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北方領土(ほっぽうりょうど)問題−やさしい北方領土(ほっぽうりょうど)問題のはなし

 北方領土って知っていますか?


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北方領土って
知っていますか?




北方領土(ほっぽうりょうど) って、どこですか?

 いま、日本の政府は、千島列島の、歯舞群島(はぼまいぐんとう)色丹島(しこたんとう)国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)(注)を日本の領土だと言っています。
 しかし、1951年は、歯舞群島(はぼまいぐんとう)色丹島(しこたんとう)は日本の領土だけれど、国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)は日本の領土ではないと言っていました(注0)。1956年に、今のように言うようになりました。だから、今は、北方領土と言うと、歯舞群島(はぼまいぐんとう)色丹島(しこたんとう)国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)のことを言います。

 戦後、ずっとソ連・ロシアの領土なので(注1)、ゆたかな自然がのこっています。このため、島には、ヒグマやキタキツネ、クロテン、トドのほか、オジロワシやエトビリカなど、ふだん、目にすることのできないめずらしい動物がたくさんいます。これからも、たいせつにまもってゆきたいものです。

 色丹(しこたん)国後(くなしり)択捉(えとろふ)などの地名は、日本語ではなくて、アイヌ語などのことばです。ふつうはアイヌ語だと思われていますが、千島列島にはアイヌのほかに、千島アイヌ・ウィルタ・ニヴフ・イテリメンなどの北方民族の進出もあり、また、アイヌ文化より前には、オホーツク海に広がるオホーツク文化が、さかえていたので、アイヌ語とは別の北方民族の言語が、もとになってるのかも知れません。もし、アイヌ語だとすると、色丹(しこたん)は『シ(大きい)コタン(村)』、国後(くなしり)は『クンネ(黒い)シル(島)』あるいは『キナ(草の)シル(島)』です。択捉(えとろふ)は、『イト(みさき)オロ(ところ)プ(もの)』で『みさきのところにあるもの』の意味です。

 写真は、海から見た国後島(くなしりとう)




日本政府(せいふ)説明(せつめい)は、世界の人に理解(りかい)されているのですか?

北方領土問題は、日本とロシアの問題なので、ほかの国の政府は、あまり口出し、しないようです。
世界で一番有名な百科辞典である『ブリタニカ百科事典』で調べると、英語で、次のように書いてあります。

千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17、18世紀の探検(たんけん)に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島を(うば)()り、1875年には全千島列島を領有した。1945年、ヤルタ協定にもとづいて、 島々はソ連にゆずりわたされた。日本人は引きあげ、かわってソ連人が移住した。日本は、今でも、南部諸島(しょとう)に対する歴史的権利(けんり)を主張し、 島々に対する日本の主権(しゅけん)を回復するように、ソ連・ロシアを、くり返し説得している。(原文はここをクリックしてください

これは、ロシアの説明とだいたい同じで、日本政府の説明とは全くちがいます。このように、日本政府の説明は、世界中からあまり理解されていません。





なぜ「北方領土(ほっぽうりょうど)」と言うの?

 日本は、1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で、千島列島を放棄(ほうき)しました。千島列島は日本の領土ではないと、世界に向かって約束しました。

参考(さんこう)>サンフランシスコ条約(じょうやく)第二(じょう)(c)
 日本国は,千島列島(なら)びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約(じょうやく)結果(けっか)として主権(しゅけん)獲得(かくとく)した樺太(からふと)の一部(およ)びこれに近接(きんせつ)する諸島(しょとう)に対するすべての権利(けんり)権原(けんげん)(およ)請求(せいきゅう)(けん)放棄(ほうき)する。

(サンフランシスコ条約第二条(c)の英文)
 Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and …

 国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)は千島列島の南のほうにあるので、「千島列島南部(ちしまれっとうなんぶ)」「南千島(みなみちしま)」と呼ばれていました。サンフランシスコ条約を結んだとき、日本政府は「国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)はサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれる」と公式に説明していました(注0)
 ところが、それから5年後の1956年になると、日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄(ほうき)した千島列島に国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)に含まれない」と言いました。そうするとおかしなことになります。「サンフランシスコ条約で千島列島は放棄(ほうき)したけれど、南千島は千島列島ではない。」
 1956年になってから、言うことを変えたために、日本語としておかしなことになってしまいました。そこで、日本政府の主張が正しいと感じるように、「北方領土(ほっぽうりょうど) 」と言うようになりました。国会で「北方領土(ほっぽうりょうど) 」のことばを最初に使った人は、外務省の下田武三(しもだたけぞう)さんで、1956年3月10日のことです。国後(くなしり)択捉(えとろふ)色丹(しこたん)歯舞(はぼまい)のことを北方領土と言うようになったのは、1956年からですが、1960年までは「北方領土(ほっぽうりょうど) 」よりも「南千島(みなみちしま)」といわれることのほうが多かったようです。
 1964年になると、これまでの「南千島」ではなくて、「北方領土」と言うように、政府は国民に指図(さしず)しました。これによって、「北方領土」と言うと、国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)色丹島(しこたんとう)歯舞群島(はぼまいぐんとう)のことになりました。
 もっとも、1970年代は「北方領土」のほかに「南千島」の言い方も行われていたので、「南千島は、千島ではない」と、わけの分からない言い方がされることもありました。最近は、「南千島」はあまり使われず、「北方領土」が使われています。

