(雨だ!! アレキサンドリア人) 番外編
佐々木敏幸(在アレキサンドリア)
「戦争」って…。
(お笑い路線で行こうと思ったが、今回だけちと変え…。)2003年3月26日現在、僕は毎日同じ時間に起き、仕事場に行き、忙殺され、行き付けのレストランでエジ食を堪能し、制作をして、目覚まし時計を合わせてから床につき、「戦争」が始まる前も、後も普通の生活を送っている。
戦争があったからって、日常は変わらないし変えれない。変えちゃいけない。
僕は、一貫して「戦争大反対!!」何がなんでも。って、当たり前。
僕の生まれ育った国では、そういう憲法を維持し、そう義務教育で教わりました。
僕の文なんて読まなくたって、イラクやイスラーム世界の今についてなら、いくらでもネット上でクリックすれば出てくるだろう。もっと客観的で、至極論理的で、あらゆる経験則に基づいた分析と意見、そして安心して眠れるだけの多くの情報が。
でも、こんな時だから…ちょっと書いてみます。
でまた、今回は…
そう、こちらの人々にとってそれは「でまた、今回の戦争は…」と言う捉え方になっている。こちらとはつまり、イスラーム世界の人々にとってと言う意味だ。
歴史的対立などの側面は別にして、ここ最近の事で、こちらの人間からしてみれば昨今の情勢は、泥沼のパレスチナ紛争が破綻を向かえつつある中の、911のNYでのテロから端を発している。その後のアフガン戦争、パレスチナでの泥沼の紛争突入、そしてイラクへと全て連結して考えられている。つまり、どんどんエスカレートしてきた中での一過程という捉え方に過ぎない。決してイラクだけの問題ではないのだ。
3月20日はとても地中海が美しかった。アラビア語で「白の海」と呼ばれるこの海は、本当に澄んでいた。近くの国では戦争が始まり、「やっぱり来たか…」というあきらめに近い感情と共に、エジ人達はけっこう冷静に見守り出しました。
911からの歴史の変動を全てこちらで体感した僕にとって、こちらの人々の反応を見る限り、911が(表現は悪いかもしれないが)興奮の元に捉えられたのに対して、今回はただ暗澹とあきらめに近い形で受け入れざるえない…といった、そのような雰囲気に映っている。
そう「今回は…」。そして「いずれは…」。
八百屋のドードー
もういつ「イラク」が始まってもおかしくないと言われていた2月下旬。久しぶりのポカポカ陽気に誘われて映画を見に出かけた帰り道、急に昔住んでいた界隈を訪ねてみたくなった。カメラをぶら下げ、撮影しながらの道すがら、その辺りに近づくにつれ懐かしさが込み上げてくる。
(写真は八百屋じゃなくてお肉屋さん)
場所はロッシディー。2度目のエジの今は、職場の近くに住んでいて、滅多にここまで足を向ける事はなくなった。よく通っていたピザ屋のオヤジが「お前の為ならどこまでもデリバリーするから、いつでも電話くれ!!」とか、「あれっ!?誰だっけ、ほらあそこに住んでた…」と、物乞いのおばあちゃん(毎週土曜朝に僕を「ケチ!!」と叫んでいた)が声をかけてくる(あんたこそ生きてたのね、まだ)。一年ぶりの懐かしい商店街も、熱烈に再会を喜び合う訳でもなく、ただ淡々と昔のままだった。
いきなり胸倉捕まえられて引っ張り回されたり、牛乳をかけられたり、毎朝子供達に追いかけられたり、今となっては(思い出したくないほど)懐かしい想い出と、人々がそこにあった。
中でも一番ひいきにしていた八百屋の面々。
オヤジさんはいつも通り仕事もせず、そこいら中で愛嬌を振りまき、前歯のなかった坊主は、刺し歯を入れてもらい体も大きくなった。店を切り盛りする兄ちゃんは、再開を激しく喜んでくれた。でも…。ドードー(本名じゃない)がいない。
お人好しのドードーはよく僕の買い物を手伝い、病気の時はたくさん野菜を家にまで届けてくれた。お返しに欲しがっていたウイスキーをあげれば(彼はクリスチャン)、オヤジに取り上げられたよ…と、こっそり自分だけ良い思いなんて絶対できない性格。いつも気さくに笑っていた。身寄りが少なく、寂しくなるとタンタ(カイロとアレキの間に位置する都市)の親類宅まで出かけて休暇を過ごし、おそらくは二束三文の給料で朝から晩まで働いていた。こんなに一生懸命で、真面目に明るく必死に生きている彼をとても好きだった。
