目に余るミュージック。.... 佐久間學

(07/6/24-07/7/12)

Blog Version


7月12日

SIBELIUS
Lieder
Kim Borg(Bas)
Erik Werba(Pf)
DG/00289 477 6612


大昔、それこそ自分のお金で買えるLPなど限られていた頃は、1枚1枚を何回、いや何十回と繰り返し聴いたものです。物が潤沢ではなかった分、愛着の深さは現在の比ではありませんでした。そんな中に、DGのシューベルトの歌曲を集めた10インチ盤のコンピレーションアルバムがありました。そこで「魔王」(「菩提樹」だったかもしれませんが)を歌っていたのが、キム・ボルイという面白い名前のバス歌手でした。演奏自体はすっかり忘れてしまいましたが、その印象的な名前だけは、「君、ボロい」と馬鹿にされたように思えて、それ以来ずっと記憶の中にとどまっています。
おなじみ、「spotlight」シリーズで、あの10インチ盤と同じ黄色いジャケットによるキム・ボルイのアルバムが出たときには、そんな遠い昔の記憶が呼び覚まされる思いで、曲目も確かめずに買ってしまいました。そういえば、彼の写真を見るのはこれが初めて、なかなか端正な顔立ちだったのですね。
キム・ボルイは、1919年に生まれて2000年に亡くなったフィンランドのバス歌手です。オペラでは「ドン・ジョヴァンニ」や「ポリス・ゴドゥノフ」のタイトル・ロールや「バラの騎士」のオックス男爵などが当たり役だったということです。もちろん、先ほどのシューベルトのように、リートの分野でも活躍、このアルバムも、彼の母国の作曲家シベリウスの歌曲を集めたものです。
実は、シベリウスの歌曲などというものは、今までほとんど聴いたことがありませんでした。そもそも、彼の歌曲だけを集めたアルバムなども殆どなかったと言いますから、それも無理のないことなのでしょう。そういう意味で、この1958年にモノラルで録音された歌曲集は、現在でも存在価値を持っているに違いありません。
そんな初体験のシベリウス、ボルイはとっても丁寧に歌ってくれています。彼の声は他の北欧の歌手たちと同様、とても深みのあるものですが、決して重たい印象はなく、どちらかといえば軽め、その上に繊細さが伴っています。フィンランド語の歌詞の歌などは、特に一つ一つの言葉を大切に歌っているのが(意味は全く分かりませんが)、大変よく分かります。そして、彼のすばらしさは、本当に息を潜めるような弱音の部分で最高に発揮されています。まるで細い糸のようにピンと張られたその弱音は、とてつもない緊張を伴って迫ってきます。そんな極上のピアニシモがあるからこそ、フォルテシモとの表現の格差は際だって、とてもヴァラエティにあふれた世界が、このシベリウスから導き出されているのです。
そう、ここで聴くことの出来るシベリウスの歌曲の多彩な内容といったらどうでしょう。素朴な民謡調のものから、ダイナミックに歌い上げるもの、しっとり語りかけるかと思えば、コミカルなテイストまで含まれています。英語のテキストで歌われるものもあり、それなどはまるでミュージカルのような軽さも伴っていますよ。実は今年はシベリウスの没後50年という記念の年、この機会にこれらの歌曲がもっともっと聴かれる機会が増えてもいいのではないでしょうか。そんな中で、唯一馴染みのあるのが「フィンランディア」です。これは、よく聴く合唱版とは全く肌触りが異なることに驚かされます。言葉の隅々にしっかり引っかかりを持たせたボルイの歌からは、この曲の持つ力がストレートに伝わってきます。ところどころで聞こえてくる「スオミ」という言葉に、母国に寄せる深い意味が宿っていることを強く感じないわけにはいきません。
ボーナストラックで、1960年にステレオで録音された完全初出のイリョ・キルピネンの歌曲が3曲と、シベリウスの別テイクが2曲収められています。ほんの2年の間の録音技術の進歩も、ここでしっかりと味わうことが出来ます。

7月10日

BARTÓK
The Miraculous Mandarin
Sonata for Two Pians and Percussion
Ákos Hernádi(Pf)
Károly Mocsári(Pf)
Franz Lang(Perc)
Jochen Schorer(Perc)
HÄNSSLER/CD 93.194


