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アンサンブル・アメデオ 第17回定期演奏会
パンフレットより

Ensemble Amedeo The 17th Regular Concert
〜アメリカの休日!〜
"Holiday in U.S.A.!"
2001年1月20日(土)18時開演
於:ティアラこうとう
 


曲目解説

 ようこそ、アメデオの舞踏会へ!今日は、アンサンブル・アメデオ特製のちょっとおしゃれな舞踏会を開催いたします。心も体もスウィングして、思いっきり楽しんでいただけたらうれしいです。まず1曲目は、舞踏会の始まりにふさわしい、ルロイ・アンダーソンの「舞踏会の乙女」です。

♪ アメデオの曲目解説はちょっと長いですが、見出しを付けましたので、見出しをご参照の上、ご興味をお持ちの部分をお読みください。演奏する曲について簡単にお知りになりたい場合には、<今回演奏する曲について>の部分を中心にお読みください。


第1部
舞踏会の乙女(Belle of the Ball)Leroy Anderson(1951)
忘られし夢(Forgotten Dreams)Leroy Anderson(1954)

<ルロイ・アンダーソンについて>
 ルロイ・アンダーソン(1908−1975)はアメリカの有名な作曲家で、セミ・クラシックの曲をたくさん発表しました。

 彼はユーモアとアイデアにあふれた音楽や、美しい抒情のある音楽をたくさん書いて人々に親しまれ、高い名声を得ました。
 マサチューセッツ州ケンブリッジに生まれましたが、父親はスウェーデンからの移民で、アマチュア音楽家、母親はストックホルムからの移民で、教会のオルガン奏者も務め、ルロイの最初のピアノ教師でした。ルロイはハーバード大学にすすみ、ここでハーモニー、カノン、オーケストレーションなどを学び、卒業後にはエネスコらに師事して作曲を学び、オルガンやコントラパスも学びました。1930年(22歳)からは大学で音楽を教えたり、教会でオルガン奏者を務めたり、ハーバード大バンドを指揮したり、トロンボーンを吹いたりして忙しく過ごしました。彼は一時、ハーバード大学の語学の教授を勤めていたそうですが(9ヵ国語も話せたそうです)、1936年にボストン・ポップス管弦楽団のための作曲と編曲の職を得て、音楽家に転身しました。1938年、彼の作曲した「ジャズ・ピチカート」がボストン・ポップスで演奏されて成功。作品が次々と紹介されると同時に、同楽団の副指揮者も務めて注目されました。第2次大戦中の1942年に志願して陸軍に入りましたが、その間にも「シンコペイテッド・クロック」(1945)などを作曲しています。朝鮮戦争にも出兵、終戦後には本格的に作曲を行い、「ブルー・タンゴ」の大ヒットで大人気作曲家となりました。コンサート、レコーディングなどの指揮者としても活躍。1953年には、アメリカで1年間に最も演奏されている作曲家になったそうです。1968年からコネティカット交響楽団などを率いて音楽普及に力を注ぎましたが、1975年にコネチカット州で亡くなりました。

 アンダーソンは、日常生活の中から材料を見つけだして素晴らしい音楽にすることが上手でした。また新しいアプローチで創造力と個性を示していました。代表作は、「ブルー・タンゴ」「タイプライター」「ワルティング・キャット」「プリンク・プレンク・プランク」「舞踏会の乙女」「ラッパ吹きの休日」「クラシックのジューク・ボックス」(「トランペット吹きの子守歌」「シンコペイテッド・クロック」など6曲からなる)、ピアノ協奏曲、などです。

*ボストン・ポップス管法楽団は、ボストン交響楽団の夏季シーズンの活動の一つです。1885年にプロムナード・コンサートとして始まり、ポピュラー音楽を演奏する「ポップス」シリーズとして1900年ころから定着。ポピュラーな曲やスタンダードなジャズ、映画音楽などを演奏しています。1980年からは、「E.T.」「スター・ウォーズ」などの映画音楽で知られるジョン・ウィリアムスが常任指揮者を務めています。


<今回演奏する曲について>
舞踏会の乙女」は1951年の作品で、アンダーソン曲集のレコードで発表され、大ヒット作「ブルー・タンゴ」と同時に話題になりました。舞踏会でワルツを踊る人々の中に、ひときわ人目をひく気品高くて美しいBelle(最高の美女)が踊っている様子が描かれているような気がします。あなたにとっての「Bell」を思い浮かべながら聞いてみてはいかがでしょう?(へ長調−イ長調、4分の3拍子、Allegro animato)

忘られし夢」は1954年の作品で、この年に発表されたアンダーソン自身のレコードに収録されていました。シンプルなテーマをオーケストラでふくらませていく、アンダーソンらしいスマートなつくりの曲で、静かな情感にあふれています。原曲では最初と最後はピアノ・ソロで演奏されますが、今回は、ギター・アンサンブルで演奏いたします。(二長調、4分の4拍子Andante-Allegretto-Piu Animato-Allegretto-Andante)


Holiday for StringsDavid Rose(1943)

 デヴィッド・ローズ(1910−1990)はロンドンに生まれましたが、4歳のときに家族と共にアメリカのシカゴに移住しました。シカコ音楽院を卒業後、NBCの地方局のピアニスト兼編曲者として就職。オーケストラのピアニストや、ビッグ・バンドの編曲者としての仕事もしました。1938年にハリウッドのMBSに音楽監督として就職。第2次大戦中の4年間は空軍に務め、戦後、ハリウッドでスタジオ指揮者としての仕事を再開。1940年代から20年間、コメディアンのRed Skeltonと一緒に仕事をし、ラジオのRed's radio showや、そのテレビシリーズ(The Red Skelton Show)の音楽を担当しました。

 「Holiday for strings」はそのショウのテーマ・ソングでした。多くの映画やテレビの音楽制作を担当し、1959年には、アメリカの22個のテレビ番組のテーマソングが彼の作品だったそうです。また、いろいろなレコードの指揮をしたり、ローマ、パリ、コペンハーゲン、ベルリン等のオーケストラに客演指揮者として呼ばれたりもしました。1960年には日本でも指揮をしているようです。

 彼の作品のうち最も知られている曲が今回演奏する「Holiday for Strings」(1943)です。この曲は大ヒットし、多くのレコードに録音され、数百万枚も売れたそうです。また映画「The Unfinished Dance」(1947)や、CM、漫画などの音楽としても広く使われ、セミ・クラシックのオーケストラ・レパートリーにもなりました。フルートのトリオや、トランペットのカルテット用に編曲されたものもあるそうです。

 この曲は軽快なテンポの曲で、バイオリンではピチカートで演奏されます。調性がコロコロと変わり、A(へ長調(Allegro)、変イ長調、ハ長調)、B(変イ長調、変ロ長調(Moderate-Allegro))、A(へ長調、変イ長調、ハ長調)のように、短い間になんと8回も変わります。(  )でくくりA−B−Aと書きましたが、このような3部形式の曲です。Bの真ん中で少し遅くなりますが、その他はAllegroのテンポです。A、Bの中もそれぞれ3つに分けることができ、最初のフレーズがそのあと2回変奏されるような形式になっています。作詞はSam Gallopで、歌詞は次のような意味です。