(国会で「北方領土」「南千島」用語が使われた回数。詳しくはここをクリックしてください。)





北方領土(ほっぽうりょうど)には、どんな人が住んでいるの?


 現在、ロシアの領土なので、ロシアの人が住んでいます。ロシアはいろいろな民族が住んでいる国なので、北方領土に住んでいる人も、民族はいろいろです。


 写真は、日本人旅行者をにポーズをとる、国後島(くなしりとう)の子供たち。


(このページの国後(くなしり)の写真は、すべて、2008年に北方領土旅行をした松村氏が撮影したもの)



北方領土(ほっぽうりょうど)に日本人は行けるの?

 行けます。ロシアの領土なので、海外旅行になります。日本から直接北方領土に行く船や飛行機はないので、サハリンから行くことになります。
 ただし、日本政府は日本の領土だと主張しているので、日本政府の事業以外では、日本人には行ってほしくないと言っています。また、旅行会社が北方領土の観光旅行を募集(ぼしゅう)することを、日本政府はみとめていません。このため、自分で手続きをしないとならないので、めんどうです(注2)

 日本政府は日本の領土だと主張しているので、日本政府の事業と無関係・無許可に、北方領土に行かないようにと言っています。もし、日本政府に、にらまれると(こま)る仕事をしている人や、お父さん・お母さんがそのような仕事をしている人は、日本政府の事業とは無関係な北方領土旅行をしないよう強くすすめます。


北方領土旅行方法の詳しい説明はここをクリックしてください。




北方領土(ほっぽうりょうど)に、手紙(てがみ)は出せるの?北方領土(ほっぽうりょうど)手紙(てがみ)を出すとき、切手(きって)はいくらはればいいの?

 出せます。
 北方領土は、ロシアの領土なので、ロシアに手紙を出すときと同じです。航空便で25g以下の手紙を出すならば110円の切手をはります。
 北方領土は、ロシアの領土なので、あて名には、ロシアの国名『Russia』あるいは『Russian Federation』と、かならず書きます。英語のほかに、フランス語、ロシア語もみとめられています。手紙の中身は何語(なにご)でもかまいませんが、あて名は、英語・ロシア語・フランス語のどれかで書きます。ふつうは、国の名前は英語でRussiaと書いて、それ以外はロシア語で書くのが良いでしょう。
 
 たとえば、択捉島(えとろふとう)クリリスクのギドロストロイ会社に手紙を出す場合は次のように書きます。右側は、わかりやすいように日本語で意味を書きましたが、手紙のあて名は左のように書いきます。この中で、694530とあるのは郵便番号です。
ЗАО ≪Гидрострой≫
694530 Сахалинская область,
Курильский район, г. Курильск,
ул. Заречная, 11-а.
          Russia
株式会社≪ギドロストロイ≫
694530 サハリン州
クリル地区 クリリスク市
ザレチュナヤ通り 11-a
         ロシア

 
 日本政府は「北方領土(ほっぽうりょうど)は日本の領土(りょうど)だ」と言っています。ところが、郵便は、外国あつかいです。それに、北方領土にかってに旅行するなといっているのに、北方領土への手紙は外国として、あつかっています。郵便は万国郵便条約(ばんこくゆうびんじょうやく)と言う、世界のきまりにしたがっているためです。旅行は日本政府が国民に「旅行するな」と言う事が可能(かのう)です。しかし、郵便は世界の決まりがあって、日本政府も、世界の決まりを守らなくてはならないのです。





北方領土(ほっぽうりょうど)に日本人は住めないの?北方領土(ほっぽうりょうど)に日本人は住んでいるの?

