アナキズムFAQ

J.2 直接行動とは何か?

 ルドルフ=ロッカーの言葉を使えば、直接行動とは、『経済的・政治的圧政者に対抗する労働者(など、様々な社会層の人々)が即座の戦争状態を引き起こすために用いる全ての方法である。こうした方法の中でも以下のものが傑出している。ストライキ(単純な賃金闘争からゼネストまで全ての状態を含む)、ボイコット、サボタージュ(数え切れないぐらいの諸形態があるがその全て)、(工場占拠と座り込みのストライキ)、反軍国主義プロパガンダ、特に重要な場合における(中略)生命と自由の保護を目的とした民衆の武装抵抗。』[「アナルコ=サンジカリズム、66ページ]

 アナキストは、直接行動が単に仕事場内だけに通用するものだとは思っていない。それ以上なのだ。直接行動はあらゆる所で起きねばならないのだ! 仕事場ではない状況での直接行動は、家賃の不払い、消費のボイコット、占拠(もちろん、労働者による座り込みストライキも含むことができる)、エコ=テージ、個人や集団による税金の不払い、道路の封鎖、反社会的性質を持つ建設作業の妨害などがある。仕事場での直接行動には、労働条件や賃金と直接関係のない社会問題に対するストライキと抗議も含まれる。こうした活動は、『現行システムの最も有害な派生物に対抗して地域の保護』を確実にできるようにすることを目的としている。『社会的なストライキは、雇用者に一般の人々に対する責任を強制することを目的としている。主として、労働者自身(とその家族)がその大多数である消費者を保護するという観点を持っているのである。』[前掲書、72ページ]

 基本的に、直接行動は、誰か他の人を自分のために行動させる(例えば、政治家)のではなく、自分が自分で行動することを意味しているのだ。その本質的特徴は、それが、自分自身の努力により変化を引き起こすために普通の人々によって組織された抗議だ、ということにある。このトピックについて Voltairne De Cleyer の優れた言葉を引用しよう:

 『自分が主張する権利を持っていると考えていた人なら誰でも、そして、自分自身や同じ信念を抱いている他者と共にそれを大胆に行い主張する人なら誰でも、直接行動論者だった。私は、30年ほど前、救世軍が、信者が話し・集まり・祈る自由を維持するために直接行動を実施していたことを思い出す。何度も何度も、彼等は逮捕され、罰金を科せられ、投獄させられた。しかし、彼等は、歌い・祈り・行進し続け、最終的にその迫害者達に彼等を放っておくようにさせたのだった。(世界)産業労働者は、現在同じ闘争を行っており、多くの場合、同じ直接戦略を使って、役人達に彼等を放っておくようにさせている。

 『何かを行おうと計画して、それを実行し成し遂げたり、他人の前で自分の計画を示したりしたことがある人なら誰でも、そして、外的な権威の前に行き自分達のためにそれをしてくれと頼むことなく、自分と一緒にそれを実行するための協働を勝ち得たことがある人なら誰でも、直接行動論者だったのである。全ての協働実験は、本質的に、直接行動なのである。

 『自分の生活で他者との違いを解決したことのある人なら誰でも、そして、それを解決するためにそこに含まれている他者のもとに直に行ったことがある人なら誰でも、それが平和的な計画であろうとなかろうと、直接行動論者だったのである。ストライキやボイコットがその良い例である。肉屋をボイコットし、肉の値段を下げさせたニューヨークの専業主婦の行動を覚えている人も多いだろう。現時点では、バターの値段を決めている人々に対する直接の反応として、バターのボイコットが浮上しているようである。

 『こうした行動は、一般に、直接性の長所や間接性の長所に対してある人が多く論拠をおいているからというのではなく、ある情況によって抑圧されていると感じている人々の自発的な反駁なのである。言い換えれば、全ての人は、いつでも、直接行動原理の信奉者なのであり、その実践者であるのだ。』[直接行動論]

 つまり、直接行動とは、不正や圧政に対して自分で行動することを意味する。時には、例えば、抑圧的な法律や破壊的慣習を確実に変えようとして、政治家や企業に圧力をかけるというやり方もこれに含まれる。しかし、こうした訴え方は、それが問題となっている側が訴える側のために行動するであろうということを前提にしていない場合にのみ、直接行動なのである。しかり、その前提は、自分が変化を創り出すために動いたときにだけ変化は生じるというものなのである。どの様な行動をとろうとも、『その行動が望ましい権限を与える効力を持たせようというのであれば、その行動の大部分は自分が生み出すものでなければならず、上が考えたものだったり上から方向付けられたりするものではないのだ』[マーサ=アッケルスバーグ著、「スペインの自由な女性」、33ページ]

