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ウェスト・サイズ・ストーリー。.... 渋谷塔一

(02/12/21-03/1/12)


1月12日

BARTOK,SCHUMANN
Violin Sonatas
Kolja Blacher(Vn)
Bruno Canino(Pf)
ARTE NOVA/74321 92784 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE-38060(国内盤 1月22日発売予定)
コーリャ・ブラッハーというヴァイオリニストの事を知ったのは、85年ごろにフルートのオーレル・ニコレの共演者としてでした。まだ20代のこの若者が、バッハのトリオソナタを、このフルート界の巨匠に寄り添いながらも、確かな主張を持った演奏を行っているのを聴いて、「こーりゃいい」と思ったものです。そのブラッハーが、のちにベルリン・フィルのコンサート・マスターに就任することを知ったときは、軽い興奮を覚えたものです。時折テレビで放映されるライブ画像で、百戦錬磨の猛者たちを颯爽とリードしている、この、まだあどけなさの残るヴァイオリニストの姿は、非常に印象的なものでした。
時は流れ、そのベルリン・フィルも99年に退団して独り立ちしたブラッハーの、これはソリストとしての最初のアルバムになります。ここで選ばれている曲は、バルトーク、ホリガー、シューマンという、極めて渋いものです。国内盤も発売されるほど、期待を寄せられているこのデビュー・アルバムですが、このような玄人好みのレパートリーで勝負するあたりに、彼の自信の程を感じないわけには生きません。
彼の持ち味は、確かなテクニックに裏付けられた余裕を持った表現力。一見そっけないようでいて、訴えかける力にはとても大きなものがあります。バルトークのヴァイオリン・ソナタの第1番では、醒めた民族性の陰に秘められた、この作曲家の情熱を見事に浮き出してくれています。特に、第2楽章でピアノのブルーノ・カニーノとの間に漂う、ただならぬ緊張感は聴きものです。シューマンの晩年の作品、ヴァイオリン・ソナタ第2番では、決して歌いすぎることのない、あからさまではないロマンティシズムがとても心地よく感じられます。
この2つのソナタの間に収められているのが、オーボエ奏者としても著名なハインツ・ホリガーの「無言歌」。ピアノのダンパーを上げている状態でヴァイオリンの音を共鳴させるというような、特異な音響を追及したある種前衛的な音楽ですが、その精緻な世界が見事に眼前に広がります。このように、全く異なるキャラクターの曲をいともたやすく弾き分けてくれたお陰で、このアルバムはこの値段(国内盤で税込み1000円)では申し訳ないほどの盛りだくさんの内容を私たちに提供してくれています。熟成された大人の音楽というか、とても濃厚な音楽性が心を打ちます。
伴奏のブルーノ・カニーノは、ご存知、自身も作曲家である大ベテラン。彼の好サポートがどれほどこのアルバムの完成度に貢献していることでしょう。

