聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

1999.07.01-15

>07.16-31
<06.16-30
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★は借りた新着、☆は新規購入。


7/1 ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』
ここのところこればっかである。息子などはT-1「素敵じゃないか」にはまりまくり、単品リピート指定を乱発。おおい、おとうさんはこの続きが聴きたいんだよお、などと言おうものなら逆ギレされるのである。おおコワ。父親虐待。

しかし子供ってのは、2拍子系の3連(シャッフル)ノリが好きなんだろうか。彼が気に入る曲はほとんどがこの系統である。「いっち、にい、いっち、にい」というリズムに合うせいだろうか。そう思うと、「このおうた、すきになっちゃったの」とか言われても最近はもはや感動などしなくなり、「それは『このリズムが好きになった』の間違いじゃないのか、おい」と突っ込みたい気持ち120%の私である。

7/3 『インナー・シティ・ブルース〜マーヴィン・ゲイ・トリビュート』(1995)
輸入盤なので邦題勝手に作ったが、マーヴィンのカヴァー集である(が、うち2曲ほどはオリジナル)。中ではスピーチが「ホワッツ・ゴーイング・オン」のサンプルを巧みに織り込んだ「ライク・マーヴィン・ゲイ・セッド」がヒットしたが、本当の聴き所は実はスティーヴィー・ワンダーではないかという気がする。何故にスティーヴィーが演奏すると、他人の曲が彼の作品かのごとくに仕上がってしまうのか。逆もまた真というか、スティーヴィーの書いた曲って、誰が演ってもスティーヴィーに聞こえるのも不思議。とにかくこの1トラックが他からまるまる浮いている。他のトラックもどれも極上の出来なんだけど(マドンナ+マッシヴ・アタックとか良いし)、完全に食われちゃってる。

7/9 夜、メールの返事を書いているとたびたびフリーズ。仕方なく時間をかけてノートンなど動かしていたら、しまいにはHDD自体が読めなくなってしまった。おいおい。ちょっと虫が良過ぎやしないか、丁度保証期間の丸1年が過ぎた直後ってのはさあ…。

しかし、パソコンのない生活は静かである。のべつCPUの冷却ファンがうう〜んと唸ってることなんてないし、ダンシング・ベイビーのスクリーンセーバーがひょこひょこしてることもない。それに健康でもある。息子を寝かしつけたあと(これが夜11時だったりするのでたまらんのだが)起き出して夜更かし、なんてこともない。

パソコンやめよかな。と一瞬マジで思ったが、それでは単なる隠居だ。ただただ流される身になどなってたまるものですかい。どすこい。というわけで、修理することに決定。ただ、HDDの障害ってことで切り分けは済んでいるので、自力でやってみるべく情報収集開始。

大工哲弘『誇(ふくい)〜八重山の祝いの歌』(1997)
沖縄を代表するの島唄の歌い手(うたっしゃー)の一人である彼の、祝い唄に絞った選曲の1枚。以前は、この張り詰めた生真面目な唄いっぷりが今一つ祝い唄に馴染まない気がしていたが(個人的には、重鎮・嘉手苅林昌のひょうひょうとした唄が合うように思っていた)、今聴くとこれはまた独特の味わいの良さ。考えてみると、やや無骨なくらい生真面目に祝われるっていうのは、どこかくすぐったいものだ。

7/10 都内某所で(って言うとなんか隠密行動みたいだが)、一時帰国中のあるのとセッションの下打ち合わせ。というより、情報交換会みたいになって、買いたて含めCD数枚を借り込む。図書館分と合わせてええっと何枚だ? これは暫く退屈しないぞ。

7/12 熱帯ジャズ楽団『III〜My Favorite』(1999)★
元オルケスタ・デ・ラ・ルスのカルロス菅野が主催する強力なラテン・ジャズ・ビッグバンド。名前は聞いていたが、音はさすがにデ・ラ・ルスを彷彿とさせるサルサ乗りで、それが時々ジャズに化けて突っ走る。最近こういうのは積極的には聴かないので、評価は差し控えるが、上手いことは保証。徹底したショーマンシップとでも言うべき。ホーンが3本ずつ組みになって、16連のパッセージを伴奏なしでやりとりし続ける、なんていう、サーカスで言えば空中ブランコのような離れ業も聴かせる。個人的には「マイ・フェイヴァリット・シングス」がベストトラック。

『アントニオ・カルロス・ジョビン・ソングブック』
ヴァーヴの音源のコンピレーション。なのでほとんどジャズメンによるカヴァーで、演奏ももろジャズ。こういうのって個人的には今ひとつなんだなあ。インプロヴァイズするのがジャズの命脈なのは仕方ないんだろうが、ジョビンのメロディというのはもっとデリケートなもので、最低でもテーマの1回目だけは遊ばないでほしいと思うのだ。悪い言い方をすれば、ジャズの人たちにはボサノヴァへの敬意ってあるんだろうか、と思ってしまう。