 日本政府は国民に「北方領土に行くな」と、指図(さしず)しているので、北方領土には、日本人は一人も住んでいないことになっています。しかし、北方領土にあるロシアの会社で、日本人が働いていることがあるので、こういう人たちが、北方領土に住んでいることがあるはずですが、くわしいことはわかりません。
 また、サハリン州知事だったフョードロフさんは、日本のアイヌの人たちに「いつでも来てください」と言っていたそうです。

 1945年に、日本が戦争に負ける前までは、北方領土には1万6千人ほどの日本人が住んでいました。また、北方領土と同じように日本の領土だった南サハリンには40万人ほどの日本人が住んでいました。日本が戦争に負けて、北方領土や南サハリンがソ連の領土になっても、すぐには、日本へ帰国することがゆるされませんでした。 1946年12月に、日本へ帰国することがゆるされるようになると、ほとんどすべての日本人は、日本に帰ることを希望して、1949年7月までに、日本へ帰国しました。
 択捉島(えとろふとう)で学校の先生をしていた高田彌彦(たかだみつひこ)さんは、日本に帰らないでハバロフスクで日本語の先生をしてくれないかと、たのまれたようですが、日本に帰りました。また、千島の一番北にあるシュムシュ島に住んでいた別所(べっしょ)二郎蔵(じろぞう)さんは、島にとどまるように頼まれましたが、ことわって日本に帰りました。
 2011年3月8日の読売新聞によると、国後島(くなしりとう)出身の小野(旧姓(きゅうせい)(さわ)崎)弥生(やよい)さんは、ロシア語を覚えて、通訳(つうやく)をしていましたが、1948年10月(ごろ)国後島(くなしりとう)から()()げました。この時、ソ連の人から「行くな」と、何度も引き留められましたが、日本に帰りたかったので、()()げました。いったんサハリンに行き、そこで、通訳(つうやく)をしました。この時も、ひきとめ工作は続き、しまいには「大学で日本語を教える教授になってほしい」と言われましたが、約3週間後、日本への()()げ船に乗って、帰国しました。
 また、2011年3月9日の読売新聞によると、択捉島(えとろふとう)紗那(しゃな)に住んでいた西雪(旧姓(きゅうせい)水戸部(みとべ))恭子(きょうこ)さん(当時17(さい))のお父さんは、鮭鱒(さけます)孵化場(ふかじょう)択捉(えとろふ)支場長でした。ソ連の人たちは「()()げずに島に残り、孵化(ふか)の指導をしてくれないか」「希望すれば、子供たちを全員、モスクワの医科大学に行かせてあげる、学費は国家がめんどうをみる」と言って、ひきとめました。しかし、どうしても日本に帰りたかったので、ソ連の要求を断って、日本に帰りました。西雪恭子(きょうこ)さんのお父さんがことわったので、代わりに部下だった八木沢(やぎさわ)さんが島に残りましたが、その後、八木沢(やぎさわ)さんも日本に帰りました。
 サハリンや千島に住んでいた日本人は、希望すれば日本に帰れたのですが、朝鮮(ちょうせん)国籍(こくせき)の人など日本国籍(こくせき)を持っていなかった人は、帰国することができませんでした。日本人でも、帰国できない朝鮮(ちょうせん)国籍(こくせき)の人と結婚(けっこん)した人や、ロシア人と結婚(けっこん)した人など、わずかの人は、ソ連に残りました。
 択捉島(えとろふとう)ルベツ村の高橋愛子さんは、ロシア兵と恋仲(こいなか)になって婚約(こんやく)までしましたが、日本に帰る時が来ると、まわりの日本人たちは、高橋さんをむりやり、つれもどそうとしました。しかし、恋人(こいびと)のロシア兵の青年がガンバッタおかげで、高橋さんは、日本人につれもどされずに、択捉島(えとろふとう)にとどまることができました。その後、ふたりは結婚して、サハリンのホルムスクでくらしたそうです。
 色丹島(しこたんとう)に住んでいた渡辺米子さんは、ロシア人・べスパリチェンコと結婚したので、日本に帰らず、サハリンのコルサコフで、くらしました。夫は早いうちに死にましたが、子供がいたので、そのままサハリンでくらし、子供が成人した1967年に日本に帰りました。
 歯舞群島(はぼまいぐんとう)水晶島(すいしょうじま)に住んでいた油本さんの一家8人は、そのまま水晶島にのこりました。油本さんの話では、国後島(くなしりとう)からやってきたアイヌの人たちと、農業や漁業をしてくらしたそうです。
 北方領土に残った人たちも、その後すべて、サハリンやソ連本土に移住しています。北方領土からは、日本人はだれもいなくなったのですが、日本に帰国しなかった人たちの2世、3世、4世の中には、その後、北方領土に移住した人もいます。このため、現在、北方領土には、日本人の子孫の人も住んでいます。ただし、この人たちの国籍はすべてロシア人です。




北方領土(ほっぽうりょうど)()らすロシア人と仲良(なかよ)くすることはできないの?

