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ミニスカート....渋谷塔一

(01/4/9-01/4/26)


4月26日

MICHAEL KAMEN
The New Moon in the Old Moon's Arms
Leonard Slatkin/
The National SO etc.
DECCA/467 631-2
(輸入盤)
ユニバーサルミュージック
/UCCL-1009(国内盤)
ケイメンって知っていますか?指先をぬらす時に使うスポンジみたいな…(それはカイメン
そんな与太は忘れて、マイケル・ケイメンという音楽家は、映画音楽、例えば「ダイ・ハード」などで有名な人ですね。もともとはクラシックから出発した人ですから、このシリーズでも「第九」とか「フィンランディア」をうまく使っていましたね。
その他にも、大規模な野外のイヴェントなどで、大編成のオーケストラとロックバンドが一緒に演奏する時などに、アレンジとオケの指揮でその才能を発揮していました。最も印象深いものが、ベルリンの「壁」崩壊後に行われた、ロジャー・ウォーターズの「The Wall」コンサート。あの歴史的な事件にリンクして、ピンク・フロイドの同名のアルバムを様々なアーティストがカバーした壮大なイヴェント、ゴンドラに乗り込んだウォーターズと音をシンクロさせるために、長髪を振り乱して全体を仕切っていた熊のような男が、ケイメンなのでした。
確か、東大寺で行われた世界遺産がらみのコンサートにも、参加していたはず。ああいうシチュエーションでのオーケストラの扱いには、確かに手馴れたものが感じられたものです。
そんなケイメンの、これはオリジナルのクラシック作品です。タイトルの「The New Moon in the Old Moon's Arms」は、かつてニューヨーク州に住んでいた先住民のイロコイ族(色恋沙汰に血道を上げている小室○哉のような人種…ではありません)の言い伝え、「三日月の光の輝きは、やがて来る新月の暗黒を浮き上がらせる」からとられたもの。直訳すれば「欠けゆく月の腕の中にある新月」とでもなるのでしょう。国内盤に付けられた「いにしえの月に抱かれた新月」というのは、さらに「先住民」を意識した超訳。ちょっと普通の人のセンスからは出てこないものです。
それはともかく、曲の方は、チェロとフルートによる二重協奏曲という形をとった交響詩です。チェロは「ワシ」、フルートは「ココペリ」という、笛を吹きながら踊る祈祷師のようなものを現しているそうです。ここでフルートを吹いているのが、河野俊子さん。日本人として初めて、ナショナル交響楽団というメジャーオーケストラの首席奏者になった方ですが、まだ活躍されているのですね。殆どフルートがリードしているようなこの曲で、しっかりその役割を果たしています。
カップリングは、「Mr. Holland's Opus」、つまり「陽のあたる教室」(これは誤訳ではなく、確信犯的な珍訳)の音楽をコンサート用に構成した「アメリカン・シンフォニー」。映画を見て泣けた人は喜ぶでしょうが、これだけ聴いてもちょっと、というもの。フィナーレでロックバンドが入ってきますが、スラトキンのノリの悪さったら!ケイメン自身が指揮をしていれば、こんなことにはならなかったでしょうに。