7/13 『行 Gyo 〜Sutra meets Samba』(1999)★
法華経とサンバのリズム隊の他流試合。帯には「静と動」などと書いてあるが、別に自分にはそうとも思えず、驚きもせず普通に聴けた。お経が「静」と言うけれど、そんなことないでしょ。木魚や鈴(りん)はもちろんのこと、真宗の法会にでも行けば、銅鑼やら鈴のジャラジャラついた棒やらを盛大に鳴らしながら読経をするのだ。それは、勘違い承知で言えば、インド〜中央アジアでの往時の仏教行事はかくもありなん、と思わせる光景だ。読経がサンバのリズム隊と何となくシックリ行ってしまうのも、自然と言えば自然な成り行きなのである。

しかしこれ、まあ所謂「ヒーリング系」のCDとして売られているんだけれど、プロデュースが何とあの小野リサのお父さん。録った場所も彼の店「サッシ・ペレレ」。うーむ。そういう趣味があったとは知らなんだ。

7/14 ケミカル・ブラザーズ『さらばダスト惑星』(1995)★
彼らの名声をとどろかしめた1st。「ヒップホップとテクノの融合」とかいう枕詞は、今振り返るとヒップホップにやや失礼か。方法論的にはそうかも知れないが、聴いた感じはヒップホップ的なサンプルやループの「演奏」といった感触はあまりなくて、緻密に作り込んだ印象のほうが前面に出ている。2ndの『ディグ・ユア・オウン・ホール』よりこっちの方がよかった、という話も聞いたので借りたが、本当にそう? むしろ2ndに見られる一種の割り切り方のほうが、自分的にはピンと来るけどなあ。彼らの場合、あまりリリカルなものをやっても本領は発揮できていない気がする。ラストトラックのように思いっ切りハレーションしてるのが個人的には好きなんだが。

7/15 飲み会の帰りに 小野リサ『ドリーム』(1999)★ を起動。うー、これ、ずるい。ずるいよー、オスカール・カストロ=ネヴィスがプロデュースなんて(注:この人は、トゥーツ・シールマンスの『ブラジル・プロジェクト』などを手掛けている)。それはともかく、最良にしてアップトゥデイトなボサノヴァ。そもそも、ジャズ・スタンダード曲のボサノヴァ版というのがあまり好きではない私ではあるが、また、小野リサ自身の「日本のマーケット向けにポルトガル語で唄う日本人ボサノヴァ歌手」というポジションに今一つ納得していなかった私ではあるが、しかしこれには脱帽。そう、初期2枚ほど小野リサを聴いたのは、やはりその声の個性ゆえなのだ(そして、その頃のサウンドの方向性とか、マーケティングに関しては今でも違和感を覚えるわけだが)。カストロ=ネヴィスのサポートを得てその声の資質は最大限に引き出されていると言っていい。あえて高音を強調して、なおかつリミッタぎりぎりのレベルで行ったと思われるマスタリングも、ヴォーカル/コーラスのザラつきやパーカッションのインパクトを強調していて絶妙。これ、こんなにいいんだから世界中で売りなさい>東芝EMI!

ちょっと補足しておく。ジャズ・スタンダード曲をボサノヴァでカヴァーするというのは、何も今に始まったのではなく、往時のボサノヴァのリアルタイマーたちも盛んに行っていたのではある。それでなくても、ジョビンの和製感覚の中にはジャズに由来する部分が多くあるのは一聴して明白であるなど、いわば「ボサノヴァはジャズに恋していた」という一面は否定しようがない。だが同時に、説明するまでもなく「ジャズはボサノヴァに恋をしていた」のであり、しかしこの恋の果実というのがどうしようもなく一方的な勘違いに満ちていて---そしてそれが少なくとも世界的には成功してしまったこともあって---、何ともやり切れないのだ。『ゲッツ/ジルベルト』はまだいい。おそらくはジョビンの差配によって危ういバランスを成り立たせている。だがゲッツの『ジャズ・サンバ』の我田引水ぶりはどうだろう。スウィングするヘンなサンバ。コード進行をメタメタに(それもラクなほうに!)変えられた「デザフィナード」。セッションのときにジョアン・ジルベルトが怒って通訳代わりのジョビンに「このグリンゴ(=めりけん)に、おまえはサンバが解ってないって言ってくれ」と頼んだ、というのもむべなるかなである。

そんな経緯のせいで、ブラジルの外からボサノヴァにアプローチするプロジェクトに対しては異様に慎重な私だったのだが、今回の小野リサの場合、何のことはない、半分カリオカのボサノヴァ育ちが、ボサノヴァの生き字引とタッグを組んで、ジャズ・スタンダードを食い尽くしてしまったという話である。このしたたかさ。ボサノヴァは常に現在形で不滅である。



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