君が僕を見て徹笑むとき
忘れられないメロディーが聞こえる
柔らかでわくわくするようなその感じに僕は身を任す
holiday for Strings
甘い音楽が満ちている

その歌が始まるとゆっくりと
バイオリンの旋律が聞こえる
あるいは、それを歌っているのは僕のさみしい心にすぎないの?
holiday for strings
だって、君の愛が僕を見つけたから

夜中じゅうずっと
愛の歌が満ちている
その歌はどこでも聞こえる
とても甘く僕に告げる
私は完全にあなたのもの

そよ風のような溜息
新しく生まれたラプソディ
君が僕のそばにいるとき
そこには音楽がある
こんなにも素晴らしい音楽は初めて

君がいなくなると、それも次第に消えていく
だけどまた会ったら、それが聞こえる
愛の歌が、甘くはっきりと聞こえる
いつも君がいるときには
天使が holiday for strings を奏でる

ウエスト・サイド・ストーリーLeonard Bernstein(1957)

<概説>
「ウエスト・サイド・ストーリー」はシェ−クスピアの「ロミオとジュリエット」の現代版で、1950−60年代のミュージカルです。1950年代のニューヨークのスラム街で対立する2つの不良グループ、ジェット団(ヨーロッパ系)とシャーク団(プエルトリコ系)。ジェット団の首領の友人卜ニーと、シャーク団のボスの妹マリアが恋におちたことから悲劇が起きます。この作品はその当時の若者たちの圧倒的な支持を受け、そのライフ・スタイルからファッションに至るまで多大な影響を及ぼしたそうです。発案は振付師ジェローム・ロビンズ、台本はブロードウェイの劇作家アーサー・ローレンツ、作詞はスティーヴン・ソンドハイム、作曲はレナード・バーンスタインが担当しました。1961年には映画化され、アカデミー賞を10個も受賞しました。今回は、このミュージカルの中に出てくる7曲をメドレーにしておおくりいたします。

<バーンスタインについて>
Leonard Bernstein  レナード・バーンスタイン(1918−1990)は1918年にマサチューセッツ州のボストンでロシア移民のユダヤ人の子として生まれました。父親はシナゴーグの副会長で、とても厳格な人でした。子供のころのレニー(バーンスタインの愛称)は喘息持ちで、神経過敏で、頭がよく、誰にでも強い印象を与える子供だったそうです。父親はレニーがピアノの練習をすることに反対していましたが、レニーは独学でピアノや作曲を学び、子供の煩から才能を発揮していたそうです。レニーは「ラプソディ・イン・ブルー」に夢中になり、小遣いをためてその楽譜を買い、すぐに暗譜してしまったと言われています。

 ハーバード大学に進学後、音楽を学びました。ヨーロッパの音楽を学び始めたのが遅かったために、彼の創作活動からジャズを完全に払拭できませんでしたが、アメリカ特有の音楽に浸ってきたことこそが、バーンスタインの独創的な音楽につながったと考えられます。彼の指揮の才能を見抜いた指揮者のミトロブーロスに、カーティス音楽院にいたフリッツ・ライナーを紹介され、バーンスタインは本格的に指揮の勉強を始めます。バーンスタインはずばぬけて優秀な学生でした。ライナーは、自分が教えた学生の中でおそらくバーンスタインただ一人にAの成績を与えていたようです。またバーンスタインは、タングルウッド音楽院でクーゼヴィッキーにも指揮法を習いました。

 1943年、25歳のときに、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者になりました。この年、客演指揮者のブルーノ・ワルターが病で倒れ、急遽、ぶっつけ本番でバーンスタインが指揮台に立つことになりました。たまたまその日のコンサートがラジオで全電に放送されていたため熱狂的な反響を呼び、センセーショナルなデビューを飾りました。また、この年にジェロ−ム・ロビンズと出会い、これがきっかけで、「オン・ザ・タウン」「ウエスト・サイド・ストーリー」「ディパック」などのブロードウェイ・ミュージカル作品が生まれることになります。
 1945年に、ストコフスキーの後を継いでニューヨークのシティ交響楽団の指揮者に就任。1948年には独立したばかりのイスラ工ルを訪問し、イスラエル・フィルハーモニックを指揮。1951年に33歳で、フェリシア・モンテアレグレと結婚。1957年、「ウエスト・サイド・ストーリー」を作曲。1958−1969年までニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督を務め、同フィルの黄金期を築きました。ウィーン国立歌劇場のオーケストラや、ウィーン・フィルハーモニックの指揮もしました。演目にアメリカ音楽や現代音楽を積極的に取り込み、また、同じユダヤ人であるマーラーの曲に共感して多くの名演を残しました。彼は、ハンサムな風貌と激しく全身を使った指揮ぶりで、従来の堅苦しい指揮者のイメージを打破し、クラシック音楽の大衆化に多大の功績を残したという言うことができます。しかし後年は、富と名声にもかかわらず、挫折と絶望につきまとわれたそうです。1990年、タンゲルウッドでクーゼヴィツキー記念演奏会の指揮をしたあと病院に運び込まれ、その2ヶ月後に72歳の生涯を閉じました。

 20世紀の音楽家で、これほど活動範囲の広い人物はほかにはいないでしょう。バーンスタインは自分で本を書き、自分で台本を書いたテレビの番組に出演し、大学で講義をするほか、ピアニストとして聴衆の前で演奏していました。彼の弟子の中には、小沢征爾と佐渡裕らがいます。作曲家としては、室内楽、交響曲、オペラを手掛けるほか、声楽や映画、舞踊、ブロードウェイのためにも作曲しています。代表作は、歌劇「タヒチ島の騒動」、ミュージカル「キャンディード」「オン・ザ・タウン」「ウエスト・サイド・ストーリー」、交響曲第1番「エレミア」、交響曲第2番「不安の時代」、交響曲第3番「カディッシュ」、チチェスター詩篇、ミサ曲、など。指揮者としては、数多くの忘れがたい演奏を行ってきました。1986年にパリでレジョン・ドヌール勲章を授与され、また1987年には、ジーメンス賞というドイツで最も権威のある音楽賞を受けており、バーンスタインは、アメリカ生まれの音楽家で最初に世界的評価を勝ち得た指揮者であると言うことができます。

<作品の背景、あらすじ>
 「ウエスト・サイド・ストーリー」の舞台となったニューヨークのウエスト・サイドは、現在は街の再開発が進み、リンカーンセンター(ジュリアード音楽院、メトロポリタン・オペラ・ハウス等がある)が建設され、きれいになっていますが、かつては相当なスラム街で、ヘルズ・キッチン(地獄の台所)と呼ばれ、非常にコワイところだったそうです。「ウエスト・サイド・ストーリー」では、このウエスト・サイド地区を縄張りとしている2つの不良グループ、ヨーロッパ系アメリカ人の「ジェット団」とプエルトリコ系移民の「シャーク団」が登場し、この2つのグループは共に張り合い、対立グループとなっていす。それは白人対有色人種という根深い一面も持っているものでした。高校の体育館でのダンス・パーティの夜、シャーク団のリーダーの妹マリアはジェット団の首領の親友卜ニーと出会い恋に落ちます。しかしその後、両派の争いは激しくなり、シャーク団のボスでマリアの兄であるベルナルドがトニーの友人のリフを殺し、その結果、トニーがベルナルドを殺します。そして最後はトニーもシャーク団の一人の銃弾に倒れます。

