減額、始終損。.... 佐久間學

(09/4/17-09/5/6)


5月6日

漣流
日本のポップスの源流を作り出したヒットメーカー
和田彰二著
音楽出版社刊(CDジャーナルムック)

ISBN978-4-86171-052-0


日本とは全く異なる文化の中から生まれた西洋音楽は、それが日本に紹介されたときには「洋楽」と呼ばれていました。それに対し、それまで我が国の中で伝統的に演奏されていた固有の音楽は「邦楽」と呼ばれて、その差別化がはかられていたのです。そんな「洋楽」を日本の中に取り入れるための先人の努力に関しては、外国から音楽教師を招聘したり、日本人が単身ヨーロッパへ留学してその地の音楽を吸収したりと、なみなみならないものがありました。もっとも、それは近代国家として生まれ変わることが最優先課題であった当時の日本の、いわば国を挙げてのプロジェクトでしたから、どこか教条的で押しつけがましい側面があったことは否めません。その影響は1世紀以上経った今でも残ったまま、「洋楽」の名残のクラシック音楽が一般国民の生活の中に溶けこむことはついにありませんでした。
現在では「洋楽」という言葉は、それが最初に用いられたときとは全く別の意味で使われるようになっています。いつの頃からか、「洋楽」、「邦楽」という分類は主にレコード業界で「外国の音楽」と「日本の音楽」という意味での分類として使われるようになり、それは次第に「外国のポップス」、そして「日本のポップス」という意味に変わってしまっていたのです。今の若いコが「『邦楽』は聴くけどぉ、『洋楽』はあんまりぃ」と言ったからといって、決して彼女らが「新内」や「常磐津」が好きなわけではありません。それは単に「ドリカム」は聴くけれど、「オアシス」はちょっと、といった程度の意味なのですからね。
そんな「洋楽」、つまり、外国のポップスがようやく日本に紹介されるようになったのは、今から半世紀ほど前、1960年頃のことでした。本来の「洋楽」を取り入れる際に明治政府が西洋のメロディに日本語の歌詞を付けて「唱歌」と定めたように、この時代でも、やはり外国語の歌を普及させるために歌詞を日本語に直すという手法を使ったことは注目に値します。そんな、外国の曲を日本語によって日本人がカバーするという、後世「カバー・ポップス」と呼ばれることになる一連の曲がテレビやラジオから流れ、ほとんどの日本人がそれを口ずさむという時代が、数年間にわたって続きます。その頃を生きた世代の人であれば、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」や、弘田三枝子の「ヴァケーション」などは、今でもそらで歌えることでしょう。
そんな、画期的なムーヴメントが、ほとんど1人の人間によって引き起こされたものであったのには、今さらながら驚きを隠せません。それが、この本によって多角的に紹介されている、漣健児(さざなみけんじ)という作詞家、というよりはプロデューサーです。彼が1960年から1963年にかけて手がけたそのようなカバー曲は、200曲を超えるというのですからすごいものです。
しかし、例えば「♪真っ赤なお鼻の/トナカイさんは」という、今でも多くの日本人に親しまれている訳詞を作った人物にとっては、そのペンネームである漣健児としての業績などはほんの一部のものに過ぎなかったことも、この本によって明らかになるのです。音楽出版社の経営者を父に持つ草野昌一という本名の音楽雑誌の編集者は、後にその音楽出版社のトップとして、日本に於ける著作権ビジネスの先駆けを担うことになりました。そんな草野の多方面にわたる活動を、当時の関係者(もちろん、カバー曲を歌ったアーティストも含まれます)の証言を元につぶさに綴った労作、そこから見えてくるものは、ポップスの世界でもクラシック同様ひたすら求められた本場物の模倣という、この国独自の文化の導入の手法です。それと同時に、クラシックなどは及びもつかない熾烈な音楽ビジネスの世界も、ここからは垣間見ることが出来ることでしょう。

Book Artwork © Ongaku shuppansha, Co., LTD.

5月4日

胡旋舞
Sharon Bezaly(Fl)
鍾耀光/
臺北市立國樂團

BIS/SACD-1759(hybrid SACD)