4月23日

LIGETI
The Ligeti Project I
Pierre-Laurent Aimard(Pf), Peter Masseurs(Tp)
Reinbert De Leeuw/
Schönberg Ensemble, Asko Ensemble
TELDEC/8573-83953-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-10783 (国内盤 5月23日発売予定)
先頃他界したイャニス・クセナキスと同世代の、今年78歳となる現代音楽界の大御所ジェルジ・リゲティ、ヒマラヤの山奥に引きこもったりはしないで(それって、イエティ?)まだまだ活発な創作活動を行っています。
彼の作品は、全てマインツのショット社から出版されており、録音もショットのレーベルであるWERGOから数多くリリースされていました。もっとも、これはそれこそ1960年代あたりから継続されていたプロジェクトですから、今となっては多少古さを感じないわけにはいきません(なにしろ、「2001年〜」のサウンドトラックですからね)。そこで、新たに、彼の全作品を録音しようという壮大なプランのもとに1996年に始められたのが、SONYレーベルの「György Ligeti Edition」。サロネンなどの俊英を起用してのこのシリーズは、快調にリリースを進めていくかに見えたのですが、7巻が出たところであえなく頓挫、行きがかり上8巻にあたるオペラ「グラン・マカーブル」を置き土産に、完全に撤退してしまうのです。原因は色々と噂されていますが、基本的に、このレーベルにはもはや真面目にクラシックを続けていく情熱がなくなっているのでしょう。
そんな中、この文化事業を引き継いでいこうとする殊勝なレーベルが現れました。現在、もしかしたらクラシックに関しては最も元気のよいTELDECがその人(ってのは変か)。「The Ligeti Project」の名のもとに、SONYが果たせなかった仕事を完遂させようとしています。おそらく、今回は最後までやり遂げてくれることでしょう。
その第1回目のリリースがこれ、室内オケのための「メロディーエン」、「室内協奏曲」、それに「ピアノ協奏曲」と、トランペットと室内オケによる「マカーブルの謎」が収録されています。
最初の2曲は、70年代初頭の作品。指揮者のデ・レーウは、当時のリゲティのアイデンティティであった「トーンクラスター」を使った無機的なスコアから、実に豊かな音楽を導き出しています。「メロディーエン」の色彩的とさえ感じられる息遣いは、曲の誕生から30年の時を経て、演奏者が客観的に美しさを認識できるようになった成果なのでしょう。
88年に完成したピアノ協奏曲になると、作風がガラリと変化しているのが分かります。いつまでも「前衛」ではいられないという、現代の作曲家が必ず一度は迷い込む岐路でリゲティが選択したものは、もっと直接的に感覚を共有できるある種の「分かり易さ」。この曲などは、バルトークの「ピアノ協奏曲第4番」といってもおかしくないほど、この同郷の天才の語法を随所に垣間見ることが出来ます。独奏を担当しているエマールのせいではないのでしょうが、時折メシアンのような響きが聴かれたのは、新しい発見でした。複雑なリズムが入り組んだ第1楽章から、切れ目なく続く第2楽章冒頭の、低弦のドローンに乗ったピッコロの低音がかもし出す物悲しいたたずまいは、あたかも21世紀の「癒し」の源流であるかのように聴こえてきます。

