アナキズムFAQ

E.2 エコアナキストは資本主義の代わりに何を提案しているのか?

 エコアナキストが生態系諸問題の根本原因をどのように考えているかを鑑みれば(前セクションで論じたように)、現在の生態系危機を本当に解決できるのはそうした根本原因の除去だけだと考えるのは何ら驚くべきことでもない。つまり、人間間の支配を終わらせ、アナキズム社会を創り出すことだけが解決できるのだ。従って、ここではエコアナキストが支持する自由社会のヴィジョンを要約し、その後のセクションで環境諸問題を解決するために非アナキストが示している様々な提案の限界について論じる。

 ただ、その前に、エコアナキストは生態系諸問題・社会的諸問題と直ちに戦うことが重要だと考えていることを強調しなければならない。全てのアナキスト同様、エコアナキストは直接行動に賛同し、現行システム下での改善と改良を求めて闘争することへの連帯を主張する。つまり、エコアナキズムは今ここで「環境を保全するあらゆる努力を支持する」。エコアナキストと環境保護主義者との大きな違いは、エコアナキストが、そうした部分的闘争を全体としての社会を変革するというより大きな文脈内に置いていることである。前者は「荒々しい環境破壊を遅延させる活動」の一部であり、後者は「人間相互の社会関係と人間と自然の社会関係を完全に革命的に変える創造的運動」である。[Murray Bookchin, Toward an Ecological Society, p. 43] これは、生態学的見解と環境保護的見解との重要な違い(セクションE.1.2で論じた違い)の一つである。資本主義が生物界を資源と商品に還元し、この惑星を略奪していることに抵抗する手段を見つけるために、環境破壊システムの特定側面に対する抵抗は、全システムを批判し、よりよい社会を求めたもっと幅広い闘争を行う際の出発点に過ぎない。このように、生態調和社会(もしくはエコトピア)を概略したからと言って、我々が資本主義内部での部分的闘争・改良に無関心だという訳ではない。単に、資本主義と国家の終焉が生態調和を実現できる自由な社会の必要前提条件を創り出す、とアナキストが確信している理由を示しているに過ぎない。

 この観点はエコアナキズムの基本的洞察−−つまり、生態系諸問題は社会的諸問題と分離できない−−から出現している。自分達が自然の一部である以上、我々が自然とやり取りし、自然を形成するやり方は、自分達自身とやり取りし、自分達自身を形成するやり方に影響される。ルクリュは次のように述べていた。「全ての人が、いわば、周囲の環境に新しい服を着せる。田畑と道路によって、住居と建設方法によって、木々と風景一般を調整する方法によって、民衆は自身の理念の性格を表現する。本当に美を求める感情があるなら、自然はもっと美しくなる。逆に、大多数の人間は今日そうであるように残酷で自己中心的でまがい物であり続けるべきだとするなら、その悲惨な痕跡を地球の表面に残し続けることになろう。故に、詩人の絶望的叫びが現実となるだろう。『私は何処に逃れられるのか?自然それ自体がおぞましいものになってしまった。(Where can I flee? Nature itself has become hideous.)』」自然とやり取りするやり方を変換するためには、自分達がお互いにやり取りするやり方を変えねばならない。ルクリュは書いている。「幸運なことに、美と有用の全面的同盟は可能なのだ。」[Clark and Martin (eds.) , Anarchy, Geography, Modernity, p. 125 and p. 28 で引用]

 一世紀後、マレイ=ブクチンはこの洞察に同調した。

アナキストが提起した様々な見解は、主たる生態系諸問題は社会的諸問題−−家父長中心的文化それ自体の始まりまで遡る諸問題−−に根元を持つことを強調すべく、意識的に社会的エコロジーと呼ばれた。競争・資本蓄積・無制限の成長に基づく生命法則を持つ資本主義の勃興は、こうした諸問題−−生態系と社会の−−を深刻な点まで押し進めた。実際、これまで人間が発展してきたいかなる時代にも例を見ないほどの点まで。資本主義社会は、有機的社会を次第に生気がなくなる無機的な商品集合体へとリサイクルすることで、生物圏を単純化し、そのため、分化と多様性に向かう何世代もかかる推力を持つ自然進化の種子を妨げる運命にあった。
この傾向を覆すためには、非ヒエラルキー型関係・分権型コミュニティ・太陽光発電のようなエコテクノロジー・有機農業・人間規模の工業で−−つまり、居住地の生態系に経済的にも構造的にも合致した直接民主制集落形態で−−資本主義を置き換えねばならなかったのだ。[Remaking Society, pp. 154-5]

