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ギャル、縛る。.... 渋谷塔一

(03/6/27-03/7/14)


7月14日

R.STRAUSS
Ein Heldenleben
Christian Thielemann/
Wiener Philharmoniker
DG/474 192-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1156(国内盤先行発売)
今秋来日予定のティーレマンの「英雄の生涯」です。このアイテムは、もうかなり以前に入手していたのですが諸般の事情で、今頃の扱いになります。
さてさて、かのショルティはウィーン・フィルと仕事をした時、「ウィーンで一番好きな道は、空港に向かう道路だ」が口癖だったと言います。「指環」全曲録音であんなに素晴らしい仕事をしたにもかかわらず、彼はなかなかウィーンフィルが好きになれなかったそう。その一つの理由に、これも彼の言葉を借りれば「オケのメンバーは和音が正確に揃わないほうが“暖かい”と考えているがそれは“みっともない”ことでしかない」というもの。確かに、独特な鄙びた緩い響きは長い伝統に培われてきたもので音程なども微妙にずれたところから発生しているはず。たとえブーレーズが指揮しようとも、それは変わることがないのですからショルティのようなタイプには我慢できない“体質”だったに違いないのです。そんなことを念等に置いた上で、今回のティーレマンを聴きましょう。
もしかしたら御存知の方もいるかもしれませんが、この演奏で「編集ミス?」問題が浮上したのです。それは某ウィーン・フィルまにあの方のHP。そのFさん、発売当日に購入して早速聴かれたそうです。ティーレマンとウィーン・フィル、ガップリ四つに組んだ熱演。流麗な音楽がダラリンコン。しかし何か変。「練習番号99、イングリッシュ・ホルンが1拍長すぎる。どうも継ぎ接ぎしているようにも聴こえる・・・・どういうことか?」そうご自身のページのページに書き込まれました。
さあ、この書き込みは関係者を慌てさせました。あるCD店は早速店頭から商品を下げ、メーカーに「一体どういうことですか、確認してください」と電話。すると、さすがに天下のユニヴァーサルすぐにウィーンの関係者に連絡を取ったそうです。しかし、担当者の手元にスコアが無いものですから、慌ててスコアを買いに行く始末。電話をかけたCD店のお兄さんと言えば、問題の箇所を繰り返し繰り返し、普段だったら一瞬で通り過ぎる部分を、恐らく100回くらい聴いたはず。某評論家I氏も巻き込んで、てんやわんやの大騒ぎ。結局、真相はわからず仕舞いで天下のユニヴァーサルの見解は「ティーレマン自身が最終チェックをしたのだから・・・」と歯切れの悪い返答。かのCD店といえば、一人のリヒャルトき×がいの手によって何事もなかったかのように売り場は復元。2時間後には店頭にあのティーレマンの薄笑いのジャケが並び、結果、その週の売上のベスト10に食い込んだとか。 
一連の戦いで得た情報は・・・ティーレマンは細部に拘るよりも、流麗な音楽を奏でることに細心の注意を払う人であり、少しずれるのがウィーン・フィルの美点であるという事でした。落ちなければそれで良し。ティンパニが一つくらい多くてもOK。
さて、この原稿は放送(掲載)禁止になるのでしょうか。今日のおやぢは元ネタを知らないと難しいぞ。

