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北方領土問題−やさしい北方領土のはなし

 北方領土って知っていますか?


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北方領土って
知っていますか?




北方領土って、どこですか?

 いま、日本の政府は、千島列島の、ハボマイ群島、シコタン島、クナシリ島、エトロフ島(注)を日本の領土だと言っています。
 しかし、1951年は、ハボマイ群島、シコタン島は日本の領土だけれど、クナシリ島、エトロフ島は日本の領土ではないと言っていました(注0)。1956年に、今のように言うようになりました。だから、今は、北方領土と言うと、ハボマイ群島、シコタン島、クナシリ島、エトロフ島のことを言います。

 戦後、ずっとソ連・ロシアの領土なので(注1)、ゆたかな自然がのこっています。このため、島には、ヒグマやキタキツネ、クロテン、トドのほか、オジロワシやエトビリカなど、ふだん、目にすることのできないめずらしい動物がたくさんいます。これからも、たいせつにまもってゆきたいものです。

 シコタン・クナシリ・エトロフなどの地名は、日本語ではなくて、アイヌ語などのことばです。ふつうはアイヌ語だと思われていますが、千島列島にはアイヌのほかに、千島アイヌ・ウィルタ・ニヴフ・イテリメンなどの北方民族の進出もあり、また、アイヌ文化より前には、オホーツク海に広がるオホーツク文化が、さかえていたので、アイヌ語とは別の北方民族の言語が、もとになってるのかも知れません。もし、アイヌ語だとすると、シコタンは『シ(大きい)コタン(村)』、クナシリは『クンネ(黒い)シル(島)』あるいは『キナ(草の)シル(島)』です。エトロフは、『イト(みさき)オロ(ところ)プ(もの)』で『みさきのところにあるもの』の意味です。

 写真(しゃしん)は、海から見たクナシリ島。




日本政府の説明は、世界の人に理解されているのですか?

 北方領土問題は、日本とロシアの問題なので、ほかの国の政府は、あまり口出し、しないようです。
 世界で一番有名な百科辞典である『ブリタニカ百科事典』で調べると、英語で、次のように書いてあります。

千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17、18世紀の探検に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島をうばいとり、1875年には全千島列島を領有した。1945年、ヤルタ協定にもとづいて、 島々はソ連にゆずりわたされた。日本人は引きあげ、かわってソ連人が移住した。日本は、今でも、南部諸島に対する歴史的権利を主張し、 島々に対する日本の主権を回復するように、ソ連・ロシアを、くり返し説得している。(原文はここをクリックしてください

 これは、ロシアの説明とだいたい同じで、日本政府の説明とは全くちがいます。このように、日本政府の説明は、世界中からあまり理解されていません。





なぜ「北方領土」と言うの?

 日本は、1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で、千島列島を放棄(ほうき)しました。千島列島は日本の>領土ではないと、世界に向かって約束しました。
 クナシリ島・エトロフ島は千島列島の南のほうにあるので、「千島列島南部(ちしまれっとうなんぶ)」「南千島(みなみちしま)」と呼ばれていました。サンフランシスコ条約を結んだとき、日本政府は「クナシリ島・エトロフ島はサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれる」と公式に説明していました(注0)
 ところが、それから5年後の1956年になると、日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄した千島列島にクナシリ島・エトロフ島に含まれない」と言いました。そうするとおかしなことになります。「サンフランシスコ条約で千島列島は放棄したけれど、南千島は千島列島ではない。」
 1956年になってから、言うことを変えたために、日本語としておかしなことになってしまいました。そこで、日本政府の主張が正しいと感じるように、「北方領土」と言うようになりました。国会で「北方領土」のことばを最初に使った人は、外務省の下田武三(しもだたけぞう)さんで、1956年3月10日のことです。クナシリ、エトロフ、シコタン、ハボマイのことを北方領土と言うようになったのは、1956年からですが、1960年までは「北方領土」よりも「南千島」といわれることのほうが多かったようです。
 1964年になると、これまでの「南千島」ではなくて、「北方領土」と言うように、政府は国民に指図(さしず)しました。これによって、「北方領土」と言うと、クナシリ島・エトロフ島・シコタン島・ハボマイ群島のことになりました。
 もっとも、1970年代は「北方領土」のほかに「南千島」の言い方も行われていたので、「南千島は、千島ではない」と、わけの分からない言い方がされることもありました。最近は、「南千島」はあまり使われず、「北方領土」が使われています。

(国会で「北方領土」「南千島」用語が使われた回数。詳しくはここをクリックしてください。)





北方領土には、どんな人が住んでいるの?