 日本政府は次のように言っています。「残念だけど、今、きみたちが自由に北方領土へ行って、ロシアの人たちと好きなときに遊んだり、お話したりすることはできない。」  そんなことはありません。
 仲良くする気があるなら、だれでも仲良くできます。ロシア語が出来きないと、たいへんだけど。色丹島(しこたんとう)の人と文通している人や、ときどき、北方領土に行く人など、いろいろな日本人がいます。





 北方領土(ほっぽうりょうど)は、どうしてロシアの領土なの?

 むかし、日本は強力な軍隊(ぐんたい)をもって、まわりの国を侵略(しんりゃく)していました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)をのっとって、朝鮮を植民地(しょくみんち)にしました(注3)。さらに、中国を侵略し、多数の人を殺しました。中国東北部に「満州国(まんしゅうこく)」という、にせものの国を作って、中国東北部を支配し、中国人を弾圧(だんあつ)しました(注4)。また、北方領土の択捉島(えとろふとう)には、大きな海軍基地(かいぐんきち)を作りました。第2次世界大戦では、択捉島(えとろふとう)から、ひそかに出航(しゅっこう)した軍艦(ぐんかん)が、ハワイのパールハーバーを、だましうちしました。
 第2次世界大戦のおわりごろ、ソ連は日本に宣戦布告(せんせんふこく)して、日本が支配していた満州国(まんしゅうこく)解放(かいほう)し、中国人に返しました。
 この戦争は、日本が負けました。そして、日本が再び、まわりの国々に悪いことをしないように、日本はアメリカなどにしばらくのあいだ占領(せんりょう)され、日本の領土は、本州・北海道・四国・九州、それから、日本に勝った国が決めた島々に限られました(注5)
 終戦(しゅうせん)後、日本を占領していたGHQのマッカーサーは、北方領土を始めとする日本周辺(しゅうへん)地域(ちいき)の日本政府の行政権(ぎょうせいけん)停止(ていし)する命令を出しました。そして、北方領土は、ロシアの領土になりました(注6)
 日本は千島列島の領有(りょうゆう)放棄(ほうき)しました。





国後島(くなしりとう)の子供達  みんな、スタイルいいのは、なぜ?



日本とロシアの 国境(こっきょう)はどこですか ?


 日本政府は北方領土は日本のものだと言ってしていますが、現実にはロシアの領土になっています。このため、日本政府は「日本とロシアの間の国境(こっきょう)は決まっていない」と説明しています。
 言葉(ことば)では、このように説明しているけれど、そうも行かないので、北方領土と北海道の間に中間線を定めています。図の青線です。この線は日本が引いたものですが、ロシアも同じような線を引いています。日本の漁船(ぎょせん)は、この線よりもロシア側で魚を取ることや、入ることが禁止されています。こっそり入って魚を取ると、日本の法律(ほうりつ)(ばっ)せられることになります。ロシアにつかまると、ロシアの法律(ほうりつ)(ばっ)せられます。





むかし、北方領土(ほっぽうりょうど)が、日本の領土(りょうど)だったってほんとうなの?

 北方領土だけではなく、南樺太(みなみからふと)朝鮮半島(ちょうせんはんとう)台湾(たいわん)南洋群島(なんようぐんとう)など広い範囲(はんい)が、日本の領土でした。アメリカ・イギリス・中国などの国は、日本が暴力(ぼうりょく)貪欲(どんよく)により、うばい取ったと、批判(ひはん)していました。日本は戦争に負けたときに、暴力(ぼうりょく)貪欲(どんよく)により、(うば)()ったことをを認め(注7)、このような地域は日本の領土ではなくなりました。

上の地図は、日本が戦争に負ける前に作られた中学生用の教科書地図。
 朝鮮半島(ちょうせんはんとう)台湾(たいわん)、千島、樺太(からふと)南洋群島(なにょうぐんとう)は日本の領土だった。

(昭和13年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳 改定 新選詳図 帝国の部)
 上の地図は、日本が戦争に負けた7年後に作られた中学生用の教科書地図。
 国後島(くなしりとう)などを含む千島列島や樺太(からふと)はソ連の領土になり、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)は独立し、沖縄(おきなわ)小笠原(おがさわら)はアメリカの軍政(ぐんせい)になった。沖縄(おきなわ)小笠原(おがさわら)はその後、アメリカと条約(じょうやく)を結んで、日本にもどった。
(昭和27年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳)

