日々是好日・身辺雑記 2004年 12月
(下にいくほど日付は前になります)

 
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12月某日「大晦日の書き逃げ」
        
出ました当サイト名物?「大晦日の書き逃げ」!
2000年も、これやってるのよね。 私って・・・・
           
養母のお骨と遺影は、いま私がカチャカチャやっている部屋の棚の上で笑っております。
花が萎れて来ちゃったんで昨日買って来ました、とはいえクリスマス明けからこの数日は花屋
さんの店頭、松、千両とお正月飾りばかり。
いかんなー、どうも「もう大晦日」って感覚が欠落しとるわい。
     
一昨日は兄貴と都内某所へ出かけて、クリスタル用の「音叉」を購入。
あ〜♪ イィ音だぁ〜♪ 
長島美紀さん、ありがとう。 (あ、長島さんのサイトはこちら→
) 
      
ばーちゃんの事もあったし、「人間いつ死んでもいいように一枚はちゃんと取っておかなければ」
と、昨日は友人の写真家に(なにせここ数年まともに写真撮った覚えないよ〜ん♪)ウチの近所の
公園で写真撮ってもらったわな。
さっすがプロ! やるね、和内城(わなじょう)さん。 プロフィールコーナーにでも載せますか。
ぇ〜、みんな引くよぉ〜」? 引け、引けぃっ! あ、違った、「退け、退けぃ!」っと。
ま、それはさておき。
    
首都圏、雪になりそうな空模様。
初日の出は、無理っぽいね〜。
台風が来て、新潟で地震、世界でも、地震があって、津波があって、なんだかしんどい2004年でしたね。
2005年は、どうぞ良い年でありますように。
     
        

12月日某日「ではまた来年!」
     
薬の処方が変りました。
「親しい人の死」を受け止め、乗り越えていくのはみんな一緒。
ただ、私は「難治性うつ病」と「外傷性・部分生活史健忘症」(早い話が「記憶喪失」)
という、やっかいな病気をダブルで抱えており、しかも「原因不明の急性肝炎」を半年
前にやったばかりで、現在も3本柱で投薬治療中。
体も事故の後遺症でリハビリの真っ最中。 日常生活を保つために、薬漬けです。
で、医師と相談のうえ「自己消滅」しないために、一時的に、肝炎はさておいて、
びっくりするほど強い薬を服用することになりました。
当然、副作用もキツ〜イです。
私の場合、痴呆の始まった養母から、ある時期毎日暴力を受け続けたのがネックみたい
です。 ビンタ11連発なんてザラでしたもん。
それでも養母を「愛する」ことだけは止められなかった。 複雑です。
痛いのはこらえられる、辛いのも我慢できる、ただ、愛する人に愛されないのが辛い。
     
あぁ、1月分の雑記、既に書いて置いてよかった。
来年になったらまた「ヘンテコリン」な「テンション高い」「明るい」抜刀おばちゃん
に戻れるでしょう。
さあ、これに懲りずに、また来年!!
    
    

12月某日「やられちまったよ、ムガ(黄金の)・シルク!」
      
ま、それにしてもクリスマスでございます。
なにしろ今年は絵コンテ集「クリスマスのニケ」なんつーもんを発表しちゃったもんで
まあ静かに、粛々と(ウソッパチ!)この日を過ごそうと心に決めておったのですが。
    
あ〜ぁ、やっちゃったよ。 恐怖の衝動買い。
   
わたくし、(個人的に直接ご存じの方はもうお分かりですね)「服」というものをほと
んど持っておりません。 まあ、勤め仕事と違って居職の職人の気楽さ、「通勤服」と
いうものがないせいで、ふだん家ではいたって「ぞろっぺぇ」なカッコをしております。
で、たまに外で「服を選ぶ」となると・・・・
早いんです。
30秒。
それで決まり。
それ以上迷ったら、買わない。
30秒というのは「ひと目惚れ」に必要な時間。
この間に「だけどここがイヤ」「だけどココが使いにくそう」「だけど・・・」と否定
要素が出てきたら、絶対買わない。
なにしろ自分のウェディング・ドレスすら30秒で決めたオンナですから、ワタシは(笑)。
     
たまたま自分のお金まとまった額持って歩いていたのが運のつき。
パチッと目があっちゃったんです、インドの「ムガ・シルク」のマフラーと。
「ムガ・シルク」は別名「黄金のシルク」。
生糸が白じゃない、黄金色の繭。 今の蚕より原種に近いんです。
(そこいらへん、日本の「緑繭」や「青繭」に近いかも)
それを人の手で紡いで、人の手で機織りする。 だから日本の「羽二重」とは全然違う。
シャラリとした手応えに、薄く染めた絹糸で細かく刺繍。
    
「これ、下さい。」
と言ってから、値段札見てなかったことに気づきました
福沢さん4人行って、オツリ100円玉1枚・・・・・・・・・(あぁ〜)。
     
どうしよう、私これから「粉屋」のバーゲンあるのよ〜。
銀座・有楽町「プランタン」の「Powder」って店、以前「ピンク・ハウス」でプリント
デザイン手がけていた人が独立した、あっさりチャイナ・ティストの、いい素材使った服
作っているところで、多少高くても着回しが効くし、長く着られるし。
(外出するときはだいたいここの着ています。)
あぁ、ビンボーで年を越し、ビンボーで新年迎えるこの私・・・・
「ただのバカじゃ」と人は言う(笑)。
まったくもって、その通り。
     
     

12月某日「ウズラが脱走!!」
飼ってるウズラが大脱走! で、部屋閉めきっての捕り物劇とあいなりました。
こんな時に、相棒は頼もしいね〜♪
こやつめ、ホント「ウズラー」なやっちゃ。
「天下御免のむこう脛」相棒のウズラサイトです。
「う組顛末記」お台所は私担当。
2002年の「ヒメヒナ写真館」見てね。 ブリーダーなのよ、実はウチ。
(って、孵化させても育てても、1円の得にもなりゃしないんだけどね。)
来年の春ヒナ孵るかしらん。 ああ、今から親バカな心境・・・・・(笑)

12月某日「『可保(かほ)』の、オカマのマスター」
     
私セクシャル・マイノリティーに対する差別にものすごく鋭敏なタチなもんで、ホントは
使いたくないんです、この単語。 でも彼の場合それでもうひとつの通り名になっていた
ものですから。 「『可保』の
オカマのマスター」の話です。
      
私は町田市に住んでおります。 ちょっと馴染みがないかもしれませんが、まあ、東京の
端っこ、八王子から横浜港に生糸を出荷するために発達した「都心の衛星都市」です。
そこにあった「さいかやデパート」、「JORNA」という名のファッションビルになりま
した。 最上階に大型書店「有隣堂」、ちょっとしたギャラリーがあって、手塚治虫さん
や萩尾望都さんの原画を展示してくれる!
通いました、友人と。(彼女は現在、某・美大で教鞭取っています。)
下のフロアの喫茶店は、当時としては珍しく紅茶を銘柄で、しかもポットでサービスして
くれたんです。 カウンターのビター・ボトルにはスコッチ、ブランディー、ラム、各種
リキュールがズラリ。 「お好みで、紅茶にダッシュして下さい」。
ホントに「大人の喫茶店」でした。(もちろん入れましたよ、紅茶にたっぷりと、ね・笑)
      
