皮瘡。.... 渋谷塔一

(04/12/1-04/12/17)


12月17日

WAGNER/Symphonic Excerpts from "Parsifal"
TCHAIKOVSKY/Symphony No.6 "Pathétique"
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.119
(輸入盤)
キングレコード
/KKCC-4424(国内盤)
先頃来日して、完全にノリントンの手足として彼の意のままに演奏する様を聴衆の前で見せしめたシュトゥットガルト放送交響楽団の最新盤、今年の3月(チャイコフスキー)と7月(ワーグナー)の演奏会のライブ録音です。モダンオケでありながら、弦楽器にはビブラートを掛けることを許さないというオリジナル楽器に近い奏法を徹底させた独特の響きが売り物のこのコンビ、このような19世紀の作品に対しては、その「ピュア」なサウンドは果たして良い方に作用することが出来たのでしょうか。
ワーグナーは、エーリッヒ・ラインスドルフによって編曲された「パルジファル」からの交響的抜粋です。有名な前奏曲や、「聖金曜日の奇跡」などがコンパクトにまとまっています。前奏曲の最初の弦楽器のユニゾンは、それはそれは透明な響きで始まりました。ただ、この透明さ、そこからはアンフォルタス王の苦悩などは殆ど感じることは出来ません。物語が始まる前に、すでにこの病んだ王は救済を受けてしまっているような、何か居心地の悪さが漂います。そして、金管の「信仰のモティーフ」が軽やかに、そう、今までどの演奏でも聴いたことのないほどの楽天的な軽やかさで鳴り響いたとき、その居心地の悪さは決定的なものとなりました。ここで描かれているのは、ワーグナーが最晩年にたどり着いたと言われている殆ど宗教に近い崇高な世界ではなく、まるでおとぎ話のような世俗的な世界だったのです。しかも、「聖堂への入場」を聴けばすぐ分かるように、それはあたかも操り人形が演じているような多少ぎくしゃくした動きを伴うもの、そう、これは、「ザルツブルク・マリオネット劇場」かなんかが上演したら似合いそうな、「子供のためのパルジファル」みたいなものにこそふさわしい音楽なのです。最近ではマリオネット並みのヘンな演技を要求される演出も横行しているオペラ界、ノリントンはそんな現状に痛烈な批判を込めて、このような演奏を行ったのでしょうか。これが「パルジファル」ではなく、もっと荒唐無稽なお話しである「指環」だったら、いったいノリントンはどのような演奏を聴かせてくれるのでしょう。なんでも、この演奏会では「ヴァルキューレ」の第1幕も演奏されたとか。いずれそれもリリースされるのであれば、それもまた楽しみです。
一方の「悲愴」では、そのような突拍子もないことはやってはいません。それどころか、かつてベートーヴェンなどで見せてくれた勢いの良さは影を潜め、なんとも端正な表現に終始しているのが、逆に物足りないほどです。ノン・ビブラートの弦楽器の響きは、あまりにも「ピュア」過ぎてチャイコフスキーには似つかわしくないと思われる瞬間が多くあったことも、そのように感じられた一因でしょう。ある程度のギラギラ感は、この作曲家には必要なものなのかもしれません。そんなおとなしい弦パートからの主張があまり届かない分、金管の張り切りようが目立ってしまって、多少鬱陶しく感じられる場面もありましたし。このノリントンには、ちょっとノレントン

