ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

ダグラス・ハーディング(1909〜2007)

ダグラス・ハーディングへのインタヴュー1983年

ダグラス・ハーディングへのインタヴュー1997年

ダグラス・ハーディングへのインタヴュー2000年

「ダグラスへ」by キャサリン・ハーディング

ダグラス・ハーディングへのインタヴュ−1997年

Headless Way(頭がない方法)のメーリング・リスト、討論仲間がリチャード・ラングに、インタヴューでダグラス・ハーディングにいつくかの質問を尋ねるように頼みました。それらの質問は、私たちの本当の姿における個人について、祈りについて、意志を明渡すこと、そして、感情と愛についてでした。

質問:「私とは何かの探求と発見は、心理的にあなたにとって何か意味のあることですか? そして、それは見ること、自分の本当の姿を見ることにどのように合いますか? 私が自分の本当の姿を忘れないかぎり、個人を発展させることは重要ですか?」

DH:「私とは何か?」という表現には、二つの意味があるように、私には思えます。一つは、私の本質における中心的私とは何かということであり、もう一つは、人としての私が何か――つまり、私がどんな人であるか、私の気質はどんなものか、私にふさわしい職業は何か、などというものです。もし私が自分の本当の姿を無視して、ダグラスだけに向かえば、ダグラスとは何かに関してもまったく無知なままだと、私には思えるのです。私は、ダグラスを私から隠してしまうあらゆる種類のゲーム、幻想、社会的条件づけに陥りがちです。

でも、私たちが自分の本当の姿を見るとき、その副産物の一つは、私たちが人間としてもっと真正で、もっと自然で、もっと自分自身になるということだと思います。私は非常に明確にこのことを見て、これを評価している友人たちの中に、彼らが人間的につまらない人になるのではなく、ますますおもしろい人たちになっていくことに気づきます。私の経験からいえば、真に人間であり、この世界で真に個人であり、人として真正な人間であるために、あなたができる一番よいことは自分の本当の姿を見ることです。もしあなたがその人間という物体のために自分の本当の姿を無視すれば、その人間という物体も苦しむことになります。

RL人間的レベルで、自分は何か、自分は何でないかを発見することは重要だということに賛成されますか?

DH:はい。でも、それを直接やることはそれほど簡単ではないでしょう。人間として自分は何かを発見することは大切だと思いますが、でも分離した試みとしてそれをやることは簡単ではないだろうと思います。それは自分の本当の姿の副産物の一つです。私が自分とは本当に何かを知るまでは、ダグラスがダグラスとして何なのか知ることはありません。私の中心的関心がその人間ではないかぎり、もっと自分自身に対する貴重な洞察を得て、もっと私は真正な人間になると思います。

RLあなたはそれがどのようにうまくいくと理解していますか? なぜそうなのでしょうか?

DH:私は自分がある種のバカだと思っています! 私の秘密は、私にはすべての質問に対するたった一つの答えしかもっていないということです。つまり、誰がその質問をしているのか? を見るということです! ですからそれは実に答えるのが簡単なことなのです。人としてのダグラスのために最善のことを私がするためには、彼をもっと真正な人間にするためには、もっと世の中で役に立つ人間にするためには、もっと人間に、もっと個人にするためには、さて、そのことをめざさないことなのですよ。

もしあなたがそれをめざせば、あなたはゲームをすることになります。でももし自分の本当の姿を見ることをめざせば、そのことがあなたの人間性の面倒も見てくれることでしょう。そして、それはただ、ダグラス・ハーディングにだけ当てはまることではありません。私はそれを私の友人たち、自分の本当の姿を見ることに価値を置いている友人たちの中にも気づきました。彼らは非常に違っています。このことは、彼らを何らかの霊的理想のクローンや複製品にしたりはしませんでした。彼らはまったく個人のままですし、事実、もっと個人です。

RLあなたが言っていることは、自分の個人性は、もしそれをじゃましなければ、自然に出てくるということですか?

