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蜆の恋。.... 渋谷塔一

(02/3/3-02/3/21)


3月21日

MOZART
Piano Concerto No.27 & 9
Jean-Marc Luisada(Pf)
Paul Meyer/
Orchestra di Padova e del Veneto
RCA/74321-91157-2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-34044(国内盤)
先日お約束したモーツァルトの協奏曲、別の人ヴァージョンです。独奏は、あのルイサダ。指揮は、あのポール・メイエ。この顔ぶれを見ただけでも、一筋縄では行かない事はおわかりいただけるでしょう。
想像した通り、いやはやスゴイ演奏でした。先に聴いたブレンデルが一瞬霞んでしまうほど、インパクトの強いもの。およそ27番の特質(天上的とか、透明な美しさと良く言われる)とはかけ離れた主観に満ちた個性的な演奏、この一言です。
演奏家は誰しもそうでしょうが、このルイサダという人は中でもパフォーマンスに長けた人だと思います。以前リリースのシューマンの謝肉祭でも、かなりぶっ飛んだ事をして、聴き手の良識すれすれに挑戦していた・・・記憶があります。「スフィンクス」での解釈には「そこまでするの?」と思いましたし、終曲で、あえて低音をオクターブのトレモロで増強した行為にも、「カッコよく聴かせるためにはここまでやっても良いのよ」とつぶやく彼の姿を彷彿とさせるものがあったのです。
今回のモーツァルトもまさにそんな感じで、テンポ設定、タッチ、まさにいろんなところで考え抜かれた演奏!彼の言葉によれば、「じっくり長い時間をかけて熟成させてきたモーツァルト」だと言うのです。ここで疑問。果たしてモーツァルトにそんな作為的な事が必要なのでしょうか?しかし、これを言ってしまうと先に進めません。でも・・・・・。
まず第27番。この曲はご存知のように全くムダのない作品で、モーツァルトのピアノ協奏曲のなかでも最高傑作のひとつでしょう。当然録音も多く、まさに演奏家それぞれの解釈があります。聴く方も好みがあるでしょうから、なんともいえませんが、少なくとも私はなるべく自然な演奏で、曲そのものを味わうのが好きなタイプ。人の手を介さずに、スコアだけ読んで自分の頭の中で鳴らすのを至上の喜びとしてしまうのですから、どうしてもルイサダの演奏は馴染めません。すみません。ただ、ルイサダの好きな人にはばっちりです。彼のにおいがぷんぷんしますから。メイエのサポートもばっちりです。
第9番。こちらの方がずっと面白かったのは、多分曲の完成度によるのでしょう。ブレンデルのごくごくさり気ない演奏も良かったのですが、こちらは、一つ一つのフレーズに詳細な解説を加えてくれるやり方で、全く飽きさせる事がありません。当然、タッチも考え抜かれた物なのでしょう。少々きらびやか過ぎるかな?と思わせるほどの美音。また第2楽章が秀逸で、ブレンデルの演奏がレシタティーボなら、こちらは濃厚なシャンソン?とも言えるほど濃い音楽です。終楽章もドラマティックな事この上なし。
思うにルイサダは、どんな曲にも「自分の世界」を見出すのが上手いのでしょうか。ただ、曲によっては、そういう価値観すら拒否するものもあるのかも知れませんね。やっぱり、殻をむきながらでないとおいしくないとか(それは蟹缶)。それがあるから、新しい録音が毎日出てくるのかもしれませんが・・・。