 現在、ロシアの領土なので、ロシアの人が住んでいます。ロシアはいろいろな民族が住んでいる国なので、北方領土に住んでいる人も、民族はいろいろです。


 写真は、日本人旅行者をにポーズをとる、クナシリ島の子供たち。


(このページのクナシリの写真は、すべて、2008年に北方領土旅行をした松村氏が撮影したもの)



北方領土に日本人は行けるの?

 行けます。ロシアの領土なので、海外旅行になります。日本から直接北方領土に行く船や飛行機はないので、サハリンから行くことになります。
 ただし、日本政府は日本の領土だと主張しているので、日本人には行ってほしくないと言っています。また、北方領土の観光旅行を募集することを、日本政府はみとめていません。このため、自分で手続きをしないとならないので、かなりめんどうです(注2)

 日本政府は日本の領土だと主張しているので、日本政府の事業と無関係・無許可に、北方領土に行かないようにと言っています。もし、日本政府に、にらまれると困る仕事をしている人や、お父さん・お母さんがそのような仕事をしている人は、日本政府の事業とは無関係な北方領土旅行をしないよう強くすすめます。


北方領土旅行方法の詳しい説明はここをクリックしてください。




北方領土に、手紙は出せるの? 北方領土に手紙を出すとき、切手はいくらはればいいの?

 出せます。
 北方領土は、ロシアの領土なので、ロシアに手紙を出すときと同じです。航空便で25g以下の手紙を出すならば110円の切手をはります。
 北方領土は、ロシアの領土なので、あて名には、ロシアの国名『Russia』あるいは『Russian Federation』と、かならず書きます。英語のほかに、フランス語、ロシア語もみとめられています。手紙の中身は何語(なにご)でもかまいませんが、あて名は、英語・ロシア語・フランス語のどれかで書きます。ふつうは、国の名前は英語でRussiaと書いて、それ以外はロシア語で書くのが良いでしょう。
 
 たとえば、エトロフ島クリリスクのギドロストロイ会社に手紙を出す場合は次のように書きます。右側は、わかりやすいように日本語で意味を書きましたが、手紙のあて名は左のように書いきます。この中で、694530とあるのは郵便番号です。

ЗАО ≪Гидрострой≫
694530 Сахалинская область,
Курильский район, г. Курильск,
ул. Заречная, 11-а.
          Russia
株式会社≪ギドロストロイ≫
694530 サハリン州
クリル地区 クリリスク市
ザレチュナヤ通り 11-a
         ロシア

 
 日本政府は「北方領土は日本の領土だ」と言っています。ところが、郵便は、外国あつかいです。それに、北方領土にかってに旅行するなといっているのに、北方領土への手紙は外国として、あつかっています。
 郵便は万国郵便条約(ばんこくゆうびんじょうやく)と言う、世界のきまりにしたがっているためです。旅行は日本政府が国民に「旅行するな」と言う事が可能(かのう)です。しかし、郵便は世界の決まりがあって、日本政府も、世界の決まりを守らなくてはならないのです。





北方領土に日本人は住めないの? 北方領土に日本人は住んでいるの?