横浜の古い女子校に通う私たちは、行動を極端に制限されていました。
下校途中の元町・伊勢佐木町への立ち入り厳禁(目の前なのによっ!!)。
今年たぶん創立104年、どこへ行っても同窓生と父兄の目があって、自由なし。
だから横浜を離れた「町田」は羽根を伸ばせる別天地でした。
     
今日見たギャラリーの絵の話、買った美術本の話、未来のこと、私と友人はとことん話し
て、たっぷり「自分が自分になる助走」をしたわけです。
私、恥ずかしいけど「青春」て言葉、好きです。
彼女がいてくれたから。
     
その「有隣堂」に行く1階の通路に面して、「可保(かほ)」という小さな小さな香水店
がありました。 ウィンドウケースひとつ、鏡張りの背にガラス棚、そこに香水のビンが
キラキラ並んでいる。 ただそれだけの店でした。
    
マスターは若いころの作家・森村 誠一さん(「人間の証明」の)そっくり。
ノリの効いた白いシャツをパリッと着こなし、タイに黒いベスト。
背筋とうなじをピンッと伸ばして、毎日フレグランスのボトルを磨く。
ついでに自分の爪なんかも磨いちゃう。 新作の「香り」を手首に付けて嗅ぐ、その所作。
なんとはなしに
「『可保』の
オカマのマスター」
ってね、誰からともなく(笑)。
     
四年生(高校一年)のころかなあ、冬に、なんとなくフレグランス欲しくなったんです。
持ってはいたんですよ、お歳暮の化粧石鹸のオマケで付いてた「Miss Dior」。
さわやかな、若々しい香りでした。 でも物足りない。 自分の香りが欲しかった。
お年玉の残りとお小遣いと、こんだけありゃ、よっしゃ、大丈夫・・・・なハズ。
行きました「可保」に。
    
私たちの世代は子供時代「コンビニ」も「ドラッグストア」も経験していません。
だから女の子にとって「ファースト・フレグランス」と「ファースト・コンドーム」を
買うのって、ハードルひとつ飛び越える様な「覚悟」が要ったんです。
     
「・・・下さい。」
制服姿でウィンドウ・ケースの前に立つ私。
「コロンを?トワレを?」まだ分らなかった、ガキンチョの私。
でもマスターは私を決して「ガキ」扱いしませんでした。
「どんなのがお好み? フェミナン(女性系)? マニッシュ(男性系)?」
「あ、フェミナンなのはちょっと・・・・」
「じゃあ、マニッシュね。 ちょっと待ってね。」
マスター振り向いて棚をカチャカチャ。 取り出したのは2本のボトル。
「これ、マイナーなんだけど、こないだ入荷したの。 どちらもマニッシュ。
 でも、あなた位の年齢なら、おかしくないわ。 こっち柑橘系、こっち麝香(ムスク)。
 かいでごらんなさい、どちらがお好み?」
クンクン
「どっちもいい匂い。 でも、こっち好みかも。」
「そう、じゃ、付けたげるわ、手首出して。」
右と左の手首にプシュ!
「どう?」
「・・・・やっぱ、こっち・・・かなあ。」
「そう。 じゃ、今日はこれでお帰りなさい。」
えぇ〜?売ってくれないの? やっぱ私がガキだから? でもそうじゃなくて。
「女性は、人間は、朝・午・晩で体臭がまるで違うの。
 だから今日はこれで帰って、お家でいつも通り生活して、お風呂に入って明日の朝
 手首の『残り香』を嗅いでごらんなさい。 それから決めて。」
家に帰り、お風呂に入り、眠った翌朝クンクンクン、あれっ?
     
「こんにちは。」
「あら。 いらっしゃい、どうだった?」
「その場で気に入ったのはこっちだったんですけれど・・・・朝起きたらこっちの方
 がいい香りでした。」
「体質に合っているのね。 どうなさる?」
「いただきます。」
「ありがとうございます。」
マスターはその小さなボトルを丁寧に包んでくれました。
    
その時私はオカマのマスターから沢山のことを教わりました。
フレグランスは自分の楽しみ、自分の体に合わせて選択すること。
でもフレグランスは「社会的・自分」のたしなみ、TPOを守ること。(たとえば右の
手首に付けちゃうと、お箸を握っての食事の時に楽しめないし、うなじに付けすぎる
とエレベーターで乗り合わせた人たちが不愉快な思いをするし。
    
でもね、第三のメッセージに気が付いたのは、大人になってからでした。
つまり。
「フレグランスしか身にまとえない状況」というのが来るわけです。
ホテルだったり、相手の部屋だったり。 「後付け」出来ない。 その時に。
裸でくーかくーか眠っている私。 相手が先に目を覚ます。 私の体に顔を近づける。
その時わたしの体はどんな香りを身にまとっているか。
そこまでが、私の「責任」。
だから「お家に帰っていつも通り生活して、お風呂に入って明日の朝・・・・」
だったんです!
    
まだまだ尻の青い小娘に、実(じつ)のある商売をしてくれたマスター。
「可保」は今でもあります、大きなコスメ・ショップになって。
棚には沢山のフレグランス、お試し自由。
女子高校生達がキャイキャイはしゃいで買っています。
「この香りは芸能人の誰それ愛用」「彼に贈るランキングナンバー1はこれ!」って。
マスターは、お店が大きくなった日からいなくなりました。
偉くなったのか、他にもお店を持ったのか、権利を人に譲ったのか。
     
まだ「香水」が対面商売だった時代の、小さな、でも大切な思い出です。
       
     

12月某日「もしも車に乗れたなら」
    
車の保険、更新の季節。
「ハイハイ、前回と同じ内容で更新してください。
 35歳以上? ええ、大丈夫です。 ウチの車、若い人がハンドル握るのありません。」
      
我が家の車は日産の「PAO (パオ)」です。水色の。
かなり珍しいデザインなもので、台数限定発売だったのに未だに乗っている人多いです。
出会うとパッシングで合図してくれたり、手振ってくれたり。
かなりマニアックな車であることは確か。
乗り心地はあんまりよくないんだけれどね(笑)。 ベンチシートが固いのじゃ。
     
なのになんで十数年この車かというと。
やりたかったのよ「カリオストロの城」の「クラリスごっこ」!
ちょっと似てるんだわさ、あのシトロエンに。
横浜・山手カトリック教会で結婚式を挙げた私たち夫婦は、サンルーフ開けたPAOに乗って
駆け下りましたよ、山手の丘の地蔵坂を! そのあとの披露宴「中華街」でしたから。
ウェディング・ドレス着て、長いヴェールに風はらませて、走り抜ける爽快さ!!
ただそのために、そう、それだけのために!ウチは「日産・PAO」なのです。 アホじゃ。
     
