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アンサンブル・アメデオ 第17回定期演奏会
パンフレットより

Ensemble Amedeo The 17th Regular Concert
〜アメリカの休日!〜
"Holiday in U.S.A.!"
2001年1月20日(土)18時開演
於:ティアラこうとう
 



コラム1−アメリカ・クラシック音楽史

 アメリカクラシック音楽の源流は、17世紀に北米大陸に入植した移民たちが歌った賛美歌やコーラス、および、18世紀にボストンやニューヨークで取り入れられたヨーロッパの音楽文化である。19世紀に入ってアメリカの産業・経済力が向上するに伴い、音楽は芸術として鑑賞されるようになり、19世紀後半には野外演奏会、ショー、オペラが盛んに演奏されるようになる。また19世紀末には、ヨーロッパの音楽(フランスのマーチとポーランドのポルカ)と黒人音楽(アフリカのドラム)が統合して、ラグタイムというアメリカ的な音楽が生まれてくる。こうした流れの中で作曲家フォスターが生まれ、「おお、スザンナ」「草競馬」など親しみやすいメロディーを作曲し、アメリカ音楽固有の性格(大衆性)を形成していった。

 一方、1842年にはニューヨーク・フィルハーモニック協会が創立され、資産家のサポートを得て、セントルイス響、ボストン響、フィラデルフィア管などが作られた。また1891年、鉄鋼王カーネギーの寄付でカーネギー・ホールが建設され、ヨーロッパの著名な演奏家を高いギャラで招聘し、ニューヨークを制することが世界を制することという神話を作り上げた。

 ナチズムの台頭と第2次大戦により、ヨーロッパから優秀な演奏家がアメリカに亡命し、オーケストラの育成に本気で取り組み、アメリカのオーケストラのレベルは飛躍的に向上した。そして戦後は、フィラデルフィア管にオーマンデイ、クリーブランド響にセル、ボストン響にミュンシュ、シカゴ響にライナー、ニューヨーク・フィルにバーンスタインという顔ぶれで、黄金期を築いた。一方、ジュリアードやカーティス音楽院に優秀な亡命演奏家を受け入れた結果、数多くの指揮者・ソリスト・室内楽団を世に送り出した。

 アメリカ音楽には以下3つの系譜がある。(1)ガーシュイン、コープランド、バーンスタインなど、ヨーロッパの伝統を生かしつつ、作曲語法にアメリカのポピュラー音楽を取り込むことで新機軸を打ちだそうとした系譜。(2)カウエル、ヴァレーズ、アンタイル、ケージなど、ヨーロッパ・クラシック音楽の語法を否定し、全く新しい響きと時間を作り出そうとする系譜。(3)ライヒ、グラス、アダムスなど、60年代以降のミニマル・ミュージック(「パルスこそが新しい音楽の命」と考え、短いフレーズが繰り返される音楽)の系譜。

コラム2−アメリカ・ジャズ音楽の歴史

 ジャズは19世紀末から20世紀初頭にかけてニュー・オーリンズを拠点にアメリカ南部で生まれた。ジャズを生みだした中心はアフリカから来た黒人奴隷や混血の人たちだが、黒人霊歌、ワークソング、吹奏楽、ラグタイム、ブルース等も影響を及ぽしている。初期のジャズは「ニュー・オーリンズ・ジャズ」や「ディキシーランド・ジャズ」(ディキシーとは「南」の意味)と呼ばれ、コルネット(トランペット)、トロンボーン、クラリネットを中心としたブラス・バンド的編成の中で絡み合う集団即興演奏だった。ポールデン、オリヴァー、アームストロングらが有名である。ジャズはニュー・オーリンズの歓楽街で育ったが、1917年の売春禁止法によりジャズメンは北部のシカゴに移った。シカゴでは1920年代にギヤングが暗躍し、禁酒法の時代にギャングが経営する密売酒場でジャズメンは仕事をした。アドリブの多いディキシー風の演奏は「シカゴ・ジャズ」と呼ばれた。

 一方、19世紀末から20世紀初めまで、高級住宅地ハーレムでラグタイムが栄え、即興演奏を主にした「ストライド・ピアノ」が発達した。1920−30年代にはハーレムは白人向けの歓楽街として発展し、「コットン・クラブ」を中心にジャズが人気を博した。また1930年代にはカンザス・シティ、リフを中心にしたジャズやジャズ・ブルースが栄えた。1929年の大恐慌でアメリカに失業者があふれたが、クラリネット奏者のグッドマンによる軽快で楽しいダンス音楽「スイング」が起こり、たちまち流行した。ジャズの楽団はダンス・ホールで演奏し、小編成のコンボはニューヨークのクラブで演奏をした。 1940年代には、ハーレムのクラブで黒人を中心とした若いジャズメンがジャズ・セッションをくりひろげ、オフ・ビートによるアブストラクトなモダン・ジャズ「ピーバッフ」を生みだした。創造者はチャーリー・パーカーらである。パーカーは「ジャズは人間の生き方だ」と表明し、文学にも影響を与えた。1940年代後半には白人ビッグ・バンドもモダン化し、「プログレッシブ・ジャズ」と呼ばれた。(この辺りに絵や写真があるといいかも。)

 カンザスのビー卜とハーレムの伝統を生かしたビーパッフが成熟の頂点に達すると、デーヴィスやエヴェンス、ゲッツらが1940年代末に、知的で透明感のある「クール・ジャズ」を創造した。

1940−50年代はハリウッド映画全盛期で、白人ジャズメンがハリウッドに結集して、編曲重視の「ウェスト・コースト・ジャズ」を生んだ。1955年頃には、黒人解放運動を背景にニューヨークにおける黒人のジャズはパワーを増し、黒人教会の音楽コスペルやファンキーな感覚も加わり、「ハード・バップ」と呼ばれる新しいモダン・ジャズが確立。さらにアドリブの自由化をめざしてモード手法が開発され、1960年代初めにはモードによる若手の「新主流派」も栄えた。

1960年代末には、ロックに対抗するためジャズも電化して「フュージョン」が栄え、デーヴィスやウェザー・リポートらが人気を集めた。ボサノバがジャズ界に歓迎され、エンターテイニングなサウンドを生んだのもこの頃だった。

1980年代に入ると、ハード・バップや新主流派の伝統を生かしたジャズが復活し、「新伝統継承派」と呼ばれて現在最も主流の一派となっており、ハーグローヴ、レッドマン、ルーニーら若手が活躍している。

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