 日本政府は国民に「北方領土に行くな」と、さしずしているので、北方領土には、日本人は一人も住んでいないことになっています。しかし、北方領土にあるロシアの会社で、日本人が働いていることがあるので、こういう人たちが、北方領土に住んでいることがあるはずですが、くわしいことはわかりません。
 また、サハリン州知事だったフョードロフさんは、日本のアイヌの人たちに「いつでも来てください」と言っているそうです。

 1945年に、日本が戦争に負ける前までは、北方領土には1万6千人ほどの日本人が住んでいました。また、北方領土と同じように日本の領土だった南サハリンには40万人ほどの日本人が住んでいました。日本が戦争に負けて、北方領土や南サハリンがソ連の領土になっても、すぐには、日本へ帰国することがゆるされませんでした。 1946年12月に、日本へ帰国することがゆる)されるようになると、ほとんどすべての日本人は、日本に帰ることを希望して、1949年7月までに、日本へ帰国しました。
 エトロフ島で学校の先生をしていた高田彌彦さんは、日本に帰らないでハバロフスクで日本語の先生をしてくれないかと、たのまれたようですが、日本に帰りました。また、千島の一番北にあるシュムシュ島に住んでいた別所二郎蔵さんは、島にとどまるように頼まれましたが、ことわって日本に帰りました。
 2011年3月8日の読売新聞によると、クナシリ島出身の小野(旧姓・澤崎)弥生さんは、ロシア語を覚えて、通訳をしていましたが、1948年10月頃にクナシリ島からひきあげました。この時、ソ連の人から「行くな」と、何度も何度も、引き留められましたが、日本に帰りたかったので、ひきあげました。いったんサハリンに行き、そこで、通訳をしました。この時も、ひきとめ工作は続き、しまいには「大学で日本語を教える教授になってほしい」と言われましたが、約3週間後、日本への引き揚げ船に乗って、帰国しました。
 また、2011年3月9日の読売新聞によると、エトロフ島・紗那(しゃな)に住んでいた西雪(旧姓・水戸部)恭子さん(当時17歳)のお父さんは、鮭鱒孵化場(さけますふかじょう)エトロフ支場長でした。ソ連の人たちは「ひきあげずに島に残り、孵化(ふか)の指導をしてくれないか」「希望すれば、子供たちを全員、モスクワの医科大学に行かせてあげる、学費は国家がめんどうをみる」と言って、ひきとめました。しかし、どうしても日本に帰りたかったので、ソ連の要求を断って、日本に帰りました。西雪恭子さんのお父さんがことわったので、代わりに部下だった八木沢さんが島に残りましたが、その後、八木沢さんも日本に帰りました。
 サハリンや千島に住んでいた日本人は、希望すれば日本に帰れたのですが、朝鮮国籍(ちょうせんこくせき)の人など日本国籍を持っていなかった人は、帰国することができませんでした。日本人でも、帰国できない朝鮮国籍の人と結婚した人や、ロシア人と結婚した人など、わずかの人は、ソ連に残りました。
 エトロフ島ルベツ村の高橋愛子さんは、ロシア兵と恋仲になって婚約までしましたが、日本に帰る時が来ると、まわりの日本人たちは、高橋さんをむりやり、つれもどそうとしました。しかし、恋人のロシア兵の青年がガンバッタおかげで、高橋さんは、日本人につれもどされずに、エトロフ島にとどまることができました。その後、ふたりは結婚して、サハリンのホルムスクで、くらしたそうです。
 シコタン島に住んでいた渡辺米子さんは、ロシア人・べスパリチェンコと結婚したので、日本に帰らず、サハリンのコルサコフで、くらしました。夫は早いうちに死にましたが、子供がいたので、そのままサハリンでくらし、子供が成人した1967年に日本に帰りました。
 ハボマイ群島)の水晶島(すいしょうじま)に住んでいた油本さんの一家8人は、そのまま水晶島にのこりました。油本さんの話では、クナシリ島からやってきたアイヌの人たちと、農業や漁業をしてくらしたそうです。
 北方領土に残った人たちも、その後すべて、サハリンやソ連本土に移住しています。北方領土からは、日本人はだれもいなくなったのですが、日本に帰国しなかった人たちの2世、3世、4世の中には、その後、北方領土に移住した人もいます。このため、現在、北方領土には、日本人の子孫の人も住んでいます。ただし、この人たちの国籍はすべてロシア人です。




北方領土で暮らすロシア人と仲良くすることはできないの?

 日本政府は次のように言っています。「残念だけど、今、きみたちが自由に北方領土へ行って、ロシアの人たちと好きなときに遊んだり、お話したりすることはできない。」  そんなことはありません。
 仲良くする気があるなら、だれでも仲良くできます。ロシア語が出来きないと、たいへんだけど。シコタン島の人と文通している人や、ときどき、北方領土に行く人など、いろいろな日本人がいます。





 北方領土は、どうしてロシアの領土なの?