3月19日

MOZART
Piano Concertos K271 & K503
Alfred Brendel(Pf)
Charles Mackerras/
Scotish Chamber Orchestra
PHILIPS/470 287-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1054(国内盤)
原稿を書くのが仕事とは言え、毎日何かしらの新譜を聴くのは喜ばしい反面、少々つらいものもあったりします。私は現代音楽(コンテンポラリーミュージック)が大好きですが、それと同じくらい、「てんぷら」が好き(コンテンプラリーミュージック)。しかし、いくら好物だとしても、毎日てんぷらが続くと飽きてしまうのと同じようなもの・・・・とでも言えばよいのでしょうか。
そんな私でも、リリースを心待ちにしているアルバムもあります。あと一月もすればヘレヴェッへも入荷するでしょうし、このブレンデルのモーツァルトも「出た日に買う」そんな1枚です。今作は協奏曲の第3弾で、曲は第9番「ジュノーム」と25番というもの。20番、24番、22番、27番と後期の作品が続いていただけに、今回の第9番というのは、とても新鮮な選曲です。モーツァルト21歳の作品で、ストレートな若々しさに溢れた名曲なのですが、プレンデルの演奏は全く肩の力の抜けた、とても自然な息吹を感じさせるものです。(この曲については、同時期に他のピアニストのリリースも予定されているので、聞き比べ出来ました。そちらは別稿でご紹介します。)
1楽章での何ともいえない暖かさ。聴いている側も自然に微笑むような、軽やかで優しい表情はブレンデルならでは。迷いのない美しさとでもいうのでしょうか。毅然としつつ、なおかつ柔軟。プレンデルの思いがきちんと伝わってきます。続く2楽章も感動モノです。よく言えば「即興性」に満ちた(言葉を変えれば収拾のつかなくなるほど雑多な楽想が詰め込まれた)このピアノによるレシタティーボともいえる楽章、いつものようにブレンデルの変幻自在な表現には、くらくらしてしまいます。第3楽章は、ちょっとタッチが甘いかな?と思える部分もありますが、全体的に溌剌とした弾むような歌が一杯です。しかし、モーツァルトって、よくぞテーマが後から後から出てくるものですね。この終楽章も単なるロンド形式を超えた曲です。
さて、25番のハ長調。同じ調性の21番は、緩除楽章のおかげで広く知られているのですが、どうもこちらはイマイチ知名度にかけます。しかし曲の構成はこちらの方が上・・・ではないでしょうか。交響曲41番に似た冒頭部分のカッコよさは、他の曲にはないものです。こちらでのブレンデルも極めて自然な弾き方なのには驚きます。さりげないけど、心配りばっちり!ただただ無心にモーツァルトと遊ぶ、そんな感じでしょうか。
最近のブレンデルのモーツァルトはどれも素晴らしいの一言です。このペースでリリースが進めば、もしかしたらソナタと協奏曲の新たな全集が出来るかもしれません。

3月17日

ELGAR
Symphony No.1
Colin Davis/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO 0017
ロジャー・ノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団と来日した時の模様がテレビで放映されていたので、ビデオに録画しました。この、オリジナル楽器系の指揮者も最近はこんな「フツーの」オーケストラのシェフに納まっているのかという、ある種の感慨深さもあって、聞き逃せないと思っていたのです。しかし、演奏は思っていたとおり、けっして「フツー」のものではありませんでした。なんせ、この近代オーケストラの弦楽器が、全くヴィブラートをかけないで演奏しているのですからね。
で、プログラムの後半に入っていたのが、エドワード・エルガーの「交響曲第1番」、イギリス音楽に関してはそれほど深い思い入れのない私にとっては、これは初めて聴く曲でした。親しみやすいテーマと重厚な響きを持った、なかなかいい曲だな、と思って聴いていたら、いきなりものすごく有名な音楽が聴こえてきたので、思わず椅子からのけぞってしまいましたよ。いつの間にか、映画「スター・ウォーズ」の中の「インペリアル・マーチ」、というよりは「ダース・ベイダーのテーマ」として知られている、あの勇壮なマーチが、このドイツの名門オーケストラによって演奏されていたのですから。良く聴けば全く同じとは言い切れないものの、リズム感や雰囲気が瓜二つ、ジョン・ウィリアムズがこの曲を下敷きにして「ダース・ベイダー」を作ったのは間違いない、と、自信をもって言い切れる根拠を1ダースは挙げることが出来ます。
さっそくCDで聴いてみようと入手した最新の演奏がこれ。デイヴィス/ロンドン響のライブという、最近好評のシリーズ(今年のグラミー賞を獲得したのが、このコンビの「トロイ人」でしたね)です。しみじみとこの曲を聴き返してみると、なかなか聴き所の多いものであることに気付かされます。第1楽章の冒頭に弦楽器のおおらかなビートにのって管楽器で奏される、ちょっと「パルジファル」みたいなゆったりしたテーマが、この曲全体を支配していて、3楽章や4楽章の最後にも登場します。特に、最後の部分はこのテーマにからむ金管のシンコペーションがとても衝撃的。で、2楽章がさっきの「ダース・ベイダー」。3楽章の夢見るような息の長いメロディーも、とても魅力的です。さらに、曲全体にちりばめられた、とことんロマンティックなエピソードは、この曲が作られた当時(1908年)のイギリスとヨーロッパ大陸との文化的な格差の大きさを、まざまざと見せ付けてくれています。「威風堂々」がヒットしたのだから、少しぐらい古臭くても構わないだろうという開き直りが、4楽章の明快なメインテーマなのでしょうか。
デイヴィスの演奏は、そんなエルガーにどこまでも肯定的な、おおらかなもの、ノリントンのやや素っ気無い解釈とは一線を画しています。
そういえば、ノリントンのCDも出ていましたね(HÄNSSLER/CD 93.000)。やはり、この音楽にヴィブラートを用いないのは、つらいものがあります。