なんか、すっごくかっこいいジャケットじゃないですか。中国を舞台にしたアクション映画みたいな感じですね。「ドラゴンボール・エヴォルーション」とか。そうなると、ここでフルートをまるで剣のように構えて女忍者っぽく決めているシャロン・ベザリーは、さしずめプルマ役のエミー・ロッサムでしょうか。
もちろん、これは映画のDVDではなく、れっきとした音楽SACDです。水墨画と漢字でデザインされているのは、ここで演奏されているのが中国、正確には台湾の音楽だからです。ベザリーのフルートと「國樂團」とのコラボレーション、彼女もまた、ものすごいところにまで手を伸ばしたものです。ちなみに、ベザリーは漢字では「莎朗・貝札莉」になるんですって。
中国の民族的(伝統的)な楽器というと、ちょっと前に流行っていた「女子十二楽坊」あたりを思い浮かべればいいのではないでしょうか。ただ、中国の場合、日本の伝統楽器とは決定的に異なる部分があることは、注意しておく必要があるでしょう。日本の場合、例えば雅楽などで用いられる伝統的な楽器というのは、作られた、あるいは外国から渡来したその最初の形がそのまま現在まで伝えられています。言ってみれば「オリジナル楽器」で、それこそ正倉院などに残っている1000年以上前の楽器と同じものを、今でも用いて演奏しています。それに対して、中国では昔の楽器がそのままの形で伝えられることはなく、その時代の演奏の要求に応じて徐々に「改良」されてきているのです。それこそ「モダン・ヴァイオリン」のように、より機能的に「進歩」しているのが、現在の中国に於ける「伝統楽器」なのです。中には、19世紀にヨーロッパから伝わったツィンバロンが原型の「揚琴」などという楽器もありますし。
「女子十二楽坊」がそうであったように、そのような楽器を集めた「國樂團」、つまり中国オーケストラは、ヨーロッパの現代楽器(さらには電子音源)ともなんの違和感もなくアンサンブルが可能になっています。おそらくチューニングももはや民族的な音律ではなく、平均律に近いものになっているのかもしれません。
このオーケストラの指揮者でもある鍾耀光の作品では、そんな完璧に西洋音楽を再生するツールとして民族楽器をとらえた、まさに西洋音楽としての語法が展開されています。ベザリーのために作られ、この録音が世界初演となる「フルートと中国オーケストラのための協奏曲」からは、和声といい旋律といい、まるで近代フランスの作品のようなテイストさえ感じられないでしょうか。「國樂團」の響きも、ひたすら西洋の楽器の模倣に努めているように感じられます。二胡はヴァイオリン、琵琶はヴィオラといった具合、もしかしたらそのひたむきさは、ヴァイオリン・パートをクラリネットで代用するといういわゆる「ブラスバンド」などよりも、よほどオーケストラに近いものを実現させているのではないか、と思われるほどです。循環呼吸を駆使したベザリーの名人芸と相まって、これは民族性を超越した普遍的な作品として存在しています。
その反対のケースが、馬水龍という人が元々は西洋のオーケストラと中国の横笛のために作った協奏曲を、「國樂團」とピッコロという、それぞれ別の文化圏の楽器に置き換えたものです。そこでも、「國樂團」は見事にオーケストラの代役を演じています。
そんな面倒くさいことを考えなくとも、いかにも「中国」丸出しのノーテンキな小品も用意されているこのアルバムで、この国の人たちが自らの民族音楽と西洋音楽との間で折り合いをつけたある種の「結論」を味わってみようではありませんか。そこからは、あまり細かいことには拘泥しない(「こうでいなくっちゃ」とは考えない)おおらかな民族性のようなものが見えては来ないでしょうか。

SACD Artwork © BIS Records AB

5月2日

The Priests
The Priests
EPIC/88697339692


「ローマ・カトリック教会の現役神父3人によるコーラス・グループ」という謳い文句で、センセーショナルなデビューを果たした、その名も「ザ・プリースツ」のアルバムです。日本語だとそのまんま「聖職者たち」となるのでしょうが、あえて欧文表記。かつて、ただの「3人のテノール」という名前だったユニットを「3大テノール」という、あたかも最高のテノールが3人集まったかの様に聞こえる強引な価値の押しつけに「翻訳」して売りまくった日本の音楽業界だったら、せめて「3大神父」ぐらいのサブタイトルをつけるはずなのに、とは思いませんか?あるいは「3人の下着男」とか(それは「ザ・ブリーフス」)。
歌っている人の職業や、このジャケットから、アルバムの内容は大体想像がついたような気がしていました。おそらくここでは、彼らが実際にミサなどで歌っているであろうグレゴリアン・チャントなどを、しっとりと無伴奏で歌っているのではないか、と。
しかし、実際に聴いてみると、そんな先入観は全く見当はずれであったことに気が付きます。そもそも「コーラス・グループ」という言い方が、正しいものではありませんでした。一応2人のテノールと1人のバリトンという編成ですが、この3人は殆ど「コーラス」はやっておらず、もっぱらそれぞれが交代でソロを取る、という形で演奏は進んでいくのです。時折2人で「ハモる」ことがあったとしても、それは「コーラス」というよりは、カラオケの「デュエット・ソング」みたいな、お互いがそれぞれ自己を主張し合うだけで決して声が溶け合うことがない状態にとどまっているものでした。そんなソロたちのバックには、本物の合唱団が控えていて、「コーラス」はもっぱらその人たちの担当となっているのです。そして、さらにそこには分厚いオーケストラの伴奏が付いていたのです。「無伴奏」なんて、とんでもない。
こうなってくると、レパートリーだって「聖職者」っぽいストイックな曲であるわけはありません。そう、これは、歌っている人がたまたま「聖職者」だったというだけの話、実際はそこら辺でいくらでも手に入る「ライトユーザー」向けのヴォーカル・アルバムと何ら変わらないものだったのですよ。まあ、いくらか「宗教的」な匂いがするかな、というぐらいの「差別化」でしょうか。
ジャケットの裏側には、曲のタイトルしか書いてなく、作曲家などは分かりません。その中に「Pie Jesu」という曲がありました。「慈悲深いイエス」という意味を持つこのタイトルの曲は、フォーレやデュリュフレ、あるいはジョン・ラッターの「レクイエム」の中にある、お馴染みのしっとりとした曲です。確かにこれだけ独立して演奏されることも多くなっている、それぞれに魅力的なものばかりですから、いったい何が聴けるのだろうと思っていると、聞こえてきたのはなんとアンドリュー・ロイド・ウェッバーの作品だったではありませんか。確かに、こういうアルバムだったら、それはまさに最初に思いつくべき曲でした。ご存じ、多くのミュージカルを作ったロイド・ウェッバーが、亡くなった父親のために1984年に作った「レクイエム」の中の1曲ですね。ソプラノ、ボーイ・ソプラノ、そして合唱が、まさに「オペラ座の怪人」のテイスト満載のキャッチーなメロディを歌い上げるというもの、おそらくシャルロット・チャーチあたりが最初にカバーしたのを皮切りに、いまでは多くのアーティストが演奏していますね。いや、なんたって初演の時にはサラ・ブライトマンが歌っていたのですからね。

