この宇宙で最悪の場所〜Kolkata(Calcutta)
 
この宇宙で最悪の場所
〜 Kolkata(Calcutta)
 

   タラップに降りた途端、思わず咳き込んだ。まるで咽喉にコールタールを塗りつけられたような感じだ。滑走路の向こうに厚く垂れ込める漆黒の空は、けして宵闇のせいばかりではないだろう。呼吸をするたび得体の知れない微粒子が粘膜にまとわりついてくる。何という大気汚染。何という公害。何という……そう呟いたきり次の言葉が出てこなかった。これがインドなのか。
 この国を訪れた者は二種類に分かれると聞く。ハマるか、それとも二度とゴメンだと思うか。ふたつにひとつ。中間はない。
 果たして自分はどちらなのか。それを確かめたくてやって来たのだが、正直、不安は大いにあった。心のどこかで「自分には無理だろう」と感じていたのだ。しかし、一度しかない人生、時にはそんな経験も一興だ。観光というより、もうほとんど怖いもの見たさだ。
 ところで、そんな旅だからこそなおさら入国地はコルカタにしたいと思った。何しろ19世紀のイギリス人をして「この宇宙で最悪の場所」とまで言わしめた街だ。酷評にかけては名うての国の、その中でも最上級の評価を得た都市なのだ。彼らの言い分を信じるならば、ここよりひどい生活環境は地球上に存在しない。逆に言えば、この街でやっていけるのなら世界のどこででもやっていける。そこまで言われたら行ってみるしかないではないか。
 滑走路を歩いてターミナルビルへ。バラックと見間違えるほど粗末な造りの建物だ。内部は灯りが少なく、雰囲気も暗い。だんだん心細くなってくる。
 入国審査を通過しスーツケースを受け取った僕たちは、まず両替をすることにした。出口近くにオンボロなカウンターがあり、男が手招きしている。レートを確認した後で手持ちのドルをいくらか衝立て越しに手渡す。目にも留まらぬ手際の良さでルピー札が返ってきた。
 しかし、僕は見逃さなかった。次の客を呼ぼうとする男を制し、受け取った札を目の前で一枚一枚数えて見せる。案の定、足りない。
 衝立ての中に手を突っ込み、くすねた分を出せとゼスチャーで迫る。こんな時は言葉より態度だ。わかってんだよ、外国人だからってナメんじゃねえぞ。男は両手を拡げ「はて?」ととぼけていたが、僕の視線に本気を感じたのだろう、やがて根負けして追加の札を渡してくれた。やれやれ。
 出口で現地ガイドが待っていた。他のツアーメンバーとともにバスに乗り込みホテルへと向かう。既にかなり疲れてしまった。明日からどうなってしまうのだろう。
 しかし、サプライズはまだ終わりではなかった。ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、僕は思わず自分の目を疑った。霞が棚引いていたのだ。仙人が食べる、あの霞だ。見た目にもはっきりと白く、まるで雲の中にいるようではないか。何なんだ、これは。何が起こっているのだ。いったい、どういう状況なのだ。
 しばらく目を凝らしていると徐々に事情がつかめてきた。あまりに空気が澱んでいるために、舞い上がった塵や埃が沈殿せず空中で固定化され、ガスとなって漂っていたのだ。何という大気汚染。何という公害。何という……またしても僕は言葉を失った。
 凄いところに来てしまった。これはもう好きとか嫌いとかいう以前の問題だ。凄いとしか言いようがない。甘く見過ぎていた。いや、心の準備は充分にしてきたはずだったが、結果として足りなかったということだ。
 到着して1時間、イギリス人が語った言葉の意味を、早くも僕は肌で感じ始めていた。
 

   
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