1月8日

A SONG OF HOME
An American Musical Journey
James Galway(Fl)
Jay Unger(Fid)
Molly Mason(Guit)
RCA/09026 63883 2
先ごろ、ベストアルバムが出たばかりのゴールウェイですが、一昨年の9月に録音されたという最新のアルバムがリリースされました。ゴールウェイといえば、クラシックのみならず、あらゆる分野のポップスのアーティストと共演、決してその辺の取り澄ました演奏家が片手間に作ったものとは根本的に次元の違う、極めて上質のアルバムを作ってきています。最近では、サルサ・バンドをバックに、チック・コリアの「スペイン」をオリジナルに勝るとも劣らないグルーヴ感で演奏していたのが印象的でしたね。
今回は、共演者、さらにプロデューサーとして、アメリカのカントリー・ミュージックというか、もっとひなびたルーツ・ミュージック界の大御所、ジェイ・アンガーとモリー・メイソンというご夫妻を迎えています。ジェイ・アンガーといえば、南北戦争を題材にしたテレビドラマ「The Civil War」の音楽を担当、その中の「アショカンの別れ」という曲が大ヒットしたことで知られていますね(このドラマ、日本では舞台を学校に置き換えて作られました。テーマ曲は「図書館の別れ」・・・ウソですよ)。このアルバムでも、じつにしっとりとした古き良き時代のアメリカを彷彿とさせるような世界を繰り広げています。そのテイストは、このジャケ写を見れば伝わってくることでしょう、丸太で出来た家の前、手作りの椅子に座って夕暮れ時にトラディショナルをしみじみ奏でる、そんなおもむきでしょうか。
したがって、このアルバムは、決してゴールウェイ一人が浮いてしまうような作られ方はしていません。共演者たちが揃ってかもし出すカントリーの持ち味を存分に出すために、ゴールウェイはそこに最もふさわしい味わいを発揮できるような音を提供するという、卓越したプロデューシングが光っています。ジェイのフィドルや、ピーター・オストリューシュコのフラット・マンドリンが、ソロをとっているときのゴールウェイの控えめなオブリガートの、なんと絶妙なことでしょう。それから、モリーが娘さんのルース・アンガーとともに聴かせてくれるヴォーカルの心地よいこと。もちろん、ゴールウェイがソロでたっぷり聴かせてくれるものもふんだんに用意されています。中でも、「シェナンドー」での朗々とした歌いっぷりは、まさにゴールウェイの独壇場でしょう。その後に続く「シェナンドー・フォールズ」での、打って変わった陽気な表現も、彼の十八番ですし。
そして、なんと言っても、最大の聴き所はアルバムの最後に収められている「アメイジング・グレイス」でのしみじみとした歌い上げ。最初はソロで始まったところに、ジェイのすすり泣くようなフィドルのポルタメントが絡むところなどからは、心からの悲しみのようなものを感じないわけにはいきません。そう、このアルバムの録音が行われたのは最初に書いたように「あの」9月、悲劇が起こった直後の17日からの1週間なのです。場所はニューヨーク郊外のウッドストックのスタジオ、この曲にゴールウェイたちがこめた思いは、おのずと明らかになるはずです。

1月6日

BEETHOVEN
Symphony No.9
佐渡裕/
新日本フィルハーモニー交響楽団
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11420
新しい年が明けたのも束の間、もはやいつもと変わらない日常が始まろうとしています。思い起こせば、昨年の暮れには「3大指揮者」による「第九」のCDが話題になったものです。いかに名曲とはいえども同じ時期に全く同じ曲の新録を3枚(正確にはもう1枚出ていたといいますが)もリリースするなんて、とても正気の沙汰とは思えませんが(全部買うと「散財」指揮者)、これがなかなかのヒットだったというから面白いものです。こんなことが成り立つというのも、この国におけるこの曲の特殊な立場ゆえなのでしょう。
終楽章フィナーレで「神の柔らかな翼の庇護のもと、あらゆる人々は兄弟となる」(訳:吉村渓)というメッセージを合唱、オーケストラが一体となって歌い上げていくという、今までに無かったような極めて特異な交響曲は、日本においては西洋とは全く異なった形で受け入れられました。狩猟や殺戮の道具であった刀や弓が、「剣道」や「弓道」といった精神修養の媒体として変貌し得る土地柄ですから、これほど分かりやすい、世界を救うことすら可能に思えるほどのメッセージを内包した交響曲を聴く、あるいは実際に演奏に参加する(合唱のパートは、多少の修練を積めば誰にでも参加できる)ことにより、より高い精神性を獲得して自己を高めようという、まさに「第九道」が成立しても、何の不思議はないのです。事実、「この曲を歌い、演奏するためには、演奏家自身が高潔でなければならない」と言い切った指揮者が確かにいたというくらい、「第九」は、もはや日本人にとっては特別な曲になってしまっているのです。
世界を舞台に数多くの外国のオーケストラとも共演している佐渡裕が今回「第九」を録音するにあたって、あえてソリストも合唱も、そしてオーケストラも全て日本人を起用したのは、このような日本独自の「第九」像というものを明確に打ち出したかったからに他なりません。特に、合唱に栗山文昭という優秀な合唱指揮者が指導にあたっている複数の合唱団のユニットである「栗友会」を起用したことの意味には大きいものがあります。その卓越したソノリテとハーモニーは、全国の「第九道」を極めんとする人たちのまさに目標として、確かな光を放っています。
佐渡の演奏は、第3楽章までのオーケストラのみの部分では、ことさら煽り立てるようなことはせずごく自然に音楽を運んでゆきます。細かいところはおのおのの奏者の自発性に任せて、自らは軽く手綱を操るという風情でしょうか。その結果、例えば第2楽章のトリオでのホルン奏者やオーボエ奏者のような伸び伸びとした演奏が生まれてきます。それが終楽章になると音楽は一気に過熱、佐渡のアジテーションのもと、鍛えぬかれた合唱は高い音楽的なクオリティを保持したまま驚異的な昂揚感を見せつつ疾走します。
華やかなオーケストラの後奏が終わるやいなやの大歓声、このライブ録音の会場みなとみらいホールでは、8月という夏の最中、「第九道」の成就を目の当たりにし、いやが上にも熱くなりきった聴衆の拍手はいつまでも鳴り止むことはありませんでした。