4月22日

VIVA VERDI
Edition du centenaire
Various Artists
RCA/74321-79622-2
さて、春本番。そろそろ、ゴールデンウィークの予定でもたてますか。「うまく休めば10連休」なんて記事も見かけました。時間が充分取れれば、先日店頭で見かけた、「レーガー室内楽作品全集、23枚組」なんかを購入してのんびり聴きたいところです。
しかし私の仕事は、いつもと同じというか、へたするといつもより忙しいかも。とりあえず連休中に楽しもうと思い購入したのが、今回の6枚組です。新録というわけではありませんが、入手して、とてもうれしかったので、どうぞお付き合いを。
何しろ今年はヴェルディイヤー。しかしながら昨年のバッハのようには、新譜がばんばん発売されるわけではありません。純粋なオペラの新譜は、ガーディナーのファルスタッフくらいしか思い浮かびませんし、(これは準備中、しばしお待ちを。)あとは宗教作品集の良いのが少しでたくらい。アリア集は結構出てるけど、やはり物足りないではありませんか。
で、過去の名盤の焼き直しでも結構売れるわけです。昨年から見かける「FONIT CETRA」のシリーズも1930年頃の録音が堂々とまかり通ってますし、今一番話題なアルバムは1960年の「リゴレット」(RICORDI)。今ではご家庭でも見かけますが、当時は高級ホテルにしかなかったという代物(それって、ウォッシュレット?)。ガヴァッツェーニの指揮のものですが、これはいろいろな理由で入手困難だったものが、ひさしぶりに市場に出回ったというもので、これについても、またの機会に。
その「リゴレット」と聴き比べようと思い、このフランスRCAの6枚組を入手したのですが、これが、まさにあたり。「リゴレット」「椿姫」「トロヴァトーレ」の3曲がスリムケースに2枚ずつ行儀良く収まったBOX仕様で、最初、初心者向けの入門アルバムかと思い見過ごしていたのですが、内容がさすがRCA。お目当ての「リゴレット」は、あのショルティ指揮の63年のRAIの演奏。リゴレットがロバート・メリル、マントヴァ公がアルフレード・クラウス、ジルダがアンナ・モッフォと言った超豪華メンバー。
告白しますと、リゴレットをしみじみ聴いたのは約20年ぶり。当時、「泣き虫ソプラノ」イレアナ・コトルバスにはまっていた私、ジルダ目当てでジュリーニの新録を買ったくらい。しかし、それから突然ドイツオペラに方向転換。全く遠ざかっていました。
そんなわけで、「ヴェルデイは歌手で聴くもの」という間違った先入観を抱いていましたが、さすがショルティは違いますね。オケのかっこいいことといったら、それはもう感動物です。ヴェルデイ特有の「ズチャチャチャ」のリズムが、決して単調になることなく、極めて説得力を持って響いてくるのです。久しぶりにわくわくしましたね。こんなに面白い曲だったっけ。もちろん歌手も最高。メリルのリゴレットも説得力あるし、クラウスのマントヴァ公は妙に上品なところが良いです。暇さえあれば聴いてるので、他の新譜に手がまわらなくてすみませんね。マスター。
リゴレットだけでもこんなに楽しめたのに、まだあと2曲入って、4500円くらい。2300円くらいの新譜を2枚買うのもいいけど、こういう買い物も楽しいものです。

4月19日

SIBELIUS
Kullervo
Paasikivi(MS), Laukka(Bar)
Osmo Vänskä/
Lahti SO
BIS/CD-1215
(輸入盤)
キング・レコード
/KKCC-2313(国内盤)
一昨年、実演を聴きに行って以来、すっかりヴァンスカファンになってしまった私。新譜が出る毎に大騒ぎして、「ヴァンスカ、どうすか?」と、勧めてまわって(これは「おやぢ」ではありません)、顰蹙を買い続けているんだから、我ながら情けないです。
今回はシベリウス初期の名作「クレルヴォ」ですね。幼稚園の男の子が活躍する物語(それは「クレルヴォしんちゃん」)ではなくて、フィンランドの一大叙事詩「カレワラ」からの、クレルヴォとその妹の悲劇的なエピソードを基にしたものです。終楽章には男声合唱が入り、第3楽章後半はソプラノとバリトンの独唱が入るという大掛かりな曲です。
26歳の若きシベリウス自身の手で初演され、聴衆から大絶賛を浴びたにもかかわらず、なぜか彼はこの作品を引っ込めてしまったのです。学生時代、師であったヴェゲリウスから、さんざんワーグナー礼賛を吹き込まれたにもかかわらず、彼はワーグナーの誇大妄想的な性格が肌にあわず、全く違う道を探求したというくらいですから、このような大掛かりな作品は、シベリウスの性格に合わなかったという事でしょうか。
森の中で美しい娘と出会ったクレルヴォ、ついつい関係を持ってしまいますが、実は妹だった・・・。確かにどこかで聞いた話ではありますね。
全体は5つの部分に分かれていて、それぞれ「序奏」「クレルヴォの青春」「クレルヴォと妹」「クレルヴォの戦い」「クレルヴォの死」の情景を描きだしています。
民族音楽からの直接の引用はありませんが、書かれている音楽は、フィンランド音楽そのもの。当時の聴衆が熱狂したのも当然でしょう。後期の交響曲とは全く違った味わいの曲ですが、これはこれで良いものです。
さて、ヴァンスカです。ベルグルンドの新しい方の録音と聞き比べてみましたが、(フィンランド放送響)派手で、聞かせどころを押さえたベルグルンドとは違い、しっかりと細部まで心のこもった演奏なのが、いかにもヴァンスカらしいところです。ラハティ交響楽団の音も、いつもながら素晴らしく、特に弦の深い音は一聴に値します。
「クレルヴォの青春」と題された第2楽章、これはクレルヴォの虐げられた時代だそうで、どちらかというと悲痛な音楽なのですが、ヴァンスカはテンポを遅く取って、じっくり聞かせてくれます。
第3楽章がこの曲の中心。4分の5拍子という変則的なリズムに乗って兄妹の物語が歌われます。これはワーグナーとは違った野性的表現が必要とされますが、ここが素晴らしい。ソロの2人も、決してオペラ調になる事はなく、抑えた表情で、この悲劇を切々と歌い上げます。
全体を通して、深い共感をしみじみ感じました。かなり重い曲ですが、シベリウスを知るためにはぜひ聴いておきたいところです。

