アナキズムFAQ


I.2 これはアナキスト社会の青写真なのか?

違う。到底そのようなものではない。自由社会に「青写真」のようなものなどあり得ない。ここでできることは、真にリバータリアンだと見なすために自由社会が持っていなければならないと我々が信じている一般的諸特徴を示すことである。例えば、仕事場でのヒエラルキー型管理に基づいた社会(資本主義のような)は、リバータリアンではなく、ヒエラルキーのトップにいる人々の権力を保護するために私有国家や公有国家(private or public states)をすぐさま発達させるであろう(『社会主義のないアナキズムは(中略)我々にとって不可能である。なぜなら、それは、強者の支配以外の何者にもなり得ず、従って、この支配の組織と連結を、つまり政府の形成を、すぐさま開始するからだ。』(エンリコ=マラテスタ著、人生と思想、148ページ))。しかし、そうした全般的な考察以上に、非ヒエラルキー社会を構築する方法の詳細については、議論と実験をできるようにしておかねばならないのである。

アナキズムは自由を意味しており、最も多様な経済的(社会的)諸条件と両立できる。ただし、そうした諸条件が、資本主義の独占下のように、自由の否定を意味しないという前提の下でである。(D=A=デ=サンティリャン著、革命の後に、95ページ)

アナキズムFAQのこのセクションを、綿密な計画として考えてはならない。アナキストは、常に、将来のヴィジョンを事細かに規定したがらなかった。というのも、新社会が取るべき精密な諸形態について独断的になることは、アナキズム諸原理に反するからだ。自由な民衆は、自分たちの地域に特有の諸条件に応じて、自分自身の代替諸制度を創り出す。普遍的な諸政策を前もって示そうとするなど、思い上がりなのだ。クロポトキンは次のように述べている。

(大衆による社会的富の)収用が達成したなら(中略)様々な集団が形成される期間を過ぎると、生産と交換を組織する新しいシステムが必然的に勃興する。(中略)そして、このシステムは、改良家どもが考え想像して創り出した見事な理論よりも、遙かに民衆の熱意・共存の必要条件・相互関係に調和するであろう。(神もなく、主人もなく、第1巻、232ページ)

だが、だからといって、クロポトキンは『新しい組織の基盤は、生産者集団の自由連合と、コミューンと独立コミューンにいる諸集団の自由連合となる(中略)という(アナキストに影響を受けた領域での)目下の予測』を止めなかった(前掲書)。なぜなら、我々は、現実経験が思考方法に影響を与え変化させるように、現在が未来に影響を与えると考えているからだ。それ以上に、自分たちの不自由な社会が自分の思考方法を形成している以上、現在の権威主義的足枷が除去され、人間の問題解決能力と創造性が解放されれば、どのような新しい組織が生じるのかを想像するのは難しいだろう。従って、未来について詳細に描写しようという試みはいかなるものであれ、初めから失敗するのだ。究極的に、アナキストは次のように考えているのである。『新社会は、周辺から中心へと、自由に自発的に、連帯の心情に駆り立てられ、社会が持つ自然の必要性に迫られて、当事者全員の直接参加で組織されねばならない。』(E=マラテスタとA=ハモン著、神もなく、主人もなく、第2巻20ページ)

だが、アナキストは、一般的枠組みを示す広義の諸原理を特定しようとしてきた。その枠組みの中で、新社会の諸制度が成長することを期待しているのである。大切なことだが、こうした諸原理は象牙の塔にいる知識人たちの恣意的創造物ではない。むしろ、現実の政治・社会・経済構造に基づいている。革命活動が高揚した時代に、労働者階級がその鉄鎖をかなぐり捨てようとしてきたときにはいつでも、こうした諸構造は自発的に生じた。例を挙げれば、パリ=コミューン・ロシア革命・スペイン革命・1956年のハンガリー蜂起がそれである。例えば、自主管理型で民主的な労働者評議会は、リバータリアン社会主義の基本的組織であることは明らかだ。評議会は、あらゆる革命的時代に出現しているためである−−住民共有の労働・資源の共有・参加型意志決定という伝統に根ざしていることを考えれば、それほど驚くべき事実ではない。この伝統は、クロポトキンの古典的研究である相互扶助論で立証されているように、有史以前の氏族や部族・ローマ帝国以後の「野蛮な」農村・中世自由都市まで、数万年前にまで遡ることができる。結局、こうした諸組織こそが政府に対する唯一の代替案なのだ。自分たちで決定をしない限り、誰か他の人が決定を下すことになるのだ。

