◆◆◆◆ 藤 井 寺 駅 ◆◆◆◆ | ||||||||||||||
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藤井寺市の中心駅 藤井寺駅は近畿日本鉄道・南大阪線にある駅で、藤井寺市の玄関口とも言える市内の中心駅です。南大阪線は大阪市の大阪阿部野橋駅が 始発地で、奈良県橿原市の橿原神宮前駅を終点とする路線です。さらに、橿原神宮前駅からは吉野線に接続していて、桜で有名な吉野山の 吉野駅までつながっています。大阪阿部野橋−吉野間には直通列車が運転されています。また、橿原神宮前駅からは奈良線・京都線に接続 する橿原線が北へ向けて出ており、途中の大和八木駅では大阪線にも接続しています。一方、古市駅から分岐する長野線は河内長野駅に至 る路線で、ここでは南海電気鉄道・高野線に接続しています。藤井寺駅からは、吉野山・高野山というその名も高き2つの山岳信仰の聖地 に行くことができます。 ![]() 下の写真@Aは藤井寺駅南口の駅前の様子です。駅前は府道190号・西藤井寺線が通っており、駅前を起点・終点とする近鉄路線バスの 乗降場が府道の両側にあります。また、写真Aのように、南口西側昇降口の前はタクシー乗り場になっています。写真にある交差点は「藤 井寺駅西交差点」と言い、市内で2ヵ所しかないスクランブル交差点の1つです。近くにある高校の生徒や職員の利用も多い交差点です。 |
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@ 藤井寺駅南口の様子(南東より) 2018(平成30)年10月 駅前は近鉄バス乗り場、タクシー乗り場になっている。 |
A 藤井寺駅南口の様子(南西より) 2018(平成30)年2月 藤井寺駅西交差点は市内2ヵ所だけのスクランブル交差点の1つ。 |
駅舎は橋上駅の構造で南口と北口があり、それぞれに東西2ヵ所の昇降階段があります。旧駅舎の時代は線路の南北両側に駅舎があり、 両方の入口が線路下の地下通路でつながっていました。南大阪線の主要駅である古市駅(羽曳野市)もかつては駅舎が東西にあり、上下線の ホームは構内踏切を通って移動していました。藤井寺・古市・河内松原の3駅とも駅周辺の再開発に合わせて改築されましたが、いずれも 橋上式駅舎の構造で造られました。改築の早かった藤井寺駅や古市駅は、後からエレベーターの増設工事をすることになりましたが、橋上 駅舎だったので改造工事が比較的しやすかったと思われます。地下通路構造の場合は工事にかなり手間が掛かったことでしょう。 藤井寺駅の駅舎南側階下には、歩道に沿って飲食や菓子類などの店舗が数軒並んでいます。また、橋上の改札内外にもコンビニなどの店 舗が営業しています。 ![]() |
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右の写真Bは北口駅前の様子です。元は上谷池(かみ たにいけ)というため池だった所(LM参照)を埋め立てて 造られた駅北広場と言う駅前ロータリーです。ロータ リーと北方300mにある府道12号・堺大和高田線をつ なぐ新設道路として、市道・藤井寺駅北線が造られま した。 最近、ロータリーや周囲の歩道が改修されてきれい になりました。また、電線の地中化が行われ、藤井寺 駅北線は市内で唯一の無電柱通りに変わりました。こ の広場には、近鉄八尾駅(八尾市)行き近鉄バスの乗降 場が設けられています。 ![]() |
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B 藤井寺駅前北口の様子(南西より) 2016(平成28)年11月 合成パノラマ 写真右端フェンスの突き当たりが駅入口の階段。最近駅前歩道やロータリー、市道の改修が 行われ、市内唯一の無電柱通りとなった。 |