DH:はい、私が言っていることはそういうことです。そして、それが本当に出てくることは重要なことですが、でもそれを分離した試みとしてめざすのではありません。あなたが自分の本当の姿を見るとき、人々のところへどのように行くかにかなり興味を失います。あなたは自分が人々に印象を与えているのかどうか、自分の人格が適切かどうかというたえずつきまとう不安から解放されます。心配しないで自分の本質に興味をもつとき、人間としての人格もずっとよくなると私は本当に思っています。

実際、人間として自分は誰なのかを発見することは重要だと思います。問題は、どうやってそれをやるのか? ということです。私が思うに、自分の本当の姿を知らなくて、直接人間性を調べても、あまり実りあることにはならないでしょう。

RLでも、たとえば、あなたは自分が著作家であることを知っていますね。

DH:でも、それは私が思うに、非常に表面的なことではありませんか?

RLでも、それがその質問のレベルです。

DH:さて、私は自分が何であるか見、そして、自分がそれについて書いていることに気づきます。でも書くことは、その見ることから進行してきます。

質問:「私は、ダグラスはなぜめったに祈りの話題にふれないのだろうか? と思います。そのことは私を当惑させます。なぜなら、祈りの話題は宗教では非常によくあることで、おそらく普遍的なものだからです。なぜあなたは祈りについてめったに話したり、書いたりしないのですか?」

DH:さて、私たちは2種類の祈りを区別しなければなりません。一つは、私の腹痛がよくなりますように、天気がよくなりますように、誰かが私にいやなことをすることをやめますようにといった嘆願的な種類の祈りです。こういった種類の祈りは、私には興味がありませんし、それは効果的だとも思いません。まあ、一部の人たちには向いているのかもしれませんが。それは、この魔術をあなたのために働かせてくれる、向こうの何らかの神意をもしあなたが信じれば、ある種の魔術として働くかもしれません。でも、それは私向きではありません。

もう一つの種類の祈りは、非常に異なるものですが、次のようなものです。たとえば私が、自分が非常に愛している誰かの健康や自分の健康、あるいは自分が仕事をする能力を願うとします。それは本当に非常にふさわしい要求ではあるのですが、必ず「御心(神の意志)が為されますように」を付け加えることです。私はこれが好ましいと思っています。つまり、自分の意志ではなく、御心がなされますように、ということです。すると、問題は、誰が誰に祈っているのかということですが、もちろん、究極の絶対的意味においては、あなたの本質があなたの本質と会話をしているのです。それはあなたの本当の姿の内部で進行しているようなもので、それは重要であるばかりでなく、欠くことができないものです。私が病院に入院して痛みの中にいたとき、それは私には非常にイヤな痛みだったのですが、この種類の祈りを多くしたと思います。

RLどうしてあなたは祈りについてめったに話したり、書いたりしないのですか?

DH:私がめったにそれについて書かないのは、祈りは私の心に浮かぶことではないからだと思います。事実、私はそれを祈りとは呼ばないでしょう。祈りには、お願いするというすべての他の意味が含まれていますが、人はそれをしているのではないのです。人は、本当はお願いしているのではないのです。人は、明らかにもっと苦痛が少なく、もっと喜びが多いことを望み、自分の親しい人たちの健康と精神状態がよくなることを望むことだと思います。そういった種類の望みは、ある種の祈りだと思いますが、でも、それは本当の種類の祈りでなければならないのです。

私は本当の祈りを求めます。それについて書くのではなく、求めますが、それは、それにもかかわらず、「御心がなされますように」です。Head Off Stress(頭からストレスをとる)の本の中で、私は意志の三つの深さを区別しています。最初のものは、表面的なもので、それは、私が望むものです。二番目のものは、私が本当に望むもので、それは、私が望んでいると思っているものとまったく違うかもしれず、私の行動は、私が望んでいると思うことが間違っていることを示すかもしれません。ということで、あなたは表面的意志と、そして、自分が望んでいることとは反対であるかもしれないより深い心理的意志をもっています。さらに、あなたは最も深い意志をもっていて、それはあなたの本当の姿の意志です。ここでのそのスローガンは、「御心がなされますように」です。

質問:「あなたは最近、以前よりも、感情とハートに重要性を置いています。ただ見ることから、感情をともなって見ることへの変化を引き起こした何かがあるのですか? 非常に多くの人たちが見ることに役だった伝統的方法のように、他の人たちが見て感じることを助ける明白な練習がありますか? もしないとしたら、どうしたら、これらを開発することができるでしょうか?」