 一言で言えば、直接行動とは、民衆自身が決定し、自分自身で組織したいかなる形態の活動をもさす。その組織は、自分達自身の集団的な力をもとにし、仲裁者に自分達のために動いてくれるようにさせることなどないのである。このように、直接行動は自由、自律の自然な表現なのだ。なぜなら、『職場における権威に対する直接行動、法律という権威に対する直接行動、我々の道徳規範という侵略的でおせっかいな権威に対する直接行動は、アナキズムの論理的で一貫した方法なのだ』[エマ=ゴールドマン著、「赤のエマ語る」、62-63ページ] からである。自分で行動することで、自分が自分を律する能力を表現していることは明らかである。従ってこれは自分の生活を自分でコントロールする手段なのだ。これは、自己に権限を与え、自己を開放する手段なのである。

 『直接行動が意味していたことは、これらのどの活動であれ全ての目標は、民衆が、自分自身と自分の生活を指定する力を取り戻すために、自分自身の力と能力に接触する方法を提供することである、ということだった。』[マーサ=アッケルスバーグ著、前掲書、32ページ]

 言い換えれば、アナキストは社会が静的なものであり、民衆の意識・価値観・考え・理想は変えることができない、というものの見方を拒否しているのである。それだけではない。アナキストが直接行動を支持しているのは、それが積極的に直接行動を行っている人々の変化を助長している「から」なのである。直接行動は新しい意識を創り出す手段であり、ヒエラルキーと抑圧が自分の精神・感情・魂に巻き付けている鎖を自分で解き放つ手段なのである。

 直接行動が自由の表現である以上、本来あるべき力が生々しく関わってくるのは、抑圧された側が要求を勝ち取るために直接行動を使ったときだけなのである。というのも、戦闘方法としては、直接行動はた易いものでも安上がりなものでもないからだ。いかなる階級システムであれ、最下層にいる人々が自分で行動し始めるとそのシステムは危機に陥る。歴史的に言っても、民衆は、間接的な手段を使って楽観的に戦いを観戦することで勝ち取った場合よりも、直接行動した場合の方がいつでも多くのことを得て来ているのだ。

 直接行動は人間から公然たる奴隷状態の鎖を引きちぎったのだ。数世紀にわたり、個人の権利を確立し、主人階級が持っていた生と死に及ぼす力を変えたのだ。投票やフリー=スピーチといった政治的自由を勝ち取ったのだ。十全に、賢く、うまく使われれば、直接行動は他者による人間の支配と不正とを永遠に終わりにさせることもできるであろう。

 以下のセクションでは、なぜアナキストは変化を引き起こす手段として、直接行動を好み、選挙制度に反対するのかを示す。


J2.1  なぜアナキストは、物事を変えるために直接行動を使うのが望ましいとしているのか?

 単に、それが効果的であり、実践している人々をラディカルにする効果があるからである。直接行動は、自分で行動している人々を基盤としているため、ヒエラルキーが作り出した依存心と自分が無用な人間だという感じとを打ち砕いてくれる。マレイ=ブクチンによれば、「直接行動についてもっと重要な事は、それが、これまで中央集権化された圧倒的な官僚制度が民衆から奪っていた、社会生活に対する個人の力を回復する決定的なステップだということである。(中略)自分が社会の出来事の方向性を再び制御できるのだという感覚を得るだけではない。自己活動と自己管理に基づいた真の自由社会など完全に不可能だなどということのない、自己と自分の人格に関する新たな感覚を呼び戻すことになるのである。(「生態調和社会に向けて、47ページ)

 自分で行動することにより、民衆は自分自身の力と能力に対する感覚を獲得する。民衆が自分自身の生活を営むのであれば、このことが本質なのである。このように、直接行動は、個々人が自分の個性を主張し、自分を個人として当てにできるように自分自身に権能を与える「唯一の」手段なのである。直接行動はヒエラルキーとは正反対であり、ヒエラルキーの中では個人は、自分は取るに足らない人間で、重要でもなく、自身をより高い権力(国家、会社、政党、大衆など)の中に消してしまわねばならず、その高次権力の強さと栄光に参画することに誇りを感じなければならないと何度も何度も繰り返し言われる。逆に、直接行動は、自分の見解・関心・幸福感を主張する手段なのであり、自己否定と戦う手段なのである。

 「人間は、自分が得たいと思うだけ多くの自由を手にすることができる。したがって、アナキズムは直接行動、つまり、経済・社会・道徳すべての法と制限に対する反逆・抵抗、を意味しているのだ。しかし、反逆と抵抗とは違法行為である。ここにこそ人間の救済があるのだ。違法なものすべてには正直さ、自己信頼、勇気が必要なのだ。つまり、違法行為には自由独立精神・男の中の男・自分の手が突き抜けてしまわないほどの背骨をちゃんと持った人間が必要なのである。」(エマ=ゴールドマン著「赤いエマ語る」61−62ページ)