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乗降客の多い駅−南大阪線で2番目 藤井寺駅は南大阪線の途中駅で、停車するのは普通・準急列車だけですが、この路線では分岐駅の古市と並ぶ主要駅です。藤井寺駅の1 日の乗降客数は南大阪線では大阪阿部野橋駅に次いで2番目です。ターミナル駅で別格の大阪阿部野橋駅(近鉄全駅で最多)を除けば、藤井 寺駅が南大阪線で最も乗降客数の多い駅なのです。近畿日本鉄道サイトの「駅別乗降人員〈平成30年11月13日(火)調査〉」から南大阪線の 上位7駅(1万人/日以上)を紹介しておきます。@大阪阿部野橋 162,589人 A藤井寺 35,802人 B河内松原 29,976人 C古市 20,937人 D橿原神宮前 17,815人 E河内天美 16,958人 F恵我之荘 10,677人 の順となっています。 昭和40年代からの高度経済成長期に藤井寺市が住宅都市化して人口が急増したことに加え、隣接する羽曳野市の住宅地からの利用者もた いへん多くなりました。準急電車で大阪阿部野橋駅までは13分で行くことができます。ベッドタウンとなった藤井寺市・羽曳野市の各地か ら藤井寺駅に利用客が集中していると言ってよいでしょう。羽曳野市域の住宅地を廻る路線バスの多くが藤井寺駅を発着地としています。 藤井寺市・羽曳野市の住宅都市化に加えて、藤井寺駅発着バス路線内に四天王寺大学・大阪府立大学羽曳野キャンパスという2つの大学が できたことも大きな影響を与えています。 |
島式2面4線ホーム−本線2本・待避線2本 藤井寺駅のホームは旧駅のときから、上下線とも1本ずつの島式(アイランド型)ホームで、それぞれ2線ずつ乗り場があります。これは、 藤井寺駅が準急列車の停車駅であると同時に、急行・特急列車の追い越し駅でもあるからです。また、大阪阿部野橋発普通列車のほとんど が藤井寺行きで、この駅止まりです。藤井寺以遠では準急列車が各駅停車となるので、普通列車の多くは藤井寺駅止まりなのです。折り返 しの大阪阿部野橋行き上り普通列車は藤井寺始発となります。このため、藤井寺駅には出発待ち列車用の引き上げ線が下り線の外側(北側) に設けられています。下のC図が藤井寺駅構内配線の模式図ですが、構図を見ると引き上げ線は後から増設されていることがわかります。 |
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C図で、上の北側から順に1〜4番線となってい ます。2本の島式ホームと配線は、ほぼ南北の対称 形に並んでいます。折り返し列車用の引き上げ線は 下り待避線の1番線途中から西へ分岐して設けられ ています。 駅舎は橋上駅なので、ホーム2本と4線を南北に 横断する形で設置されています。1番線の北側に北 口の昇降階段が、4番線の南側に南口の昇降階段が あり、これが駅の入口となっています。4ヵ所ある 入口のうち、北口東側入口だけは長い通路を経て藤 |
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C 藤井寺駅の構内配線の模式図 島式2面4線ホームで、南北にほぼ対称形の配置。 2本の島式ホームをまたぐ形で橋上駅があり、南北2ヵ所ずつ計4ヵ所の階段出入口がある。 下り待避線から引き上げ線が分岐している。引き上げ線は渡り線で上り本線につながっている。 |
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井寺1号踏切横につながっています。ここには、かつて旧北側駅舎がありました(写真Q)。橋上駅舎の中央部分に改札口があり、改札内で 上下線の階段に向かって左右に分かれます。改札の左側(南)に駅事務室・営業所等が配置されています。改札内右側にはトイレがあります。 下の写真Dは駅構内を東側の藤井寺1号踏切から見た様子です。中央に上下の本線が通っていて、ホームをはさんで待避線が左右に分岐 している形がよくわかります。右端に見える通路が北口東側入口につながる通路です。 |
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D 藤井寺1号踏切から見た駅構内(東より) 中央の本線から待避線が左右に分岐している様子がよく わかる。上の構造物が橋上駅舎。右端の通路は北口東側出 入口に続いている。 2015(平成27)年10月 |
E 俯瞰した藤井寺駅(北西より) 合成パノラマ 左上に見える橋上駅の全体の形状がよくわかる。写真の 左端が駅北口。写真の左側部分がBのロータリー。 2016(平成28)年11月 |
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F 本線越しに見た引き上げ線(南東より) ここから上り本線まで渡り線で斜め横断してホームに 入線する。踏切は高鷲3号踏切 2014(平成26)年5月 |
