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ウソツキー行進曲....渋谷塔一

(01/1/31-01/2/15)


2月15日

ZEMLINSKY
Der Zwerg
James Conlon/
Gürzenich-Orchester Kölner Philharmoniker
EMI/CDC 566247 2
前回に引き続きツェムリンスキーのオペラをご紹介しましょう。
今回用意した「Der Zwerg(侏儒)」は96年の録音です。ですから今回は、CDの紹介より、オペラ本編の紹介として進めます。それは、私がツェムリンスキー好きでもあり、彼の作品が再評価されている事もありますが、2月の末に、東響がオペラコンチェルタンテシリーズでこの曲を取り上げるからというのも一つの理由です(日本初演)。かの高橋薫子さんも出演されるというから楽しみではありませんか。
さて、童話というのが、えてして人間の醜い面を映し出しているのは、昨今はやった「本当は怖い〜〜童話」の例でもご存知の通り。彼の書くオペラも、実は「ねちょねちょぐちょぐちょ」の内容を持つ物が多く、この曲もかなり内容的にはきわどいといえるでしょう。
原作はオスカー・ワイルドによるもので、1891年出版の彼の2番目の童話集「ざくろの家」に収録されている「王女様の誕生日」です。(日本での上演時にもこのタイトルが使われます)。
スペインの王女様は12歳になったばかり。今日はお誕生日のお祝いの祝宴が催されています。贈り物として、森で捕らえられた侏儒が献上されました。彼の奇妙な踊りに心を奪われた王女は、軽い気持ちで白ばらを与えます。身の程を知らないかわいそうな侏儒。本気で王女様に愛されていると信じ、彼女を探し回って王宮内に侵入。そこで初めて「鏡」を言うものを目の当たりにし、己の醜い姿を認識するのです。ショックで心臓が張り裂けた彼に向かって王女様は言います。
「今度私に下さるおもちゃは心臓の無いものにしてね。」
原作は、このように淡々と語られますが、オペラの方はもう少しエピソードが付け加えられ、侏儒が披露するのも踊りでなく歌。(ここがオペラの醍醐味)。舞台がスペインと限定されている事もあって、使われるメロディもエキゾチック。この書法は将来、あの「叙情交響曲」として美しく結実する事になります。
決定的に違うのは、終わりの部分。原作では、鏡に映ったわが身に絶望して息絶えるのに対して、オペラでは王女様にキツ〜〜イ言葉を投げられ絶望して息絶えるというのです。
この内容、知れば知るほど、ツェムリンスキー自身のエピソードじゃないか?と思えるのです。前回も書いたように、ツェムリンスキーはアルマに散々もてあそばれたのです。オペラで王女様が発する言葉「あんたって醜いわね」。これに近い事を実際にアルマに言われもしました。こんな、現実には有るまじき言葉にも彼の心臓が張り裂ける事はなかったし、アルマのことを嫌いになる事もなく一生思い続け、1942年にひっそりと生涯を閉じました。
しかし、自分にとっても、こんなに残酷な話を、砂糖菓子のような甘い衣にくるんで堂々とオペラ化するなんてどういう神経の持ち主なのでしょう。(彼はマゾ?)もしかしたら、この気持ちのみが彼を作曲に駆り立てたのでは。一生、ロマン派の幻影を追い求め、失った美しい恋人に執念を燃やす。そんな彼の音楽。マーラーの亜流と片付けるのはもったいない気がします。