12月16日

CHOPIN,LISZT,SCRIABIN
Sonatas
Joan-Marc Luisada(Pf)
RCA/82876-61273-2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-31082(国内盤)
最近はCDのジャケットも凝ったものが多くなってきています。ケースそのものも凝っていて、紙ジャケは当たり前、いつぞやは、わざわざDVDトールサイズに入ったものや、それこそ抱えなくてはいけないほどの大きさの箱に丁寧に詰め込まれたお歳暮のパッケージのようなCDまでもを見かけるようになりました。
そんな中、私の印象に強く残っているジャケと言えば・・・、なんと言ってもルイサダのシューマンでしょう。こちらは、ケース自体はごく真っ当なものでしたが、とにかくジャケ写がすごい。今でも見かけるたびに「元気にしてますか?」と声をかけてしまいたくなる不思議な魅力を放っています。もちろん演奏も、個性派ピアニストの面目躍如と言った感あり。ものすごく濃厚で、中身が詰まっていて、ちょっとウソっぽくて・・・・。オーソドックスなシューマンを聴きたい人には到底勧めることは不可能という代物でした。
さて、今回のルイサダのアルバムです。「ソナタ集」と名付けられたこの1枚、ジャケは思ったよりもまともです。ここには3曲のピアノ・ソナタが収録されていて、最初はショパンの第3番、そしてリスト、スクリャビンの第9番という曲順になっています。ライナーにもあるように、この3曲を年代順に並べる事によって、「ソナタ形式と調性音楽の崩壊」を耳で実際に確かめることができるというのがこのアルバムのコンセプトと言えましょう。ショパンの第3番は、とりあえずぎりぎりのところで調性も形式も遵守していますが、内容は極めて個人的な感情の吐露に満ちていますし、リストのソナタは御存知の通り、すでに形式は壊れ、音もところどころで無調を先取りしています。スクリャビンは言うに及ばず。ここで改めて聴いてみても、その不気味さには唖然とするばかり。当時の12音技法とは全く違う音の並び(これはメシアンに向う流れでもあります)で書かれたこのソナタには、音で描かれた悪魔の声や、ため息などが溢れ、聴いているだけで不安と官能に苛まれるという作品でもあります。
さて、ルイサダの演奏ですが、彼はいつもの如く、全ての音楽を自分のテリトリーに引き寄せて演奏します。キリンやサッポロではだめなのです(サントリー?)。ショパンもリストもスクリャビンも扱いに変わることがありません。必要とあれば、楽譜を改竄して、音を強調してまでも(ショパンのソナタで何回楽譜を見直したことでしょう!)自分の言いたいことを音で表現するやり方は見事です。このやり方、オーソドックスなショパンを聴きたい人としてはあまりにも違う音が多くて怒ってしまうかも知れませんが、リストについてはすごく効果的でした。この曲は真面目に演奏してもつまらないというか、下手をすると空中分解の危険性すら孕んでいます。ですが、ルイサダは音楽の流れを損なうことなく、全てを有機的に纏め上げ必要ならば音を補強して、とにかく最後までひたすら面白く聞かせてくれました。
スクリャビンは、もうルイサダの独壇場です。とにかく不気味な音楽を奏させたら、この人とアファナシエフを超える人はいないかも知れません。本当にぞくぞくするほどの不気味さを味わえます。
最後に置かれた“別れの曲”で、現実の世界に引き戻される時、一抹の名残惜しさすら感じてしまうほど、不思議な一時を味わったのでした。