4月18日

BLUEBIRD
Voices from Heaven
Edward Higginbottom/
The Choir of New College Oxford
DECCA/466 870-2
(輸入盤)
ユニバーサルミュージック
/UCCD-1028(国内盤)
もうお彼岸は終わりましたが、お彼岸にぼたもちは付き物。ヒガンボタモチ…ヒギンボトムというのが、今回の指揮者(それが「強烈なおやぢギャグ」かい)。演奏はオクスフォード・ニューカレッジ聖歌隊です。
イギリスのオクスフォード大学(University)というのは、40近くのカレッジが集まったもの。それぞれのカレッジは、独自の歴史を持っていますが、1379年に創設された「ニュー・カレッジ」に、創設と同時に作られたのが、この「ニュー・カレッジ聖歌隊」です。1976年にエドワード・ヒギンボトムがこの聖歌隊の指揮者に就任してからは、演奏水準やレパートリーの幅が格段に高いものになりました。世界各地に演奏旅行に出かけていますし、録音されたCDも今までに70枚を超えています。その主なものは、HYPERIONとかCRDといった、どちらかというと地味目なレーベルへの録音、曲目もバードやパーセルといったイギリスのルネッサンスやバロック関係、なかなか渋いものです。ヒギンボトムはここに来る前はフランスで活躍していましたから、その方面の「フォーレ/デュリュフレ」(CRD)なども、一聴の価値があります。
そんな、堅実な道を歩んでいた聖歌隊が、1996年に突然ERATOというWARNER系のメジャーレーベルから「Agnus Dei」という、バーバーの「アダージョ」の合唱版をタイトルにしたオムニバスアルバムを出したのです。これは、「ヒーリング・ミュージック」として大々的に売り出されました。この路線は97年のクリスマスアルバム「Nativitas」、98年の「Agnus Dei II」と続き、セールス的にはかなりの成果をあげたとか。
そして、今回どのような経緯からか、DECCAからこんなアルバムが出ました。コンセプトはもちろんERATO盤と同じ「ヒーリング」。しかし、これは、本来の目的(癒し…、ですか)として使われるのにはもちろん十分な性能を持っていますが、それだけではちょっともったいないような良い内容です。そう言えば、バーバーの「Agnus Dei」も、なかなか心に染みる名演でしたし。
今回素晴らしいのは男声パート。トレブルはやはり多少物足りない面もありますが、それをカバーして余りある力を発揮しています。ラフマニノフの「晩祷」からの曲が2曲あるのですが、まるでロシアの合唱団のような深い響きには圧倒されます。やはりロシア系のグレチャニノフの「信仰告白」も、素晴らしいものです。
あとは、このようなアルバムの定番、ジョン・タヴナーとアルヴォ・ペルトも、しっかりチェックしておきましょう。信仰心に裏付けられた演奏には、確かに引き込まれるものがあります。面白いのはメシアンの「おお聖餐よ」。彼の官能的な和声が、無垢な少年の声によって禁欲的な響きに変わるという、珍しい体験に浸れることでしょう。
時折聴かれるオルガンやハープなどの伴奏楽器も、なかなかのもの。特に、相棒の少アンサンブル「カプリコーン」は、きちんとした様式感でフォーレとモンテヴェルディの音楽を描き分けています。

