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御出家卑猥。.... 渋谷塔一

(02/8/5-02/8/25)


8月25日

LISZT
The Virtuoso Piano Paraphrases etc.
Jorge Bolet(Pf)
ENSAYO/3406
ホルヘ・ボレットと言ったらリスト弾きとして有名で、DECCAにも数多くの録音がありますね。
今回見つけたのは、何とも安っぽいデザインのジャケで、なんと690円。良く見たらスペインのENSAYOレーベルのもので、マイナーレーベルの常として、録音年や、場所など一切のデータは記載されていません。中の解説も不親切。リストがなぜ編曲に拘ったかのみ2ページに渡って論じられていると言うもの。しかし、ちょっとけばけばしい音質や、プロデューサーの名前(かろうじて記載されている)から判断して、DECCAの録音と別物でしょう。いま流行りの「メジャー音源を買い取って激安で販売」レーベルとは違うようです。
さて、ボレットといえば先ほども書いたようにリストでお馴染みです。しかしながら彼の演奏は、はっきり言って飛びぬけて巧いというわけではありません。特に晩年の演奏は、指は縺れるは、難しいところは堂々と遅くするはで、とても技術の追求どころではありません。この録音は、それでもまだ早いパッセージなどが弾けているので、比較的若い頃の録音なのではないでしょうか。それでも至るところに危ない箇所があって、かなりはらはらしてしまいます。
しかし、彼の演奏には他の誰にも真似ができないほどのロマンティックな味があるのです。例えば、「愛しき娘」。これはショパンの小さな歌曲を、リストがロマンティックな夜想曲に書き換えた物。こういう曲を弾かせたらボレットの右に出るものはいないでしょう。なんせ、ありとあらゆる色が揃っているのですから(それはパレット)。必要以上に甘く切ない感傷を盛り込み、涙を誘う・・・・・。この作品はリストの編曲物でも良くできているのではないでしょうか。原曲から遠く離れて、リスト自身の個性を盛り込み、それが成功した稀有な例だと思います。一緒に収録されている、シューマンの「献呈」や「春の夜」は編曲自体があまりにもくどすぎて、原曲の素朴な味を壊していますし、それをボレットが演奏すると、ロマンティックな面だけを強調するものだから、もうこてこてになってしまって、聴いてる方が恥ずかしくなってしまうのですね。
ここまで書いて、ある日本人ピアニストFを思い出しました。彼女も、決して巧いわけではないけど、好んでリストを弾きたがる。そういえば、このCDに収録されている「ます」も彼女のレパートリーでしたっけ。(ボレットの方が彼女よりはテクニックがありますが)
この2人に共通するのは、「とても楽しそうに演奏すること」でしょう。本当に好きな物を演奏するのは彼らにとって至福の喜びなはずです。それなのに、私は自他ともに認める「ボレット好き」であり、「F嫌い」なのは、ひとえに、「多数の人が崇め奉るものが嫌いである」という、ひねくれた性格にある、ということに改めて気が付いた次第です。どちらも似たようなものなんだけどねぇ。