12月14日

WAGNER
Die Walküre
Angela Denoke(Sop)
Robert Gambill(Ten)
Jan-Hendrik Rootering(Bas)
Lothar Zagrosek/
Staatsorchester Stuttgart
TDK/TDBA-0055(DVD)
シュトゥットガルト州立歌劇場は、最近ではバイロイトと並んで「ワーグナーのメッカ」と呼ばれているそうです。ピアノの練習でしょうか(それは「ワーグナーの日課」)。91年にこの歌劇場にオペラ支配人として就任したクラウス・ツェーラインのもと、続々と斬新な演出を取り上げて、各方面で高い評価を得ているということです。そんな「評判」の一端をうかがえるのが、現在DVDでリリースが進行中の「指環」、99年に初演された新しいプロダクションの、2003年上演時の記録です。
この「指環」、4つの作品それぞれに別々の演出スタッフをあてるというユニークなものです。この「ヴァルキューレ」の場合は、クリストフ・ネルの演出、そのコンセプトを一言で言ってしまえば、「オンナのチカラ」でしょうか。それを象徴するのが、アンゲラ・デノケ(キルステン・ダンストに似てません?)のジークリンデです。第1幕の幕開けから、彼女は途方もないエロティシズムを放出し続けています。薄いワンピース(!)をまとっただけ、裸足で悩ましく部屋の中を走り回る様には、ジークムントもタジタジです。フンディンクが帰ってくるなり、靴を履きエプロンをまとって貞淑な「妻」を演じるのですから、その技巧は念が入ってます。そして、後半、乳首の形も露わなシュミーズ姿の彼女は、その体内にノートゥンクを秘めていることが示唆される演出(これが何を意味するかは、明白です)によって、まさにエロスの権化であることが分かるのです。したがって、彼女が受け入れるものはジークムントの肉体ではなく、一度抜き取られ、ジークムントのものになったノートゥンクそのもの、哀れジークムントは、自らの欲望を満たすことはなく、単に英雄を孕んだ「オンナ」を助け出すという、空しい役割に甘んじるのです。それにしても、ジークムント役のギャンビルの、なんと貧相なことでしょう。なにしろ、「水を!」といって飲まされたものは、雑巾バケツの中の水だったのですから。
この構図は、ヴォータン、フリッカご夫妻にも当てはまります。第2幕でのジャージ姿の夫役ロータリングに比べて、ティチーナ・ヴォーン演ずる妻の、なんと力強いことでしょう(この黒人歌手、体格といい声といい、あのジェシー・ノーマンを彷彿とさせるものがあります)。まさに、この世の支配者は「オンナ」であることが、痛いほど伝わってくるのです。
ただ、最も「チカラ」に満ちているはずのブリュンヒルデ役のレナーテ・ベーレは、眉間にしわを寄せた、はっきり言って美しくない容貌と相まって、いたずらに力みだけが感じられてしまい、ちょっとなじめません。演出プランもデノケほどは徹底されておらず、彼女が出てくる2幕以降は1幕ほどの緊張感が持続していないのが残念です。これには、大詰め「ヴォータンの別れ」の、ちょっとお粗末なアイディアによるところも大きいのでしょうが。
ツァグロセクの指揮するオーケストラは、前奏曲から充実した弦楽器の響きを聴かせてくれています。1幕など、その室内楽的なアンサンブルはとても美しいものでした。しかし、その指揮ぶりを見ても分かるとおり、この指揮者はリズム感に決定的な問題を抱えているようで、金管楽器が常にもたついたものにしか聞こえないというのは、ワーグナーにとっては致命的な欠陥になってしまいます。奏者の技量も問題なのでしょうが「ヴァルハラのテーマ」のなんと安っぽいことでしょう。

12月13日

BEETHOVEN/LISZT
Symphony No.9
Konstantin Scherbakov(Pf)
NAXOS/8.557366
この原稿を書いているのは1212日の日曜です。とにかく、今日は朝から同じ映像を繰り返し見る羽目に陥りました。民放のお昼のニュース、夜のニュースだけでなく、そう、天花の・・・ではなく天下のNHKですら「年末商戦」と銘打って流していた映像。それは某人気ゲーム機の携帯ヴァージョンが発売されたというもの。土曜の朝11時から並び、一番に憧れの機械を手にした若者は、間違いなく有名人の仲間入りをしたに違いありません。(一日限定ですが)お店もいつもは朝9時半に開店するところを、今日だけは朝6時から営業。1500人が列をなしたというスゴイもの。実は私もゲーマーのはしくれ・・・今こそ時間がなくて空き時間にパズルをちょっとするくらいですが、実は最新のドラクエも購入(すぐさま家人に奪われました)。もし入手できるなら?と午後繁華街にでかけましたが、全て完売状態でした。ふっ。
本来なら持ち歩けないゲーム機を、無理やり携帯型にするという発想。なんだか、今回のリスト編曲、ベートーヴェン“合唱”に似ていませんか?と、いうことでシチェルヴァコフの演奏で、ピアノ編曲“合唱”です。
このリスト編曲版に関しては、もう何度も取り上げているので今更の説明は必要ないでしょう。原曲の持ち味をできるだけ損なうことなく、曲によってはリスト独自の世界も盛り込むという、なんとも贅沢で、ピアニスト泣かせの作品たちです。ベートーヴェンに関しても、歌曲に始まり、交響曲は全曲編曲を試みているのです。とりあえず8番までならスコアリーディングの要領で何とかなりますが、なんといっても、第9は合唱が入ってますので、指が10本あっても足りないはず。しかし、そこら辺はリストのこと。うまい具合にこなしています。実はこのヴァージョンに関しては、あのカツァリスの名演があります。今回のシチェルヴァコフ、過去にJ・シュトラウスの編曲作品集をリリースしているとは言え、腕のほどはいかがでしょうか?先に聴きとおした友人に言わせると、「イマイチ」とのこと。聴いてみる事にしましょう。
第1楽章は、なかなか落ち着いた演奏。もう少し迫力があってもいいかな?と思わせもしますが、オーケストラで聴く時のように、なかなか立体的な音が楽しめます。ただ、思わせぶりなタッチが散見。ここら辺がいかにも「ピアノ」の音を感じさせてしまいます。第2楽章もなかなか。ぐいぐいと力まかせに押してくるところなんぞカッコよいです。そして第3楽章。ここは却ってピアノで演奏した方が楽しめるかも。問題の終楽章。歌が入るまでの部分が若干緊張感にかけるかな。しかし、ソロを経て合唱の部分はステキです。もともとの曲の持つ魅力もあるのかもしれません。繰り返しの3回目のヴァイオリンのトリルだのの装飾に彩られた部分、ここの編曲こそリストの真骨頂!唖然として聞きほれてしまいました。
この演奏、実は一番盛り上がる部分が少々へなちょこ。しかし、きっと楽譜も一番難しいのでしょう。しかし、そんなことはどうでも良くなるくらいの充実感です。なにより、オケでなくピアノ1台でここまでできるんだ。という感慨は、電車の中でドラクエをするくらいの嬉しさ?でしょう。(実はできません・・・)

