好調の突き。.... 佐久間學

(08/9/9-08/9/27)

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9月27日

KILAR
Magnificat
Izabella Klosinska(Sop)
Tomasz Krzysica(Ten), Piotr Nowacki(Bas)
Miroslaw Jacek Blaszczyk/
The Silesian Philharmonic Symphony Orchestra and Choir
DUX/DUX 0592


ワイダやポランスキなどの映画には欠かせない音楽を作ったことでつとに有名なポーランドの作曲家、ヴォイチェフ・キラールが2006年に作った最新の「純音楽」作品の世界初録音です。古くから多くの作曲家によって作られてきた「マニフィカート」のテキストを用いて、3人のソリストと合唱、そしてオーケストラという編成、全部で7つの楽章に分かれた50分ほどの作品です。
現代の作曲家の場合、このような大規模な作品はどこかからの委嘱があって初めて作られるものなのでしょうが、この曲の場合はそのような外部からの要因ではなく、純粋に「自分の心のままに」作られたということです(ちょっと異色)。その事だけで、なにか尊敬出来るような気にはなりませんか。
キラールの作曲技法の原点は、かなりシンプルなもののように思えます。私見ですが、おそらくそれは映画音楽に長く携わっていたことと無関係ではないでしょう。最初の音が出た瞬間にその場の状況を的確に表現するという、まさに少ない音に込めた熱い思いのようなものが、この曲にも満ちあふれています。
オーケストラの音色は、シーンによってはっきり異なった設定になっています。全ての楽器が一斉に演奏することは殆どなく、ある時は金管楽器によるコラール、ある時は弦楽器によるメディテーションといったように、そこに広がるのは渋いモノトーンの世界です。だからこそ、5曲目の「Fecit potentiam」でほんの一瞬木管が加わるだけのクライマックスが、とびっきりの華やかさを見せるのでしょう。
しかし、この作品での主役は、あくまで合唱とソリストです。1曲目の「Magnificat」で、その合唱の存在感はまざまざと見せつけられることになります。金管のファンファーレと、弦楽器のアジテーションに続いて現れるのは、まるでプレーン・チャントのような短いフレーズの繰り返し、ただそれだけのものから、なんという力強いメッセージが伝わってくることでしょう。ここで演奏している合唱団は、決して洗練された音色や響きを持っているわけではないのですが、その集中力の高さは相当なもの、音程も確かですから、ユニゾンからハーモニーに移ったときには、ハッとするほどの魅力を発することになります。
2曲目「Magnificat anima mea Dominum」の主役はソプラノのソロです。ここで歌っているクウォシンスカという人は、暗めの音色の太い声、最初の音をずり上げるという変なクセがありますが、声自体は力にあふれています。そんな彼女が、ハープと弦楽器による、まるでマーラーの交響曲の緩徐楽章のような陶酔感あふれるオーケストラの単純なパターンに煽られながら徐々に盛り上がりを重ねていくのは、確かな興奮を誘われる光景です。
4拍子単位の、シンプルなリズムで重々しく押し通される中にあって、最後から2番目の「Esurientes implevit bonis」では3拍子の軽やかなリズムが現れます。しかも、最後の部分では5拍子という変拍子まで登場、見事なアクセントとなってひとときの爽やかさを見せてくれます。続く最後の曲は最も長い楽章で、さまざまな場面が現れます。金管のコラールが見せるポリフォニーがひとしきり鳴り響いた後に訪れるのは、この作品の中で唯一不協和音に支配されたオーケストラのカオスです。今までの心地よい和声の中にあっては、これはまさにショッキング、しかし、最後は期待通りの美しい和音で終わります。
大編成の曲なのに、それぞれのパートをバランス良くミックスした録音は、とても素晴らしいものです。ホールの中に響き渡る力強いハーモニー、それは、なんの作為もなく心の中にしみこみ、勇気のようなものを与えてくれました。ふと、信じていた人に裏切られた時などには支えになってくれるのでは、などという思いが唐突によぎったのは、なぜでしょう。

9月25日

RUTTER
Distant Land
Peter Rostal, Paul Schaefer(Pf)
John Rutter/
The Royal Philharmonic Orchestra
DECCA/B0001821-02