New York  シェ−クスピアの原作では、暴力事件の真只中におかれた2人の薄幸な恋人を中心に展開しますが、アーサー・ローレンツが書いた「ウエスト・サイド・ストーリー」でも同様です。ジュリエットは乳母に秘密をうち明けますが、マリアも、親友のアニタに悩みをうち明けます。ジュリエットにはパリスという求婚者がいますが、マリアにもチノが求婚しています。シェークスピアの恋人たちは舞踏会で出会いますが、ウエスト・サイドの恋人たちは高枚の体育館のダンス・パーティで知り合います。
 シェークスピアでは反目しあう2つの家族、モンタギュー家とキャピュレット家の対立が中心ですが、ウエスト・サイドでは、10代のギャング、ジェット団とシャーク団の対立が中心となっています。さらに、ローレンツは、バルコニーを非常階段に、ローレンス神父をドクに、薬屋をドラッグストアに置き換えています。シェークスピアの場合にもウエスト・サイドの場合にも、どちらも同じように、一連の事件が緊張を高めていきます。シェ−クスピアではティボルトがロミオの友人のマキューシオを殺し、その結果ロミオがディポルトを殺しますが、ウエスト・サイドでは、ベルナルドがトニー友人のリフを殺し、その結果、トニーがベルナルドを殺します。このようにウエスト・サイド・ストーリーは「ロミオとジュリエット」に非常に似通ったストーリー展開をしていますが、しかし1つだけ大きな違いがあります。ジュリエットは死にますが、マリアは死なないのです。これは、ベルナルドとリフが死んだ後、ヒーローとヒロインも死んでしまったら、昔からのブロードウェイ・ファンには受けないだろうと考えたからでした。

<作曲の経緯>
 この作品は、1949年に振付師ジェローム・ロビンズによって発案されました。彼のアイデアは、「シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の現代版で、舞台はスラム街、時はイースターのころ。ユダヤ人とカトリック教徒の間で感情的な衝突が起こる。ユダヤ人がキャピュレット家で、カトリック教徒がモンタギュー家。ジュリエットはユダヤ人。街角でのケンカ騒ぎも、主人公の2人が死ぬことも全部同じ。この悲劇的な物語を、ミュージカル・コメディのテウニックだけで作り上げる」というものでした。その後、台本を書いたアーサー・ローレンツが、当時は10代のギャングが現れ始めたころだったし、青少年の非行問題がたびたびニュースになっていたので「ニューヨークの黒人とプエルトリコ人の若者の対立するグループではどうか」と言い、それで話が訣まり、1955年から制作に取りかかったそうです。そして最終的には、ヨーロッパ系白人とプエルトリコ人との対立になりました。タイトルについても変遷があり、はじめは「イースト・サイド・ストーリー」でしたが、やがて「ギャングウェイ!」に変わり、結局、「ウエスト・サイド・ストーリー」になったそうです。

 当初、「ワン・ハンド、ワン・ハート」と「恋は永遠に(サムウェア)」がパルコニーのシーンで歌われるはずだったそうですが、舞台稽古をしているときに、バルコニー・シーンで要求されるのは気分を高める歌であろうということになり、「サムウェア」はショーの終わりに移され、「ワン・ハンド、ワン・ハート」はブライダル・ショップのシーンに挿入されました。そしてバーンスタインとソンダイムの共同作業で、バルコニー・シーンのために「トゥナイト」が生まれたのだそうです。

Photo3  リハーサルの間、ロビンズは出演者に「ジェッツ」「シャークス」とプリントしたジャケットを着せておき、出演者には本名を使うことを禁止し、舞台を離れても役名で呼び合うように要求しました。また舞台裏の掲示板には、新聞に載ったギャングの抗争のニュースを貼りだしました。これによリ2つのグループの間には、舞台を離れた所でも敵対意識が生まれ、舞台においてより一層迫力を増すことになったそうです。

 ところで、バーンスタインはクラシック音楽の作曲家としてスタートしましたが、作曲家としての名を高めたのはブロードウェイでの「ウエスト・サイド・ストーリー」であり、バーンスタインはそのことがかえって悩みの種となっていました。なぜなら、交響曲かグランド・オペラで大作曲家の殿堂入りをしたいと思っていたからです。しかし、モーツァルトのオペラ「魔笛」が、当時の大衆向けの劇場のために書かれた作品であったように、「ウエスト・サイド・ストーリー」もいつの日か、バーンスタインがひたすら願ってきた高い評価を得るようになるかもしれません。

<今回演奏する曲について>
 今回は、この「ウエスト・サイド・ストーリー」に出てくる曲の中から7曲を選び、メドレーにしたものを演奏いたします。


I FEEL PRETTY(アイ・フィール・プリテイ)訳詞 柳生 すみまろ
 マリアが恋の喜びを甘く美しく歌いあげている曲です。

急に可愛くなったみたい
こんなにも可愛く
急に可愛くなったみたい
ウィット満点、心も軽く
今日の私じゃない女の子がかわいそう
とってもチャーミング、こんなにもチャーミング
自分でもびっくりするくらいチャーミング
とてもほんととは思えないくらい可愛くなったみたい
鏡に映っている可愛らしい女の子を見てごらん
あの魅力的な女の子は誰、とっても可愛いドレス
とっても可愛いほほえみ、とっても可愛いわたし!
ぽうっとして倒れてしまいそう
うれしくて走り出して踊ったりしたい気分
だってわたし、あんなに素敵な人に愛されてるの!


MARIA(マリア)
 ダンス・パーティの夜、マリアに一目惚れしたトニーが「マリア、なんて素晴らしい響き、いつまでも呼び続けよう。」と歌い上げます。「マーリーア」の最初の2つの昔は増4度(ハ→嬰へ)で、西洋の音楽理論では「悪魔の音程」と言われていますが、バーンスタインはこれを上手に使っており、アメリカの音楽理論の授業では、増4度を生徒に教えるときにこの曲がよく使われるそうです。

今まで耳にした中で 一番美しい響き
(マリア、マリア、マリア)
世界中の美しい響きが この一言に
(マリア、マリア、マリア、マリア、マリア)

マリア!
ぼくはたった今、マリアって娘に会った
その瞬間その名前は、僕にとって
すごく特別なものになった

マリア!
僕はたった今、マリアって娘にキスした
その瞬間僕は、音の響きが持つ
すばらしさを知ったんだ!
マリア!
大声で呼べば そこには音楽が流れ
優しくささやけば ほとんど祈りのよう
マリア、いつまでもマリアと言い続けよう
マリア、マリア、マリア、マリア、マリア
マリア、マリア、マリア、マリア!

今まで耳にした中で一番美しい響き
マリア!


SOMETHING'S COMING(なにか起こりそう)
 なにかいいことが起こりそうな予感を、軽快な音楽に乗せてトニーが歌いあげます。

もしかしたら 誰に分かる?
いつ、なにが起こっても不思議はない
僕にはすぐわかるさ、兆しが見えたらすぐに
もしかしたら 砲弾のような勢いで
空をつっきって来るかもしれない
その瞳を輝かせて バラのように明るく!

誰に分かる?
ちょっとだけ手が届かないところ
通りの向こう側、浜辺や木の下に
奇跡が待ってるような気がするんだ
それが本当になる 僕の身に起こる!