7月12日

TCHAIKOVSKY&MENDELSSOHN
Piano Concertos
Lang Lang(Pf)
Daniel Barenboim/
Chicago Symphony Orchestra
DG/474 291-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1157(国内盤)
1995年、仙台市で開催された「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」のピアノ部門で見事優勝したのが、中国からの出場者、当時13歳のランランでした。まるでパンダのような(あ、これはおやぢではありません)愛らしい姿で演奏していた模様は、確かテレビでも全国中継されていましたから、ご覧になった方もいらっしゃることでしょう。あれから8年、その後、アメリカのカーティス音楽院に入学して研鑽を積んだランラン少年は、すでにTERARCレーベルからリサイタル盤や協奏曲盤のCDをリリース、もはやランク的には「一流」演奏家としての道を歩み始めています。そして、今回はなんと名門DGと5年間の録音契約を結んだとか。この若者の前には、限りない未来が広がっていることでしょう。ちなみに、DGといえば、ショパンコンクールで優勝した、やはり中国人のピアニストを抱えているレーベルですが、ルックス的にはあちらとは全く傾向が異なりますから、ユーザーの棲み分けは十分可能と踏んだのでしょうか(DGというのはもちろんドイツ・グラモフォンのこと。ドン・ガバチョではありません。藤村有弘、名古屋章のあとは、いったいだれが声を担当するのでしょう)。
バレンボイム指揮のシカゴ響という贅沢なバックを得て、ランランはチャイコフスキーでは思い切りのびのびとした演奏を聴かせてくれています。かなり遅めのテンポで繰り広げられるたっぷりと歌い込まれたピアノは、どこか中国と地続きのロシアの雄大な自然を思い起こさせてくれるよう。ちょっといやらしいほど過剰な表情付けも、確かなテクニックと、音の美しさ(特に、弱音は絶品)に支えられれば、説得力のある表現として伝わってきます。最近N響と共演した映像を見たことがありますが、その演奏している姿は、まるで別の世界をさまよっているかのような、自己陶酔型かと思うと、いきなり感情をむき出しにして暴れ回るというような、とことん自己の主張を表に出すタイプ。それが良い方に作用すると、このような魅力的な音楽に仕上がるのでしょう。バレンボイムの伴奏が、また、この若者の幾分クサい表現を見事にサポートしていて、嬉しくなります。第2楽章では、冒頭のデフールのしっとりしたフルートソロに始まる、オケとピアノが一体となった、まるでこの世のものとは思えない繊細この上ない音楽が繰り広げられています。
カップリングが、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番という珍しいもの。殆ど、ピアノを学習している人が教材として演奏したり、それこそジュニア対象のコンクールの課題曲になったりするというもので、普通のコンサートではまず聴かれることのない曲です。これを、ランランは、チャイコフスキーとはうって変わった軽やかなタッチと、息もつかせぬほどのテンポで弾ききって、見事な青春賛歌といった趣を伝えてくれています。このあたりの表現力の幅の大きさも、なかなかのものだと見ましたが。

7月10日

l'Étoile
French Arias
Jennifer Larmore(MS)
Bertrand de Billy/
Radio Symphonieorchester Wien
TELDEC/8573-87193-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11663(国内盤)
注目のメゾ・ソプラノ、ジェニファー・ラーモアが今月末の、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト、「こうもり」に出演するため、初来日をするそうです。こうもりでメゾといえば・・・そう、オルロフスキ公爵。全曲の要ともいえる大切な役どころですね。そんな彼女の声を実際に聴きに行きたいのですが、上司が「仕事しろ」とうるさいので諦めてCDで我慢します。
さて、イタリア・オペラやドイツ・オペラでは、強烈な存在感はあってもどうしても主役を張れないメゾ・ソプラノですが(別の所では主役・・・それは「マゾ・ソプラノ」)、不思議なことにフランスの作曲家は、この声を重用しています。有名なカルメンもメゾですし、“ウェルテル”のシャルロッテもそうです。そして、サン=サーンスの「サムソンとデリラ」のデリラももちろんメゾ・ソプラノが歌うのです。
そんなわけで、フランス・オペラ・アリア集「l'étiole」です。彼女の歌声をじっくり味わうことができる素晴らしい1枚です。実は、このCDもお店で掛かっていたのですが、そのふくよかで、つやつやの声に一瞬で惚れたというもの。他の人も、モニターを見上げジャケ写に見入ってましたから、あの30分だけでかなり売れたのではないでしょうか。なんといってもソプラノのような、きんきんした響きがありません。疲れた体に優しく浸透するアルカリイオン飲料のような声です。
とは言え、フランスオペラを良く聴いてきてない私には、曲の興味の方が先立ってしまいます。ホフマン物語、サンドリヨン、ツェルリーヌと、あまり耳慣れないアリアが続きますが、どの曲も穏やかで美しいもの。ラーモアの温かみのある声がとても心地よく、全曲聴いてみたいと思いはつのる一方です。そして、突然聴こえてきた懐かしいメロディ、それはサン=サーンスの「あなたの声に心は開く」でした。控えめに曲が始まると、本当に私の心まで開いてしまったかのよう。普段、こういうベタな曲で感動するなんて・・・と変なプライドの固まりのような私なのに、今日はだめでした。なんだか胸がジュンとしちゃって・・・・。
オケの伴奏も絶妙なんです。ほんとに艶かしいったらありゃしない。「誰が指揮しているの?」と思ってよくみたら、なんとド・ビリー。こりゃ、うまいわけだ。