3月15日

Words of the Angel
Trio Mediaeval
ECM/461 782-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2014(国内盤3月21日発売予定)
マンフレート・アイヒャーという、スチームクリーナーみたいな名前(それはケルヒャー)を持つ、かつてベルリン・フィルのコントラバス奏者だった人が1969年に起こした有名なジャズレーベルが「ECM(Editions for Contemporary Music)」です。しかし、アイヒャーの制作するアルバムには、最初から「ジャズ」というジャンルを飛び越えてしまったような風通しのよさがありました。創立から30年以上を経た今日では、ECMはまさにContemporary Music=同時代の音楽にあらゆる面で刺激を与えつづけているレーベルとして、クラシックファンにとっても見逃せないものになっているのです。先頃発表になった今年のグラミーにおいても、アイヒャーが「クラシックの最優秀プロデューサー」部門で賞を獲得したのは、そのあたりの実績が正当に評価された結果なのでしょう。
ECMの間口の広さには驚くべきものがあります。現代音楽界のビッグネーム、アルヴォ・ペルトの名前を初めて知ったのも、このレーベルでした。かと思うと、「古楽」というカテゴリーに属するヒリヤード・アンサンブルを起用してタリスなどを録音させたり、最近ではそのヒリヤードとサックス奏者のヤン・ガルバレクとのコラボレーションでスマッシュヒットを飛ばすなど、ひとときも目を離すことはできません。
そんなECMの最新アルバムがこれ。「古楽」のフィールドに新風を吹き込んでくれるニューカマー、「トリオ・メディーヴァル」。言ってみれば「中世3人娘。」という、ノルウェーとスウェーデンの3人の女声によるアンサンブルのデビューアルバムです。音楽史で「中世」というのは、1516世紀の「ルネッサンス」よりもさらに前の時代、現在我々がごく自然に接している長調とか短調といった概念、もっと言えば「純正調」などという概念すらなかった頃になります。現代の音楽環境では味わうことの出来ない不思議な響きを虚心に受け入れるならば、今までになかった新鮮な体験が待っていることでしょう。「トゥルネーのミサ曲」の素朴な味わいには思わず引き込まれてしまいます。さらに1曲だけ、現代の作曲家アイヴァン・ムーディの作品が収録されています。アルバムタイトルの"Words of the Angel"がそうで、中世的なテイストを持った聴き応えのある作品です。
3人のメンバーはそれぞれソロをとっている曲があるので、一人一人の特徴が良く分かりますが、みな極めて高度に訓練された声をもっています。なかでも、もっとも若いアンナ・マリア・フリマンのもつおおらかなリリシズムは、アンサンブル全体の現代的な響きを支配しているかのようです。先ほど登場した、この分野では先輩にあたるヒリヤード・アンサンブルによる薫陶も見逃せないもの。実際、このアルバムをプロデュースしているのは「ヒリヤード」のメンバー、ジョン・ポッターなのですから。