1月4日

SCHUBERT
Die Schöne Müllerin
Jochen Kupfer(Bar)
Susanne Giesa(Pf)
CHANNEL CLASSICS/CCS 18898
いつぞやも書きましたが、私は、この「水車小屋」はテノールで歌われるのを聴くのが好きです。もちろん内容も若者向けですし、原調も高めですから、バリトン歌手が歌う場合は3度くらい下げるのが普通。そんな訳で、テノールに相応しいと思ってます。
しかし、ゲルネの歌う水車小屋を聴いて「バリトンもいいな」と思えたのでした。(もともとゲルネびいきの私ですから、何を聴いても嬉しくなってしまうのでしょうが。)それから、いくつかのバリトン盤「水車小屋」を聴きましたが、どうしてもゲルネの歌と比べてしまいます。
今回の「水車小屋」は1969年生まれのバリトン、ヨヘン・クプファーの演奏です。彼もシュヴァルツコップやディースカウの教えを受けた、いわゆる「正統派」バリトンです。以前、このレーベルの「シュレーカー歌曲全集Vol.2」でも歌ってました。(そういえばこの企画はどうなってしまったのでしょう?)最近はかの鈴木雅明率いるBCJのソロとしても活躍していて、今年の4月の「マタイ」でもソロを歌う予定という、いわば期待の星。どんな「水車小屋」が聴けるのでしょう?
で、聴いてみました。同じ曲なのに、ゲルネとは全く違う肌触りです。ひたすら禁欲的なゲルネに比べると、クプファーの歌は何と暖かいのでしょう。ふうふう冷ましながら食べるとおいしいですよね(それはクッパ)。例えば第1曲目の「さすらい」。ゲルネは繰り返す度に少しずつ変化をつけていく歌い方ですが、クプファーは冒頭から細かなニュアンスを付けて行くのです。時として、あまりにも過剰と思えるところもありますが、これが彼の解釈なのでしょう。伴奏のピアノも表情豊かで、歌に沿うというより歌をリードしている部分もあり、なかなか聴き応えのある演奏です。ゲルネの歌は、後半になって階段を転げ落ちるように悲劇性を増しましたが、クプファーの歌は、最初から結末がわかるような極めてわかりやすいもの。どの曲にも若者らしさが溢れています。悲しい時には悲しい、嬉しい時には嬉しい、と実に素直です。とてもストレートな感情の発露は、時として「緩い」とまで思えるほどです。この歌い方は、テノールだと素直に頷けますが、なんだかバリトンだと背中がこそばゆい・・・かも。
若いっていいな。と思いたくなる情熱に満ちた歌声でした。