G 引き上げ線で待機中の普通列車(北東より) 軌道敷の北側とは段差があり、コンクリート台脚の引き上げ線に なっている。 2014(平成26)年4月 |
引き上げ線と渡り線 上の写真Fは、引き上げ線で待機中の大阪阿部野橋行き普通列車です。1番線に到 着した藤井寺行き普通列車は、バックして引き上げ線に入ります。その後折り返し運 転の上り列車となるのですが、発車待ちするまではこの引き上げ線で待機します。 写真Gで見えるように、引き上げ線の大部分は地面ではなく、コンクリートの台脚 で支える構造になっています。その下を線路の南北をつなぐ市道がくぐり抜けていま す。これは、ちょうどこの部分がもともと南から北へ傾斜する地形だったためです。 線路の南側(左)よりも北側の方が低いのです。駅周辺の地形を見ると、このような造 り方でこの場所に引き上げ線が造られたのもうなずけます。他所で設置できる場所を 確保するのは、おそらく無理だったことでしょう。 発車が近づいた待機中の列車は引上線から渡り線に入り、下り本線を越えて上り本 線の3番線に入ります。3番線は本来は優先列車用の本線ですが、藤井寺始発の上り 普通列車はこの3番線から発車します。通常の運用とは異なっているのです。 |
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H 引き上げ線から上り本線に入る普通列車 渡り線で下り本線上を通過している。 2014(平成26)年5月 |
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C図の配線図でわかるように、引き上げ線から待避線の4番線には直接入れません。引き上げ線と4番線が近すぎるため、4番線に入る 渡り線を設けるのは無理だったようです。一旦3番線に入ってスイッチバックで4番線に入るしかありません。毎回そんなことをするわけ にもいかないので、変則的ですが上り本線を普通列車が使用しています。 普通列車のこの運用があるために、3番線で普通列車が発車待ちしている間、急行・特急列車は待避線の4番線を通過して行きます。つ まり、本来は優先される追い越し列車が待避線を通過し、待避線で待機するはずの普通列車が本線でそれをやり過ごす、という変則的な運 用が行われています。見慣れると何とも思わない光景ですが、それなりに運用の工夫がなされているわけです。 |
◆◆◆ 藤井寺駅のあゆみ ◆◆◆ | ||
大阪延伸線の開業と藤井寺駅の誕生 藤井寺駅が開業したのは、1922(大正11)年4月19日※でした。この日、大阪鉄道の道明寺−布忍(ぬのせ)間が開業し、同時にこの区間に藤 井寺・高鷲(たかわし)・河内松原の3駅が開業しました。藤井寺駅は現在の藤井寺市域では3番目にできた駅でした(大和橋駅は後に廃止)。 それまでの大阪鉄道は、前身の河南鉄道時代から柏原(現道明寺線)−長野(現長野線)間の路線1本を運行する鉄道会社でした。柏原駅で 関西本線(国有)に接続していたものの、前々から大阪市内へ直接乗り入れることを強く願望していました。その計画がいよいよ具体化しよ うとしていた1919(大正8)年3月8日、河南鉄道株式会社は「大阪鉄道株式会社」と社名を変更します。そして、大正11年4月19日にまず道明寺 −布忍間の開業にこぎつけました。 ※ 近畿日本鉄道社史では4月18日となっている。 従来の大阪鉄道線のどこから分岐して大阪市方面に向かうのか、実現までにはいろいろと紆余曲折がありました。大鉄の示した道明寺駅 分岐案に対して、一部地元からは古市駅分岐案が強く要望され、それに関わって旧藤井寺村の中でも要望の対立が起きました。果ては、古 市−藤井寺間を直接結ぶ妥協案まで出てきて混乱します。つまり、激しい誘致合戦が展開されたのです。この間の経過については別ページ で紹介していますのでそちらを見てください。 ![]() 次いで、1923(大正12)年4月13日には布忍−大阪天王寺間を延伸開業し、道明寺−大阪天王寺間の大阪延伸線がようやく全通しました。 また、同時に道明寺−大阪天王寺間は電化されて、電車による旅客輸送営業が実現しました。新たに天美(あまみ)車庫前(現河内天美)・矢田 ・針中野(はりなかの)の各駅も開業しました。こうして、今日の南大阪線の道明寺以北の部分が誕生しました。 藤井寺駅が開業したのは、明治31年3月24日に道明寺駅が最初に開業した時から24年後のことでした。以後、大阪鉄道の本線は大阪天王 寺(大正13年大阪阿部野橋に改称)−長野間となり、道明寺−柏原間は支線化していきました。