12月12日

SPACE THEATRE
Program of Steel Pavillion at Expo'70
小澤征爾・若杉弘/
日本フィルハーモニー交響楽団
TOWER RECORDS/TWCL-1026
「芸術は場数だ!」と言いきった岡本太郎によるグロテスクなモニュメント「太陽の塔」と、「♪せんきゅうひゃく、ななじゅうねんの、こ〜んにちは〜♪」という、三波春夫の脳天気な歌によってのみ、今日までその存在が語り伝えられている「大阪万博」、しかし、この国家的行事が開催された1970年当時は、まさに国を挙げてのお祭り騒ぎが繰り広げられていたのですから、その関心の高さといったら今日の「愛知万博」の比ではありませんでした。人類の未来は繁栄に満ちた素晴らしいものと本気で信じられていたこの時代、国内の企業がその力を誇示するために競って建てた「パヴィリオン」の中では、そのバラ色の未来が現実のものとなって眼前に広がっていたのです。そんな中にあって、「鉄鋼館」というまるでサーカスのような円形のスペースを持ち、客席の中にまで無数のスピーカーを設置するという途方もない音響空間が構築されたパヴィリオンは、「音楽の未来」について真剣に語り合う実験的な「場」として、確かに機能していました。
このCDは、前にもご紹介した「RCAプレシャス・セレクション」の中の1枚、その鉄鋼館でマルチチャンネル再生するために作られた作品3曲の録音のマスターテープから、2チャンネルに落としたものが収録されています。94年に一度CD化されたものがこういう形で再発されました。武満徹の「クロッシング」には、仕掛けこそ大げさですが、この作曲家の一途な信念がきちんと現れていて、作品としての魅力がもっとも強く感じられます。女声合唱に無機的な音列を歌わせることにより、色彩感が前面に出てきているのが面白いところ、高橋悠治の弾く目の覚めるようなピアノソロも聴きものです。その高橋の「エゲン」という作品は、正直あまり面白くありません。その後技法的な変遷をたどることになる高橋自身としても、これは、あるいは「無かったことにしたい」ものなのかもしれません。
最後のクセナキスの「ヒビキ・ハナ・マ」(漢字で書けば「響き・花・間」、味噌ではありません・・・それは「ハナマルキ」)こそは、このような空間にはもっとも相応しい「音の雲」が駆けめぐる壮大な作品です。彼の他の作品同様、その音の中に身を置いて、まるで「2001年」のボーマン船長のようなハイパートリップを体験するにはもってこいの曲でしょう。そう、これを聴いている間、あの映画で使われたリゲティの「アトモスフェール」そのものではなく、それにさまざまなSEをダビングしたサントラバージョンが頭の中を駆けめぐっていたのは、単なる偶然ではないはずです。
しかし、このような音楽が「万博」という場に集まった不特定の大衆に向けて開かれるには、それはあまりに「未来」過ぎたのかもしれません。もちろん、そんな「未来」が、それから30年以上経った「現代」においても実現することはなく、今となっては「800のスピーカー」を備えた会場で演奏することなど全く不可能になってしまった、その当時の作曲家たちが「未来」だと信じて疑わなかったものの一端が、このような形で、まさにモニュメントとして今に伝えられるものになってしまった現実には、幾ばくかの哀愁を伴わずには直面出来ないことでしょう。