2003年1月2日

MESSIAEN
Vingt Regards sur l'Enfant-Jésus
Steven Osborne(Pf)
HYPERION/CDA 67351
新年を迎え、やっと慌しさも一段落。何となく気持ちまで疲れてしまった、そんなあなたにこの1枚を。おなじみ、メシアンの「幼児イエスに注ぐ20のまなざし」です。
実はこの1枚、ずっと前に入手していたのですが、最初に聴いた時には、そんなに印象に残る演奏ではありませんでした。ここでピアノを弾いているのは、スティーヴン・オズボーン。おズボンの似合う若い男の子です。以前カプースチンのソナタのCDを聴いたこともありますが、その時はかのアムランの実演を聴き比べてしまったので、そちらもあまり印象に残らなかったのが正直な気持ちです。
で、今回のメシアンも一度聴いただけでほっといたのですが、年末恒例行事と化した、あの超有名評論家による「今年印象に残った1枚」で取り上げられたのを見て、「もう一度聴いてみるか」という気持ちになったのでした。このコラム、毎年暮れに1226日頃にA新聞に掲載されるのですが、いつの年だったかは、何とシマノフスキの「ロジェ王」なんかが取り上げられ、CD店の人があたふたした。という話を聴いたことがあります。何しろ、影響力の強い評論家のこと、「彼が薦めた物だから・・」と購入希望者がお店に殺到するのですが、既に年末の仕入れが終わっている時期で、いまさらそんなマイナーアイテムを推薦されても、商品を満足に準備できないのだとか。
さて、内輪話はそのくらいにして。彼が「若々しさに溢れた演奏」と絶賛したものをもう一度聴きなおしてみました。第1曲目から、実に素直な演奏です。かのエマールのような、無機質で透明な演奏でもなく、オグドンのような、一つ一つの音に祈りをこめるような説明的な演奏でもありません。「楽譜をそのまま音にするのがとても楽しい」そんな演奏でしょうか。静かに沈み込むような鐘の音の中に時折現れる「神の主題」の美しさは格別です。第2曲での激しいアルペジョに彩られた星の輝き。これらもストレートに表現されます。何故こんなにステキな演奏が、以前聞いた時には印象に残らなかったのだろう?
そう考えてしばし・・・思い当たることがありました。私はこの曲集は、どちらかと言うと後半の10曲が好きで、最初に聴いたときはそれが入っている2枚目しか聴いてなかったのです。後半、特に15曲から以降。これらの曲に描かれた世界はあまりにも広大です。オズボーンの演奏だと、15曲目には少々艶かしさが不足しているし、16曲目は優しすぎる。そんなこんなで、私は少し不満だったのかもしれません。
しかし、今回評論家が推薦してくれたことでこの曲の知名度がもっと上がれば、一ファンとしてこんなに嬉しいことはありません。どんなに素晴らしいCDでも、手に取ってもらわなくてはただの円盤ですからね。

12月31日

MOZART
Requiem(Ed. Levin)
Bernard Labadie/
La Chapelle de Québec
Les Violons du Roy
DORIAN/DOR-90310
昨年、2001年の9月11日に起こったテロから1年以上が経過した今、日本のマスコミはもっと熱中できるものを探し当ててそれにかかり切りになっていますから、もはや、このような他国の出来事は話題にすらのぼらなくなっています。そんな中、ひっそり輸入盤の棚の片隅に置かれていたこのCDは、そのテロの直後9月20日にニューヨークから200kmほど離れたトロイという町で行われたモーツァルトの「レクイエム」のライブ録音として、その存在を控えめに主張していました。何でも、ここで演奏しているカナダの合唱団と室内オーケストラは、1年以上前からこの曲をここで演奏するために、ツアーの予定を組んでいたとか、そのあまりの偶然には、関係者は一体どんな思いを抱いたことでしょう。
しかし、この合唱団とオーケストラ、指揮者のラバディーによって、カナダのケベックで1985年に結成された「La Chapelle de Québec」と、まるでアベックのようにその1年前に作られた「Les Violons du Roy」は、そのような特異な状況下で行われたコンサートであるにもかかわらず、いたずらに感傷に走ったり、過度の思い入れを込めたりということのない、極めて真摯な演奏を聴かせてくれています。合唱は、とても良く訓練された柔らかい響きですし、オーケストラも、楽器はモダンですがモーツァルトの時代様式を踏まえた奏法を実践しています。指揮者は、この2つの団体とはとても密接な関係にあるようで、フレーズの隅々までに、彼の意図が演奏家の自発的な表現として発せられるようになるまで見事に練り上げられているのが良くわかります。ソリストたちも、カナダを中心に活躍している人たち、ソロはもちろんですが、特にアンサンブルで見事なハーモニーを聴かせてくれています。
という具合に、このCDはこれだけでも「モツレク」の演奏としてはかなりの高水準に位置していますが、そこにさらに「レヴィン版」を採用しているという魅力が加わります。このサイトに常連の方でしたら、先刻レヴィン版についてはご存知でしょう。ジュスマイヤーの作った部分は残しつつ、よりモーツァルトらしいオブリガートを加え、オーケストレーションを施した、おそらく現在望みうる最高の補筆版といえるものです。その割りには録音は少なく、フルで採用したものではこれが3番目のものです(その他にアバドが一部採用)。「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」など、レヴィン版特有のフレーズが出てくるところでは、前2作(リリンク、パールマン)よりも、演奏を重ねて習熟した表現が聴かれます。現時点では、この版の最高の演奏といえましょう。
最後の音が消えたあとに続く静寂、それから10秒もしてから沸き起こる嵐のような拍手、ここには、確かな音楽を味わった聴衆の満足感が、しっかりと記録されています。