だから、以下のセクションを読むにあたって、これは可能な将来像を描こうとする一つの試みだ、ということを忘れないでいただきたい。自由社会がどのようなものになるか正確に割り出そうとする試みでは決してない。そうした自由社会は、アナキストだけでなく、社会成員全体の行動の産物となるからだ。マラテスタは次のように論じている。

誰が正しくて誰が間違っているとか、誰が真実に近いとか、万人に最高の利益をもたらす最上のやり方はどれかなど正確に判断できる人はどこにもいない。自由は、経験と連動して真実を発見し、何がベストなのかを発見する唯一の方法なのだ。そして、過ちを犯す自由を否定するのなら、自由などないのである。(人生と思想、49ページ)

もちろん、現実生活は、常に、最も現実的で堂々とした理論・思想・イデオロギーさえをも覆すものだ。マルクス主義・レーニン主義・マネタリズム・自由競争資本主義(数ある中でも)は、イデオロギーが現実生活に応用されると、予め理論によって予測されなかった効果を持つ、ということを何度も何度も証明してきた(ただ、これら四つのケースでは、他者がそのネガティブな効果を予想していた。マルクス主義とレーニン主義の場合はアナキストがそれを予測していたのだった。)。アナキストはこのことを意識しており、だからこそ理論を優先したイデオロギーを拒絶しており、未来の青写真を作りだそうとはしないのである。結局、歴史はプルードンが正しかったと証明したのだ。プルードンは次のように主張していた。『あらゆる社会は、観念論者の手に落ちた瞬間に、崩壊する。』(経済的矛盾のシステム、115ページ)

バクーニンが強調しているように、生活だけが理論を作ることができ、従って、生活は理論に知識を与えねばならないのだ−−理論が逆の結果を示しているのなら、理論を訂正する方がよいのであって、現実を否定したり、現実の民衆に対して理論が創り出している害悪を正当化しない方が良いのである。つまり、FAQのこのセクションは青写真ではなく、一連の提案なのである(ただし、労働者階級叛乱とその組織の現実経験から導き出された提案だということを強調しておく)。これらの提案は、正しいかも知れないし、間違っているかも知れない。マラテスタは次のようにコメントしている。

我々が絶対的真理を持っているなどと豪語することはない。逆に、社会的現実は定量でも、いつも良いものでも、普遍的に適用できるものでも、前もって決定できるものでもない。それどころか、自由が確保されれば、人間は、最小数の動乱と最小限の軋轢とで、徐々に発見し、行動しながら前進するだろう。つまり、我々の解決策は、様々な、そして望むらくは、より良い解決策に対して常にオープンなのである。(前掲書、21ページ)

この理由で、バクーニンを引用すれば、アナキストは次のように考えているのである。『革命は民衆のために行われてはならない。民衆が行わねばならないのだ。』(神もなく、主人もなく、第1巻、141ページ)社会的諸問題は、労働者階級の人々が自分たち自身で解決するならば、労働者階級の利益のために解決される。これは社会革命に適用できる−−労働者階級の人々が、自分たちの組織と力を持って自身で革命を起こしたときにのみ、労働者階級を解放するであろう。実際、民衆が、何が可能か・何が必要か・何が望ましいのかについてその諸前提を変化させることができるのは、社会的諸問題を正すために、例えばストライキ・占拠・デモなどの直接行動を使って、社会変革を求めた闘争を通じてなのだ。自分たちの闘争と自分たちの組織を作る必要性が、自分たちの活動を管理するための集会などの民衆権力機関の発展を確実にする。そして、そうした民衆権力機関が、社会を組織できる代替手段を潜在的に創り出すのである。クロポトキンは次のように論じている。『ストライキはいかなるものであれ、ストライキ参加者が様々な事柄を共通管理するように訓練する。』(キャロライン=カーム著、クロポトキンと革命的アナキズムの勃興、233ページで引用されている)。民衆が自分自身の生活を、そして社会を、管理する能力は次第に明白になっており、ヒエラルキー型権威・国家・ボス・支配階級の存在は望ましくなく、不要なものだとはっきりしてくる。つまり、労働者階級の人々が資本主義の中での改善と変革を求めた闘争に必要な組織を創り出すに従って、自由社会の枠組みが階級闘争というまさしくそのプロセスによって創造されるのである(詳細な議論は、セクションI.2.3を参照)。