4月16日

ENERGY
Elisabeth Chojnacka(Cem)
OPUS111/OPS 30-293
チェンバロという楽器は、今でこそオリジナル楽器の花形として、バロック以前の音楽を演奏する時には欠かせないものになっていますが、ほんの1世紀ほど前は、音楽シーンから全く忘れ去られていたものなのです。音楽に限りませんが、19世紀というのは「新しいもののほうが古いものより優れている」という、今から見ると信じられないような歴史観に支配されていた時代。ピアノという、「より大きな」音が出せて、「より表情豊かな」演奏が可能とされていた鍵盤楽器の進出によって、バッハなどはピアノで弾くことが当たり前のようになり、チェンバロは完全にその存在価値がなくなっていたのですね。
20世紀に入って、この楽器の復権に尽力した人が、有名なランドフスカです。ただ、彼女がやったことは、チェンバロを現代の楽器として蘇らせること。そこで、ピアノのメーカーであったプレイエルに、ピアノのフレームの中にチェンバロの機構を組み込んだ楽器を作らせます。これが「モダンチェンバロ」と呼ばれるもので、ヘルムート・ヴァルヒャとか、カール・リヒターといった、一時代前の演奏家はみんなこぞってこのタイプの楽器を使って演奏していたものです。
しかし、今では、このようなまがい物の楽器を使う人は殆どいません。チェンバロが用いられていた時代の音楽がごく日常的に演奏されるようになってくると、この楽器本来の繊細な音が求められて来るのはごく自然な流れで、現在は「チェンバロ」といえば、かつて使われていた時代の楽器をコピーした「ヒストリカルチェンバロ」のことを指すのが、一般的になっています。
というわけで、前置きが長くなってしまいましたが、今回のチェンバリスト、ホイナツカは、このような時代にあって、唯一モダンチェンバロにこだわりつづけている孤高のプレーヤーなのです。もっとも、ここうが大事な点なのですが、彼女のアイデンティティは前衛的な現代曲をチェンバロで演奏すること、華奢なヒストリカルでは、とても使い物になりません。
リゲティ、クセナキス(ご逝去の報に接し、謹んでおくやみもうしあげます)といったビッグネームから絶大の信頼を得て献呈された作品の数々は、すでに現代音楽の貴重な遺産になっていますが、このCDには、あくなき挑戦から生み出された最新の作品が収められています。バンドネオン、フラメンコギターから、日本の笙(一柳慧の作品)といった楽器とのコラボレーションを通じて、今の時代に通用するメッセージを送りたいという彼女のコンセプトは、確かな形で伝わってきます。その最も分かりやすいものが、南アフリカの作曲家グラント・マクラクランの、打楽器を使った作品。心地よいリズムからは、ジャンルを超越した音楽の原点を聴き取ることが出来ます。
アヴァン・ギャルドではあまり問題にされないグルーブ感の欠如が、今後の彼女の活動の足かせにならねばと願うのは、老婆心でしょうか。