前回のコンピの中にあった「ビートルズ・コンチェルト」を、編曲者のラッター自身がカバーした演奏が入っているCDです。5年ぐらい前にリリースされたものですが、こんな「珍品」らったあら(だったら)取り上げてもかまわないでしょう。
合唱曲の作曲者、指揮者として知られているジョン・ラッター、オーケストラの入った曲でも、メインはやはり合唱でした。しかし、このアルバムは、合唱はおろか声楽のソロさえ一切登場しないというユニークなもの、おそらく彼のアルバムとしては唯一のインストものではないでしょうか。
しかし、やはり彼の本領は合唱の分野ですから、ここに収録されている5つの曲のうちの3曲までが、もともとは合唱曲に由来するものだ、というのは、ある意味当然のことでしょう。つまり、合唱作品をオーケストラ用に編曲したものを数曲集めて組曲のような形に仕上げた、というものです。彼の合唱音楽に親しんでいる人であれば、それらは良く聞き慣れたものですから、たとえ歌詞がなくとも楽しめるもの、もちろん、彼のキャッチーなメロディと、ハーモニーのセンスは、初めて聴いたとしても、それだけで十分な魅力を伝えてくれることでしょう。それに加えて、彼のオーケストレーションの巧みなこと。なにも特別なことはやっていないのに、それはメロディの美しさを最大限に引き出しています。少し甘めの録音も手伝って、極上のヒーリング・ミュージックが出来上がりました。
後半の2曲は、最初からインスト曲として作られたものです。「古代組曲 Suite Antique」という曲は、バッハの「ブランデンブルク協奏曲第5番」と一緒に演奏するために、という委嘱を受けて作られました。つまり、バッハの曲と同じ編成で、というリクエストだったのでしょう。なぜか、バッハにはあったヴァイオリン・ソロが削られて、フルートとチェンバロのソロに弦楽合奏という編成になっています。というより、これは殆どフルート・ソロのための作品のように聞こえます。ライナーの作曲家の言葉によれば、バッハ時代の音楽と、現代のジャズっぽい音楽の両面を併せ持つものだということです。確かに、6つの曲から成るこの組曲には、3曲目の「アリア」のように、いかにもバロックのパロディ(というか、アルビノーニの「アダージョ」そのもの)から、変拍子を駆使した最後の「ロンド」まで、多様な音楽形態の模倣が満載です。2曲目の「オスティナート」は、ラテン・リズムの「ウアパンゴ」、つまり、バーンスタインの「アメリカ」で使われているヘミオレの交錯するダンサブルなナンバーですし、4曲目の「ワルツ」は、まさにジャズ・ワルツそのものです。フルートを吹いているのはロイヤル・フィルの首席奏者アンドルー・ニコルソン、その「ワルツ」でふんだんに盛り込まれているアドリブ・ソロ(記譜してあるのでしょうが)では、まるで水を得た魚のような軽やかなプレイを披露してくれています。
そして、最後が「ビートルズ・コンチェルト」です。やはりライナーでは、作曲(編曲)者がこの曲の成り立ちを述べてくれていますが、オファーがあったときには「最も彼らしくない」仕事のように思われたということです。しかも、第1楽章に使われているうちの3曲は、もともとピアノ・デュオのロスタルとシェーファーが作っていた編曲をそのまま使っていたのだそうです。「今だから言える」ということなのでしょう。しかし、この曲の場合、オーケストラを統率するという面でのラッターのスキルには、ちょっと問題があることも露呈されてしまっています。それまでのヒーリングっぽい音作りもそのままのため、EMIのロイヤル・リヴァプール・フィルの演奏に比べるといかにもユルめ、最初にあちらを聴いておいて本当に良かったことが痛感されます。

9月23日

Classical Beatles
Various Artists
EMI/2 16784 2


最近出た「ザ・ビートルズ」の「最新」アルバムLoveと非常に良く似たジャケットですね。2枚組のこのコンピレーション、タイトルの通りクラシックのアーティストがカバーしているビートルズ・ナンバーを集めたものです。そんなものは別に何も珍しいわけではないのですが、この中に収録されている「The Beatles Concerto」というタイトルにちょっと興味を惹かれてしまいまして。確かこれは、1979年にリリースされたアルバムのタイトル、なんと懐かしい。