 生態調和社会のヴィジョンは、人は環境に対して良い影響も悪い影響も持ちうるという当然の事実に依拠する。現行社会で、特権的白人と有色人種・男性と女性・金持ちと貧者・抑圧する側とされる側には莫大な違いと対立がある。こうした違いと対立を除去し、自分達自身と自然との相互関係を根本的に変化させねばならない。言い換えれば、階級と国家のない自由で非ヒエラルキー型の社会と、階級だらけのヒエラルキー型国家主義権威主義社会とには莫大な違いがあり、それらが環境とやり取りするやり方も全く違うのだ。

 生態学の性質を考えれば、社会的アナキストがエコアナキズム理論と活動の最前線にいたことは当然のことだと受け止めねばならない。大部分のエコアナキストは、大部分の一般的アナキスト同様、無政府共産主義原理に基づくエコトピアを心に描いていると言って良いだろう。だからといって、個人主義アナキストが環境諸問題に無関心なわけではない。単に、大部分のアナキストが、そうした解決策では現在直面している生態系危機を実際に終わらせるとは確信していないだけである。このセクションの提案の幾つかは、個人主義アナキズムにも当てはまる(例えば、協同組合は少ない成長を生み、公害を発生させる見込みが少ないという主張)。しかし、他の部分は違う。最も明らかなのは、共有への賛同と価格メカニズムへの反対であり、これらは個人主義アナキズムの市場型解決策には当てはまらない。指摘しておかねばならないが、生態系諸問題に対する資本主義アプローチへのエコアナキズムからの批判の多くは、個人主義アナキズムにも相互主義アナキズムにも同様に当てはまるのである(特に、前者について当てはまり、後者は市場を規制する必要を確かに認めている)。資本主義のある種の側面(例えば、富の大きな不平等・資本主義的所有権・大企業への直接的服従や間接的助成金)は個人主義アナキズムでは排除されるが、それでも尚、市場に付随する情報上の諸問題と成長志向を持っている。

 ここでは自由な生態調和社会に関する典型的なエコアナキズムの見解、つまり、社会的アナキズム諸原則に根差した見解を論じる。エコアナキストは、全ての一貫したアナキスト同様、労働者自主管理経済を生態学的に持続可能な社会の必須要素だとして支持する。このことは、通常、生産手段が社会規模で所有されること、そして、全ての生産事業を労働者が自主管理することを意味する(セクションI.3で詳細に示されている)。これは、本物の生態調和社会を作る際の重要な側面である。大部分のグリーンズは、たとえアナキストではなかったとしても、資本主義の「成長か死か」原則が生態系に及ぼす有害な効果を認めている。しかし、アナキストでない限り、この原則と典型的資本主義企業のヒエラルキーとの関係に気付くことはできないものである。資本主義企業は、国家同様、中央集権型でトップダウンで独裁的であり、生態調和理念が示すこととは逆である。逆に、エコアナキストは社会的に所有された労働者自主管理型企業の必要を強調する。

 ヒエラルキー型生産ではなく、協同組合型生産というこのヴィジョンは、ほとんど全てのアナキストに共通する立場である。共産主義アナキストも非共産主義の社会的アナキスト−−相互主義者と集産主義者のような−−も協同組合型仕事場を提案しているが、違いは生産された生産物を分配するのにどのような方法が最も良いか、という点にある。前者は金銭の廃絶と必要に応じた共有を求め、後者は仕事に応じた収入と剰余分を全てのメンバー間で平等に共有すると考えている。これらのシステムのどちらも、伝統的資本主義企業よりも急速な成長に向けた圧力が遙かに少ない仕事場を生み出す(個人主義アナキズムも使用料・利潤・利子の廃絶を目的としているため、それほど拡張的ではない仕事場を手にすることになろう)。