8月23日

TAKEMITSU
Songs
Dominique Visse(CT)
François Couturier(Pf)
TAMAYURA/KKCC-3002
武満徹の曲の楽譜を見たことがありますか?こまごまとしたダイナミックスの指示、五連符を多用したり、小節ごとに拍子が変わる複雑なリズム。とても神経質なそれらの音符が重なり合って、あのえも言われぬ、俗に「タケミツ・サウンド」などと呼ばれている不思議な世界が広がるわけなのです。まるで年季の入った模造品の刀(それって、竹光?)の職人の仕事のように、たった一つの音さえもないがしろに出来ないような、精密な作曲の過程が見て取れるものです。
しかし、そのような音楽は武満の一つの側面でしかありません。20曲ほど残されている彼の「うた」に対する姿勢は、それとはまったく別のもの。これらの作品にはまさに「うた」あるいは「song」と呼ばれるにふさわしい、軽さと、親しみやすさがあるのです。もっと言えば、現代「作曲家」の「作品」として、最後の形まで責任を持って世に送り出す、といったような気負などさらさらない、あたかも吉田拓郎や井上陽水のような、ほとんどシンガー・ソングライターのノリすら感じられるものなのです。しかも、それは場合によってはほとんどアマチュアのレベル程度のこともあり、例えば五木寛之の小説を映画化する際にテーマ曲として作られた「燃える秋」などは、最初の段階では今のようなきちんとした形にはなっていなくて、プロのアレンジャーが何とか使い物になるように仕上げたというような逸話が残っているほど。これは、初演者(という言い方はいかにもクラシック)であるハイファイ・セットのメンバーが語っていたのですから、多分本当のことでしょう。
武満の「うた」として、おそらくもっとも有名だと思われる「死んだ男の残したものは」なども、演奏者によってメロディーが全く異なっていることから、きちんと楽譜として書いたものではなく、それこそ「口伝え」で作った物であることが分かります。(それにしても、谷川俊太郎のこの歌詞の陳腐さは、改めて聴くと恥ずかしくなるほど。これは間違いなく、ピート・シーガーの「花はどこへ行った」のパクリでしょう。)
アンサンブル・クレマン・ジャヌカンのみならず、オペラなど幅広い分野で活躍を続けるドミニク・ヴィスが、これらの「うた」を日本語だけではなく、英語やスペイン語をも駆使して歌ったこのCDからは、従って、これらの作品の稚拙な側面と、生まれながらに持っている解釈の多様性を直視させられることになります。一応ピアノ伴奏付きの楽譜として出版されているそうですが、その伴奏すらもピアニストのフランソワ・クトゥリエの手によって自由に書き換えられていることからも分かるように、演奏家に固有の解釈を許した「うた」たちは、やがて、作曲者の名前すらも忘れ去られて、独り立ちをはじめていくことでしょう。ヴィスの歌声からは、国籍も、あるいは時代さえも特定できないような普遍性が感じられます。

8月21日

SCHUMANN
Carnaval etc.
Evgeny Kissin(Pf)
RCA/09026-63885-2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-31067(国内盤)
今、若手ピアニストの中で最も名前の知られているのは、(好き嫌いは別として)このエウゲニ・キーシンではないでしょうか?リリースするアルバムはどれもベストセラー。新譜を心待ちにしているファンも多いようです。
今回のキーシンの新譜はシューマンです。彼のシューマンはこれが始めてというわけではないのですが、どうも彼のピアニズムとシューマンは相容れないような気がするのです。そうなんです。白状しますと私はあまりキーシンの演奏って好きでないのです。
偏見を承知で今回のアルバムを聴いてみました。ピアノ・ソナタ第1番と「謝肉祭」というもので、これはこれでなかなか食指の動くものではあります。最初に収録されているのは「ソナタ」の方。冒頭の重苦しい分散和音の思わせぶりな表情。なかなか良いではありませんか。さすが巧いですね。しかし、なんだかあまりにも「どうだ、すごいだろう」と巧さを見せ付けられているようで、ちょっとついていけません。これが、彼を好きな人だと「う〜ん、すてき!」になるのでしょうね。こんな時、やはり音楽の聴き方なんて主観的なものだと感じてしまうのです。唖然としたままソナタも終わり、次は「謝肉祭」。
ああ、やっぱり巧すぎるんです。各々の曲の完成度は確かに驚く程高いのですが、そのためか、却って曲の面白みが薄まってしまったように感じたのは実は私だけではありませんでしたね。友人にも聴かせて感想を求めたところ、「この曲って練習曲じゃないよな」とか。以前聴いたルイサダの、くどい、濃い「謝肉祭」が懐かしくなって、ついつい引っ張り出して聴きなおしてしまいました。それと、来日中のフレディ・ケンプの演奏も。ケンプの素直で誠実な謝肉祭は、ルイサダの物とは対極の位置にありますが、等身大の若者の悩ましさがぐんぐん迫ってきて、これはこれで切ない気持ちになれました。
ほんとに好みの問題でしょうけど、なぜ共感できないのか・・・・。少なくとも、前作のムソルグスキーの「展覧会の絵」はとても面白かったではないですか。もしかしたら、これは曲の性格によるのかもしれません。「展覧会の絵」の方は曲自体がとても描写的で、即物的。楽譜をそのまま(あるいはオーケストラに置き換えて)演奏すればするほど曲の面白さを引き出すことができるのでは。そこへ行くと、「謝肉祭」の方は、一応表題が付いているとはいえ、内容はかなり観念的。いろいろな想像が入り込むだけの余地があるのでしょう。キーシンの演奏は、それなりにいろいろ考えてはいるのですが、もやもやした妄想は全く感じられないのです。もちろん胸を焦がす恋の悩みも、下世話なシモネタの世界も。あまりにも健全な世界です。
シューマンに限って言えば、「妄想を膨らませた者」(ヘンタイとも言う)勝ちなのでしょうね。糞真面目は禁止です。