先日横浜新道走っていたら「鋼色(青灰金属色)」のミニ・クーパーが走って
いて、あまりの
美しさにドライバーさんに思わず手を振ってしまった私。
ベンベ(BMW)やベンツは嫌いなの。
ポルシェもフェラーリもたいして美しいとは思えないわ。
乗るとしたらジャガー、それもオールド・タイプ。 色はシルバーかダーク・グリーン。
あとバイクに乗れるとしたら(倒れてるのスタンディングするのが無理だから限定解除なん
て取れっこないけど、もしも、よ、もしも)赤のドゥカティ(伊)がいいな。
イタリアン・オレンジでもいいな〜♪
黒の革つなぎ着てまたがるの。 楽しいだろうなー♪
    
てなわけで、クリスマス、私が相棒にリクエストしたのは「ジャガーのオーデコロン」でし
た。 メンズなんだけどさ。 いい香りなのよ、これ。
車はビンボーすぎて無理だから、せめてコロンで、ね(笑)。
    
    

12月某日「今日の料理:「抜刀質店」の作り方・いきなり・その4」
   『遊びに行こうぜ華やっ子!』
           
忘年会、宴会シーズンですわいな。 道行く人たちも楽しそう。
先日私も「忘年会」に参加、久々に夜の新宿を歩きました。 す、す〜ご〜い〜混雑。
最近はみんな携帯かけながらの待ち合わせで、「心ここにあらず」状態の若い子たちが
右に左にウロウロしてるもんで、杖ついてる抜刀おばちゃん、ちょっと困ったです。
ふつうならまっすぐ歩いている前の人が携帯片手に
「あ、ユミカ〜♪ ここ、ここっ!」
って言いながら、いきなり右に、左に、ターン。
道路交通法でもって、ケータイ中の人間の背中にも、付けて欲しいですね、ウィンカー。
     
でも、とにかく楽しい忘年会。
場所がたまたま「新宿二丁目」だったもんで(世界最大のゲイ・タウンなのじゃ♪)
奥の座敷は見事に男のオジサンたちの呑み会。 盛り上がってたよ〜♪
    
さてさて「抜刀質店」と直接面識がある方はご存じのとおり、わたくし「座持ちのする
オンナ」でございます。 ええ、そう、お座敷芸者並みに(笑)。
ちゃんとあるんですよ、お座敷名「華やっ子姐さん」って。
これ、20代のころ私のパトロンさんが付けてくれた名前です。
あ、パトロンってもエッチな意味じゃ全然なくて(残念?)、ホント居たんです、私を
「買って」くれた男(ヒト)が。
    
有楽町の大きな新聞社、そこから子会社を立ち上げたオジチャン・「旦那」でした。
「いつでもいいから遊びに来な!」
江戸っ子訛りで「あ
びにきねぇ!」でした。
行きましたよ、そりゃもうセッセと(笑)。
だって私、貧乏だったんですもん(笑)。
午に行ったら銀座で「海鮮しゃぶしゃぶ」
午後に行ったら、まだ珍しかった「英国風ティールーム」で紅茶にスコーンにサンド
ウィッチ、夕方行ったら
「ビヤホール行ったことあるかい?」
「いいえ、ございません」
「じゃ、みんなで『ライオン』にくり出そうぜ!」
旦那と会社のオジサンたちが、駆け出しイラストレーターの私に「銀座での遊び方」を
教えてくれたんです。 私のアホなギャグにはしゃぎながら、やり交わす「言葉遊び」。
       
私の「いつも心に三味線を」の精神は、このようにして育まれたわけでございます。
     
「華やっ子やぁ、オイラのこと好きかい?」
ビヤホールで酔っぱらった「旦那」。
「好きですともさ『旦那』。 妾になってもよござんす。」
と、酔っぱらった私。 ふたりでニッコリ。
       
ウソッパチなんです、これ。
「旦那」は家に帰ってドアを開けたら、重度の障害を持つお嬢さんの「お父さん」。
体中をチューブとコードに繋がれたお嬢さんを支えなければ。
私は駆け出しの、まだまだ売れてないイラストレーター兼漫画家。
商業誌の世界に必死でトライして、でもダメでイラストレーター。 漫画は広告代理店
経由の「企業向けオーダーメイド」、毎日画材とコンテを詰め込んだカバン抱えて東京
中走り回り、名刺交換して、クライアントさん交えてのプレゼンをこなす日々。
否が応でも「話芸」に磨きがかかります。
それを支えてくれたのが「旦那」とオジサンたちでした。
     
後に私は結婚しました。 式は横浜・山手カトリック教会。 披露宴は中華街。
「旦那」に招待状を送りました。
「貧乏なので『会費制』、7000円です。 よろしかったら、お越しください。」
「旦那」来てくれました。 会費払って。 受付に金一封、なんと福沢さん10人!?!
     
「半返し」なんて、かえって失礼です。葉書一枚書きました。

「愛しの『旦那』さま
 このたびのお心遣い、貧乏な生活をスタートさせるわたくしたちにとって、
 心強い援護射撃、甘えて使わせて頂きます。              華やっ子」

    
数日たってペロンと一枚葉書でお返事。
「華やっ子、
 結婚しても
 いいオンナでい続けろよ」

     
粋(すい)な男って、いるものです。
迷ったとき、後ずさりしそうになったとき、左の肩にポン!と置かれる手の感触。
聴こえる、あの声。
    
「遊(あす)びに行こうぜ、華やっ子!!」
     
私の愛しい「旦那」さま、わたしはここで「抜刀質店」やってます(笑)。
     
   

12月某日「やっと冬モード」
で、プロフィールをちょっとマイナー・チェンジしてみました。
ちょっとだけよん
(笑) 
      

12月某日「シナリオ」
     
とりあえず、バタバタはしておりますが、それでも眠って、食べて(ここ半月ほとんど
食事が摂れない状態だったもんで・・・・いや、食べ物を口にはしていたのですが、私
の場合、極端なハナシ「体が食べ物を拒んでしまう」わけです。 困った体質・・・・)
時間もできて、ふ〜う、一段落。
で、よっこらしょっとワープロ引っぱり出して・・・・まだ持っているのよ・・・。
パソコンの機能をほとんど使いこなせない私にとって、古風なワープロは心強い味方。
だって、ふりがなふれるし〜、辞書だって充実してるし〜。
     
例えば私の雅号(持ってるのよ、悪いっ!?)、「雙魚」つーんですが、この「雙」の
文字、「双」の旧漢字。 ちっとやそっとじゃ出てこないんです、このパソコン。
カナディアン・フレンチ・表記も出来ないし。
     
いや、やってやれないはずはないんだけど、そこまでたどり着くのが大変なのよ。
メールとサイトと「上海」の3つしか。 まだ思い出せないのよ、フォトショップも、
スキャナーも、使い方が。
ああ、やっかいな記憶喪失後遺症。 一生、思い出さんかも(笑)。
     