New York
もしかしたら? もしかするさ
なにかが起こりそう なにか素敵なこと
待ってさえいれば!
なにかが起こりそう なんだか分からないけど
きっと素晴らしいことが!

カチッと音がして びくっとした瞬間
電話が鳴り ノックの音がして
錠前が外れる!
なにかが起こりそう いつかはわからない
でももうすぐさ 月を捕まえるのも
片手で易々と!

角の向こう
でなきゃ川の流れに乗って
さあ、僕のところに来ておくれ
来るかな? 来るとも
ただじっと待ってれば
もうすぐそこまで!
さあ今にも何かが、さあ恥ずかしがらないで
男との出会い 椅子を引き寄せて
空気もささやいている
なにか素敵なことが起こりそう!

誰に分かる?
ちょっとだけ手が届かないところ
通りの向こう側、浜辺に
もしかしたら今夜にも‥・
   もしかしたら今夜にも・・・
   もしかしたら今夜にも・・・

TONIGHT(トゥナイト)
 ジュリエットのバルコニーのシーンに模したマリアのアパートの非常階段で、マリアとトニーの2人は密かに会って、出会いの夜に対する思いをデュエットで歌います。

(マリア) 今宵、今宵、すペては今宵に始まる
あなたを見ていると世界は消えてしまう
今宵、今宵、今宵からはあなただけ
あなたの姿、あなたのしぐさ、あなたの言葉だけ
今宵、今宵、世界は光にあふれ
太陽も月も、いたるところに
今宵、今宵、世界は自由気ままに光輝き
くるおしく、空に閃光を放つ
今日までの世界はただの住処
暮らすための場所でしかなかった
悪くもなければよくもない
でも今はきみが、あなたがいる
いつもと変わらないはずの世界が
輝いて見える

おやすみ、おやすみ
ぐっすりと、そしてもしも夢を見るなら
僕を、わたしを夢見て
今宵

(トニー) 今日は一日中予感がしていた
奇跡が起こるだろうと
やっぱり思ったとおりだった
(マリアとトニー) だってきみが、あなたが目の前にいる
いつもと変わらないはずの世界が
輝いて見える


SOMEWHERE(恋は永遠に)
 マリアの兄ベルナルドを殺してしまったトニー。そんなトニーでもマリアはあきらめきれません。「2人で手を取り、いつかどこか新しく生きられるところへ行こう。」と歌います。

(卜ニー)
ぼくらふたりの場所が、どこかにあるはず
ふたりの場所が、平和で静かな 広々とした場所が
ぼくらを待っている どこかで

(マリア)
わたしたちふたりの時間が
いつの日にか二人の時間が
ゆっくりとふたりで過ごせる時間
愛し合い いたわりあう時間が
いつの日にか!

(トニー)
どこかで、新しい暮らしを見つけよう

(マリア)
どこかで、許せるようになるでしょう

(マリアと卜ニー)
ふたりのための場所が
ふたりのための時間と場所がある
さあ手をとって もう道を半分まで来た
さあ手をとって あの場所に連れていってあげる
どうにかして、いつの日にか、どこかへ!


ONE HAND,ONE HEART(ひとつの心)
 ブライダル・ショップのシーンで、卜ニーとマリアが二人の愛を誓い合います。

(卜ニー)
ぼくらが手を一つにつなぎ
ぼくらが心を一つにつなぎ
最後の誓いをたてた今
ぼくらを分かつことができるのは
ただ、死のみ

(マリア)
わたしたちの命をひとつにして
来る日も来る日も、ひとつの命

(卜ニーとマリア)
今こそ始まる
今こそふたりは
ひとつの手、ひとつの心
もう死もふたりを分かちはしない


AMERICA(アメリカ)
 プエルトリコ系のシャーク団の集まりの場面でにぎやかに歌われます。「夢と希望の国、アメリカ」と口々に歌う女たちを、男たちは「肌の色が白ければ」などと言ってからかいます。6/8拍子と3/4拍子を交互に組み合わせたリズムが印象的な曲です。
アニタ
 
 
 
 
 
 
 

コンスエロ
アニタ

女たち
 
 
ベルナルド

アニタ
ベルナルド

コンスエロ
チノ

アニタ
女たち
 
男たち
アニタ
ベルナルド
アニタ
ベルナルド
女たち
ベルナルド

女たち
男たち
全員
 

アニタとコンスエロ
ベルナルドと男たち  
アニタとコンスエロ
男たち
ベルナルド
 
 
アニタ
ベルナルド
アニタ
男たち
ベルナルド
アニタ
プエルトリコ、私が心を捧げる島、
もういっペん沈んでしまえ、海の中に
いつだってハリケーンが吹き荒れ、
いつだって人口が増え続け、
借金はかさむ一方
太陽が照りつけ、
現地の人たらは汗まみれ
私はマンハッタン島が好き

その通りよ!
ようく考えてご覧なさいよ

アメリカに行きたいわ!
アメリカなら文句なしよ!
アメリカは何でもタダ!
ただし実費はいただきます、と!

クレジットで買い物ができるのも素敵
俺達を一目見たら、二倍もぽりやがるぜ

私は自前の洗濯機を買う!
でもおい、何を洗うつもりなんだ?

摩天楼がそびえるアメリカ!
キャデラックが走り回るアメリカ!
景気が急上昇のアメリカ!
一部屋に12人が善らすアメリカ
もっと広々した新しい家もたくさんあるわ!
おれたちの鼻先でピシャリとしまる扉もな!
テラスつきのアパートに住むの
それより訛をなんとかしな!
明るく楽しく暮らせるアメリカ!
アメリカで戦っていなければな!

何もかもすばらしいアメリカ!
白人にとってはな!
ララララ・アメリカ・・・アメリカ
ララララ・アメリカ・・・アメリカ

ここでは自由になれる、誇りを持てる!
自分の領分を出なけりゃな!
好きなものになる自由がある!
給仕をしたり、靴磨きをする自由がな!
何もかもが汚れているアメリカ
組繊犯罪の国、アメリカ
おぞましい暮らしの国、アメリカ
忘れないで、わたしはアメリカにいるのよ!
サン・ファンに帰ろうかな
それじゃあの船に乗りなさいよ、バイバイ
ハハハ
あっちじゃみんなが、大歓迎してくれるだろう!
あっちじゃみんな、とっくにこっちに来てるわよ!