「のだめ」以来、モーツァルトの2台ピアノのためのソナタが大ブレイクしているそうですね。最初は「2小節で間違えて」いたものも、次第にまじめに練習するにしたがって、お互いの呼吸が感じられたり、次はどのように突っ込んでくるのかが予想できたりと、緊迫したアンサンブルが出来てくるようになるものです。初々しい二人のためにこんな曲を与えた二ノ宮先生のアイディアは、見事に花開きました。
2台のピアノに挑戦するのは、別にラブラブの若い音大生に限ったことではありません。殆ど50歳に手が届こうかというハンガリーのピアノ・デュオ、ヘルナーディとモチャーリというおじさん同士だって、のだめと千秋に負けないほどの息詰まるようなピアノ・デュオを展開してくれているのですから。「愛」なんかなくたって、素敵なアンサンブルは作れるのです。いや、実はあるのかも。
まずは、バルトーク自身がオーケストラから2台ピアノのために編曲した「マンダリン」です。これはなかなか珍しいアイテム、以前コチシュらの録音が出ていたのだそうですが、それはもちろん入手不能、しかも、今回は息子ピーター・バルトーク(レコーディング・エンジニアとして有名でしたね)が校訂した2000年版が使われているというのが目玉になっています。もちろん、その版が以前のものとどう違うのかなどということは分かりようもありませんが、オーケストラ版との違いぐらいなら分かります。元のオーケストラ版は、かなり派手な色彩に支配されたものでした。管楽器の超絶技巧が織りなす、まるでミラーボールのようなサウンドで始まったかと思うと、暗〜いヴィオラのパートソロが現れるなど、その振幅の大きさも群を抜いています。それを2台のピアノだけで演奏したときには、そのようなオーケストレーションの要素から解放された音楽の骨組みが、実にくっきりと現れてくることになります。そんな、ある意味裸にされた「マンダリン」からは、ちょっとエロティックな肌触りなどは見事に消え去り、音階のおもしろさやリズムの妙といった、純粋に音の配置が生み出す機械的な愉悦が伝わってくることにはならないでしょうか。
おじさんたちも、ここではあまり情景的な思い入れは見せないで、ひたすらストイックに音の遊びを描こうとしているようには見えませんか?もしかしたら、それが大人のデュオとしての節度なのかもしれませんね。決して表に出すことはない「秘めた愛」でしょうか。
2人の打楽器奏者が加わった「ソナタ」では、そんなふたりの禁断の秘め事はもはや許されません。なんと言っても、この打楽器たちのドライブ感と言ったらすごいものがあります。それは、いくらシャイなおじさんたちでも、否応なしに引っ張られてしまうほどのパワーです。そして、そこに生まれるのが、4人の奏者によるポリフォニックな渦、これは見事です。あまりハマりこむとデブになりますが(それは「メタボリック」)。
しかし、改めて気づかされるのは、打楽器の豊かな色彩です。それは、この録音がとても優れていることの証なのでしょう。タムタムなどは低く包み込むような音から、ちょっと刺激的な音まで叩き方によってさまざまな音色が出るのがつぶさに分かりますし、トライアングルも微妙な響きの違いがはっきり聴き取れます。そして、シロフォンの生々しさ!これには、おじさんがたじたじになるのも無理はありませんね。3楽章などは、ほとんど打楽器にリードされっぱなしで可哀想なぐらい。

7月8日

HANDEL
Arias
Russell Oberlin(CT)
Thomas Dunn/
Baroque Chamber Orchestra
DG/00289 477 6541