DH:私は、人は見ることと感じることは注意深く区別しなければならないと思います。純粋に見ることの要点は、あなたはそれを欲しいときに得ることができるということだと思います。あなたは自分の気分がどんなであれ、自分がどれほどひどい感情、あるいはよい感情を感じているときでも、自分の本当の本当の姿を常に見ることができます。でもこのことは感情にはあてはまりません。私は感情に命令することはできず、「自分はこれからこの感情を感じる」と、私は言うことはできません。もしあなたがそれをすれば、成功するように見えますが、その感情は純粋ではなく、それは自己欺瞞です。私が思うに、感情は瞬間的に起こるか、それとも何もないものです。もしそれが自分に自然に来ないのであれば、もしそれが人工的なものであれば、それは価値のないものです。

愛などの感情を育成する目的の練習についてもそうです。私は、仏教徒たちがそういう練習をすることを知っていますが。彼らは愛の感情をあらゆる方向に送り出し、宇宙を通じて愛の波動を放射します。私はそれを批判はしませんが、私の方法ではありません。そのことには、すべてのことを弱めてしまう人工的要素があるように思えますが、もし彼らにそれをすることができれば、彼らに幸運を祈ります。でも、私の方法ではありません。

ハートのやさしさを育成する練習について。私たちにできることは、人が子供から、10代になり、そして大人になるときに、重心がハートと腹から、頭に移ることに気づくことだと思います。私たちは強情で落ちつきがなくなり、思考、知性、知識などの中に中心を置くようになり、ハートと感情とのふれあいを失ってしまいます。私たちが自分の本当の姿を見て頭を失うとき、重心は下がります。私が思うに、私たちにできることはこのことが実際に起きることを観察し、それが起こることをゆるし、重心が下がっていくことに注意を払うことです。

感情という問題で役立つ一つの実験があります。自分の腕を目の前に突き出し、その二本の腕の間に見るものに注意を払ってください。これはトンネルのヴィジョンです。特に、あなたが鏡の中のやつを見ているときや自分の何らかの問題を眺めているときなど、極端に狭く、利己的なときは、そうです。私たちはここでの自分の幸福にだけ関心があり、世界が自分の人間的条件づけである、関心の中心的対象に影響を与えるとき以外、世界には関心がありません。

自分の目の前をまっすぐ見続け、腕がほとんど消えてしまうまで自分の腕の角度とヴィジョンを広げてください。自分の指を動かして、それらがどこまで行くことができるか、そして、まだ目に見えるか確かめることができます。これをやっている他の友人たちを見てください。彼らはただ部屋の一部分を抱きしめているだけです。でも、第一人称としての自分を見てください。あなたは自分の手に全世界をもっています。現在の証拠にもとづいて、まっすぐ前を見ると、私の左手と私の右手は、東洋と西洋が離れているくらい遠く離れていると、私には見えます。私は世界を抱きしめています。これは私がワークショップでやる練習の一つで、この感情の分野で役立つと考えています。それは特に感情を目的とした練習で、私が唯一思いつくものです。でも、重心が実際下がることを観察し、それをゆるし、それを理解し、その考えに慣れることも役に立ちます。

もう一つのことはこういうことです。ただ見つづけ、けっして感情にかまわないことです。私は今、自分があなたのために消えているのを見ます。私はこのことが起こるのを見ます。でもそれは感情も含んでいるのです。なぜなら、私はあなたのためにこわされて広く開かているからです。ですから、見ることと感じることは深くお互いに関連し合っているのです。でも感情のためだけの特別な練習は、つまり、何らかの代用のものを作りあげることは、お勧めできないと私は思いますし、本当には説得力がありません。

あなたは、自分は誰かを見るだけでなく、(見ることが維持され、自分が本当に故郷にいて、自分の不在、自分の明晰さ、自分の開放性に気づいているために)その状態に留まっていて、なお世界に対して閉じたハートをもつことは可能であると思うかもしれません。でも私は、もし人がここ故郷になんとか留まっているとしたら、ハートは開くものだと本当に思っています。おそらく、やさしくないことで知られている友人たち――私自身もその特別な段階を通過しましたが――は、ただあわただしい訪問に満足しているのです。彼らは故郷に永住してはいないのです。もし彼らが故郷に永住すれば、私が思うに、彼らのハートは太陽の中で咲く花のように開くことでしょう。