8月18日

團伊玖磨
歌劇「ひかりごけ」
木村俊光(Bar)
現田茂夫
/
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
コジマ録音
/ALCD-9035/6
私のオペラ初体験は、80年のウィーン国立「エレクトラ」であった事は何かに書きましたっけ。ホントはベームのモーツァルトを聴きたかったのですが、激しいチケット争奪戦に負けてしまいました。何はともあれ、その時聴いたR・シュトラウスの印象はあまりにも鮮烈でした。あの時、もしベームを聴いていれば、もう少し違った道を歩んでいたかもしれませんが。
私の友人は、この「ひかりごけ」が初体験だと言います(「火照り後家」ではありません)・・・・。日生劇場での東京初演に立ち会ったそうで、何とも羨ましい話ではありませんか。このオペラ「ひかりごけ」、今月の某雑誌でも大きく取り上げられていますから、内容については御存知の人も多いでしょう。極限状態に置かれた人間の究極の選択。何が正しくて何が間違っているのか。もちろん「常識」や「良識」に照らし合わせてみれば、その行為は罪として裁かれるのだろうけど・・・・・。とにかく重い命題を突きつけられることを覚悟の上で聴かなくてはいけない作品です。
第1幕、北海道の某洞窟で繰り広げられる凄惨な物語。吐き気を催すような内容のはずですが、実際聴いてみるとそうでもないかと思いました。本来なら忌避されるはずの「死ぬ」「喰う」と言ったあまりにも直接的な言葉の乱用が、聴き手の感覚を麻痺させて、却って逆にこの物語から現実味を取り除いているのでしょうか。ほとんど無調の音楽、77分間、全て男声のみ。最初4人から始まって一人一人減っていき、最後は一人になる。登場人物が減っていくに従い、音楽は濃密さを増していきます。そして最後に置かれた瞑想曲IVの大オーケストラの咆哮は、ハリウッド映画を思わせる程に壮大ですが、二人残ったうちの一人の男の悲鳴によってそれも断ち切られ虚無の世界が広がります。このあたりは本当に怖い。
第2幕、口々に罪を弾劾する人々に囲まれた生き残った男。果たして彼の取った行いは罪なのか否か。いろいろな人の思惑の渦巻く中、男は執拗に「我慢しています」をくリ返します。検事による事件の再現のシーン、「お前は八蔵を指から・・・」ここが全曲中一番吐き気を催す場面でしょう。それでも彼は「我慢してます」の一点張り。「こんなに我慢できるなら、なぜあの時我慢できなかったのか?」裁判が進むにつれ、裁く側の立場も微妙に変わってくるところ、もしかしたら、これがこのオペラの本質の一つなのかもしれません。
全部聴き終えて、何となく今流行のブリテン「ピーター・グライムズ」を思い出しましたが、こちらの作品には残念ながら救いはありません。暗澹たる気持ちが残るのみです。作品に心地よさを求める人には絶対オススメできませんが、神奈川フィルと、優秀な独唱陣の白熱の演奏には、全くもって頭が下がります。特に船長役の木村俊光さんの歌は素晴らしいの一言です。