「伝説的」と言われているアメリカのカウンター・テナー、ラッセル・オバーリンの1959年のアルバムが初めてCDになりました。それがどれほど「伝説的」なのかは、この、復刻された古色蒼然たるジャケットを見れば分かります。版下はもう残ってはいないのでしょうか、いかにも保存状態の悪い、褪色していてところどころはすり切れているようなLPジャケットをそのままスキャンしたという感じですね。DGにしてはなんとも珍しい、と思ってよく見ると、右上の方に「DECCA」というロゴが見られます。実は、この録音は元々は「アメリカDECCA」で制作されたものなのです。それをDGがドイツ国内向けに自社レーベルで発売したもの、左下に挿入されているのがその時のジャケットなのでしょう。
クラシックファンにとっては「アメリカDECCA」などというレーベルは馴染みがないかもしれません。そもそもDECCAというレコード会社は1929年にイギリスで創立されたものなのですが、1934年にはアメリカにも子会社を作ります。しかし、1938年にはこの「アメリカDECCA」は親会社から独立してしまい、その時点で「イギリスDECCA」とは全く別の会社になったのです。もっとも後にイギリスDECCAはポリグラムに吸収され(1980年)、さらにアメリカDECCAの後身であるユニバーサルに吸収される(1998年)ことになりますから、現在では又元の鞘に収まったと言えなくもありませんが。
1928年、アメリカ生まれのオバーリンは、アーリー・ミュージックのパイオニアとして、イギリスのアルフレッド・デラーとともに活躍したカウンター・テナーです。しかし、彼は36歳の時に演奏家としては引退してしまい、デラーほどの知名度を得る前に、シーンからは姿を消してしまいました。その後は教育者として活躍、現在もご存命です。年をとってから性転換をし、オバーサンになったというのはもちろんでたらめな風説です。
オバーリンの声は、その最初の音を聴いただけで、非常に魅力的であることが分かります。それは、カウンター・テナーとは言っても、デラーのような、というより、ほとんどのカウンター・テナーがそうであるようなファルセットではない、もっと実声に近い力強いものだったのです。有名なところではドミニク・ヴィスあたりによく似た傾向の声でしょうか。ヴィスの、ちょっと硬質な面を取り除いて、さらに甘くしたもの、といったところでしょう。あるいは、「シャンティクリア」のハイ・テノールのような声、と言うべきかもしれません。そう、これはまさにあのカストラート(と言っても、実際に聴いたことはありませんが)そのものの声だったのです。女声の音域ではあっても、力強さでは男声のキャラクターを備えているというまれに見る声、これは素敵です。
そんな、うっとりするほど魅力にあふれた歌を味わうとともに、これは20世紀半ばのアメリカでのバロック音楽の演奏の記録としても、貴重な価値を持ったアルバムになっています。このころは、そのような時代の音楽についての実践的な研究はまだ緒に就いたばかり、今のいわゆる「古楽器」界の常識とはかなり異なった状況だったはずです。楽器はもちろんモダン楽器、音を聴く限り、かなり大人数のアンサンブルのようです。チェンバロあたりも、そんな大編成の中でも埋もれない、力強い音のモダンチェンバロのはずです。そして、様式的にもバロックに欠かせない自由さはまだ十分には演奏には反映されてはいません。ソリストのカデンツァも、今のものに比べたら単純そのものです。しかし、例えば「ムツィオ・シェヴォーラ」の中の「ああ、なんと甘い名前Ah dolce nome!」の中に現れるカデンツァを聴いてみると、一見生真面目で単純なその歌い方の中に、なんとも言えない深い情感が潜んでいるのを感じることは出来ないでしょうか。
時代を超えた、一つの多様な表現のサンプルとして、このアルバムは永遠の価値を持ち続けることでしょう。

7月6日

C.P.E.BACH
Concertos et Sonate pour flûte
Juliette Hurel(Fl)
Arie van Beek/
Orchestre d'Auvergne
ZIG-ZAG/ZZT070301


あのパユさまと同じ、1970年生まれのフルーティスト、ジュリエット・ユレルがエマニュエル・バッハの協奏曲などを演奏したアルバムです。パユさまがブレイクしたのは1989年に神戸で行われた第2回神戸国際フルートコンクールで優勝したからですが(その時は19歳!)、ユレルはその次々回の神戸、1997年の第4回で「武満作品最優秀演奏賞」というのを獲得しています(このときはヘンリク・ヴィーゼが3位でした)。その時の課題曲が武満徹の「ヴォイス」という超難曲、これを最も素晴らしく演奏したということで、その賞をもらったのです。
現在はロッテルダム・フィルの首席奏者として活躍、写真を見るとウィノナ・ライダー似の若々しくチャーミングな顔ですが、もはや人妻、お相手は元バイエルン放送交響楽団のやはり首席フルート奏者、ブノア・フロマンジェだということです。
ここでユレルは、木製の楽器を演奏しています。もちろん、「木管」とはいってもいわゆる「フラウト・トラヴェルソ」というオリジナル楽器ではなく、あくまでベーム式のモダン楽器なのですが、音色は木管ならではのまろやかなものです。さらに彼女は、ビブラートを極力抑えた吹き方をしていますので、一見トラヴェルソを吹いているようにも聞こえるというのが、こういうモダン楽器の演奏者にしてはユニークなところでしょうか。いや、最近はこのようにモダン楽器を使って限りなくオリジナルっぽい演奏をするという、いわゆる「ピリオド・アプローチ」というものが一つのジャンルとして確立されているほどですから、別に珍しいことではなくなってきているのでしょう。そのような時代的な奏法を要求する指揮者も増えてきていますから、モダン・オケの奏者といえども、これはもはや必須のスキルになりつつあるのかもしれません。
ただ、ここでのユレルの演奏は、「音」こそバロックに近い雰囲気を伝えるものになってはいますが、スタイル的には現代風のテイストのままですから、ちょっと物足りない感じがつきまといます。特にゆっくりした楽章でのシンプルな旋律には、もっともっと装飾をコテコテと付けて、自由な息吹を発散させて欲しいという思いが募ります。
その分、バックのオーヴェルニュ管弦楽団が、なかなか起伏に富んだアグレッシブな音楽をやってくれていますから、全体としてはなかなか聴き応えのあるものに仕上がっています。父親の作品の「バディネリー」と非常によく似た音型で始まるイ長調の協奏曲(Wq.168/H.438)の第2楽章などは、「ラルゴ・コン・ソルディーニ」という表示の、文字通り弱音がポイントの曲ですが、ここでのオーケストラの刺激的なまでに陰影に富んだ表現には、とても深いものがあります。そんな雄弁なオーケストラに乗って、あくまで典雅な、ちょっと気取った面持ちのフルートが軽やかに歌うという点が、ただ聞き流すだけでは済まされない味を醸し出すことになっています。時折思い出したように現れる華麗で技巧的なパッセージの処理などは、さすがに手堅いものがあります。
したがって、最後に収録されているフルートが一人だけで演奏しなければならないイ短調のソナタは、オリジナル楽器の演奏を数多く聴いてしまったあとではあまりに引っかかりがなさすぎて物足りない感じがしてしまうのは、致し方のないことなのでしょう。以前ご紹介したガロワのような工夫がないことには、ただの退屈な音楽で終わってしまいます。

