国内の連続ドラマはここ数年ほとんど見ていない。録画してまで必死に追いかけたのは多分、のだめのドラマ版が最後だと思う。
ただ、ドラマというメディア自体から離れていたというわけではなくて、とりあえず録画してぼーっと見ていたドラマは(ここには書いてないけど)、いくつかある。それのどれもが韓流や華流だったりする。
とはいえ、私はメディアでよく取り上げられるような「韓流ファン」ではない、と思う。韓流スターと呼ばれる役者さんたちの顔や名前の区別が全くついていないので(ごめんなさい…)。というか、韓国の方って苗字のバリエィションがすごく少なくないですか!? みんな名前が似てるような……。そういうお国柄なんだろうか……。
あ、以前もちょっと書きましたが、母はかなり強烈な「韓流ファン」 です。BS・地上波で放送されているドラマは全て1度は録画し、見てみて、つまんなければ切る、という、アニヲタがアニメ見るのと同じことを韓流でやっているような人です。
ドラマ自体は、見ている総本数は下降線の一途です。特に韓流/華流だけ選んで見ているつもりはないんですが、国内ドラマが減っているので、相対的に韓流/華流の占める割合が高くなってる、ってだけですね。
最近、何度目かは判らないけど嫌韓ブームが来ているのかなぁ、と思います。少なくともネット上では。ただ、コンテンツとしての韓流ドラマが槍玉に挙げられるたび微妙な違和感を感じるのです。
どう表現していいのか判らないんですけど、とりあえず思うことを五月雨式に書いてみようかなと。
・その1 国内ドラマと(韓流含む)海外ドラマが同じ俎上で比較されちゃうのは違うような気がする。
……というのも、日本人にとって、国内ドラマは制作・放送されている全てのドラマを見ることが出来る訳だけど、海外ドラマは、バイヤーが選んで買い付けて来たものしか見ていないから。
当たり前だけど、バイヤーが海外から選択して来る時には、日本国内で放送・販売して商売になりうるものを厳選して買って来てるわけで。本国である程度人気が出たとか話題になったとかでないとそもそもバイヤーの目にも留まりようがないわけで。必然的に、当たったものコケたもの両方を玉石混合で見ている国内ドラマより、厳選されている海外ドラマの方が「いい」と思える層が出て来てしまうのは至極当然の結論のような気がするわけで。
日本の国内ドラマは、環境として既に不利な立場に置かれ続けているのになぁ、と同情を感じることもあります。……ありますけれども。
・その2 コンテンツ化するドラマ、物語としてのドラマ
韓流のドラマ制作環境も結構影響している気がするのです。向こうにはシーズン概念がないから、話数・長さがフリーダムなので、その分、監督や脚本家といった「作家」たちが、描きたいことを描きたい分だけ描きたいように描ける、という側面があるような気がします。
日本は番組改変期という断層で時間的に区切られてしまっているので、物語を物語るよりも先に、時間をきっちりその分だけ埋める、ということに必然性を求められる。物語の、創り手にとってはひどくめんどくさい制約だと思う。
私も趣味で話を書いてる人間ですが、何ページで、とか、何文字で、とか、原稿用紙何枚で、とか指定されるのはメチャクチャうっとおしいです。物語ってそんな、ワクが最初にあってソコに嵌るように都合よく動いてなんてくれるわけないじゃないですか! と思っちゃうのです。後、好評だから続編とか言われんのも微妙に嫌です。私は割と、物語のプロットをトップダウンで作っちゃう方で、こう始まってこう終わる、みたいなものすごいデッカイ大枠を最初に定義してから細部を詰めます。一度終わった物語を「蒸し返す」のは超苦手。
国内ドラマはその「環境」が悪さしている感じがどうしてもします。無理や引き伸ばされたり。トラブルや災害やスポンサーの意志で当初予定していた話を勝手に縮められたり。好評だからと言って、一度キレイに終わったはずの物語に蛇足のようなスペシャルを追加して評判落としたり、結末は映画で、と宣伝してあからさまな「お金儲け」を曝け出したり。物語を創るという純粋な創作意思以外の余計なことに振り回され過ぎている感じ。
あ、あと、欧米系海外ドラマのクリフハンガーも同じ理由でちょっと微妙。ひどく醜い延命措置というか、物語の都合以外の思惑で物語が捻じ曲げられている感じがちょっと気持ち悪く思うことがある。
で、アジア系海外ドラマは、もちろんごく一部の実力派に限ってのことなんでしょうけど、そういう「外野の余計な意思」の匂いがほとんどしない作品がポンと出て来る。17回とか何その中途半端、と日本なら思うけど、創り手が、この物語を語るにはこのくらい、と思って創る17話なわけで、日本だったら13話に縮めるか26話に伸ばすようプロデューサー命令が下るんだろうなって「創り手」として想像してしまうとゾッとするわけですよ…。
ただ、韓流/華流の監督たちの「ちょうどいい長さ」は、私個人としては長過ぎると感じてはいます。時間がないから、よりも、映像として追うにはかったるくて、早回し再生で流し見ることもよくある。たいてい字幕だから話にはフツーについて行けます。
・その3 どうして日本のテレビ局は「過去の資産」を使わないのかなあ
これはかなり前から考えていたことなのですが。
その制作手法からしても、国内ドラマの作り手さんたちは、1つのシーズンで物語が「使い捨てられる」ことにもう慣れちゃってて、あんまり疑問に感じていないのかも知れない。けど、そんな風に「使い捨てられた」ドラマたちの中には、時代性だったり、脚本家の感性だったりで、当時の時代ではそんなに「結果」は出せなくても、今作ればまた違うんじゃないか? と思い出したりすることがあります。特にミステリー系は、時代が変わると調査方法や扱う証拠物の種類なんかもいろいろ変化があるわけで、設定持って来て現代バージョン作ったりするのはアリなんじゃないか、と思うのです。
ただでさえコミックや小説から原作を持って来ているドラマが多くて、しかも原作からするとちょっとアレ過ぎる「アレンジ」をされることも往々にしてあるわけで。だったら最初から、自分たちがいわば「権利者」である過去ドラマを「原作」にしても構わないんじゃないかと。
最近はソーシャルメディアがあっていろいろ視聴者同士が「実況」しちゃったりしてますが、過去のドラマの放送当時はそういうメディアはありませんでした。で、中には、そういう「一億総実況中継」の時代の方が生かせるタイプのコンテンツもあるんじないかと思ったり。そして何より、決して大人気ドラマではなかったとしたって、当時は今に比べて娯楽が少なかった時代だし、アラサー・アラフォー辺りは、どんなマイナードラマ持ち出されても「懐かし補正」がかかると思うわけです(笑)。0から提示された新しい作品よりもある程度の優位に立てるんじゃないかと。視聴者の側も、ちょーどソーシャルメディアユーザーとして一番厚い層だし、当時は同じドラマが好きでもリアルタイムに語り合う手段がなかったことを考えると……ね。結構、いい「素材」なんじゃないかと。
……と思っているのはあくまで素人考えなのかも知れません。でも、何がコレを阻害しているんだろうと。いわば「原作者」であるはずのテレビ局が、どうしてその「原作」を使おうとしないのかなと。少なくとも、外から原作持って来てそれぶち壊しにしてまで時間埋めなきゃならないなら、自分たちの作って来た資産だって、原作として同じ土俵に乗せられてもいいんじゃないか、と思うのですけれどねえ。
固定リンク / 2011.10.8 / [コメントはこちらから]