日々是好日・身辺雑記2000年6月
(下にいくほど日付は前になります)

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6月某日「あの、まぼろしの夏の村、夏の道」
脳内出血で入院中のばーちゃんのパートナーは、昨日、手術で頭の中の出血を150CCほど
抜きました。 この先どうなるんだろう・・・。 なんとかしてまた元気になって家に戻って
ほしいのですが。 もうすぐ91才だからなあ・・・。 本人意識はまだしっかりしているの
ですが、入院中の足腰の衰えが(完全に寝たきりになってしまう場合もあるので)心配です。 
    
さて、心配事がもうひとつ。
私の両親(実の)が、噴火の恐れのある三宅島で避難所生活を送っております。
てっきり船で東京の本宅に戻ってくるかと思ったら、昨夜電話で
「村のみんなと一緒に避難所にいるからね〜。 だいじょーぶ、元気よ。 じゃぁね
ときたもんだ。 まったく明るい母親じゃのう・・・。
親父が退職後「一生に一度は農業をやってみたい」と言い出して、以前からあった三宅の別荘
を隠居所がわりに畑仕事をしてふたりで暮らしているんですが、どうやらすっかり「島の人」
になってしまったようです。 まあ、私は7才位の時には将来養女に出されることが分かって
いたし、今じゃ年に数えるほどしか会わない両親ですが・・・・
やっぱりこんな時はメチャ心配するやんけ〜っ!! 
マッタクモウ・・・・!
    
5才の頃から、休みは三宅島で過ごしていました。
最初は父親の友人の家。 10才の頃には親が築百年以上の古い民家を買って、手を入れて、
以来毎年、夏・冬・春に行っていました。 特に夏は1ヶ月近く過ごしていました。
両親共に東京生まれのわたしには「ふるさと」というものがありません。
母の生家は本郷の下宿屋。 戦災でなくなってしまいました。
父の生家は大正末〜昭和初期に建った姿を今も残している向島の写真館なのですが、祖父の再
婚と死で、縁が切れてしまいました。
    
ですから三宅島は、「ふるさと」ではないけれど私の「いなか」ということになります。
炭焼き兼マタギの今吉爺ちゃんとか、地区に3軒きり(含む農協)の店の「5つ玉ソロバンの
名手」ナオコばあちゃんとか、貝細工師のトシさんとか木こりのスズキさんとか民宿兼漁師の
上の山のオジさんとか、なんだかやたら知り合いいるもんね。
     
みんな「噴火は20年に一度の山の行事だから」と平然としています。
ただ、三宅の溶岩はトロトロで、有珠山と違ってサーッと流れ広がっちゃうので、大変です。
前回の噴火で、隣の阿古(あこ)といいう集落が丸々ひとつ呑み込まれて消えました。
ここは、家並みが沖縄の首里(宜保のあたり)や壺屋の裏通りにとてもよく似たところでした。
緯度は和歌山と同じくらいなのですが、黒潮の関係か、はたまた台風の通り道のせいか、三宅
の気候はやたら暑く、古い民家の造りは沖縄のそれととても良く似ています。
初めて沖縄に行ったときに
「あれ? 三宅島だ〜。」
と思ったくらいです。 違いといえばシーサーと石敢當がないこと、かな。
曲がりくねった細い道、玄武岩(沖縄はサンゴね)の石垣、潮に枯れて鈍色に光る家の板材、
ハイビスカスとサンゴ樹の目に刺さるような鮮やかな赤。
コンクリ住宅にペンキで直接書かれた屋号。
         
強風と地形の関係で、島の集落は地域によってまるで雰囲気が違います。
V字渓谷の伊ヶ谷は山里、伊豆は防風林で家が見えないし、崖の下の大久保ヶ浜は三浦半島の
漁村風の賑やかさ。
そんな中で、平地で風のおだやかな阿古の家並みは沖縄にそっくりでした。
伊ヶ谷から片道1時間半の曲がりくねった山道を歩いて、最後のカーブを曲がって、目に飛び
込んでくる、集落の家々の屋根がキラキラ光る美しさ。
     
銀座木村屋のパンあります!」とでっかく毛筆で張り紙していた、軒の低い雑貨屋。
ペットショップ兼洋品店兼薬屋兼みやげ物屋だったナゾの沖倉商店。
気のいいおばちゃんがのんびり玉子丼を作っていたさゆり食堂。
今はもう黒い溶岩の波に呑み込まれてありません。
     
再建された阿古は、派手な新建材とコンクリートブロックの街になってしまいました。
ゆっくりと時の流れと共に美しさを増す、古風な木造の「風と雨に磨かれる」日本の建築様式
は失われつつあります。(それだけ新建材の家の住み勝手がいいということなのでしょうが)
   
噴火前の阿古は、もう幻の村、幻の道です。
今でもときどき夢に見ます。 
そんな朝は、あまりの美しさに泣きそうな気分で目を覚まします。
失われて、2度と取り戻すことのできないもの。 そこに息づいていた、「村」という命。
    
日本画家だったばーちゃんとパートナー。 彼女たちが描いていたのは、失われたらもう誰に
も埋められない、「明治・大正・昭和初期の日本画」という、戻ってこない世界でした。
    
「在り続ける」ということは、厳しいけれど(そして限りもあるけれど)、大切なことです。
     
三宅島の噴火がひどい被害にならないことを祈っています。
人の命も暮らしももちろんですが、もうどの家並みも失われることがありませんように。
     


6月某日「キてます、キてます!」
(坂上二郎の「トびます、トびます」風に読んでね〜)
とかなんとかいいながら、仕事明けでございます。
やっぱ、働かんとね。
3日程前から、厚生省から認可が出たばかりの薬を飲み始めているんですが、最初の副作用が
かなりキツイのが難点。 びろうなハナシですけど(お食事中の方、ごめんあそばせ)キます。
まー、「吐き気・11・8%、嘔吐、下痢、腹痛、食欲不振などなど」だそーですから・・・
なんちゅー薬認可するんじゃ厚生省〜っ(笑)
ま、ダイエットにはなりますわな。 しょせん病人、こうなりゃものは考えようなのじゃ〜。


6月某日「ありゃま」 
6月ももう半分だわー。
自宅療養を始めて半月間、何をしていたかというと・・・・
家での〜んびりと・・・・のはずが、相棒のばーちゃん(長野)が転んで骨折して入院。
我がばーちゃん(養母)のパートナーが脳内出血で入院。
しかも私自身、長野へお見舞いに行く途中駅の階段で転倒して、骨折こそしなかったものの杖
つき生活、と、なんだか波瀾万丈で(笑)。
医院と病院の他に、接骨院にまで通っております。 けっこう忙しいぞ「病人」(笑)。
     
お休みするにあたり、沢山の方からメールやお手紙で「大丈夫ですか?」と声をかけていただ
きました。 こんなちっちゃなサイトでも、思いもよらず大勢の方がご覧下さっていたと知り
びっくり、そして感激です。
ありがとうございます。
ただ、今すぐにお返事できなくてごめんなさい。
     
とにかく今は、自分の体をなんとかせんと。 仕事も介護も、気合いと体力勝負だもんね。
    
あ、仕事部屋を整理していたら過去のラクガキなんぞが転がり出てきたので、ちょっと載せて
おきます。 まだお返事出せないお詫びのかわり?です。 のぞいてみてね。
   
                           カンナ マリア 大神・加山
           

    

    

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