12月11日

The Tenor's Passion
Marcelo Álvarez(Ten)
Marcello Viotti/
Staatskapelle Dresden
SONY/SK 92937
(輸入盤)
ソニーミュージック
/SICC210(国内盤)
最近は、やれシューベルトだ、ブラームスだと、ドイツ系のテノールばかりを偏愛していた私。たまには、「抜けるような」美声を味わいたいと思い、手にしたのがこのアルバムです。昨年、かのリチートラとのデュエット・アルバムで、彼の声にはまり、マノンを聴いてから、フランス・オペラ・アリア集も聴いてみたのですが、どれもなかなか素晴らしいものでした。特に、フランスのアリアでの軽妙で、粋な歌い方には惚れ惚れしてしまいました。
1962年アルゼンチンに生まれたアルバレス、最初は家具工場経営(実は、アルバイトだったりして)と、全く違う世界にいた人ですが、30歳になって歌に目覚め本格的に勉強を始めたそう。そして1995年に衝撃的なデビューを果たし、かの、ディ・ステファノにまで「類い稀なる天才」と言わしめたのでした。それから10年、世界各国で大絶賛、知名度も人気も非常に高く、既に色んな役をこなしてきたのだろう、と思っていたのですが、実は今までにリリースしたCDはたった5枚だけだったのですね。何より、彼はまだ「トスカ」や「カルメン」を舞台で正式に歌ったことがないというのは本当に驚きでした。どのくらい驚いたかというと、フレミングがメトで「椿姫」デビュー!のニュースを聞いたときと同じくらい、いやいや、ここのマスターが、つい最近までダイヤルアップでネットに繋いでいたことを知ったのと同じくらいの衝撃(おおげさ?)だったと言えましょう。確かに、多くの歌手たちは自らのレパートリー選びには慎重です。自己の声質を見極め一番効果的な役柄を掘り下げる、そして声が変化するに伴い、歌える役も変えていく。これが一般的な歌手の辿る道です。だからこそ、何でも歌ってしまうパヴァロッティや、ドミンゴ、そしてマリア・カラスあたりは「傑出した天才」であるともいえるのです。
で、このアルバム。まさにタイトルの「テノールの情熱」ともいえる曲がぎっしり詰まっています。プッチーニ、ジョルダーノといったヴェリズモ系、フロトウ、マイアベーア、ラロなどのフランス系などなど、とにかく通して聴くと、「歌好きならば幸せにならずにいられない」と言える選曲といえましょう。彼の声は、少し湿り気を帯びた暖かさと輝く艶に溢れたもの。決して軽くはなく、確かな質感と量感が伝わる美しいものです。
「冷たい手を」や「誰も寝てはならぬ」などのプッチーニのアリアは、本当に歌っている人も多いので、比較の対象はいくらでもありまして、今回も色々な人の声と聴き比べてみました。人によっては、自分の声に頼りすぎて、ついつい美声を張り上げることにのみ終始していたりもしますが、アルバレスはさすがです。どちらかというと声自体は抑制して、そのかわりじっくり聴かせる方向なのでしょうか。まさに「大人の歌」です。
私が気に入ったのは、マイアベーアの「おお、パラダイス」。“アフリカの女”の中のアリアですが、憧れとやるせない思いが見事に調和して、心にぐいぐい迫ってくるかのようでした。ゆったりとした楽天的な音楽も相俟って、何だか眩しい青空を見ると訳もなく涙がでちゃう・・・・そんな気分になってしまったのです。いいなぁ。