 協同組合の低成長率については数多くの研究で報告されており、伝統的資本主義企業では、多くの従業員が従業員総数に加われば加わるほど、所有者と幹部の利益配分率が非常に大きくなることが示されている。これは、企業ヒエラルキーが、労働者が生産した剰余価値の不均衡な配分をピラミッドの頂点にいる人々に漏斗のように流し込むことで、搾取を促すよう設計されているからである(セクションC.2を参照)。こうした設計は、所有者と経営者に非常に強力な拡大動機を与える。というのも、他のことが均等であれば、新しい従業員が雇用される毎に自分達の収入が増加するからである。[David Schweickart, Against Capitalism, pp. 153-4] 従って、資本主義企業のヒエラルキーは、社会的不平等と膨張、そして、いわゆる「自由」市場において大企業と寡占を勃興させる主原因の一つなのだ。

 逆に、平等分配の労働者協同組合では、多くのメンバーが加わることは、単に、入手できるパイを平等に分配しなければならない人が増える、ということを意味するに過ぎない。これは、拡大動機を大幅に減じる情況である。従って、リバータリアン社会主義経済は、資本主義と同じ成長プレッシャー下にはいなくなる。それ以上に、技術革新が導入されたり、物品需要が減少したりすると、自主管理型仕事場は、仕事量を増やしたりスタッフの数を減らしたりするのではなく、生産者の間で余暇時間を増加させる見込みが高くなろう。

 つまり、労働者管理型経済は、少数の大企業を生み出すというよりもむしろ、小規模・中規模の仕事場が多い経済を創造しやすくなる。これは、仕事場を遙かに容易く地元コミュニティと生態系に統合でき、遙かに容易くグリーンエネルギー源に依存し易くさせる。そして、特定仕事場の拡大がそれほどないことと、これが示している分権化以上に、労働者自主管理には生態学的利点が存在する。そうした利点は、市場社会主義者のデヴィッド=シュワイカートが十全に説明している。

仕事に就いている労働者に排ガスが直接与える影響(実際影響していることが多い)に関して、自主管理型企業は汚染が少ないと期待できる。労働者がテクノロジーを管理し、外からテクノロジーを押し付けられることはないだろう。
排ガスが地元コミュニティに影響を与える範囲については、二つの理由からそれほど重大にはならないと見込まれる。まず第一に、労働者は(資本主義の所有者とは異なり)必然的に仕事場の近くに住むようになり、意志決定者が環境的コストの大部分を直接負担することになる。第二に、自主管理型企業は、逃げ出す(もしくは逃げ出すぞと脅す)ことで地元の規制を回避できなくなる。資本主義企業が地元コミュニティの代表に振りかざしている大きな棍棒はなくなる。従って、「より良いビジネス環境」(すなわち、環境保護制約の少なさ)を提供することで企業を獲得しようとして、一国の様々な地域で起こる大規模な現象もなくなるのである。[前掲書, p. 145]

 生態調和社会が機能するためには、生産活動を行っている人々の能動的参加が必要である。労働者は工業公害に最初に影響されることが多く、その発生を止める方法を最も良く知っているものだ。このように、周辺環境と調和した生活をすることを目標としている社会にとって仕事場自主管理は必須条件なのである(それに伴い、賃金奴隷という形を取っている社会的不自由の重要側面は撲滅されるだろう)。

 こうした理由で、生産者協同組合に基づくリバータリアン社会主義は、生態系危機を解決するために必要な経済にとって必須なのだ。これら全てがグリーンヴィジョンに直接注入される。「生態学は、分権化・自然システムと社会システムの多様性・人間規模のテクノロジー・自然の搾取の終焉が必要だと示している」からである [John Clark, The Anarchist Moment, p. 115]。労働者自主管理に基づく社会だけがこれを達成できる。そうした社会は自然と調和するやり方で産業の分権化を促すからである。