3月13日

GODOWSKY
Sonata,Passacaglia
Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA 67300
おやぢ大好きのアムランの新譜です。
先日、グランテによる「ショパンのエチュードによる練習曲」をご紹介しましたね。確かにあの2枚組も、とても楽しめたのですが、やはり聴いているときも、頭の隅からアムランの演奏が離れないのですよ。「彼だったら、ここをこう弾くだろうな」と自然に考えてしまう。いわばアムランは、私における「ゴドフスキの基本」なのでしょうね。
そんな彼の新譜は、私の気持ちを見透かしたかのような、「ゴドフスキ作品集」です。めったに演奏する人もいない、「ソナタホ短調」と「パッサカリア」という組み合わせ。これは期待できるではありませんか。
毎年来日しては、聴衆を唖然とさせていくアムランですが、2年前のプログラムに入っていたのが、このパッサカリアでした。仕事の都合で、会社をなんと6時50分に出た私のその日のお目当ては例のカプースチンのピアノソナタ。こちらはプログラムの後半にあったため、「ま、いいか」とタクシーで乗りつけでも、完全に遅刻して、曲の合間に会場に入れてもらい、「さて」と着席してすぐ耳に飛び込んできたのが、この曲でした。(長い前振り)前半にシューベルトのピアノソナタ21番を置き、その次にこの「パッサカリア」を演奏するという、極めて考え抜かれたプログラムを半分聞き逃した私・・・・。今でも悔やまれてなりません。つい感傷に浸ってしまいました。
この「パッサカリア」、主題は、シューベルトの「未完成交響曲」から取られています。例の如く、伝説的な難曲として知られ、「この曲を弾くには手が6本必要だ」と言ったのがあのホロヴィッツ。そういう曲ですが、こうしてしみじみ聴くと、少々しつこい感じもします。いくら変奏されるとは言え、ひたすら、未完成の出だしの部分を44回繰り返すのですよ。演奏会当日は半分聴いたところで気持ち良くなって意識が遠のき、「確かに変奏曲と言うのは眠りを誘う物だ」なんて感激した記憶すらありますが、こうして聴いてみると、ピアノ演奏の技術の粋を極めた、すごい作品であります。しかし、下手な人が弾くとテキメンに眠りを誘うことは間違いありません。
同じく「ピアノソナタ」も華麗なテクを誇示する曲ではありますが、アムランが発掘しなければ、音楽史に埋もれてしまったかもしれないゴドフスキの面目躍如といった曲ではありますね。ちなみに、私はニヒルなコドクスキ、ヘンタイなオトコスキではありません。

3月11日

MARENZIO
Madrigali
Rinaldo Alessandrini/
Concerto Italiano
OPUS111/OP 30245
ジャケ買いです。はっきり言って。某大型CD店に、このジャケットが所狭しと並べられているのを見たならば、手を伸ばさないおやぢなどいるわけがありません。
もともとの絵は、16世紀のドイツの画家ハンス・バルドゥンク・グリーンの「イヴ」という作品。もちろん「創世記」におけるエデンの園でのイヴの姿の肖像画で、オリジナルはきちんと全身が描かれています。この絵のなぜか下半身だけをトリミングしてジャケットに使ったデザイナーと、その製品をいぶかしがりもせず売り場の一番目立つ場所に堂々と展示した店員さんには、いくら感謝してもし足りない思いでいっぱいです。
そんなわけで、買ってきてから気がついたのは、これがリナルド・アレッサンドリーニが主宰する「コンチェルト・イタリアーノ」のアルバムだったということです。以前からこの演奏者のことは気になっていたのですが、このレーベル、最近他の会社に身売りしてしまって、かつての印象的なデザインがすっかり変わったために、ちょっと気付かなかったのです。この団体、女声も入った、このアルバムでは7人編成のヴォーカル・アンサンブル、リュートやアルパの伴奏、時には指揮者アレッサンドリーニのチェンバロも入るという、ちょっと前の「コンソート・オブ・ミュージック」のようなコンセプトのグループですが、メンバーは一定はしてなくて、その時々の「旬の」演奏家が集められているようです。
ここで演奏しているのは、ルカ・マレンツィオの作品。イタリアの世俗的なポリフォニーの声楽曲を「マドリガーレ」といいますが、マレンツィオというのは、同じ時代のカルロ・ジェズアルドや、クラウディオ・モンテヴェルディとともに、このマドリガーレを究極の高みにまでに引き上げた作曲家として知られています。「マドリガリズム」といわれる、歌詞と音楽を有機的に結びつける職人的な技法を確立したのも、彼らだと、ものの本には書いてありますね。
そんなマレンツィオの、5声と6声のマドリガーレが収められているのが、このアルバムです。イタリア人によるこの種の演奏というものには、実はそれほど好ましい印象はなかったのですが、これには満足です。クセのない歌い方による均質な響きは、イギリスの団体を思わせるよう。これが出来さえすれば、あとは自分の国の音楽なのですから、いくらでも魅力を注ぎ込むことができることでしょう。楽しみなことです。
ソプラノとして2人の歌手が参加していますが、一応メインとして扱われているモニカ・ピッチニーニよりも、出番の少ないエリザベッタ・ティトの方が、私は好きです。声に輝きがありますし、表現にも深いものを感じられます。マドリガーレの「インスト版」とでも言うべき、チェンバロ独奏曲を、アレッサンドリーニ自身が弾いているトラックにも、捨てがたいものがあります。