West Side Story

第2部
「ポーギーとベス」より組曲George Gershwin(1935)

<概説>
 歌劇「ポーギーとベス」(Porgy and Bess、全3幕・9場)は、アメリカの貧困な黒人社会の痴情と犯罪を扱いつつも、人間的共感を呼ぶフォーク・オペラ(民族オペラ)で、ガーシュインの代表作であり、彼の唯一のオペラです。デュボーズ・ヘイワードが1925年に書いたベストセラー小設『ポーギー』を下敷きにしたもので、構想から約10年を経て作曲され、1935年にボストンで初演されました。ベスを見そめたポーギーは、ベスの愛人クラウンを殺してしまいましたが、ポーギーが留置場から出たとき、ベスは麻薬売りのスポーティン・ライフと連れだって遠いニューヨークヘ行ったあとだったというストーリーです。台本はデューボーズ・ヘイワード(原作者)とアイラ・ガーシュイン(ガ−シュインの兄)の2人によるものです。今回は、このオペラの中の4曲を演奏いたします。

pamph17p14.jpg <ガーシュインについて>
 ジョージ・ガーシュイン(1898−1937)は、1898年にニューヨークで4人兄弟の次男として生まれました。両親はサンクト・ペテルブルク出身のロシア移民でユダヤ人でした(バーンスタインの両親もロシア移民でユダヤ人でした)。少年時代のガーシュインは勉強はダメで、いたずらばかりしていたそうです。6歳のとき、ローラー・スケートでハーレムの通りを走り回っていたら偶然、自動ピアノで奏でるアントン・ルービンシティンの「へ調のメロデイ」を聴き、その場に釘付けとなったそうです。また12歳のとき、友人の弾くドヴォルザークの「ユモレスク」を聴き、「まるで雷に打たれたように美の啓示を受けた」そうです。それからというもの彼は熱心にピアノの練習をし、ピアノと音楽理論のレッスンも受け、15歳のときには作曲も始めました。高校は中退し、ニューヨークのティン・パン通りにある音楽出版社に宣伝員を兼ねたピアニストとして就職しましたが、2年で辞めて作曲に専念し始めました。そして1919年に彼の「スワニー」という歌が大ヒットし、ガーシュインはポピュラー音楽の作曲家として一躍有名になりました。また1924年までに10数本のミュージカルを作曲し、毎年のようにヒット作を出していました。そして1924年、25歳の時に、ジャズとクラシックを融合させた「ラプソディ・イン・ブルー」が大成功したことにより栄光の座につき、社交界入りも果たしました。長身で容姿端麗、性格も明朗で才能があり、そこそこ財産もあるガーシュインは、当時のアメリカの女性のあこがれの的になっていたそうですが、生涯独身で通し、両親とともにニューヨークで暮らしていたそうです。「ラプソディ・イン・ブルー」作曲の後、本格的な音楽技法を独学で学び、「へ長の協奏曲」(1925)、「パリのアメリカ人」(1928)、「セカンド・ラプソディ」「キューバ序曲」(1932)などを発表。ポピュラー音楽では「ス・ワンダフル」(1927)、「アイ・ガット・リズム」(1930)などを作曲。1928年にヨーロッパ旅行をし、ベルク、プロコフィエフ、ラヴェル、イベールといった作曲家たちと会いました。1930年から、ハリウッド映画の音楽制作も始めたようです。1931年、大恐慌の真っ只中に、ミュージカル「我歌う、なんじの歌」が大成功をおさめました。彼は作曲家として有名ですが、当時はピアニストや指揮者としても活躍していたそうです。彼自身のピアノ演奏は現在でもCDで聴くことができます。

 ガーシュインは、ラヴェル、ストラビンスキー、プーランジェといった作曲家に作曲法を習おうとしましたが断られてい ます。そのときにラヴェルは「一流のガーシュインは二流のラヴェルになる必要がない」と言ったと伝えられています。 シェ−ンベルクに12音技法法を教えてほしいと頼んだときには、「『ス・ワンダフル』などのような曲が作れるのだから、あなたは天才だ、12音技法のことなど忘れてしまいなさい」と言われたそうです。シェーンベルクは、「自分の最大の望みは、チャイコフスキーのような曲を書いて、聴衆がそのメロディーを口笛で吹きながら音楽会場を出ていくようにすることだ」と言っていました。少なくともこの点で、ガーシュインが自分よりもまさっていることを知っていたのでしょう。

 1920年代後半からガーシュインは、絵画への関心を持ち始めました。「ああ、ルオーを音楽で表現したいな」「なんとかして不協和音をつかまえたい。ありきたりではつまらない。新しい音楽と新しい美術はリズムが似ている。どちらにも厳粛な力と、細やかな情感がある。」ガーシュインは自分で絵を描くのが楽しくなり、絵画は彼の息抜きの中心となりました。
 ガーシュインは音楽を作曲する際、感情に重要な価値を置いていたようです。「感情こそが、あらゆる芸術的な成果の偉大さを決定すると私は信じるのです。感情には、技術や知識よりも重要性があるのです。というのも、それがなければ、技術や知識には意味がないのです。もちろん感情だけでは不十分ですが、最も不可欠なものです。」また彼は、「ひとにぎりの教養のある人たちよりも、大多数の人が気に入るものを、アメリカ音楽の中に創り出す」ことを日指していたそうです。
 ガーシュインの生活は質素でした。酒はめったに飲まず、食べ物への関心は薄かったのですが、あらゆるスポーツを楽しんでおり、そのため余分な脂肪はついておらず、ボクサーのような体形をしていたそうです。
 1935年に民衆オペラ「ポーギーとベス」を作曲しましたが、その評価は当時、賛否両論でした。(しかしガーシュインの死後、正当に評価されるようになりました。)このオペラが失敗作と見なされたことにガーシュインは悩み、映画音楽制作のために移り住んだハリウッドの華やかな社交界でも心から楽しめず、「自分は弧独なロシア人だ」ともらすようになってしまいました。1937年に、UCLAにいたシェ−ンベルクと親交を深めましたが、この年に健康状態が悪化し始め、脳腫瘍のため38歳の若さでこの世を去りました。

 ガーシュインは典型的なアメリカの作曲家といわれています。確かにジャズの素材を用いてはいますが、彼の音楽にはユダヤ的、ロシア的な音楽が見え隠れしているのも事実です。しかしそれ以上に、彼の音楽は、個性的な、ガーシュイン自身の音楽であったというべきかもしれません。ガーシュインの音楽は、ポピュラーともクラシックともどっちつかずで矛盾しているように見えますが、これこそがガーシュインの本質をなす特殊性であり、彼の音楽に時代を越えた価値を保障していると考えられます。「ガーシュインは、アメリカ音楽が生みだした、わずかばかりの本物の天才の一人であることに間違いない。そして彼が、彼の時代の最も純粋で、最も真正の天才であったことが、いずれ示されることであろう。」(バーンスタイン)

pamph17p15.jpg <作曲の経緯>
 1925年のある晩、眠れなかったガーシュインは「ポーギー」を読み始めました。ところが本を読んで眠くなるどころかすっかり引きこまれ、「この本をもとにしてオペラを作りたい」と著者に手紙を書いたそうです。その後1934年から作曲に着手し、小説の舞台であるサウスカロライナ州のチャールストンで現地の黒人の音楽、生活習慣、言葉遣い等を研究し、1935年にオペラを完成させました。

 サウスカロライナ州とジョージア州にはアンコラ出身の黒人の社会集団「ガラ」があり、作者デュボースの母親は大農園でガラの言葉と民話に囲まれて育ちました。彼女の子供時代のこもり役の黒人は、アフリカを思い出す縁として「ポーゴ」という木の人形を持っていたそうです。このことを聞いていたデュボースは、小説の主役を「ポーゴ(ポーギー)」にすると決めていたそうです。しかし小説に出てくる「ポーギー」という人物は、サミー・スモールズという地元の人間をもとにしています。サミーは身体障害者であるにも関わらず加重暴行罪等で警察に捕まっており、小児マヒで両腕が使えなかったデュボースは、その新聞記事を見て共感を覚え、サミーを主役にしたのだろうと言われています。