 加えて、直接行動は自身の問題を自身の行為によって解決している人々を基にしているため、ヒエラルキーと抑圧とが破壊した人間の諸側面を呼び覚ましてくれる。自分が個人として重要なのであり、自分と自分のような他者こそが世界を変えることが「できる」のだという個人と集団の力の感覚・独創力・連帯・想像力・自己信頼を呼び覚ましてくれるのである。民衆が自分自身を開放し、自己管理と自由に向けて自身を教育し、自己管理と自由とに必要な技能を自分に教えるための手段が、直接行動なのである。したがって、

 「アナキストは、自分たちの経験と認識、活動が変化を導き成し遂げることができるような組織に参画することで、自分で考え行動することを学ぶと主張していた。知識が経験に先んじることなどない。経験から生じるのだ。(中略)民衆は自由を行使することによってのみ自由になることを学ぶのだ。(あるスペイン人アナキストが述べているように)『我々が(中略)未来を既製品にしている人々と共にいることはないだろう(中略)。自分の能力を繰り返し鍛えておかなければ、自由な人間など存在しないであろう。(中略)外的な革命と内的な革命はお互いの前提条件であり、成功するためには同時生起しなければならないのである。」(マーサ=アッケルスバーグ著、「スペインの自由な女性」、32―33ページ)

 したがって、直接行動は、マレイ=ブクチンの言葉を使えば、「個々人が自身の中にある隠れた力をよびさまし、自己信頼と自己能力の新たな感覚をつかむための手段であり、個人が社会の制御を直接手にするための手段なのである。」(前掲書、48ページ)

 さらに、直接行動は社会組織の新たな形態を要求することになる。こうした新たな社会形態は自己開放の過程を経て鼓舞され形成されるであろう。直接行動は、個人の開放と同様、自由な自己管理型組織を生み出すことができる。その組織は現在のヒエラルキー型組織にとって変わることができるのである。言いかえれば、直接行動は古い世界の殻の中で新しい世界を作り出す手助けをするのである:

 「直接行動は、それに参加していた人々に権能を与えただけでなく、他の人たちに対しても影響を与えていた。(中略)その中には、直接行動が示したポジティブな実例の力によって信奉者を引きつけた模範例もあった。現代では、食べ物やデイケアの協同組合、集団運営の会社、共同労働のハウジング=プログラム、女性の自助健康共同体、都市における不法占拠や女性のピース=キャンプ(産業労働組合や社会センターなどの伝統的な例も同様)といった例ある。こうした活動はそれに参画している人々に権能を与える一方で、非ヒエラルキー型の組織形態が存在しうる、そして現実に存在している、そして効果的に機能することができる、ということを他者に示すことにもなるのである」(マーサ=アームストロング著、前掲書、33ページ)

 ストライキのような直接行動も、階級意識と階級連帯を勇気づけ、促進する。クロポトキンによれば、「ストライキは連帯感情を発達させる」一方、バクーニンによれば、ストライキは「プロレタリアがブルジョアに対して行う社会闘争の始まりである。(中略)ストライキは二つの観点から見て重要な手段なのである。まず第一に、ストライキは大衆を驚かし、大衆の道徳的エネルギーを力づけ、大衆の関心とブルジョアの関心との間に存在する深い対立感情を大衆に呼び起こす。(中略)第二に、ストライキはすべての職種、地域、国家に属する労働者の間に、連帯の意識とその事実を引き起こし確立する手助けを大いにしてくれる。ほぼ絶対的なやり方でブルジョアの世界に対して対立するプロレタリアの新たな世界を直接作り出す傾向を持った、ネガティブ・ポジティブ双方の要素を含んだ一つの行為なのだ。」(キャロライン=カーム著、「クロポトキンと革命的アナキズムの勃興 1872-1886、256ページ、216―217ページから引用)

 直接行動とそれをつかった運動(組合主義など)は、「労働者の革命的知性」を発達させる手段となり、そのことで「実践を通じた開放」を確実に成し遂げる手段となるであろう(「」内はバクーニンの言葉)。

 したがって、直接行動は資本主義と国家主権主義の中でアナキストと無強権代替社会を作り出す手助けとなっている。そのようにして、直接行動はアナキスト理論と活動において中心的役割を演じているのである。アナキストにとって、直接行動は、「単なる『戦略』ではなく、(中略)道徳原理であり、理想であり、感性なのだ。直接行動は我々の生活・行動・見解の全側面に染み込んでいなければならないのである。」(マレイ=ブクチン著、前掲書、48ページ)

 

J.2.2 なぜアナキストは変革手段として投票を拒絶しているのか?