7月4日

VIVALDI
Le Quattro Stagioni
Sigiswald Kuijken/
La Petite Bande
ACCENT/ACC 24179(hybrid SACD)


カラヴァッジョの作品をあしらった新鮮なジャケット、ACCENTのデザインは昔のものとはすっかり様変わりしましたね。虫の食ったリンゴなどというリアリティあふれる果物の絵は、何かクイケンたちの生々しい音楽と呼応するものがあるような気がしませんか?
常に新しいことにチャレンジし続けているこのオリジナル楽器の先達は、ここでも新鮮なアイディアの数々で魅力的なアルバムを作り上げてくれました。その1点は、ここで演奏されている「四季」などの「協奏曲」に、各声部一人ずつの「室内楽」のメンバーで臨んだということです。これはMAKなども取り入れていたことですから別に珍しいものではありませんが、ここではさらに徹底していて、通奏低音もチェンバロ1台だけ、チェロやコントラバスで補強するということは行っていません。つまり、「四季」の場合はソロヴァイオリン、ファーストヴァイオリン、セカンドヴァイオリンの3人のヴァイオリンとヴィオラ、チェロ、チェンバロという、全部で6人での演奏という形になっています。
ところが、メンバー表を見てみると、ヴァイオリンが4人にヴィオラとチェンバロが1人ずつ、確かに6人ですがチェロを弾く人が見当たりません。一体、誰がチェロのパートを担当しているのでしょう。
実は、その答えが彼らの2点目のアイディアとなるのです。つまり、ヴァイオリン奏者がチェロを弾く、というアイディアです。
これは、「ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ」という楽器です。「spalla」はイタリア語で「肩」ですから、その名の通り「肩のチェロ」、ヴィオラとチェロの間ぐらいの大きさの楽器を肩ひもで支えて演奏します。言ってみれば、立てて演奏していたコントラバスを、肩からつるすようにしたエレキベースの発想ですね。なんとすぱらしい。ただ、弓を使う関係から、こんな風にまるで田端義夫みたいな格好になってしまいました。この楽器はバロック時代の文献には登場しているのだそうですが、現物はもはや失われてしまっていたので、楽器制作者でもあるメンバーのヴァイオリニスト、ドミトリー・バディアロフ(右)が作ってしまったというものなのです。
この楽器の音は、最初のトラックの「チェロ協奏曲」でクイケンの演奏によって聴くことが出来ます。ヴァイオリンと同じ弾き方ですから、早いパッセージでも楽々と弾いているように感じられます。ただ、高音はともかく低音は普通のチェロのような深みのある音では全くなく、何か間の抜けた様に聞こえます。ですから、チェロの代わり、というよりは、あくまでバッハなどが指定したチェロとは別の楽器ととらえた方が良いのかもしれません。
さらに、彼らのアイディアはもう一つありました。それは「四季」のソリストが4曲全部異なるというものです。これはなかなか興味深い試みです。しかし、実際に聴いてみるまでは、これほどまでに各々の個性が発揮されるとは夢にも思いませんでした。「春」のソリスト、ジギスヴァルトの娘、サラ・クイケンは、いかにも清楚、ちょっとソロとしての存在感は薄くなっていて、装飾などもやや消極的、禁断の「ビブラート」を多様するあたりが、若さ、でしょうか。そこへ行くと、「夏」のサントスや、「秋」のバディアロフは手慣れたものです。あくまで自分の趣味を全体に反映させようとする意志がヒシヒシと感じられます。バディアロフあたりの時間に対する感覚(つまり、ルバート感)は、ちょっとすごいものがあります。しかし、何と言っても御大ジギスヴァルトは、貫禄が違います。第2楽章の、ほとんどアヴァン・ギャルドといって構わない装飾は、彼の独壇場。すごいものです。ジャケットのリンゴや梨、そしてブドウぐらいの違いが、それぞれの演奏にはありました。

7月2日

KREEK
Requiem
Mati Turi(Ten)
Arvo Volmer/
Estonian National Opera Chorus
Girl's Choir Ellerhein
Estonian National Opera Symphony Orchestra
ALBA/ABCD 229