8月16日

SMETANA
Má Vlast
Nikolaus Harnoncourt/
Wiener Philharmoniker
TELDEC/0927-44890-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11327/8(国内盤)
このところ、連日ヨーロッパの大洪水の被害が報道されています。チェコのプラハ市内を流れる有名なヴルタヴァ川も、水位が上がって街中床下浸水、いたるところにザリガニが泳いでいるということです。この「ヴルタヴァ川」かつてはドイツ語で「モルダウ川」と呼ばれていましたが、最近ではチェコ語本来の呼び方が浸透してきており、ニュースの報道でも「ヴルタヴァ」あるいは「ブルタバ」という、コーラの空き缶(それはプルタブ)みたいな呼び方が一般的になっています。
しかし、私達クラシック音楽ファンにとっては、スメタナが作った連作交響詩「わが祖国」の2曲目は、やはり「モルダウ」であって欲しいものです。そうは言っても、今回、ウィーン・フィルとこの曲を録音したアーノンクール盤では、CDの表記も「ヴルタヴァ」ですから、いずれはこちらに移行していくのでしょうか。
こんなことを考えたのも、この演奏が今までのものとは全く印象が異なる衝撃的なものだったからです。この「ヴルタヴァ」、ご存知のように、ヴルタヴァ川の(ああ、めんどうくさい!)流れを描写的に表現した音楽ですが、その出だし、川の源流の繊細な流れが2本のフルートによって表わされるところからして、とてもヘンタイです。フツーは、2本の楽器があたかも1本であるかのように滑らかに、どこで変わったか分からないように吹くものだとされていますが、アーノンクールはことさら1番奏者と2番奏者に別の音楽をやらせようとしています。したがって、水の流れはあっちにぶつかり、こっちに跳ね返るという、言ってみれば自然のカオスにあえて逆らわないように運動しているように見えます。だから、その動きに乗って出てくる有名なテーマも、流麗さや開放感とは無縁の、どこかぎこちないものです。続く村人の踊りのエピソードも、まるでお葬式の行列のような暗い影がまとわりついています。これは、もしかしたら、「安楽死」をやむなくされたチェコの動物園のゾウやカバの怨念なのでしょうか。
「モルダウ」、ではない、「ヴルタヴァ」だけでもこれだけのブキミさ、全6曲を聴きおえたときには、すっかりこの曲に対する印象が変わってしまっていました。特に最後の2曲、「ターボル」と「ブラニーク」の厳しさといったら。
しかし、これだけ尋常でないことをやられると、オーケストラの方はたまらないでしょう。さすがの名人ぞろいのウィーン・フィルでも、あちこちで破綻をきたしています。それはそれでスリリングな体験、音楽は人間がやるものだということが、今さらながらに実感できます。
実はこの演奏、定期演奏会のライブ録音なのですが、同じものをテレビで見たことがありました。そのときはそんな強烈な印象は受けなかったのは、映像だとアーノンクールのあの表情、仕草に納得させられて、どんなことをやってもあたりまえに聴こえてしまったからなのでしょう。

8月14日

MESSIAEN
Vingt Regards sur l'Enfant-Jésus
John Ogdon(Pf)
ユニバーサル・ミュージック/UCCD-3133/4
このDECCAコンテンポラリー・ミュージック・シリーズは私より少し上の世代の方が、(どのくらいの世代だ?)それこそ泣いて喜ぶような企画と言えるでしょう。LP時代、レコード店の片隅でひっそりと販売され一部のマニアだけが嬉々として購入。それこそ販売枚数なんて全国でも3桁行くかどうか・・・。で、発売3年くらいで製造中止。CD化もされたけど、ちょっと買い逃したな・・と思うともう店頭から姿を消している。たぶんこんな道を辿ったに違いありません(事実、このシリーズは90年に国内盤としてリリースされたものの再発売です)。これが例えばポリーニのショパンの練習曲やクライバーの「運命」だったりすると、手を変え品を変え何度も何度も再発されて、決して店頭からなくなるなんてことはありませんが。
ですから、今回こうしてまとまって発売されたのは本当に嬉しい限りです。メシアンだけでも、例の「変容」の初録音盤を含めて3タイトル、例え、20日間三度のメシアンパンだけになろうとも、(何せ高いので)、全18種類揃えたいと心に誓う私です。とりあえずそのメシアンを弾いているオグドンのこのCDから。
昔、この演奏を耳にした頃は、まだ自分の耳も今ほどには成熟しておらず、確かFMで聴いただけなので、各々の曲の持つ意味もわからず、ただただ音の洪水に身を任せるのみでした。「なぜオグドンはこのような異様な曲を嬉々として弾くのだろう?」そんな感想を抱いた記憶しかありません。しかし、それから20年ほど経った今、この演奏はいかに多くを語りかけてくることでしょう。
当時「すごいテクニック!」と感激したはずなのに、実は多くの綻びがあること、(しかしこれで失望したわけではありません)確かにこの曲は楽譜どおりに演奏することすら困難を極めます。そして「ものすごく無骨な演奏」と感じたはずなのに、実はとても繊細で祈りに満ちた演奏であった事にも改めて気がつきました。例えば終曲の「愛の教会の眼差し」。この曲はまさにステンドグラスを通した光の色で、一つ一つ大切に音を重ねていく様が、あの頃の私には「無骨」と感じられたのでしょう。若さ故の感受性を突きつけられたようで、一人どぎまぎしてしまいました。これは20年以上前の私と対峙している。そんな恥ずかしさとでも言うのでしょうか。
そして、メシアンの目指した「色彩を音で表すこと」、これが今回はっきり聞き取れたのが何より嬉しい発見でした。
次は何を買おうかな?そんな楽しみがずっと続くと良いのですが・・・・。当分店頭から無くならないように祈るのみです。