従って、アナキスト社会の現実的枠組みと、それがどのように発展しそれ自体を形成するのかは、そうした社会に住んでいる人々やそうした社会を創り出そうとしている人々の欲望と願望に依存しているのである。このため、アナキストは、共通の問題を管理するために、地域と仕事場における大衆集会、そして、下からの集会連合の二つが必要だと強調する。アナーキーを創り出すことができるのは、大衆の能動的参加だけなのだ。マラテスタの言葉を借りれば、アナキスト社会は『民衆集会で採択され、自発的に参加したり正規に委託された諸集団と個々人が実行する諸決定』に基づくであろう。『革命の成功が』依存するのは、『実際の課題に取り組む発意と能力を持った多くの個人である。共通の大義を少数者の手に任せず、代表者が必要な場合は、特定の使命と限定期間だけ委任する、こうしたことに大衆を慣れさせることによってなのである。』(人生と思想、129ページ)この自主管理が基礎になって、アナキスト社会は、社会内部に生活している人々が創り出す新社会と共に変化し、発展するであろう。バクーニンは次のように述べている。

あらゆる場所で、革命は民衆が創り出さねばならない。最高位の管理は、常に、農業協会と工業協会からなる自由連合に組織された民衆に属していなければならない。(中略)この自由連合は、革命的委任という手段によって下から上へと組織される。(ミハイル=バクーニン選集、172ページ)

忘れてはならないことだが、アナキスト社会がどのように始まるのかは大雑把に推論できるかも知れないが、長期的にどのように発展するのかは予測できない。社会革命は一つのプロセスの始まりでしかない。このプロセスは、我々にはどのようなものになるか予測もつかない別種の社会をすぐに導くであろう。不幸にして、我々は、希望する最終地点ではなく、現在自分たちがいる地点からスタートしなければならないのだ!この社会こそ我々が変化させるものである以上、ここでの議論は、当然、現在の社会を反映するものとなるだろう。この見解は、我々が現在住んでいる世界との充分な質的断絶ではないと考える人もいるが、この見解は絶対不可欠である。我々が提起し、論じなければならないのは、今ここでの行動についてであって、革命成功後の数年、数十年にしか存在し得ない未来の天上界の出来事についてではないのだ。

例えば、アナキズムの究極目標は、既存の仕事場や産業の自主管理ではない。このことは強調しておく。だが、革命は、疑いもなく、既存産業の多くを占拠し、それらを自主管理下におくことになる。今日存在するものと同様の設備を前提として、我々は議論を始める。だからといって、アナキスト社会が現在のものと同じ様なものであり続けるという意味ではない。単に、我々皆にお馴染みの実例を使って最初の段階を示すだけなのである。これは、産業を、生態学的に安全で、社会的に統合され、個人的にも集団的にも民衆に権能を与えるものへと変換する最初の段階でしかないのである。

1919年のシアトルのゼネストが起こる直前にストライキ参加者たちが述べていた言葉が、この観点を充分表現している。

労働者は産業を「閉鎖」するだけでなく、公衆衛生と治安を保護するために必要な諸活動を、適正な取引管理下で「再開」する。ストライキが継続すれば、人々の被害を避けるために、労働者はさらに多くの活動を再開するであろう。

「労働者自身の管理の下で」だ。

そして、我々は道を歩み始めた、と我々が述べているのはこの理由からなのだ−−「この道がどこに行くのか誰にも分からないのだ!」(ジェレミー=ブレッチャー著、ストライキ!、110ページでの引用)

