<入社以前の風景>

【寺町】 堀江さんは子どもの頃、どういう遊びをされていたんですか

【堀江】 野球盤なんかやりましたよ。野球盤が上級生の友達の家にあって、そのゲームを遊びたかったんだけど、ボールがなくて、火箸の上についている玉を工具で切って使ったんですよ。

【寺町】 あれって鉄じゃないですか。切れるもんなんですか?

【堀江】 切れましたよー(笑)。はじめて見たテレビゲームは中学生頃の千葉駅ビル屋上にあったPONGです。1ゲーム100円くらいの。高校〜大学の頃はテレビゲームはなかったし、ゲームセンターにも行かなかった。

【寺町】 堀江さんは工学部卒ということですが、その頃の学生たちの間でテレビゲームはどんな風にみられていたのでしょう

【堀江】 他の学生は全然知らなかったですね。

【寺町】 この頃テレビゲームとは、ポンテニス以外の何者でもなかったと思うんですが、これ以上のものが将来遊べるといった予想とか、こういうものをつくりたいという構想はあったんでしょうか?

【堀江】 まずは、何をつくるというよりも、こういうテレビゲームをつくる仕事に携わりたいという気持ちでしたね。 面接で志望動機を聞かれるんですね。で、「御社はテレビテニスをおやりで、テレビゲームがつくりたくて」と言いますと「ああ、あれはもう製造中止なんで」、と一緒にいた取締役の方が言われまして、一瞬グっとしました(笑)。
で、「入って営業を3年くらいやってもかまわんだろう?」といわれて、まあ、入りたい一心で「はい」なんてこたえちゃうわけですよね。それで、本当に営業になっちゃって。

<役に立った営業での経験>

堀江氏 【堀江】 まあ、ラッキーだったんですよ。面接の時は教えてくれなかったんだけど、丁度その時、システム10を開発中だったんですよ。これが78年に発売されて、私も営業の時、売ったんですよ。 でね、業界も、うちの会社も、お客さんもそうだったんですけど、家庭用テレビゲームをテレビにくっつけるって文化がなかったわけですよ。今はビデオ端子があって、少し前はスイッチボックスってのがあって、あれにつなげればいいってのはみんなわかってますよね。あとチューニングも2chにすれば映るとか。でも、そういう最初の頃は、画面がうつらないという苦情が毎日のようにかかってきたんです。

だから、うちの果たした役割というのは、任天堂さんのファミコンが出る前だったから、露払いなんですね。すごい啓蒙活動をしたんですよ。その頃私は大阪の営業所にいたんですけど、もう、ダメだったらほとんどお客さんの家までとんで行きましたよ。電話での説明は難しいので。営業所(大阪)から和歌山くらいまで。関西の方は親切な人が多くて、電話の時は「わ、恐いなー」と思っていても、いろいろごちそうしてくださったり。ビールや夕飯までごちそうになってしまって(笑)。

昔のテレビって画面の範囲がせまいんですね、画面の角が丸くて、だからゲーム画面が全部入ってないとか、そんなことが多かったんです。水平振幅や垂直振幅の調整までやってあげちゃうわけですよ。後ろに回って掃除機かかえてほこり取ってあげたり、曲がってたりしたら直して。今だったらちょっと危ないというか(笑)。壊れちゃったといわれても、こまっちゃうんですけど。
だから、そういう技術的な部分で、大阪営業所が一番になったわけです。随分レポート書きましたね。

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