3月9日

CHOPIN/Cello Sonata
Schumann/Works for Cello & Piano
Torleif Thedéen(Vc)
Roland Pöntinen(Pf)
BIS/CD-1076
北欧、スカンディナビア半島で現在「最高のチェリスト」の1人と言われている、若手、トルエィフ・テデーンのロマンティック・チェロ曲集です。ピアノは、以前ここでもご紹介したスウェーデンの名手、ロランド・ペンティネンというので、これも楽しみです。
以前ショスタコのチェロ協奏曲にはまった時、ご多分に漏れず、いろいろな演奏家を聴きあさったものです。(前任者さんはノラスやウィスペルウェイがお好きみたいですね)私の友人の「ショスタコおたく」Fさんは、このテデーン盤を推奨。試しに聴いてみましたが、その時はイマイチ気に入らなかったのは、ショスタコを演奏するには、少し繊細すぎる、独特のヴィブラートのせいだったかも知れません。
今回選ばれているのは、ショパンのチェロ・ソナタとシューマンの「アダージョとアレグロ」、「5つの民謡曲集」と言うもの。これらの曲だったら、あの美しい音色がぴったり来るはずです。
ショパンがピアノの次に愛した楽器がチェロだった話は有名ですね。フランショームという良いチェリストの友人に恵まれたおかげで、このソナタも、膨大なピアノ曲のカタログの片隅で光を放つ存在になりました。彼の晩年特有の、深い楽想と完成された様式が魅力的な曲で今までも様々なチェリストにより愛奏されています。もちろんピアノの役割も大きくて、「チェロ・ソナタ」と言うものの、実際はチェロとピアノの二重奏といったほうが良いのかもしれません。
テデーンとペンティネンの二人は、この曲を静かに始めます。一音一音確かめるかのようなピアノの前奏、問い掛けに応えるかのようなチェロ。この掛け合いは、本当に見事。チェロも存分に歌っています。しかし、音の流れの合間に訪れる一瞬の恐ろしいまでの静寂、これは意識したものなのでしょうか?張り詰めるような緊張を強いられて、思わず息苦しくなるような演奏です。
次のシューマンでは一転して、伸びやかな世界が広がります。ゆったりしたアダージョと、狂おしいまでに情熱的なアレグロ。もともとホルンのために書かれたいかにもシューマンらしい、言葉では伝えきれないもどかしさに満ち溢れたこの作品を彼らは何と愛おしげに奏するのでしょうか。感情の動きより音の流れの方が激しいアレグロでは、下手をすると収拾がつかなくなる、その一歩手前で踏みとどまるだけの落ち着きが心地良く、聴く方は、とにかく音の奔流に身を任せていれば良いのですから。何となく慌しいこの季節。こういう落ち着いた曲をテデーンの演奏で聴いて、気分をリセットするのもいいものですね。真っ暗になってしまうのはちょっと心細いですが(それは停電)。