8月11日

ETERNAL STORY
安楽真理子(Hp)
William DeRosa(Vc)
東芝EMI/TOCE-55426
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場という桧舞台(てゆーか、正確には舞台の下のオケピット)で活躍中のハーピスト、安楽真理子が96年と98年に発表した2枚のアルバムから、名曲を選りすぐって構成されたベストアルバムがリリースされました。私は、生安楽は聴いたことはあるのですが、アルバムを聴くのはこれが初めて、その「生」にしても、フルートの伴奏ですから、彼女の音はろくすっぽ聴いてませんでしたし。だから、ここで、あの「亜麻色の髪の乙女」(もちろんドビュッシー、島谷ひとみではありません!もっと言えば、オリジナルのヴィレッジ・シンガーズでもなければ、そのメンバーを騙ったニセモノでもありません)を聴いた時には、正直びっくりしてしまいました。極限までの弱音を使用した繊細な表現からは、ハープの持つ魅力を存分に味わわせてもらえたのです。普段生で聴く機会の多いアマオケのエキストラの無神経で乱暴な音とはまったく別の世界、ハープ本来の美しい音を久しぶりに聴いた気がしました。自身もハーピストであったサルツェードの作品、特に「古代様式の主題による変奏曲」で示してくれたハープ奏法の無限の可能性にも驚かされてしまいました。この楽器のある種不自由な面など全く感じさせない滑らかなテクニックの冴えは、まさに驚異的です。今まで彼女の演奏に接したことのない方にも、この機会にこの優雅でありながら刺激的な境地を味わって欲しいものだと、心底思います。「白鳥」や「鳥の歌」で共演しているチェロのウィリアム・デローサの、決して内に秘めた激情を露わにはしないセンスのよさも、味わい深いものです。
さらに、ハーピストの作品としては未曾有のヒットを記録し、ポップス・チャートを賑わした、ロバート・マックスウェルの「ひき潮」が収められているのもうれしいことです。さまざまなアレンジで聴く機会のあるこの華麗な名曲、ここでは、安楽さんの手によってしっとりとした深みのある曲に変貌し(もちろん、これがオリジナルなのでしょうが)、聴くものを魅了して止みません。
しかし、このアルバムの最大の魅力は、新たに収録された千住明のオリジナル、テレビ東京系(ネットされているでしょうか?)の音楽番組「そして音楽が始まる」のテーマ曲「Eternal Story」でしょう。シチリアーノのリズムに乗ったキャッチーなメロディーは、まさに21世紀の「ひき潮」として、おそらく時を越えた普遍性をもって語り継がれていくに違いありません。いまや、手軽な食品として欠かせないハンバーガーのように(それはひき肉)。シンセやストリングスが絡んだメインテーマも聴き応えがありますが、ボーナス・トラックとして収録されているソロハープ・バージョンの方が、彼女の持ち味が発揮されている心地よさがあります。