2月13日

ZECHLIN
Geistliche Kreise
Ruth Zechlin(Org)
Harvestehude Chamber Choir
Mechthild Seitz(MS)
Werner Tast(Fl)
ARTE NOVA/74321 67504 2
ルート・ツェヒリンという女性の作曲家、旧東ドイツでは大変有名な方だそうで、オペラから独奏曲まで、今までに300曲近くの作品を発表しているのだそうです。私は全く知らない人でしたが、ジャケットにあった「十字架上の7つの言葉」というタイトルに惹かれて、聴いてみる気になりました。これは、4つの福音書で述べられている、十字架につけられた時のキリストの言葉ですね。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とか、「すべてが終わった」とか、「愛するって、耐えることなの」・・・最後のは「べし」でしたね(誰も知らないって)。
シュッツあたりは、これをテキストにして、受難曲のような合唱曲も作っています。さらに、有名なのは、ハイドンによる弦楽四重奏曲でしょう。もちろんこの場合は声楽が入っていませんから、いわば「インスト曲」。究極の表題音楽ということになります。このCDに収録されているツェヒリンの作品もオルガン独奏のための曲。オルガン、チェンバロ奏者でもある彼女自身の演奏です。ちょっとメシアンを思い起こさせるような雰囲気がありますが、あちらのような豊穣さは皆無。モノトーンとでも言うようなある種禁欲的なサウンドが支配的です。音楽的なアイディアとしては、基本は12音、それにクラスターなどを適宜織り交ぜるという、現代音楽の王道とも言うべき「真面目さ」が貫かれています。
ただ、彼女の場合、感覚的に「美しい」と信じられるものはきちんと押さえているようで、多分、それは三和音だったりユニゾンだったりするのでしょう、ポイントポイントでそのような耳に心地よい響きが聴けるのがうれしいところです。
「7つの言葉」のあとに入っている「復活」という、やはりオルガン独奏のための曲が、そんな典型。最初のうちは低音域でモゾモゾしていたものが、次第に音域も上がって派手になり、最後は単音に収束するという、とても分かりやすい構成になっています。
タイトル曲の「宗教的な環」というのも、そういう意味ではとても分かりやすい無伴奏合唱曲です。テキストは「デオ」と「ハレルヤ」と「アーメン」だけ。クラスターやシュプレッヒ・ゲザンクを使ってみても、最後はやっぱりユニゾンが一番いいわという仕掛け。合唱団の生真面目さが、曲のテイストに妙にマッチしています。
最後に収録されているのが、最古の女性作曲家として知られる、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの詞による、メゾソプラノとフルートのための3つの歌。これだけは、きちんとした12音による曲ですが、中世のラテン語の歌詞とのミスマッチが、なんともいえない味を出しています。

2月12日

ZEMLINSKY
Der Traumgörge
James Conlon/
Gürzenich-Orchester Kölner Philharmoniker
EMI/CDC 557087 2
先日、それぞれの分野の専門家について書きましたが、もう一人大事な人を忘れてました。ツェムリンスキーの専門家、ジェイムズ・コンロンです。以前も「おやぢ」で管弦楽伴奏付き歌曲全集をご紹介しましたが、今回は待望の新録音オペラのリリースです。
10年ほど前から「頽廃音楽」がブームになってますよね。「世紀末」ブームと相俟って、190040年頃に書かれた音楽が挙ってリリースされたのは一種異様な雰囲気があったものでした。もちろん内容は玉石混交。軽薄稚拙な作品から感動名作まで百花繚乱(なんか四文字熟語の羅列だな)。でもって、豊穣爛熟な音好きのマニアの私は、狂喜乱舞で崑崙山脈(意味不明)。
厳密にいうとツェムリンスキーは「頽廃音楽」の枠からは外れるかもしれませんが、ブームに乗じて彼の曲もかなり見直されたのはファンの私にとってはうれしい風潮でしたね。しかし彼は、どうも作品自体よりも、数々のエピソードによって知られる作曲家であります。そのなかでも特に有名なのは結婚前のアルマ・シントラーの恋人としてでしょうか。
「マーラーとシェーンベルクをつなぐ掛け橋」(これは私生活においても!)と評される作風で知られる彼は、生涯に渡り多数のオペラを書きました。いずれもが童話やファンタジーを素材とした幻想的なもので、甘く口あたりの良い音楽と相俟って、いかにも後期ロマン派の香りを根強く残しています。
今回のオペラ「ゲルゲの夢」は、彼の作品のなかでも初期のもので、小さな村で起こる、ほんの些細な事件を描いたものです。あくまでもファンタステックな衣を着せられていますが、これがなかなか込み入った話で、彼の実体験も巧妙に織り込まれているので、なかなか油断のならない筋なのです。
コンロンはツェムリンスキーの声楽作品の全制覇をもくろんでいるとの事で、もう曲の解釈などは手馴れたもの。歌手たちも常連さんばかり。以前、アルブレヒトもこの曲を録音していますが、それに比べると、かなり洗練された音に仕上がっています。
ただ、どうしても曲の完成度がイマイチなのですね。だから全曲聴くのは結構大変でした。曲は美しいのですが、緊迫した心象風景を表すまでには至ってません。だからちょっと冗長になってしまってます。
彼のオペラには、もっとわかりやすい作品があるので、次回はそちらをご紹介しましょうか。

