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パパ、ゲイなの?.... 渋谷塔一

(03/7/16-03/8/1)


8月1日

ALED
Aled Jones(Bar)
Robert Prizeman/
English Session Orchestra
UCJ/064 479-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCS-1024(国内盤)
先日、テレビで面白い番組を放送していました。「変声期の瞬間を録音した記録がある」というもの。このおもわせぶりなタイトルには、なんとなくそそられるものがあります。「あ〜」と歌う瞬間に1オクターヴ音域が下がるとでも言う、まさに震撼させられるものなのでしょうか。わくわくしましたね。しかし、そこで紹介された実際のLPは、ある一人の少年の歌声を5年くらいに渡って録音し続けたもので、最初は穢れなきボーイソプラノだったのが、12歳くらいから声がかすれ始め、15歳の時には完璧なバリトンに変化した・・・というただのドキュメンタリーだったのですが。「瞬間じゃないや」とがっかりしてしまいましたよ。
今回は、そんな満たされない思いにもぴったりの1枚です。歌っているアレッド・ジョーンズ君(もうそんな呼び方は失礼かも)は、1980年代、一世を風靡したボーイ・ソプラノで、1988年には来日も果たすほど世界的名声と評価を手にしていました。でも、御存知の通り、ボーイ・ソプラノの持つ美はほんの一瞬です。変声期を迎えた後は、限りなく長い時間、大人の声と付き合っていかなくてはなりません。もちろん彼もその例外ではなく、16歳で変声。大人の声になってしまいました。しかし、歌が大好きな彼のこと、フィッシャー=ディースカウのもとで研鑚を積んだり、ミュージカルに出演したりと人前から姿を消すことはありませんでした。そのせいか、熱心なファンを失うこともなく、現在でもウェブ上には彼のサイトが無数にあるということ・・・これにも驚かされます。
そんな彼がにわかに注目を浴びたのは、最近発売された「クラシック2003」というアルバムに彼の最新録音が収録されていたからです。曲はなんと「ラッターのレクイエム」の中の1曲でした。御存知の通り、この「ピエ・イエズ」はソプラノで歌われるものですが、ここでの彼は堂々とバリトンで歌いきります。それは元々の曲の持つ、不思議な雰囲気によくあって、なんとも妖しげな魅力を振り撒いていたのです。
この曲が収録されていたのが、今回のアルバムです。彼の現在の声を存分に味わうこの1枚、プロデューサは、あのヒーリング・ヴォイスユニットのさきがけグループ「リヴェラ」を手がけたロバート・プライズマン。イギリスの賛美歌や民謡、そしてオリジナル曲まで取り混ぜた魅力あるものになってます。なかでも聴き物が、アダンの「おお聖夜!」でしょうか。これは、彼が14歳の時に歌った自身の声とデュエットするという趣向。まさに時を越えた「永遠の歌声」が実感できるのです。
彼は幸せな時を重ねているな・・・と微笑ましくなるような美しい歌声。こういうのもステキです。