 

 北方領土はもう少し複雑(ふくざつ)な歴史を持っています。北方領土のうち、一番大きな、択捉島(えとろふとう)の歴史を説明します。

 平安時代中期にオホーツク海沿岸(えんがん)にオホーツク文化が起こっています。この文化の(にな)()は現在アムール川流域(りゅういき)に住んでいる人たちの祖先だろうといわれているので、このころには、こういった人たちが択捉島(えとろふとう)に住んでいたと思われます。
 江戸時代、この地域に住んでいた人はアイヌでした。
 1769年、ロシア人イワン・チョールヌイは択捉島(えとろふとう)にわたり、そこで、アイヌから無理やり毛皮を取り上げます。イワン・チョールヌイは(となり)のウルップ島にとどまって、アイヌに乱暴(らんぼう)な行いをします。おこったアイヌたちは、1770年〜1772年、ロシア人を千島から追い出しました。イワン・チョールヌイは(となり)のウルップ島にとどまって、アイヌに乱暴(らんぼう)な行いをします。(おこ)ったアイヌたちは、1770年〜1772年、ロシア人を千島から追い出しました。1776年ロシア人シェパーリンが択捉島(えとろふとう)にやってきて、ロシア人とアイヌは仲良く貿易をすることになりました。しかし、1780年にウルップ島で大きな地震(じしん)が起こると、ロシア人の多くはカムチャツカへ引き上げてしまいました。
 日本人が択捉島(えとろふとう)探検にやってきたのは、1786年、最上徳内(もがみとくない)が最初です。最上徳内(もがみとくない)択捉島(えとろふとう)にやってきたときには、多くのロシア人はいなくなっていました。択捉島(えとろふとう)に住んでいたロシア人は3人だけで、ほかはアイヌでした。最上徳内(もがみとくない)は3人のロシア人から、択捉島(えとろふとう)やもっと北のようすをいろいろ聞きました。
 ロシア人が択捉島(えとろふとう)で貿易をしていたころ、北海道の厚岸(あっけし)では、飛騨屋久兵衛(びだやきゅうべい)がアイヌを奴隷(どれい)のように働かせていました。飛騨屋久兵衛(びだやきゅうべい)は1774年に国後島(くなしりとう)にもやってきましたが、首長(しゅちょう)ツキノエに追い返され、このとき貿易はできませんでした。 その()、ロシア人がいなくなってしまうと、国後島(くなしりとう)のアイヌは貿易が出来なくて困ってしまい、しかたなく飛騨屋久兵衛(びだやきゅうべい)におわびをして、貿易をするようになりました。ところが、飛騨屋久兵衛(びだやきゅうべい)は、国後島(くなしりとう)のアイヌを奴隷(どれい)のように働かせました。このままでは、生きてゆけないと思いつめた、国後島(くなしりとう)厚岸(あっけし)のアイヌは戦いをいどみますが、すぐに負けてしまいました。「クナシリ・メナシの戦い」と言います。
 江戸幕府はこの戦いにロシア人が関係していないか、とても心配しましたが、よく調べて見ると関係ありませんでした。しかし、ロシア人が関係した戦争がおこるかもしれないと、心配だったので、択捉島(えとろふとう)を日本のものにすることにしました。1798年、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)択捉島(えとろふとう)に行かせました。このときはロシア人は択捉島(えとろふとう)にはいませんでした。択捉島(えとろふとう)に渡った近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)は、ロシア人が立てた十字架(じゅうじか)無断(むだん)でひきたおして、「大日本恵登呂府(だいにっぽんえとろふ)」と書いてある柱を勝手に立てました(注8)択捉島(えとろふとう)のアイヌにはロシアの宗教であるキリスト教(ロシア正教)を信仰(しんこう)している人がいました。近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)はアイヌの持っていた十字架(じゅうじか)などを取り上げて、「キリスト教を信仰(しんこう)したら、うんと(ばっ)するぞ」と、おどしました。さらに、択捉島(えとろふとう)のアイヌに、ロシアと貿易することを禁止しました。このときから、択捉島(えとろふとう)は、日本のもの、ということになっています。

(写真は東京都北区徳受院にある近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)の石像。(よろい)(かぶと)をつけて、択捉島(えとろふとう)に渡ったそうです。)