2月10日

R. STRAUSS
Metamorphosen
Peter Rundel/
Ensemble Oriol Berlin
ARTE NOVA/74321 81175 2
あれほど「新世紀、新世紀」と騒いでいたのに、いつの間にか2月も半ば近く。このところ、仕事が忙しかったり、ちょっと気を揉む事があったりで、すっかりお疲れモードのおやぢです。更新もちょっと滞りがち。
こんな時は好きな曲でも聴きましょう。癒されたい時に聴く曲は人によって様々ですね。ちょっと周囲の人に聞いてみました。返ってくる答えは様々です。バッハ、ペルト、ヴァイス、ビリー・ジョエルに加古隆。とりあえず私はシュトラウスにしましょうか。
かのR・シュトラウスが最後のオペラ「カプリッチョ」を書いたのは1940年。厳しい世界情勢、ナチスとの関係悪化など、彼の身辺の状況は悪くなるばかりでした。そんな中でも、彼は自分の音楽語法を貫きとおし、最後まで「美しい旋律」にこだわり続けます。カプリッチョを最後にオペラとは決別し、後は作品番号すら付けない、私的な作品を残すことになるのです。ホルン協奏曲第2番、オーボエ協奏曲、「4つの最後の歌」、そして、この「メタモルフォーゼン」などですね。
彼らしい芳醇な響きで覆われたオケパートに乗って歌われる、まるでオペラのアリアを切り取ってきたかのような美しいメロディ。これらは確かに時代錯誤ではありますが、その懐かしい味わいは、まるで黄昏の中にたたずむような、不思議な感覚を呼び起こすのです。
今回のメタモルフォーゼンは、はっきり言ってあまり期待していませんでした。今までも何種類もこの曲を聴きましたが、なかなか気に入った演奏には巡りあえないのです。私の理想が高すぎるのでしょうか(スミソニアンの音は、確かに衝撃的でした。感動は別として)。
安いから試しに聴いてみるか。その程度。しかし、最初の2分ほどですっかり魅了されてしまいました。この23人の奏でる音は、何と豊かなのでしょう。
この曲のモティーフは、ベートーヴェンの葬送行進曲。最初は重苦しく始まりますが、時間を追うに従って、曲想は刻々と変化します。彼の常ですが、自分の作品のメロディも巧妙に織り込まれ、次第に盛り上がり最高潮に達した後、静かに消えていくのです。
その移り変わりを、全て余すとこなく、まるで映像で見せるかのように、一気に聴かせてくれたのです。これは高い演奏技術と極上のアンサンブルによってのみ可能な事でしょう。特に中間部の美しさは筆舌に尽くしがたい物がありました。「これは良い物を手に入れた」本当にそう思いました。
カップリングのコルンゴルトの六重奏曲もなかなか良い曲で聴き応えがあるのですが、ぞっとするような美しさはありませんね。やはり凄みにかけるのですよ。ここらへんが後世に残る人と、忘れられる人の違いかもしれません。よいものが残るというのは、めちゃめちゃ当然なことで。