革命後に、労働者は現行のものと同じテクノロジー・昔ながらの同じ仕事場・昔ながらのやり方で仕事を行い続け、ただ一つのことさえも変化させない(自分たちのマネージャーを選挙で選ぶ以外)だろう、と真面目に考えている人々もいる。こうした人たちは、自分自身の想像力のなさを、人間全体に転移させているに過ぎない。我々は、労働者が、資本主義の遺産を拒絶しながら、その仕事・仕事場・社会を人間に適したものへとすぐさま変換し、我々には予測できないような社会を創り出すということに何の疑いも持っていない。強調しておくが、仕事場の占拠は、単に、仕事場を変換し、社会全体を変換するプロセスの第一段階でしかないのだ。

革命後の社会での民衆生活は、現在のように固定した仕事と仕事場を中心にすることにはならないだろう。生産活動は継続するが、今日のような疎外されたやり方ではないだろう。同様に、地域社会においても、民衆は自分たちの想像力・技能・願望を働かせ、より良い生活の場へと変換するだろう(CNTが述べたように、コミューンの美化である)。もちろん、第一段階では、既存地域社会を奪取し、地域管理の下に地域社会をおくことになろう。従って、忘れないで頂きたいのだが、我々の論議は、革命成功後の数ヶ月・数年間でアナキスト社会が−−なおも資本主義の遺産を残しているアナキスト社会が−−どのように運営されるのかを示しているに過ぎないのである。しかし、アナキストが、その遺産を排除し、唯一無二の個々人が生活するのに適した社会を創造するために、社会の全面を変換したいと思ってはいないと考えるのは大きな間違いである。強調しておくが、アナキスト社会が発展するにつれ、その社会に生活している人々の才能・希望・夢・想像力を基にして、現在の我々には推測できないようなやり方で、社会は変換されるのである。

最後に、我々はアナキスト社会の「内容」(どのような意志決定に到達するのか)ではなく、「形態」(どのような種類の組織で、どのような意志決定方法を用いるのか)に多くの時間を割き過ぎてきたと思われるかも知れない。それ以上に、この区別に含まれる意味は、階級闘争で創造される諸組織(十中八九、自由社会の枠組みとなるだろう)にも拡大適用される。だが、形態は、内容と同じぐらい、いやそれ以上かも知れないが、重要なのである。「形態」と「内容」は相互関係を持っているからだ−−リバータリアンで参加型の組織「形態」が、意志決定・社会・闘争の「内容」を変革できるようにするのである。自主管理は、そこに参画している人々に対して教育的効果を持っている。異なる考えに気づき、異なる考えについて思考し、様々な考えの中から決定する(そして、もちろん、自分自身の考えを形成し、提示する)からである。従って、こうした諸決定の性質は、進化しうるし、進化するであろう。つまり、形態は「内容」に決定的な影響を与えるのであり、自由社会の形態を論じることに何ら弁明をする必要など無いのだ。マレイ=ブクチンは次のように主張している。

自由の諸形態がを単なる諸形態として扱うことができると仮定するなど、法的諸概念を単に法律学の諸問題として扱うことができると仮定するのと同じぐらいバカげている。自由の形態と内容は、法律と社会のように、相互に決定し合うものなのだ。同様に、自由という目標を促す組織形態もあれば、腐敗させる組織形態もある。(中略)ある程度まで、こうした諸形態が、それを使用する個人を変化させるか、あるいは、その個人の将来の発展を妨げるのである。(欲望充足のアナキズム、147ページ)

意志決定の内容は、参画する個々人によって決定される。従って、参加型・権力分散型・自主管理型組織こそが、意志決定の内容の発展にとって不可欠なのだ。そうした組織が、決定を行う個々人を発達させるのだから。

I.2.1 何故、アナキスト社会がどのようなものになるのかを論じるのか?