 単に選挙は効果的ではないからである。歴史は、ラジカルな人々が投票で選ばれて公職につき、結局のところ、元々変革しようとしていた政治家どもと同じぐらい、さらにはもっと保守的になったという例にまみれている。

 前のセクション(B.2 とその関連セクションを参照)で論じたように、いかなる政府であれ、国家官僚制度と大企業という二つの権力源の圧力下にある。このことが、社会変革を引き起こそうといういかなる試みであれ、議論レベルが最初の段階に達したと仮定した場合であっても、肥大化した利権によって埋められ空洞化させられてしまうであろう、ということを確実にしているのだ(選挙が反ラジカルな効果を持っていることに関する議論は、以下のセクションJ.2.6を参照)。民主的政府の中にある肥大化した利権の力にここでは焦点を当てて見よう。

 セクションB.2において、社会における国家の役割と国家そのものの一般的性質を議論した(すなわち、ルイジ=ガレアーニの言葉を使えば、「経済的現状の継続と、支配階級が持つ経済的特権の保護」である。)。しかし、ここでのトピックは変革を確実にするための選挙の効果であるため、ここでは、国家と資本がどの様にして、そして何故、政治行為を制限し、統制しているのかについて論じねばなるまい。

 資本についてまず論じよう。比較的改良主義的な政府が選挙で選ばれた場合、その政府はすぐに自分達が様々な経済的圧力に直面していることを実感するだろう。資本が投資せず、政府が経済崩壊に直面して後退せざるをえなくなった場合であれ、当該政府が資本を国家から排除するように統制して、新しい投資から疎外され、その通貨が無価値になった場合であれ、どちらでもよい。いずれにせよ、経済は重大な損害を被ることになり、約束された「改良」は死語となってしまうであろう。さらに、この経済の失敗はすぐに民衆の反抗となり、それは「民主主義」が民衆から引き離されていた時よりももっと権威主義的な国家を導くことになるであろう。

 想像し過ぎだって?とんでもない。1974年1月、ロンドン為替交換所のFTインデックスは、500ポイントを示していた。2月になると、鉱山労働者がストライキを行った。ヒースをして総選挙を行わせ(そして負けさせ)たのだった。新しい労働党政府(そこには左翼系の閣僚が多くいた)は、銀行と重工業の多くを国有化すると語っていた。1974年8月、トニー=ベンは造船業の国有化計画を発表した。その年の12月までに、FTインデックスは150ポイントまでに下落した。1976年までに、英国大蔵省はポンドをサポートするために、一日1億ドルをかけて自国の金を買い戻すことにしたのだった(「ロンドン=タイムズ」誌、1976年6月10日号)。資本主義の経済的圧力が機能していたわけだ。

 「利率レベルが高かったにもかかわらず、ポンドの価値がさらに下落している。(中略)金融ディーラーはポンド売りの圧力は大きくも無ければ持続的なものでもないといっていたが、買い手側の関心はまったくといっていいほど欠落していた。ポンドの下落は、通貨が低く評価されているという銀行家、政治家、役人の一致した意見を踏まえても、極度に驚くべきことである。」(ロンドン=タイムズ、1976年5月27日号)

 国際資本の力に直面した労働党政府は、IMFによる財政削減と管理とを押し付けた一時的な「救済措置」を受けねばならない自体に陥って、退陣した。それはある経済学者の言葉を借りれば「おっしゃるとおりに何でもいたします」(ピーター=ドナルドソン著、「経済学に関する疑問」、89ページ)と労働党が言っているようなものであった。こうした政策にかかる社会的コストは莫大なもので、労働党政府はストライキと社会の最も弱い部分に対して断固たる処置を取らざるを得ないものであった(しかし、労働党政府が「IMFが約束させた量の二倍もの支出を削減した」(前掲書)ことを忘れてはならない)。これに対する反発として、労働党は次の選挙を、労働党が放棄しつづけてきた自由市場賛成論の右翼政府に負けてしまったのだった。

 もっと最近の例を使えば、「公債マネージャー(財源中枢と国家間の金銭の流れを制御する人たち)は、地球規模の市場で政府と自分たちが衝突した場合、政治家の屈辱的敗北で終わるほどの莫大な資源を自由にできるのだ。(中略)1992年、合州国財務官、ジョージ=ソロスは、赤子の手をひねるように英国政府の試みを破壊した。英国政府は欧州為替レート機構(ERM)におけるポンドの地位を維持しようとしていた。ソロスは、自分が英国政府をして貨幣価値を下げさせるようにすることができる、ということに効果的に賭け、そして勝ったのだった。自分の持つ莫大な資源をつかって、彼はポンドの流れを操作し、英国銀行がその蓄えをつかって、ERMの中でポンドを維持しようという試みを転覆させようとした。英国政府は、ERMにおけるポンドのメンバーシップを一時停止すること(効果的な価値下落方法だった)で降伏し、ソロスは自分の勝利から1億なにがしドルを受け取ったのだ。そして、公債マネージャーは、欧州貨幣組合に対する後援を外しながら、他の通貨を一つ一つ取り下げた。それは、結局のところ、さまざまな欧州通貨間の売買をできなくすることになり、自分たちの利益を減らすことになってしまったのだ。(ダンカン=グリーン著、「静かなる革命」、124ページ)