2月7日

HOFMANN
Concerti per Flauto e Orchestra
Massimo Mercelli(Fl)
Alfonso Saura Llacer/
Symphonia Perusina
BONGIOVANNI/GB 5575-2
ホフマンのフルート協奏曲については、以前この欄でご紹介しましたね。若手のホープ瀬尾和紀さんのデビューCDで、新しく校訂された楽譜による「世界初録音」のアルバムでした。あの紹介文は、瀬尾さん自身の目にもとまるところとなり、なんと、瀬尾さんの公式ホームページからリンクされるという晴れがましいことにもなってしまいました。やはり、「おやぢ」の売り物の速報性、このアルバムの場合は、大手輸入店の店頭に並ぶ前にCD評が掲載されてしまったのですから、「早い者勝ち」の特権ですね。
ちなみに、この瀬尾さんのページには、あの協奏曲が録音された時の様子が、瀬尾さん自身の筆で活き活きとレポートされています。こんな貴重なエッセイは、なかなか読めるものではありません。さらに、このエッセイによると、カデンツはすべて瀬尾さんの作なのだそうです。そう思って聴いてみると、また、新たな魅力が感じられます。
というわけで、前置きが長くなってしまいましたが、本日のアイテムはあの時にちょっと触れたBONGIOVANNI盤の、やはりホフマンのフルート協奏曲です。最初に入荷した時には聴きそびれていたのですが、やっと現物が手に入りましたので、おそまきながらご紹介。
収録されているのは3曲です。そのうち、二長調の曲は、おなじみ「伝ヨーゼフ・ハイドン作曲」、バッドリー番号「D1」ですね。あとはト長調の曲が2つ。片方はバッドリーG2として、瀬尾さんのアルバムに入っていますが、残りの1曲は全く知らない曲。おそらくバッドリーG1あたりでしょうか。この曲が聴けるだけでも、このCDを買う価値はあるというものです。しかも、録音されたのは1996年、ト長調の2曲に関しては、瀬尾さんを差し置いて「世界初録音」になるのでしょう。
さて、演奏です。同じ曲が2曲もありますから、瀬尾さんとの比較を楽しむとしますか。このメルチェリというドン・ジョヴァンニみたいな顔をしたフルーティスト、一聴してラテン系の大ざっぱな芸風、細かいことにはこだわらず、ひたすら明るく吹きまくります。これに比べると、瀬尾さんの演奏がいかに緻密で、考え抜かれたものであるかがわかってしまうというのは、皮肉なものです。カデンツも、ファンタジーのかけらもないつまらないものですし。
ところで、このジャケを見ると、作曲家の名前が「ルートヴィヒ・ホフマン」となっていますね。ライナーにもこの表記で書かれていますから、そういう方なのでしょう。そうだとすると、レオポルド・ホフマンと同じ生没年を持っていて、全く同じ協奏曲を作ったホフマンさんがもう1人いることになりますよね。どうなんでしょう。瀬尾さん

2月5日

BACH
Brandenburg Concerto No.5 etc.
Emmanuel Pahud(Fl)
Rainer Kussmaul(Vn)
Berliner Barock Solisten
EMI/CDC 557111 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55208(国内盤 2月16日発売予定)
ベルリン・フィルの首席フルーティストのポストをあっさり投げ捨ててソリストへの道を歩みだした、というか、大学教授へととらば〜ゆ(死語)したエマニュエル・パユ、生煮えお粥のような優柔不断な性格だったら、なかなかこのような転身は難しかったことでしょう。しかし、今モダンフルートの奏者がバッハを演奏する時にどのような態度をとるべきかという問いを投げかけられれば、いかにパユといえども、大いに逡巡せざるを得ないことになります。彼にとっては初めてのバッハアルバム、そのような苦悩のあとがありありと窺える仕上がりとなっています。
バッハの周辺の作曲家を演奏する際にはオリジナル楽器を使用するというのが、いまではもっぱらトレンディ(これも死語)。もちろん、楽器を変えただけではなく、その楽器が使われていた時代の演奏様式、その楽器の固有の奏法などもきちんとマスターしなくてはなりません。
フルートという楽器の場合、オリジナル楽器とモダン楽器では、まったく別の楽器といっても構わないほど、音色も表現力も違っていますので、こういう時代の風潮を敏感に感じているフルーティストの場合は、自分の楽器に対してとことん悩みぬくことになってしまいます。なにしろ、オリジナル楽器の表現法といったら、ヴィブラートやアタックはつけない、長く伸ばさない、トリルは不安定な音程で、低音には倍音を入れない、など、今まで磨き上げてきた奏法にはことごとく反しているのですから。
ここでパユが取っているのは、モダン楽器で出来るだけオリジナル楽器に近い表現をするというものです。マスターのページの愛読者でしたら、こういうことを始めたのは何もパユが最初ではないことは先刻ご承知でしょうが、これは、本当に実績なり名声が確立している人にしか出来ないことです。普通の人がやったのでは、ただ「ヘタだね」で終わってしまいますから。
というわけで、ここで聴かれるブランデンブルク協奏曲第5番や、序曲第2番(「管弦楽組曲」というみっともない言い方は、いい加減やめにして、BWVで用いられているこの言い方にしませんか?もちろん「カンクミ」などという醜い略称は論外。)で、パユの輝くようなフルートを期待していたファンの皆様は、見事に肩透かしを食らうことになるのですね(その分、おでこの輝きは期待しても良いのでは。)。
演奏自体は、やはりベルリン・フィルに見切りをつけたクスマウルのリードの下、見事な仕上がりになっています。ブーレの中間部でテンポを落としたり、ポロネーズを均等な3拍子にするのは、今や常識ですね。
無伴奏パルティータだけは、他の曲でのうっぷんを晴らすかのように朗々と吹いているあたりが、最初に述べた「苦悩」ってやつですね。