その理由の一部としては、民衆がアナキストにならねばならない理由を示すためである。大多数の人々は、暗闇の中に飛び込むようなことは好まないものだ。従って、望ましい社会はどのようなものになるかについてのアナキストの考えを示すことは、アナキズムに知的に引きつけられている人々の手助けとなり、それを実際に実現するべくコミットするよう奮起させるであろう。また、理由の一部としては、これは過去の失敗から学ぶ良い例だからでもある。規模は様々ながら、これまで数多くのアナキズム的社会実験が行われてきた。何が起こったのか、何がうまく行き、何がうまく行かなかったのかを理解することは有用なのである。このようにすることで、同じ過ちを二度繰り返さずに済んでほしいと思うのである。

だが、アナキスト社会がどのようなものになるのかを論じる最も重要な理由は、できるだけ多くの人の行動でそうした社会が創造されることを確実にするためである。エンリコ=マラテスタは、イタリアの革命的「赤の二年間」(セクションA.5.5を参照)の最中に、次のように述べていた。『我々皆が自分の精神を使って社会の再組織化を考えれば、古い諸構造が廃止される正にその瞬間、直ちに、将来の進歩に対してオープンで、もっと思いやりがあり、もっと公正な社会を手にする筈である。さもなくば、そうした事柄を「指導者」に委ね、新しい政府を手にすることになるだろう。』(アナキスト革命、69ページ)

だから、今ここで、未来がどのようなものになるかを論じることは大切なのである。自由社会がどのようなものになるかについて、かなりはっきりとした考えを持っている人々が多ければ多いほど、そうした社会を創造することが容易くなり、自分たちのために決定をしてくれる「指導者」に重要な事柄を任せないようになる。このことについて、スペイン革命の例が思い起こされる。1936年以前の長い間、CNT と FAI は、アナキスト社会がどのようなものになるかを論じた出版物を発行していた(例えば、ディエゴ=アバド=デ=サンティリャン著、革命の後でや、アイザック=プエンテ著、リバータリアン共産主義)。実際、革命以前に、アナキストはほぼ70年間に渡ってスペインで組織作りと教育とを行ってきたのだった。革命がついに勃発すると、それに参加した数百万もの民衆は誰もが同様のヴィジョンを持ち、そのヴィジョンに基づいて社会を作り始め、その結果、直接体験によって、そうした書物のどこが間違っており、書物がどの生活領域を適切にカバーしていなかったのかを学んだのである。

だから、アナキスト社会がどのようなものになるのかについての議論は、青写真の作成でもなければ、過去の叛乱で創り出された形式に未来を無理矢理当てはめようという試みでもない。純粋に、そして、単に、自由社会がどのようなものになるのかを人々に論じさせ始め、以前の実験から学習する試みでしかないのだ。だが、アナキストが古い殻の中で新世界を構築することの重要性を認識している以上、自由社会がどのようなものになるのかに関する考えは、今日自分たちがどのように組織を作り闘争するかに取り入れることができるのである。そして、逆もまた同様なのだ。今日、自分たちが組織を作り闘争を行う方法は、未来に影響するのである。

マラテスタが指摘しているように、こうした議論は必要であり必須である。なぜなら、『政府が破壊され、資本家が収用されると、何をなすべきかについて考えを既に持っている人々や即座にそれに着手している人々の介入が無くとも、「物事がひとりでに進んでいく」と信じるなど、バカげている。(中略)(なぜなら)個々人の生活としての社会生活を中断することなどできないからだ。』彼は次のように強調していた。『再構築の諸問題全てを無視することも、完全で均一の計画を前もって準備することも、どちらも誤りであり、乱暴である。このことは、別々の方向から、アナキストとしての我々の敗北と、新旧の権威主義体制の勝利をもたらす。真実はその中間にあるのだ。』(前掲書、121ページ)

それ以上に、未来について論じることは、我々の活動がより良い世界を実際に創造しているのかどうかを示す手助けをしてくれるために、大切なのである。結局、カール=マルクスが社会主義社会に関する自分のヴィジョンを論じようとしていたなら、スターリン主義者たちが、自分たちの地獄のようなシステムは実際に社会主義だった、などと主張することが遙かに難しくなっていたであろう。不幸にして、マルクスはこのことを理解できなかったのだ。プルードンやバクーニンのようなアナキストが自分の自由社会ヴィジョンの広い輪郭を提示していたからこそ、アナキズムが、マルクス主義がそうなったように、歪められることはできなくなったのである。

FAQのこのセクションが、短いながらも、できるだけ多くの人々を勇気づけ、リバータリアン社会がどのようなものになるのかを論じ、その議論を基にリバータリアン社会に近づくことを期待したい。

I.2.2 資本主義から一足飛びにアナキスト社会へ進むことはあり得るのか?