ご覧のように、その頃のプログレ系ロック、ピンク・フロイドなどのアルバムのジャケット思わせるような、超クールなジャケットですね。ジョージ・マーティンがプロデュース、彼のスタジオで録音された、ピアノ協奏曲仕立てのビートルズのカバーは、なかなか新鮮な印象を与えられた思い出があります。その時には、編曲をしたのもマーティンだったような気がしていたのですが、今回のコンピのクレジットを見てみたら、編曲者はなんとジョン・ラッター、これはちょっとした驚きでした。
ピーター・ロスタルとポール・シェーファーというピアノ・デュオがソロ、ビートルズゆかりの地のオーケストラ、ロイヤル・リヴァプール・フィルを、ロン・グッロマンが指揮をしている、というものですが、ラッターのプランはビートルズの曲をもろラフマニノフ風に仕上げる、というものでした。それは、例えば故宮川泰や、故山本直純を思わせるような職人的な「アレンジャー」の仕事です。ラッターにそのような一面があることはうすうす感じてはいましたが、まさかここまでどっぷりなりきっていたとは。知られざるラッターの一面、こんなものは本人にとっては「なかったことにしたい」ものなのでは、と思ったら、なんとラッター自身も2003年に、同じソリストたちを起用して、自分自身で指揮をしたものをDECCAからりリースしていました。彼自身もこの曲にはしっかり愛着があったのですね。なんかほほえましいような気がしませんか。念のため、「ラッター」というのは、巷では「ラター」というネバネバした乳製品のような表記(それは「バター」)で通っている作曲家です。
これは2枚目の最後のナンバーでしたが、1枚目の最後には、もっと驚くようなものが入っていましたよ。それは、1966年に録音された、アーサー・ウィルキンソンという人が作った(彼自身が指揮)「Beatle Cracker Suite」という曲です。このタイトルの意味は、聴き始めるとすぐに分かります。これはチャイコフスキーの「くるみ割り人形組曲 Nutscracker Suite」を下敷きにしたビートルズ・ナンバーのカバーだったのです。いやその巧妙なことといったら。「花のワルツ」、「金平糖の踊り」、「葦笛の踊り」、「小さな序曲」、「アラビアの踊り」、「中国の踊り」と言った組曲の中のナンバーと、最後はパ・ド・ドゥの「金平糖の精の踊り」というラインナップなのですが、ほとんどオリジナルそっくり、その中にいつの間にかビートルズが混じってるというとんでもないものです。「金平糖の踊り」のあのチェレスタがしっかり「Can't Buy Me Love」に聞こえるのですから、これはもう涙ものです。そして、これが作られた年を考えてみて下さい。ここで使われている「Help」や「Ticket to Ride」などは、初めて世に出てから1年も経っていないんですよ。そんな時点でもうこんなパロディが成立していたなんて、いかにビートルズの曲が短期間で浸透、ほとんど愛唱歌と化していたか、ということになりますね。
もっとも、「アラビアの踊り」でパロられている「It's For You」という曲は、今では全く知られていません。ビートルズの曲といえども、40年も経てば忘れ去られてしまうものもあるのだ、ということも、こんな貴重な録音で分かろうというものです。そういえば、編曲者のウィルキンソンは1968年に亡くなってしまいましたから、そんなことを確かめることも出来なかったことでしょう。

9月21日

SAINT-SAËNS
Symphony No.3
Charles Munch/
Boston Symphony Orchestra
ビクタークリエティブメディア/JMCXR-0002S

1999年に日本ビクター(当時)が開発した新しいCD、とことんマスタリングに手間をかけたという「XRCD」のフラッグシップとしてリリースされた1959年録音のミュンシュのサン・サーンスは、品番も「0002」と、まさにこのシリーズの劈頭を飾るものでした。その音の良さが、アメリカで作られたSACDと比較しても再確認されたことは、こちらで述べてあります。そこからは、まさにフォーマットのスペックを超えた、真にマスターテープに迫るほどの生々しい音が聞こえてきていたのです。
その同じマスターを使用して、本体の材質を「超高品質素材」に替えただけというものが、このほど発売されました。品番もほぼ同じ、最後に付いている「S」というのが、その「SHM-CD」をあらわしているのでしょう。ジャケットの作り方やライナーノーツも、ほとんど同じものです。表ジャケットの「XRCD」のロゴの横に「SHM-CD」のロゴが並んでいる、というのが唯一の違いでしょうか。
もっとも、裏面やレーベルのクレジットでは、制作、発売の会社名が若干変わっていたり、同じように、原盤所有者の名前が「BMG Entertainment」から「Sony BMG Music Entertainment」と変わっているのが、時代の流れをあらわすものでしょう。ただ、その社名もいずれは「Sony Music Entertainment」とさらに別なものに変わってしまうはずでしょうが。
それはともかく、この新旧のXRCDを聴き比べて、そこにははっきりとした違いがあることはすぐ分かりました。実は、旧品の音の良さには驚きつつも、その中にはやや「力あまった」感がなくはない、という気がずっとしていました。それが、例えばSUPRAPHONレーベルのものなどには顔を出していて、ちょっと粗野に聞こえてしまうことが少し残念だったのです。しかし、この新品では、そのようなものが完璧にぬぐい去られているのです。あまりに力がありすぎて、ちょっとはみ出してしまった部分を、ていねいに磨き上げて滑らかにした、そんな感じでしょうか。ほんの2点だけ、その違いがはっきり分かる部分を指摘してみましょう。まず、トラック2、第1楽章の後半にあたるゆっくりとした部分の4分7秒あたりから始まるファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンの掛け合いの部分です。旧品では、この部分はいかにもモヤモヤした感じで、失望してしまったものですが、新品では見違えるように輪郭のはっきりしたものになっています。もう1箇所は、トラック4、盛大にフル・オルガンで始まる部分です。始まってから1分13秒ぐらいのところ、4手ピアノの細かい音型に乗って、ヴァイオリンが美しく歌った後、オルガンと弦楽器のトゥッティに続いて金管楽器が吹き鳴らすファンファーレの後半に入るピッコロの音の存在感が、新旧ではまるで違っています。新品では、まさにピッコロ奏者の姿が見えるほどのリアリティあふれるものになっています。
先日、「SHM-CD」のことを扱ったエントリーをアップしたところ、その翌日に発売された「レコード芸術」の10月号では、この新素材を使用したCDのことを大々的に取り上げていましたね。やはり、これはかなりメジャーな動きとなっていることが分かりますね。もちろん、この雑誌のことですから業界サイドの提灯持ちの記事であることは間違いないものの、そんなおべんちゃらを差し引いて(そしたら、なにも残らないだろう、という「本音」はひとまず置いといて)読んでみても、このCDは明らかに今までのものとはひと味違う、ということは誰しもが認めていることがうかがえます。しかし、実際にここまで音が違うことが確認されてしまっては、もはや従来の「欠陥商品」を出し続けることは、メーカーとしての良心が問われることにはならないでしょうか。この雑誌こそが、そういう主張を行わなければなりません(「リコール芸術」)。