2月4日

BRUCKNERMass No.1, Motets
John Eliot Gardiner/
The Monteverdi Choir
Wiener Philharmoniker
DG/459 674-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1030(国内盤 2月25日発売予定)
恒例レコ芸の「リーダーズ・チョイス」、読者が選んだ昨年のベストアルバムはヴァントのブルックナーの7番。この国のクラシックファンの間に見られる「死ぬちょっと前の指揮者は絶大な支持を受ける」という法則が作用していることを差し引いても、ブルックナーの人気というのはすごいものです。
しかし、こういう異常とも見える人気は交響曲に限ったもの。教会音楽家としてのブルックナーの側面は、依然マイナーな地位しか与えられてはいないのが現状です。無理に背伸びをしていない、等身大のブルックナーが良く現われている宗教曲の数々を聴かずしては、ブルックナーのファンたりえないというのは、確か、マスターの持論でしたよね。今回ガーディナーが録音した、このすばらしいCDを聴けば、そのあたりはかなり納得できるのではないでしょうか。
まず、交響曲を発表する前に作られた、彼にとって殆ど初めての大規模な作品であるミサ曲第1番を聴いてみましょう。ニ短調という暗い響きを持つこの曲、導入の「キリエ」こそ深刻な雰囲気に支配されていますが、「グローリア」、「クレド」と進むうちに、のちの交響曲みたいな豊穣なサウンドが顔を見せてきます。メロディーのはしはしや和音進行も、ブルックナーファンには先刻お馴染みのものばかり。
ウィーン・フィルの金管というのは、こういうサウンドはお手の物。ただ派手に鳴らすというだけではなく、「典礼」とか「礼拝」という言葉が自然に連想されるような響きを作ることにかけては、今のところこのオーケストラの右に出るものはないのでは。
そして、何よりも素晴らしいのが、合唱です。分厚いオーケストラにも決して埋もれることがない力強さと、的確にコントロールされた繊細さを併せ持つ、とてつもない能力を披露してくれています。
カップリングというか、実は私はこちらの方がお目当てだったのですが、無伴奏のモテットが、この合唱団によって歌われれば、まさに至福のひと時が体験できるでしょう。有名な「アヴェ・マリア」は、出だしのハーモニーの純正な響きを耳にしただけで幸せになれること請け合い。ほんの4分足らずの曲の中に込められた小宇宙とも言うべき多様性を持った世界を、すべての音に神経が行き届いた、大人の表現で聴かせてくれます。どの曲をとってみても、この深い表現は変わりません。
これら、まさに珠玉のような、しゅぎょく美しい合唱曲を聴いたあとでは、多分、交響曲の聴き方、ひいてはブルックナーに対する接し方が変わってしまうかもしれませんよ。