 資本はそれが承認していない通貨に対して投資することはない、というのは事実であり、これが民主的に選ばれた政府を支配する有効な武器なのである。そして、過去30年間にわたって資本が地球規模的に増加すると共に、この武器はさらに強力なものとなったのである(もう一つ付け加えてもいい武器は、企業と国家が資金源となって投資・研究しているコミュニケーション技術を通じて改良され、開発途上国における労働者階級の改良と力に対する攻撃を正確に促している、言いかえれば、資本は我々に教訓を教えないように逃げているのだ。セクションC.8.1、C.8.2、C.8.3、D.5.3を参照)

 政治的な圧力が進む限り、我々は国家と政府とは違うのだということを思い起こさねばならない。国家とは堅固な権力構造と利権とを持った制度の永続的な集合体なのである。政府とは、さまざまな政治家から成り立っている。 その永続性のゆえに、国家で権力を握っているのは、制度なのであり、入れ替わりのある代表者ではない。つまり、国家官僚制度が既得の利権を持っているのであり、選挙で選ばれた政治家がそれを効果的に制御することなどできないのだ。舞台裏で暗躍する機関のこうしたネットワークは、通常、二つの部分に分けることができる。

 「「影の国家」とは、MI5(合州国で言えばFBI)のような国家保安機関、(中略)MI6(合州国ではCIA)のような特殊部門を意味する。「永続的な政府」とは、影の国家に加え、内閣(Cabinet Office)と内務省・外務省・連邦省の上級官僚(upper echelons of Home and Foreign and Commonwealth Offices)・陸海空軍と国防省・原子力発電産業とその衛星省庁・いわゆる「永久大臣クラブ(Permanent Secretaries Club)」・非常に地位のある公務員のネットワーク 、つまり 「高官」である。さらにその衛星機関には、国会議員(特に右翼議員),・メディアにおける「感化エージェント(agents of influence)」・前保安サービス職員・シンク=タンクと見解形成団体(opinion forming bodies)・保安サービスの前線企業(front companies of the security services)などがある。(ステッペン=ドリル・ロビン=ラムゼイ著、「汚い!ウィルソンと影の国家」、 Xページ、XIページ)

 これらの団体は、理論的には選挙で選ばれた政府の支配下にあるはずだが、政府が既存権力と意見を異にする政策を絶対導入しようとしないように効果的に(情報を伝えなかったり、黒い操作をしたり、官僚的な怠業をしたり、メディアで攻撃したり)なさしめることができるのである。言い換えれば、国家は、既得の利権と政策について何らかの反乱をするような中立団体などでは「ない」のである。国家は、それ自体と同様に社会の特定セクションを保護することを目的とした制度なのであり、これからもそうありつづけるのだ。

 この「影の国家」が機能している一例は、「汚い!」の中にあり、そこでドリルとラムゼイは英国労働党首相のハロルド=ウィルソンに対抗したキャンペーンを報告している。このキャンペーンのために首相は結局辞職してしまった。著者らは労働党党首のトニー=ベンがそのホワイトホール=アドバイザーから圧力をかけられていたことも示している。

 「1985年初め、メディアによるベンに反対するキャンペーンが影の国家によって張られた。興味深いのはそのタイミングだった。一月、永久大臣は「戦線布告」し、次の月からそれまでのいかなる英国政治家も経験したことの無かった異常なほどの嫌がらせが開始されたのだった。これは如何に考えようともありえそうも無いことであるが、まるで首相支援の取り消し、ホワイトホールの高官からの明らかな敵意、裏工作の襲撃の間には明らかな因果関係があるように見える。」(ステッペン=ドリルとロビン=ラムゼイ著、前掲書、279ページ)

 改良主義やラジカルな組織とその運動をひそかに害するときに、影の国家がどのような役割を演じているかについては言うまでもない。例えば、その中には、「破壊活動分子」についての純粋な情報収集からその分裂と鎮圧まである。米国の影の国家を例にとれば、ハワード=ジンが述べているように、1975年の「議会の委員会は(中略)FBIとCIAの調査を始めた。

 「CIAの調査は、CIAがその元々の使命、情報収集を超えて、あらゆる種類の機密操作を行っていたことを暴露した。(中略)(例えば)CIAは、ヘンリー=キッシンジャー率いる秘密の40人委員会との共謀で、(民主的に選ばれた左翼系)チリ政府を「不安定にし」ようと働きかけていた。(中略)