12月9日

MOZART
Concertos in C,G
James Galway(Fl)
Marisa Robles(Hp)
Eduardo Mata/
London Symphony Orchestra
TOWER RECORDS/TWCL-1015
RCAプレシャス・セレクション1000」という、タワーレコードが単独でRCAの古い音源を再発したシリーズがリリースされました。LPの音溝をバックに、オリジナルのジャケットが右下に小さくはめ込んであるという、なかなか洒落たデザインです。半袖ではちょっと季節的にマッチしませんが(それは「ポロシャツ」)。
ゴールウェイ関係では、この1978年のアルバムの他に、1976年のヴィヴァルディの「四季」(もちろん、フルート版)が再発、どちらも、ソリストとして一本立ちした直後の勢い全開のゴールウェイを聴くことが出来ます。こちらのモーツァルト、95年に他のフルート協奏曲や小品とカップリングになった2枚組でCD化されたことがありました。もちろん現在では廃盤になっていますし、この、オリジナルLPの形でCDになるのはおそらく初めてのはず、コレクターのマストアイテムとなることでしょう。
もちろん、そんな資料的な価値だけではなく、これは演奏として間違いなくお勧めできるものです。まず、「in C」つまり、フルートとハープのための協奏曲。ゴールウェイは今までにこの曲を5回録音しています。最初はベルリン・フィル在籍時代の1971年のEMI盤ですが、これは2番目にあたるもの。これ以後のRCAへの録音では、すべてロブレスがハープを務めています。その4種類のRCA盤の中では、フルートに関しては私はこれがもっとも好きです。後の録音で見られるちょっと過剰な「ゴールウェイ節」が、ここではきちんとした表現の中でさりげなく見られる程度で、本当の意味での彼の凄さが良く表れています。ただ、この重たいハープははっきり言ってちょっと邪魔。
もう1曲の「in G」というのは、もちろんオリジナルのフルート協奏曲ではなく、「in A」のクラリネット協奏曲をゴールウェイ自身がフルート用に編曲したものです。元があまりにも有名なのでそんなことはちょっと困難なのですが、もし初めてこの曲を聴いた人がいれば、間違いなく最初からフルートのために作られたものだと思うに違いない、素晴らしい編曲、そして演奏です。特に第1楽章では、かなりのパッセージを「フルート向き」に直していますから、その爽快感はたまりません。第2楽章では、ゴールウェイの持ち味の音色の変化が最大限に堪能できます。ソット・ヴォーチェになったときのぞくぞくするようなセクシーさ、この魅力は、こういう場面では決まって殆ど生命力を失ったピアニシモしか出すことの出来ないパユあたりでは絶対に味わえないものです。第3楽章は、まるで空に舞い上がるような軽やかさ、モーツァルトは選択する楽器を間違えたのではないかと、本気で思ってしまうほどの自然なひらめきが、そこにはあります。
なお、2004年の時点で書かれたライナーに「(ロブレスは)この78年録音以後も、1984年と1993年(1992年の間違い)に再録音の相方を務めている」とありますが、彼らは1995年にも録音を行っているので、この記述は誤りです。このようないい加減なライナー(執筆は寺元徹という方)とともに、BMGファンハウスが再発を行う際には必ず付けているオリジナルデータが全く欠落しているのは、このシリーズの大きな欠点です。ゴールウェイの場合、エンジニアによってその音が大きく変わっているので、これはぜひとも入れて欲しかったところです。

