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ブラ、余す。.... 渋谷塔一

(03/6/6-03/6/25)


6月25日

Musikalische Eskapaden
Peter Falk/
Nordwestdeutsche Philharmonie
PHILIPS/446 408-2
CD店の片隅にひっそりと置かれていたこのCD、レーベルこそPHILIPSですが、いわゆる「インターナショナル盤」ではなく「ドイツローカル盤」、ドイツの国内盤とでもいったおもむきの(そういえば、某DECCAの女流ピアニストのCDはいつ輸入盤がでるのでしょう?)"Musikalische Eskapaden"と題されたアルバムです。直訳すると「音楽で羽目をはずす」になるのかな。3人の作曲家も、日本では全く馴染みのない人ばかり。もちろん例の三省堂の音楽作品辞書にも載っていません。実はこのCD、いつかのクレーメルのHappy Birthdayのような趣向。かのフランソワ・グロリューのように、ドイツの民謡や大衆歌を、いろんな作曲家の様式にアレンジしたものなのです。(どこの世界にも同じようなことを考える人がいるものです。)
このアルバムには3曲が収録されています。「一羽の小鳥が飛んでくる」、「俗歌によるバカ騒ぎ」、「ペーター爺さん」そのどれもが4小節か8小節の可愛らしいメロディです。それをオックス、ピルネイ、ゾンマーラッテという3人の作曲家が、それらしい曲に仕立てあげたもので、いかにもバッハ風、ベートーヴェン風、そしてシェーンベルクやオルフ・・・まるで大作曲家の作風のカタログをみているような楽しい55分です。
しかし、注意深く聞いていると面白いことがわかってくるものです。こういうアレンジには2つのやり方があって、あくまでも原曲を対象に近づけるやり方。これはHappy Birthdayもそうですが、もとのメロディを崩すことなく、バッハならバッハ、ワーグナーならワーグナーの和声や対位法、装飾のくせなどを似せる方法です。これはうまく行くと「はは〜」と感嘆の声を漏らすに値するほどの効果を上げます。オックスの「マイヤーベーア風」なんて本当に良くできてます。
もう一つのやり方は、元ネタに巧妙に他の曲をまぜるやり方です。どう考えても、こちらの方が底が浅いですね。ピレネイがそうでして、例えば「シューベルト風」と言ったら、元のメロディがいつの間にか「水車小屋の娘」に成り代わっているというものですし、「ワーグナー風」というと、「タンホイザー」になってしまいます。「ヴェルディ」は「アイーダの凱旋行進曲」、シュトラウスは「ティル」でした。さすがに「斉太郎節」(いわゆる「大漁歌い込み」)にはなりませんでしたが、このやり方で1曲つくるのは、ちょっと詐欺じゃない?と文句の一つも言いたくなるではありませんか。(ちなみに、「斉太郎(さいたら)節」というのは、宮城県の民謡、けっしてさいたま市の市歌ではありません)
まあ、文句を言っても、それなりに面白いものですから見つけたらご購入をオススメします。恐らく損をしたという気にはならないでしょうから。