この「レクイエム」は、その他の曲もとても魅力的なのに、未だに初演の時のマゼール盤しかないというのはなぜなのでしょう。日本ではアマチュアのオーケストラでも演奏しているというのに。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

4月30日

MAHLER
Symphony No.2
Simona Saturová(Sop)
Yvonne Naef(MS)
Christoph Eschenbach/
The Philadelphia Singers Chorale
The Philadelphia Orchestra
ONDINE/ODE 1134-2D


最近イギリスの音楽雑誌に掲載された世界のオーケストラのランキングによると、このアメリカの名門オーケストラはもはや「ベスト20」にも入っていないのだそうですね。ストコフスキーやオーマンディによって磨き上げられた華麗なサウンドが数多くのレコードによって聴くことが出来たのはもはや昔の話、今ではどこにでもあるようなごく普通のオーケストラになってしまったのでしょうか。確かに、オーマンディの後を受けたムーティや、さらにサヴァリッシュの時代には、メジャー・レーベルからは録音の契約を打ち切られてしまうという屈辱的な事態も起こっていましたね。そして、さらにミスマッチと思われたエッシェンバッハが音楽監督に就任するにいたっては、アメリカのオーケストラでありながら、こんなフィンランドのマイナー・レーベルからしかCDがリリースされないというヘンなことにもなっていましたし。
そのエッシェンバッハも、昨年のシーズンで職を辞し、後任がシャルル・デュトワになったのだそうですね。しかし、彼にも長期政権は望めないようで、すでに後任の人事が水面下で進行しているのだとか、このオーケストラが過去の栄光を取り戻すことはあるのでしょうか。
それでも、エッシェンバッハとこのオーケストラが創り出した音楽には、独特の何か引き込まれるものがありました。ショスタコーヴィチなどには、身の毛もよだつような凄さがありましたし。そして、このマーラーの2番「復活」でも、一筋縄ではいかない確かな主張を聴き取ることが出来ます。特に印象的なのが、第1楽章の練習番号「7」の部分です。それまでハ短調で深刻に展開されていたものがハ長調に変わり、全く別の明るい音楽が見えてくるはずの箇所で、その明るさを担うであろうヴァイオリンが、とても「暗く」現れるのです。エッシェンバッハによって、あの「フィラデルフィア・サウンド」はここまで変わってしまったのか、という感慨とともに、こんな恐ろしいほどの「暗さ」まで表現できるようになったこのコンビのある意味「成長」を感じたものです。
「原光」に登場するのは、先日のヴェルディでも聴くことの出来たイヴォンヌ・ネフです。なんと言っても、ここのアルト・ソロではマゼール盤でのジェシー・ノーマンの圧倒的な演奏が強烈に印象に残っているので、なかなか満足のいくものには巡り会えないのですが、ネフではそれにかなり近い「深さ」を味わうことが出来ます。ただ、そのテンションが次のフィナーレまでは継続しないで、「普通のアルト」になってしまっているのは残念です。
そのフィナーレ、合唱が入ってくる直前のフルートとピッコロの神秘的な掛け合いは、聴きものですよ。ピッコロの時任さんのとても美しい音色が光っています。そして、一瞬の静寂の中から立ち上がる合唱の素晴らしいこと。この「フィラデルフィア・シンガーズ・コラール」という1991年に創設されたばかりの合唱団は、デイヴィッド・ヘイズの指揮の下、ピアニシモでも繊細さと、フォルテシモでの力強さを併せ持つというレベルの高い演奏を聴かせてくれています。
さらに圧巻は、最後の最後に登場する、彼らの本拠地ヴェリゾン・ホールのオルガンです。そのEsのペダル音が聞こえてきたときには、あまりの音圧に思わずのけぞってしまったほどです。このオルガンの音によって、今まで抑制されていたものがいっぺんに弾けきったのでしょうか、そこからのエンディングの高揚感にはすごいものがあります。最後にはしっかりライブ録音の拍手もカットされずに入っていますので、それはまさに実体の伴ったものであったことも、確認できるのです。
こんなに素敵なオーケストラが、ランキング圏外なんて間違ってます。食べ放題で憂さを晴らしましょう(それは「バイキング」)。