んでもって、ワープロ登場。
ちょっと某所に寄稿する文章書くのと、「新作落語(シリアスな)」ちゅーか、「座っ
てやるひとり芝居」ちゅーかー
(ムニャムニャ)、まあ、そのシナリオ書きに使うのじゃ。
ぇ〜、シナリオォ〜」・・・・いーでしょ、もうっ(
汗)  
そーゆーことも、やるんだよ、抜刀おばちゃんはっ!!
しかも演じちゃうんだよっ自分でっ!!
って、別に噺家でも女優でもないんだけどね、やっちゃうの。
実はもうやっちゃったの、3人の方の前で。
で、いろいろ感想やご意見頂いて、手直しして、いよいよ決定稿を書くのじゃ。
一文の得にもなりゃしないんだけどさ、抜刀おばちゃんから「書く・描くこと」取ったら
「私が私じゃなくなっちゃう」ワケさ。
損な性分・・・・よのう、
トホホ(笑)。
     
     

12月某日「研ぐ」
     
とはいえ、12月に入ってから病院通いと葬儀で、睡眠時間1日平均2時間、体中ガッ
キンガッキンで、困ったもんじゃわい(笑)。
毎週行くリハビリの整骨院で、いつもはこらえてるのに、ついに悲鳴あげちゃいました。
「い、痛っあぁ〜〜っ!」
いや、ホント。 涙出たよ、痛くって。
でも体に付着するいらん「ゆがみ」や「疲れ」は、多少痛みを伴ってでも、定期的に取
り去らなければリハビリ進まないわな。
     
「喪主」ってさ、ずっと大勢に見られてて、(130人だ・恐っ!)背筋伸ばして立っ
てなくちゃいけないでしょ。 しかも左手に、杖。
所作が限られて(杖のせいで手を合わすことも上手く出来んのよ)、もうガッチゴッチ。
ホント、この若さ?でやるもんじゃないね、「喪主」。
つーか、もう一生やりたくないです、正直言って。
相棒、私より長生きしてくれ、1日でいいから。 頼むよ。
    
で、やーっと、一段落。
っていうかー、老人ホームの荷物整理と費用の精算、お役所、税務署関係はこれからなん
ですがー。(やーれやれだ・笑)
週末久々に体が空いたので、長いことお会いしたいと思っていた人たちとやっとお目にか
かる機会を持てました。 ああ、嬉しかった〜。
    
アホ話ももちろんですが、かーなーりー専門的なディスカッションで、脳細胞生き返り。
「お米を研ぐ」って、しますでしょ。 そんなカンジでした。
米ぬか付きまくった脳細胞ひとつひとつが、鋭利な言葉のやりとりでキーンと研ぎ澄まさ
れていく感覚。
    
ああ、やっぱり「人」の「間」と書いて「人間」。
誰かと出会い、言葉を交わす、そのありがたさをしみじみ実感した週末でした。
     
     

12月某日「夢で 会いましょう」
       
津田 時子 葬儀ミサ:16日(木)横浜・カトリック二俣川教会にて 10:30より
           
          
喪主・矢嶋 信子あいさつ以下の通り。
     
みなさま、本日はお寒い中、お運びくださいまして誠にありがとうございます。
・・・・と言いたいところなのですが。
この「津田 時子」というおばあちゃんはとんでもなくあっぱれな人でしたもので、
昨日までの寒さがウソのような暖かさ、しかもみごとに「日本晴れ」。
「死せる孔明ナントカを走らす」じゃありませんが、魂は神さまの国に昇っていっ
ちゃったのに、自分の葬儀ミサの日を「お天気」にしちゃいました(笑)。
     
今日は祭壇の右手に飾られている、若き日の津田の「肖像画」について、お話ししま
しょう。 とはいえ、私のスピーチはともすれば「脱線」しがちなので、もしも忘れ
て「これをもちまして、わたくしの・・・」と言ったら、「絵! 絵! 絵!」とゼス
チャーしてくださいね(笑)。
     
今日お集まりの皆さんにはご存じの方も多いと思いますが、津田には「親友」がおり
ました。 同じ女性日本画家で「岡本 彌寿子さん」。
ふたりは昭和5年から、1999年12月12日、津田が背骨の圧迫骨折で入院する
その日まで、70年間一緒に暮らしておりました。
70年、ですよ、みなさん!
「絵描き」って、個性的な人、多いんです。
なかよしこよしが、決別したら、きっぱり「さようなら」。
ゴッホとゴーギャンがいい例です。
ところが津田と岡本さん。 個性的なふたりですが、絶妙のコンビネーションで70
年間も一緒に暮らしました。
    
岡本さんは日本画家「小林 古径」さんの弟子、「奥村 土牛」さんの妹弟子です。
津田は大磯にお住まいの「安田 靫彦」先生の弟子でした。
二人は馬込に住んでいました。 小林先生のお宅とは目と鼻の先。
ところが岡本さんは、当時では大変な病気「肋膜炎」にかかって、寝たきりになって
しまいました。 そこで津田が毎日毎日、小林先生のお宅へ
「こんにちは。 なにか御用はありませんか?」
と通って、「弟子」の代わりをいたしました。
    
小林先生は病気をされた。 津田は四国出身ですので「やいと」、お灸をすえるのが
上手かったんです。 で、毎日小林先生に「やいと」をすえてさしあげた。
小林先生はよくなられた。
「ありがとう、御礼に君を描いてあげよう。」
それが、この「絵」です。
     
「先生、美人に描いてくださいね。」
「わかった、わかった。」
暑い季節、汗がポタポタ落ちます。
「先生、汗は描かないでくださいね。」
「わかった、わかった。」
「美人に描いてくださいね。」
「わかった、わかった。」
天下の「小林 古径」先生に、ですよ!?(笑) 描き方に注文つけたなんて、たぶん
津田くらいなものでしょう(笑)。
そうして描いていただいたのが、この「肖像画」。
あとで津田の最後の寝顔を、みなさま見てやって下さい、そして、この絵を。
さあて、どちらが「美人」かしらん?(笑)
     
岡本さんは現在、南区の老人ホームにいらっしゃいます。
妹さんが、
「津田さんのお葬式だから、タクシーで、車椅子でも、行きましょうよ、お姉さん。」
と、おっしゃった。 ところが岡本さん
「いいのよ、行かなくても。」
え?
「津田さんと私は毎晩、
夢で 会っているの。 だからいいの。」
    
70年間続いた親友って、こんなに『素敵』なんです。
    
さあ、こんどはみなさまの番。
津田は、みなさまの夢に出て来ますかしらん? そのとき津田は「美人」でしょうか?
ちゃんとニッコリ笑っているでしょうか?
みなさまと津田との、
「夢で 会いましょう」
     
        
これをもちまして、わたくしの挨拶の言葉と代えさせていただきます。
        
ありがとうございました。(礼)
     
      
     

12月某日「 あっかんべぇで、さようなら 」
       
「訃報」
去る12月12日、横浜市・東戸塚相互病院にて、津田 時子さん心不全および
腎不全のため死去。 享年97。
     
通夜:15日(水)横浜・カトリック二俣川教会にて 18:00より
              
喪主・矢嶋 信子あいさつ以下の通り。
     
師走、「師も走る」という季節、みなさまお忙しい中、お集まりいただきまして
本当にありがとうございます。
古いお知り合いの中には
「あれ、津田さん独身なのに、なんでこんな若いオバチャンが喪主なの?」
とお思いの方もいらっしゃるかと思います。
私は津田の「養女」です。
7才の時
「大きくなったらうちの子におなり。」
と言われて以来、津田は私の「母」でした。
    