 むかし、日本は強力な軍隊(ぐんたい)をもって、まわりの国を侵略(しんりゃく)していました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)をのっとって、朝鮮を植民地(しょくみんち)にしました(注3)。さらに、中国を侵略し、多数の人を殺しました。中国東北部に「満州国(まんしゅうこく)」という、にせものの国を作って、中国東北部を支配し、中国人を弾圧(だんあつ)しました(注4)。また、北方領土のエトロフ島には、大きな海軍基地を作りました。第2次世界大戦では、エトロフ島から、ひそかに出航した軍艦(ぐんかん)が、ハワイのパールハーバーを、だましうちしました。
 第2次世界大戦のおわりごろ、ソ連は日本に宣戦布告(せんせんふこく)して、日本が支配していた満州国を解放し、中国人に返しました。
 この戦争は、日本が負けました。そして、日本が再び、まわりの国々に悪いことをしないように、日本はアメリカなどにしばらくのあいだ占領され、日本の領土は、本州・北海道・四国・九州、それから、日本に勝った国が決めた島々に限られました(注5)
 終戦後、日本を占領していたGHQのマッカーサーは、北方領土を始めとする日本周辺地域の日本政府の行政権(ぎょうせいけん)を停止する命令を出しました。そして、北方領土は、ロシアの領土になりました(注6)
 日本は千島列島の領有を放棄(ほうき)しました。





クナシリ島の子供達  みんな、スタイルいいのは、なぜ?



日本とロシアの国境はどこですか ?


 日本政府は北方領土は日本のものだと言ってしていますが、現実にはロシアの領土になっています。このため、日本政府は「日本とロシアの間の国境(こっきょう)は決まっていない」と説明しています。
 ことばでは、このように説明しているけれど、そうも行かないので、北方領土と北海道の間に中間線を定めています。図の青線です。この線は日本が引いたものですが、ロシアも同じような線を引いています。日本の漁船は、この線よりもロシア側で魚を取ることや、入ることが禁止されています。こっそり入って魚を取ると、日本の法律で罰せられることになります。ロシアにつかまると、ロシアの法律で罰せられます。





むかし、北方領土が、日本の領土だったってほんとうなの?

 北方領土だけではなく、南樺太(みなみからふと)、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)、台湾(たいわん)、南洋群島(なんようぐんとう)など広い範囲(はんい)が、日本の領土でした。アメリカ・イギリス・中国などの国は、日本が暴力(ぼうりょく)や貪欲(どんよく)により、うばい取ったと、批判していました。日本は戦争に負けたときに、暴力や貪欲により、うばい取ったことをを認め(注7)、このような地域は日本の領土ではなくなりました。

上の地図は、日本が戦争に負ける前に作られた中学生用の教科書地図。
 朝鮮半島(ちょうせんはんとう)、台湾(たいわん)、千島、樺太(からふと)、南洋群島(ぐんとう)は日本の領土だった。

(昭和13年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳 改定 新選詳図 帝国の部)
 上の地図は、日本が戦争に負けた7年後に作られた中学生用の教科書地図。
 クナシリ島などを含む千島列島や樺太(からふと)はソ連の領土になり、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)は独立し、沖縄(おきなわ)・小笠原(おがさわら)はアメリカの軍政になった。沖縄小笠原はその後、アメリカと条約(じょうやく)を結んで、日本にもどった。
(昭和27年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳)

 