12月27日

PORTRAIT
Roberto Saccà(Ten)
ARTE NOVA/74321 89429 2
最近、テノールが不足しているようです。これは世界的な傾向でして、確かに、フローレスやリチートラもがんばっているのですが、明らかに需要過多の世界。若手テノールが2〜3人がんばっても到底世界のオペラハウスで必要とされるテノールを賄うことはできそうにありません。かと言って、ラッセル・ワトソンやジョシュ・グローバン、そしてアンドレア・ボチェッリはちょっと違う気もします。人気はありますけどね。
で、CD屋さんの店頭で、耳慣れない新人のCDが売られていると、歌好きは申し合わせたかのように、つい手に取ってしまうのです。今回もそんな1枚です。行き着けのお店でCDを物色していたら、例の店員さんと一人のお客様の会話が聞こえてきました。
「なんか、新しい歌物入ってる?」
「ああ、これこれ。安いでしょう?まだ聴いてないんですよ」
「全く聞いた事無い人だね。どんなだろう。俺ってさ、テノール好きだからついつい買っちゃうんだよ」
「へぇ。そうなんですか」
「昔さ、ちょっとしたコネで、文化会館で歌ったことがあってさ・・・(以下割愛、えんえんと自慢が続く)」
「じゃあ、今お店で掛けて見ますよ。ちょっと待ってくださいね」
と、流れてきたのがこれ。
「うん。なかなかいいね。ちょっと力みすぎかな」
「でも、若々しくてよいですね。これはイチオシしましょう」と店員さん。
「買おうかな?ま、安いし・・・買っちゃえ」
「そうしてくださいよ。600円じゃないですか」
そう。ついつい私までつられて購入してしまいました。
このサッカという人、若手ながらかなりの実力の持ち主で、最近ではARTHAUSEの「コジ・ファン・トゥッテ」(アーノンクール指揮)にも出演してた人です。来年は、小澤征爾オペラ・プロジェクト2003特別公演で、ラヴェルの「スペインの時」にも出演予定という逸材。オフには小説を書いているといいますから、多才です(作家、ね)。これは確かに先物買いのARTE NOVAらしい企画でした。彼の声は、確かに力みもありますがとにかく若々しい。だから、例えば「リゴレット」のマントヴァ公などを歌わせたらばっちり。全盛期のパヴァロッテイのような、脂ぎった好色さではなく、「若さから来る激情」が心地よいのです。とにかく清々しい声です。「椿姫」のアルフレードも全くはまり役で、何より、考えるより先に声が出る感じです。
もしかしたら、彼はヴェルディより、ワーグナー。それもジークムントなんかが合いそうな歌い方。密かに注目したい人の一人として覚えておきましょうか。