 オペラのタイトルは当初、『ポーギー』とする予定でしたが、既に上演されていた戯曲『ポーギー』と混同される可能性があったため、デュボースが「オペラ『ペレアスとメリザンド』『サムソンとデリラ』『トリスタンとイゾルデ』などと同様に『ポーギーとベス』にしよう」と言って、そのように訣まったそうです。

 配役は全員、黒人で、まだ黒人差別が根強かった当時としては異例のキャストでした。「『ポーギーとベス』は黒人によってしか演じられてはならない。」(ガーシュイン)

 このオペラは当初、期待したような成功とはなりませんでしたが、ガーシュインの死後、世界各地で黒人のオリジナル・キャストで客演されるようになって初めて、評価を受けるようになりました。
「私が、『ポーギーとベス』のために流行歌を書いたのは本当です。私は優れた流行歌であれば、流行歌を書くことを別にはずかしいと思いません。流行歌というものは、オペラの伝統に属しているのです。これまで成功を治めた多くのオペラには流行歌があります。ヴェルディのオペラには、ほとんどどれをとってもヒットソングがあるのです。『カルメン』はほとんどヒットソングの集まりと言ってもいいのです。」(ガーシュイン)

<あらすじ>
第1幕
 舞台は1920年代のサウス・カロライナ州チャールストンの河岸、かつては上流階級のマンションでしたが、現在では黒人たちのスラム街となっているキャットフィッシュ・ロウ(ナマズ長屋)(Catfish Row)。そこでの夜の生活から始まります。クララは赤ん坊に子守歌を歌い(Summertime)、足の不自由なポーギーを含めた男たちはクラップ・ゲームを楽しんでいます。そこへ大酒のみでケンカ早いクラウンが情婦ベスを連れて現れ、ゲームに加わります。(ポーギーはかねてからベスに密かな思いを寄せていました。)急に怒りだしたクラウンはロビンズを襲い、ケンカの最中にロビンズを刺殺してしまいます。クラウンはその場から逃げ、一人残されたベスは、スポーティン・ライフから一緒にニューヨークに行こうと誘われますがそれを断り、ポーギーの部屋に身を寄せることになりました。夫を失ったセリーナは悲痛な歌を歌い、人々と共に冥福を祈るのでした。

第2幕
 1ヶ月後、2人は親密な関係となり、ポーギーは満足げに自分の境遇を歌にします(l Got Plenty O'Nuttin')。2人は愛を誓い合い、愛の二重唱を歌います(Bess,You Is My Woman)。その後、ベスはナマズ長屋の人々と一緒に島へピクニックに行きますが(Oh,l Can't Sit Down)、ひとりだけ帰途の船に乗り遅れてしまいます。そこへ、身を隠していたクラウンが現れ、ベスは連れ去られてしまいます。その1週間後、ベスはマリアによって島から連れ戻されますが、熱にうなされています。ベスはクラウンと再び一緒に暮らす約束をしてしまったことをポーギーに告白しますが、同時にポーギーを愛していること、クラウンから自分を守ってほしいとの本心を打ち明けます。間もなく外は激しい嵐となりますが、クラウンは約束通リベスのもとにやってきます。ベスはクラウンを拒みますが、クラウンは去ろうとしません。そのうち嵐は一段とひどくなり、漁に出かけた夫の安否を気遣うクララは外へ出て行きます。クラウンはクララの身を案じて外へ助けに向かうのでした。

第3幕
 クララとその夫は帰らぬ人となりましたが、クラウンはナマズ長屋に帰ってきます。そこヘナイフを持ったポーギーが現れ、大格闘のすえクラウンを殺してしまいます。ポーギーは警察に自首し、ベスは悲嘆に暮れています。そこに麻薬売りの遊び人スポーティン・ライフが現れ、麻薬をエサにベスをニューヨークに誘います。ベスは最初のうちは拒んでいますが、ついには連れ去られてしまいます。1週間後、釈放されたポーギーはベスを探しますが、既にニューヨークに行ってしまったことを知り、山羊の引く荷車に乗って決然とベスを探しにいくという、かすかな希望を残して幕が降ります。

<今回演奏する曲について>
 演奏会用の編曲としては、ガーシュイン自身が5曲を選んで組曲にしたもの(「キャットフィッシュ・ロウ」組曲(1936))、作曲家ロバート・ラッセル・ベネットがフリッツ・ライナーの依頼で編曲したもの(交響的絵画「ポーギーとベス」(1942))などがあります。今回は、このオペラに出てきた4つの曲をマンドリン・オーケストラ用に編曲した「ポーギーとベス」組曲としておおくりいたします。

1.キャットフィッシュ・ロウ(Catfish Row)
 第1幕第1場の序曲から子守歌までの部分の音楽です。まず、ファンファーレのような音楽で始まり、このオペラの舞台であるキャットフィッシュ・ロウ(ナマズ長屋)での夏の夜の生活が描かれます。その直後にいきなり、漁師の奥さんのクララが自分の赤ん坊を抱きながら子守歌を歌いますが、これが有名な「サマータイム(Summertime)」という曲です。今ではジャズのスタンダード・ナンバーの1つであり、多くのミュージシャンに歌われ、演奏されています。歌詞は次のような意味です。

夏はとてもいい季節、 魚は飛び跳ね、綿はよく育つ。
あなたのパパはお金持ちで、
あなたのママは美しい、
だから泣かずに、静かにおやすみ。
いつかあなたは、起きあがって歌い出し、
翼を広げて大空へ飛び立っていくのよ。
だけど、その朝までは、何も心配はないのよ、
パパとママがそばにいるから。

2.俺にはないものばかり(I Got Plenty O'Nuttin')
 ポーギーがベスと恋仲になったばかりのころに、ポーギーは幸せいっぱいでこの歌を歌います。町中の人は、「あの女が来てからポーギーは変わったんじゃない?」「あいつは今ハッピーなんだよ」とささやき合います。ガーシュイン、デュボース、アイラが打ち合わせをしている時に、「軽い調子の場面を入れた方がいい」ということになり、ガーシュインが即興的に弾いてみたテーマから、この曲ができたそうです。

おれにはないものばかり、
ないものがいっぱいある。
車もないし、ロバもないし、悲しみもない。
いっぱい持ってる人たちは、
ドアに鍵をかけてる。
外出してもっと稼いでる間に、
盗まれるのを恐れてるんだ。
でも、何のために稼ぐの?
おれんちには、ドアに鍵なんてないさ、
(そんなの必要ないし)
床から敷物を盗んでもいいよ、
おれはちっとも構わないさ。
だって、おれが大切だと思うものは、
空の星みたいに、みんなタダなんだ。
ああ、おれにはないものばかり、
ないものがいっぱいある、
でも、女はいるし、歌はあるし、
一日中天国にいるみたい!
なんの不満もないよ!
女はいるし、愛があるし、歌があるさ。

3.ベス、お前はおれのもの(Bess,You Is My Woman)
 タイトルの英語が間違っているかのように見えますが(you is→you are)、これがこの曲のタイトルです(このオペラでは1人称でもisが使われてます)。「おれにはないものばかり」の歌のあと、ポーギーとベスは見つめ合いながらこの歌を歌い、愛を誓い合います。

Porgy:
 
 
 
 
 
 

 