とはいえ。 半世紀以上年の離れた「母」ですからねぇ。
いったい何を話せば良いのでしょう?(笑) いろいろ、いろいろ考えました。
で、津田と私の「さよなら」について、お話ししようと思います。
     
津田は老人ホームで生活しておりましたが、軽い肺炎を起し、ものが食べられなく
なり、入院いたしました。 幸い熱はすぐに下がり、あとは「食事」のリハビリさ
えすれば退院。 
「どうやら持ち直して、年を越してくれそうだ!」
と安堵いたしました。 が。
入院から10日目に再び発熱、熱はすぐに引いたのですが、今度は自分の「体温」を
作れなくなり、12月12日にスウッと、召されました。
    
午前中はしゃべったりもしていたそうなのですが、面会時間の2時ともなると疲れて
しまうのでしょう、目を閉じたきり、何も話さない。
毎日通いましたが、津田と私との間には、会話はございませんでした。
それでも手に触れて、懐かしい想い出話をすると、瞼がぴくり、ぴくりと動く。
おそらく、聴こえてはいたのでしょう。
    
そんな津田でしたが、12月9日。
ぱかりと目を開きました。 ふだんは目は開いても何も見ようとはしない。
それが、一生懸命目線で私を捜している。 私も津田を見ました。
二人の目線がパチリと合った。
さあ、その時です。
   
みなさん、津田が一体何をしたと思いますか?
想い出の中の津田の姿で、ご想像ください。
    
「あっかんべぇ」です!(笑)
     
負けずに私もやり返しましたよ、「あっかんべぇ」(笑)。
するとも一度「あっかんべぇ」。
私もお返し「あっかんべぇ」。
三度目にニッコリ笑って「あっかんべぇ」。
私も笑って「あっかんべぇ」。
津田はニッコリ笑って、目を閉じました。
それが、津田と私との最後のコミュニケーションでした。
     
世の中にはいろいろな形の「さよなら」があります。
「さよなら、さよなら、もう会えないね。」という人もいれば、
「さようなら、また必ずお会いしましょう!」という人も。
「バイバイ」っていう人、「じゃあまたね!」と言う人、手を振る人、
古風な方は白いハンカチーフなんか振ったりなさいますよね。
       
津田と私の「さよなら」は「三度の『あっかんべぇ』」でした。
     
私は横浜・F学園の生徒でしたから、津田は私の教師でもありました。
私は最後の「フランス語専攻生」、私のあとはみんな英語で大学受験するようにな
りました。 私が「最後のひとり」です。
     
フランス語の先生と私とで、アントワーヌ・ド・サン・テクジェペリの「ル・プティ
プランス・星の王子さま」を翻訳いたしました。
これ、あんちょこイイのあるんです、名訳中の名訳といわれる、岩波少年文庫の。
でも、それではなく。 
フランスの名優ジェラール・フィリップさんが朗読している「ル・プティ・プランス」
これを聴きながら訳しました。
ですから私は「ジェラール・フィリップさんの声」で「星の王子さま」を覚えております。
     
有名なシーンがあります。
王子さまと「キツネ」とが別れるシーンです。 フランス語ではこうです。
「アディユー・ディ・ル・ルナール」
アディユーですからもう会えない、「さようなら、もう会えないね。」とキツネは言いました。
「ヴォァラ・モン・シュクレ」
「これがぼくの秘密だよ。」
「イレ・トレ・サンプル」
「とっても単純なことなんだ。」
「オン・ヌ・ヴォァ・ビヤン・カベック・ル・クール」
「ひとは『心』無しではものをよく見ることが出来ない。」
「レ・サンティエール・セ・タンビジーブル・プゥル・レ・ジュウ」
「大切なことは、目には見えないんだよ。」
      
      
はたから見れば津田と私、小さいおばちゃんと、小さい小さいおばあちゃんが「あっかんべぇ」
三回しただけです。
でも「大切なことは、目には見えない」。
       
わたしと津田とは「あっかんべぇ」三回で「さようなら」をいたしました。
12月9日は、わたしにとっての「あっかんべぇ・記念日」です(笑)。
    
ああ、「喪主の挨拶」って、こんなのでいいのかしらん?(笑)
でも、これをもちまして、わたくしの挨拶の言葉と代えさせていただきます。
ご静聴、ありがとうございました。 (礼)
     
            
      
          

12月某日「カクテル『レニ』ついに完成っ!!」
     
いやはやもう、ずーっと、ずーーーーっと考えていたカクテル「レニ」のレシピ、
やーっと
完成いたしました!
でも今回はまだ写真なし、文字だけなんです。 ゴメン。
あのカクテルやボトルの写真撮るときって、ケントの全紙を口にくわえて(撮影
用のホリゾントないのよ、ウチ)両手にスタンド持って光を調節。
それを相棒がデジカメで撮って、自分のパソコンに取り込んで、私にファイル添
付したメールを送る、という、とんでもなくややこしくもハタから見たら大笑い
なコトをやらかしておるわけです。
     
でも引っ越しのゴタゴタでケント紙捨てちゃったし、画像取り込みの技法忘れ
ちゃったし、相棒もうすぐ海外出張で走り回ってるし・・・・で、文字だけ。
     
だけども味は保証します。 ぜひ試してみてください!
「レニ&フント」なんて「遊びレシピ」もあるでよ(笑)。
       

12月某日「今日の料理:「抜刀質店」の作り方・いきなり、その2」
     
タンタカタカタカ・タンタンタ〜ン♪
 (NHK「きょうの料理のテーマソング」鳴る)
みなさま、こんにちは。
「抜刀質店の作り方・いきなり、その2」の時間です。
今日まずご用意いただくものは「辞書」です。
国語辞典でも英和辞典でも、古語辞典でもなんでもけっこう。
お手元の辞書をモニターの前へ。
     
ではまず最初に。
    
1:材料をそろえます
小学校
(公立・少子化のため今は廃校・トホホ・・・)卒業のとき、私は卒業記念に「ジュニア
英和辞典」という小型の辞書をもらいました。
「そっかー、中学行ったら『英語』あるんだもんな。 この辞書使おっと。」
しかし私が進学したのは中高一貫の私立女子校でした。
最初の、一年生の教科書購入のとき、英和辞典も指定がありました。 もっと分厚い、
「三省堂・英和中辞典」でした。
「あ、そっかー、6年間使うんだもんなー。」
買いました。 古文は、出版社の指定はありませんでしたが、やはり「古語・中辞典を」
とのことでした。 買いました。
           
2:材料の、カラをむきましょう
さて最初の古文の時間。 先生は尋ねました。
「みなさん、古語辞典は持ってきましたか?」
家に置いてきた者、約3分の1。
「授業中に引くこともありますから、古文のある日は持って登校しなさい。 では、持って
 来た人は、机の上にお出しなさい。」
みんなパタパタ辞書を出す。 ピンッとした新品です。 函(はこ)入りです。
「今日お家に帰ったら、函はお捨てなさい。 辞書は函に入っている限り、『生き物』では
 ありません。 よろしいですね?」
家に帰って、函を捨てました。
     