やがて、藤井寺−道明寺間には御陵前・土師 ノ里(はじのさと)の2駅が開業し、1929(昭和4)年3月29日には大和新線の古市−久米寺(現橿原神宮前)間が開業しました。現在の近鉄南大阪線 が完成した瞬間でした。1898(明治31)年に最初の鉄道会社・河陽鉄道が初めて古市−柏原間を開業してから31年が経っていました。 新しい大鉄本線(現南大阪線)が完成し、現道明寺線の道明寺−柏原間が支線化したことで、藤井寺駅の存在が大きなものとなって行きま した。この直前、大阪鉄道は藤井寺駅の南側に広大な面積の「藤井寺経営地」事業に乗り出しており、昭和3年5月には「藤井寺球場」「藤 井寺教材園」を開業しています。また住宅地の分譲も開始しており、田園地帯であった藤井寺村には、ちょっとしたニュータウンが突然誕 生した感じとなりました。1928(昭和3)年10月15日、藤井寺村は町制に移行して「藤井寺町」となっています。 当時の道明寺村の代表駅が「道明寺駅」、藤井寺町の代表駅が「藤井寺駅」という状態が続きますが、やがて藤井寺駅周辺の市街化が進 み商店が並び出すと、藤井寺駅は現在の藤井寺市域の玄関口のような存在へとその位置が変わって行きました。 ![]() ![]() |
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I 旧藤井寺駅舎(南)と前駅の様子(西より) 1954年(昭和29)年春 写真右端は菊水高校の校舎だった建物。「交通安全運動」の横断幕や 看板の内容から、昭和29年春の撮影と推定される。 『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979年)より |
J 旧藤井寺駅舎(西より) 1955(昭和30)年過ぎと思われる 駅舎の板部分が塗装し直されており、駅名看板もIの時から 新しく変わっている。Iの時期よりは後の撮影と思われる。左の 小屋は臨時出札所(券売所)。野球開催の時に使用された。 |
戦後復興の時期 写真Iは第2次大戦の敗戦から10年近く経った頃の藤井寺駅前の様子です。 「交通安全運動」の看板がわざわざ駅舎に掲げられており、警察官や安全運動 関係者らしい人がいます。駅前道路には動員されたのであろう幼稚園児が小旗 を持って並んでいます。おそらくは、交通安全運動の街頭(駅前)キャンペーン を撮った記録写真の1枚だと思われます。『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺 ライオンズクラブ)から拝借したもので、そこには「昭和初期」とキャプションが 付いていますが、明らかに誤りです。私は写っている手掛かりから1954(昭和29) 年の「春季交通安全運動」期間の撮影と推定しました。手掛かりを挙げておきます。 @「交通安全運動」の最初は戦後の昭和23年12月で、昭和初期には交通安全 運動を行うほどの交通事故はなかった。 A看板に「春季」とあるが、春季と秋 季の2回開催となったのは昭和27年であった。 B最初は「交通安全週間」で あったが、昭和29年に交通安全週間に代わって「交通安全運動」が用いられるよ |
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K旧藤井寺駅の様子(南西より) 1961(昭和36)年 駅舎の西側はバスやタクシーの乗降場であった。駅舎後方に 信号所の塔屋が見える。 『近鉄大阪線・南大阪線 街と駅の 1世紀』(潟Aルファベータブックス 2016年)より |
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うになった。C写真を拡大して見ると、看板の右端に「藤井寺町交通安全協会 藤井寺町警察署」と主催者が書かれている。自治体警察の 藤井寺町警察署は昭和29年6月末で廃止され、新しい大阪府警察が発足している。 D右端の菊水高校は昭和20年に創設(当時菊水中学校) されており、この場所は昭和初期には仏供田(ぶくんだ)池の一部であった。 これらの条件を重ねると、「昭和29年春季交通安全運動」の場合しか可能性は無いことになります。 写真JもIとほぼ同じ頃の様子だと思われますが、Iよりは少し後の撮影のようです。駅舎の軒周りの板張りが塗装し直されており、駅 名看板も新しくなっています。