Bess:
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Porgy:
ベス、お前はおれのもの。
笑うときも歌うときも踊るときも、
一人だけのためではなく2人のためだよ。
眉間にしわを寄せないで、決して、
だって、昔の悲しみはみんな消えてなくなったから。
Oh,Bess,my Bess,
本当の幸せがいま始まったばかり。

ポーギー、私はあなたのもの。
私はどこにも行かないわ、
喜びを分かち合ってくれる限り。
眉間にしわなんて寄せないわ、決して、
私はどこにも行かないわ!聞こえてるでしょ、
あなたがどこにも行かないなら、
私はあなたと一緒にいるわ。
ポーギー、私はあなたのもの、永遠に。
朝も夜も夏も冬も。

朝も夜も夏も冬も、ベス、お前にはお前の男がいるよ。
(*このあと、2人が同時に別の歌詞を歌う。)
*Porgy:
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

*Bess:
ベス、お前はおれのもの、今もこれからも。
この人生は始まったばかり。
ベス、おれたち2人はいま、一つになった、永遠に。
おお、ベス、あの女たちのことは気にしないで。
お前にはポーギーがいるよ、ポーギーを愛しているね。
おれにはわかってる、お前の瞳を見てわかったよ、ベス。
歌いながら年を過ごしていこう、
Hmmmm・・・・・・朝も夜も夏も冬も。
My bess,my Bess.
今ここで約束する、この誓いを守ると。
Oh,my Bessie,おれたちは今、幸せだ。
おれたろは今、ひとつだ。

ポーギー、私はあなたのもの。
私はどこにも行かないわ、
喜びを分かち合ってくれる限り。
眉間にしわなんて寄せないわ、決して、
私はどこにも行かないわ!聞こえてるでしょ、
あなたがどこにも行かないなら、
私はあなたと一緒にいるわ。
ポーギー、私はあなたのもの、永遠に。
朝も夜も夏も冬も。Hmmmm‥‥‥…

Oh,my Porgy,my man Porgy.
今ここで約束します、この誓いを守ると。
Porgy,私は今、あなたのもの。


4.じっとしちゃいられない(Oh,I Can't Sit Down)
「ベス、お前はおれのもの」のあと、オペラではピクニックの場面になり、町のみんながやってきて「ピクニックのパレードが来たわよ!」と言います。この歌は、ピクニックに行くみんなで歌われるコーラスです。
おお、じっとしちゃいられない!
歌が流れるように歩き続けよう。
おお、じっとしちゃいられない!
恋人の晴れた笑顔とともに行こう。
今日は楽しい、自由気ままだ、
シャボン玉のよう、何の問題もなし。
おお、街に向かってる、
じっとしちゃいられない。
幸せな気分、骨の中まで、
今日はピクニックの日、隠すものもなし。
見た目は、しゃれて、お酒を持って、
おれたちは道の遠中、
だって今日はピクニック。

おお、じっとしちゃいられない、
太鼓をドーンと鳴らすようにジャンプしながら行こう!
おお、じっとしちゃいられない、
酒でいっぱいの海のように、動きたい気分でいっぱい!
今日は楽しい、自由気ままだ、
シャボン玉のよう、何の問題もなし!
おお、街に向かってる、
じっとしてなんていられないさ!

野ばらに寄す(To a Wild Rose)Edward Alexander MacDowell(1896)

pamph17p20.jpg  工ドワード・マクダウエル(1861−1908)はニューヨークに生まれ、パリ音楽院・フランクフルト音楽院で学び、アメリカ人作曲家としてヨーロッパで初めて認められた人です。作曲家としてのみでなく、ピアニストとしても活躍していました。作風はリストやワーグナーなどドイツ・ロマン派の伝統を受け継いでおり、アメリカの生活を題材にしたピアノ小品が愛好されています。代表作としては、2つのピアノ協奏曲や、インディアンの民謡を元に作られた管弦楽曲「組曲第2番『インディアン』」などがあります。

 今回演奏する「野ばらに寄す(To a Wild Rose)」は、10曲の小品からなるピアノ小品集「森のスケッチ(Woodland Sketches)」の第1曲目です。この小品集は、アメリカ東部の森林地帯の風景を描いたものであり、1896年、マクダウエルが35歳のときに作曲されました。「野ばらに寄す」の他には、「鬼火」「昔密かに会った場所で」「秋に」「インディアンの小屋から」「水蓮に寄す」「リーマンおじさんの話から」「荒れ果てた農園」「草原の小川のほとり」「日暮れの語らい」といったタイトルの曲が収められています。「野ばらに寄す」は当時、国際的なサロン・ピースとして非常に有名になったそうです。美しい情景が目に浮かぶような静かな曲です。(イ長調、4分の2拍子、With simple tenderness)

 マクダウエルは作曲後、この曲はとっておく価値がないと思って原稿をゴミ箱に捨ててしまいましたが、書斎の片づけをしていた奥さんがそれを見つけ、もう一度考え直すように言って、作品を発表することになったと伝えられています。

ラプソディ・イン・ブルー(Rhapsody in Blue)George Gershwin(1924)

<概説>
「ラプソディ・イン・ブルー」は、ガーシュイン25歳のときにポール・ホワイトマンの依頼で、ホワイトマンのジャズ・バンド用に1ヶ月で作曲されました。ジャズのイディオムとクラシックの協奏曲形式の融合された異色ある作品で、ガーシュインの名を一躍世界的にしました。当初はピアノとジャズ・バンドのために作曲されましたが、現在クラシック・コンサートで演奏されているのは、フアーデ・グローフェがピアノとオーケストラ用に編曲したものです。今回はピアニストに小川典子さんをお迎えし、マンドリン・オーケストラ・バージョンでおおくりいたします。

<作曲の経緯>
pamph17p21.jpg  この曲は、ジャズ・バンドを結成していたホワイトマンという人の依頼によって作曲されました。彼は、自分が作っている新しい音楽を演奏するために、「現代音楽における実験」というコンサートを開き、有力な聴衆にその音楽を聞いてもらうことを企画しました。彼が目指していたのは、「ジャズをレディーにすること」でした。ホワイトマンはガーシュインの作品に感動していたので、ガーシュインに、ジャズの言語で書かれたオーケストラ用の作品(シンフォニック・ジャズ)を作ってほしいと依頼しました。ガーシュインはあまり気が乗らないでいましたが、ホワイトマンがコンサートの予告を新聞に掲載して「ジョージ・ガーシュインがジャズ協奏曲を作曲中」と書いてしまいました。幸いガーシュインはこの提案を断ろうと思っていながらも、頭からこのことが離れなくなり、曲のアイデアがどんどん浮かんできていたので、ホワイトマンの依頼を受けて作曲を開始しました。この曲の全体像は、ボストン行きの電車の中で出来あがったそうです。

ガーシュインは次のように言っています。「機械のリズム、律動する衝撃音は、作曲家をよく刺激するので、突然ラプソディの完全な構想が初めから終わりまで聞こえ、楽譜としてすら見えたのです。新しい主題は浮かびませんでしたが、主題的素材はすでに頭の中に創ってあり、作品全体を頭に浮かべようと努めました。

私にはそれは、アメリカの音楽的万華鏡として聞こえました。巨大な人種のるつぼの、国家的精力の、ブルースの、都会的狂騒の音楽的万華鏡として。ボストンに着くころには、私は作品の構想をはっきりと持っていました。」ちなみに当時のジャズとは、一般には激しいダンス音楽や軽音楽を表すものとして使われていたようです。