8月9日

VERDI
La Traviata
Stefania Bonfadelli(Sop)
Ed Spanjaard/
Netherlands Ballet Orchestra
COMPANIONS CLASSICS/CC-993110
今日はヴェルディの「椿姫」の新録CDを。
少し前から話題になっていたCDですが、通信販売でしか手に入らないと聞いていたので、あのシステムが苦手な私は「ま、いいか。」と少々諦めていました。まさか行きつけのお店に、あんなにたくさん並んでいようとは・・・。そういえば、例のシノポリのヴェルディ「レクイエム」もお店で買えたので、輸入業者は、話題になれば何とか輸入してしまうのでしょうね。全く頭が下がります。
このタイトル・ロールを歌うステファニア・ボンファデッリは新進ソプラノとは言うものの、ウィーンでの人気は、あのデセイやフレミングを凌ぐとまで言われています。ただ、悲しいかなメジャーレーベルに録音がないため、日本では全くと言ってよいほど知られていません。完全な話題先行状態で、「ものすごく巧いらしい」という話だけが断片的に伝わり、そのせいで、よけい「聴いてみたい」気分になるではありませんか。
さて、問題の声です。確かにしっとりとした美声です。コロラトゥーラも申し分ないし、発声にも無理がありません。第1幕の「そはかの人か〜花から花へ」これが最初のお目当てですが難なくクリア。どんなときでもヒステリックになることなく、安定した歌を聴かせてくれます。一番驚いたのが、第3幕の手紙の場面。病床でアルフレードの父、ジェルモンの手紙を読み上げ一言つぶやく「遅すぎたわ」の言葉。これを大抵の歌手は、この世の終わりのように絶叫するのですが、彼女はぼそっと吐き捨てるように低い声で一言。その恐さといったら並大抵ではありません。
共演者などは確かに今ひとつかもしれません。例えば、アルフレード役のテノールは声は甘いのですが、ちょっとへなちょこです(役柄には合ってるか)。「パリを離れて」(省略が少ないのはステキ)も物足りないのが残念です。ジェルモンも、もっと悪い人だと憎めるのですが、少し優しすぎ(ジェントルマンです)。でもまあ合格点といえるでしょうね。
何より、このオランダ・バレエ管弦楽団がなかなかいい味を出しています。このオペラの第1幕と第3幕は、実に多くの3拍子が使われているのですが、そんなことはあまり意識した事はありませんでした。しかし今回改めて、「乾杯の歌」も「花から花へ」も、「パリを離れて」も実は悲しいワルツだったのだ。と気がつきました。これは指揮者の腕と言うよりも、このオケ自体の絶妙なリズム感によるものなのかも知れません。
閉じられた世界で繰り広げられる悲しい物語。そんな印象を残すステキな1枚でした。

8月7日

The Original Ten Televised Concerts
Arturo Toscanini/
NBC Symphony Orchestra
東芝EMI/TOBW-3531-35(DVD)
20世紀前半を代表する指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニは、その最晩年に、アメリカの放送網NBCが彼のために作ったオーケストラ「NBC交響楽団」を率いて、ラジオ放送用に数多くの録音を行いました。それらの膨大な音源は今ではCDとして聴くことができますが、じつは幸運なことに黎明期のテレビのための画像も残っているのです。それをDVDで見ることができるのが、この「TVコンサート」です。
画像ソフトとしてのDVDは、最近ではすっかりあたりまえのものとして定着したかに見えます。ほんのちょっと前までは、LD(レーザーディスク)という大型のディスク(その前には、VHDという、今では誰も憶えていないフォーマットもあったなあ)だったものが、ちょうど音声ソフトがLPからCDに変わったように、よりコンパクトなものに移行したということでしょう。このトスカニーニのDVDも、かつてはLDで出ていたもの、しかし、価格は半分以下に、体積ではなんと6分の1にと、財布の中身と収納スペースが常に不足がちな1LDKに住む私達にとってはありがたい仕様に変わっています。
画像はもちろんモノクロの映画フィルムですし、デジタルマスタリングが施されているとは言え、決して聴きやすい音ではありません。しかし、「動く」トスカニーニによって、音だけでは知りえなかった多くの情報を得ることができます。まず、オーケストラの配置は、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが左右に分かれる「両翼型」だということ。ヴァイオリンを全て左側に集めるという、現在普通に見られる配置は、もともとストコフスキーがフィラデルフィアで行ったこと、この時代、アメリカのオーケストラは全てこの形になっていたと思っていましたから、これは新鮮な発見です。さらに、ベートーヴェンでさえ管楽器を倍の人員で吹かせるという「倍管」措置をとっているというのは、やはりこの時代の様式を表わすものとして、興味は尽きません。何よりも圧倒されたのは、トスカニーニの、全ての音を自分の手で掌握しなければ気がすまないという確固たる意志が見て取れる毅然とした指揮ぶりです。演奏が終わっても、コンサートマスターに握手をするなどという媚は一切見せない、まさに絶対君主としての指揮者の姿。コンサートマスターどころか、全ての首席奏者と握手するのはあたりまえで、ひたすらオーケストラを立てることしかせず、オーケストラの団員のご機嫌をとる事がもっとも大事な仕事だと信じて疑わない昨今の指揮者を見慣れた目には、このトスカニーニの姿は、ひときわ輝いて映ります。
詳細な曲目などは、こちらを。