7月9日

BRUMEL
Missa"Et ecce terrae motus"
Dominique Visse/
Ensemble Clément Janequin
Les Sacqueboutiers de Toulouse
HARMONIA MUNDI/HMC 901738
アントワーヌ・ブリュメルは、ルネサンス期に音楽の豊穣な稔りを輩出したフランドル地方(現在のベルギー北部)の音楽家、有名なジョスカン・デプレの弟子であり、数多くの作品を残しています。このCDに収録されているのは、ミサ「見よ、大地の揺れ動きを」という、12の声部から成る大規模なミサ曲です。ここでは、12人の歌手(カウンターテナー3、テナー2、バリトン4、バス3)と、コラ・パルテのオルガン、コルネット、サックバット(トロンボーンの前身)といった楽器によって演奏されています。名義は「アンサンブル・クレマン・ジャヌカン」ですが、したがって、通常の4〜5人のメンバーだけではなく、多くの助っ人が加わっていることになります。
リーダーのドミニク・ヴィスは、今やその特異な声のキャラクターで、例えば「リナルド」(ヘンデル)や「ディドとエネアス」(パーセルですね。ガソリンスタンドではありません・・・それは「ジョモとエネオス」)での魔女役として、欠かせない存在になっているほど。ですから、彼に率いられたこの団体は、元々世俗的な曲をドラマティックに歌うのが信条だったわけで、このような宗教曲を歌う場合でも、普通「ルネサンスのミサ曲」などと聞いて思い浮かべる、いかにも荘重なイメージからはほど遠いものを聴かせてくれることでしょう。
実は、この曲自体も、12声部も用いているだけあって音楽的には、極めてドラマ性の高いものです。もちろん、それはあくまでルネサンスの範疇で、ということなのですが、例えば、冒頭の「Kyrie」などは、全部で4つの部分に分かれた壮大な構造を見せており、それぞれの部分が全く異なった景色を与えてくれるのです。特に最後の「Kyrie eleison」は圧巻、フルスロットルの金管楽器と相まって、胸のすくようなダイナミックな情景です。それに続く「Gloria」では、その流れからの派手なオープニングという期待を見事に裏切って、オルガンだけのバッキングで、ごくさりげなく始まったりと、なかなかつぼを心得ていますし。
予想通り、ヴィスたちの演奏は、この曲の特質をとことん生かし切った、はち切れんばかりのドラマティックなものでした。なかでも、ヴィスの独特の音色は、決して他の歌手と溶け合うことはなく、強烈な主張を持って聞こえてきます。均質な響きを第一に考える聴き手にとっては、もしかしたらあまり心地よいものではないかも知れなせんが、というか、実は私も普段はそのようなものを好む傾向にはあるのですが、ヴィスの場合はなぜか許せてしまうというのが、凄いところです。
もしかしたら、これはルネサンスの宗教曲などではなく、極めて前衛的な現代曲なのかも知れない、と思わせられるほどの、ぶっ飛んだブリュメルです。同じような趣向を持つタリスの40声部のモテット「Spem in alium」も、彼らの演奏で聴いてみたくなりました。