あり得るかも知れないが、それは、アナキスト社会ということによって何を意味しているのかによって異なる。

全く階級のない社会(これを不正確にも「ユートピア」と呼ぶ人もいる)ということを意味しているのであれば、答えはハッキリと「あり得ない」である。アナキストは次のことを充分認識している。『階級差はペンの一振りで消え失せてしまうことはない。そのペンが理論家のものであろうとも、法律や命令を提示する事務員のものであろうとも。プロレタリア階級が特権階級に対して行う行動、つまり直接行動と収用だけが、階級差を消し去ることができるのだ。』(アルバート=メルツァー編、国家主義の貧困、13ページ〜49ページ、ルイジ=ファブリ著、「アナーキーと<科学的>共産主義」、30ページ)

アナキストにとって、社会革命はプロセスであって、出来事ではない(もちろん、ゼネスト・叛乱・蜂起などのような出来事が特徴となっているプロセスであるが)。クロポトキンは次のように論じている。

所有システムと社会組織に対する我々の革命を達成するためには、3年か4年、多分5年間にわたる完全な暴動期間を経なければならない。(叛逆者の言葉、72ページ)

クロポトキンの有名な著作、麺麭の略取は、彼自身の言葉を使えば、次のことを目的としていた。『共産主義−−少なくとも部分的な−−は、特にコミューンが率先する中で、集産主義よりも達成される見込みが高いということを示し、(中略)革命的期間に、大都市−−その居住者がこの思想を受け入れているなら−−が自由共産主義の方向で都市自体をどのように組織できるのかを示す(中略)試みだった。』(クロポトキンの革命的パンフレット、298ページ)実際、麺麭の略取で、アナキストは『いかなる国においても、革命が一挙にアッという間に達成される(社会主義者の中には夢見ている人もいるようだが)などと信じてはいない。』(麺麭の略取、81ページ)実際に彼が強調していたのは、『これまで蔓延している誤謬の内でも、「一日限りの革命」という誤謬ほど有害なものはない。』(前掲書、81ページの脚注)つまり、革命は最初の蜂起の後に、共産主義に向かって前進すると考えているのである。

我々は、叛乱が、一日にして政府を転覆し、変革しうることを知っている。だが、革命が具体的成果に到達するためには、3年〜4年にわたる革命的動乱の時期を要する。(中略)最初の暴動から、共産主義的性質を持つ革命を期待しなければならないというのであれば、革命の可能性を放棄しなければならないであろう。この場合には、共産主義の方向への変革を実行することに大多数の人々が同意していなければならないからである。(マックス=ネットラウ著、アナキズム小史、282〜283ページに引用されたクロポトキンの言葉)

さらに、それぞれの地域は、その地域での主要な影響力に応じて、異なるスピード・異なるやり方で発展する。クロポトキンは次のように論じていた。『革命化されたコミューンに平行して、(他の)地域は、傍観的態度であり続け、個人主義システムに基づいて生活し続けるだろう。(中略)革命はいたるところで勃発するが、異なる面での革命なのである。ある国では国家社会主義、別な国では連合、といった具合に。多かれ少なかれ、いたるところで社会主義になるが、特定のルールに従うわけではないのだ。』つまり、『革命は、それぞれの欧州諸民族で別個の性格を持つことになる。富の社会化を成し遂げる地点は、全ての場所で同じではないだろう。』(麺麭の略取、81ページ〜82ページ、81ページ)このように、以下で分かると思うが、クロポトキンはバクーニンに従っていたのだ。

クロポトキンは、同時に、革命が、経済活動の崩壊・内戦・孤立といった多くの問題に直面することに気づいていた。彼は次のように論じている。『来るべき革命が(中略)大規模な産業危機の最中に勃発することは確実である。(中略)現在、欧州には数百万もの失業者がいる。革命が勃発すれば、失業情況はさらに悪くなる。(中略)欧州と米国でバリケードが作られれば、失業者の数は倍増するであろう。(中略)革命の時代には、交換と工業がこの全面的激動から最も被害を被ることは分かっている。従って、欧州での革命は、工場と仕事場の少なくとも半数を確実に閉鎖することを意味するのだ。』彼は、資本主義経済の『完全な混乱』が生じ、革命中には、『国際貿易は停止される』そして『商品と食料の流通は混乱する』と強調していた。もちろん、このことは革命の発展に対して影響力を持ち、従って、『情況が対策を決定することになるであろう。』(前掲書、69ページ〜70ページ、191ページ、79ページ)

