豊かな社会〜Kolkata(Calcutta)
 
豊かな社会
〜 Kolkata(Calcutta)
 

   コルカタで一番多い職業、それは物乞いだと言われる。そもそも職業と呼べるのかという疑問はさておき、確かに多い。街中のいたるところで見かける。大通りでは露天商のように列をなして歩道を埋め尽くしている。目の前に空き缶を置いたままじっとして動かないその様子からは、帰るところがありそうにも思えない。
 彼らは不具者であることが多い。どのような理由でそうなったのかはわからないが、肘や膝から先がなかったり、目が潰れていたりする。顔が不自然に変形していたりもするので、ひょっとしたら癩病なのかもしれない。普段このような人々を目にする機会の少ない日本人にとっては、いささかショッキングな光景だ。
 障害を抱え、住むところもなく、施しに頼るしか収入の手段がないとは、単純に考えるとかなり絶望的な状況だ。生きていけるとは到底思えない。しかし、不思議なことにコルカタで大量の餓死者が出たというニュースを聞いたことがない。
 報道管制が敷かれているとは思えない。第一、この街を訪れる外国人は多いのだから、何か異常なことがあれば遅かれ早かれ情報は世界に伝わる。ということは、一説に200万人とも300万人とも言われる物乞いたちはそれなりに生きていっているのだ。
「ここでは一日1ルピー以下で生活している人がたくさんいます」
 ガイドは平然と言うが、どうすればそんなことが可能なのか。大雑把に見て1ルピーは約3円。貨幣価値や経済の発展段階が違うとはいえ、仮にインドの物価が日本の100分の1だとしても300円。食べていけるレベルではない。
 そう考えた時にふと気づいた。逆説的だが、もし300円で生きていけるのならば、その方が豊かな社会と言えるのではないか。
 経済学的には異論があるだろう。しかし、多量の金銭に恵まれた社会が本当に豊かな社会なのか。通貨価値の高い国が本当に良い国なのか。一人当たりのGDPが高い国ほど民衆は満足な暮らしを送れているのか。
 何かが違う気がする。
 日本では路上生活者になることは社会からの落伍を意味し、場合によっては生命の危険に直結する。インドでは路上生活者にも社会の一員としての居場所があり、それなりに生きていける。
 日本では癩病者は歴史的に社会から隔離され、政府により厳しく差別されてきた。インドでは癩病者が不当に閉じ込められることなく、健常者と同じ街角で過ごしている。
 両腕に大きなバッグをいくつも抱えた男がバスの脇を走り過ぎて行った。鞄屋だ。きっと持っている品物が商品のすべてだろう。もちろん店などない。それでも彼はれっきとした鞄屋だ。大きく儲けることはできないだろうが、与えられた条件の中で彼は彼なりにベストを尽くしている。そして、懸命に生きている。
 そう思った途端、感動で胸が一杯になった。この国ではひとりひとりが自分にできることを精一杯やっている。貧富の差は激しく、国全体としては発展途上かもしれないが、誰もがどこかしらに居場所を見つけ、生きていくことを許されている。なんて懐の深い社会なのだろう。
 豊かさを測る物差しは本当に経済学的な指標でよいのだろうか。ひょっとして、僕たちは何か大きな見落としをしているのではないだろうか。
 

   
Back ←
→ Next
 


   

  (C)1996 K.Chiba & N.Yanata All Rights Reserved