7月7日

Schubert Songs transcribed by Liszt
Antony Peebles(Pf)
MERIDIAN/CDE84371
最近のテレビドラマには、製作者側もネタが尽きたのでしょうか、「原作がコミック」と言うのが良くありますね。小説をドラマ化するのにも、結構問題がありますが、(失敗作の方が多くないか?)コミックは、元々絵がついているので(当たり前)、それを実写にする場合にはどうしても無理があると言えましょう。
しかし、最近気がついたのは、いくらコミックをドラマ化しようが、原作に思い入れがない場合は全く「好きにしてちょうだい」という自分の気持ちでした。その代わり、思い入れのある作品の場合は、一回試しに見て、「ほうら、やっぱりダメじゃん」と失望するのです。例えば、「動物のお医者さん」、禁断プレイの手ほどきをする医者の話(「どう撲つの?お医者さん」)ではなく、獣医の話ですね。これは犬嫌いの人にとってはどうでも良い漫画でしょうけど、私にとっては、何度も何度も読み返した大切な作品。「ドラマは別物だもんね」と覚悟して見たものの、原作に忠実な筋立てが却って災いし、見るも無残なものに変貌していたのでした。もちろん1回しか見ていません。(ドラマを好きだった人、ごめんなさい)
さて前置きが長くなりました。このリストの「シューベルトの歌曲編曲集」もコミック→ドラマと同じようなものかもしれません。原作がどのように変化しているかを楽しむのも良いですし、全くの別物として楽しむのもよいでしょう。リストのことですから、元々はシンプルなシューベルトの歌曲に、手を変え品を変え、様々な装飾を付け加え、想像もつかないほどの豊かな音世界を作り出しているのです。ピアノの伴奏部と歌の部分が一緒に聴こえてくる愉悦感、これは本当にぞくぞくするくらい楽しいものです。ピアノを弾くピーブルスもなかなかの腕前。リストの欲求を余すことなく音にしてくれます。
ただ一箇所気になったのが、私が大好きな曲でもある「美しき水車小屋の娘」の第2曲「Wohin?・・・どこへ?」の最後の部分。"es geh'n ja Mühlenräder in jedem klaren Bach!"という句を2度繰り返すのですが、原曲では2度目の"Mühlen〜"は1度目とは音形が違うのです。最初はソシレシ、2度目はソレドシになります。ところが、リストの場合は、そこが2度ともソシレシになっているのです。たった2つの音の順序が違うだけなのに、これは本当に気になってしまいます。ピーブルスが間違えたのかと思い、別のCDまで買って確かめたのですが、ここは単なるリストの写し間違いなのか、「こんなとこどうでもいいや」と軽く見過ごしたのか・・・・。しかし、こういう何気ないところにシューベルトの歌心を感じる私としては絶対に許せない振る舞いだったというわけです。
漆原教授の江守徹は良かったけど、草刈正雄が菅原教授をやるのは許せない。そんな程度の憤りといえばそれまでですが。

7月5日

MOZART
Don Giovanni
Youn(Bas), Schörg(Sop), Brunner(MS),
Francis(Ten), Mraro(Bas), Steinberger(Sop)
Bertrand de Billy/
Radio Symphonieorchester Wien
ARTE NOVA/74321 98338 2
レーベルの看板だったスクロヴァ/ザールブリュッケン放響や、ビーブルを、新興OEHMSに引き抜かれてしまったARTE NOVAですが、これから屋台骨を背負うであろうド・ビリーのモーツァルトのオペラは、快調に第3弾の「ドン・ジョヴァンニ」をリリースしてくれました。3枚組なのに2枚組の値段、1000円ちょっとで全曲が買えてしまうのですから、これはお買い得。
ところで、ご存じのように、1787年にプラハで初演されたこのオペラは、翌年のウィーンでの公演の際に手直しが施されています。それは、(1)第2幕のドン・オッターヴィオのアリアを1曲削って、新たに第1幕に1曲追加、(2)レポレロのアリアをレシタティーヴォ・セッコに変更、レポレロとツェルリーナの二重唱を追加、(3)ドンナ・エルヴィラのレシタティーヴォ・アコンパニァートとアリアを追加、(4)フィナーレの「大団円」をカット、という4点です。しかし、それ以後、このいわゆる「ウィーン版」というものが実際に演奏されることは、まずありません。現在では、(1)は両方のアリアを採用、(2)は不採用、(3)は採用、(4)は不採用、という折衷案が広く用いられています。
ここでのド・ビリー盤では、まず、きちんと初演の形である「プラハ版」を聴かせてから、最後に、ウィーンでの追加部分をまとめて収録するという、最近のオリジナル系の演奏家が好んで用いている手法を採用しています。このような原典主義は演奏の面にも現れており、小気味よいテンポ設定や、自由な装飾、さらに通奏低音にチェンバロではなくフォルテピアノを使うなど、なかなかのもの。特に、オーケストラが颯爽と音楽を引っ張って行く様は、とても心地よいものがあります。
歌手では、ドン・ジョヴァンニ役の韓国出身のユンが出色。落ち着いた物腰からは、気品すら感じられます。ドンナ・エルヴィラ役のブルンナーも、コロラトゥーラのテクニックには目を見張るものがあり、女声の中では最も存在感があります。そこへ行くと、ドンナ・アンナ役のシェルクは、声自体は確かなものがありますが、リズム感が欠けているため、全体の流れを損なってしまっています。ドン・オッターヴィオも、やや重たすぎ、このキャストの中では、ちょっと異質なキャラクターです。しかし、そんな疵も、ド・ビリーの確かな主張に導かれた全体のアンサンブルの中では、殆ど気にはなりません。おそらく、客を入れない劇場で録音されたのでしょうが、ステージの足音も生々しい自然な音場からは、リアリティあふれるドラマが伝わってくるのですから。
ところで、今回のジャケ写は、箱を広げて背中も見えるようにしてみました。どうです、以前シュトラウスの「ナクソス島」でさんざんからかわれたこのレーベルが、またやってくれましたよ。あわてて印刷し直した箱を作っているそうですから、これあレアもの、急いでCD店に駆けつければ、まだ手に入るかも知れませんよ。
箱の背の拡大