 「FBIの調査は、あらゆる種類の過激派団体と左翼団体を分裂させ、破壊するために長年にわたる不法行為を暴露した。FBIは偽造文書を送りつけ、夜盗行為を行い、(中略)手紙を不法に開けていた。さらに、ブラック=パンサーのリーダー、フレッド=ハンプトンの場合、殺人を共謀したとされている。

 「調査そのものは、そうした活動に探りをいれようという政府の意思に限界があることを明らかにした。(中略)そして、CIAに関する調査結果はCIAに引き渡され、CIAが忘却したい資料があるかどうかを見てもらったのであった。(「合州国人民史」、542ページから543ページ)

 また、CIAは秘密裏に数百人の米国の学者を雇い、プロパガンダの目的を持った書物や文献を書かせている。それは心理戦において重要な武器となるのだ。言い換えれば、CIAやFBI(そして、その他の国々における同様の組織)などの国家団体を中立団体と考えることはできないのである。それらは単に命令にしたがっているだけなのだ。それらは既得利権のネットワークなのであり、特定のイデオロギーの見解と目的を持ち、その目的は、通常、投票する人々の望みを、国家−資本の権力構造を適当な位置に維持するにたるだけく抑えておこくことなのである。

 このことが最も劇的に現れているのは、民主的に再当選した(左翼)アジェンデ政権に対して行われた軍の攻撃である。軍はCIAと合州国を本拠地とする大企業とチリに対する経済援助(特にアジェンデ政権が困窮に陥るような)を削減した合州国政府によって支援されていた。軍部の大勝利は、数十万人の殺害と数年にわたるテロと独裁政権をもたらしたが、労働党政府への賛同の危険は無くなり、ビジネス環境は利益をあげるという点では健康になった。すでにお分かりだと思うが、これは極端な例ではあるが、自由の信奉者や、国家機構はある程度中立で、左翼党派が獲得することも使用することもできるという考えを信奉しているものにとっては重大なことなのである。

 したがって、さまざまな政治家集団が、同じ経済的制度的影響と利権とに対して、それぞれのやり方で反応するなどとは期待できないのである。右翼で明らかに資本主義賛同政党が英国や合州国で右翼の資本主義的政策を導入したのと同時期に、左翼改良主義の党が右翼的で資本主義賛同型(サッチャー主義的・レーガン主義的)の政策を導入しているのは偶然の一致ではない。クライブ=ポンティング(前英国公務員)が指摘しているように、以下のことが予想されるのである。

 「世界中のいかなる国においても政治システムの果たす機能とは、既存の経済構造とその関連権力との関係を調整することであって、ラディカルに変化させることではない。政治学に関連した大きな幻想は、政治家がいかなる変化も好みのままに引き起こす権力を持っている、というものである。(中略)より大きな構図において、全ての国の政治家は国際通貨システムの操作、第三世界を従属させるときに内在している世界貿易パターン、多国籍企業の操作に対してどのような現実の制御力を持っているのだろうか?これらの制度とそれらの底に横たわる支配のメカニズム(利益への動機付けを成功を測る唯一の尺度としていること)は、本質的に制御不可能で、自動操縦的に操作されているのだ。」(「オルタナティブ」、第5号、10ページより引用)

 もちろん、主要国において労働者階級の人々に益となった非常に大規模な改革が行われた例もある。合州国におけるニュー=ディール政策と1945年〜1951年の英国における労働党政府がまず頭に浮かんでくる。それならば、我々が上で述べた主張は間違っていたというのであろうか?簡単に言えば、間違ってはいない。改革は、改革に譲歩しない場合の危険性が、改革に関連した問題を上回っている場合に、国家から勝ち取ることができるのである。したがって、改革は資本主義システムと国家を守るため、さらには資本主義システムと国家の操作を改善するために使われるのである(もちろん、必要無くなれば改革など放棄されてしまう可能性を持っているのである)。

