Weil/
Cappella Coloniensis des WDR
DHM/05472 77536 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCD-37009(国内盤)
オリジナル楽器の演奏といえば、まずアーノンクールやブリュッヘン、ガーディナー、ホグウッドの名前が浮かんできます。カラヤンのような、「とにかく派手に音を鳴らす」演奏とは一線を画したこの流れは、常に新しい物を求めている人たちによって、確固としたものになりつつあるのではないでしょうか。
その中で忘れてはならない人が、このブルーノ・ヴァイルでしょう。以前、ここでも取り上げた「モーツァルトのレクイエム」(これも含みの多い演奏でした)を始め、ベートーヴェンやモーツァルト、ハイドン、バッハなどの膨大な録音数を誇り、またその全てが斬新な響きで満たされているという、地味ながらも味のある指揮者です。白一色の浴室の中で、確かなアクセントとなっています(それは「ブルーのタイル」)・・・。さて、そのヴァイルの新作はウェーバーの「魔弾の射手」というもの。輸入盤は2ヶ月ほど前にリリースされたのですが、あまりにも凝った仕掛けが施されていて、それを確かめるために国内盤が出るまで待っていたというシロモノです。
なにが凝っているかといいますと、まず、この曲のオリジナル楽器による初めての録音であるという事。(以前のアーノンクールでさえ、この曲はモダン楽器で演奏してたのですね。)序曲からしてピッチの関係や、奏法の違いのせいか、いつも聴いている雰囲気とは大違い。少し暗めの音質も手伝って、華やかさは微塵もなく、どちらかといえば森の不気味さすら感じさせる始まりです。
そして賑やかな農夫の合唱が終わると、これまた不気味な語りが挿入されます。ここがこの演奏の一番の目玉でして、本来なら登場人物同士で交わされる会話の部分を全てザミエルの一人語りに置き換えているのです。ザミエルの科白(詩)は全て小説家でもあり劇作家でもあるシュテフェン・コペツキによって新しく書かれた物で、ただ物語を説明するのではなく、ザミエルの心のつぶやきとも言える言葉を連ねることによって物語に奥行きが加わるのです。本来なら狼谷の場面で少しだけ姿をあらわす「悪の狩人」ザミエルですが、ここでは物語が全て彼の視点に拠って語られることで、物語は全く違った味わいを持つ事になりますね。これについては、ブックレットに詳細が記されているのでこれ以上触れませんが、コペツキは逡巡しつつも、新しい物を創り出す・・・・。その過程もつぶさに知ることができるなかなか面白いテキストでした。
歌手の顔ぶれも素晴らしいもの。オットカールには以前ARTE NOVAでシューベルトの歌曲をリリースしたゲルハーエル、マックスにはベテラン、プレガルディエン。この2人の緊迫したやりとりは聴き物ですし、ザミエル役のマルクス・ジョンの語りは言わずもがな。そしてアガーテ役のシュニッツアーの清楚な歌声もたまりません。
この曲を初めて聴くにはちょっと不向きかもしれませんが、興味深い演奏であることには間違いありません。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

 TopPage

Enquete