2月3日

WORKS FOR VIOLIN AND PIANO
Vadim Repin(Vn)
Boris Berezovsky(Pf)
ERATO/8573-85769-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-10688(国内盤)
ロシアの若手実力派を代表するヴァイオリンのワジム・レーピンとピアノのボリス・べレゾフスキー。この2人のコンビによるERATOへの録音も、すでに4作目、だいぶなじむようになってきました。
今回は、R・シュトラウスとストラヴィンスキー、それとバルトークという19世紀後半から20世紀初頭の作品というので、もう聴く前からわくわくしてしまいますね。
シュトラウスのヴァイオリンソナタは、最近別のレーベルから日本人演奏家によるCDもでたばかり。彼の若書きの作品のなかでも比較的よく演奏される曲で、イタリア旅行に行った頃に書かれた、とても明るい華やかな曲です。シュトラウス自身ヴァイオリンはプロ級の腕前だったとかで(ただし本人は弾くのが嫌いだったらしい)、かなりのテクニックを要することですし、もちろんピアノパートも難しく書かれています。
この演奏。とにかくかっこいいのです。最初の出だし、ピアノの短い前奏を聴いてびっくりしました。早めのテンポ。たたみかけるような迫力。こんな演奏初めてです。シュトラウス23歳の時の作品なのですが、この演奏を聴くと、まるで「英雄の生涯」を聴いているかのよう。2楽章、3楽章のしっとりとした風情も言うことなし。そのまま最終楽章にもつれ込んで、一気に盛り上がるところなんてほんとに感動ものです。
ほっとしたところで気分を変えてストラヴィンスキー。これはとってもおしゃれな演奏。もともと、チャイコフスキーのテーマを使って書かれた「妖精の口づけ」を編曲した管弦楽曲なのですが、このようにヴァイオリンだけで聴くのはまた違った味わいです。レーピンのちょっとヒステリックな音がなんとも言えずいい味だしてます(彼は、あまりまろやかな音の持ち主ではありませんね)。
で、最後のバルトーク「ルーマニア民族舞曲集」。これが圧巻です。リズムの処理は抜群で(ただし、ルーマニアというよりどうしてもハンガリーっぽく聴こえるのはバルトークのせいです。)、あいまいなところは一つもありません。そのうえで展開される、やるせないけどどこか懐かしいメロディ。これは何度も聴いてるうちに、体が覚えてしまうような不思議な感覚です。
どの曲も素晴らしくて、もう唖然として聴きました。何しろ、曲への求心力が半端ではありません。極度の集中力、そしてテクニック。曲に対する理解。これらが全て水準以上であるからこそ、このような演奏が可能なのでしょうね。この2人の演奏なら何を聞いても間違いないかもしれません。

2月1日

PASTORALE
Emily Beynon(Fl)
江崎昌子(Pf)
EXTON/OVCL-00035
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席フルート奏者、エミリー・バイノンの、殆どはじめてのソロアルバムです。マスターのディスコグラフィーを見れば、これまでにもCDを出していたことは分かりますが、きちんとしたジャケ写が付いたアルバムは、これが最初のものです。しかし、リリースしたのが日本のレーベル。○木綾子や□井香織といった、殆どアイドルのノリでしか売られていないフルーティストと同じ扱いを、このたぐいまれなテクニックと繊細な表現力を併せ持った音楽家が受けるのではないかという、一抹の危惧の念が脳裏をよぎります。
幸いなことに、この予感が的中することはありませんでした。なにしろ、このCDはフルーティストのソロアルバムですらなかったのですから。1曲目のベートーヴェンの有名なヴァイオリンソナタ「春」をフルート用にアレンジしたものが始まった時に聞こえてきたのは、やたら無神経なピアノ。そう、これはまさしく、このレーベルの主宰者の身内のピアノを聞かせるためのCDだったのです。このピアニストが演奏上の主導権を握っていたと思われるベートーヴェンのどん臭い(死語)こと。バイノンがいくら細かい表情をつけようとしても、センスのかけらもない乱暴なピアノに、無残にもかき消されてしまいます。もちろん、録音はピアノがメイン、象のように巨大なピアノの音像のかげに、肩身の狭いフルートがいるという、とても不自然というか、意図的なバランスになっています。
2曲目の、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、冒頭のとても繊細なバイノンのソロが終わるやいなや、まるでハンマーで殴られるような無神経なピアノが出てきた時には、マジでこのピアニストの首を絞めてやろうと思ったぐらいです。
だから、ピアノに邪魔されない武満徹の「エア」と、アンドリーセンの「夏のパストラール」という2曲の無伴奏の曲は、本当に宝物のようにいとおしく聴くことが出来ました。細やかな表情、ゆるぎないテクニック、多彩な音色、どれをとっても完璧です。兄妹愛に目がくらみ、他の曲でこの美しいフルートの音を録音できなかったプロデューサーの手によって、バイノンの国内盤デビューは、無残な結果に終わってしまったのです。昨日の例でいえば(まだこだわってるな)「明石の高級真鯛を手に入れながら、料理法と調味料を過って、せっかくの素材を台無しにした」という感じでしょうか。
演奏家の日本語表記について一言。かつては「ベイノン」として通っていましたが、本人の発音は「バイノン」に近いもので、このアルバムでも「バイノン」と表記されています。この表記から劣悪なアルバムの印象を連想するのはやばいのんですが、より正しい方にすることにしましょう。