 北方領土はもう少しふくざつな歴史を持っています。北方領土のうち、一番大きな、エトロフ島の歴史を説明します。

 平安時代中期にオホーツク海沿岸にオホーツク文化が起こっています。この文化のにない手は現在アムール川流域に住んでいる人たちの祖先だろうといわれているので、このころには、こういった人たちがエトロフ島に住んでいたと思われます。
 江戸時代、この地域に住んでいた人はアイヌでした。
 1769年、ロシア人イワン・チョールヌイはエトロフ島にわたり、そこで、アイヌから無理やり毛皮を取り上げます。イワン・チョールヌイは隣(となり)のウルップ島にとどまって、アイヌに乱暴な行いをします。おこったアイヌたちは、1770年〜1772年、ロシア人を千島から追い出しました。1776年ロシア人シェパーリンがエトロフ島にやってきて、ロシア人とアイヌは仲良く貿易をすることになりました。しかし、1780年にウルップ島で大きな地震が起こると、ロシア人の多くはカムチャツカへ引き上げてしまいました。
 日本人がエトロフ島探検にやってきたのは、1786年、最上徳内(もがみとくない)が最初です。最上徳内がエトロフ島にやってきたときには、多くのロシア人はいなくなっていました。エトロフ島に住んでいたロシア人は3人だけで、ほかはアイヌでした。最上徳内は3人のロシア人から、エトロフ島やもっと北のようすをいろいろ聞きました。
 ロシア人がエトロフ島で貿易をしていたころ、北海道の厚岸(あっけし)では、飛騨屋久兵衛(びだやきゅうべい)がアイヌを奴隷(どれい)のように働かせていました。飛騨屋久兵衛は1774年にクナシリ島にもやってきましたが、首長(しゅちょう)ツキノエに追い返され、このとき貿易はできませんでした。そのご、ロシア人がいなくなってしまうと、クナシリ島のアイヌは貿易が出来なくて困ってしまい、しかたなく飛騨屋久兵衛におわびをして、貿易をするようになりました。ところが、飛騨屋久兵衛は、クナシリ島のアイヌを奴隷のように働かせました。このままでは、生きてゆけないと思いつめた、クナシリ島や厚岸のアイヌは戦いをいどみますが、すぐに負けてしまいました。「クナシリ・メナシの戦い」と言います。
 江戸幕府はこの戦いにロシア人が関係していないか、とても心配しましたが、よく調べて見ると関係ありませんでした。しかし、ロシア人が関係した戦争がおこるかもしれないと、心配だったので、エトロフ島を日本のものにすることにしました。1798年、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)をエトロフ島に行かせました。このときはロシア人はエトロフ島にはいませんでした。エトロフ島に渡った近藤重蔵は、ロシア人が立てた十字架を無断でひきたおして、「大日本恵登呂府(だいにっぽんえとろふ)」と書いてある柱を勝手に立てました(注8)。エトロフ島のアイヌにはロシアの宗教であるキリスト教を信仰している人がいました。近藤重蔵はアイヌの持っていた十字架などを取り上げて、「キリスト教を信仰したら、うんと罰するぞ」と、おどしました。さらに、エトロフ島のアイヌに、ロシアと貿易することを禁止しました。このときから、エトロフ島は、日本のもの、ということになっています。

(写真は東京都北区徳受院にある石で作った近藤重蔵の像。ヨロイ・カブトをつけて、エトロフ島に渡ったそうです。)

 1855年、ロシアと条約を結び、エトロフ島は日本のもの、ウルップ島はロシアのものと決まりました。


 ちょっとおかしいと思いませんか。ずっと前から住んでいたアイヌは無視されています。むかしから、アイヌはエトロフ島とウルップ島を自由に行き来していました。日本とロシアで「何で勝手に決めるんだ」って、おこってもいいはずです。
 クナシリ・メナシの戦いのあと、アイヌは日本人が、こわくてさからえなくなり、クナシリ島などのアイヌの人たちはほとんど死に絶えてしまいました。
 江戸時代の終わりごろ、松浦武四郎(まつうらたけしろう)という人が、シレトコやクナシリを探検(たんけん)して、「近世蝦夷人物誌(きんせえぞじんぶつし)」「知床日誌(しれとこにっし)」という本を書いています。これらの本によると、クナシリのアイヌは、ほぼ全滅していため、日高地方(ひだかちほう)のアイヌが連れてこられて、男は日本人に奴隷(どれい)のように、はたらかされ、女はもっとひどいことを日本人の男にされていました。このため、クナシリのアイヌだけではなくて、日高地方でもアイヌの人数はずいぶん少なくなってしまいました。(注9)
 明治時代になると、旧土人保護法(きゅうどじんほごほう)という法律が出来て、アイヌは、きびしく差別されました。アイヌを差別した旧土人保護法が廃止されるのは、平成9年7月1日です。




どうして2月7日が「北方領土の日」なの?