3:材料に、下味をつけましょう
私が入ったのは「新聞部」。 先輩に言われました。
「国語辞典を持っていらっしゃい。 もちろんジュニア辞典ではだめです。 中辞典をね。」
持って行きました、岩波の国語辞典。 新品。
「ふぅ・・・ん。」
と、先輩。 辞書の紙は「インディアン・ペーパー」と呼ばれる薄くて丈夫なシロモノ。
いきなりその1ページ目を開いて、クシャクシャッ!! でもって、パンッと延ばす。
え、えっ、えええ〜っ!?!?!?
2ページ目もクシャクシャッ!! パンッ! 3ページ目もクシャクシャッ!! パンッ!
「辞書は、自分の引きたいとき、自分の手の速度にあわせて効率よく引けなかったら意味が
 ないのよ。 何度もこうして、空気をページとページの間に含ませて、重いものを乗せて
 プレスしなさい。
 あなたは左利きだから、右手で引くときにしなやかにページを繰れるよう、
 『あなたの辞書』を、作りなさい。
 こんなことすれば、確かにボロボロになって、古本屋さんには売れなくなるわ。
 でもボロになった分、辞書はあなたの頭の中に生きています。」
      
4:応用編
「それから、これから何年かは、毎日一度、意味もなく、ランダムに辞書を開きなさい。
 そして目に付いたひとつの単語を、覚えなさい。
 今は意味をなさなくても、それがあなたの将来の『ボキャブラリー』になります。」 
     
       
てなわけで、わたしの辞書は今でもみごとにボロボロです。(さて、何代目?)
・・・・・でもね、やっぱり「国語」「古語」「仏和」「和仏」の中辞典(4〜5センチ
あるのよー・涙)鞄に入れての登下校は、花の乙女にゃ、重すぎたわいな。(笑)
6年間に鞄の取っ手、一度壊れて、卒業する先輩のお古譲ってもらって、それも壊れて、
しまいにゃ取っ手のところぶっとい針金でグルグル巻きしてましたもん。
・・・・・ああ、「抜刀質店」、花の乙女?時代・・・・ 
チャンチャン♪
      
     

12月某日「言葉(ことのは)を交わす」
     
私、人と仲良くなるの上手な方だとおもいます。
別に「社交的」ってわけじゃありませんが。(むしろその逆かも・笑)
乗ったタクシーの運転手さん、スーパーのレジのおばちゃん、お店のスタッフ、
たまたま道で出会ったお年寄り、こども、ホームレスさん、まず誰とでも。
      
「誰とでも、言葉を交わそう」と積極的に思うようになったのは、15才の冬でした。
     
まだ「国鉄」だった頃の横浜の「桜木町駅」改札口を歩いていました。
朝早く。 バスに乗るために。
なにしろ通っていた学校、朝早かったんです。
修道院の日課にあわせて、7時55分には最初の鐘が鳴っちゃうんですから。
(朝起きるの5時半よ! 今の私からは想像もつかないけど・・・・・我ながら・・・笑)
     
今は明るくきれいな桜木町駅も、当時は古い、暗い、そして横浜特有の「浜風」のせいで
どんより煤けた建物でした。(港ヨコハマは塩を含んだ風が吹くので、全体的にくすんだ
街だったのです。 キレイになったのって、割と最近のこと)
冬の曇った早朝、みんな地味なコート姿、手には鞄、白い息、 靴音ばかり。
     
そのなかで。
    
構内の通路に段ボールを敷いて、4〜5人の男の人たちが「酒盛り」してました。
      
「日本3大ドヤ街(がい)」ってご存じ?
東京の「山谷」、横浜の「寿」、関西の釜ヶ崎・いわゆる「あいりん地区」です。 
明治の開国、大急ぎで「外国規模」の街や港を造らなければならなかった日本の「労務者」
の住むところ。 大人の、男の人ばかり。 「手配師」と呼ばれる人たちが、その日その
日の「土木仕事」を振り分けて、あっちの工事現場、こっちの荷物積み、働きに行く人を
決めます。 仕事にあぶれたら、その日一日収入はゼロ。
     
そのドヤ街から流れてきたおじさんたちでした。
当時はペットボトルもなく、「ヤンカラ」と呼ばれる焼酎の2合ビン(えーと、泡盛みた
いなもんよ)を手に手にラッパ飲みしながら通る人たちをののしっていました。
サラリーマン風の人には
「朝っぱらから辛気くせえカオしやがって、この野郎!」
「やめちまえ、『お勤め』なんて!」
女の人には卑猥な言葉。
みんな彼らを〈無視〉して通り過ぎて行きました。 「カタギ」の人は忙しいのですから。
    
その中のひとりと私の目線が合ってしまいました。
紺色の制服、黒い靴、メガネ掛けて、手には分厚い学生鞄(なにしろ教科書ノートに辞書
4冊、ふざけていっぺん体重計で量ったら15キロ以上あって、ぶっとんだわな・笑)。
「よ、姉ちゃん! 学校なんか行かねえで、こっちきて一緒に呑めよッ!!」
    
「じゃかましいっ!」
なんでとっさに叫んだのだか。 ま、なにしろ私、いざとなったらチャキチャキ江戸っ子。
「朝っぱらから酒なんぞ呑んでないで、とっとと仕事しろいっ!!」
    
おじさんたちは一瞬黙って、それからドワッ!と笑いました。
「早く、いいからこっち!」
先輩に腕を掴まれて、私はその場を離れました。
足早に歩く背中にいつまでも、笑い声が響いてました。
     
私は、一番言ってはいけないことを言ってしまったのです。 仕事がないから、呑むのです。
もうドヤの簡易宿(ベッドハウス)に払うお金もないから、段ボール敷いて座ってるんです。
未熟なガキの私には、まだその「世の中のしくみ」がちゃんと見えてはいませんでした。
みんなみんな、おじさんたちを、「いない者」として通り過ぎてゆく。
駅の、場所ふさぎで、お酒臭くてやかましい「備品」として。
そのなかで。
私ひとりが初めて「人」としておじさんたちの「言葉」に「応え」た。
だから一瞬の沈黙。 だから、笑った。 哀しい人ほどよく笑う。
おじさんたちは、泣くかわりに、笑ったのです。
     
バス停まで歩く、冬の風が、不思議とほほに一筋つめたい。
たぶん私は泣いていました。
    
私は人と仲良くなるの、たぶん上手な方だと思います。
誰とでも、積極的に、言葉を交わします。
「社交的」ではないんですけど(笑)。
     
  

12月8日「だけれども、今日だけは」
      
私は常日頃「某日」ですませております。
自分の思考律がバラバラですので(笑)。
    
でも12月8日、今日だけは・・・・・
第二次世界大戦、日本とアメリカの「太平洋戦争・開戦記念日」です。
      
そして、暗殺された ジョン・レノンの命日でもあります。
ジョンは唄いました。
「War is over : 戦争は終ったんだよ!」と。
      
戦争は・・・・「戦争」は、本当に終ったのでしょうか?
世界歴史年表をひもとくと、
有史以来、人類が一度も争わなかった年は、
ありません。
       

12月・某日「今更ながら・・・・」
     
わたくし、事故の後遺症でかなりキツイ記憶障害をかかえております。
だいぶんよくなったとはいえ、思い出せないことも沢山・・・。
で、昔書き散らしたもんやら、ネットでの記録やらを見ていて、初めて分ったのですが。
     
「抜刀質店」って、ものすごく活動期間限定サークルだったのね!
        