7月3日

BRAHMS
Ein Deutsches Requiem
Inger Dam-Jensen(Sop)
Bo Skovhus(Bar)
Gerd Albrecht/
Danish National Choir/DR
Danish National Orchestra/DR
CHANDOS/CHAN 10071
先日もこの曲について書いたばかりですが、また新譜を見かけたので、もう1枚。
今回の指揮は、お馴染み、合コンでいつも悲しい思いをしているアブレルヒト、いや、アルブレヒトです。何でも、ブラームスの合唱曲を全て録音するそうで、まず手始めに「ドイツ・レクイエム」から、という事のようです。アルブレヒトについてはここでも何度も取り上げて来ましたし、幾度か実演にも接していますので、音楽の傾向は大体判っているつもりです。現在の読売日本交響楽団のレパートリーを見てもわかるとおり、20世紀初頭あたりの、比較的マイナーというか忘れられた音楽を発掘することにかけては、彼の右に出るものはいないでしょう。そのくせ、オーソドックスなレパートリーについては、割りと素っ気無い音楽作りで(以前ご紹介したワーグナービゼーなども)、これをさっぱりしていると取るか、淡白すぎて物足りないと取るかで、彼に対する好き嫌いが決まると言っても過言ではありませんね。
さて、今回の「ドイツ・レクイエム」です。もちろん、この曲についても彼のアプローチは全く変わることがありません。ですから、前回のグッテンベルクと対照的な演奏と言えるのではないでしょうか。冒頭の低弦の響きからかなりあっさり。決して粘っこくなく薄味です。もちろん合唱もさりげなく押し付けがましいところは一切ありません。かと言って、ノリントンのような、「どんな曲でも幸せ!」にしてしまうような楽天的な演奏でもありません。本当に淡々と、一人で悲しみに耐える。そんな印象です。
オーケストラはデンマーク国立交響楽団(かつてのデンマーク国立放送交響楽団)です。このオケの少々くすんだ感じの音色が大層曲に深みを与えていてとてもいい感じの仕上がりになっているのです。以前、名前も知らないような町のオーケストラによって演奏されたドイツ・レクイエムのCDを聴いたことがありますが、正直、そのオーケストラにはこの曲は難し過ぎたようで、途中に幾度となく出てくるフーガの部分が崩壊してて失笑したものです。その点、このデンマーク国立交響楽団は技術的には何の問題もないようですから、聴いてて安心してほの暗い世界に浸ることができます。
曲中一番の聴き所である、第3曲の最後の大フーガの素晴らしさが耳に残ります。もともと淡白な音のせいか、この部分もちょっと聴くとかなり素っ気無く聴こえますが、良く味わってみると各声部がバランス良く均等に絡み合っているのに気が付きます。壮麗な大伽藍の下というより、近所の人が気さくに訪ねてきては話し込んでいくといった親しみ易さがたまりません。
ソリストに、あのボウ・スコウフスを起用しているのも注目。最近、あまり活躍の噂を聞かないなと心配してたのですが(NAXOSでドン・ジョヴァンニが出てたくらい)こんなところでがんばっているんだね!と、ついつい声援を送ってしまったのです。ソプラノ・ソロのダム=イェンセンの「清楚さ」と「寒空に輝く星のような厳しさ」を併せ持つ透き通った歌声も魅力的です。
悲しい時には、下手な慰めなんていらないよ。と強がりをいうタイプにぴったりのドイツ・レクイエムです。