僕(近況などの会話後)「でさー、僕等の兄弟分のドードーいないけど、どこいるのー??」
エジ兄「あー、パレスチナだよー」
僕「ハッ!?何でまた!?!?ここ辞めたってこと?」
エジ兄「戦争だよ、軍隊に志願して行ったんだー。ほら、大変だろ、あそこ…」
僕「エッ!?エジ軍で???」
隣の国のパレスチナでの戦争といえば、イスラエルとの戦争だ。いくらアラブでも他国の軍隊が駐留できる筈がない。大体、エジとイスラエルは条約を結んでいて今は戦争してないし、国際的には内政問題と(無理矢理)捉えられている。
エジ兄「違うよー!!あいつはパレスチナ人だ。だから、(当然の事として)仕方がねー。」
僕「…ホッワ パレスチーン!?…。(あいつはパレスチナ難民だったんだ…!?)」
パレスチナの戦争に行くと言う事は、当然国際的には非合法というレッテルを貼られ、ある人々はテロリストと呼ぶ、パレスチナ解放と国家樹立の為に戦う、ちょっと危うい部隊に行くと言う事。それらの闘争の為に、巷では、ハマスやイスラム戦線などのイスラム原理主義組織ばかりが脚光を浴びているが、彼はキリスト教徒。祖国や家族の為に、きっと思い悩み一念発起して出かけたのであろう。
パレスチナ問題は宗教問題ではなく「領土問題」だ。そこではあらゆる理不尽が横行し、危険と常に隣り合わせの戦闘地帯である。
昨年僕が日本へ去り、そしてパレスチナが泥沼化し、全く解決不可能な状態に突入していた8月に彼は出ていったのだと聞いた。命の保証など全くない事は日本人の僕にだってよく分かる。
僕は一眼レフで、野菜屋の連中を皆一緒に入れて記念撮影をしようと思っていた。カメラを取り出し、代わりに働き始めた新人を入れ、撮影する。
エジ兄「これ、持ってけよ。」
そう言って、財布の中からおもむろに取り出した小さな証明写真(エジでは、「想い出」として自分の写真を配る時に使うサイズ)には、ドードーの幼さの残った軍服姿のやさしい顔があった。
僕「エッ!?いいの??大事なものでしょう!?」
エジ兄「いいんだ、取っとけよ。お前も兄弟だからな。それに、俺はきっとまた会えるさ。」
僕「…。」
礼を言い、皆と別れた。
日本にいれば分からない事だらけ。(エジは今戦争してないけれど)戦時下にある地域の日常とは案外平穏とし、情報や思想統制なんて稀な体制側の行なう戦時統制なのかもしれない。
かなり以前からエジ男達が、「俺はパレスチナの為にエルサレムに行き、戦う!!」と人前で豪語していたりするのを散見した。でも、本当に行くとは誰も思って聞いていない。語る側も聞く側も、「口先だけ」でよしとし、不条理に対する一つのガス抜き行為を互いにしているに過ぎないと。
本当に戦場に行き、死んでいく人々の中には、真面目に生き、他人を思いやれる心を持った優しい青年もいる。(確かに戦争は、人を殺しに行くのだが…)
彼は、テロリストでもなければ、原理主義者でもない。
ただ、貧しかったり、難民だったり、身内を傷つけられ少しだけ人間社会に危機感を持っていたりしただけなのだ。「戦争なんて馬鹿げてる」そんな事誰だって分かってる。
やるか、やられるか。そんな時に誰も自分達に耳を傾けてくれなかったとしたら…。
戦場に駆り出される者も、そこで殺される者も、全て絶対的弱者だ。世界中のどんな場所の、どんな時代でも。
そう、そしてイラクの空の下にだって…。
今彼の写真は、大切な人達の写った写真立ての中に入れ、飾られている。僕が彼と会う機会は、おそらくもうないだろう。
兵役の役割