 ここまでは、社会的アナキズムの全形態で合意されている。しかし、エコアナキストは共産主義アナキストであることが多く、相互主義と集産主義に反対することが多い。これは、労働者所有と自主管理は、一事業の労働者を、地域の中で排他主義的利害関係を持ちかねない立場に置くからである。このため、当該事業が純粋に自身の狭い利益に基づいて行動するようになり、地元地域との対立を招きかねない。言い換えれば、労働者が地域からの情報入力の範囲外にいて、単に自分達だけに説明責任を持つことができるようになってしまう。これが、労働者が一つの共通利益を持つ「集産的資本主義者」になり、自分達の事業を拡大し、「利益」を増加させ、市場で生き残るための非合理的実践に身をさらすようにすらなる情況(つまり、市場の圧力は競争を底辺まで生み出す明確な傾向を持っているが故に、自身のより幅広い長期的な利益に損害をもたらす−−詳細はセクションI.1.3を参照)を導くことになる。このことが、大部分のエコアナキストに、地域が分権化し金銭を使用せずに資源を自由に惜しみなく提供する連邦経済・連邦社会の要求をさせているのである。

 仕事場自主管理の自然な補足として、エコアナキストは住民自主管理を提案する。従って、我々が生態系危機とその解決策が持つ経済的側面に焦点を当てているように思われるかもしれないが、それは真実ではないのである。常に心に留めて置かねばならないことだが、全てのアナキストは、多くの生態系諸問題・社会的諸問題に対する完全な解決策は、ヒエラルキーと支配の全システムの全側面を扱うために多面的でなければならない、と考えている。つまり、生の領域で権威の排除を強調するアナキズムだけが、生態系危機の根本原因に到達できるのである。

 エコアナキストによる直接(参加型)民主主義の主張は、この惑星の生態系を効果的に保護するためには、全ての人が自分の環境に影響を与える意志決定に草の根レベルで参加できなければならない、というものである。何故なら、身近な生態系を意識し、厳格な環境保護を望む可能性が高いのは、現在の「代議制」政府を支配している政治家・国家官僚・大規模汚染特別利益団体ではなく、民衆だからである。それ以上に、真の変革は下から生じるべきであって、現在直面している社会的諸問題・生態系諸問題のまさにその源泉であり、個人・地域・社会全体から自分達の運命を形成する力−−実際、権利−−を剥奪し、その物質的・「精神的」(つまり、民衆の思考・希望・夢)資源を枯渇させている上からではないのだ。

 端的に言って、社会の草の根に、つまり、決定した事項を甘受しなければならない人々に、意志決定権限を分権化する生態学的・社会的理由をこれ以上深く探求する必要などないはずだ。アナキズムの分権型性質が意味しているのは、既存諸問題に対するいかなる新しい投資も解決案も地元の諸条件に合わせられることになる、ということである。資本が移動できるため、環境を保護するために資本主義下で可決された法律が効果的であるためには中央政府が作り、実施しなければならない。しかし、セクションE.1で論じたように、国家は中央集権型の構造であり、地元の生態系情況や社会的情況に対して決定事項を作り上げるべく必要な情報と知識を集積・処理するためには不向きなのである。つまり、法律は、まさしくその限界故に、地元の諸条件に上手く合わせることなどできないのである(だからこそ、企業の隠れ蓑となっている組織が煽り立てている場合には殊更に地元地域の反対を生み出すことができるのだ)。エコアナキズム社会では、分権化は社会を脅かす経済力の脅威がなくなり、意志決定は実際の地元住民のニーズを反映したものになるだろう。地元住民が自分達や隣近所を汚染したいと思う可能性はほとんどないため、エコアナキストは、このように地元に権能を与えることは環境を食いつぶすのではなく、環境と共に生きる社会を生み出すだろう、と確信している。