 江戸時代のおわり頃、1855年2月7日、伊豆半島の下田で、日露通好条約(にちろつうこうじょうやく)が、日本とロシアとの間に結ばれました。この条約で日本とロシアの国境は、エトロフ島とその北にあるウルップ島の間と決められました。
 エトロフ島は日本の領土、ウルップ島やそれよりも北にあるその他の千島列島はロシアの領土と、そこに住んでいたアイヌを無視(むし)して、勝手に決めてしまいました。ほんとうは、もともと住んでいたアイヌの土地なのに、日本とロシアがアイヌの土地をうばって、勝手に分けたのです。
 日露通好条約を結んだ日が2月7日だったので、2月7日を「北方領土の日」と、日本政府は決めています。

 日露通好条約から、49年後の1904年(明治37年)に、日本とロシアは仲が悪くなって、戦争をします。日露戦争(にちろせんそう)と言います。
 2月8日、日本はロシアの軍艦(ぐんかん)や、ロシアの軍事基地を奇襲攻撃(だましうちのこと)します。2日後の2月10日になって、宣戦布告(「これから戦争しますよ」と言うこと)をしました。この戦争は日本が勝って(注10)、その結果、ロシアの領土だったサハリン島の南半分を日本はうばいとりました(注11)
 日本とロシアの間にはこのような戦争があったので、2月8日になると「日本は戦争をしよう」とヤクザ・右翼(うよく)がさわぎます。このような、ヤクザ・右翼を取りこむために、前の日の、2月7日を北方領土の日にしているとも考えられます。




「北方領土は日本に返還しなさい」−日本ではみんながそう言っているの?

 日本政府は、「北方領土は日本に返還(へんかん)しなさい」と言う運動をしています。このため、日本人の多くは日本政府と同じ考えをもっているようです。しかし、アイヌの団体には、北方領土返還に反対している人たちもいます。また、このようなアイヌと同じ考えをもっている、アイヌ以外の日本人もいます。
 たとえば、アイヌ解放同盟委員長の山本一昭さんは、「『北方領土』はアイヌ民族のもので、和人が『固有の領土だから返せ』とかいうものではないんです。・・・あの土地は、現在住んでいる者とアイヌ民族のものです。」と言っています。また、北海道アイヌ協会理事の結城庄司さんらは、ロシア札幌(さっぽろ)総領事館(そうりょうじかん)の副総領事(そうりょうじ)に面会して「わたしたちは日本政府や和人が主張する北方領土返還運動には絶対反対であり、北方諸島の領有権は元々アイヌ民族にある」と主張したところ、副総領事)も北方諸島はアイヌ民族の大地であることを認識し自由な往来を認めたそうです。
 1995年から「北方領土の日反対!全国集会」が開かれています。

 注意)「和人」とはアイヌでない、ふつうの日本人のことです。江戸時代、アイヌのことを蝦夷(えぞ)、北海道のことを蝦夷地(えぞち)と言っていました。蝦夷とは外国人という意味で、蝦夷地とは外国の土地と言う意味です(注12)
 注意)「北海道アイヌ協会」は現在の略称で、当時は「北海道ウタリ協会」。また「ロシア札幌総領事館」は現在の略称で、当時は「ソ連総領事館」。





北方領土が日本のものになる可能性はあるの?
 
 むずかしいですね。
 1956年、日ソ共同宣言(にっそきょうどうせんげん)では、「平和条約を結んだあとに、ハボマイ群島・シコタン島を、日本にひきわたす」と、なっています。それから、60年以上たっているのに、平和条約を結んでいないのです。長い間に、シコタン島で生まれ育った人も多いので、こういう人を無視(むし)して、勝手に決めるわけにも行かないので、むずかしいことです。
 クナシリ島・エトロフ島は、もっと、むずかしいと思います。
 サハリン州の法律(ほうりつ)によると、もし、日本のものにするためには、住民投票が必要です。現在、北方領土に住んでいる、住民の大多数が、日本のものになることに賛成するならば、日本のものになるかも知れません。でも、いまは、北方領土に住んでいる多くの人が、日本の領土になる事に、反対しています。




教科書の地図では、北方領土は日本のもののように書いてあります。他の地図ではどうなの?