12月6日

CHOPIN
Nocturnes
Angela Hewitt(Pf)
HYPERION/CDA 67371
アンジェラ・ヒューイットのバッハを取り上げたのは、今からちょうど4年前。あれから時が経ち、なぜかその時話題にした高橋悠治の「ゴルトベルク」も、新たに録音されたものが発売されました。同じ時期に、これは全くの偶然なのですが、ヒューイットの特質を充分に伝えてやまない、このショパンの夜想曲の新譜がリリースされました。
最初彼女の演奏を聴いたのは、バッハの何かの曲。まるで時代に逆行するかのような、滴り落ちるようなロマン派的解釈は、それこそバッハの音楽の持つストイックさとはまるで別の世界でした。グールドや、高橋悠治の奏するバッハの音・・・これはどちらかというと裸に近い音とでもいうのでしょうか。ムダなものを一切切り捨て、ひたすら内部に向って突き詰めていく。流行もあるのでしょうが、最近はこちらの演奏が主流です。ですから、そのヒューイットのCDについては「こんなのが受け入れられるのだろうか?」と密かに危惧していたのですが、それは別の意味で大当り。何しろ、あの吉田秀和氏が彼女のことを絶賛したのです。好みの問題もあるでしょうが、吉田氏はチェンバロの音も苦手と仰っていたこともあるくらいですから、やはり本質的にはロマンティックな音が好きなのかもしれない、とヒューイットを絶賛する文章を読んで思ったのでした。現在の楽天市場、いや音楽市場に於いて、吉田氏の発言の影響は絶大です。当然、ヒューイットのバッハも飛ぶように売れました。
しかし、私にとってのヒューイットは、メンゲルベルクのマタイ、リヒターのカンタータなどと同じ、今聴くと偉大だけど少し古色蒼然とした演奏、とカテゴライズされています。バッハにロマンティックさを持ち込んでよいのか?これは永遠の謎です。
これがショパンだと話は別です。思う存分、ロマンティックに演奏してもらいましょう。このアルバムには、夜想曲全曲と即興曲が収録されてます。最近はまっている即興曲第3番を聴いてみましょう。ユンディと比べると、その濃厚で噎せ返るような表情のつけ方にくらくら。フジコと比べると、やはり技術の違い。そう、「フジコはこういう感じで弾きたかったのだろうな」と思わせる演奏です。思いっきり嘆き、歌う。そんな大らかで表情豊かな音が漲っています。CD2の冒頭に収められているのは、夜想曲op48-1。最初の呟くようなぽつぽつとした音の動きに聴く張り詰めた緊張感。暗く情熱を帯びた中間部。そして迸るような音が溢れる再現部。この華やかさには思わず耳を奪われてしまいました。そして、後期の深遠な音楽へと向う道程。この暖かく深い演奏には心から感動。やはり彼女はロマン派の作品のほうがあっている・・・・と個人的に思うのでした。

12月3日

SCHUBERT
Winterreise
René Kollo(Ten)
Oliver Pohl(Pf)
OEHMS/OC 904
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCO-37413(国内盤)
先日、情報通の知り合いがスゴイものを渡してくれました。なんと、それは、あの「おやぢ狩られ(笑)」テノール、ルネ・コロの歌う“冬の旅”のCD−R!正式発売は来年になるそうですが、「このページで取り上げてもいい」と了承をいただいたので、喜んで書かせていただきますね。
ルネ・コロといえば、何と言っても揚げたてがおいしい(それは「カニコロ」)・・・ではなく「稀代のヘルデン・テノール」。しかし、最近あまり活動の様子が耳に入ってこなかったのです。心配してました。そこへ突然、このCDです。「えっ?ルネ・コロが冬の旅?水車小屋ではなくて?」とついつい頬をつねってしまったのでした。何でも、彼はこの歌を「自分なりの思いを込めて」歌いたいとのことです。悲劇ではなく、傍観者としてみる“冬の旅”・・・聴いてみる事にしましょう。ピアノはオリヴァー・ポール。トレーケルとのコンビでお馴染みの人です。
これは、とにかく特異な「冬の旅」です。まず気がつくのが、極端に短い演奏時間。例えば、冒頭の“お休み”は3分43秒。因みにクヴァストホフは5分58秒。(ツェンダー版のプレガルディエンは1010秒・・・これは別格)とにかく駆け足で駆け抜けます。ちょっとせわしない感じもしますし、何より聴いていて落ち着きません。歌も、まるで大酒を飲んで酔っ払っているかのようなふらふらしたもの。声自体は美しいのですが、全くコントロールされていません。『普通の』冬の旅を聴きたい人は、もしかしたら冒頭を聞いただけでCDを叩き割るかもしれませんね。どうしたんだ・・・ルネ・コロ。そう思い聴き進みます。美しいはずの菩提樹も、まるで春の上野公園のような趣き。賑やかで、騒がしくて、暖かくて。後半になっても、その歩みは速度を落とすことがありません。郵便馬車、霜置く髪、と曲は進みます。ここでも、彼は本当にゴキゲン。本当に一杯ひっかけて歌っているかのようです。楽しそうだな・・・・。
と、この歌い方が、何処かで聴いた事があることに気付きました。そう、それは、あの「こうもり」の第3幕の情景。前夜のバカ騒ぎがお開きとなり、皆が酷い二日酔いのまま、楽しかった舞踏会を思い起こす場面です。一見、楽しそうに見えますが、その場面に一抹の悲哀を感じるのは、「飲んで全てを忘れよう」という極めて刹那的な感情ゆえでしょう。当時の民衆を支配していたのは、世相への不安と世紀末の不安定。それらを隠すかのごとく、とりあえずの快楽を描いたもの。これが「こうもり」の隠しテーマでもあるのです。いや、「こうもり」だけでなく、全てのオペレッタに漂う共通の物悲しさです。このルネ・コロの歌う“冬の旅”も恐らくそういうものなのでしょう。(彼はオペレッタ作曲家の息子でもあり、偉大なるオペレッタ歌手でもあります)大きな不安から逃げるために、とりあえず楽しい振りをする。もちろん怖くて仕方ないから早足になる。そう考えてもう一度最初から聞いてみると、この全曲、これほど怖いものはありません。
実は、これが21曲目からはものすごく美しくしみじみとした歌へと変貌するのです。搾り出すような叫び、そして諦め。まるでアルコールが全て抜けきったかのように。現実を直視した時、この主人公は何を見たのでしょうか?