 1855年、ロシアと条約を結び、択捉島(えとろふとう)は日本のもの、ウルップ島はロシアのものと決まりました。


 ちょっとおかしいと思いませんか。ずっと前から住んでいたアイヌは無視されています。むかしから、アイヌは択捉島(えとろふとう)とウルップ島を自由に行き来していました。日本とロシアで「何で勝手に決めるんだ」って、おこってもいいはずです。
 クナシリ・メナシの戦いのあと、アイヌは日本人が、(こわ)くて(さか)らえなくなり、国後島(くなしりとう)などのアイヌの人たちはほとんど死に絶えてしまいました。
 江戸時代の終わりごろ、松浦武四郎(まつうらたけしろう)という人が、知床(しれとこ)国後(くなしり)探検(たんけん)して、「近世蝦夷人物誌(きんせえぞじんぶつ)」「知床日誌(しれとこにっし)」という本を書いています。これらの本によると、国後(くなしり)のアイヌは、ほぼ全滅していため、日高地方(ひだかちほう)のアイヌが連れてこられて、男は日本人に奴隷(どれい)のように働かせれ、女はもっとひどいことを日本人の男にされていました。このため、国後(くなしり)のアイヌだけではなくて、日高地方(ひだかちほう)でもアイヌの人数はずいぶん少なくなってしまいました。(注9)
 明治時代になると、旧土人保護法(きゅうどじんほごほう)という法律が出来て、アイヌは、きびしく差別されました。アイヌを差別した旧土人保護法(きゅうどじんほごほう)廃止(はいし)されるのは、平成9年7月1日です。




どうして2月7日が「北方領土(ほっぽうりょうど)の日」なの?

 江戸時代のおわり頃、1855年2月7日、伊豆半島の下田で、日露通好条約(にちろつうこうじょうやく)が、日本とロシアとの間に結ばれました。この条約で日本とロシアの国境は、択捉島(えとろふとう)とその北にあるウルップ島の間と決められました。
 択捉島(えとろふとう)は日本の領土、ウルップ島やそれよりも北にあるその他の千島列島はロシアの領土と、そこに住んでいたアイヌを無視(むし)して、 勝手(かって)に決めてしまいました。ほんとうは、もともと住んでいたアイヌの土地なのに、日本とロシアがアイヌの土地をうばって、勝手(かって)に分けたのです。
 日露通好条約(にちろつうこうじょうやく)を結んだ日が2月7日だったので、2月7日を「北方領土の日」と、日本政府は決めています。

 日露通好条約(にちろつうこうじょうやく)から、49年後の1904年(明治37年)に、日本とロシアは仲が悪くなって、戦争をします。日露戦争(にちろせんそう)と言います。
 2月8日、日本はロシアの軍艦(ぐんかん)や、ロシアの軍事基地を奇襲(きしゅう)攻撃(こうげき)(だましうちのこと)します。2日後の2月10日になって、宣戦布告(せんせんふこく) (「これから戦争しますよ」と言うこと)をしました。この戦争は日本が勝って(注10)、その結果、ロシアの領土だったサハリン島の南半分を日本は(うば)()りました(注11)
 日本とロシアの間にはこのような戦争があったので、2月8日になると「日本は戦争をしよう」とヤクザ・右翼(うよく)がさわぎます。このような、ヤクザ・右翼(うよく)を取りこむために、前の日の、2月7日を北方領土の日にしているとも考えられます。




北方領土(ほっぽうりょうど)は日本に返還(へんかん)しなさい」−日本ではみんながそう言っているの?

 日本政府は、「北方領土は日本に返還(へんかん)しなさい」と言う運動をしています。このため、日本人の多くは日本政府と同じ考えをもっているようです。しかし、アイヌの団体には、北方領土返還に反対している人たちもいます。また、このようなアイヌと同じ考えをもっている、アイヌ以外の日本人もいます。
 たとえば、アイヌ解放同盟(どうめい)委員長の山本一昭(かずあき)さんは、「『北方領土』はアイヌ民族のもので、和人が『固有の領土だから返せ』とかいうものではないんです。・・・あの土地は、現在住んでいる者とアイヌ民族のものです。」と言っています。また、北海道アイヌ協会理事の結城庄司(ゆうきしょうじ)さんらは、ロシア札幌(さっぽろ)総領事館(そうりょうじかん)副総領事(ふくそうりょうじ)に面会して 「わたしたちは日本政府や和人が主張する北方領土返還(へんかん)運動には絶対反対であり、北方諸島(しょとう)の領有(けん)は元々アイヌ民族にある」 と主張したところ、副総領事(ふくそうりょうじ)も北方諸島(しょとう)はアイヌ民族の大地であることを認識(にんしき)し自由な往来を(みと)めたそうです。
 1995年から「北方領土の日反対!全国集会」が開かれています。

 注意)「和人」とはアイヌでない、ふつうの日本人のことです。江戸時代、アイヌのことを蝦夷(えぞ)、北海道のことを蝦夷地(えぞち)と言っていました。蝦夷(えぞ)とは外国人という意味で、蝦夷地(えぞち)とは外国の土地と言う意味です(注12)
 注意)「北海道アイヌ協会」は現在の略称で、当時は「北海道ウタリ協会」。また「ロシア札幌総領事館」は現在の略称で、当時は「ソ連総領事館」。




北方領土(ほっぽうりょうど)が日本のものになる可能性(かのうせい)はあるの?
 