手前に写っている木柵は、藤井寺球場での野球開催日に使用されたものです。試合終了後に大勢の観客が一 度に駅に押し寄せるため、行列整理用の柵が設けられました。写真左側の木造建物には「出札所」とありますが、同じく野球開催日に使用 された臨時の乗車券発売窓口です。木柵は写真Iでも一部が見えています。この木柵がいつからあったのかはよくわかりません。戦後に近 鉄がプロ野球球団を創設したのは1949(昭和24)年ですが、昭和3年に藤井寺球場が開設されて以来、中等学校野球(現高校野球)などの学生 野球の大会が盛んに行われており、その都度大勢の観客が来場しています。木柵はその頃からあったものと推測されます。 高度経済成長の時代へ 写真Kは1961(昭和36)年の藤井寺駅と駅前広場の様子です。この時期の藤井寺市域は藤井寺町と道明寺町が合併して「美陵町(みささぎちょう)」 となっていました。現在の藤井寺市の前身です。藤井寺駅はこの美陵町の玄関口として、ますます存在が大きくなっていました。写真Iと 比べて見ると、駅舎が大きくなり駅前道路に続く広場がバスの乗降場になっています。駅舎の横には屋根付きの待合スペースが設けられて います。その上方には、ポイントや信号の切り替えのための監視塔と思われる塔屋が見られます。自動化された現在では見ることのない施 設です。タクシー乗り場前の歩道横には、現在と同じように宣伝看板が並んでいます。ここにも経済成長期の一端が感じられます。 |
写真Lは1968(昭和43)年に撮影された空中写真で す。藤井寺駅を見ると、現在の駅舎に変わる前の様 子がよくわかります。南北に駅舎がありましたが、 バス乗り場のある南駅舎側が表玄関の位置付けでし た。戦後しばらくまであった菊水高校の跡地は商業 地となり、銀行やパチンコ店が並んでいます。この 写真の5年後には駅移設・橋上駅化の工事が行われ ますが、その時に新しい駅前広場として整備された 場所が駅北側にあった上谷(かみたに)池です。下谷池と セットで利用されてきたため池ですが、水田が減少 していたこともあって埋め立て・転用されることに なったものです。写真中の→と番号は、下にあるM NOQの写真を私が撮影した場所と向きを示してい ます。 写真MNOQは、1973(昭和48)年5月のある日曜 日、初めて買った一眼レフカメラに慣れようと、藤 |
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L 真上から見た旧藤井寺駅と周辺の様子 1968(昭和43)年 文字入れ等一部加工 上谷池埋め立て以前の様子がわかる。旧駅舎と出入り口が南北両側にあった。 『藤井寺市勢要覧 1978』より →と番号は番号写真の撮影位置と向きを示す。 |
井寺駅の周辺をブラブラしながら撮った写真の一部です。何の気なしに たまたま撮った写真が、今となっては貴重な資料写真の役割を果たして います。 写真MQは、左右2枚の写真を合成したパノラマ写真です。撮りたい 範囲が標準レンズでは入らないため、後で貼り合わせのパノラマ写真に しようと思って左右分割で撮影したものです。40年ほど経った現在では、 デジタル写真化すればパソコンで簡単に合成パノラマにできます。当時 は手間をかけて貼り合わせるしかありませんでしたが、どうしても貼り 合わせ跡が残ってしまったものです。今思えば、よくぞ分割写真で撮っ ておいたものだという気がします。写真の持つ記録性の重要さです。 写真Mは上谷池の埋め立て工事が行われている真っ最中の様子です。 |
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M 埋め立て工事中の上谷池(北西より) 1973(昭和48)年5月 上谷池越しに南側の藤井寺駅方向を見る。 合成パノラマ |
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当時、私はこの場所がどのように変えられる予定なのか、何も知らずに写真を撮っていました。後にできあがった駅前広場(ロータリー)を 見て大変驚いたことをおぼえています。写真には、駅の向こう側に今では見られない広告塔や看板が立っています。「三和銀行・近畿相互 銀行・藤井寺会館」の名称はいずれも今はありません。銀行は合併で改称し、パチンコ店の藤井寺会館は廃業して現在は食品スーパーとな っています。当時の藤井寺駅周辺では唯一のパチンコ店でした。 埋め立てられた上谷池には、新しい駅前道路の市道・藤井寺駅北線が通り、駅前ロータリーの駅北広場が誕生しました。その現在の様子 が上にある写真Bです。その変貌ぶりには、ただただ驚くしかありません。地域の姿は、ここまで変わるものかと。 ![]() |