7月31日

吉松隆
Symphony No.5 etc.
藤岡幸夫/
BBC Philharmonic
CHANDOS/CHAN 10070
古来より、音楽が作られるモチベーションとして、「愛」が果たした役割には計り知れないものがあります。特に、オペラの世界では、全てのストーリーは煎じ詰めれば「愛」ですから、これは欠かせません。なんと言ってもタイトルにそのものズバリ、「愛だ!」なんてのがあるぐらいですから。それはともかく、作曲家と演奏家の間の「愛」が曲を誕生させることも良くあること、ベンジャミン・ブリテンなどの例を挙げるまでもなく、2人の間のパートナーシップが生んだ作品は、枚挙にいとまがありません。
指揮者の藤岡幸夫と、今や日本を代表する作曲家である吉松隆との間の「愛」、これは、演奏家から強烈に作曲家に向けられたものとして、異彩を放っています。何しろ、吉松の初期の代表作「朱鷺によせる哀歌」を聴いた藤岡は、「残りの人生をこの人に賭けるわ!」と告白してしまったというのですから、すごいものですね。その情熱は、このCHANDOSと言うイギリスのレーベルをも動かし、かつて副指揮者を務めていた、マンチェスターのBBCフィルハーモニックを率いて、吉松の全管弦楽作品を録音するという途方もないプロジェクトを実現させてしまったのです。
ここに収録されている最新作「交響曲第5番」を聴けば、この才能ある若い指揮者がここまで惚れ込む理由が分かるような気がします。現在のクラシックシーンでもっとも売れているものが、クロスオーバーとヒーリング、そのどちらの要素をも、極めて高い次元で織り込んだ極上のサウンドがそこにはみなぎっているのですから。作曲者の言葉では、この曲は「ファウスト」をモチーフにしているということですが、そのようなテキストを全く考えなくても、音を聴いただけで十分に満たされた思いになること請け合いです。何しろ、冒頭で鳴り響くのが「ジャジャジャジャ〜ン!」、もちろん、あの超有名な「5番」の引用です。ただ、あちらの暗いハ短調ではなく、何とも華麗なハーモニーに彩られた同音のテーマ、これが終楽章で壮大に再現されたときには、そのあまりのハマりように、殆ど感動に近い感情がわき上がってしまいましたよ。曲のあちこちに唐突に現れるブギ・ウギ調のヴァンプにも、決して違和感を与えられないだけの必然性が感じられるのは、まさにクロスオーバーを堂々と表に出している潔さが、曲全体に満ち満ちているからに他なりません。
カップリングは、そのクロスオーバーがもっと前面に押し出されている「アトム・ハーツ・クラブ組曲」の第2弾です。その名の通り、ピンク・フロイドの「アトム・ハート・マザー(原子心母)」やビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」といった6070年代ロックへのオマージュ、今回はなんと新シリーズで音楽を担当している「鉄腕アトム」まで盛り込んだ豪華な仕上がりです。1曲目の「カム・トゥゲザー」から、もはや現代音楽の一部と化した「ロック・クラシックス」を、存分にお楽しみ下さい。

7月30日

ALKAN
Piano Miniatures
Stanley Hoogland(Pf)
BRILLIANT/92109
今日見つけたのは、とっても安いアルカンのCDです。激安レーベル、ブリリアントだからと言っても、なんと1枚ワンコインあるかんないかという590円!(これは行きつけのお店の値段ですから、他店はわかりませんが、まあ同じようなものでしょうね)ケース代やライナーを考えると却って損しているんじゃないか、なんて余計な心配をしてしまうのでありました。アルカンと言えば、どうもヘンタイ性ばかりが先行して、いまいち実像の掴み切れない作曲家です。最近、あのアムランやオズボーン(どちらも超絶技巧を売りにしている人ですね)が、新作をリリースしたり、過去の名演と呼ばれるEMIの録音が安く出直ったりと、彼の膨大な作品の一部は耳にする機会も増えていますが、まだまだ人口に膾炙するレヴェルではありません。一部のマニアが細々と聞いて喜ぶもの。そんな感じですね。いつかも書きましたが、某レーベルのカタログで「怪人」と紹介されたのも、その変人ぶりに輪をかけています。それを読んで「どんなヘンな曲を書くんだろう?」とわくわくした人も多いはず。しかし実際に聴いてみると、全く普通の美しい作品なのですよね。ショパン風でもあり、シューマン風でもあり、ロマン派そのもの。
さて、このCD。なかなか内容が凝っています。アルカンの膨大な作品の中から、少しずつ選んだ小品が25曲。それをアルカンと同時代の1858年製のプレイエルで演奏するというもの。演奏するのは、ハイドンやベートーヴェンのピアノソナタで評価を得ているオランダ生まれのフークランド。そのせいか、ヴィルトゥオーゾ的な部分よりも、アルカンの持つ古典的な一面に光を当てた画期的な解釈といえましょう。有名な「すべての長調と短調にとる25の練習曲」より7曲収録されていますが、アムランの演奏のような「は〜っ、恐れ入りました」と言った感じではなく、もっと親しみ易い音楽が聞けるのが楽しいのですね。
その美点がより顕わになるのが「エスキース」よりでしょうか。最近、前述のオズボーンによって全曲録音がリリースされ話題になった曲集で、1分前後の短いスケッチ的な小品が次々と現れては消えて行くという不思議な曲集です。このアルバムには10曲収録されていて、ほんの断片的ではありますが、この中には、ショパンあり、ブラームスあり、ベートーヴェンあり、そしてサティの面影まで見ることができます。
こんなに楽しんで590円。これは良いです。

