遺跡という名の工芸品〜Banteay Srei
 
遺跡という名の工芸品
〜 Banteay Srei
 

   未舗装の田舎道を、土煙を上げながら走ること一時間。田んぼの中に小ぢんまりと樹木が茂る一角が見えてきた。鎮守の森だろうか。地元の人々が長年護ってきた社でもあるのだろう。ここまでの道すがらもそんな雰囲気だった。道祖神やお地蔵様が似合う。東北で生まれ育った僕にはどこか懐かしい眺めだ。
「さあ、着きました」
 え?
「バンテアイ・スレイです。日本の皆さんには特に人気の高い寺院です」
 ガイドが言ったことを理解するまでに、僕には一瞬の間が必要だった。バンテアイ・スレイが遺跡群の中心エリアから少し離れた場所にあることは知っていたが、まさかこんなところだったとは。寺院というより屋敷森。木立に埋もれるくらいだから高さも推して知るべしだ。これまでワットやトムといった巨石建造物ばかり見てきたので、大きさの感覚が今ひとつ掴めない。
 駐車場も当然舗装されていなかった。というか、ほとんど畦道の外れだ。辺りには土産物屋のひとつもない。知らなければ、それこそどこぞの八幡宮と思って通り過ぎてしまうことだろう。
 地面が赤い。シェムリアップの街中では気づかなかったが、案外これがインドシナ半島本来の土の色なのかもしれない。強烈な太陽に照らされ過剰に酸化してしまった鉄分。手で掬うと指の間からハラハラとこぼれていく。温かく、それでいてもろい。
 木立に囲まれた参道を抜けると池に出た。その向こうにひっそりと佇む遺跡がある。古民家のように慎ましく周囲に溶け込んでいる。カンボジアでも高級住宅地ならもっと大きな家はざらにあるだろう。だが、これがバンテアイ・スレイの全景なのだった。
 木々の間を縫うように射す光が濃い陰影を刻んでいる。茜色に染まる祠堂、そしてそれを取り巻く周壁。午前中だというのに斜陽を感じさせる。バンテアイ・スレイはアンコールでは珍しく建築資材として赤砂岩を利用した。そのため醸し出される趣が他の遺跡とはまるで異なっている。同じ赤砂岩のヒンドゥー遺跡であるインドとも違う。優美で曲線的な一方、どこか儚げな郷愁が漂う。おそらくそれが日本人の琴線に触れるのだ。
 境内の構成はいたってシンプル。中央祠堂と拝殿、それに左右ひとつずつの経蔵があるだけ。基壇も回廊もなくすべて平屋だ。しかし、それらに施された装飾は評判通り精緻で美しい。特に経蔵の破風が素晴らしい。ヒンドゥー神話をモチーフとして、登場する神々や動植物を微に入り細を穿ち表現している。まるで曼荼羅だ。大きいものを派手に見せられるより、かえって奥深さが伝わってくる。
 ワットやトムとは目指している方向が正反対だが、懸けたエネルギーはけして引けを取らないだろう。素材が加工しやすい砂岩であることを割り引いても、ここまで彫ることのできる職人がそう多くいたとは思えない。「クメールの宝石」と称されるのも納得がいく。
 帰路は裏の楼門から出て、池沿いをUターンするように入口へと戻る。逆さまになった祠堂が水面に映っている。歩くにつれ光の角度が変わり、地上の遺跡も少しずつ表情を変えていく。
 浄土庭園のようだと思った。幼い頃の遊び場だった奥州平泉の毛越寺に似ている。あそこにも池があり寺院があった。素朴で静謐な空間が拡がっていた。
「バンテアイ・スレイは、アンコール・トムのような王宮やアンコール・ワットのようなお墓ではなく、王朝の菩提寺でした。ご先祖様を供養するための施設だったんですね」
 菩提寺か。さもありなん。遺跡というより作品なのだ。平穏至極な極楽浄土を現世に再現してみせた工芸品なのだ。だから、人里から遠く離れたこんな片田舎に建てられたのだ。先祖代々の魂が、誰にも邪魔されず安らかに眠れるように。
 

   
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