6月23日

MOZART
Requiem(Ed. Levin)
Charles Mackerras/
Scottish Chamber Orchestra
SCO Chorus
LINN/CKD 211(hybridSACD)
モーツァルトの交響曲やオペラを数多く演奏してきたマッケラスですが、レクイエムは今まで録音したことはありませんでした。「待ってます」というファンの声が届いたのか、ついに実現した初録音。ご存じのように、この曲に関しては不完全なジュスマイヤー版を我慢して使うか、或いは、近年の、より考慮が行き届いているとされる版(はん)を使うかという点で、演奏者の志が問われるところがあります。モーツァルトの演奏については独特のこだわりを持つマッケラスとしては、そのあたりの見極めを慎重に行った結果の、満を持しての録音ということなのでしょうか。したがって、熟考の末に(だと思います)ここで彼が採用した版がレヴィン版だったことは、とりもなおさずこの版が、この重鎮指揮者の思いを託すに足る内容を持っていたと言うことになるのでしょう。ほんの少し前にも、このレヴィン版による録音をご紹介したばかりですが、どうやら、「版レース」の行方が少し見えてきたような気配がしませんか?
しかし、版云々以前に、私たちはこの演奏の持つ厳しさの前に、圧倒されることになります。特にそれは合唱に顕著に見られるのですが、まず、発音の徹底した切迫感、そして緊張感あふれる歌い方からは、何かにとりつかれたような強固な意志すらも感じることが出来るのです。「Kyrie」の二重フーガを聴いてみて下さい。各パートが、それぞれ全身全霊をあげて伝えようとしているメッセージ、その一本一本の糸が、見事に絡み合って、さらに大きなメッセージが紡ぎ上げられていく様が、まさに手に取るようにはっきりと見えてはこないでしょうか。そして、その勢いが次の「Dies irae」に続いた瞬間、何か大きな力が私たちの心の深いところに働きかけるのを、誰しも感じるはずです。バスのパートソロが「Quantus tremor est futurus」と歌うときのトランペットとティンパニの印象的な合いの手、これが、レヴィン版を使った理由だと言わんばかりの、このドラマティックなシーンは、印象的です。
曲全体を覆う異常とも見える緊張感は、場合によってはこのレヴィン版との間に違和感を抱かせるほどです。それは、「Sanctus」の弦楽器のオブリガート。ジュスマイヤー版の素っ気なさとは明らかに次元の違う高い音楽性が秘められた部分なのですが、そのあまりにリリカルなフレーズは、やや、マッケラスの表現には相応しくなく見えます。
独唱パートにも、マッケラスはこのような緊張感あふれるドラマ性を要求したことでしょう。しかし、残念ながら歌手、特にテナーの力量不足によって、これはいささか表現の一貫性が損なわれたものになってしまっています。もっと力が抜けて、流れを尊重できるソリストたちだったら、もう少し良い結果が出ていたと思いますが。
余白に入っているのが、あのカラヤンの葬儀の時に演奏されたという、弦楽器のための「アダージョとフーガハ短調」。曲本来の厳しさに、レクイエムからの流れがそのまま継承されたとっておきの厳しさが加わって、とてつもない名演が誕生しました。

6月20日

交響曲第5番 朝ごはん
上海太郎舞踏公司B
ユニバーサル・ミュージック
/UCCS-5001
今回の1枚ですが、実はこれ、クラシック売り場に置くかどうか結構もめたアイテムだそうです。(いつもの売り場のお兄さんの話)題材は、ベートーヴェンの「運命」です。簡単に言えば、この第1楽章に歌詞を付けて歌うというもの、そう、これは大御所、斎藤晴彦の手法と同じものですね。15年ほど前だったでしょうか、クラシックの名曲に日本語の歌詞をつけて早口で歌いきるという技をあちこちで披露、そのうちに国際電話のCMにも起用されたりして瞬く間に人気者になった彼を覚えている人は、しかし、今となってはどれくらいいることでしょう。今や、誰もが忘れてしまったであろう、ポーランドのワレサ議長を題材にした名曲「ワレサって一体誰さ?」これはショパンの軍隊ポロネーズでしたし、モーツァルトのトルコ行進曲に至っては「トルコへ行こう」(これは現在死語になってます)とストレートでした・・・話が脱線してしまいましたね。
今回のCDは、歌い手(?)が上海太郎舞踏公司B←(ん?)。1989年、言葉の壁を越える演劇を目標として大阪に設立。主宰・上海太郎。ダンス、パントマイムをベースにした短い場面を積み重ね、壮大で豊かなドラマを構成するという独特のスタイルを確立する。(メーカーの資料より)というもので、何でも発売日にあわせてテレビにも出演したとかでなかなか侮れない団体なのでございます。
内容はまさに抱腹絶倒。家族3人が「朝ごはん、サービス定食600円」を食べるという内容の歌詞を、ア・カペラの合唱でひたすら真面目に深刻に歌うというものです。もちろん「ジャジャジャジャ〜ン」が「朝ごは〜ん」になります。まず、まぜご飯、白ご飯、どちらにしようか悩み、まあおかずがゴージャスだから白でいいか・・・・と納得しかけますが、店員さんの一言「まったけご飯」で気持ちがすっかり覆ってしまいます。(そうそう、この「まったけ」の語感がこの曲の持ち味です。)家族は、まぜご飯の多様性について思いをめぐらせそして、煩悶のあげく「まったけご飯」に決めるのですが、ここで大変、「まったけご飯」は2人前しか残っていない事が明らかにされます。ここからの懊悩については、とても言葉で言いつくせるものではありません。そんな内容なのに、歌い手たちは至って真面目なもので、そのギャップがステキです。
次は、軽い気持ちで「風呂屋で」を聴きましょう。そう、この原曲はおわかりですね。ちょっと歌詞を書き出してみます。
「風呂入ってシェービング/泡出るせっけん/切れてるおっさん/血にじむ」
これだけ読んでも何のことやらわかりませんが、実際に曲にのせると実に秀逸です。聴き手はドイツ語と大阪弁がいかに似ているか思いを巡らすことになるでしょう。最後にボーナストラックとして、ブリュッヘンの「運命」第1楽章が収録されてますが、これを聴いたら誰もが「まぜごは〜ん」と口ずさみたくなること請け合いです。ところで、朝ご飯のお味の方は?「ウンメイ!」・・・ジャン、ジャン。