9月19日

Ride of the Superior Sound
SHM-CD Compilation
Various Artists
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-9869/70


CD(コンパクト・ディスク)が誕生してからはや四半世紀、音質的には必ずしも従来のLPレコードを凌ぐものではありませんが、文字通りの「コンパクト」さと、手軽な操作性とで、音楽ソフトの主流となるのには、そんなに時間はかかりませんでした。そんな決して短くはないCDの歴史の中で、なんとか新たな可能性を探ろうという新タイプのCDも登場してきましたね。CCCDXRCDSACDSHM-CDHQCDABCD。まっ、最後のはウソですし、その一つ前も今月になって登場したばかりですが、それぞれが一体どんな特徴を持つCDなのかを的確に述べられる人などいるでしょうか。とりあえず「CCCD」だけは、「もうなかったことにしたい」ものであることは確かなのですが。
そんな、「新しいタイプのCD」の中で、今年の初め頃から話題になっていたのが「SHM-CD」です。これは、「超高品質素材CD」という意味の「Super High Material CD」の略号なのだそざい
CD本体を作る作業というのは、ポリバケツを作るのと同じ「射出成形」という方法によっています。そこで肝心なのは、金型である「スタンパー」の凹凸が、忠実に再現されることです。なにしろ、そこに刻まれた「ピット」こそが、デジタル信号を伝える要なのですからね。そこで、素材の樹脂であるポリカーボネートの成形上の特性が問題になります。タイ焼きのタネみたいに、溶けた樹脂が、きちんと金型の隅々まで行き渡るという「流動性」が必要になってくるのですね。「SHM-CD」に使われる素材は、その点が従来のものよりも改良されているということです。さらに、樹脂自体の透明性もアップされています。CDのデータを読み取るレーザーは、ピットに反射する前と後で本体のポリカーボネートの中を通りますので、その透明性が良いに越したことはありません。
ということで、素材を変えたことでどれだけの音質向上がはかられたか、というデモンストレーションのために作られたのが、このコンピです。全く同じスタンパーを使って、中に流し込む樹脂だけを変えた、という2枚のCDが入っていますので、それを聞き比べることによって、純粋に素材の違いだけでどれだけ音が違うのかが分かるということになりますね。
その試聴サンプルは、ユニバーサル系のレーベルのものが、新旧取り混ぜて集められています。古くは1958年のリヒターの「マタイ」から、最新のものでは2002年の小澤の「ニューイヤー」まで、もちろんアナログ録音もデジタル録音も両方含まれます。確かに、両者の間には歴然とした違いを聴き取ることが出来ました。特に弦楽器の細かいニュアンスの違いは驚くほどのもの、クライバーの「ベト7」で、それははっきり確認出来ます。ショルティの「ワルキューレの騎行」では、金管楽器の音場感がまるで違います。アルゲリッチのリストのコンチェルトも、ピアノの輪郭が別物のようにはっきり感じられます。素材を変えたことによる音質向上は紛れもない事実でした。
しかし、これだけの違いがあるということは、逆に考えれば今までのものにそれだけの欠陥があったのだということにはならないでしょうか。成形の前の段階、マスタリングに於いては、その技術の進歩は著しいものがあります。というか、今ではその最新の技術を用いることがごく当たり前のことになっています。今回の素材の改善も、こんな大騒ぎをして特別なものとして扱われるのではなく、それが標準の品質となるのが当然のことなのではないでしょうか。
いえ、もっと言えば、本当に良い音質の製品を提供したいという気持ちがあるのなら、このメーカーが最近ではスッパリと縁を切ったかのように見えるSACDを出すことの方が、本筋なのではないかと思ってしまうのですが、どうでしょう。「業界」の思惑がどこにあるのかは知るよしもありませんが、それが、「一般人」である消費者の切なる望みだと思うのですが。事故米騒動ではありませんが、「業界」の目が「消費者」に向けられることは決してありません。