初めてお目にかかったフィンランドのレーベルです。曲目を見ると、すべてのトラックに7桁の番号が振ってあります。これは、今はなきFINLANDIAというレーベルでも行われていたものなのですが、この2つのレーベルには何か関連があるのでしょうか。
シリルス・クリークというコーヒーになくてはならないような名前の(それは「クリープ」)人は、1889年に生まれて1962年に亡くなったエストニアの作曲家です。民族音楽を積極的に収集して研究した成果が、合唱曲を中心にした彼の作品の中に色濃く反映されています。この「レクイエム」は、そもそもは彼の友人であった7つ年上のオルガニスト兼作曲家のペーテル・スーダという人が作りかけていたものです。彼は1920年に亡くなってしまいますが、その5年後にこの曲を完成させようという動きがあったときに、彼のことを最もよく知っていたクリークに、その仕事が依頼されたのです。そして、2年後の1927年に曲は完成、1929年に初演が行われました。
この曲のテキストは、モーツァルトのものと同じ典礼文ですが、それがエストニア語によって歌われるという点が異色です。したがって、これは史上初めてエストニア語で作られたレクイエムとなりました。曲全体は8つの小さな曲から出来ています。そのうちの最初の2曲、ラテン語だと「Introitus」と「Dies irae」に相当する部分が、スーダがスケッチを残していた曲です。1曲目は、管楽器が同じコードを低音、中音、高音と3回にわたって響かせる、という不思議な始まり方を見せます。それに続いてホルンが奏でるのが、なんとあの「ウェストミンスター・チャイム」ではありませんか。「ド・ミ・レ・ソ」という、学校の始業の合図に使われているあのメロディがそのまま使われているのですよ。たまたま同じメロディになってしまったのかもしれませんが、2曲目にも例のグレゴリオ聖歌の「Dies irae」がそのまま使われていますから、あるいは何か意味を持った引用なのかもしれません。しかし、レクイエムにあのチャイムは、ちょっと合わないような・・・。
そんな、ちょっと硬直した感じがなくもない曲のあとの第3曲目、クリークのオリジナルの部分からは、うってかわって魅力的な音楽が始まるのですから、面白いものです。それはまさに、彼の音楽の神髄ともいえる、民族的なテイストにあふれたものです。とても素朴な旋律、しかし、リズムには変拍子なども現れて、平凡さからは免れています。「Sanctus」あたりは、まるでロシア正教の聖歌のような雰囲気が漂う重厚さも兼ね備えています。そして、最後の「Agnus Dei」の、なんと伸びやかで心にしみいることでしょう。3拍子のシンプルなメロディに、全く期待通りの和声が付いたその音楽は、誰しもを魅了する力を持っています。
もっとも、曲全体の構成を考えて、そのあとに例の「チャイム」のテーマが繰り返されると、なんとも冗長で散漫な印象に変わってしまうのが、ちょっと残念です。それに加えて、この人は本来は合唱のフィールドで評価されるべき作曲家、オーケストレーションがいかにも素人っぽくて、センスの悪さが露呈されてしまっています。いたずらに賑やかなだけで、ちょっと節度を欠いた派手な仕上がり、「Hostias」の最後の一撃は、絶対余計です。カップリングの「ムジカ・サクラ」という曲は、彼の合唱曲をオーケストラ用に編曲したものですが、これの原曲をこちらで聴いてしまえば、その編曲のセンスが自ずと分かってしまいますから。
演奏が、いかにもオペラの合唱団という感じの大味なものなのも、ちょっと残念なところです。しかし、いくら合唱で繊細さを生み出したとしても、このオーケストレーションではぶちこわしになってしまうかもしれませんね。

6月30日

MAHLER
Symphony No.5
Gustavo Dudamel/
Simón Bolivar Youth Orchestra of Venezuela
DG/00289 477 6545
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1360(国内盤 8月8日発売予定)