 むずかしいですね。
 1956年、日ソ共同宣(にっそきょうどうせんげん)言では、「平和条約を結んだあとに、歯舞群島(はぼまいぐんとう)色丹島(しこたんとう)を、日本にひきわたす」と、なっています。それから、60年以上たっているのに、平和条約を結んでいないのです。長い間に、色丹島(しこたんとう)で生まれ育った人も多いので、こういう人を無視(むし)して、勝手に決めるわけにも行かないので、むずかしいことです。
 国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)は、もっと、むずかしいと思います。
 サハリン州の法律によると、もし、日本のものにするためには、住民投票が必要です。現在、北方領土に住んでいる、住民の大多数が、日本のものになることに賛成するならば、日本のものになるかも知れません。でも、いまは、北方領土に住んでいる多くの人が、日本の領土になる事に、反対しています。

 2007年から2015年にかけて、ロシアでは「クリル諸島経済社会発展計画」が実施され、択捉島や国後島の開発がすすめられました。空港・港湾・道路などが整備され、学校・ショッピングセンター・スポーツセンターなどが建設されています。20016年から2025年、引き続き「クリル諸島経済社会発展計画」が実施され、開発が遅れていた色丹島の整備も進んでいます。色丹島では大病院・ショッピングセンター・スポーツセンター・アパートが建設され、学校や温水プールを備えた保育園の整備が進んでいます。色丹島のクラボザヴォーツクやマロクリリスクには水産加工工場が建設され、ロシア各地のほかアルメニアなどから従業員が移住してきています。
 このように、ロシアによる択捉島・国後島・色丹島の開発が進められているため、日本に返還される可能性は遠のいたと思われます。2007年から2015年の「クリル諸島経済社会発展計画」では、色丹島は取り残されていました。この時、ロシア大統領は歯舞・色丹の2島返還で決着しようとしたため、日本に返還予定の色丹島に投資をしなかったとの見方がありました。しかし、日本が4島返還に固執したため、解決の見込みが遠のき、20016年以降の「クリル諸島経済社会発展計画」では色丹島での投資が進んでいます。
 
 2020年7月2日、ロシアでは憲法が改正され「ロシアの領土は外国に渡してはならない」ことが定められました。北方領土の国後島・ユジノクリリスクには、この条文を刻んだ碑が設置され、島を日本に引き渡さないという住民の意思が示されました。憲法改正によって、日本へ返還されることが不可能になったわけではないけれど、一層困難になったことは確かです。



教科書の地図では、北方領土(ほっぽうりょうど)は日本のもののように書いてあります。(ほか)の地図ではどうなの?

 現在、日本の政府は、日本の子供たちに、日本政府の考えだけを教えこむため、北方領土が日本のものでないような書き方を禁止しています。日本政府の言うとおりに書かないと、教科書として使えません。このような書き方が強制されるようになったのは、1964年からです。
 しかし、日本以外の世界の地図の多くは、北方領土はロシアのものになっています(注13)
 日本の教科書地図でも、1964年以前は、今とは違った書き方がされており、北方領土がソ連の領土になっている教科書もありました。

 左の図は昭和25年発行の中学校の地図、右の図は、昭和27年発行の中学校の地図(帝国書院 中学校社会科地図帳)です。 日本とロシアの国境は北海道と国後島(くなしりとう)の間になっています。この地図では、北方領土はロシアの領土です。
 いまでは、このような地図を教科書に使う事はできません。
 しかし、日本以外の国で使われている地図の多くは、このようになっています。

(地図をクリックすると拡大します。)


外国製の地図で北方領土はどのようになっているのだろうか。くわしくは、ここをクリックしてください。

昔、日本の子供達が学校で使っていた地図はどのようになっていたのだろう。くわしくは、ここをクリックしてください。




千島列島(ちしまれっとう) とはどこですか?