9月17日

P.D.Q.BACH
The Jekyll & Hyde Tour
Prof. Peter Schikekle
Michèle Eaton(Sop)
David Düsing(Ten)
Amadillo Quartet
TELARC/CD-80666


なんとも迂闊な話ですが、このレーベルでのピーター・シックリーによる「P・D・Qバッハ」プロジェクトというものは、1995年の「The Short-Tempered Clavier」というアルバムで終了してしまっていたのだと思いこんでいました。ですから、そのスピン・オフである「ピーター(いや、スニーキー・ピート)と狼」(1993がリイシューになったとき、勇んで紹介したのでした。
ところが、なんと今年に入ってから「新作」が発表されていたではありませんか。CDの新譜については入念なチェックを怠らないつもりでいたのに、こんな重大なものを見落としてしまっていたなんて。慌てて注文、発売からはちょっと日が経ってしまいましたが、12年ぶりのニューアルバムを紹介できる運びとなりました。
「ジキルとハイド」というタイトル、そして、2人の人物が写った意味ありげなジャケ写からは、その2人の人物、ヒラヒラのドレスに鬘をかぶったP・D・Qバッハ氏と、コーデュロイのジャケットを着たピーター・シックリー氏とが実は同じ人物であることが暗示されているようです。にもかかわらず、シックリーのライナーノーツでは、この2人を「PS」と「PDQ」という数式に置き換えて、「PSPDQ」という仮定を立てると、いつの間にか「PSPDQ」になってしまうという「証明」が大まじめに論じられているのです。そんな、ばかばかしい議論を真剣にやっているという、いつもながらのシックリーの態度には、いつに変わらないオバカさが満載のようです。
このアルバムは、ホールで行われた「コンサート」のライブ録音です。そもそも40年以上前に始まったこのプロジェクトの最初のものがやはりライブ録音でしたから、まさに原点回帰ということになるのでしょうか。ですから、ここではお客さんを前にしてのシックリーの「前説」をきちんと味わうという、至福の時を味わうことになります。いや、正確にはそれに対するそのお客さんのリアクションの面白さを味わう、でしょうか。次から次へと繰り出すしょうもない駄洒落(そっ、おやぢギャグ)の嵐に、見事にハマっているお客さんの笑い声を聴くだけで、幸せな気持ちにはなれないでしょうか。その名も「Four Next-To-Last Songs」という、シュトラウスの「Four Last Songs」をもじったタイトルの曲は、実はシューベルトのパロディ。そこでの前説で、「シューベルトはゲーテの詩に曲を付けましたが、ワーグナーはゲーテが嫌いでした。そこで彼は『ゲーテの黄昏』というオペラを書いたのです」って言われても何のことだか分からないでしょうが、「Goethe」と「Götterdämmerung」をくっつけたという、くっだらない「おやぢ」なのですよ。
ところが、シックリー自身のピアノ伴奏で、その曲が始まると、それを歌っているテノール歌手には、思わずのけぞってしまいます。冗談ではなく、とんでもない音程、殆ど「音痴」ではありませんか。これは別にそういう歌い方を狙っていたというわけではなく、単にその人が「ヘタ」だというだけのこと、こういうものは、くそまじめに「正しく」歌わなければ決して本当の笑いは生まれてこないというのに、これはなんという醜態なのでしょう。会場のお客さんはそれでも雰囲気にのまれて笑いこけていますが、それを音だけで冷静に聴かされるものにとっては、笑うどころではありません。
そんなものを最初に聴いてしまったせいでしょうか、このアルバムには、今までのもののように素直に楽しめることがありません。その次の「弦楽四重奏曲」も、いまいちギャグが決まりません。さらに後半は殆どシックリー自身の弾き語り、なんだか勝手に一人で盛り上がっているような気さえしてきます。
せっかくの新譜だというのに、心から楽しめなかったのがとても残念です。もしかしたら、もはや彼とは同じ価値観を共有出来ないようになってしまっていたのでしょうか。メロンパンは嫌いだとか(それは「菓子パン」)。

9月15日

MOZART
Requiem
Agnès Giebel(Sop), Vera Soukoupova(Alt)
Georg Jelden(Ten), Heinz Rehfuss(Bas)
Karel Ancerl/
Czech Chorus
Prague Philharmonic Orchestra
TAHRA/TAH 660