6月18日

BACH/WEBERN
Ricercar
The Hilliard Ensemble
Christoph Poppen/
Münchner Kammerorchester
ECM/461 912-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2026(国内盤)
かれこれ1年半ほど前、クラシックCDとしては異例のヒットとなった「モリムール」(461 895-2)の続編として発売されたものが、今回の「リチェルカーレ」です。ヴァイオリニストでもあり、指揮者でもあるクリストフ・ポッペンは「モリムール」では、「バッハのシャコンヌの中には、カンタータ第4番のテーマが隠されている」というテーネ女史の研究を、忠実に音として我々の耳に届けてくれました。もちろん彼が、女史の説に心底傾倒していたのかはわかりません。しかし、あの曲集の白眉である、“シャコンヌ”での合唱を従えた高らかなヴァイオリンの鳴動は、怪しげな学説などというレベルを超えた感動的な名演でした。まさに心が洗われるよう(それはセッケン)。
ポッペンの中では、このカンタータ第4番が特別な存在になったのでしょうか。今回の「リチェルカーレ」は、そのカンタータを基点としながらも全く違う世界を垣間見せてくれます。そして、その選曲はいかにもECMレーベルらしい意表をついたものでした。最初に奏されるのが、ウェーベルン編曲のリチェルカーレです。原曲は「音楽の捧げ物」の6声のフーガで、あの「現代の音楽」でおなじみの曲でもあります。1934年にユニヴェルザール社から補助金を受けることになった際、古典的作品を1曲編曲することが条件付けられていたそうで、ウェーベルンは迷うことなく、この曲を選びオーケストレーションを施したのだとか。当時すでに12音技法を駆使した曲を書いていた彼ですが、この曲には格別の思いがあったに違いありません。バッハの原曲をほとんど損なうことなく、その上で極限までのオーケストレーションとアーティキュレーションを施された作品はまさに新しくて古い作品=ウィーン新古典派の代表作に相応しいものです。
そして、次に奏されるのがウェーベルンの若書きの作品「弦楽四重奏曲」です。1905年に書かれたにも拘わらず、それは陽の目をみることなく、彼の死後、遺稿の中から発見された作品です。まさに、あの後期ロマン派の重苦しくも妖艶な音楽そのものであなりの艶かしさに、身もだえしたくなる部分が随所に見受けられるというもの。
ここで忘れてはいけないのが19世紀末という時代の特殊性でしょうか。とりわけマーラーの作品に顕著ですが、どの作品にも(音楽に限ることなく)多かれ少なかれ影響を与えていた、「逃れようのない死生観」の存在を抜きにしては、この狂おしい音楽を語ることはできないのでしょう。これはあたかも時代の流れの中に咲いた徒花とも言えますが、そこから共通項を見出し、そっくりバッハのカンタータに転写する作業は、あながち無理とはいえないのかもしれません。
そんな思いを抱えながら第4番のカンタータに耳を澄ませ、もう一度ウェーベルンを聴く。そして最後に再度リチェルカーレに戻る時、「時間の流れなんてなんてあやふやなものだろう・・・」との思いが胸をよぎるのではないでしょうか。