いまさらながら、驚きました。
イベント参加できたのは「'98/8/30」のコミティアから「'99/8/15」の夏コミケまで、
1年足らず、質札(インフォメーション・ペーパー)調べたらたったの6回のみ。      
その間に単行本、わずかに5冊。(しかも内2冊は8ページの50円本・笑)
そのあと参加できなかった「桐橘宴(とうきつさい)」開催日にあわせてサイトを
オープンして、それも「'99/9」〜「'2001/4」のみ('2004/5は後でアップしており
ますので)の、数えてみたら、たった1年8ヶ月!?
      
いくらなんでも、こ、これは・・・・・(今更ながらにアセるわたくし・・・・笑)
       
にもかかわらず、様々な方が再び帰ってきた私に「もし、よろしかったら」と手を
差しのべてくださった。 あるいは新しく見いだしてくださった。   
ありがたいことです。
やってることといえば、「サクラ大戦」の公式設定ではない「カンナとマリア」
(カップリング「×」ではなく、あくまでも「&」)だったり、「薔薇組&加山&オヤジ'S」
だったり、さらには「クリスマスのニケ」みたいに「Myサクラ大戦前夜・あやめ&マリア」
とゆー、とんでもなくマイナーモード入りまくりな裏街道人生なのですが・・・・(笑)
       
よくぞまあ、こんなヘンテコリンなオバチャンのサイトに、改めて、いらっしゃいませ。
      
「よう来たな、まあ座れ」
これは某・有名デパートの男子トイレの目線の高さに落書きされてたモンだそうですが・・・
見ちゃいませんよ、おばちゃん一応・淑女ですから(えぇ〜?)←ホントだってばっ!!
それにしても、いかなる星のもとにてか、こんなトンデモねーサイトにたどり着いちゃった
幸せなのか、運の尽きなのか、分らないみなさま。
「ようこそいらっしゃいました。 まあ、お座りなさい。」
           
そのあとは、ご随意に。
どうぞ、どこなりと、探索をお楽しみください。
気がつけば「アレッ!?」ってとこにすっ飛んじゃう、ここは「からくり忍者屋敷サイト」。
舞台裏のリンクシステム・キープはおおごとなのですが、それでも安心して「迷子」になって
いただくために、おばちゃん、日夜心血注いでおります。
     
ホラ、「迷子のなり方」知らないと、「迷えないオトナ」になっちゃうでしょ(?)
      
ここは、そんなサイトでございます、でおますですます、はい。(笑)
     
     

12月・某日「あああ、あこがれの ももも、森 奈津子 先生の・・・」
       
出演される「琉球民謡コンサート」に行って参りました。
もともと「嘉手苅 林昌」さんのファンな私は、「琉球民謡」だ〜い好き!!
自分じゃ弾けないのに「三線(さんしん)」(ヘビ皮張りの、沖縄の三味線ね)持って
いたりするのです。 弾き爪も水牛角のい〜いやつ、持ってるのよん。
       
かつて沖縄旅行をした折りにチャーターしたタクシーの運転手さん(おじいちゃん・笑)が
「照屋 林助」さん・・・?字、これであってたかしらん?     
えーと「りんけんバンド」のお父さん(水虫薬「ポリカイン」のコマーシャルで、話題に
なった方)と同級生だったのです。
ご自身も三線を弾かれる、しかも知り合いに三線の職人さんがいらっしゃる、ということで
たった2日の沖縄滞在中に手を尽して、「職人価格でいいから」と・・・。
で、「照屋レコード店」に行って、教則本と弾き爪も見立ててくださいました。
      
あげくの果てにはご自宅にお招きくださって、奥様手作りのアップルパイとコーヒーまで
ご馳走になっちゃった、という!!
床の間に飾ってあった三線は、残念ながら
「ついこないだ皮が裂けちゃってねー。(笑)」
だったので、一節聴かせてはいただけなかったのですが。
      
沖縄に行かれた方はご存じでしょう、タクシーの横っ腹にナンバーが書いてありますね。
いまは5ケタがほとんど、あれは「タクシー運転手の登録申請番号」だそうです。
お世話になった運転手さんのナンバーは、確か「206」。
まだアメリカ占領下、ごくごく最初の頃からハンドルを握られた方でした。
     
「タクシー運転手の・松原さん」、お元気ですか?
私は三線いっこうに上達いたしておりません(笑)。
見立てていただいた水牛角の「弾き爪」は、穴に革ひも通して、アクセサリーがわりに、いま
私の胸元でゆれております。
     
それにしても、あこがれの森 奈津子 先生。(詳しくは先月、11月の雑記をご覧あれ。)
舞台の上でのお姿を拝見できればそれで幸いと思っていたのですが・・・・。
なんと、ふとしたアクシデントがきっかけで、お目にかかって、しかもおしゃべりまでして
しまいました〜〜〜!!!
          
あ、あ、あ、指が震えて上手くキーが打てないわ〜〜〜〜。
      
よく「口から心臓飛び出すような」って言いますよね?
そんなもんじゃありません。
「心臓が脳天まで登り詰めて、脳みそドックンドックン・速脈打ってるような」気がしました。
     
なのに、なのに、ああっ、な〜の〜に〜ッ!!
      
わたくしが森先生に申し上げた言葉ときたら、
「森 先生。 あなたは
硬派好色な方ですね。(ニッコリ)」っとなっ!!??
     
いやはやもう、穴があったら入れたい・・・もといっ、入りたいっ!!
      
どうしましょう、来年もあるこのコンサート、行けないわ〜、わたし〜・・・。
     
 

12月・某日「さようなら、久子姉(ねえ)」
      
三宅島・伊ヶ谷集落って、楽しいトコでね〜。
ほとんどみんな同じ名字(長谷川か、山田か、根岸かって)というせいもあって、
年輩者でも名前で呼んで、その下に「兄(にぃ)」か「姉(ねぇ)」をつけるんですは。
とんでもないオジイチャンにでも、なんですよ〜(笑)。
子供たちが坂道転がり降りつつ、すれ違ったおじいちゃんに、
「あ、渡兄(わたぁにぃ)っ! こんにちは〜っ!!」
てな具合。 ちょっと、おもしろいでしょ。
      
三宅島に関しては、自分で遡ってみたら、あらら、結構書いてるのね。
2000.6「
あのまぼろしの夏の村、夏の道
2000.7「
天水の発想
2000.8「
○ヴィンチよ、今吉じいちゃんは文豪になれるのか?
     