 ガーシュインは、協奏曲というきちんとした構造に縛られるのがイヤで、リストの交響詩を手本として自由なラプソディ(形式は一定せず、情熱的な特徴を持つ器楽曲)の形式を選びました。そして自分はアメリカの音楽を作っているのだという終生の思いに乗っ取って、この作品を「アメリカン・ラプソディ」という題名にしようかと考えたそうです。しかしある日、兄のアイラにこのことを言うと、アイラはその日ちょうど、「ブルーとグリーンのノクターン」という題名の絵を見ていたので、「『ラプソディ・イン・ブルー』ってのはどうだい?」と提案しました。ジョージはそれが気に入って、この曲のタイトルが決まったそうです。「ブルー」には憂鬱なという意味がありますし、また、「ブルース」に引っかけているとも考えられます。さらに、ジャズで使われる「ブルーノート(憂鬱な音符)」という方法(ある音を半音下げて短調っぽくすることで憂鬱感を出す方法)も連想されますね。

pamph17p22.jpg  この曲の中間部にブルース調のゆっくりした主題が現れますが、この部分は兄アイラが提案したそうです。リハーサル中にガーシュインは、この旋律が曲をもたつかせると感じたのか、この主題を取り除こうとしたそうですが、グローフェがこの主題を残しておくように強く薦めて、結局残ることになりました。

 ジョージは、この曲を2台のピアノ用の作品のように作曲しました。自分がまだオーケストラのスコアを書けるような柄ではないと思っていたので、編曲は、ホワイトマン・バンドの編曲者だったファーデ・グローフェ(「グランド・キャニオン」の作曲者)に頼みました。作曲中、ブローフェはガーシュインの家に住み込み状態だったそうです。この時期、ガーシュインはミュージカルの作曲に忙しかったにも関わらず、1ヶ月程度でこの曲は完成されました。第1版の編曲(ピアノとジャズ・バンド用)では、バンジョーも入っていました。現在我々がクラシックの演奏会で聴くことが多いのは、その後、グローフェが編曲しなおしたオーケストラ版です。

 この曲は、冒頭のクラリネットのグリッサンドが印象的ですが、ガーシュインはもともとこの部分を、17連符で書いたそうです。しかしグリッサンドが得意だったホワイトマン・バンドのクラリネット奏者が、退屈さからか気まぐれからか、リハーサルのときにクラリネットを無理矢理「引きずって」グリッサンドで吹きました。他のクラリネット奏者には簡単にはできないようなことでした。ガーシュインはその効果が気に入ってスコアに書き込み、こうして、「ラプソディ・イン・ブルー」に輝く出だしが生まれたのでした。

<初演の様子とその後の評価>
 この曲は1924年にニューヨークで「現代音楽における実験」というコンサートにおいて初演されました。作曲者自身によるのピアノ、ホワイトマンの指揮、及びホワイトマンの楽団によって演奏されました。このコンサートには、ラフマニノフ、ストラビンスキー、ストコフスキーらも来ていたそうです。これを聴いたアメリカ音楽界の各方面の巨匠が絶賛を送り、圧倒的な成功を収めました。その後この曲はあちこちで演奏され、この年だけで84回も演奏されたそうです。初演後すぐにレコードが発売され、その後、アメリカで最も長期間売られたレコードになりました。

 レナード・バーンスタインはこの曲について、次のように言っています。「ラプソディ・イン・ブルーには類型的な反復進行が多い。一つの楽想を展開させようとするときに、それが彼が実際に知っていた唯一の方法であったわけです。そして形式はと言えば、各部がカデンツァによって漫然とつながれているに過ぎません。このように、この曲は、各部分のくぎりが非常に明確であり、また不規則な移り方をしているので、カットしたり、各部を入れ替えたり、半分を省略したり、逆から演奏したり、あるいは、ピアノとかオルガン、バンジョーなど、なにを使ってでも演奏することができるのです。しかしどう扱おうと、それが『ラプソディ・イン・ブルー』である事実は変えようがありません。なぜでしょう。それは、「旋律」がそれほど素晴らしいということなのです。そこに見られる絶対的な独創性は、これからも決してその新鮮さを失うことはないでしょう。

 もし皆様が、ガーシュインはつまらない、と思いたくなったり、まじめに取り上げることに躊躇を感じるようなときは、次のことを思い出していただきたいのです。つまり、ガーシュインの悲劇は、彼が38歳で亡くなったということ、彼のテクニックがようやく実を結び始めた時期にこの世を去ったという点です。この非常に才能ゆたかな人が、なまのジャズの素材を、どれほどまで高めることができたか、一体誰が知ることができるでしょう。」

<この曲について>
 この曲は、自由なラプソディ形式で書かれていますが、全体的には三つの部分に分けることができます。また、古典的な協奏曲の形式に似ていると考えられます。

 まず、クラリネットのソロによる低いトリルから一気に上行するグリッサンドで曲が始まり、主題が奏されます(変□長調、4分の4拍子)。ギターによるリズミックな副主題が顔を出したあと、冒頭の主題が1stマンドリンによって繰り返されます。次にピアノが新しいモティーフを提示してすぐに、冒頭の主題が全楽器で一斉に奏されます。そしてピアノ独奏部が始まります。このカデンツァ的な部分で、先に提示されたテーマが変形され発展します。(このように、オーケストラが主題を提示したのろに独奏楽器がそれを繰り返すという形式が、古典的な協奏曲の形式に似ていると考えることもできます。)ピアノ独奏部のあと、ピアノとオーケストラが既出のテーマやモティーフなどを用いて、軽やかに曲は進んでいきます。ピアノのカデンツァが華やかに演奏された後、叙情的な第2の部分に入ります。ここではまずオーケストラによって、ホ長調のブルース主題が奏されます。ロシア的な雰囲気が感じられるような気もします。この主題はフォルテッシモで再び奏されてクライマックスを築き、それが静まるとピアノの独奏部に入ります。ピアノでブルース主題が繰り返されたあとLeggieroの部分に入り、曲は最後の部分(第3の部分)へと移っていきます。最後の部分はアレグロ・アジタート・ミステリオーソ、オーケストラによって第2の部分の主題が再び現われます。最初の部分のモティーフ等も顔を出し、Grandiosoになって最初の部分の副主題も登場します。終わりに近づくにつれて興奮を高めていき、冒頭の主題が力強く盛りあがりの頂点を作って、曲が閉じられます。

参考文献
 音楽之友社編「ガイドブック音楽と美術の旅 アメリカ」(音楽之友社)、井上和男編「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)、ジョーン・ベイザー著、鈴木主税訳「レナード・バーンスタイン」(文芸春秋)、レナード・バーンスタイン著、岡野弁訳「バーンスタイン 音楽を語る」(全音楽譜出版社)、イーアン・ウッド著、別宮貞徳訳「ガーシュイン 我、君を歌う」(ヤマハ)、ハンスペーター・クレルマン著、渋谷和邦訳「大作曲家ガーシュイン」(音楽之友社)、ジョーン・ベイザー著、小藤隆志訳「もうひとつのラプソディ ガーシュインの光と影」(青土社)




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