7月28日

BACH
MATTHÄUSPASSION
Marcus Ullmann(Ten)
Klaus Mertens(Bas)
Werner Güra(Ten)
Enoch zu Guttenberg/
Chorgemeinschaft Neubeuern
Tölzer Knabenchor
Orchester der KlangVerwaltung
FARAO/B 108 035
ミュンヘンの新興レーベルFARAOからリリースされた「マタイ」です。演奏は「ドイツ・レクイエム」で以前ご紹介した、このレーベルの看板、エノック・ツー・グッテンベルク。ブラームスで見せた「濃い」演奏、バッハではどのようなものになるのでしょうか。
第1曲目のオーケストラの前奏を聴いただけで、なにかすごい演奏が始まったという確信がわいてきたのにはびっくりしました。基本的なスタンスはモダン楽器でオリジナル楽器の表現をしようという、昨今流行のものなのですが、出てきた音がそのような作為を全く感じさせないような自然なものだったのです。そこにあるのは、グッテンベルクの確信に満ちた意志の反映、アーノンクールのようなわざとらしさや、ヘレヴェッヘのような聴き手に対する媚びなどとは無縁の、完成された「芸」が、そこにはあったのです。かなり早めのテンポ、短めの音、極力抑えられたビブラート、それらは確かにオリジナル楽器特有の表現であったものが、ここでは見事にグッテンベルク自身の様式として、時にはオリジナル楽器ではもはや使われなくなったような過激なものも含めて、強い力で迫ってきます。
前奏に続いて合唱が入ってきます。その表情のなんと豊かなことでしょう。もちろん、合唱団としてのクオリティの高さは驚異的。この「ノイボイエルン合唱協会」という、いかにも豊乳の人がいそうな合唱団(それは「ボインノイル合唱協会」)、40年近くグッテンベルクと共に歩んできただけあって、音楽の隅々まで、どこを取ってみても完璧に指揮者の要求を満たしています。特にコラールでは「ここまでやる?」と思わせられるほどの、細かい表現が聴きものです。有名な54番「O Haupt voll Blute und Wunden」などは、一番ではフォルテシモでデタッシェ(音をひとつひとつ切る)という激しいものが、二番では瞬時にピアニシモ、レガートのソフトなものにガラッと変わってしまうのですから、驚かされます。その合唱が担当する群衆の叫び声はまさにドラマティックそのもの、例の「バラバ!」という減七の和音のあとの「十字架につけよ」というフーガでの、一言一言かみしめるような、いやらしさすら感じられるリアリティはどうでしょう。このような感情を込めた表現は、しかし、例えばコルボやリヒターのような「ロマンティック」なものとは似て非なるもの、おそらく、これが「バロック」の表現だといわれても納得できるようなものなのです。
ソリストたちも、見事にこのグッテンベルクの統制下にあります。エヴァンゲリストのウルマンのなんと人間的なこと。もう1人のテノール、ギュラも、19番のレシタティーヴォ「O Schmerz!」での活き活きとした声を聴くだけで、指揮者の意図が見事に反映されていることがよく分かります。
大詰め、「Wir setzen uns」の大合唱は、壮大な盛り上がりで終わると思いきや、後半はソット・ヴォーチェで軽くかわすという見事に期待を裏切る演奏、どんなことをやってもそれが彼の表現だと納得させられてしまう指揮者など、そう、ノリントン以外にはこの人ぐらいしかいないのではないでしょうか。オリジナルとモダンの垣根などたやすく取り払ってしまったとてつもない名演が、ここにはあります。