(ありゃま、自分で言うのもナンだけど、意外とタイトルつけるの上手かも、わたくし・笑)
       
その2000.8月の「今吉兄(にぃ)」のパートナー「久子姉(ねぇ)が亡くなりました。
2004年、11月の6日の朝でした。 享年88。
      
「あまりそーゆーの興味ないワ」
という方のためにご説明申し上げます。
2000年に、東京都・三宅村・三宅島の火山「雄山(おやま)」が噴火しました。
溶岩流と火山灰、なにより有毒ガスが発生したために、島の住民は「強制・避難」、今現在
東京を中真に首都圏に、あるいは親戚を頼って、「本土」で生活していらっしゃいます。
その数、およそ3千人。
      
4年近くの馴れない都会での暮らしに耐えながら
「ふるさとに、いつか帰りたい」
の一心で、みなさん頑張っておられます。
あるいは幼い子供たちは「都会のコンビニエンスな暮らし」を体験してしまって、この先どうやって
「島」に適応していこうか、という問題を抱えています。
     
久子姉(ねぇ)は、わたしたち家族の別荘の、「おとなりさん」でした。
腕のいいマタギで炭焼き職人で、でも文盲だった「今吉兄(にぃ)」の妻でした。
ご自身は千葉県出身で「養女」、三宅島は歴史上「東京都」になったり「静岡県・伊豆」になったり
「千葉県」になったり、帰属する先もコロコロ替わらざるを得なかった、不思議な島です。
その千葉に生まれて、親族の関係で「三宅島」に養女に来て、「島の人」と結婚。
子供、たくさん。
ちょっと人見知りで、最初はとっつきにくいのですが、胸を割って話すと、なんとも愛らしい
キャラクター。 
「本土出身」なせいでしょうか、
「『お抹茶』買ってきてくれるだか?。」
「え、久子姉(ねぇ)さん、お抹茶立てるの?」
「ああ、たまにね。 でも島じゃ手に入(へえ)んねぇだかし。 仕方ねぇじょ。」
と言いながら、背中にキリリとヒモを結んだ割烹着の、肩で軽く笑って、五右衛門風呂の薪を焚く。
そんな、すてきな女性でした。
       
出先の山形の駅で転んで脚を折って、入院。
母も父も見舞いました。
半年間の入院生活。
「島に帰るまでは死ねねえじよ(笑)。」
が合い言葉。
     
だけれども、間に合いませんでした。
来年の2月には、「全島民『帰島』」が始まるのに・・・・。
     
伊ヶ谷は一番小さな集落、全部で300人おりません。
その中で、この4年間に亡くなった方、24名・・・・。 約、1割。
      
神さま、もしも本当にいらっしゃるのなら、お願いです。
      
もうこれ以上、だれの命もお召しにならないでください。
あの緑したたる豊かな島へ、青い風の吹く美しい島へ、みんな、みんな、帰れますように。
     
祈.      
       
      

12月・某日 「いっこ、増えたわ」
なんだかね〜。
いっこ、増えたわさ。
トップの、カンナちゃんのツルハシをば、クリックしてみてちょ。
それすら「面倒くさい!」ちゅ〜無精もんには・・・・
仕方ないなあ・・・・・

           

          ここをクリック!

       

12月・某日 「『 師走 』に、立ちどまる 」
     
おお、「師匠」も「走る」という、俗?に言うところの「師走」ですな。
街ゆく人たち、みんな忙しそう。
そんな中で、杖ついて、マイペースで立ってるオバチャンです。
そう、わたしの名前は「帰って来やがった・抜刀質店」・・・ん?
ちょっと誤変換な気が・・・   

             
(ここいらへん)
まー、なにはともあれ       
「師走」ですは、なぁ・・・。
世間様では「カレンダーの季節」到来。
東京近郊の大きな文具店「伊東屋」の四角く平らな手提げを持つ人の姿、ちらほらと。
「11〜12月はカレンダー、3月は手帳っ!」
以前文具店で働いていた友人のひとことを、しみじみ目に味わう今日このごろです。
      
「マリア様が見てる」はお好き?
わたしはなにしろ「某・修道院付属学校」
な〜んてトコロで少女期を過ごしたもんで
いろいろ複雑な読後感・ではあるのですが。(ちょっと・・
笑)
ただあの小説、「お姉さまのお姉さま=『大お姉さま』」という図式、あれはアッパレ見事!
でしたね〜。 よくぞよくぞ。
      
おりましたよ、わたしにも。
「ロザリオ」ではなく「クロス(十字架)のペンダント・トップ」でしたが。
「お姉さま」は1学年上、演劇部の花形・兼・演劇脚本の名手として知られておりました。
そのまた「お姉さま」、つまり「大お姉さま」は、なんとわたしが1年生の時の6年生・・・
えーと、つまり・・・「中一」のときの「高三」ですね、6年上の「大お姉さま」。
そこいらへん、「マリ見て」とちょっとスパンが違いますね、中高一貫でしたので。
気も長〜くなるってなワ〜ケよ。
    
その「大お姉さま」、卒業以来幾星霜、いまだに仲よしこよしです
(ビックリした?・笑)
その方は元・美大で油絵専攻、今は水彩画にシフトして、一貫して「日本の・山岳」を描き
続けてます。
今現在お父様がご病気入院中、しかも末期の状態です。
その「大お姉さま」から、毎年恒例、12枚組の「卓上カレンダー」が届きました。
今年描いた「山岳」を小さく、小さく、まとめたもの。
       
以下、本人の了承もなく
(ヲイッ)添えられていた手紙です。
        
信子さま
 お元気ですか?
 だんだん寒い季節に向かうと、足、痛みますか
      
   カレンダー出来たので送ります.
今回は日頃よりデカイ スケッチブックを
ザックにあえて入れないで、A4スキャナーで
とりこみ可能サイズを持ち歩き それに
描いたこともあり、わりと早目に各月
の絵が決まり、カレンダー出来上がりも順調でした.
少し大人になって来たので、絵もそれなりの
小ささでがまん出来るよーになってきた
のかな?  でも やっぱり ババーーーーン、
とデカイ和紙に、たまには描きたいのサ.
 おっとさんの具合が着実に悪化しているので、
最近は週の大半、実家に来ています.
      
仕事も忙しいし、○○ヶ丘は時折ねに帰る
カンジかな・・・ オットさんも 私だと 気がね
ないし 喜ぶのですよ. 私の こり性(肩こり
腰痛・・・)が 効を奏し、父の頭のマッサー
ジが大変上手く、「プロのマッサージ師より
お前のほうがうまい」と絶賛. それなりに
役に立っているようです.
   ちょっと しばらく 外でいっぱいやるのは
おあずけ・かな・・・.
     
   風邪など引かぬよう、どうぞ
  気をつけてください.  それでは、又。
              04_11・23
                    至.
         
カレンダーを見て泣いたのは
生まれて初めてでした。
おそらくはその病床の、サイドボードにもある「12枚組み」カレンダーは、
もしかしたら1枚も繰られることなしに「在る」のかもしれません。
      
「師も走る=師走」
でも、お願いです、今年はゆっくり、ゆっくり来てください。
一日、一日、立ち止まりながら来てください。
     
      
      
               
コミケに受かっちゃった、同人作家のためにも、ね。
      
      
   
みなさま、どうぞ良い12月を。
  
             
        


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