CD Artwork © Ondine Inc., Helsinki

4月28日

BACH
Messe en Si mineur
谷村由美子(Sop), Valérie Bonnard(Alt)
Sébastien Droy(Ten), Christian Immler(Bas)
Michel Corboz/
Ensemble Vocal de Lausanne
Ensemble Instrumental de Lausanne
MIRARE/MIR 081


今年のバレンタインデーに75歳の誕生日を迎えた宗教音楽界の重鎮ミシェル・コルボ、パン作りのかたわら(それは「酵母」)まだまだ元気にコンサートや録音活動を行っています。日本にもたびたび来訪、最近の「ラ・フォル・ジュルネ」ではもはや常連です。そして、この音楽祭の今年の演目である「ロ短調」の最新録音が、極めて関係の深いレーベルから出ました。今やクラシックの世界でもこんな人目をはばからないプロモーションがまかり通っています。
これを録音した場所は、フランスの鄙びた山中、人口200人という集落の中にある「La Ferme de Villefavard(ヴィルファヴァール農場)」のオーディトリアムです。このコンサートホールはそれこそ農場の納屋を改装したような古ぼけた建物で、お客さんは350人しか入らないのですが、とてもよい響きを持っています。そこで、最近ではジェレミー・ロレルのようにわざわざここまで来て録音を行うようなアーティストもいますね。
このCDで聴く限り、確かにこのホールはとても柔らかく暖かい響きに包まれています。そこに、多すぎないけれど、余韻を味わうには充分な美しい残響が付いて、聴くものを和ませます。確かに、こんなサウンドはコルボの作り上げる優しい音楽にはうってつけ、なぜここを録音会場に選んだのか分かるような気がします。
コルボとともにたびたび日本を訪れているローザンヌのアンサンブルは、そんな響きに助けられて、あくまで柔らかな彼らの持ち味を存分に聴かせてくれています。30人ほどの人数の合唱は決して力に頼ろうとはせず、まるで上澄みだけのはかなさで勝負しているようにすら感じられます。それほどに、なにか限りなく「ピュア」に近いサウンドが、そこからは醸し出されています。もちろん、そんな表面的な美しさを求めたところで、心を打ち震わせられるような音楽が伝わってくるはずはありません。そこに広がっているのは、心地よさはこの上ないものの、訴える力には極めて乏しい空虚なものでした。さらに、「Credo」の中の「Crucifixus」などは、思い切り情感を込めて切々と歌って欲しいところですが、コルボはそんな感情の昂揚はあまり好きではないのでしょう。そこでは、まるで冗談のように感情を抑えた無機的な歌い方に徹しています。このように、時には、あえてドラマ性を排除することさえ厭わないのも、彼のスタイルなのでしょう。
ソリストたちにも、そんなコルボの趣味が反映されているのかもしれません。「バス」のイムラーはかなり軽めの声の人ですし、「アルト」とクレジットされているボナールは、どう聞いてもメゾ・ソプラノ、コルボの音楽には重みのきいた低音よりは、爽やかな高音を聞かせることが求められているのは明白です。本来は「第2ソプラノ」が歌うアリアも、このボナールが担当していますし。ですから、アルトの聴かせどころである「Agnus Dei」は、ちょっと困ったことになってしまいました。低音が全くコントロール出来ないものですから、この大切なアリアが台無しになっています。なぜか「フォル・ジュルネ」にもこの人が来るんですね。
ソプラノを歌っているのは、京都出身の谷村由美子さんです。あいにくソロは1曲もなくなってしまいましたが、アンサンブルでは見事に伸びのある声を聴かせてくれています。これも確かにコルボ好みの声ですね。
オーケストラは、もちろんモダン楽器を使っています。「Quoniam」1曲だけのオブリガートのために参加しているホルンは、珍しいことに見事な装飾を披露しています。また、「Domine Deus」と「Benedictus」でオブリガートを吹いているフルートは、とても力強い主張のこもった演奏。それは、そんな穏やかなコルボの世界を真っ向から否定するようなインパクトを持ったもの、彼(彼女?)らのお陰で、この退屈な演奏の中に、確かなアクセントが与えられることになりました。