7月2日

MOTO(E)R MAN
Vol.7
江ノ電&陸羽東線
SUPER BELL"Z
東芝EMI/TOCX-2016
最新の「モーターマン」は、ザ・ヴェンチャーズのサーフィン・ホットロッドと蝉の声で始まる夏バージョンです。夏と言えば海、湘南海岸をトロトロ走る江ノ電ほど、相応しいものはありません。例によって、この車掌DJは、とことんマニアの心をくすぐるMCを仕掛けてきます。「この先、民家の軒先を通って参ります」などというコメントは、実際に乗ったことのある人にはたまらないものでしょう。「鎌倉高校前」で、なにやら得体の知れない歌が流れますが、おそらく、分かる人には分かるネタになっているのでしょうね。地元人ではないことが悔やまれますが、まあ、おかしさは十分伝わってきます。
そういう意味で、次の「陸羽東線」では、思い切りそこら辺の地方にゆかりのある人たちは楽しめるということになります。前作の「山形新幹線」で伏線として登場した「奥の細道湯けむりライン」が、堂々とタイトルロールとしてその存在を主張する日がやってきたのです。山形県の新庄と宮城県の小牛田を結ぶこの地方線、JRではあっても、いずれは第3セクターに移行する運命にあるであろうこの路線が、こんな愛称までつけてけなげに頑張っている姿を、全国リリースのメジャー盤で扱ってもらえるのですから、関係者にとっては大きな励みになることでしょう。しかも、東芝EMIが誇る最先端のコピー・コントロール・システムを備えた「CCCD」の仕様ですから、これは全世界に通用する規格ですよ(あ、これはメーカーに対するイヤミですから)。
ゲストメンバーとして、すっかり定着した感のある、地元のDJ、本間秋彦さんを大々的にフィーチャーしたこのトラック、オープニングはなんとその本間さんの渋い喉で「最上川舟歌」。あとは、中山平、鳴子、川渡(「かわたび」と読みます)での温泉三昧、適度に下ネタも加えつつ、車掌DJとのコラボレーションは続きます。
さらに地元ネタは盛りだくさん。大ヒット曲「仙石線」の、今回は新しい「205mix」です。何が新しいかというと、前作では「仙石線にはトイレの設備がございません。我慢なさるようお願い致します。」だったものが、晴れて「トイレの設備が付きました」という、画期的なものです。このように、改善されたローカル線の恥部を、いち早くフォローするという姿勢が、彼らの人気が衰えない理由の一端なのでしょう。本間さんには「青葉城恋歌」を歌わせていますし。
1曲、MOTOR MANではないトラックが入っています。「ウォーターライン」という戦艦のプラモデルがテーマのまっとうな楽曲、少年の夢が込められた、なかなかキャッチーな佳曲です。
MOTER MAN」と「MOTOR MAN」の違いが分かりました。「MOTER」はJR、「MOTOR」は私鉄だったんですね。そうではないかとおモーターのですが。(その後、ベルズファンの方からのご指摘で、「MOTER」はJR東日本の場合に用いることが判明しました)

6月30日

MOZART
Symphonien No. 39,40,41
Jos van Immerseel/
Anima Eterna
ZIG ZAG/ZZT 030501
(輸入盤)
キングレコード
/KKCC-4364/5(国内盤)
モーツァルトの交響曲をオリジナル楽器で演奏するという試みは、古くは1970年代から行われていました。しかし、その「コレギウム・アウレウム」という団体は、今のオリジナル楽器の概念からはほど遠い楽器(モダン楽器にただガット弦を張っただけだとか)と演奏法(テンポ設定などは、従来と殆ど変わりません)で、殆ど「オリジナルまがい」としか言えないような成果しか上げることは出来ませんでした。真の意味で「オリジナル」といわれるものが出現するには、80年代初頭にホグウッドとシュレーダーによって「アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック」が結成されるまで待たなければなりませんでした。彼らによって、モーツァルトの全て(というのは、それまで信じられていた41曲前後というものより遙かに多い曲が含まれます)の交響曲が録音されて初めて、オリジナル楽器による演奏が公に市民権を得たのです。その演奏には、確かに今までのものとは違い、余分なロマンティシズムをそぎ落とした潔さがありました。さすが、シュレッダー・・・ん?
それから20年の時を経て、現在ではオリジナル楽器によるアプローチはモーツァルトに留まらず、ベートーヴェンあたりまではごく当たり前のレパートリーとなってきました。それに伴い、モダン楽器のオーケストラも、編成が小さくなったり、緩除楽章のテンポが徐々に早くなってきたりと、オリジナル陣営が当たり前のこととして実行してきた、作曲された当時の演奏習慣を重視するというコンセプトを徐々に取り入れ始めてきます。そんな中にあって、本家のオリジナル系も、「家元」ホグウッドに見られたような極端な表現は影を潜め、普通の感受性で対応できる、暖かみのあるようなものへと変わってきています。
そんな流れの中で、今世紀に入って最初の、オリジナル楽器によるモーツァルトの登場です。最近はシュトラウス(もちろん、ヨハン)やチャイコフスキーなども演奏しているインマゼールとアニマ・エテルナによる交響曲3曲とファゴット協奏曲、果たして「オリジナル」の最前線は、どんな様相を見せてくれているのでしょう。
確かに、このベルギーの演奏家たちの作り上げるモーツァルト像は、もはやホグウッドあたりがエキセントリックに主張していたものとは全くかけ離れた、素直に心に入ってくるものです。弦楽器の音色もまろやかですし、表情の付け方もごく自然、テンポの設定も納得のいくものになっています。おそらく、これからのオリジナル系の進むべき道を明確に先取りしているものであることは、間違いはないでしょう。しかし、そのような姿勢を認めながらも、今回の録音に見られる演奏家としての水準の低さには、失望を隠すことは出来ません。もっとも気になるのは、いとも軽快なテンポで始まったものが、しばらくすると徐々に失速してしまうという、プロにあるまじきテンポ設定の甘さ、もしくは、指揮者にもっとも必要とされるテンポ感の欠如。ここはひとつ、基本的な技能の修練に励んでもらいたいところです。