4月13日

Rarities of Piano Music
at 'Schloss vor Husum'
Marc-André Hamelin(Pf) etc.
DANA CORD/DACOCD559
デンマークとの国境に程近い北ドイツの港町フーズム。詩人テオドール・シュトルムが生まれた町としても有名です。名探偵もいましたね(それはホームズ)。ハンブルクから電車で約2時間もかかるこの町ですが、夏の終わりの一時期だけ、人口密度が上がるのだとか。そうなんです。ここフーズムは、ヴィルトゥオーゾ・ピアノマニア憧れの音楽祭が開かれる町。かの南ドイツの聖地ではありませんが、全世界から、熱狂的なピアノマニアが集まって酒池肉林(これは大袈裟だ)の毎日を繰り広げるという、一度は行ってみたい町なのであります。
14回を迎えた昨年の音楽祭の呼び物は、何と言っても、4年ぶりの登場となったアムランの演奏です。このところ、すっかりHYPERIONの看板アーティストとなった感のある彼ですが、こちらの盤の方が販売枚数の少なさから言っても、演奏している曲目のマニアックさから言っても、マニアの間では高く評価されているのは、間違いないところでしょう。
92年のこの音楽祭で、「ショパンの練習曲を3曲同時進行で弾く」という、あのゴドフスキーも真っ青の技を披露して、「すごいピアニストがいる」と話題をさらったのが、そもそものアムラン伝説の始まりと言えばわかりやすいでしょうか。
しかしながら、今回のアムランは、ヤナーチェクの小品と、これまた自作の「ミュージック・ボックス」という静かな曲。確かにうまいのだけど、「割合普通のレパートリーだよな」とちょっとがっかり。で、もう一人のお目当てのフランチェスコ・リベッタの演奏によるゴダールの「マズルカ第4番」。これが案外面白く、「もうアムランも終わりかな」なんて考えていました。
ところが、CDの最後にソプラノのアップルバウムの歌が入っているではありませんか。これが、この盤の目玉商品。そう、実はこの人、アムランの奥さんで、2人の共演では、以前にもM&AHELICONレーベルから、各1枚ずつ良質のキャバレーソングを出しています。
今回演奏してるのは、まずプーランクのおなじみ「愛の小径」、ホランダーの「ユダヤの金貸し」、ソンドハイムの「私の迷う心」の3曲。特に面白いのが、「ユダヤの金貸し」。これはビゼーのカルメンのハヴァネラの替え歌で、がめついユダヤ人の金貸しについてドイツ語で歌われます。ドイツ語のカルメンというと、あのケーゲル盤を思い出しますが、あのニコリともしない冷徹なハヴァネラと違って、こちらは大爆笑。聴いてる私には意味はほとんどわかりませんが、思い切り想像はつきますよ。その上、アムランのピアノがまた即物的でなんとも可笑しいのです。とにかく楽しくて洒落た演奏でした。
真面目くさってパロディを淡々と弾くアムランなんて、ちょっと想像もつかなかったのですが、どうも、こちらが彼の真の姿なのだとか。と、すると今回HYPERIONから出たシューマン作品集ももしかしてパロディ?なんて想像してしまいましたけど。