7月26日

VERDI
Il Trovatore
Varady(Sop),Toczyska(MS)
O'Neill(Ten),Brendel(Bar)
Giuseppe Sinopoli/
Bayerische Staatsoper
ORFEO/C582 0321
最近ちょっとした必要に迫られて、トロヴァトーレについていろいろな演奏を聴き比べていたのです。すると、ある友人からまだ日本で発売になっていないという(そのうち出るけれど)貴重な1枚を譲ってもらうことができました。1992年のバイエルン国立歌劇場のライヴ。初出録音のようです。指揮はシノポリです。「カッチェイ王」が有名ですね(それは火の鳥)。それはともかく、シノポリと言えば、最近このレーベルから1980年の「アッティラ」が正式に発売されました。以前も音の悪いほとんど海賊盤のようなCDは出回っていたのですが、さすがにORFEO、音質は格段に改善されていて、彼の熱気溢れる音楽を楽しむことができました。晩年(と、言っても早すぎましたが)の、それこそ弁当箱の隅をつつくような偏執的な拘りはまるで影も形もありませんでした。考えてみれば、あのカラヤンだって若い頃のライヴなどには、全く髪を振り乱したスゴイものがあります。シノポリはオペラに限って言えば、1990年以前のもの(例えば蝶々夫人の伝説的名演)は、まだ細部に拘るよりうねるような流れを重視した人だったのかもしれません。そう、現在のティーレマンのように。90年に来日した際も、まだ賑やかな音楽を聞かせてくれたのを記憶している方も多いでしょう。
しかし、この92年のライヴになると、かなり細かいこだわりが見える感じがします。妙なところでティンパニを強調したりするので、音楽が停滞したり、一瞬歌手を無視して進めてしまいそうになったり。ちょっとはらはらします。このやり方は、シュトラウスのようなスコアでは面白いかもしれませんが、ヴェルディ、それも「トロヴァトーレ」では少々つらいものがあります。歌に集中できないんです。どうしてもオーケストラを聴いてしまう・・・・。ヴァラディなんかもよく歌ってるのですが、(ちょっとヒステリックか)やはり、ついついバックの音を聴いてしまう自分に苦笑です。
歌手は、レオノーラ役がそのユリア・ヴァラディ。これだけでも珍しいといえましょう。他の配役は比較的地味でマンリーコ役はコヴェントガーデンを中心に活躍するというデニス・オニール。87年メトにデビューと資料にありますが、最近は何をしているのでしょう・・・・。ま、CDを出さずとも活躍している人は大勢いますので、この人も私が知らないだけなのかもしれません。アズチェーナ役には、ポーランド出身のトツィスカ。この人は同じ時期にデイヴィスの指揮で同じ役を歌ったCDがあります。そしてルーナ伯爵には、これまた渋いヴォルフガンク・ブレンデル。CDのリストには、この役を歌ったものが見当たりませんのでこれもライヴならではの嬉しい配役といえましょう。
というわけで、なかなか面白かったのですが、「私のオススメ1枚」には無理があるかも知れません。