 エココミュニティ(もしくはエココミューン)はエコトピアの重要な側面である。ブクチンは次のように論じていた。エココミューンは「生態系・バイオリージョン・生物群系を通じて連邦的にネットワーク化」されるだろう。そして「自分達を取り巻く自然環境に芸術的に合わせられる」だろう。「公園には小川が織り交ぜられ、集会場は木立で取り囲まれ、自然の輪郭は尊重されて優雅に美化され、土壌は自分達のために様々な品種が育つよう注意深く育まれ、家畜や可能ならば野生動物もコミュニティの周辺でサポートされる、と想像できる。」エココミューンは分権化され、「人間的規模に」なり、再利用を行うだけでなく、「太陽光・風力・水力・メタン生産設備を高度に変化に富んだエネルギー生産パターンへと」結合するだろう。「農業・漁業・畜産業・狩猟は技芸と見なされるだろう−−ほとんど全てのことについて使用価値を可能な限り作り上げることができるほどまでに拡大したいと望んでいる方向性だ。コミュニティが品質と耐久性に対して圧倒的な力点を置くことで、高度に機械化された設備で大量生産品を作る必要は大きく消え失せるだろう。」[The Ecology of Freedom, p. 444]

 これが意味するのは、地元コミュニティが自身の独自の生態系情況に合わせて他のコミュニティと協力しながら(エココミューンは地元の自給自足・経済的専制を独自の価値観として支持しないことを強調しておかねばならない)社会的・経済的政策を生み出す、ということである。地方的影響を持つ決定は、地元集会連邦が解決する。そのため、決定に影響を受ける全ての人がその事項の決定に参加できるようになる。こうしたシステムは、仕事場と同様に自足的であり、地域参加は創造性・自発性・責任感・自立性・個性の尊重−−自主管理が効果的に機能するために必要な性質−−を促す。ヒエラルキーがそれに従属する人々をマイナスのやり方で形成するのと同じように、参加はプラスのやり方で人々を形成する。これが、個性を強化し、自由を豊潤なものにし、他者や自然との相互関係を豊かにするのである。

 これが全てではない。共同体の枠組みは、工業が発展するやり方にも影響を与えるだろう。エコテクノロジーは研究開発において優先され、消費を少なくできるだろう。グリーンの代案とエコテクノロジーが、大部分の人々が購入できないからという理由で使われないままになっていたり、資本家が利益が少ないと見なすからとか、政治家がメリットがないと見なすからといった理由でその開発に資金がつかなかったりすることはなくなるだろう。また、これは、地域集会レベルで大まかな生産概要が作られる一方で、平等主義的で参加型で民主的に運営される小規模集産集団が実際面で実施するということも意味している。協同組合型の仕事場がこのプロセスの要となり、生産プロセスと生産概要を実施する最善策とを管理する。

 こうした理由で、アナキストは、使用権に基づく所有システムと組み合わされた共有の方が環境にとってより良い、と主張する。公害を止めるべく行動を起こす権利が、それに直接影響される人々だけでなく、全ての人に認められているからである。生態調和倫理の枠組みとして、社会的アナキストが想像する共同体システムは、環境を保護する上で私有財産や市場よりも遙かに良いものとなろう。と言うのも、市場がそのメンバーに行使する圧力が存在しなくなるからである。反社会的・反生態学的実践に報酬を与える歪んだ誘因もなくなる。同様に、国家の反生態学的な集中化とヒエラルキーも終焉し、地元環境のニーズを考慮でき、国家と資本主義が抑圧している地元の知識と情報を活用できる参加型システムに置き換えられるだろう。

 従って、生態系危機に対する本物の解決策は、コミューン、つまり社会領域における参加型民主主義を前提とする。これは政治革命を意味することになる転換である。しかし、バクーニンが繰り返し強調していたように、この種の政治革命は労働者自主管理に基づく社会−経済革命抜きには思い描くことなどできない。参加型意思決定・非権威主義組織モード・人格主義的人間関係に関する日常経験は、労働時間中にこれらの価値観が否定されると、存続できないからだ。それ以上に、既に上述したように、大企業が仕掛ける圧力を切り抜けるために、参加型コミュニティは四苦八苦することになろう。