1月31日

NEUJAHRS-KONZERT 2001
Nikolaus Harnoncourt/
Wiener Philharmoniker
TELDEC/8573-83563-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-10650(国内盤)
もう既に話題になってるアーノンクールのニューイヤーコンサートです。発売と同時に手に入れたのですが、お正月にテレビで見てしまったせいもあってか、入手した事で満足してしまい、ずっと他のアイテムにかかりきりになっていましたよ。
さて、お正月の恒例行事である、このコンサート。このところはアバド、ムーティ、マゼール、メータの餅あまり・・ではなく持ち回り制。多少は目新しい曲が演奏されるとはいえ、大筋は決まりきったイヴェントになってしまいました。しかしこの時期は皆、お祭り気分、かつほろ酔い気分。そこに耳触りの良いワルツでも流れてくれば一層良い気分になること請け合いでしょう。そんな時に、「楽譜に忠実な演奏」や「ワルツの歴史的背景」なんて必要あるのでしょうか?
例えば、縁日の露店で食す「お好み焼き」の類を思い浮かべてみましょう。決して衛生的とはいえないし(私も小さいとき、「お腹こわすから」と買ってもらえませんでした。)味だって良くないぞ(生焼けなんてしょっちゅうだ!)。その上高い(1枚500円もする!)。
しかし、あれはあれでよいのであって、もし露天のお好み焼きが「だしは高級かつおぶしと羅臼昆布、卵は厳選されたウコッケイ・・・」だったら却ってヘンな物ですよね。
しかし今年のアーノンクールはそれを実践したからスゴイのです。第1曲目の「ラデツキー行進曲」から、オリジナル版、拍手なしというすごい素材をぶつけてくるのですよ。もちろん、どの曲を聴いても、このところのアーノンクールらしく考えに考え抜かれ、1曲1曲慈しむように演奏されています。例えば、「ヴェネチアの一夜」の序曲。ちょうど手元に先ごろ来日したビーブルの振った同曲のCDがあるので聞き比べてみましたが、アーノンクールに比べて、何ともなまぬるい演奏。「ウィンナワルツは力をいれちゃいけないんだよ〜」と言われてるような気がした物です。これはボスコフスキーから連なる流れですね。
映像で見るアーノンクールも思いっきり力が入っていて、ついつい髪型までかわっていましたっけ。ウィーンフィルのメンバーも、お正月から真剣勝負を強要されてさぞかしお疲れの事でしょう。
しかし、おかげでお正月を過ぎても、立派に鑑賞に堪えうる素晴らしい名演が残ったわけです。ニューイヤーのCDとしてでなく、ウィンナワルツのCDとして。さっきの下らない例えで言えば「料亭で食べるお好み焼き」みたいな逸品。
82年のクライバーのコンサートのCDがリマスターされ再発売されたとたん、飛ぶような売れ行きを記録しているのも、近年のコンサートに対する言葉なき批判のようなものなのかもしれません。さて、これは来年が楽しみではありませんか。

きのうのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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