8月5日

SOUVENIR D'ITALIE
高木綾子(Fl)
I Solisti Filarmonici Italiani
DENON/COCQ-83597
8×4のコマーシャルで、脇の下を異様に広げてフルートを吹いている高木さんの最新アルバムが出ました。録音されたのは5月末、ほんの2ヶ月でCDが出来てしまうのですから、このアーティストにかけるメーカーの思いがいかに熱いかがわかります。それもそのはず、高木さんといえば、そんなコマーシャルでひたすら大衆に媚を売っているのはあくまで世をしのぶ仮の姿、ご本人は、国内最大規模のコンクールである「日本音楽コンクール」に優勝したばかりではなく、パリのランパル・コンクールなどという「国際」コンクールにも持ち前のがんばるパワーで堂々の入賞を果たしたという、とてつもない実力を持つフルーティストだからなのです。この録音のほんの1ヶ月ほど前にも、国際コンクール入賞者のみを対象に開催された、あのエマニュエル・パユの講習会に参加されていました。7人の受講者と講師のパユ、そしてピアニストだけが、人里はなれた豪邸で寝食を共にしながら研鑚に励むという夢のような講習会、高木さんは、このカリスマ・フルーティストから多くのことを学んだことでしょう。
その成果は、この録音にも現われています。例えば、ヴィヴァルディの協奏曲「夜」の第5楽章では、パユの得意技であるノンビブラートの「虚ろな」奏法を見事に自分のものとして演奏に生かしているではありませんか。その他の部分でも、かつてはかなり聞き苦しかったアタックつきの深いビブラートは影をひそめ、素直な伸びのある音に変わっています。もちろん、持ち前の確かなテクニックに裏打ちされたメカニカルの見事さは言うまでもないでしょう。
今回、新イタリア合奏団と共に、優秀な音響を誇るとされているイタリアのコンタリーニ宮で録音を行ったことは、しかし、結果的に彼女の持ち味を十分に生かすことにはなりませんでした。フェデリコ、ジョヴァンニのグリエルモ父子が率いる新イタリア合奏団は、その積極的な音楽作りで、ともすればフルートソロが霞んでしまうほどの表情豊かなバックを務めています。そのために、アルバム全体を聴いた時には、フルーティストのソロアルバムと言うよりは、フルートも入った合奏団のアルバムという印象に強く支配されることになるからです。特に、先ほどの「夜」と「ごしきひわ」というヴィヴァルディの2つの協奏曲では、音楽の主導権は完全にフェデリコ・グリエルモのものになっていて、高木さんの演奏がお目当てのリスナーは、間違いなく軽い失望感を味わうはずです。
しかし、じつはこのような印象を与えてしまうものを作った録音スタッフこそが、その責任は問われなければならないのです。いくら、内心ではフルートを立ててしまうことは良心が許さないと思っていても、それを実際にやってしまうというのは明らかな掟破り、プロの仕事とはいえません。もっとも、本当のプロであるのなら、バスの音だけ異常にブーストされるようなお粗末なマイク・セッティングはしないはずですが。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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