CD Artwork © MIRARE

4月26日

VERDI
Requiem
Ana Maria Martinez(Sop), Yvonne Naef(MS)
Marius Brenciu(Ten), Giorgio Surian(Bas)
Sylvain Cambreling/
EuropaChorAkademie
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/93.249(hybrid SACD)


ヴェルディの「レクイエム」は、よく「オペラティック」だと言われます。確かに、テキストこそ古くから教会のお祈りに使われた典礼文ではありますが、その音楽は敬虔な宗教曲と言うよりは、もっと生臭い感情の吐露が前面に出ているドラマティックなものに仕上がっていますね。そう感じるのは、音楽の主役があくまでソリストたちであって、合唱が何か添え物のように扱われているという、まさに彼の「オペラ」に於ける状況とよく似ているせいなのかもしれません。有名な「アイーダ」の「凱旋行進曲」にしても、「トロヴァトーレ」の「アンヴィル・コーラス」にしても、その場を盛り上げる効果はあっても、作品としての内容はあまりないような気がします。実際にこの曲を何度か歌ったことのある合唱団のメンバーに聞いたところ、「合唱はつまんないのよね〜」という答えが返ってきました。やはり死者を悼むためには、フォーレみたいにしっとりと歌い上げる合唱の方が似合っているのかもしれません。
このSACDでそんな合唱を担当しているのが、「オイローパ・コア・アカデミー」です。もちろん合唱指揮はダウスが担当、以前ドミンゴ盤にも参加していましたね。今回も、若いメンバーが中心のその合唱団の音質はとても初々しくて清潔です。ソプラノパートあたりは、ですから、ヴェルディにはちょっとミスマッチとも思えるような清楚な感じ、でも、それはそれで新鮮な魅力につながるのでしょう。
期待通り、ここではドミンゴの情熱的な音楽とは対照的なものを目指しているカンブルランのもと、この合唱はとても抑制のきいた「クール」なものを聴かせてくれています。ふつうはまず絶叫してしまうようなあの「Dies irae」でさえ、そのソノリテは揺らぐことはなく、整然としたたたずまいだからこそ迫ってくるような真の意味での「恐ろしさ」が表現出来てはいないでしょうか。そして、圧巻は最後の「Libera me」です。ともすれば混沌の中に埋もれてしまいがちなこの複雑に入り組んだ対位法を、彼らは見事に整然とした構築物として歌い上げています。おそらく、作曲者が望んだもの以上の存在として、この合唱は輝いています。
ソリストたちは、逆にめいっぱい力が入っています。これはもちろんライブ録音なのですが、テノールのブレンチウなどは歌い出しではあまりに張り切りすぎて、とんでもない音程を披露、「Kyrie eleison」の最後の「ン」を、「ンーンニャッ」みたいに見得まで切っていますから、すごいものです。もっとも、音程がひどかったのはそこだけ、あとは見事に立ち直って、朗々とした美声を聞かせてくれています。なんと言ってもドラマティックに迫ってくるのは、メゾのイヴォンヌ・ネフでしょうか。ソプラノのマルティネスはちょっと小粒、バスのスリアンになると、さらにへなちょこになってしまいます。
当然1枚には収まらないので2枚組になっていますが、その余白にハイドンの交響曲第26番「哀悼」と、モーツァルトの「キリエ・ニ短調」が入っています。別にそういうコンサートだったわけではなく、以前の録音をカップリングしただけです。ハイドンなどはそもそも礼拝のための音楽を使い回した曲なのだそうで、それで「レクイエム」との関連性を持たせたいという気持ちは分かりますが、なんとも平板で退屈な演奏、ない方がよかったとしか思えないものでした。「キリエ」では別の合唱団、こちらも有名なマルクス・クリードが指揮するSWRヴォーカル・アンサンブルが歌っています。ただ、録音のバランスが完璧にオーケストラ優先になっているので、合唱は殆ど聞こえないのが難点、同じアルバムで合唱の違いを楽しむというほどのメリットは、残念ながらありません。

SACD Artwork © SWR Media Services GmbH

4月24日

RAVEL
L'Enfant et les Sortilèges
Magdalena Kozená(L'Enfant)
Nathalie Stutzmann(Maman etc.)
Simon Rattle/
Rundfunkchor Berlin
Berliner Philharmoniker
EMI/2 64197 2