「兵役」読んで字のごとく、戦闘要員を常に抱える為の、世界中の大半の国で行なわれている、軍人養成の為の(ほぼ強制的)制度。モラトリアム決別期間。多くの国の国民はこれを人生の節目とする(らしい)。日本には当然ない。エジで仕事をしていれば、兵役逃れの為に働きに来ていると時々勘違いされる。アラブでは罪人が罪滅ぼしの為にボランティアする事もあるらしく、そっちとも間違えられる…(ある意味、罪滅ぼしだけど…)。欧米からの兵役回避の為のボランティアもかなりいるので、あながち間違った捕らえ方ではないようだけど(国際常識的には)。
さて、この「兵役」エジでも当然ある。陽気なエジエジ達は、この兵役を事も無げに「青春のよき日」として、僕に語ってくれる。そして、僕も歴史や現実の真実を知る上で、非常に興味深い。
街で出会ったエジ男が語り掛ける。
エジ男「君はルクソールにいった事があるか??」
僕「ああ、もう3回も行った、飽きちゃったよ」
エジ男「なんて事言うんだ!!あんな素敵な所は他にないぞ!!あそこは最高だ!!」
僕「あんたは、いつ行ったんだ??」
エジ男「遠い昔だ。ほら、知ってるか「軍隊」の時に行ったんだ。あんな旅行は滅多にできん!!オメー、もう一回行け、ルクソール!!」
僕「他にどこ行った?どこが一番綺麗だ??」
エジ男「ルクソールに決まってるじゃないか!!他はいった事ねーから知らん!!」
つまり、こちらの普通の人々にとっては、国内旅行ですら高嶺の花。軍隊にでも入らなければ遠くに行くのも難しいらしい。当然軍隊は過酷。なのに、どんなに厳しくっても、知らない街で過ごす事は楽しみともなるらしい。
僕は日々、街で色んなガキンチョのおふざけで掴まれたり、奇声を発しられたり、時には石を投げられ、髪を引っ張られ、動物園のサルを扱うように声を掛けられる。…そんな若者がたくさんいるが、彼らは軍隊に行ったらその後、まっとうな大人として更生し社会へ戻ってくる。もう絶対悪戯しない。落ちついた大人になる一つの通過儀礼でもあるのだ。
それって、兵役か??
エジ親友「オメーも、外国暮らしは大変だろうけど、俺も大変だったぞ。ガッハッハッ…。」あまりお金持ちとは言えない彼が、外国暮らし???
僕「え、君も行ってたの??どこへ??」
エジ親友「ぼすにーやー!!ガッハッハー…!!」
僕「ボスニーヤーって、ボスニアヘルツェゴビナの事か!?!?」
エジ親友「あーー、そうだ。3年ちょっといたぞ。オメーより長いぞ!!兵役の軍隊でねー、ガーハッハー…」
僕「それは、あのボスニア紛争の事だろうが!!」
エジ親友「オーー、オメーよく知ってんなー、そうだそれだ。知ってっか、エジ軍はなー安いんだー。俺達は盆地の下の方にいて、東の山の方にはフランスとかイギリス軍が居てなー、西の方とか北の方とかには、ほらなんっつったっけ…忘れたけど、ボスニアとか、クロなんとか軍が居るんだ。でな、皆ぶっ放してるから、俺達は一番見えやすい所に駐屯してて、けっこうアブネーんだ。ガッハッハッハー!!何人か死んだかなー!?」
僕「それ、危な過ぎ。って言うかマジ戦争じゃん…兵役ちゃうやん…!!」
エジ親友「ご飯いっぱい食べたー、ガッハッハッハー!!」
僕「笑い事かー!!(っつうか、笑えねーよ…)」
ボスニア紛争といえば、ちょうど大学時代。日本に居ると、いくらテレビで出てきても、大学教授が講義室で盛んに訴えていても、「大変だー、大変なのは分かるけど、どっか遠くの事だなー…まあ、国際的な影響はあるだろうけど…。昼飯のAランチ売り切れになる前に、早く食堂行かなくっちゃ!!」てな具合だった。
でも実際に目の前で、国際部隊として派兵され、戦火を潜り抜けてきた友人が語る。
あの頃は他人事だった。戦争はセンスのない昔の人達の遺産だと思っていた。
屈託なく笑う彼の姿だからこそ、3年前にこの話しを聞き脳天をぶち抜かれた。生きる為には、色んな避けられない事を抱えて生きなければならない人間もいる。そこには綺麗事も詭弁もクソもない。事実だけだ。
除隊後、彼は軍隊卒というほんの少しのコネで、僕の学校の用務員として働き出した。妻はルクソールに置いての単身赴任。去年から給料の少しいいバスの運転手として別の会社へ移ってしまったが。