 言うまでもなく、生の経済的・社会的側面を孤立して考えることなどできない。例えば、仕事場ヒエラルキーとその主人−奴隷力学が持つマイナスの効果は、仕事場だけに留まることはない。大多数の人々が仕事に費やす時間の量を考えれば、それをリバータリアン価値観を発達させる訓練土壌へと転化することの政治的重要性を軽んじることなどできない。歴史が証明しているように、社会変革と大衆の心理的変換−−つまり、現行システムから取り込んだ主人−奴隷の考え方から脱却すること−−に基づかない政治革命は、以前の支配エリートが新しい支配エリートに変わるだけで終わってしまう(例えば、レーニンは新しい「ツァーリ」になり、共産党官僚は新しい「貴族」になった)。従って、なだらかな成長率に加え、民主的自主管理を伴う労働者協同組合が生物圏を保護するために必要な直接民主制政治システムの心理的基盤を据えるのである。つまり、「グリーン」リバータリアン社会主義は生態系危機を解決するのに充分徹底的な唯一の提案なのだ。

 生態系危機が起こり得るようになるのは、この惑星の生態系と我々自身の環境を組織的に防衛するために戦う民衆の能力を弱める社会関係の文脈内だけである。つまり、国家と資本主義企業のようなヒエラルキー組織内で意思決定プロセスへの参加が制限されることは、問題に最も影響を受ける人々にその問題を解決する手段を与えないことで、社会問題と環境問題を生み出す手助けをしているのである。言うまでもなく、仕事場内のヒエラルキーは蓄積と成長の前提条件であり、コミュニティ内でのヒエラルキーは少数派による支配だけでなく経済的・社会的不平等の前提条件でもある。権能を奪われた人々は自分達に発言権のほとんどないコミュニティや社会問題に対して無関心になるからだ。二つが結合して現在の生態系危機の基盤を創り出しており、どちらも終焉させねばならないのである。

 究極的に、我々が抑圧・支配・搾取のない十全に参加型の社会に生きて初めて、自由自然が出現し始めることができる。その時に初めて、自然を支配するという考えから脱却でき、個人としての潜在的可能性を全うできるようになり、自然進化と社会進化における創造的推進力となることができるのだ。これは、現行システムを自由・平等・連帯に基づくシステムで置き換えることを意味する。一旦これが達成されれば、「社会生活は人間と自然の多様性の感性豊かな発達を生み出し、充分バランスが取れ調和した全体へと一つになるだろう。地域〜地方〜大陸全体へと広がりながら、人間集団と生態系の色鮮やかな分化を目にし、それぞれが独自の潜在的可能性を発達させ、地域のメンバーを幅広く多種多様な経済的・文化的・行動的刺激に触れさせることになろう。刺激的で、多くの場合は劇的な、多様な共同体が私達の視野に入ってくる−−こちらでは半乾燥地域の生態系に、あちらでは草原に、別な場所では森林地帯に、というように建築と工業がその環境に適応しているのが明らかになる。個人と集団、地域と環境、人間と自然の間の創造的相互作用を目撃することになろう。」[Bookchin, Post-Scarcity Anarchism, p. 39]

 従って、結論を言えば、資本主義の代わりに、エコアナキストは生態学的に責任ある形態のリバータリアン社会主義を望ましいとしている。これには次のことを伴う。自然との補完性原理に基づく経済;大規模工業の分散(可能な場所やそうすることが望ましい場所で)・労働者の再訓練・もっと職人的な生産様式への回帰;グリーン製品を作るためのエコテクノロジーと生態系に優しいエネルギー源の利用;再利用された原材料や再利用可能な原材料・再利用可能な資源;町と田舎・工業と農業の結合;周辺環境と調和して存在する自主管理型エココミュニティの創造;直接民主制で意志決定がなされる−−そして(それが適切で上手く当てはまる場所では)自由連合の中でボトムアップで調整される−−地元地域集会と労働者評議会の願望に敏感な自主管理型仕事場。こうした社会は人間内部の支配を終わらせることで人間による自然の支配を確実に終わらせるために、メンバー全員の個性と自由を発達させることを目標とするだろう。