6月16日

BERLIOZ
Symphonie fantastique, Herminie
Aurélia Legay(Sop)
Marc Minkowski/
Mahler Chamber Orchestra
Les Musiciens du Louvre
DG/474 209-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1158(国内盤 6月25日発売予定)
甘いものや(それはアンコスキ)ペット(それはインコスキ)が好きな指揮者、ミンコフスキですが、(ここでやめておこう!ウ・・・)オペラのフィールドではもはや確固たる評価が定まっているのはご存じのとおりです。その彼が、シンフォニックなレパートリーでも、まさにドラマティックな音楽を展開してくれていることが、今回の「幻想」でまざまざと明らかになりました。手兵の「ルーヴル音楽隊」に、「マーラー・ユーゲント・オーケストラ」のOBによって組織された「マーラー室内管弦楽団」を加えたその振幅の大きい演奏からは、今までの「幻想」からは感じることが出来なかったような、恐ろしいまでの感情の吐露を見ることが出来ます。
第1楽章では、序奏部のまさに表題通りの「夢」、それも決して楽しくはない夢の情景が、フレーズの切れ目に設けられた独特の「間」によって描かれます。そこで、あたかも眼前の風景ががらりと変わってしまうことに戸惑っているかのような「間」、聴くものは、自ずとその風景の変化に引き込まれざるを得ません。第2楽章は、優雅さにはほど遠い舞踏会、くすんだ音色のオーケストラからは、華やかさなどは微塵も感じることは出来ません。そこにあるのは、屈折した若者の心の反映である、病んだ情念です。
第3楽章こそは、この演奏の核心と言っても良いでしょう。おそらく、史上1、2を争うであろう極端に遅いテンポで描かれる「野の風景」は、とことんその荒れ果てた姿をさらけ出しています。さらに、冒頭、コール・アングレの呼びかけに応えるバンダのオーボエによって、このドラマの結末は暗示されます。最初からかなりオフマイクのオーボエは、応答を繰り返すごとに、徐々にその姿を遠ざけているのです。この楽章の最後の、何度呼びかけても応えることのない結末をこれほど見事に示唆する演奏など、今までにあったでしょうか。その部分のティンパニの非情なまでの迫力も聴きものです。
第4楽章からは、それまでの内に向いたものからうって変わって音楽が外を向いてきて、聴くものに恐怖心すら与えかねない迫力に富んだものになってきます。マーチの時の不気味この上ないトロンボーンのペダルトーン、首を切られる直前のクラリネットの悲痛な「固定楽想」の哀れさ。エンディングの「魔女のロンド」が始まる頃には、すっかりミンコフスキの術中に嵌って、地響きのようなティンパニやバスドラムの音に怯えまくり、ぐったり疲れ果てた聴き手の姿があることでしょう。この疲労感は、しかし、決して不快なものではないはずです。
カップリングの曲にも、ミンコフスキの仕掛けが込められています。「幻想」の2年前にローマ大賞の課題曲として作られ、見事第2位を獲得した「エルミニー」というカンタータ、とても珍しい、私も初めて聴いた曲なのですが、最初の5秒で絶句してしまいました。聞こえてきたメロディーは、あの「固定楽想」そのものだったのです。