 北海道の知床半島の隣にある国後島(くなしりとう)から、カムチャツカ半島に続くシムシル島までの島々のことを「千島列島」と呼んでいました。
 日本は、1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で、千島列島を放棄(ほうき)しました。ところが、1956年になると、日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄した千島列島に国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)に含まれません」と言いました。このため、「千島列島」は択捉島(えとろふとう)の先にあるウルップ島からシムシル島までのことを言うのか、国後島(くなしりとう)からシムシル島までのことを言うのか良く分からなくなっています。

 下の写真は、明治時代・大正時代に北方領土の郵便局で使われた切手。
 択捉島(えとろふとう)国後島(くなしりとう)色丹島(しこたんとう)の郵便局で使われた切手の消印には、千島と書いてあります。

この3枚の切手は択捉島(えとろふとう)で使われました。

 左:千島紗那(ちしましゃな)
 中:千島留別(ちしまるべつ)
 右:千島蘂取(ちしましべとろ)
左と中央の2枚は国後島(くなしりとう)で使われました。
右の1枚は色丹島(しこたんとう)で使われました。

左:千島乳呑路(ちしまちのみじ)
中:千島泊村(ちしまとまりむら)
右:千島色丹(ちしましこたん)

 今、北方領土返還運動を一番活発に行っている日本政府公認の団体に、(社)千島歯舞諸島居住者連盟(ちしまはぼまいしょとうきょじゅうしゃれんめい)があります。
 戦後、歯舞群島(はぼまいぐんとう)や千島から引き上げてきた人たちや、その子孫たちの団体です。ここで言う、千島とはどこだろうかと思って、Mailで聞いてみたところ、団体の名前の千島とは、国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)色丹島(しこたんとう)のことを指すと受け取れるそうです。こんなに、日本政府に近い団体でも、いまだに国後島(くなしりとう)択捉島(えとろふとう)色丹島(しこたんとう)のことを「千島」と言っています。




北方領土近海で、日本人は自由に魚を捕ることができないの?

 日本では、北方領土近海に限らず、日本近海で自由に魚を()ることはできません。北方領土近海は、『北海道海面漁業調整規則第32条の2』によって、日本人が無許可で漁業をすることが禁じられています。無許可操業が見つかると、日本の警察や海上保安庁に逮捕されることがあります。ロシアに見つかると、ロシアに拿捕される可能性があります。
 戦前の日本は世界各地で、魚を乱獲していました。日本海軍の駆逐艦(くちくかん)が護衛しながら、ソ連領海に入って(かに)を盗漁するなど、日本の漁業は世界の批判を浴びていました。
 1945年9月2日、日本が太平洋戦争に敗戦すると、日本はアメリカ軍人・マッカーサー司令官の占領軍に占領・支配されることとなりました。占領と同時に日本の船が外洋に出ることは禁止され、漁業も不可能になりました。しかし、このころ日本は食糧難で、日本人の飢えを救うために、どうしても漁業が必要だったので、マッカーサーは日本近海の漁業を許可しました。日本漁船が出漁できる範囲をマッカーサーラインと言います。その後、マッカーサーラインは数度にわたって拡大されましたが、北方領土や竹島の近海の漁業が許可されることはありませんでした。 1952年に占領が終わると、マッカーサーラインは廃止されましたが、北方領土近海の漁業が許可されることはありませんでした。
 現在、マッカーサーラインを踏襲して、『北海道海面漁業調整規則第32条の2』によって、北方領土周辺海域での日本人の無許可漁業は禁止されています。  




ここから下は、小学生や中学生には、少し詳しすぎる内容です。


どうして、北方領土問題が起こったの?   (クリックで展開)

歯舞・色丹 2島の海洋面積は、北方領土全体の40%   (クリックで展開)

なぜ、返還運動をしているの?   (クリックで展開)

なぜソ連は日本に宣戦布告したのですか? ソ連の参戦は国際法違反ですか?   (クリックで展開)

第2次世界大戦が終わった日は8月15日ですか?   (クリックで展開)

北方領土の島のうち、日本に一番近い島はどこですか。また、どのくらい離れていますか?   (クリックで展開)

歯舞群島(はぼまいぐんとう)」・・・大正時代についた新しい名前   (クリックで展開)

千島列島の植物分布の境界はどこですか?   (クリックで展開)


やさしい北方領土の話の注意書き はここをクリックしてください。少しむずかしい話なので、ふつうは読む必要ありません。

最近、ネット上で、このページの一部文言を取り上げて、コメントしている記事があります。このページはやさしく書くことを目的としているため、誤解の場合が多いようです。コメントされる場合は、注意書きもお読みください。


最終更新 2020.7

詳しい北方領土問題解説    

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