写真Nは、写真Kから12年後の駅前の様子です。 駅舎の一部は改造されていますが基本形はそのまま です。バス乗り場などが整備されていて、歩道には 安全柵も設置されています。後方には、大型化した 架線を支える鉄柱が見えています。駅前の府道も拡 幅され、駅舎前には新しいビルも並んでいて、写真 Iの時代とはガラリと様相の変わっていることが目 立ちます。 写真Oも同じ日の撮影です。廃品の枕木で作られ た木柵が時代を表しています。ちょうど高鷲3号踏 切を自動車が渡っているところですが、現在は昼間 の自動車通行は禁止です。右の写真Pが最近の様子 |
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N 旧藤井寺駅と駅前の様子(南西より) 1973(昭和48)年5月13日(日) 写真Kから12年後の様子。駅前のバス・タクシー乗り場が改修・整備されているが、 府道の両側にバス乗り場があるため朝夕は混雑した。 |
です。線路の北側にも南側にも大きなビルがそびえています。 |
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O 西側から見た駅前道路の様子(西より) 高鷲3号踏切の西方から東を見た様子である。 Pのように変化した。 1973(昭和48)年5月13日(日) |
P 西側から見た駅前道路の様子(西より) Oから43年後の様子である。高層建物の増えている ことがわかる。 2016(平成28)年10月 |
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Q 藤井寺1号踏切から見た北駅舎の様子(東より) 1973(昭和48)年5月13日(日) 合成パノラマ 北側駅舎からは通路でホームに向かう。通路の傾斜屋根の下は地下通路への昇降階段。駅舎前は小さな広場となっていた。 |
上の写真Qは藤井寺1号踏切から見た藤井寺駅の様子です。写真Lでもわかりますが、北側駅舎の前は小規模な駅前広場になっていまし た。タクシーやバスが出入りするほどの広さはなく、待ち合わせの人がいたり、勝手に駐輪されたりする場所でした。この当時、夜にはこ の広場にラーメンの屋台が出ていました。遅く帰ってきたサラリーマンなどが、屋台脇のいすに腰掛けてラーメンをすすっていました。 駅構内を見ると、駅舎からホームへ向かうための通路が見えます。傾斜屋根で下がっているのがわかります。地下通路へ降りる階段があ りました。1・2番線のある北側ホームにも傾斜屋根が見えます。南側駅舎からもホームへは地下通路で往来しました。南北分離式の地上 駅だった旧駅は、上下線のホームが地下道でつながっていたのです。この後橋上式駅舎に変わりますが、地下通路は出入口が閉鎖されてそ の存在を見ることはできなくなりました。しかし、今でも線路やホームの地下には地下トンネルのようにこの通路は静かに眠っています。 現在、北駅舎の場所には有料駐輪場ができています。 まったくの余談ですが、写真Qで電車の止まっているホームの手前を見ると、中央にある上りと下りの本線の間に渡り線のあるのがわか ります。何のためにあるのかはよくわかりませんが、写真Dのように現在のこの場所には渡り線はありません。 新しい橋上駅の誕生−藤井寺駅周辺再開発 1973(昭和48)年4月、藤井寺市と近畿日本鉄道の間で球場改修工事等に関する確認書・協定書の調印が行われました。これによって、藤井 寺球場のナイター化改修工事、藤井寺駅の移設と橋上駅化工事、駅北広場新設工事などの計画がスタートしました。 (その後藤井寺球場の ナイター化工事は約10年間凍結状態となる)。 ![]() 藤井寺駅の南駅舎は旧駅舎の位置から約50m西へ移設され、駅舎は橋上方式の構造となりました。新たに駅北側にも出入口が設けられ、 バス乗り場等を設ける駅北広場(ロータリー)が造られました。このために上谷池の埋め立てが行われたことは前述した通りです。南口と北 口の出入口がそれぞれ2ヵ所ずつになり、いろいろな方向から出入りしやすくなりました。 |