つまり、無政府共産主義の導入は即座にではなく「革命期間中に」であり、多くの(全てではないにせよ)地域で、それぞれの地域で遭遇する「情況」に応じて、「部分的な」ものになる可能性があるのだ。十全な共産主義社会は一夜にして可能だとアナキストは考えている、という(マルクス主義に影響された)主張は、明らかに誤りなのだ−−我々は、社会革命がその始まりから発展するためには時間がかかるということを理解している。マラテスタは次のように述べている。『革命の後、つまり、既存権力の打倒と叛乱部隊の圧倒的勝利の後に、(中略)漸進主義が実際に活動を開始する。生産・交換・コミュニケーション手段・アナキスト集団とある種の権威下で生活している集団との関係・共産主義コレクティブと個人主義的様式で生活しているコレクティブとの関係・都会と田舎との関係(中略)など、生活の実際的諸問題全てを研究しなければならなくなるのだ。』(人生と思想、173ページ)

しかし、「アナキスト社会」によって、国家を廃絶し、下から社会を変化させるプロセスを開始した社会のことを意味しているのであれば、アナキストはそうした社会は革命成功後に可能だというだけでなく、必須だと主張する。つまり、アナキスト社会革命は、政治的(国家の廃絶)であり、経済的(資本主義の廃絶)であり、社会的(ヒエラルキー型社会関係の廃絶)なものとなるであろう。もっと積極的に言うならば、生の全側面への自主管理の導入なのだ。つまり、『政治的変換(中略)(そして)経済的変換は(中略)共に同時に達成されねばならない。』(バクーニン著、バクーニン入門、106ページ)この変換は、資本主義と国家に対する闘争で労働者階級の人々が創り出した諸組織に基づくことになるであろう(次のセクションを参照)。つまり、自由社会の枠組みは、自由それ自体を求めた闘争によって、ヒエラルキー社会の内部でヒエラルキー社会に反対する階級闘争によって、創り出されるのだ。この革命は「下から」生じ、国家を粉砕するだけでなく、資本を収用するのである。

革命は、最初から国家を徹底的に完全に破壊しようとしなければならない。(中略)この破壊の自然かつ必然的帰結は、(中略)(他にも色々あるが)軍隊・治安判事管轄地域・官僚制・警察・司祭職の解散、(中略)その使用者となる労働者諸協会のための、あらゆる生産資本と生産手段の没収となるであろう。(中略)全労働者諸協会の連合的同盟が(中略)コミューンとなるであろう。(ミハイル=バクーニン選集、170ページ)

お分かりだろうが、アナキストは以前から、社会革命は資本主義国家双方に対して向けられねばならない、と主張していたのだった。それ以上に、労働者評議会(つまり「ソヴィエト」)は、社会主義革命において、闘争手段として、自由社会の基礎として重要な役割を果たす、といつも強調してきたのだった。

そうした社会は、いかなる意味でも「完全な」ものとはならないだろう。バクーニンは次のように論じている。

私は、下から自由に組織された農民(と労働者)が、我々の夢を全ての点で承認しながら、奇跡のようにして理想的組織を構築するなどと述べてはいない。だが、彼等が構築するものが、生き生きとして活気に溢れ、既存の組織よりも千倍も良く公正なものとなる、ということを確信しているのである。それ以上に、この(中略)組織は革命プロパガンダに対してオープンである一方(中略)他方では、国家の介入によって硬直化されることはなく(中略)自由な実験を通じて、我々の時代に当然予期しうるほど十全に、それ自体を発展させ、それ自体を完成させるであろう。

国家の廃絶と共に、民衆生活の自発的自主組織は(中略)コミューンに回帰するだろう。それぞれのコミューンは、その文明の現実的条件を出発点とするであろう。(バクーニンのアナキズム、207ページ)