ふつう、「オペラ」といえば、少なくとも2時間以上はかかるものと相場が決まっています。最初から最後まで退屈しないで見て(聴いて)いられるものなんて、まずありません。「ラインの黄金」などは全く休憩なしに2時間半ですからたまったものではありませんよね。しかし、ご安心下さい。このラヴェルの「子どもと魔法」というオペラは、ほんの45分程度で終わってしまう作品なのですから。しかも、これは最初から最後まで奇想天外な出来事が絶え間なく繰り出され、とても退屈しているヒマなどありません。なにしろ、子ども部屋にある全てのものが(壁紙や、「火」までもが)、いっせいに命を持って動き出し、歌い出すというのですからね。
そんな楽しいお話にラヴェルが付けた音楽は、やはりとても楽しいものでした。ここからは、「オペラ」というよりは、まるでディズニーのアニメのような音楽が連想されはしませんか?「音の魔術師」と呼ばれているほどのラヴェルのことですから、オーケストレーションはとても魅力に富んでいます。編成自体は非常に大きなもの、木管楽器は3本ずつ、クラリネットだけはE♭クラとバスクラも入りますから4本必要です。そして、数多くの打楽器の他に、シロフォン、チェレスタ、ハープといった特殊楽器も入ります。さらにもう一つ、ピアノ・リュテアル(Piano luthéal)という、聞いたこともないような楽器まで使われていますよ。知ってました?ピアノ・リュテアル。植木等じゃないですよ(それは、「なんである、アイデアル」)。
楽器のことは知らなくても、それが出てくるところで、非常にインパクトのある音が聞こえてきますから、すぐ分かります。それは、宿題を全然やらないで怠け惚けていた「子ども」が、「お母さん」にしかられて、お仕置きに砂糖の入っていないお茶や、パサパサのパンしかもらえないことにキレて、部屋中のものに当たり散らしたあとで、突然肘掛け椅子やソファーが動き出すシーンで出てきます。
このラトル盤では、最初はチェンバロを使っているのかな、と思いました。そのぐらい、今このサイトでは静かなブームの「モダン・チェンバロ」と良く似た音だったのです。しかし、いくら「モダン」といっても、チェンバロにしてはあまりに音が大きすぎます。そこで、Durandのサイトにあったカタログの中の楽器編成を見て突き止めたのが、この楽器だったのです。
それは、どうやら「プリペアド・ピアノ」のようなものなのだそうです。つまり、ピアノの弦(もしかしたらハンマー)に細工をして、ピアノとは全く異なる音色を出すようにしたものです。そういう「楽器」は、あのジョン・ケージが「発明」したと言われていますが、それよりももっと前に、全く同じ発想の楽器を、すでにラヴェルは使っていたのですね。
そんなにいろいろな楽器が使われている大編成のオーケストラにもかかわらず、そのサウンドは厚ぼったい感じは全くない透明なものになっているのですから、それもやはりラヴェルのセンスの賜物なのでしょうね。
キャストは、ラトルの人選であればコジェナーを外すことは出来ません。おそらく、音楽的にはこの緻密なオーケストラに拮抗するだけの力量は間違いなく備えていることでしょう。しかし、なんといってもフランス語のディクションがあまりにも稚拙なために、「フランス風」の粋な肌触りがなくなってしまっているのが惜しいところです。まるで男声かと思うような太い声のシュトゥッツマンも同じこと、「凄さ」はあるものの、それが「心地よさ」にまではつながらないのが、ラトルのチームの限界なのでしょうか。
そんな中にあって、サイモン・ハルジーの指揮するベルリン放送合唱団は、とても柔らかい、まさにラヴェルにふさわしいハイセンスな響きを醸し出しています。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

4月22日

WAGNER
Der Fliegende Holländer
James Morris(Der Holländer)
Deborah Voigt(Senta)
Ben Heppner (Erik)
James Levine/
Metropolitan Opera Orchestra and Chorus
SONY/88697448222