12月1日

TSCHAIKOWSKY/Sinfonie Nr.6
SCHÖNBERG/Verklärte Nacht
Mariss Jansons/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
SONY/SK 93537
(輸入盤)
ソニー・ミュージック
/SICC277(国内盤)
最近のオーケストラの、指揮者に対するブランド志向には、目に余るものがあります。経営という面ではなかなか厳しいこの業界、手っ取り早く人気のある指揮者によって演奏会のお客さんや、CDの購買者を増やしたいという気持ちは痛いほど分かりますが、これほど同じ顔ぶれがあちこちに登場するのでは、オーケストラの独自性など無くなってしまうのではないでしょうか。ですから、ちょっと前までは、一人の指揮者がみっちり一つのオーケストラを鍛えるというような場面が見られたものですが、現在ではそのようなことは極めて難しくなってきています。慢性的な、指揮者の人材不足も相まって、今では、世界中のオーケストラがほんの一握りの「人気のある」指揮者によって支配されているという、あまり好ましいとは言えない状況が起こっているのです。
マリス・ヤンソンスは、ちょっと前まではそんな「人気のある」指揮者ではありませんでした。オスロ・フィルという、ある意味辺境の地のオーケストラのシェフとして、地味ではありますがしっかりした信頼関係に裏付けられた確かな仕事にいそしんでいたものでした。そんなヤンソンスも、ロリン・マゼールの後任としてピッツバーグ交響楽団の音楽監督になったあたりから、「人気のある」指揮者への仲間入りを果たします。数年後またまたマゼールの後任となったバイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任したと思ったら、今度はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団です。その結果、彼は3つの世界的なオーケストラの演奏上の最高責任者という、本来ならばとても一人の人間の能力では処理できないようなポストを手中に収めることになってしまったのです。
このCDは、バイエルンとの「悲愴」。実は、ヤンソンスはコンセルトヘボウとも同じ「悲愴」を録音していて、これがリリースされてしまったためにコンセルトヘボウ側は頭を抱えてしまったそうです。確かに、今回コンセルトヘボウと来日したヤンソンスは、この曲をコンサートで演奏してくれましたから、私たちはテレビを通じてそれを聴くことが出来たわけですが、オーケストラが変わったからといって、出てきた音楽の基本は全く同じもの、CDを出しても到底売れるとは思えません。そう、このような超有名曲の場合、よっぽどの個性が無いことには、お金を出して買おうと言うほどの気持ちにはならないもの、その意味で、このバイエルンとのCDも「One of them」の範疇を出ないものでした。
しかし、伏兵は意外なところに潜んでいました。全くノーマークだったシェーンベルクの「浄夜」の素晴らしいこと。一切の化粧を廃した(それは、ノーメーク)わけではなく、この作曲家が将来「創設」することになる醜い音楽とは一線を画した、まさにロマン派そのものの美しさを持つこの曲の魅力を最大限に引き出した演奏だったのです。場面が変わるごとに現れる新しいテーマは、そこでしか存在し得ないほどのギリギリのはかなさで歌われています。その、殆ど現代では赤面すら伴いかねないロマンティシズムを、真っ向から歌い上げてくれたヤンソンスには、脱帽です。

おとといのおやぢに会える、か。


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