4月12日

LA TRAVIATA
Euros Ensemble
キングレコード/KICC-342
「オペラのアリアを管楽器で吹く」事は、案外多く行われているものです。じかに咽喉から声を出すか、楽器を通して音を出すかの違いはありますが、どちらにしろ、生の息遣いを一番感じ取れる分野。今回のようなアルバムは、歌好きにもたまらない一枚になるかもしれません。
オイロス・アンサンブルは、クラリネットの高橋知己さんが主催する木管アンサンブル(+コントラバス、今回はチェロも)で、現在の日本を代表する管楽器奏者が顔を連ねています。むさい男だけでなく、奥さんの佐久間由美子さんなどが参加しているのが、名前の由来(それはオイロケ・アンサンブル)。以前発売の「真夏の夜の夢」も、良質の編曲と高度なアンサンブルが話題になりましたっけ。
今回は時節柄ぴったりのイタリアオペラアリア集と、ドヴォルジャークの管楽セレナード。
まず、表題にもなっている「トラヴィアータ」ですね。これはご存知の通り、ヴェルデイの傑作で、全曲通して美しいアリアや重唱がこれでもか!とばかりに出てくる超名作です。ここでは約18分ほどのダイジェスト版(?)ですがこれがなかなか楽しいのです。
この「トラヴィアータ」、もちろん編曲の上手さも手伝ってでしょうが、最初の前奏曲から、乾杯の歌を経て、有名なアリア「そはかの人よ」から、自然に第2幕に移って・・・。全く息をもつかせぬ鮮やかさ(これは、昔流行ったフックト・オン〜のシリーズにも通じるものがありますね)。ただし、有名な「プロヴァンスの海」や「パリを離れて」などの曲が抜けているのはちょっと寂しい気もしますが。ま、それはいいです。
他には、プッチーニの名曲「星は光りぬ」、「歌に生き、恋に生き」。ドニゼッティの「人知れぬ涙」、それと、道化師の「プロローグ」に、例のカヴァレリア・ルスティカーナの「間奏曲」といった、いかにもな選曲。
で、演奏ですね。そういえば同じキングのレーベルで、以前モラゲス・アンサンブルをご紹介しましたっけ。あそこは、ほんとにとろけるような息の合ったアンサンブルでしたが、こちらはずいぶん肌触りの違う音楽です。各奏者の技のぶつかり合いの心地良さとでも言うのでしょうか。誰もがみんな聞かせどころを楽しみにしている。そんな感じです。だから、どの曲も本当に面白く聴けますし、アンサンブルの妙もじっくり味わえますよ。
ただ、どうしても歌詞がつかない関係からか、微妙なアクセントや節回しが変わってしまうのは致し方ないことでしょうね(何だかんだ言っても、やはりベルカントとは別物と割り切った方がいいのかな)。でも、気楽にオペラの名旋律が聴けるのは、素晴らしい事だと思います。それも、こんな上質の演奏で。
で、白眉は、ドボルジャーク。ここで参加している、チェロの藤森さんがめっぽう良いのです。もともとニュアンスのある曲つくりをする人でしたよね。今回のアルバムでも、深い響きが魅力的ですし、要所要所はびしっと締めてくれます。特に第3楽章がたまりません。「こんなにロマンティックな曲だったんだ。」と再確認しました。

4月11日

R.STRAUSS/Krämerspiegel
BRAHMS/Die schöne Magelone
Peter Schreier(Ten)
徳間ジャパンコミュニケーションズ/TKCC-15240
毎年、今の時期になると必ず発売される、徳間のドイツシャルプラッテンシリーズ、今回で10期目に突入しました。旧東ドイツの演奏家による良質な音楽を、良心的な値段で(なんたって1枚1000円!)提供するこの企画、昨年はメモリアルイヤーと言う事もあってか、バッハのアルバムが続々発売されましたっけ。
今年はなんでも、ブラームスとヘンデルの特集とかで、今回のブラームスでは、かのアーベントロートやカラヤンにも師事したというギュンター・へルビッヒの交響曲や、これまた渋いペーター・レーゼルが参加したピアノ五重奏曲などなど、地味ながらも滋味溢れる好演の数々が目白押し。一覧表を見るだけでも喜びに事欠きません。
で、その中から一つ。どれも素敵なのですが、ここは私の趣味でこの1枚。ペーター・シュライヤーの「美しきマゲローネ」で行きたいと思います。自動車教習場での教官の言葉ですね(「美しく曲がろうね」…どうしてそこで固まるんですか)。1797年、前期ロマン派の文学者ティークの発表した「民話集」に収められている「美しいマゲローネとプロヴァンスのペーター伯の恋物語」を元にした朗読付きの歌曲集ですよ。これが、なかなか良いはずですが、実はまだ全部聴いてません。
このアルバム、私のお目当てはR・シュトラウスの「小商人の鑑」だったのでした。今回、ブラームス特集ということで、むりやりマゲローネが表題になってますが、もともとメインはこちらでしょう。今のところ、この曲の国内盤の現役は、昨年発売のディースカウの物しかありません。その意味でもこの曲の再発はまにあにとってはうれしいのです。
いくら「音楽は国境を越える」といっても、歌曲やオペラの分野はどうしても理解の面で、言葉の助けを必要としますね。特にリートなどの繊細な言葉の世界になると、なまじっかの語学力では太刀打ちできません。そこで頼りになるのは日本語対訳です。有名な曲なら、なんとか調べる事もできますが、このシュトラウスの曲なんて、資料などほとんど皆無。フィッシャー・ディースカウ盤を買うという手もあるのですが、この小商人の鑑はテノールでいやみったらしく歌われるのこそふさわしい曲。今回のシュライヤー盤は、そんな意味でも、作品目録の重要な穴埋めアイテムとして、歓迎される事でしょう。丁寧な対訳も付いてることですし(シュトラウスとブラームス各1部づつですよ)値段も安い。言う事なしじゃありませんか。
肝心の演奏ですが、いつもは端正なシュライヤーもこの曲では「高慢ちきでいやなおっさん」になりきって、情感たっぷりに歌ってます。実に楽しい演奏です。
そのままブラームスに突入すると、打って変わったように純情な青年になりきっているのですから、ここらへんも聴き所といえましょうか。