6月14日

TCHAIKOVSKY
Piano Concerto No.1, etc.
フジ子・ヘミング(Pf)
Yuri Simonov/
The Moscow Philharmonic Orchestra
ユニバーサル・ミュージック/UCCD-1086
すっかり市民権を得た感のある、今回のアーティスト、ハジ子、ではなくフジ子です。「おやぢ」として彼女のCDを取り上げることについては、ただ単に面白がっていれば良いのですが、この部屋に原稿を寄せている私個人としては、正直、これを容認するのはちょっと・・・・なのです。
NHKのドキュメンタリー番組で、大ブレイクした彼女です。その壮絶な人生が見た人の共感を呼び起こし、彼女の弾く「カンパネラ」はクラシックの世界では異例の大ヒット。室内楽やオーケストラの共演も数多くこなし、日本国内のツアー、はたまたカーネギーホールでのリサイタル、と八面六臂の活躍。そしていつの間にかあのDECCAのアーティストになっているというまさに「奇蹟の人」なのは皆さん御存知の通りでしょう。
今更彼女の演奏に否定的な意見を述べたところでどうにもなるまい・・・とも思います。けれども、今回のアルバムをしみじみ聴いてみれば、やっぱりちょっとだけ言いたくなるんです。
先日のアファナシエフのベートーヴェンも、確かにテンポは遅かったのですが彼の音には、一つ一つに明確な主張が込められているのが痛いほど判ったからこそ、最後まで集中力が途切れることなく聴き手である私も曲に埋没することができたのです。(第3番の途中で、まるでオルゴールのねじが切れるが如くに音楽が停滞する箇所なんて、まったく背中がぞくぞくするくらいスリリングでした。)しかし、このフジ子のチャイコフスキーは、前回のショパンの時もそうでしたが、難しいパッセージになるとテンポが落ちるんですよね。明らかに弾けてないんです。それでいて、美しいメロディーになると、こてこてに歌いまくるんです。それがどうにも鼻についてしまって、「もうやめようよ」と言いたくなってしまうんです。そのこてこての歌い方に共感するのは一向に構わないのですが、やはり、いつもの私の持論で、歌いたい(主張したい)ことがあるのなら、まず完全に腕を磨いて、説得力を持たせてからにしてくれと言いたくなるのです。特にチャイコフスキーの協奏曲なんて、オクターブの連続や、目も眩むパッセージなど「プロ」のピアニストにさえも難所がたっぷり用意されている曲です。とても発表会のノリでこなせる曲ではありません。やはり一人でカンパネラを1.5倍の時間をかけて演奏してこそ、フジ子なのです。
今回はちょっと辛辣かもしれませんが、弾けないからゆっくり演奏してごまかすのと、きちんと弾けるのに、敢えて噛み砕いて演奏するのは根本的に違うのではないでしょうか。
でも、彼女の「歌」を愛する人がいる限り彼女は弾き続けるでしょう。そして私は文句を言い続けると・・・。結局のところ、たかが音楽なのだからこれでいいのだとも思うのです。