3月7日

MUSSOUGSKIJ/NAOUMOFF
Pictures at an Exhibition
Emile Naoumoff(Pf)
Igor Blaschkow/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
WERGO/ALC 5106 2
(輸入盤)
キング・レコード
/KKCC-4344(国内盤)
このところ「展覧会の絵」が大流行です(そればっかり)。しかし、キーシンのオリジナルのピアノソロ、ゲルギエフのラヴェルによるオーケストラ版と、いずれ劣らぬ名演を聴いたあと、こんな風に考えたことはありませんか?「ピアノ版を聴いていると、なんだか物足りなくて、オーケストラの響きが聴きたくなってくるし、オーケストラ版を聴いていると、もとのピアノ版が無性に聴きたくなってしまうんですよ。」
そう、この2つのヴァージョンがどちらもしばしば演奏されているという状況に置いては、現代人のおよそ69%が、どちらを聴いてもなんだか満たされない思いにとらわれてしまうという「展覧会の絵編成選択不能症候群」に蝕まれていると言われているのです。そこで、このような症状への特効薬として開発されたのが、ブルガリア出身の作曲家でありピアニストであるエミール・ナウモフの手になる「ピアノ協奏曲版展覧会の絵」、はたして、この現代病を癒す力はあるのでしょうか。
オリジナルであれ、どんな編曲であれ、最初に聴こえてくるのは有名な「プロムナード」のテーマですが、ここではいつまでたってもそれは聴こえてはきません。その代わり、延々と展開されるのは、ピアノの即興的なソロ。改めて曲のクレジットを見直してみると、「エミール・ナウモフによるパラフレーズ、オーケストレーションとカデンツァ」とありました。つまり、これは単なる編曲ではなく、「展覧会」を素材としてナウモフがインスパイアされた新たなエピソードを、オリジナルの中にはめ込んでいくという、いわばムソルグスキーとナウモフによるコラボレーションピースだったのです。
したがって、この曲は冒頭のようなカデンツァがあるかと思うと、オーケストラが提示したテーマに即座に答えて新しいフレーズを提示するといった、クラシックというよりは殆どジャズの即興演奏に近い色合いを持つヴァラエティに富む音楽になっています。手法的にも、いわゆる現代音楽っぽい難解な響きではなく、もっとポップでわかりやすいもの。カップリングの自作「瞑想」にも見られるように、単純な機能和声に意識的に非和声音を加えるという、いわばちょっと底の浅い作り方なのかもしれませんが。
オーケストラの方はと言えば、やはりラヴェルの呪縛から完全に逃れることは困難なことだったようで、聴き慣れたオーケストレーションへの違和感は殆ど感じることは出来ません。もちろん、中にはとても新鮮に聴ける部分も見受けられます。たとえば、「古い城」の最初で、ラヴェルがファゴットに吹かせているオスティナートを、チェロに任せたというのは、なかなかセンスのよいアレンジです。「キエフの大門」の始まりも、弦楽器だけで肩透かしを食らわせておいて徐々に盛り上げるという、心憎い気配りですし。
ナウモフがムソルグスキーを下敷きに展開した自由な「展覧会」、むずかしいことはなうもふ(なるべく)言わないで、彼のアイディアを心ゆくまで楽しんでみたら、この曲の効能は自ずと明らかになるのではないでしょうか。

3月5日

ORFF
Carmina Burana
Donald Runnicles/
Atlanta Symphony Orch. & Chorus
TELARC/CD-80575
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCT-2013(国内盤3月21日発売予定
「おやぢ」始まって以来の「カルミナ」のご紹介です。これだけの人気曲が、このところは新録音がなかったということになります。今回の新譜は、アトランタ交響楽団の首席客演指揮者ラニクルズの、TELARCレーベルへの初登場となりました。録音されたのは2000年ですが、実はきっかり20年前の1980年、発足間もないこのレーベルに同じ演奏者が同じ曲を録音しているのです(CD-80056)。指揮者は、当時の常任指揮者、今は亡きロバート・ショウですが、ロバート・ウッズ、ジャック・レナーという創業以来のチームによって制作された新旧の「カルミナ」を比較してみるのも興味のあるところではないでしょうか。
TELARC発足当時の録音の特徴は、マッシブな音と自然な音場感でした。レナーたちは、マイクの数を最小限に押さえた、いわゆるワンポイント録音を採用しながらも、最適のセッティングポイントを見つけることによって、オーケストラ全体の量感を充実した音で収録すると同時に、個々の楽器をクリアに特徴付けるという、奇跡のような録音を実現させていたのです。
旧盤の「カルミナ」では、そのTELARCサウンドが見事に発揮された、輝かしくバランスの良い録音を聴くことが出来ます。多くの打楽器が強打しあっている中でも、ヴァイオリンの艶やかな響きが埋もれてしまうようなことはありませんでした。
それから20年、機材も変わり、マイクのセッティングも変わりました。最近のTELARCの関心事はもっぱらサラウンド。酢をかけて食べるととてもおいしいものですが(それは皿うどん)、その分、かつての素直なバランスが失われてしまっていると感じるのは、私だけでしょうか。確かに、バスドラムなどはとことんリアルな音で迫ってきてびっくりさせられますが、かつてあれほど魅力的であった弦楽器の響きが、とても貧弱なものになってしまっています。いたずらに誇張された細部だけが目立ってしまって、オケ(+合唱)全体としての響きが薄っぺらになってしまうというのは、時代の流れとして容認しなければいけないのでしょうか。
演奏面でも、かつてロバート・ショウが手塩にかけて育て上げた合唱団が、なんとも生気に乏しい表現に終始しているのにはがっかりさせられてしまいます。それに加えて、ラニクルズの指揮がいかにも大味、派手に鳴らすところはそれなりに聴けるのですが、細かいところがおざなりで、合唱との間にしばしば破綻が生じています。私がこの曲でもっとも聴きたいと思っているのは「野卑なまでの歓喜」。それをこのオペラ指揮者に求めたのはどうやら筋違いだったようです。
唯一、魅力を感じたのはバリトンのアール・パトリアルコ。決して美しい声ではありませんが、表現力は抜群で、「Ego sum abbas」での酔っ払いの高僧の歌は、まさに至芸です。