 例えば、1930年代の合州国、1940年代の英国における改良主義政府は、どちらも、戦闘的労働者階級の闘争の波によって、下からの圧力下にあった。こうした労働者階級の闘争は、単なる改良主義以上のものに発展しかねなかったのだ。1930年代の座り込みストライキの波は、組合賛同的法律の可決を確固たるものにしており、労働者が解雇される恐怖を感じずに組織を作ることを可能にしていたのだった。この法律には、資本主義−国家機構の運営に対する組合の参画も含めていた(そのようにすることで、組合が仕事場での「非公式の」活動を統制する責任を持つようにさせ、利益を確保するようにしたのである)。1945年の労働党行政中に英国経済の大まかに言って20%が国有化された(最も経済利益をあげないセクションも含む)のもまた、支配階級の恐怖の直接的結果であった。当時、トーニー政権の大臣であったクィンティン=ホッグは、次のように述べていた。「民衆に社会改革を与えないならば、民衆は社会革命を我々に与えるだろう。」第一次世界大戦後の欧州においてついこの前にあった諸革命の記憶は明瞭に、双方の側にいる多くの人々の心に刻まれていた。国有化政策は、特別「社会主義」として恐れられていたのではなかった。事実、国有化は英国経済の動きを改善する最良の手段だと論じられていたのだった。当時のアナキストは、「資本家の本心は、トーニー=フロントの仕事机よりも、為替取引所の状態と産業企業家の声明から見て取れる。(中略)そして、これらのことから、所有階級は労働党の成果と傾向とにまったく不快感を持ってはいない、ということが読み取れるのだ。」(「国家所有でも私的所有でもないのだ、フリーダム誌からの選文集」、ヴァーノン=リチャーズ編、9ページ)

 したがって、大規模な改革がなされた場合、それは下からの戦闘的圧力に対する反応なのであり、さらに多くを我々は得ることができるということを思い起こさねばならないのである。

 総じて、アナキストの選挙に反対する主張が前面に出てから、百年にわたり物事に何ら大きな変化は無かったと言えよう。

 「選挙の過程において、労働者階級はいつもだまされ、裏切られるだろう。(中略)労働者階級が自分たちの一人、いや十人、いや50人もの人々をなんとかして内閣に送り込めた場合であっても、そうした人々は甘やかされ、骨抜きにさせられてしまうであろう。さらに、もし仮に内閣の大多数が労働者であったとしても、何もできないであろう。議会があるだけでなく、(中略)軍部の長、裁判所と警察の上層部がいて、会議で決められた内閣法案に反対し、労働者側に立った法律の施行を拒否するであろう(これはすでに起こったことであり、例えば一日8時間労働は、1870年代に合州国の多くの州で法的に提案されていたにもかかわらず、それが施行されなかったため1886年に労働者はストライキを起こさざるをえなかったのである。それでもなお、法律は奇跡を起こしてくれるようなものではない。資本家が労働者を搾取することをできなくする法律は作れないし、資本家にその工場を開放し労働者にこれこれこういう条件で労働者を雇えと命じたり、商店主にこれこれこういう値段で物を売れと命じたりするような法律も成立し得ないのである。)」(L.ガリアーニ著、「アナキズムの終焉?」に引用されたS.マーリノの文章より)

 さらに、アナキストが投票を拒否するもう一つの理由がある。投票手続きは直接行動と正反対のものだという事実である。投票は、自分のために誰か他の人に行動してもらうことに「基づいて」いるのだ。したがって、選挙は、民衆に権能を与え、自己信頼と能力の感覚を民衆に与えることからほど遠く、変革を生じせしめてくれる「指導者」のイメージを作りだすことで、民衆に権能を「持たせなく」するのだ。マーティンが観察したように、「全ての歴史的事実は、政治政党は急進的変革にとっての原動力というよりも、歯止めであることが多い、ということを明白に示している。明らかな問題は、政治政党は落選することがある、ということである。政党が持ちこんだ全ての政策変革が、後になって単に逆転させられてしまう可能性もある。さらに重大なことだが、急進派政党それ自体が穏健的な影響を受けてしまうのだ。多くの場合で、急進派政党が人民感情沸騰の結果として権力を持つように選択されてきた。時間が立つにつれ、「急進派」政党は、過激な変革過程を押し留める連鎖の一環となってしまったのである。」(選挙のない民主主義、「社会的アナキズム」誌、21号、1995年)

 これは、様様な左翼政党の歴史を見れば一目瞭然である。ラルフ=ミリバンドは、社会動乱期に当選した労働党や社会党は、資本家の利権に脅威を及ぼす可能性のある民衆行動をくじくことで支配階級エリートを安堵させるように行動することが多かった、と指摘している(「資本主義社会における国家」、ウェイデンフィールドとニコルソン著、1969年)。例えば、仏国で1936年に選ばれた人民戦線が行った最初の計画は、人民戦線が権力を持つにいたる最も強力な同盟者であった武装人民勢力を広範にわたって静め、ストライキと不法占拠を終結させることだったのだ。1945年の英国で選ばれた労働党政府は、抜本的社会構造変革案を捨て、政府ができるはずだった改革をほとんどやらなかったのだ。さらに、政権について最初の週に、政府は港湾労働者のストライキを打ち壊すべく軍隊を送り込んだのである。労働党は軍隊を使って、保守党が行ったよりもさらに多くのストライキを打ち壊したのだ。