6月13日

BEETHOVEN
Piano Concertos Nos.3&5
Varéry Afanassiev(Pf)
Hubert Soudant/
Mozarteum Orchester Salzburg
OEHMS/OC 311
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCO-38016-17(国内盤 7月23日発売予定)
先週の金曜日、楽しみにしていたアファナシエフの新譜が入荷したというので、喜び勇んでお店に走りました。曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番と第5番です。予想通りの2枚組。これは聴く前から期待が持てるというものです。「予想通り」と書いたのは、アファナシエフファンの方ならお分かりでしょう。
このページでも再三取り上げていますが、彼はどんな曲でも、テンポを極端に引き伸ばし、自分の世界に引きずり込みます。リスト、ショパン、シューベルト、ブラームス・・・その特異な世界は独特の魅力を持ち、まるで「くさやの干物」のように、一度はまると抜け出せないのです。
そんなアファナシエフですが、驚くことに協奏曲の録音は今回が初めてとのこと。確かに、協奏曲を演奏するためにはオーケストラも指揮者も必要なんですね。以前、同じような問題をクリアしたのが、かのツィメルマンでした。彼の演奏したかったショパンは、アファナシエフのような狂気こそ存在しないものの、引き伸ばしたテンポ、神経質なまでに丁寧に歌いこまれたフレーズ。恐らくアファナシエフの望む世界と非常に近いのではないでしょうか。で、ツィメルマンはどうしたかというと、自らオーケストラを組織して弾き振りを行い、自分の音楽を実現したのです。
当然アファナシエフもそうするのか、と思いきや、なんと指揮者が別にいると!それはあのザルツブルク・モーツァルテウム管と、ウーベル・スダーンだというのです。もうすでにヨーロッパでもツアーを組むほど息のあった共演者とかで、それはそれでちょっと驚きでした。実際の演奏はどうでしょう。まず3番から。おや?テンポが遅いだけで普通に聴こえますね。普通じゃん。なんて思いながら、ちょっと仕事をしながら聴いてみました。しかし・・・・やっぱり仕事なんて手につかないんですよ。いろいろ気になっちゃって。とにかくアファナシエフは一つ一つの音に必要以上に意味を持たせるのですね。その発信するメッセージがものすごく多くて、とても無視するわけにいかないのです。とにかく真剣に向き合うほかない。と覚悟してもう一度聞きなおしました。これはすごい。最近お気に入りのエマールとは全く違う意味で、いろんなところが引っかかるんです。フレーズの歌わせ方も挑発的。「わざとやっているな」とわかるのですが、「なぜなんだろう?」と考え出すと止まりません。その傾向は第3番が終わって、第5番になると一段とパワーアップです。全くわけわからない・・・・この世界を完璧に理解したスダーンもオーケストラも偉大です。
このCDを聴く時は癒しを求めてはいけません。ひたすら考えなくてはいけません。疲れた時にはオススメできません。修行のようなものです。それでも聴きたくなる。それこそがアファナシエフの魅力でしょうね。まさに、「アブないシェフ」の料理のようなものです。

6月11日

FAURÉ
Requiem, etc.
Sara Macliver(Sop)
Teddy Tahu Rhodes(Bar)
Anyony Walker/
Cantillation
Sinfonia Australis
ABC/472 045-2
某「レコード芸術」誌にこのCDのレビューが載ったのは、今年の3月頃のことでした。そこには、「フォーレのレクイエムではネクトゥー・ドラージュ版を使用」とあるではありませんか。この、最も刺激的ともいえる版による演奏というのは、決して多くはありません。最近では絶えて新録音の話も聞かないようになりましたから、これは耳寄りなニュース、早速入手しようと思い、いつものCD屋さんに行ってみました。店員さんは親切に、「あいにく在庫はございませんが、注文すれば1週間ほどで入って参ります」と言ってくれたので、その言葉を信じて待ってみることにしました。しかし、待てど暮らせど入荷の知らせはありません。あまり遅いのでその店員さんに問いつめたところ「もう入ってくる見込みはございませんから、外国にいるお友達にでもお願いして、買って頂いてはいかがでしょうか」と、言葉こそ丁寧ですが、明らかに「何でこんなものにいつまでもこだわってるんだ」という態度はミエミエでした。この版による演奏にどれほどの価値があるのか、あんな大きなお店のスタッフでも分からないのにはがっかりしましたが、「取れない」というのでは仕方がありません、なんとか「外国の友人」にでも相談しようと思っていた矢先、「先日ご注文のCDが入荷致しました」という連絡が入ったのです。「やれば出来るじゃん。さすが○ワー」と、先ほどの恨みも忘れて大喜びの私でした。
良く言われるように、この曲の場合、普通に演奏されている大オーケストラのための版というのは、出版社の目論見のために他の人がオーケストレーションを行ったもので、決して作曲家の意志が十分に反映されたものではありません。かといって、室内オーケストラのための「ラッター版」は、何か折衷的な感じがあってなじめません。ここはやはり、ちょっと胡散臭いところもある代わりに、説得力も抜群のこの「ネクトゥー・ドラージュ版」が、私にとっては最良の選択となるのです。桃が好きな人にはお勧め(それは、ネクター)。
ここで演奏しているのは、オーストラリアの新しい団体、「カンティレーション」という合唱団と、それに付属している形の「シンフォニア・オーストラリス」という室内オケです。それらを作ったのが指揮者のアントニー・ウォーカーというシドニー生まれの方です。合唱は非常に良く訓練されていて、音色、アンサンブルとも申し分のないものを聴かせてくれています。ところが、その表現が恐ろしく機械的、まるでデジタル楽器のように正確無比なクレッシェンドやディミヌエンドを付けるのですが、なぜかそれが心に伝わってこないのです。これほど美しく、しかし、凍った炎のように全く温度の感じられないフォーレは、ちょっと不気味ですらあります。しかし、「ピエ・イエス」のソプラノソロ、サラ・マクリヴァーは出色。その深い表現は感動的です。
合唱が冷たい分、オーケストラの過剰なまでの「熱さ」には思わず引き込まれてしまいます。この版の特徴である「リベラ・メ」の「ディエス・イレ」での、取り憑かれたようなティンパニといったら。