笑顔の絶えない彼に、良き友人としての記憶だけが残っている(マンゴーの木に攀じ登って、{マンゴーアレルギーの}僕に熟れた実を投げつけた想い出以外は…)。
歴史の傷跡
アレキ在住のヨーロッパ人には本当にお世話になってきた。ほとんどが短期滞在者だったけど、中には永住している者も少なくない。だけど、理由もなく自分の国を離れて永住したい人間がどれほどいるというのか。否、理由はあるのである。以前関わりのあったギリシャ人達。彼らは独自のコミュニティースペースや学校、病院、スポーツクラブ、酒場…など、生活に関わるあらゆる資本を抱えているようだ。そして、そのコミュニティーの中を中心に生活している。ほとんどがお金持ちで、英語、ギリシャ語、アラビア語を完璧に操り、更にもう一言語以上は流暢に使いこなす。
彼らと共通の友人であるイギリス人にこっそりと、そんな彼らについて聞いてみた。
イギ人「彼らはユダヤ人だ。知ってるだろ、昔何があったか…?」
僕「(まあ有名なとこで思いつくと)ナチスからの迫害とか…!?」
イギ人「そうだ!!いいか、彼らのオヤジさんや、おじいさんの時代だ。ちょうど、第一次、第二次大戦中、ヨーロッパでの迫害から逃れてきた連中が辿り着いた最南端が、ここエジプトのアレキって訳だ。昔はスエズにもいっぱい居たらしいが、スエズ動乱(第4次中東戦争)で反外国人運動が起きてからは、ほとんどがアレキに来て生活するようになったって話しだぜ。」
僕「じゃー彼ら(同世代の友人達)は、ここで生まれてここで育っているって事?」
イギ人「そう、そういう事になる。(ユダヤ人である)彼らに、ある程度の上流階級としての生活以外はありえない。お金持ちである事でしか、ここでは生きていけないんだ。だから当然民族同士で固まりもすれば、語学が達者だったりするわけで…あまりデカイ声では言えないぞ、これ。」
反イスラエル感情が根強いイスラーム世界にあって、彼らのようなマイノリティーは、強くなければ生きていけないのだ。
ナチス、ホロコースト、どれも耳にいっぱいタコができるくらい見聞きしてきた話し。でも、実際そのような歴史に翻弄され、生きぬいてきた人達も身近には存在する。彼らには罪はないし、悲壮感もない。ただ、例えどんな不条理があったとしても、それに負けないだけの結束と、したたかさがあるように感じられた。
さて…。
イラクの戦争も始まってしまった。それについて自分の解釈や、こちらでの状況など、細かい事に触れるつもりはない。
ここ数年、幸運にも色んな国の人と出会う機会があった。欧米人だけではなく、その中には、良い教育を自国に普及させる為に欧米へ留学するクルド人も、タリバンに大学機能を潰され中退せざる得なく、また勉強を再開する為に出稼ぎに出てきたアフガン人も、イラクの人もパレスチナの人もいた。難民だったり、生活の糧を得る為だったりもする。
僕は、あえて政治的な問題や、紛争について知ろうとし、議論を吹っかけ、彼らは一生懸命にそれを伝えようとした。「本当のところ」は何が起きていて、どうしたらいいのかを。
イスタンブールの昼日中、泣かれた事もあった。
ささやかな幸福を願う気持ちと、自分の国、家族を愛する気持ちに、彼らと僕の間に何の違いもないという事は確実に言える、当たり前だけど。きっと、世の中のほとんどの人々がそうであろう。
もはや、戦争や紛争はテレビのブラウン管の中だけの絵空事ではない。
戦争に正義もクソもありゃしない。
物事は、もっと至極単純であるはずなのだ。
そして、一番の罪悪は、無知と無関心であるとさえ思う。
戦後50年を上手い具合に歩いてきた日本が、これから50年、同じように歩む事は至難の技である。
今世界中で、イラクをどう復興するかという話しがどんどん出始めている。
でも僕は思う。
人間の「命」と「心」は、復興なんてできない。
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