6月27日

WAGNER
Parsifal
B.Weikl(Bar), J.King(Ten), I.Minton(Sop)
Rafael Kuberik/
Chor und Orchester des Bayerischen Rundfunks
ARTS/43027-2
2ヶ月ほど前だったでしょうか。あるCD店のHPのトップにスゴイ情報が。なんでも、「パルジファルの未発表録音が発売!」とのことで、慌てて見てみたら「1980年、クーベリックのスタジオ録音」というとんでもない音源でした。これが本当なら、いつぞやの「ゲルデスのタンホイザー」よりも話題になることは確かではありませんか。わくわくして発売を楽しみに待っていたというわけです。そして、最近やっとその実物を手にすることが出来ました。音源はバイエルン放送協会、なんとデジタル録音です。メジャーレーベルでのデジタル録音は1979年1月のDECCAによる「ニューイヤーコンサート」が最初のもの、80年には殆どのレーベルで採用されるようになりますが、放送局でもすでこの時点では導入されていたのですね。そういえば、ドイツの放送音源のクオリティの高さ(レコードと同等の手間がかけられているとか)については、「レコ芸」7月号に詳細なレポートがありますが、なかなか侮れません。そしてレーベルがARTS、今までにも珍しいCDを数々リリースしているところです。(ワーグナーについても珍品がありました)
御存知のように、この曲は大変に長大です。遅くまで仕事をして帰ってから聴くのは、せいぜいCD1枚がやっと。毎日1枚ずつ聴いて、やっと全曲聴き終えたところです。(第1幕がCD1と2、そして第2幕がCD3、第3幕がCD4です)クーベリックの音楽はかなり攻撃的です。第1幕の前奏曲も幾分早めのテンポで、あの名演とされるクナッパーツブッシュののような神秘性は削ぎ落とされています。かと言って、同じく名演とされるカラヤンのような人工的な美の極致でもありません。もう少し人間的なパルジファルを追及するかのようです。これは、歌手の顔ぶれをみても納得できます。キング、ヴァイクル、モル、そしてミントン。皆、それぞれに表情豊かな歌唱を持ち味にしている人たちばかりではありませんか。
ひたすら長くて深遠な第1幕に耳を澄まし、第2幕になると、俄然歌手達が熱を帯びて動き出します。音楽も熱っぽく、熱く熱く。花の乙女たちの誘惑の場面(ここでは若きルチア・ポップの歌声を堪能できます)での程よい官能性。そしてクンドリーとパルジファルの息詰る二重唱。そして第3幕。(近頃お気に入りのアバドのような)深い諦観とは違う、人間くさい喜びの音楽。ここではお決まりの宗教性というよりは、若者の成長をドキュメンタリータッチで描いた番組を見るような楽しみをもたらしてくれます。
やはり、この曲に神秘的なものを求めたかったらクナかブーレーズ、音としての愉悦を味わいたければカラヤン。色気むんむんを楽しみたければレヴァイン。そして物語を楽しみたければこのクーベリック盤というところでしょうか。ベリーグーですよ。

おとといのおやぢに会える、か。


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