6月9日

RACHMANINOV,FRANCK
Cello Sonatas
Steven Isserlis(Vc)
Stephen Hough(Pf)
HYPERION/CDA67376
チェロの名手、スティーヴン・イッサーリスと、同じくピアノの名手シュテファン・ハフの共演で、フランクとラフマニノフのソナタと小品です。この2人は、今回が初めての共演の録音ということで、発売前から期待していた1枚でした。イッサーリスと言えば、1958年生まれのベテランチェリスト。ベテランコメディアンではありません(それはイッセーオガタ)。昔ながらのガット弦を好む人としても知られ、古典派から現代音楽まで幅広いレパートリーを持つ個性派です。そして現在最高のヴィルトゥオーゾの一人であるハフ。このレーベルにはたくさんの録音があり、例えばサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番・・・・この曲は表面上の効果だけに捉われると全く面白くない演奏になるので有名ですが、それを彼は、充分鑑賞に耐えうるだけの曲として聴かせてくれたのは記憶に新しいところです。
フランクのチェロ・ソナタ版は、最近ヨーヨー・マで聴いたばかりでしたし、ラフマニノフの方も、アルゲリッチお気に入りの若手チェリスト、ゴーティエ・カプソン君の録音を聴いて気に入っていたので、今回のアルバムはその意味でもとても興味深いものでした。
さて、実際に演奏を聴いてみると、当たり前のことですが三者三様の音楽で、更ながらその違いに驚くというわけでした。落ち着き払った、どちらかというとサービス精神旺盛なヨーヨー・マ。若さゆえか、少々突っ走る感のあるゴーティエ(これはベテラン、ジルベルシュタインのピアノが素晴らしい!)。で、イッサーリスの音楽は、なんと言っても流麗です。音が全く澱むことなく、しかも淡々と流れていきます。例えばフランクのソナタで、普通ならついつい力が入ってしまう終楽章でも、それは変わることありません。自らの音楽がきっちりと根底にあって、それを表現するために曲を進めて行く。それはきっと演奏家であれば誰もがそうなのでしょうが、イッサーリスの場合はその格段の説得力の強さで、聴き手をただただ音の流れに身を任せている状態にしてしまうことが出来るのです。これはピアノを担当しているハフの力も大きいのもがあり、技術の高さに裏打ちされた音楽の威力をしっかり見せ付けてくれています。ラフマニノフにしろ、フランクにしろ、ピアノパートの難しさは有名ですが、それを全く感じさせない余裕。これが全曲を見通しの良いものにしているのでしょう。
そんな2人の共演で、一番心にしみたのが、実はイギリスの若手ソプラノレヴェッカ・エヴァンスをソロに迎えた歌曲でした。ソナタなどでは、緊張感溢れる、まさに「対決」のような音楽を展開していたこの2人が、一転くつろいだ優しい表情を見せてくれるのです。殆ど聴く機会のない、チェロの助奏付きの歌曲「シルフ」のチャーミングなこと。そして最後に置かれた、有名な「天使の糧」。ひそやかで少しだけ艶かしくも清らかな音楽の本当に美しいこと。音楽が終わっても、あたりの空気に残り香が漂うような、そしてそれを吸い込んでため息をつきたくなるような、とてもステキなひとときでした。