先日の五味康祐の本の中で、オペラの映像についての興味深い記述がありました。例えば、「カルメン」の音楽は素晴らしいのに、それをテレビの画面で見ると、とたんにつまらないものになってしまう、というのです。その根拠となる彼のオペラ映像作品の初体験がカラヤンが作った駄作だったというのは、なんとも不幸なことでした。お陰で彼は、「レコードにあった音楽美が、ビデオ時代には消えてしまう」とまで言い切ってしまうことになるのですからね。そんな、ことさら作為的な映像でなくても、当時NHKで放映されていた「イタリア・オペラ」でも、音楽は美しいのに、それを歌っている人の苦しげな表情を見ると矛盾を感じてしまうと彼は述べています。「容色はいいが才能がないか、声はいいが姿は悪いか、いずれにせよ何か欠けた出演者で、ぼくらは歌劇をみていなければならない。つまり傑作が凡作に変わるのを見つづけなければならない。これは恐ろしいことだ」ですって。
それから30年経って、今では「声もいいし姿もいい」オペラ歌手が数多く出現していることを私たちは知っています。しかし、ビジュアル重視による弊害が勃発していることも、デボラ・ヴォイトの「事件」によって、私たちは知ることになったのです。彼女は、コヴェント・ガーデンの支配人から「デボラ、君はデボラから(デブだから)役を降りてくれないか」と言われてしまったのですね。それで目が覚めたヴォイトは、胃のバイパス手術を受けて、何十キロだかの減量に成功したというのですが、「体が楽器」の歌手がそんなことをして大丈夫だったのでしょうか。
新生SONYが(なんだか、新しい意味不明のロゴマークが付いていましたね)打ち出した新企画は、「Sony Opera House」という、今までの各レーベルのオペラのカタログをミド・プライスで提供する、というものでした。統一デザインがとても良いセンスで、ジャケットだけでも全部揃えたくなるような魅力にあふれています。その中から、まだ生きのいい1994年に録音されて、1997年にリリースされたばかりというレヴァインの「オランダ人」です。ここでゼンタを歌っているのが、「ビフォー」のヴォイト、当時は五味さんがおっしゃるような、姿さえ見えなければとても素晴らしい音楽を味わえたはずの人です。この時期にSONYがまだスタジオ録音のオペラを作っていたなんてちょっとした驚きですが(プロデューサーが、カラヤンのお気に入りだったミシェル・グロッツ)、確かにそういうメリットも「音だけ」のソフトにはあったのですね。
レヴァインにとっては、これが「オランダ人」の最初の録音なのだそうですが、まだ様式的にも音楽的にも晩年のワーグナーとは大きく異なっていたこの作品を、まるで「リング」のような身振りで演奏しているあたりが、彼の見識なのでしょうか。遅めのテンポ、振幅の大きな表現によって、オーケストラからはまさにパノラマのように雄大な情景が広がります。そんな中で、ヴォイトを始めとする重量級の歌手たちも、そんな音楽に沿ったちょっと立派すぎる「オランダ人」を演じているように感じられます。最初の舵取りのモノローグからしてとても立派、「俗物」ダーラントでさえも、まるで神様のような威厳が宿っています。「ゼンタのバラード」などは、まさに息がつまるほどの熱唱、たとえ映像がなくとも、ヴォイトの体躯は眼前に広がります。そこからは、「ちょっと病的なところがある美しい若い娘」というイメージが湧くことは決してありません。
レヴァインのおおらかさがもろに出てしまっているのが、そこでゼンタに絡みつく女声合唱です。男声合唱は荒々しく歌うのがこの作品での役割ですから許せますが、ここでの女声のあまりのアバウトさは、ちょっと耐えられません。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

4月20日

オーディオ巡礼[復刻版]
五味康祐著
株式会社ステレオサウンド刊(SS選書)
ISBN978-4-88073-197-1

芥川賞受賞作家の五味康祐さんは、生前は作家としてよりはオーディオ評論家として有名だったような気がします。1980年に58歳という若さ(!)で亡くなられたときに、それまで季刊誌「ステレオサウンド」に連載されていたエッセイが単行本となりました。それから30年近く経っての、これは復刻版です。表紙のカバーを外すと、全く別の表紙が現れます。確か、昔図書館で見たような気がしますから、おそらくこれがオリジナルの装丁だったのでしょう(復刻されることは想定外?)。

30年前と言えば、もちろんまだCDなどは影も形もなかった時代です。12インチのヴァイナル盤を「ヒゲ」が付かないように慎重にターンテーブルに乗せ、カートリッジの付いたアームをおもむろに盤面に降ろす、という作業(というか「儀式」)がリスニングの始まりでした。タンノイの「オートグラフ」というスピーカー(+エンクロージャー)をこよなく愛し、そこから流れてくるクラシック音楽を語る五味さんの言葉からは、単なるノスタルジアを超えた主張を感じることが出来ます。オーディオとは、あくまで音楽を聴く手段、聞こえてくる音楽そのものがかけがえのないものだという彼の信念は、心を打ちます。
ですから、「音」だけにこだわる同業者への批判には、辛辣なものがあります。最初の頃の章で「或るオーディオの先生」として匿名で登場する人物に対しては「デリカシーを無視」と言いきっています。もっとも、そこでやり玉に挙がっている「虫の声」や「伊勢湾台風」、そして「ピアノの下にビール瓶を並べて録音」などという事例から、それは当時「オーディオの神様」と言われていた高城重躬氏のことだと容易に分かってしまうのですが(元の文章は1974年に共同通信社から発行された「音の遍歴」にあります)。

しかし、その後のエッセイではきちんと実名で登場しており、その筆致にはなにか微妙な距離感を感じられるものがあります。それは、高城氏に作ってもらったコンクリートホーンのスピーカーが、彼にとってはあまり良いものではなかったことへの慚愧の念のあらわれなのでしょうか。
彼にとってのオーディオとは、まさにその時々の人生そのものを反映する音楽を奏でるものだったのです。そのような文脈で登場するのが、彼の赤裸々な「恋愛」、というよりは「不倫」の告白です。結婚する前に愛したものの、結局振られて、今では人妻となっている女性と京都で偶然逢って、「茶房」へ入るというシチュエーション。そこで店内に流れていたのがメサジュの「二羽の鳩」、その「二羽」に自分たち二人を重ね合わせて、矢も楯もたまらず彼女を抱く、という、まるで「小説」のような実体験が語られます。そんなことまでオーディオ誌のエッセイで書かなくても、と思うのですが、おそらく彼の中では「クラシック音楽」というものは、それほどまでの切実さを持っていたのでしょうね。さらに、その時身ごもった子どもを、彼女は出産していた、という後日談まで加わるのですからすごいものです。
そんな生々しい体験と同次元で語られる「クラシック音楽」に、強烈な存在感がないわけはありません。彼が当時所有していたレコードはほんの400枚足らず、今だったらそのぐらいのCDを持っている人など珍しくはありませんが、ここで繰り返し述べられている彼がその1枚1枚に込めたいとおしさを思うとき、「レコードを聴く」という体験に対する決定的な価値観(「世界観」と言っても良いかもしれません)の違いを突きつけられる思いに駆られはしないでしょうか。当時とは比較にならないほどの多くのアイテムのリリースに加えて、ネット配信という名のデータの垂れ流し、こんな時代にまで生き延びなかった五味さんは、とても幸せな「人生」を送ったのではないでしょうか。