3月3日

While I Dream
Barbara Bonney(Sop)
Antonio Pappano(Pf)
DECCA/470 289-2
胸に自信のないソプラノ、バーバラ・ボニーの新譜です(それはノーブラ・ボニー)。ピアノ伴奏がアントニオ・パッパーノというのは出来すぎ。
真面目な話、この組み合わせは2年前の「北欧歌曲集」でも素晴らしい音楽を聴かせてくれたものでした。ただ、あの時は少々曲が地味でして、私もあの「モンテ・ピンチョ」には全くお手上げ。国内盤の対訳で初めてそれは人の名前だとわかった体たらくでした。
しかし、今回はシューマンの「詩人の恋」とリストの歌曲集です。これなら、もう少し一般受けするでしょうし、何より、男声で歌われることの多い「詩人の恋」の世界を、あのボニーがどう表現するのか、聴く前からとても楽しみにしていた1枚です。
アルバムの最初に置かれているのがリストの歌曲集。最近では、クヴァストホフがDGに録音していましたが、その曲はとても慎ましやかで、内省的。これは彼の歌い方にも拠るのでしょうが、とにかく「リストの歌はピアノ曲よりも数段落ちる」との印象が強くなっただけでした。
しかし、今回のボニーの歌を聴いて、その思いが根底から覆されたのです。最初にアルバムタイトルでもある「おお、私が眠るとき」のフランス語ヴァージョンが置かれています。それは、ピアノのつぶやくような前奏に導かれて、彼女が歌い出すのですが、もともとヴィクトル・ユゴーの詩に付けられた曲のせいもあるのでしょうか、まるでフォーレの歌曲を聴いているかのようなデリケートな味わい。そういえば、第3曲目の「もし美しい芝生があるなら」、これもフォーレの「シルヴィー」に曲想が似ている気がしましたが、この曲も含め、最初の4曲はユゴーの詩に付けられたものが選ばれているところにもボニーの趣味のよさを感じます。
もちろん、リストらしく派手なピアノの伴奏部にも事欠かなくて、そんな部分はパッパーノの名技をたっぷり楽しむことができます。
とにかく、リストの歌曲をこんなに楽しんで聴いたのは初めての経験です。「ミニョンの歌」での「Dahin!Dahin〜」の呼びかけは殊に印象的。聴き終えた後にも、ずっと耳に残って私を悩ませたものです。
メインのシューマン。この曲を聴くときは、何と言ってもヴンダーリッヒの顔が目の前に浮かぶのですが、今回のボニー盤を聴いていると、彼の事など思い出しもしませんでした。
ここまで透明で清潔な歌声で歌われると、悩みなど無くなってしまうのでしょうか。少なくともヴンダーリッヒのような「若者の情熱的な狂おしい感情」とは無縁の歌。これが正しい解釈なのか、私には判断が付きかねますが、今まで聴いた「詩人の恋」とは全く違った世界です。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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