12月25日

C.P.E.BACH
Complete Flute Concertos
Patrick Gallois(Fl)
Kevin Mallon/
Toronto Camerata
NAXOS/8.555715-16
大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエルのフルート協奏曲を集めたアルバムです。フルートと弦楽合奏のための5曲すべての協奏曲と、有名なソロ・フルートのためのソナタイ短調が収録されています。
エマニュエルといえば、かつては大バッハの「フルートソナタ第2番」として知られていた変ホ長調のソナタ(第2楽章の「シチリアーノ」が有名ですね)は、実は彼が作ったものだということは、今では良く知られています(いまだに認めない人もいますが)。確かに、この曲を「第1番」のロ短調のソナタあたりと比べてみると、メロディーのテイストがずいぶん違っているのが分かります。息子の作品からは、伸び伸びとした感情の発露みたいなものが感じられません?
協奏曲でも、彼の持ち味はエモーション。お父さんの作品では決して見ることの出来ない振幅の大きい感情表現です(振幅の大きい体型はプロポーション)。特に短調の作品の場合、そこからほとばしり出る情感には、現代の私たちにも共感できるようなものがあります。私が最も好きなニ短調の協奏曲(Wq.22)など、終楽章の疾走感には誰しも圧倒されてしまうことでしょう。
ここでソロを吹いているのは、パトリック・ガロワ、彼とこのレーベルとの組み合わせはちょっと意外な気もしますが、実は、以前ご紹介した瀬尾さんのホフマンのフルート協奏曲集も、最初はガロワが録音する予定だったといいますから、結構以前からつながりはあったのでしょう。しかも、ここで彼がやっているのは、あるいはメジャー・レーベルだったら実現しなかったかもしれないようなことですから、私たちにとっては大変うれしい組み合わせと言えましょう。それはどういうことかというと、ガロワはベーム・システムのモダン・フルートを使って、あたかもエマニュエルの時代のフラウト・トラヴェルソのような音を出しているのです。これは、音色だけではなく、音の立ち上がりや、微妙に不正確な音程、音を伸ばす際の頼りなさといったものを、全て昔の楽器のように再現するという、現代の楽器を吹いてきた人にとってはとてつもないストレスを伴うものです。このようなアプローチ、最近ではあの「パユさま」も手を染めていますが、あのような「もどき」ではなく、ガロワの場合、さかのぼれば89年にバッハのソナタ全集を録音したときから、その萌芽は見られたように、年期が入っています。ここに来て全開となったそのオリジナル楽器志向の表現法(これには、息ではなく指でキーを操作して発生させる不気味なビブラートなども含まれます)、そこに、ガロワならではの目がくらむような多彩な装飾が加わって、エマニュエルの曲に見事な光を当ててくれました。
バックのトロント・カメラータは、おそらくモダン楽器を用いているのでしょうが、その表現はやはりオリジナル系の鋭角的なもの。見事にガロワをサポートしています。こんな掘り出し物があるのですから、NAXOSは侮れません。

12月23日

Ein Operettenpotpourri
Uwe Theimer/
Wiener Opernball Orchester
CAMERATA/CMCD-25003
今年も押し迫ってきました。この時期は意識せずとも、何となく慌しさの波に揉まれてしまいます。お歳暮を選びに町まで出かけると人の多さに愕然としたり、クリスマスのディナーの予約に奔走したり、お正月の準備で翻弄されたり。「ほんろうに、あ〜疲れた・・・・・」そんな時、こんな1枚はいかがでしょう。演奏しているのは、「ウィーン・オペラ舞踏会管弦楽団」というところ。ウィーンでは年末になると、シュトラウスの名を冠した団体が数多く出現しますが、大抵はシュターツオーパーやフォルクスオーパーのメンバーたちが小編成で演奏を行う時のやり方だそうで、これはウィーン・フィルが来日した際、室内楽の演奏会を行う時にもこういった現象が見られます。この「ウィーン・オペラ舞踏会管弦楽団」はメンバーの中心がフォルクスオーパーの奏者とのこと。申し分ないウィーンの香りが楽しめます。
収録されているのは、おなじみの曲ばかり。例えば「こうもり」の有名なクープレはいかがでしょう?ここで歌うのはマルティーナ・ドーラック。ウィーン生まれのソプラノで、恵まれた容姿を生かしミュージカルの分野でも華々しい活躍をしている人です。フォルクスオーパーでこの曲と言えば、どうしてもメラニー・ホリディを思い浮かべますが、さすがに世代交代をしても良い時期でしょう。だって、私の記憶にあるホリディは今でも20年前の姿なのですから。ドーラックの歌は、まだ圧倒的な存在感を感じるまでには行きませんが、実際の舞台姿がプラスされれば、かなり良いのでは。他には、レハールの「微笑みの国」からの美しい二重唱や、珍しいファルの曲やカールマンも収録されています。カールマンでチャールダッシュを歌っているのはイザベラ・ラブーダ。この人は「オペレッタも歌うオペラ歌手」との事で、前述のドーラックの歌い方と聞き比べるのも楽しいでしょう。
そして、このアルバムで一番楽しいのが「オペレッタ・メドレー」です。ツェラーからヨハン・シュトラウスまで6人の作品を次々とつなぎ合わせたもの。賑やかな中にも一抹の涙。そんな洒落た世界を垣間見せてくれる9分間。もちろんレハールの「メリーウィドウワルツ」も含まれています。序奏の泣かせるヴァイオリン。これが絶品です。
美味しいザッハ・トルテでも味わいながら楽しんでください。たとえ表に「ラップ焼いも」の車が止まっていても、お部屋の中はウィーンの風。