Book Artwork © Stereo Sound Publishing, Inc., Kyodo News

4月17日

MOZART
Requiem(String Quartet Version)
Quatuor Debussy
DECCA/480 1938


フランスのUNIVERSALということで、当初はACCORDレーベルで出る予定だったものが、手に入れてみればなぜかDECCA、こんな風にして由緒あるレーベルが「グローバル化」の波の中で消えていってしまうのでしょうか。そういえばこの前のケント・ナガノのブルックナーにしても、予告では「RCAからの第2弾」とか言っていたものが、出た時にはSONYになっていましたからね。
ペーター・リヒテンタールというベタベタした名前(それは「コールタール」)の人が弦楽四重奏に編曲したモーツァルトの「レクイエム」は、かつてはアグライア・カルテット(STRADIVARIUS/1997年)とクイケン・カルテット(CHALLENGE/2003年)の録音ぐらいしかないレアなものだったのですが、2006年の「モーツァルト・イヤー」を契機に何種類かのものがリリースされたようです。そんな中での、知る限りでは5番目の録音となるのが、このCDです。
1780年に現在のブラティスラヴァ、当時はハンガリーのプレスブルグという町に生まれたリヒテンタールは、ウィーンで医学と音楽を勉強し、後にイタリアのミラノで医者としての生業のかたわら、アマチュアの作曲家として生涯を送りました。モーツァルトの遺族、特に長男のカール・トーマスとは非常に親しかった彼は、この「レクイエム」を始めとして多くの作品を編曲、モーツァルトの伝記なども著しています。彼自身の作品も50曲ほど残されており、曲以外でも「ご婦人のための和声楽」とか、音楽事典なども出版していたそうです。
こちらに書いたように、リヒテンタールの編曲は、おそらくそのまま演奏されているアグライア・カルテットのものを聴いてみると、ただ楽器を置き換えただけのような気がして、それほどの魅力が感じられるものではありませんでした。しかし、クイケンたちのものでは、かなり楽譜に手が加えられていたようで、確かに弦楽四重奏の編成で聴いても、違和感なく「レクイエム」の精神が伝わってくるものとなっていましたね。
今回のドビュッシー・カルテットの録音でも、やはり彼ら自身によって改訂が施されています。例えば「Lacrimosa」では、モーツァルトが最後に書いたとされる部分、半音進行でだんだん音が高くなってクライマックスを迎えるところで、オリジナル(編曲前のジュスマイヤー版)にはない細かい音符に変わっているのには驚かされます。このたたみかけるようなリズム、しかし、それは、なぜかクイケンと全く同じリズムなのですね。楽譜がないのでなんとも言えませんが、もしかしたらこれはアグライアの最初の録音では、リヒテンタールの指示に従わないで元の形に戻して演奏していたのかもしれませんね。そういう疑わしい部分ではなく、もっとはっきり分かるのは、間奏を挟んでこの楽章の最初のテーマが現れるときに、1オクターブ高く演奏されていることです。クイケンもそんなことはしていないので、これはドビュッシー・カルテットの独自のアイディアなのでしょうが、これが非常に効果的なのですよ。ファースト・ヴァイオリンの高音が優しく響き渡るときに、ある種の安らぎが感じられるのは確かなことです。
そんなアレンジにも現れているように、彼らの演奏は「歌」を大切にしたとても暖かい肌触りを持ったものです。優しく包み込むようなそんな感触は、合唱ではなく重唱で歌われる「Recordare」や「Benedictus」で、最良の結果が現れています。オリジナルの歌手たちではまず不可能な緊密なアンサンブルからは、これらの曲が秘めていた透明な魅力が最高の形で伝わっては来ないでしょうか。中でも「Benedictus」の美しさといったら。もちろん、これはジュスマイヤーが作ったものなのですが、モーツァルトの「真作」よりも美しいと感じられたのは、なぜなのでしょう。実はこの曲の途中で、メンバーのテンションがはっきり落ちて、急に素っ気なくなるところがあります。彼らもこれを弾いていて「こんなに美しいはずがない」と感じてしまったのかもしれませんね。

CD Artwork © Universal Music Classics France

おとといのおやぢに会える、か。


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