7月23日

BERNSTEIN
West Side Story
Barbara Bonney(Sop)
Barry Wordsworth/
Royal Philharmonic Orchestra
WARNER/2564 60423-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11720(国内盤)
シンフォニック・オーケストラによる「ウェスト・サイド・ストーリー」と言えば、つい最近NAXOSをご紹介したばかりですが、またまた新譜が登場しました。とは言っても、これは実はだいぶ前にマイナーレーベルで出ていたものが、今回WARNERから再発されたというもの、近々「スカラ座版」のプロダクションが日本で公演を行うことと無関係とは思えません。しかし、こういう、クラッシックのオーケストラによる演奏で、いまだ満足のいくものにお目にかかったことはありませんから、期待は禁物。
果たせるかな、過度の期待が無用のものであったことは、「プロローグ」を聴いただけで明らかになりました。そこにあったものは、ひたすら楽譜に忠実に演奏している生真面目な姿、もちろん、このブロードウェイ・ミュージカルにとって、そんな態度が邪魔にこそなれ、作品のためにはなんの利点にもならないのは明らかなことです。その結果、この音楽は極めてお上品な、浮き立つようなリズム感とはまるで無縁のものに仕上がっているのです。その責任の一端をになっている糞真面目な打楽器奏者、何を勘違いしたのか「マンボ」では荒々しく叩きさえすれば盛り上がると思って、見事にまわりから浮いてますし。「アメリカ」では、プロにはあるまじき失態も演じていますが、それを直さないスタッフもスタッフです。直さないといえば、「フィナーレ」の最後、ということは、この曲全体の最後になるわけですが、ハ長調の和音が伸ばされている中に、低弦がF#のピチカートを入れるという、何とも印象的な部分で、最後の小節にそのF#が入っていないミスが、そのままになっています。或いは、ひたすら流れるような音楽を目指していた指揮者のワーズワース、最後にこんな不協和音を演奏するのを潔しとしなかったのでしょうか。
それはともかく、マリア役にバーバラ・ボニーというれっきとしたソプラノを用意したところで、誰しも悩むのは相手役のトニーのことでしょう。キリ・テ・カナワの時にカレーラスを立ててコケてしまった轍は踏むまいと思うのは、バーンスタイン盤を聴いた全てのプロデューサーに共通した思い、そこで抜擢されたのが、マイケル・ボールという、クラシックとは遠く離れたフィールドのシンガーです。しかし、いくら下手なオペラ歌手はまずいと思っても、これではあまりにもボニーがかわいそう、フレーズの最後を下げたり、わざと音程を外したりという、ロックシンガーのクセが抜けないボール君とは、いかにボニーが地声で歌おうが水と油なのですから。
もう一人、アニタ役のラ・ヴェルネ・ウィリアムスという人が、とんでもない音程とひどい発声法の持ち主で、やはりボニーとのデュエットでは悲惨な様相を呈しています。こういうひどい環境の中でも果敢に自分の仕事をやりきっているボニーのけなげな姿を聴きたいというボニーファンのおにーさんには、一聴をお勧めします。