12月21日

BERNSTEIN
West Side Story
Kenneth Schermerhorn/
Nashville Symphony Orchestra
NAXOS/8.559126
バーンスタインが作ったミュージカルの、いや、あえて言わせてもらえば彼の全ての作品の中での代表作とも言える「ウェスト・サイド・ストーリー」が初演されたのが1957年といいますから、ほとんど半世紀前の作品ということになるわけです。そして1961年には映画化され、大ヒット、その中で歌われるナンバー「トゥナイト」を知らないものはいないというほどになりました。ただ、クラシックのオペラとは違い、ミュージカルの場合は、その曲のスコアは、業界の慣わしとして、多忙な作曲家に代わって専門のオーケストレーターが作ります。この曲では、オーケストレーションはシド・ラミンとアーウィン・コスタルという2人が行っています。そんな、いわば強烈なショウビズ界の臭いを持った舞台作品が、今では「クラシック」の作品としても通用しているのは、ひとえに、これが大きな成功を収めた作品だということと、まさに作曲家自身によってそのような道が作られてしまったからに他なりません。彼が1984年にDGに録音した全曲盤では歌手にオペラで活躍している人を揃え、このミュージカルがあたかもオペラであるかのように聴かれるべく仕上げを施したのです。
この録音の時に使われたスコアは、ラミンとコスタルによるオリジナルに、バーンスタインが手を入れたもの。これは94年にブージー&ホークスから出版され、他のバーンスタインの「クラシック」の作品同様、楽譜によってきちんと演奏することができるという、「古典」としての地位を獲得しました。今回、バーンスタインとも親交のあったシャーマーホーンが録音したものには、この最終稿が用いられており、その演奏も当然のことながらDG盤の流れをくむものになっています。フル編成のオーケストラからは、ミュージカルのピットからは聴くことのできない、重厚で豊麗な響きを楽しむことができます。
しかし、今まで映画で、あるいはオリジナル・キャストによる演奏で長くこの作品になじんできた者にとっては、今回の演奏は少なからぬ違和感を感じる物なのではないでしょうか。まず、最も失望させられるのは、この曲に一番必要とされるリズム感のあまりの欠如ぶり。これはDG盤でも見られたことですが、ここではさらに、「アメリカ」のウアパンゴのリズムからは軽やかさがすっかり失われ、「クール」で4ビートを刻むハイハットからは救いがたい鈍さしか感じることができないのです。もっとも迫力が必要とされる「トゥナイト」の五重奏でのお上品さときたら、まさに致命的。救いはオペラ歌手ではない、ミュージカル専門の人に歌わせたことでしょうか。確かに、DG盤のホセ・カレーラスというとんでもないミスキャストに比べれば、台詞も自然ですし、劇としての活き活きとした雰囲気には見るべきものがあります。もちろん、歌もはるかにこの曲に合ったものを聴かせてくれています。しかし、総じて歌手の水準は低め、特にマリア役には、もう少し表現力のある人が望まれます。貫禄だけだったら、DG盤のキリ・テ・カナワにはとてもかなわないでしょう。

きのうのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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