エサ・ペッカ・サロネンの後任として2009年のシーズンからロス・アンジェルス・フィルの音楽監督となることが決定したヴェネズエラの俊英ドゥダメルのセカンド・アルバムです。1981年生まれといいますから、就任時でも弱冠28歳、そんなに若くして「監督」などと、と思うかもしれませんが、現在大指揮者と呼ばれている人は、ほとんど20代後半には何らかのポストに就任しているのですから納得して下さい。カラヤンは26歳でアーヘン市立歌劇場の音楽監督になりましたし、小澤征爾がトロント交響楽団の音楽監督になったのは、彼が27歳の時でした。ただ、ドゥダメルの場合は、そういう下積み的なマイナーなポストではなく、いきなりロス・フィルという超メジャーを率いることになったというのがすごいところですね。
マーラーの5番といえば、ホルンやトランペットが大活躍する曲です。ドゥダメルのパートナー、シモン・ボリーヴァル・ユース・オーケストラは、前作のベートーヴェンでは素晴らしい演奏を聴かせてくれてはいましたが、基本的にはユース・オケ、それだけの技量を持ったプレーヤーは果たした団員の中にいるのでしょうか。しかし、そんな心配が全く無用のものであることは、冒頭の「葬送行進曲」のテーマを聴いただけですぐ分かりました。このトランペット・ソロでしたら、世界中のどこのオーケストラに入っても通用します。第3楽章で大活躍するホルンも、自信に満ちあふれた素晴らしいものでした。ただ1箇所、とんでもない音程になってしまったところがありますが、それはご愛敬、全体の流れに支障をきたすものでは全くありません。
しかし、何と言っても素晴らしいのは、ドゥダメルの意のままに動き回る弦楽器です。特に、そのダイナミックスの幅の大きさには、とてつもないしなやかなものを感じることができます。それは、第1楽章の金管がリードするトゥッティが収まったあとに来る弦パートと薄い木管のアンサンブルの場面ですぐ気付くことでしょう。一瞬録音バランスを間違えたかと思えるほどの小さな音で弾き始める弦楽器、しかし、それはドゥダメルの確かな感覚によって作り上げられた究極のピアニシモだったのです。聴いているものは、思わずそこで耳をそばだてずにはいられなくなり、そのミクロの世界に潜む深い味わいを発見することになるのです。
弦楽器とハープだけで演奏される第4楽章では、したがって、その様な味わい深いピアニシモを心ゆくまで堪能することができます。そして、1つ1つのパートがまるで生き物のように、ある時は姿を潜め、ある時は最大限のアピールでその存在を明らかにするさまを体験することでしょう。どんな弱い音にも、ことごとく生命が宿っていることにも気づくはずです。そこで繰り広げられるテンポやダイナミックスの変化は、指揮者が指示したからではなく、あたかもそれぞれのパートが自分の意志で他のパートとの掛け合いを楽しんでいるかのように聞こえます。
その様に、全ての声部が自らの意志を持って動き出した時、個人個人の姿が全く消え去って、オーケストラ全体が1つの生き物となって迫ってくる瞬間を、確かに感じることができました。それは、指揮者とプレーヤーとの絶妙な信頼関係が、最高の形で結実したものに違いありません。
一躍晴れ舞台に躍り出たドゥダメル、自分のホームグラウンドではなく、海千山千のメジャー・オケの中でこれほどの信頼関係を築くことができるのか、いま世界中の音楽ファンが注目しています。

6月28日

DVOŘÁK
Symphony No.9
Karel Ancerl/
Czech Philharmonic Orchestra
日本ビクター/JM-XR24206

かつて、「暮らしの手帖」という雑誌がありました。肥料の専門誌ですね(それは、「コヤシの手帖」)。いえ、この雑誌は今でもしっかり発行されてはいるのですが、もはや昔の面影はありません。この雑誌が最も輝いていたのは、創設者の花森安治氏が編集コンセプトから表紙のデザインに至るまで彼のセンスを反映させていた時代です。その頃のこの雑誌には、今のものには決して見ることの出来ないとてつもない迫力がありました。
この雑誌の、いわば目玉というものが、「商品テスト」でした。家庭用のありとあらゆる商品がその対象となり、徹底的に使う側の立場に立った厳格なテストを行った結果、誰からも納得のいくようなランキングができあがるというものです。何よりもすごいのは、公正なテストを行うために、一切の広告を排除していたということです。
その「暮らしの手帖」が、レコードの商品テストを始めた時には、音楽関係者は一様に拒否反応を示したものでした。なんと言っても相手はいわば「芸術作品」ですから、冷蔵庫や洗濯機と一緒に扱われるのは我慢が出来ない、そもそも客観的な「性能」などはテスト出来るわけがない、といったいかにもまっとうな意見が声高に表明されていたのです。しかし、「手帖」サイドはあくまで彼らの主張を貫き通しました。レコードといえども一つの商品であるという立場から、「演奏」と「録音」の両面で、厳しい評価を下したのです。毎号、一つの曲(場合によっては「運命・未完成」のようなカップリング)について、その時点で入手できるすべてのレコードを同じ条件で比較する、というのがテストの方法、その結果にはかなりの説得力がありました。例えば○野○芳氏あたりが、広告だらけの媒体でいかにも孤高を装って展開している主観だらけの批評などとは次元の違う、今にして思えばかなり爽快なレコードの商品テスト、もしこれだけが復刻されるというようなことがあれば、その様なアバウトな「評論家」は顔色を失うことでしょう。
ドヴォルジャークの「新世界」のテストが行われたときに、最も高い評価、確か絶対的な優位でトップを獲得していたのが、このアンチェル盤でした。細かいことは忘れましたが、「新世界」の持つ民族性を見事に表現したものとして、商品として最も優れているとされていたのです。このテストでは、演奏が良くても録音が悪いものは評価されません。ですから、これは録音も優れていたはずです。
そんな商品が最高の状態で「復刻」されたものを、初めて聴くことが出来ました。「手帖」を読んで、いつかはぜひ聴いてみたいと思っていた演奏、何十年かの時を経てやっとその願いが叶いました。
アンチェルの演奏は、しかし、ことさらに「民族性」を強調するものではありませんでした。引き締まったテンポ感と、きびきびした表現は、センチメンタリズムとは全く無縁なもの、そこからはドヴォルジャークが作り上げた骨太の音空間が見えてきます。もし、民族性が感じられるとすれば、それは管楽器の特異な音色のせいなのかもしれません。特にクラリネットとホルン奏者が付けている甘いビブラートによって、木管セクションがえもいわれぬ暖かさに包まれているのは、注目すべきことでしょう。
そして、今回も「XRCD」は期待を裏切ることはありませんでした。特に静かな部分での弦楽器や木管楽器の充実した質感は、とてもみずみずしいものでした。最近ありがちな表面の響きだけをとらえたものではなく、とても「芯」のある音です。そして、打楽器の録音の生々しさには驚かされます。ティンパニの一撃のクリアなことといったらどうでしょう。第3楽章だけに現れるトライアングルも、ここまで存在感をもって聞こえてくる録音などなかなか出会えません。
ただ、フォルテシモでのヴァイオリンの高音などがかなり堅く聞こえてしまうのは、マスターテープの劣化のせいなのでしょうか。ドロップアウトも何カ所か聞こえますし、こればかりはどうしようもないのでしょうね。
ちなみに、「レコード芸術」のキングインターナショナルの広告では序曲が2曲カップリングとなっていますが、それは間違いです。