7月21日

RUTTER
Requiem and other sacred music
Thimothy Brown/
Choir of Clare College Cambridge
City of London Sinfonia
NAXOS/8.557130
1945年生まれのイギリスの作曲家ジョン・ラッター(大食漢として知られています・・・それは「クッター」)が1985年に作ったレクイエムは、20世紀後半に作曲されたレクイエムの代表曲として、広い層に受け入れられています。日本でも数多くの合唱団が取り上げていますし、CDも、ラッター自身の指揮によるCOLLEGIUM盤をはじめとして、今までに4種類のものが出ていました(この作曲家、「ラター」という表記もありますが、私としてはフォーレのレクイエムの「ラッター版」の流れから、こちらを使っています)。
このレクイエム、フォーレやデュリュフレのものとよく似たテキストの構成で、モーツァルトやヴェルディの作品には含まれる「セクエンツィア」の大部分が省略されたもの(「Pie Jesu」だけは残ります)。さらに、これらラテン語の歌詞の間に、英語による詩編などを挿入しているのが、目新しいところです。全体を包んでいるのは、心地よいメロディーに支配された聴きやすさ、しかし、あからさまなエンタテインメントには決して流れない敬虔さに助けられて、ある種の格調も備えた優れた作品に仕上がっています。
1曲目、一瞬無調っぽい導入がありますが、曲が始まってしまえばあとは懐かしい響きが待っています。しばらくして、ハープのアルペジオ(変な言い方!)に乗ってソプラノパートで歌われるメロディーの美しいこと。おそらく、初めて聴いた人でも一瞬のうちに心を奪われてしまうようなキャッチーなものです。2曲目の詩編130番「深き淵より」、ラテン語だとお馴染み「De profundis」ですが、ここは英訳で「Out of the deep」となります。これは、チェロの助奏の付いた、スピリチュアルズのテイスト、つまり、殆どゴスペルのような曲調です。さらに、3曲目の「Pie Jesu」と、最後の「Lux aeterna」には、ソプラノのしみじみとしたソロがフィーチャーされています。曲の最後にもう1度1曲目の「Requiem aeternam〜」のメロディーが現れる頃には、聴く人は間違いなくこの曲の虜になっていることでしょう。
今回、5種類目となるこのCDでは、元々室内オーケストラ用に作られた伴奏を、オルガンの入ったアンサンブルの編成に書き換えたバージョンが採用されています。このアンサンブル版、おそらく、デュリュフレの場合と同様、多くの人が手軽に演奏できるようにとの配慮から作られたものなのでしょう。ちなみにこのCDは、アンサンブル版としては2枚目のものとなります。
合唱は聖歌隊ですが、トレブルパートは大人の女声によって歌われるという、普通の混声合唱です。写真で見ると、20人ちょっとという小編成、アンサンブルではなかなか訓練の行き届いた充実した響きが聴かれますが、パートソロになったときには、やや物足りないものがあります。もっと物足りないのはバックのアンサンブル。オケ版の弦楽器をオルガンに置き換えているのですが、この曲に不可欠の、殆ど「癒し」と言っても過言ではないふんわりとした雰囲気を表現するには、どうしても力不足は否めません。ソロのエリン・マナハム・トーマスは、この曲にあった無垢な声が好ましく感じられますが。

7月19日

SCHUBERT
Die Schöne Müllerin
Florian Prey(Bar)
Rico Gulda(Pf)
AMPHION/AMPH 20240
Christoph Homberger(Ten)
Christoph Keller(Pf)
NOVALIS/150 172-2
いつものお店で、スゴイCDを見つけました。「プライとグルダの共演、水車小屋の娘!」だそうです。へえ。そんなのがあるのか・・・・。と思いよく見れば、「名バリトン、ヘルマン・プライの息子フロリアンと、名ピアニスト、フリードリヒ・グルダの息子リコ(母親は日本人)の「二世デュオ」による注目の演奏。」とのこと。一瞬コメントにだまされたような気もしましたが(お店の人がグルだ)、とにかく面白そうではないですか。
プライと言えば、日本でもお馴染みの名バリトン。そして、その息子の声はお父さんに生き写し。もちろん独特の歌い回しも健在です。ただし技術的にはかなり不安定で、音程がふらふら定まらないは、高音がでなくてごまかすは、やりたい放題です。それでも、彼の歌に何となくひきつけられてしまうのは、生まれ持った歌手魂の為せる技なのでしょうか。時々はっとするような感情の高まりを目の当たりにすると、「さすがだな」と思わざるをえませんでした。惜しむらくは、基本的な技術の欠如。もう少しの精進が切に願われます。
息子グルダは、既にソロのアルバムなどもありますが、ここでも、やはりまだまだ開発の余地ありと言った感じ。一節毎に弾き方を変えたりと、工夫の余地は見られますが、成功してるとは言い難い部分が見受けられます。もともと簡素な伴奏部、若いピアニストには却って難しいのかもしれません。まあ全部含めて「青田買い」的な一枚と言えましょう。サービスとして、冒頭と最後に、川のせせらぎ音が入ってますが、これはあまりありがたくないオマケかも。
あまりの若さにあてつけられたので、気持ちを落ち着かせるために、ベテランの「水車小屋」も聴いてみました。こちらは、あのノイエンフェルスの「こうもり」でアイゼンシュタインを歌ったホムベルガーの演奏です。この人、今年41歳だそうですが写真で見る限りはかなりの老け顔。しかし声はとても若々しく、その上「こうもり」でも見せてくれた一種独特のふてぶてしさも備えています。そんな彼が歌う「水車小屋」は、なんともサービス精神旺盛なもの。さすがに川のせせらぎは入っていませんが、歌だけで全ての事象を表現し尽くさんばかりの剣幕です。ピアノの伴奏も違う意味で工夫しています。例えば、第9曲「水車小屋の花」の3回目の繰り返しの際、右手部分を1オクターブ上げたこと。これは何の予備知識もなく聴くと、ちょっとどっきりしましたが、きっと演奏が単調になるのを避けた結果なのでしょう。
このように、芸の細かい演奏ではありますが、ここまでされると、「この曲は素朴な方がいいなぁ」と昔買ったプレガルディエンなんかを引っ張り出して聴いてしまう、ちょっとへそ曲がりなおやぢでした。