6月6日

BRAHMS
Ein Deutsches Requiem
Hartelius(Sop),Henschel(Bar)
Enoch zu Guttenberg/
Czech Philharmonic Chorus of Brno
Czech State Philharmonia Brno
FARAO/B 108006
最近、はまっているのがこの「ドイツレクイエム」です。実は私、もともと声楽曲が好きで、いろいろ聴いて来たにもかかわらず、なぜかこの曲は苦手・・・・というか自分の好きな曲一覧には全く入っていなかったのです。それが3ヶ月ほど前、必要に迫られて1枚聴く事になったのですが、そこで見事に一目惚れ(?)。一度思い込んだらもう止まりません。来る日も来る日も同じ曲を聴き続け、挙句に行きつけのCD屋さんの「ドイツ・レクイエム」のコーナーにあったCDを全部買い込むという暴挙にまで発展。(箱買いっていうの?)
当たり前のことですが、どの演奏にも個性があって、やたら元気のいい演奏、重苦しい演奏、地味な演奏、雑な演奏、各種入り乱れていて興味深いことこの上なしです。ただ、この曲はどういう形であれ、「祈り」を込めやすい作品であり、その思いは形こそ違えど、どんな表現でも的確に伝わってくるところがブラームスの凄さの所以だろうと思ったのです。そもそも「祈る」という行為はなんだろう?この曲を聴くとき、そこから思いが始まります。シューマンのために書かれたとされますが、本当のところはわかりません。ただ、10年かかってゆっくりと熟成させ、本来のラテン語ではなくドイツ語で書かれたレクイエムは、そのような個人的な対象ではなく、もっと大きな何かのために祈りを捧げているように思えてなりません。
さて、今回のグッテンベルクです。この指揮者は、宗教曲関係ではお馴染みの人だそうで(印刷関係でお馴染みなのはグーテンベルク)、環境保護活動にも積極的に取り組む、「地球に優しい人」(あるメーカーのインフォメーションに書いてありました)です。この「ドイツ・レクイエム」はブルノ・国立フィルの演奏ですが、本来は彼を慕って集まったという「クラング・フェアヴァルトゥング(音環境保護協会)オーケストラ」と演奏することが多い指揮者だといいます。
そんな彼ですから、演奏はさぞ優しいだろうと思って聴いてみると、最初のフレーズでそれは全くの誤解であることに気付くのです。重々しい足取りで始まる第1曲から、何ともドラマティック。メリハリのある、どちらかというと仰々しいほどの味付けです。第2曲になると、その傾向は更に顕著になります。これでもか!というくらいに重苦しく悲痛な音楽です。もうつらくてつらくてたまらない。だからこそ、この曲の最後の喜びの合唱の輝かしさが引き立ちます。暗いところは思い切り暗く、そして明るいところは出来る限り明るく。最近の、あまり感情を表に出さないさっぱりした演奏に比べるとこのやり方はあまりにも古色蒼然としているかな。とも思えますが、しかし、この曲に関してはこういう形もOKかな。と弁護したくなるような説得力があります。70分通して聴いて、聴きながらいろいろなことに思いを馳せている自分に気が付き、この「思いを馳せる」行為自体が「祈り」なのかもしれない。とおぼろげながら納得したのでありました。

おとといのおやぢに会える、か。


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