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R 建設の進む市道藤井寺駅北線(南西より) 農地が広がる中に広い新道路が建設されていった。 1973(昭和48)年5月13日(日) |
S 建設が始まったダイヤモンドシティ・ジャスコ(西より) 田園風景の中に巨大なタワークレーンが立ち並んだ。 1973(昭和48)年5月13日(日) |
駅北広場と北方の府道・堺大和高田線とをつなぐ市道・藤井寺駅北線も新設さ れました。この市道沿いでは、昭和48年12月、大型スーパーのダイヤモンドシテ ィ・ジャスコ(現イオン藤井寺ショッピングセンター)が、新藤井寺駅開業に先立ってオープ ンしています。それまで、上谷池というため池があったことで何の施設も無かっ た駅北側は完全に駅裏状態のままでした。ため池と田畑だけだった一帯が一気に 市内最大の商業地と化して行く切っ掛けが、この市道新設と大型スーパーの開業 でした。 そして、1974(昭和49)年11月、ついに藤井寺駅の橋上式新駅舎が完成しました。 翌昭和50年6月には、藤井寺駅北広場が完成し、都市計画道路の市道・藤井寺駅北 線が開通しました。それまで南駅前だけにあって、朝夕の混雑がひどくなってい たバスの乗降場も近鉄八尾駅方面行きの路線が駅北広場に移されました。これに より、南駅前のバス停の混雑が緩和されました。 このようにして、南河内地域を走る南大阪線・長野線の中では、いち早く藤井 寺駅周辺の再開発が成されたのでした。その後、古市駅前・河内松原駅前・河内 長野駅前・富田林駅周辺など、次々と駅前再開発が進められていきました。 |
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21) 俯瞰した藤井寺駅(南西より) 1986(昭和61)年 この頃の一般列車は、まだ「近鉄マルーン」一色であった。 右下にスクランブル方式の藤井寺駅西交差点が見える。高層の ビルやマンションは、この頃はまだ現れていない。 『市制施行20周年記念藤井寺市勢要覧 1986』より |
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橋上式藤井寺駅の完成からすでに40数年が経っています。その間にも市道・藤井寺駅北線や駅北広場の改修が重ねられてきました。藤井 寺市域の多くが市街化した中で、玄関口である藤井寺駅は商業地の中心としてもやはり重要な存在であり続けています。 以上の「藤井寺駅のあゆみ」と藤井寺駅に関わる事柄を以下の年譜にまとめました。 |
◆ 1923(大正11)年 4月19日 大阪鉄道が道明寺−布忍間の旅客輸送営業を開始する(近鉄社史では4月18日)。藤井寺駅開業。 ◆ 1923(大正12)年 4月13日 大阪鉄道が布忍−大阪天王寺間を延伸開業する。同時に道明寺−大阪天王寺間の電化を開始。 ◆ 1928(昭和 3)年 5月27日 大阪鉄道が藤井寺経営地に「藤井寺球場」を開場。同月、藤井寺経営地に「藤井寺教材園」も開園。 ◆ 1929(昭和 4)年 3月29日 大阪鉄道が大和新線の古市−久米寺(現橿原神宮前)間を延伸開業する。現・南大阪線の完成。 ◆ 1943(昭和18)年 2月 1日 大阪鉄道が関西急行鉄道株式会社と合併する。大阪鉄道の各路線は、関西急行鉄道の「天王寺線・ 柏原線・長野線」となる。 ◆ 1944(昭和19)年 6月 1日 国策により、関西急行鉄道と南海鉄道が合併して「近畿日本鉄道株式会社」が誕生する。天王寺線 は「南大阪線」に改称(初めて南大阪線の名称が登場)。 ◆ 1950(昭和25)年 4月 1日 藤井寺球場でプロ野球の公式戦が開始される。近鉄が創設した当初の球団名は「近鉄パールズ」。 ◆ 1973(昭和48)年 4月27日 藤井寺市と近畿日本鉄道の間で球場改修工事等に関する確認書・協定書が調印される。これによっ て藤井寺球場のナイター化改修工事、藤井寺駅の移動・橋上駅化工事、駅北広場新設工事などの計 画が開始される。(その後藤井寺球場のナイター化工事は約10年間凍結状態となる) 12月 1日 「ダイヤモンドシティ・ジャスコ藤井寺店」が開店する。 (後に「イオンモール藤井寺」、現「イオン藤井寺ショッピングセンター」) ◆ 1974(昭和49)年11月28日 藤井寺駅の橋上式新駅舎が完成する(旧駅舎より約50mほど西へ移設)。 ◆ 1975(昭和50)年 6月 藤井寺駅北広場(駅前ロータリー)ができ、都市計画道路の藤井寺駅北線が開通する。 |