チェコの名指揮者カレル・アンチェルは、今年生誕100年を迎えます(「アンチエージ」の甲斐なく、もう亡くなっています)。とは言っても、同じ年に生まれたかの「大指揮者」とはまるでかけ離れた質素な扱い、記念に何百枚ものCDが再発されるなどということはあり得ません。それでもこんな珍しい録音が日の目を見ることになるのですから、ありがたいものです。
アンチェルの演奏するモーツァルトの「レクイエム」としては、今回初めて公式にリリースされたことになるこのCDには、スイス・ロマンド放送局によって1966年9月14日にスイスのモントルー音楽祭で録音された放送音源が収録されています。録音会場は記載されてはいませんが、残響時間がかなり長いことから、コンサートホールではなく教会のようなところで録音されたのではないかというような気がします。アンチェルにしては珍しいステレオ録音は、そんな会場の空間の気配まで、見事にとらえていました。オーケストラはちょっと少なめの弦楽器、それに対して合唱はかなり大人数であることも分かります。ソリストたちの声も、くっきりとらえられていますし、もちろん生のコンサートならではのノイズも、恐ろしくリアルに収録されています。
ここでのオーケストラ、プラハ・フィルは、モーツァルトが指定した木管楽器であるバセットホルンではなく、おそらくクラリネットを使っているのではないでしょうか。しかも、そのクラリネットは、当時のチェコの演奏家のお家芸であった、たっぷりビブラートをかける奏法によって演奏されています。これは、今聴いてみるとかなり異様な感じを受けるのではないでしょうか。バセットホルンとファゴットの醸し出す木管楽器の響きは、本来ならばしっとりと落ち着いた雰囲気を与えてくれるものなのですが、ここでのビブラート丸出しのクラリネットが入ったアンサンブルは、まるでジャズのビッグ・バンドでのサックス・セクションのような締まりのない(というか、下品な)ものになってしまっています。言ってみればナイトクラブ風のレクイエム、それはそれでなかなか得難いサウンドではありますが。
しかし、そんな場違いな響きに彩られているにもかかわらず、ここでアンチェルが作り出している音楽には、一本芯の通った毅然としたものが感じられます。それは、一点一画もおろそかにしない彼の生真面目な一面を反映したものなのでしょう。その立役者が、ここで歌っているチェコ合唱団という団体です。正直、ソプラノ・パートの薄っぺらな歌い方はかなり悲惨なものがありますが、それを補ってあまりあるこの曲に対する真摯な取り組みには、強く惹き付けられるものがあります。アンチェルの意向を受けてのことでしょう、どんな細かいところもおろそかにせずにきちんと歌い上げている姿勢は立派です。
ソリストたちも、そんな熱心な合唱に呼応するかのように、全力を出し切ったいさぎよい歌い方が魅力を放っています。中でもソプラノのギーベルの密度の高さと、アルトのソウクポヴァー(なんとも懐かしい名前!)の深みあふれる音色は格別です。「Tuba mirum」では、ちょっと情けないトロンボーン・ソロなどは置き去りにして、確固たる歌を始めるバスのレーフスも立派な声、それを受けるテノールのイェルデンも、素直な声が素敵です。
ライブならではの、アンチェルの燃え方にも、ちょっと驚かされます。ショッキングなまでのゲネラル・パウゼや、陶酔感なしには起こりえない長〜いフェルマータなどは、まさに同じ年生まれの「大指揮者」を彷彿とさせるものでした。このCDには「レクイエム」1曲しか入っていませんから余白は充分、演奏終了後の拍手やどよめきもほとんどノーカットで聴くことが出来ます。

9月13日

Barocking together
Sharon Bezaly(Fl)
Terence Charlston(Cem)
Charles Medlam(Bass Viol)
BIS/BIS-CD-1689