 これがマレイ=ブクチンが提案したグリーン社会のヴィジョンである。彼を引用しよう。

私たちは、生態調和社会を創造しなければならない−−単に、そうした社会が望ましいからというだけでなく、極度に必要だからである。まず、生き残るために生きることからはじめねばならない。こうした社会は、資本主義テクノロジーとブルジョア社会の歴史的発展を特徴付けるあらゆる傾向−−機械や労働の綿密な専門化・巨大工業と都会的組織への資源と民衆の集権化・生の階層化と官僚化・町と田舎の分離・自然と人間の対象化−−を根本的に逆転させる。私の観点からすれば、この全面的逆転は、私たちが都市を分権化し、それらが位置している生態系に合わせて芸術的に作られる全く新しいエココミュニティ群を構築し始めねばならない、ということを意味している。
こうしたエココミュニティは、町と田舎の分断を、実際、精神と肉体の分断を癒すだろう。職務のローテーションや多様化によって、頭脳労働と肉体労働を融合し、工業を農業と融合する。エココミュニティは、新しいテクノロジー−−つまり、エコテクノロジー−−に支援されるだろう。エコテクノロジーは、柔軟で用途が広い機械装置から成り立ち、生産へ適用される際には耐久性と高い品質に重点が置かれることになろう。[Toward an Ecological Society, pp. 68-9]

 最後に、アナキストが生態調和社会への変化がどのように生じると考えているのかの概略を手短に述べねばなるまい。目的を持っていてもそれを達成する方法を全く分からないのでは何の意味もないのだから。

 上記したように、エコアナキストは(全てのアナキスト同様)既存社会と理想的ユートピアの均衡を取ろうとしているのではなく、現在の生態系闘争に参加している。それ以上に、この闘争それ自体が現状と可能との繋がりだと見なしている。これは、少なく見ても、資本主義と戦い、廃絶する手段としての町内運動と仕事場組織という二本柱戦術を暗示している。これらの戦術は、例えば、前者が有毒廃棄物の処理を標的とし、後者が第一義的に毒素の生産を止めさせるといった具合に、協力し合うだろう。労働者が有害実践の実行や有害製品の生産を拒否できるときにのみ、継続的な生態調和変革が出現できる。当然のことながら、現代のアナキストとアナルコサンジカリストは、経済的搾取だけでなく生態系搾取をも扱うグリーンサンジカリズムの必要性を強調しようとしてきた。地域組合主義と産業組合主義については、セクションJ.5で社会変革を求めた他のアナキズム戦術と共にさらに詳しく論じている。言うまでもなく、こうした組織は、目標達成の手段として直接行動を使用する(セクションJ.2を参照)。ここで記しておかねばならないが、ブクチンの社会的エコロジー信奉者の中には、彼自身同様、国家に対する対抗権力を創り出す手段としてグリーンズが地方選挙に候補者を擁立することを支持している。セクションJ.5.14で論じているように、この戦術(リバータリアン自治体連合論と呼ばれる)は、幅広いアナキズム運動でほとんど支持されていない。

 当然、こうした戦術は生態調和社会の構造へと流れ込む。セクションI.2.3で論じているように、アナキストは、自由社会の枠組みは既存社会と戦うプロセスの中で創造される、と論じる。つまり、エコアナキズム社会の構造は現行システムが持つ生態系破壊諸傾向と戦うことで創り出されるだろう。言い換えれば、全てのアナキスト同様、エコアナキストは旧世界と戦いながら新世界を創造しようとしているのである。これは、我々が現在行っていることは、どれほど不完全であろうとも、資本主義の代わりに提案していることの実例なのだ、という意味である。つまり、生態調和社会を将来創造できるようになることを保証すべく、生態調和的やり方で今日行動するのだ。

 アナキズム社会がどのように機能するのかに関するもっと詳細な議論は、セクションIを参照して欲しい。以下のセクションでは環境危機に対して提案されている様々な解決策が持つ限界について論じる。

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