6月26日

The Jazz Album
Peter Donohoe(Pf)
Michael Collins(Cl)
Simon Rattle/
London Sinfonietta
EMI/388680 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-13385(国内盤)

サイモン・ラトルが1987年に発表した楽しいアルバムが、リイシューされました(そんなに古いものではありませんから、「異臭」を放ったりはしません)。「ジャズ」に影響を受けた、あるいはジャズのイディオムが積極的に反映された「クラシック」の作品を年代順に演奏するかたわら、「ジャズ」のスタンダード・ナンバーを間に挟み込む、という企画です。国内盤には、オリジナルのジャケットが使われています。

「クラシック」として取り上げられているのが、ミヨーの「世界の創造」(1923)、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」(1924)、ストラヴィンスキーの「エボニー・コンチェルト」(1945)、そしてバーンスタインの「前奏曲、フーガとリフ」(1949)という、ありがちなラインナップというのが気になりますが、実はここにはラトルならではのひと味違う工夫が秘められています。それは、その他にフューチャーされているナンバーが、「ラプソディ〜」の仕掛け人、ポール・ホワイトマンのバンドによって演奏されるために、当時のそうそうたるオーケストレーターによって編曲されたものであるということです。もちろん、その中には「ラプソディ〜」のオーケストレーションを担当したグローフェも含まれています。「Nobody's Sweetheart」という曲を編曲したレニー・ヘイトンなどは、こっそり「ペトルーシュカ」からの引用なども忍び込ませていますから、これは図らずも「エボニー〜」とリンクすることになっていたのかもしれません。
「ラプソディ〜」が、後にグローフェ自身の手できちんとした「クラシック」のオーケストラ(つまり、4種類の木管楽器や5部の弦楽器といった、標準的な編成にサックスが入った形)のために作り直された、今普通に聴かれるバージョンではなく、ポール・ホワイトマンのバンドによって最初に演奏されたオリジナル・バージョンに依っているという点が、このアルバムの最大のポイントになっています。このバージョン、基本的にはビッグ・バンドの編成で、そこにヴァイオリンが入っているというものですから、例えばミュージカルのピットに入っているオーケストラのようなものです。ホワイトマンがガーシュインに求めたものは、ジャズというものを薄暗いナイトクラブから華やかなコンサートホールに引きずり出し、ショービジネスとしての需要に応えられるものを作ること、それは、決してジャズとクラシックの融合といったようなハッピーなものではなかったはずです。
そのような流れを的確に把握したであろうラトルが、1920年代に同じチームによって制作されたスタンダード・ナンバーを同時に演奏することによって、「ラプソディ〜」は成立した時のコンセプトをもって演奏されることになりました。その結果醸し出されたのは、「オーケストラ」ではなく、あくまで「バンド」としてのノリ、取り澄ましたクラシックコンサートでは決して味わうことの出来ない爽快なまでに見事なグルーヴだったのです。その「バンド」が時折見せる、まるで「スカ」のような裏打ちのビートからは、「ジャズ」さえも超越したポップな音楽が聞こえてはこないでしょうか。
バーンスタインの「前奏曲〜」も、まさにその流れをくむ音楽であることが、この演奏からははっきり伝わってくるはずです。そこからは、後に完成する彼の代表作「ウェスト・サイド・ストーリー」の萌芽、ショービズの匂いがふんだんに放たれていることでしょう。
ミヨーやストラヴィンスキーの作品が、同じ「ジャズ」を素材にしていても、このアルバムの中では決定的に浮いた存在であると感じられたなら、ラトルの目論見は大成功を修めたことになるのではないでしょうか。

