現代の露土戦争〜Laleli, Istanbul
 
現代の露土戦争
〜 Laleli, Istanbul
 

   夕食前の散歩がてらに近くのメリット・アンティークを見に行く。新市街のペラ・パレスと並び称される、イスタンブールを代表する由緒あるホテルだ。かつての個人の邸宅四つをアーケードでつないだという建物は重厚かつ壮麗で、いかにも歴史の重みを感じさせる。
 ところが、内部は機能的なシティホテルのようにすっきりとしていて、外観からは想像もつかないほど軽い。中央に設けられたロビーは天井まで続く吹き抜けとなっており、半透明の屋根を通して降り注ぐ光が、クリーム色の壁と相まって明るい雰囲気を醸し出している。
「豪華なのかと思ってたけど、意外と敷居が低そうだね」
「料金もそんなに高くなかったわよ。ここにしようかとも考えたくらいだから」
 宿泊客のふりをして、しばしソファでくつろぐ。そうしているうちに海外旅行特有の緊張感がだんだんとなくなってきた。外国にいるという気がしない。同じモンゴロイド系民族の国だからか。パッケージツアーではないからか。それとも単に慣れただけなのか。
 外へ出ると、そろそろ宵の口といった暗さになっていた。大通りを渡り、ホテルへと戻る道すがらで食べる店を探すことにする。ラーレリと呼ばれるこの辺りの地区はちょっとした繁華街になっていて、石畳の路地に飲食店や服飾店が並んでいる。
「思ってた以上にヨーロッパっぽいね」
「世界的にも、イスタンブールのこっち側は一応ヨーロッパってことになってるからね」
「ちょっと待て。あれは何だ」
 僕の指摘に全員が立ち止まった。見上げたビルの二階がショーウインドーになっている。一見、ブティック風だが、居並ぶマネキンが身に付けているのは明らかに女性用の下着だ。しかも、ラメやサテンが多用された刺激的なデザインだ。そういう目で見るせいか、ネオンサインもなんだか妖し気な光を放っている。
「いいのかな。仮にもイスラム国でしょ。女性は肌を露出させたらいけないんだよね」
「さっき、ヴェールで顔を隠している人いたよ」
 そんな会話をしている横を、セクシーな白人女性が通り過ぎていった。化粧の濃い香りをプンプンと漂わせ、ケバい服に身を包んでいる。とても堅気の商売とは思えない。
「ロシアだ。モスクワからの飛行機でいっぱい見たぞ」
「夜のお姉さんだよね」
「ここって、そういう人たち向けの店ってこと?」
 トランジットで乗り継いだアエロフロートが満員だったので不思議に思っていたが、こういう訳だったのか。みんな出稼ぎに来ているのだ。ソ連崩壊後の混乱で国内経済が破綻したため、仕事を求める人々が大挙してトルコに押し寄せているのだ。特に女性は手っ取り早く稼げる手段が限られる。
 18世紀から19世紀にかけ、ロシア帝国とオスマン帝国は幾度も戦火を交えた。いわば仇敵だ。だから、トルコの男にとってこの状況はさぞかし痛快だろう。かつての敵国の女が今は自分のためにかしずいてくれるのだから。しかし、彼女たちはどう思っているのだろうか。それとも、プライドより金と割り切っているのだろうか。
 かつて日本が朝鮮半島の女性たちを従軍慰安婦として徴用した歴史を思い出した。国と国との力関係は、いつの時代も国民の境遇に如実に影響を及ぼす。どうやら、現在の戦勝国はトルコの方であるようだ。
 

   
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幻想のトルコ
 

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