バッハのフルートソナタが、モダンフルートによって、まるでトラヴェルソのような素朴な音色で演奏されるという体験を初めて味わったのは、ペトリ・アランコのCDを聴いた時でした。1995年に録音されたその2枚のCDは、「1」はこちら、「2」はこちらでそれぞれ聴くことが出来ます。ここでアランコは、モダンフルートでは必ず付けるべきだとされているビブラートを一切廃して、バロック時代の楽器のような鄙びた音を出すことに成功していたのです。
なかなかしゃれたタイトルが付いている今回のベザリーの新しいCDは、バロック時代の3人の作曲家、ヘンデル、バッハ、そしてテレマンのフルートソナタを演奏したものです。とは言っても、他の人は1曲ずつなのに、バッハばっかり4曲も割り当てられていました。ただ、普通4曲を選ぶときには必ず入るはずのロ短調のソナタがなくて、代わりに偽作の疑いの強い変ホ長調のもの(第2楽章の「シチリアーノ」が有名)が演奏されているというあたりが、彼女のスタンスをあらわすものなのでしょうか。
共演しているのは「ロンドン・バロック」のメンバー、チェンバロのテレンス・チャールストンと、バス・ヴィオールのチャールズ・メドラムです。チャールストンはバッハのイ長調のソナタの第1楽章の紛失部分の補作も行っています。
ベザリーがバロックのレパートリーを披露してくれたものには初めて接することになりましたが、最初のヘンデルのロ短調のソナタが、まさに彼女のスタイルのお披露目としての役割を担っているように感じられます。そこには、かたくなにビブラートを廃した「アランコ流」は見られるものの、それが作為的(アランコの場合、音楽自体が死んでしまっていました)なものではなく、彼女のほとばしるようなエスプレッシーヴォは決して失われることはありませんでした。もちろん、それは彼女の得意技である音の膨らませが、いかにストイックな外観を装っていても聞こえてくる、ということなのですが。しかし、ヘンデルの素っ気ない音符に豊かなイマジネーションで華麗この上ない装飾を施して、見違えるようなゴージャスな世界を見せてくれているのは、感動に値します。演奏にはなんの関係もないところでの誤り、ブックレットの曲順の間違いなどは噴飯ものではありますが。
続くバッハの4つのソナタでも、そのスタイルは変わりません。ただ、バッハの場合は必要な装飾は作曲家自身がすでに書き込んでいる場合が多いだけに、ベザリーの、特に早い楽章でのやかましすぎる装飾は、ちょっと邪魔に感じられることがないわけではありません。ま、それはあくまで趣味の問題でしょうが、バロック音楽の場合の「趣味」は、かなり大きな意味を持つことは周知のことです。それよりも、例えばホ短調のソナタの第3楽章あたりを、やはり彼女の得意技である「循環呼吸」で押し通されると、ちょっとした息苦しさを感じてしまうことの方が問題なのかもしれません。何よりも、そこからは音の背後から立ち上るはずの「情感」といったものが全く感じられないのは、ちょっと辛いものがあります。それが彼女の限界なのだとあきらめてしまうのは、もちろん簡単なことなのでしょうが。
最後のテレマンのヘ長調のソナタには、なんの屈託もない晴れやかな「情感」が充ち満ちています。いささかの綻びもない彼女の確固たるテクニック(メカニック)は、このような曲を際だたせる最大の武器です。
ベザリーの演奏によって3人の作品を並べて聴いたときに、はからずも浮き出てきたものは、バッハがいかにその他の作曲家とは異なる「深さ」を、音楽の中に盛り込んでいたか、ということではないでしょうか。それは、恐ろしいまでに演奏家の資質を白日の下にさらすものでした。

9月11日

ビルギット・ニルソン
オペラに捧げた生涯
ビルギット・ニルソン著
市原和子訳
春秋社刊
ISBN948-4-393-93179-0

1995年にドイツで出版されたニルソンの自伝の日本語版が上梓されました。その表紙を飾るのは、ドイツ・グラモフォンのレコードジャケットでお馴染み、1966年のバイロイト音楽祭での「トリスタンとイゾルデ」のステージ写真です。初出LPと、最初にCD化された時のジャケットは、こちら。
しかし、一目見ただけで、このジャケットの写真のどちらかが「裏焼き」であることが分かります。アンコは入っていませんが(それは「どら焼き」)。左側のLPと、そしてこの本の表紙の方が間違いであることは、本書の中に掲載されているヴィーラント・ワーグナー自身がこのステージの演技指導を行っている写真(303ページ)によって立証されます。イゾルデの後ろにある壁に見立てた帆布の傾きが、表紙(LP)のものとは全く逆になっているのですから。そして、それは実際にこのライブ録音を聴いてみると、さらにはっきり分かります。これはおそらく、第1幕の第3場、クルヴェナールに揶揄されたブランゲーネ役のクリスタ・ルートヴィヒが、悔しさのあまりニルソンのイゾルデの前にくずおれているシーンでしょうが、そこでは確かにニルソンとルートヴィヒの声は左側から、そしてトリスタン役のヴィントガッセンとクルヴェナール役のヴェヒターの声は右側から聞こえてきています。
ん?ヴィントガッセンとヴェヒター?確かに表紙の写真では、船の舳先のようなシルエットの前に、その二人の姿が見えますね。しかし、LPでもCDでもその部分は真っ暗で、人なんかいませんよ。これは別のシーンの写真なのでしょうか。いや、これらの写真は、それぞれの細部を比べてみると、全く同じネガによるものであることは明白です。ということは、レコードのジャケットを作る時点で、「故意に」この二人の画像を「消した」ということになるのでしょうか。ジークフリート・ラウターヴァッサーの写真は、40年以上の間、修正された形でしか我々の目には触れてはいなかったのでしょうか。そのオリジナルの姿が、この表紙によって初めて明らかになったということになるのでしょうか。もしそうだとしたら、このシーンでのヴィーラントの重要なモティーフだったはずの、片方は泣き崩れているというのに、もう片方はふてぶてしく知らん顔をしているという、そんな二組の人物の対比が、ジャケット写真からは全くうかがうことはできないことになってしまいます。ヴィーラントの映像などは殆ど目にすることは出来ませんから、これはかなり貴重な写真だったはず、このドイツ・グラモフォンの措置は、まさに今は亡き天才演出家に対する冒涜以外の何者でもありません。
ヴィーラントに関しては、ここではニルソンはかなりの紙面を費やして語っています。すでにイゾルデとして確固たる地位を築き上げていたにもかかわらず、彼女は「今までの解釈をすべて忘れ、先生と最初からやり直したいのです」とまで、ヴィーラントに告げ、その結果全く新しいイゾルデ像を、彼とともに作り上げていくことになるのです。
そのあたりの彼女の演出家に対する言及には、真のプリマ・ドンナならではの重みが感じられます。何よりも音楽を大切にした上で確かなドラマを産み出したヴィーラント、その対極としての「演出家」、ヘルベルト・フォン・カラヤンの無能さを描く筆致は、滑稽なまでの爽快感を伴います。
1982年に、余力を残しながら「引退」し、愛する夫との満ち足りた生活を選んだニルソンは、2005年にこの世を去りました。彼女がこの自伝の中で謙遜気味に述べている誰にも真似の出来ない豊かな音楽性、それは、多くの録音によっていとも簡単に追体験の出来るものです。
余談ですが、220ページの「『バラの騎士』のケルビーノ」という部分は、原書にあった間違いなのでしょうか。あるいは、それはニルソンお得意のアイロニー?