7月17日

Beau Soir
Emmanuel Pahud(Fl)
安楽真理子(Hp)
東芝EMI/TOCE-55576
メトロポリタン歌劇場のオーケストラの団員安楽真理子さんは、フルーティストとの共演を数多く手がけています。2000年にエミリー・バイノンが最初にリサイタルで来日したときに相手として選んだのが安楽さんですし、昨年はあの瀬尾和紀さんとのリサイタルも行っています。そして、今年の2月にニューヨークでパユと録音されたのが、このアルバムです。
曲目は、まさに名曲揃い。さらに嬉しいことには、ドビュッシー、フォーレ、ラヴェルといったフランスの癒し系のナンバーに混じって、後半には「日本のメロディー」まで収録されています。おそらく、他のどこの国よりもファンが多いといわれている日本へ向けての、これはパユからのまたとない贈り物となることでしょう。
しかし、このようなソフトな選曲、そして、まるでビロードのように滑らかなフルートの音色にうっとりしていると、最後の最後にびっくりすることになりますから、ご用心。それは、宮城道雄の「春の海」。もちろん、オリジナルは尺八と箏で演奏されるものですが、それをピアノとフルート用に編曲したものは、多くのフルーティストのレパートリーになって、広く愛奏(こんな変な言葉ばかり使っていると、愛想を尽かされて・・・)されています。もちろん、ここではピアノパートは安楽さんのハープに置き換えられているのですが、そのハープの、まるで箏そのもののようなアルペジオに導かれて聞こえてきたパユのフルートは、まさに尺八と寸分違わない音だったのです。息ムラといい、コブシといい、ここまで完璧に真似をされては、「うん、うん、よくここまで頑張ったね。」と思わず褒めたくなってしまいます。おそらく、以前バッハなどでオリジナル楽器まがいの音を出していたときも、まっとうなトラヴェルソ奏者たちは、今の私と同じ気持ちで「よくやったね」と褒めてあげていたことでしょう。「夏の思い出」あたりを、まるでウィーン少年合唱団が「なぁとぅぅがきゅぅれぶぁうぉもうぃだそー」と歌うような、いかにもガイジン訛り丸出しで演奏した直後ですから、これはインパクトがありますよ。
ところで、これから書くことは、この愛すべきアルバムの価値をいささかも貶めるものではないのですが、このアルバムは最近話題の「CCCD」仕様になっています。不法コピーに手を焼いたCDメーカーが、パソコンでのコピーが不可能になるように手を加えた規格なのですが、実は、これはCD本来の規格すら逸脱したようなとんでもない規格なのです。したがって、まともなCDなら必ず印刷されているはずの下のようなマークも付いていません。
ですから、もはや「CD」と呼ぶことも許されないこのディスクは、CDの規格にのっとって製造されたCDプレーヤーでの再生は保証されていないというひどい代物なのです。実際、私のソニーのX555ESという、多少の傷があるCDでも難なく再生できるプレーヤー(以前「5年前」と書きましたが、それは勘違い。実際は10年以上経ったものですが、もちろん普通のCDは問題なく再生できます)でかけたところ、ガラスがビリビリいうようなノイズが随所で聴かれ、とても音楽を楽しめる状態ではありませんでした。さらに、パイオニアのDV-333というDVDプレーヤーでかけたところ、ノイズこそ出ませんでしたが、ソニーでノイズが出た付近の音は、明らかに醜く歪んでいました。私がこのメーカーの「CCCD」という名の、もはやCDですらない欠陥商品を、お金を出して購入することは、金輪際ないでしょう。