 こうした点を考慮してみれば、既存権力構造が何故選挙を通じて効果的に変革され得ないのかが分かるだろう。一例をあげると、選挙で選ばれた代表者は「委任統治」してはいないのだ。すなわち、どのような公約をしていようと、投票者がどのような政策を望んでいようとも、特定政策に対していかなる拘束方法を持ってしても結び付けられてはいないのである。選挙の時期になると、政治家に対する大衆の影響は最も強くなるが、選挙後には、代表者は自分がやりたいことを実際的に行うことが出来るのである。それは、「即時解任」の手続きがないからなのだ。実際問題として、次の選挙前に政治家を解任することは不可能であり、選挙間には、政治家は継続的に特定利権集団(特に、企業が圧力をかけるために派遣したロビイスト、国家官僚、政党権力ブローカー)からの圧力にさらされつづけているのである。

 こうした圧力の下、政治家が選挙キャンペーンで述べた公約を破るのはもはや伝説となっている。一般に、こうした公約破りは、性格の悪さとして非難され、繰り返し行われる「偽者を追い出せ」熱を導くことになる。新しい代表者が選ばれると、そいつらは不思議なことに偽者だと暴露されてしまうのだ!実際、「偽者」、裏切り者、政治家がやると思い込むようになってしまったいかがわしい裏取引を生み出しているのはシステムそれ自体なのだ。アレックス=コンフォートが論じているように、政治事務所は、権力に飢え、権威主義で、無情な人格を引きつけているか、少なくとも、当選した人々にはそうした性質がもたらされるものなのである。(「近代国家における権威と非行:権力の問題に対する犯罪学的アプローチ」、ロートレッグとケーガン=ポール著、1950年)。

 近代「民主主義」という点で見ても、誰もがシステムを充分投票に足るものだと真面目に受け取っているのは驚くべきことである。実際、合州国など「民主主義」が投票という形で実践されている国において、投票者数は一般に低いものだが、投票者の中には、繰り返し投票しつづけている人々がおり、自分の希望を新しい政党に託したり、主要政党の改革をしようとしたりしている人もいる。アナキストにとって、この活動は問題の根源に届くようなものでない以上、意味がない。問題は政治家でもなければ政党でもない。システムなのである。システムは、政治家や政党をシステム自体がイメージするものに作り上げ、そのヒエラルキー的中央集権的性質のために、民衆を外野へ押しやり阻害しているのだ。政党の政策がどれほど多くあったとしても、このことを変えることは出来ないのである。

 しかし、大部分のアナキストが、政府に投票することと国民投票で投票することの違いを認識していることははっきりさせておこう。ここまで、我々は前者、社会変革の手段としての選挙について論じてきた。国民投票は、直接民主主義というアナキストの考え方により近いものであり、欠点はあるものの、役所に行く政治家を四年に一度かそこらで選ぶよりも断然ましなのである。

 さらに、アナキストは必ずしも選挙による政治に参加すること全てに反対しているわけではない。バクーニンは、代表者との日常的接触があり、そのことで代表者の責任を維持できるような比較的小規模地域における地域選挙に参加することが有効となり得ることもある、と考えていた。この論法は、マレイ=ブクチンのような社会生態学者(ソーシャル=エコロジスト)によって採用され、アナキストは地域選挙に参加することで、自己管理的地域集会を作りだすためにこのテクニックを使うことが出来る、と主張している。しかし、地域集会を作りだすためのそうした手段を支援しているアナキストはほとんどいない(このことに関する議論はセクションJ.5.14を参照)。

 しかし、大規模都市と地方区や国家規模の選挙においては、「民主主義」という言葉を不適切に解釈したある種のプロセスが発達してきている。これらのプロセスには、大量広告、地域エリアにおける政府プロジェクトを通じた投票者の賄賂、政党「マシーン」、二つの(多くても三つの)主要政党に制限された報道範囲、政府による報道操作がある。政党マシーンは、候補者を選び、演説者の口述筆記をし、電話キャンペーンを使って投票者と接触する。大量広告は、候補者を商品のように「パッケージ化」し、その政策ではなく人格を強調しながら投票者に対して候補者を売るのである。一方、メディアの報道は、政策問題ではなく、キャンペーンの「競馬」的側面を強調する。特定領域(もっとシニカルに言えば、選挙直前にそれらの領域における新しい計画の広報)に対する政府の支出は、票を買うための標準的手法となっている。我々は、メディアが情報の出所を政府に依存していることによるメカニズムをすでに吟味した(D.3を参照)。これは、明らかに現職議員を手助けするために開発されたのである。

 したがって、これらの関連しあった理由で、アナキストは変革を起こす手段として投票を拒否するのである。その代わり、我々は心の底から直接行動を、現行システムに対する代替案を作りだす手段であると同時に、今ここで改善を引き起こす手段として支持するのである。

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