4月9日

BACH
Magnificato
Paul McCreesh/
Gabrieli Consort & Players
ARCHIV/469 531-2
その昔、ジョシュア・リフキンという人が、ロ短調ミサの合唱パートを重唱(各パート1人づつ)で歌わせて、大論争が巻き起こったことがありましたね。口角泡を飛ばしていましたから、まず紙で拭いてっと(それはナプキン)。たしかに、前にも書きましたが、作曲者の指定は声部の数だけ、別に合唱でやれとは言ってはいないので、これは根拠のないことではありません。しかし、あの時は、「気持ちはわかるけれど、ちょっとそれは極端だろう」という意見が大勢を占めていたようでした。
最近になって、この「各パート1人」の演奏をちらほら見かけるようになったのは、まさに歴史は繰り返すということなのでしょう。昔と違うのは、今この形をとろうとしている人たちは、必ずしも「オーセンティック」という面からのアプローチを行っているというわけではないということ。さまざまな可能性の中から、最も自分の趣味にあった形を選択していこうという、かなり余裕のあるスタンスが見られます。
ポール・マクリーシュ率いるガブリエリ・コンソートも、そんな余裕を持った中での演奏を繰り広げているように見られます。今の時代、バッハの解釈はなんでもあり、やったもん勝ち、そんな感じでしょうか。
「マニフィカート」では、編成云々よりも、そのテンポ設定に驚かされます。冒頭の合唱の異常ともいえる早さ、確かにこれでは大人数の合唱ではついてはいけないでしょう。身軽な編成だからこそ可能になったアクロバット飛行、しかし、それでも、必死になって歌っている様子がありありとうかがえて笑えますが。
アリアについても、ちょっと首をかしげるようなテンポ、アルトとテノールの「Et misericordia」あたりは、今まで聴いてきたものとはまったく別の音楽です。それで納得できる面があれば良いのですが、どうも心の琴線に触れることはありません。イントロがおわって歌い始めるときに、歌手たちにほんの少しためらいが感じられるのは、気のせいでしょうか。
しかし、カップリングの「イースター・オラトリオ」の方は、うって変わってしみじみと聞かせます。この表現力の振幅の大きさが、マクリーシュの身上なのでしょう。トラヴェルソのオブリガートがついた、ソプラノ(キンバリー・マッコード)の長大なアリアは、バックの確かな演奏に支えられて、とても聴き応えがあります。絶品は、2本のリコーダーが入ったテノール(ポール・アグニュー)のアリア。リコーダーの的確な配置(少し遠めに聴こえてきます)と相まって、しっとりとした情感が、確かに伝わってきます。続くアルト(ロビン・ブレイズ)の元気の良い歌声も魅力的。
しかし、どちらの曲も、ソリストだけによる合唱については、違和感を拭い去ることは出来ません。とくにマニフィカートでは、ソロとトゥッティの対比というものが曲の大きな要素になっているはず。もっとも、合唱も大きくなるとアンサンブルや発声で問題が出てくるのでしょうから、一概には何がベストかは決められないのでしょうがね。

きのうのおやぢに会える、か。


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