7月16日

MOZART/BERGMAN
Trollflöjten
Eric Ericson/
Sveriges Radios Symfoniorkester och Kor
紀伊國屋書店/KKDS-61(DVD)
1975年に公開された、スウェーデンの映画監督イングマル・ベルイマン(先日、惜しくも亡くなりましたね・・・それはブッシュマン)による映画版「魔笛」です。かつて輸入盤のLDとして発売されたことはありましたが、今回のDVDは、新たにアメリカで保管されていたフィルムをマスターにしたものだそうで、以前のPALによるヨーロッパ規格のビデオを変換したものに比べて、特に映像と音のシンクロの点で勝っていると、解説では述べられていました。LDは見たことがないので比較は出来ませんが、確かに、昔ホールで上映された映画と比べて、何の遜色もないものになっています。
その、「昔」に、一般の映画館ではなく、主にクラシック・ファンを対象にコンサート・ホールで上映されたこの映画については、当時から映画、音楽双方の関係者からさまざまなコメントがなされてきています。大勢としては、このモーツァルトの名作を、オペラとしての形を損なわず、さらに映画的な手法を持ち込んで見事に映像化した業績についての賞賛の意を表したものでした。もちろん、私もその手の賛辞を信じて、実際に会場に足を運んだものでした。
今回、何十年かぶりに見直してみて、その徹底した映像の美しさには、感動を新たにしたものです。役者を一切使わず、あくまでオペラハウス(ドロットニングホルム歌劇場)のメンバーが実際に歌って演技しているのですが、その中の女性たちの美しさには目を見張らずにはいられません。まず、3人の侍女たちの、いずれ劣らぬ冷徹な光、そして、夜の女王までが、高潔な輝きすらたたえています。極め付きはパミーナです。タミーノでなくとも一目惚れしてしまいそうなとっておきの爽やかさ、彼女の姿を眺めているだけでも、このDVDを買う価値があると思わせられるほど。それから、3人の童子は、男の子でありながら、まさに天使のような妖しい魅力をたたえていますし。それから、もちろん女性ではありませんが、若き日のハーゲゴールによるパパゲーノも見物。
もしかしたら、この映画は、それまで歌さえきちんと歌えれば、容姿はそれほどでなくともかまわなかったオペラ界に、ある種の警鐘を発したものだったのかも知れません。事実、それ以降、現在に至るまで、オペラ歌手に俳優と同等の美貌と演技力を求める傾向は強まる一方ですものね。
ただ、オペラとして見た場合、時間的な制約で多少のカットとナンバーの入れ替えが行われているのは、少々気になるところです。それと、ここで果敢にオーケストラの指揮にも挑戦している、合唱指揮者としてあまりにも有名なエリクソンについては、やや荷が重すぎた感は否めません。時代的な様式もあるのでしょうが、キレのよい画像に対して、音楽が停滞しがち、もっと音楽にメリハリがあればさぞ画面が生きたのに、と思える場面がいくつもありました。ザラストロと夜の女王が実は夫婦だったという設定は、確かに原作の不条理さを解消するひとつの手ではありますが。

おとといのおやぢに会える、か。


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