 現在、日本の政府は、日本の子供たちに、日本政府の考えだけを教えこむため、北方領土が日本のものでないような書き方を禁止しています。日本政府の言うとおりに書かないと、教科書として使えません。このような書き方が強制されるようになったのは、1964年からです。
 しかし、日本以外の世界の地図の多くは、北方領土はロシアのものになっています(注13)
 日本の教科書地図でも、1964年以前は、今とは違った書き方がされており、北方領土がソ連の領土になっている教科書もありました。

 左の図は昭和25年発行の中学校の地図、右の図は、昭和27年発行の中学校の地図(帝国書院 中学校社会科地図帳)です。 日本とロシアの国境は北海道とクナシリ島の間になっています。この地図では、北方領土はロシアの領土です。
 いまでは、このような地図を教科書に使う事はできません。
 しかし、日本以外の国で使われている地図の多くは、このようになっています。

(地図をクリックすると拡大します。)


外国製の地図で北方領土はどのようになっているのだろうか。くわしくは、ここをクリックしてください。

昔、日本の子供達が学校で使っていた地図はどのようになっていたのだろう。くわしくは、ここをクリックしてください。




千島列島とはどこですか?

 北海道の知床半島の隣にあるクナシリ島から、カムチャツカ半島に続くシムシル島までの島々のことを「千島列島」と呼んでいました。
 日本は、1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で、千島列島を放棄(ほうき)しました。ところが、1956年になると、日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄した千島列島にクナシリ島・エトロフ島に含まれません」と言いました。このため、「千島列島」はエトロフ島の先にあるウルップ島からシムシル島までのことを言うのか、クナシリ島からシムシル島までのことを言うのか良く分からなくなっています。

 明治時代・大正時代に北方領土の郵便局で使われた切手。
 エトロフ島・クナシリ島・シコタン島の郵便局で使われた切手の消印には、千島と書いてあります。

この3枚の切手はエトロフ島で使われました。

 左:千島紗那(ちしま しゃな)
 中:千島留別(ちしま るべつ)
 右:千島蘂取(ちしま しべとろ)
左と中央の2枚はクナシリ島で使われました。
右の1枚はシコタン島で使われました。

左:千島乳呑路(ちしま ちのみぢ)
中:千島泊村(ちしま とまりむら)
右:千島色丹(ちしま しこたん)

 今、北方領土返還運動を一番活発に行っている日本政府公認の団体に、(社)千島歯舞諸島居住者連盟(ちしまはぼまいしょとうきょじゅうしゃれんめい)があります。
 戦後、ハボマイ群島や千島から引き上げてきた人たちや、その子孫たちの団体です。ここで言う、千島とはどこだろうかと思って、Mailで聞いてみたところ、団体の名前の千島とは、クナシリ島・エトロフ島・シコタン島のことを指すと受け取れるそうです。こんなに、日本政府に近い団体でも、いまだにクナシリ島・エトロフ島・シコタン島のことを「千島」と言っています。



ここから下は、小学生や中学生には、少し詳しすぎる内容です。


どうして、北方領土問題が起こったの?   (クリックで展開)

なぜ、返還運動をしているの?   (クリックで展開)

なぜソ連は日本に宣戦布告したのですか? ソ連の参戦は国際法違反ですか?   (クリックで展開)

第2次世界大戦が終わった日は8月15日ですか?   (クリックで展開)

北方領土の島のうち、日本に一番近い島はどこですか。また、どのくらい離れていますか?   (クリックで展開)

千島列島の植物分布の境界はどこですか?   (クリックで展開)


やさしい北方領土の話の注意書き はここをクリックしてください。少しむずかしい話なので、ふつうは読む必要ありません。

最近、ネット上で、このページの一部文言を取り上げて、コメントしている記事があります。このページはやさしく書くことを目的としているため、誤解の場合が多いようです。コメントされる場合は、注意書きもお読みください。


最終更新 2017.11

詳しい北方領土問題解説    

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