6月24日

Minimal Piano Collection
Jeroen van Veen(Pf)
BRILLIANT/8551


このレーベルのことですから、「ミニマル・ピアノ・コレクション」などというタイトルが付いていればそれこそあちこちのレーベルから寄せ集めた「ピアノ小曲集」ではないかと思ってしまいます。ところが、なんとこれは「ミニマル・ミュージック」というジャンルのピアノ曲を集めたボックス・セットだったのです。しかも、録音は2006年の10月、機材も最新のものが使われた贅沢なものです。フィリップ・グラスやマイケル・ナイマンといったミニマル界の大御所をはじめ、ごく最近のオランダのほとんど知られていないような作曲家の作品など、ミニマル尽くしの9枚組、そんなものが4000円程度で手に入ってしまうのですから、これは絶対お買い得。
しかし、このセットにはさらなるサプライズが潜んでいました。この録音のプロデューサーでもあるファン・フェーンが演奏している楽器は、あの「ファツィオリ」だったのです。この前の斎藤さんの本でも取り上げられていたこのイタリアのピアノの評判はあちこちで聞きますが、まだ録音ですらその音を聴いたことはありませんでしたから、これは何よりのことです。いよいよ4000円では安すぎ。恐るべし、BRILLIANT
初めて聴いたその「ファツィオリ」は、何という味わい深い音だったことでしょう。大げさな言い方をすれば、まさに「ピアノ」という楽器の音に対するイメージを根底から覆させられたほどの驚きが、そこにはありました。高音はあくまでしなやか、そこからは演奏者の息づかいさえも感じられるほどですし、低音のなんと暖かく包容力に富んでいることでしょう。スタインウェイなどを聴き慣れた耳にはショッキングなほどのその音色、ぜひ、いつか生で聴いてみたいものです。
このボックスの中では、4枚目のものがなかなか聴き応えがあります。一般的には「ミニマル・ミュージック」の始まりは1958年に作られたラ・モンテ・ヤングの弦楽三重奏曲だということになっているそうですが、ここにはその先駆けともいえるエリック・サティの「ヴェクサシオン」(1893)とともに、同じ19世紀後半の作品であるフリードリッヒ・ニーチェの「Das 'Fragment an sich'(『そのまんま切れっ端』でしょうか)」という珍しい曲が収録されているのです。もちろん、あの「ツァラトゥストラ」のニーチェですが、熱心なワーグナー・ファンであった彼は、自らも曲を作っていたのですね。これが、ワーグナー風のロマンティックな曲なのかと思いきや、タイトルの通りいくつかのモチーフが「切れっ端」として何度も繰り返し登場するという紛れもない「ミニマル・ミュージック」なのですよ。
もう一つ、この中に入っている興味深い曲が、シメオン・テン・ホルトというオランダ人の作品です。実はこの人は、このレーベルから複数のピアノのための作品集(7795)が11枚のセットで出ており、

そこにもファン・フェーンは参加しています。この「ソロデヴィルダンスIV」という曲は、「ミニマル」と言われて連想しがちな「シンプル」なものとはちょっと異なる、かなり技巧的なもの、そこからはショパンやリストといったピアニストたちの流れが見え隠れするほどです。アメリカで隆盛を誇ったこの音楽は、ヨーロッパの伝統と結びついてこんな形のものまでが生まれていたのですね。「ミニマル」の裾野の広さを見た思いでした。
ファン・フェーン自身の作品も2枚にわたって収録されています。それは「24のプレリュード」。バッハの「平均律」のように、全てのキーの長調と短調による、5分程度の曲が集まったものです。これは「ミニマル」と言うよりは「ヒーリング」と言った方がぴんと来る作風、それぞれの曲にさまざまなアイディアが秘められていて楽しめます(さすがに「ファンファーレ」はありませんが)。
こういうものには欠かせないスティーヴ・ライヒの作品が1曲もないのは、彼には「ソロ」のピアノ曲がなかったせいなのでしょうか。9枚目の最後には、テリー・ライリーの「in C」が、「Pro Tools」を駆使した多重録音で演奏されているというのに。

おとといのおやぢに会える、か。


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