9月9日

Mélodies Japonaises
Jean-Pierre Rampal(Fl)
Lily Laskine(Hp)
JVC/JM-XR24209(XRCD)


XRCDによるフルートのソロアルバムというのは、おそらくこれが最初のものなのではないでしょうか。「親日家」ランパルが残してくれたこの録音は、1969年に日本のコロンビア(当時)のために、当時提携関係にあったフランスのERATOのスタッフによって行われたものです。今はもはやアーカイヴでしか存在しなくなってしまった名門レーベルERATOは、ランパルとの録音に関しては最も多くの実績を持っているところです。
しかし、そんな、聴き慣れたはずのERATOトーンとはちょっと異なったフルートの音色が、このXRCDからは聞こえてきました。それは、とても芯のある骨太の音でした。どちらかというと、少し高域が強調されたような軽めの音が当時のこのレーベルの特徴でしたから、これは新鮮な驚きです。しかも、フルートにしてもハープにしても、音像がとても立体的に盛り上がって感じられます。これは、普通のCDでは絶対に味わえないもの、「杉本マジック」は、ここでもまざまざとその威力を見せつけてくれています。
ありがちな名曲集としての選曲ですが、この録音のために編曲を担当した故矢代秋雄は、おそらく通り一遍の「日本の旋律」などを作るつもりなど、さらさら無かったにちがいありません。そこからは、確かな「作品」として、音楽的に充実したものを造り上げようという姿勢が痛いほど伝わってきます。「荒城の月」などは、敢えてオリジナルの西欧風の伴奏を捨て、「日本的」な情緒で迫ります。確かに「♪春高楼の」の「の」の部分での偽終止の和声は、いかにも西洋音楽の中途半端な受け売りを思わせるものですから、こちらの編曲の方がはるかに味のあるものです。(この歌、「ホイコーローの」って聞こえません?)
「さくらさくら」などという陳腐な曲も、まずイントロのハープがとてつもないインパクトを与えてくれます。そこでは、ピックを使ってハープの弦を弾くという、いわば「現代奏法」によって、殆ど日本の「箏」(つまり「お琴」)と変わらない音色と、そして雰囲気を出すことを試みているのです。さらに、ペダル操作によるポルタメントなども交えて、西洋人には馴染みのないある種の情感を描き出すことにも、確かに成功しています。「春の海」や「出船」では、部分的にアルト・フルートに持ち替えて、独特のハスキーな低音から日本の「尺八」のテイストを感じさせるという工夫も忘れてはいません。中でもショッキングなのは、「南部牛追い唄」でのピッコロです。おそらく、編曲者はこの楽器にもっと素朴なものを求めていたのでしょうが、ランパルが吹くこの楽器は、なんと豊かな潤いをたたえていることでしょう。途中に入る超高音の合いの手の部分は、おそらくLP時代にはまともにトレースすることはできなかったのでは、と思わせられるほどの音圧、これが軽々とクリアされているのも、XRCDならではのことでしょう。
ランパルたちが表現している「日本」の音楽は、我々の思いとは微妙に異なっていることが、フレージングの端々で感じられますが、それは編曲者が目指したグローバルな世界観とは見事な整合性を持つものです。ただ、個々の演奏家の間では、微妙な食い違いを見せているのは、興味のあるところです。例えば「花」という曲の捉え方が、フルーティストとハーピストでは全く違っていることも、気づかずにはいられません。オリジナルとほとんど変わらないイントロを、ラスキーヌはなんとも壮大に、殆ど後期ロマン派風な面持ちで演奏してくれているのですが、それを受けるランパルは、いとも軽やかな、まるで鼻歌のようなさりげなさ、そんな両者のせめぎ合いは、曲が終わるまで続きます。
さまざまな意味で、あの時代の勢いを感じさせられるこのアルバム、XRCDとしてリリースされることになった時点で、ユーセンのBGMチャンネルに使われるような音楽とは全く次元の異なるものとなりました。

おとといのおやぢに会える、か。


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