国家を廃絶した社会が自由共産主義に向けてどの程度まで進歩できるのかは、客観的諸条件に依存する。バクーニンなどの集産主義者は、革命後直ちに共産主義システムを導入する可能性を疑問視している。クロポトキンや多くの無政府共産主義者にとって、共産主義的アナーキーは、できるだけの範囲で、できるだけ早く導入でき、革命の成功を確保するためにも、できるだけの範囲で、できるだけ早く導入されなければならない。ここで述べておかねばならないが、個人主義者のようなアナキストは、革命という考えを支持せず、そのかわり、アナキスト代替案を資本主義内部で増大し、ゆっくりと資本主義に置き換わるものとして捉えている。

従って、明らかに、アナキストは「一日限りの革命」という考えを有害な誤謬だとして拒絶しているのである。我々は革命は出来事(もしくは一連の出来事)ではなく、プロセスだということを認識している。だが、国家・資本主義双方をできるだけ早く弱体化させることが不可欠だ、ということにアナキストは本当に同意する。確かに、我々アナキストは、社会革命の最中に新しい国家が構築されたり、古い国家が生き残ったりすることを止められないかもしれない。これは、民衆の中でアナキズム思想がどの程度支持されているのか、民衆がどれほど自発的にアナキスト思想を導入しようとしているのか、によって全く異なる。だが、社会叛乱が真にアナキズム的になるためには、国家と資本主義を破壊せねばならず、新しい抑圧と搾取がそれらに置き換わらないようにしなければならないのである。そうした破壊の後に、どれほど迅速に、十全な無政府共産社会に移行できるのかは、論争のポイントであり、革命が直面する諸条件と、革命を引き起こす民衆の思想と願望に依存しているのである。

言い換えれば、アナキストは、アナキスト社会を一夜にして創造できはしない、ということを承知しているのである。そのように仮定してしまうことは、アナキストが自分の思想を、影響されやすい民衆に押しつけかねない、と想像することになるのだ。リバータリアン社会主義は、下から、それを望み、理解している民衆によって、民衆自身が組織を作り民衆自身を解放することでしか創造できない。クロポトキンは次のように論じている。『共産主義組織は、万人の仕事・自然な成長・大多数の創造的才能の産物でなければならない。共産主義を上から押しつけることなどできない。万人の不断の日常的な協働が共産主義を支持していなければ、共産主義は数ヶ月と持たないであろう。共産主義は自由でなければならないのだ。』(クロポトキンの革命的パンフレット、140ページ)ロシア革命の諸結果が、「社会主義」社会をどのように創造するのかについての正反対の幻想をずっと昔に消滅させたはずである。あらゆる革命からの教訓だが、民衆が自身を解放できず、社会を変換できなかったことなど、権威者を創り出すという結果に比べれば大したことではない。権威者たちは、失敗を犯す自由を(従って自由そのものを)破壊することでそうした「イデオロギー的誤り」を抹殺する。自由こそが、社会主義を構築できる唯一の真の基盤である(『自由を通じた経験は、真実と最良の解決策にたどり着く唯一の手段である。間違う自由なくして自由などない。』マラテスタ著、人生と思想、72ページ)

大部分のアナキストはマラテスタの次の主張を支持しているのだ。『(リバータリアン)共産主義社会を大規模に組織するためには、全ての経済生活(例えば、生産・交換・消費の方法)を徹底的に変換しなければならなくなる。このこと全ては、客観的諸情況が許す範囲で、そして、どのような利益が得られるのかを大衆が理解して自分たちで行動できる範囲内で、段階的に行われる以外には達成できはしない。』(マラテスタ:人生と思想、36ページ)

つまり、自由社会に必要な諸条件は社会革命によって大まかに創造されるが、即座に全てのことが完璧になると想像するのは空想的なのである。そうしたジャンプは可能だと主張するアナキストはほとんどいない−−むしろ、諸革命が、国家と資本主義を廃絶することでアナキスト社会に向かう進化の諸条件を創り出す、と主張するのだ。アレキサンダー=バークマンは次のように論じている。『さらに、社会革命とアナーキーを混同してはならない。その幾つかの段階において、革命は暴力的動乱となる。アナーキーは自由と平和という社会的条件である。革命は、アナーキーをもたらす手段ではあるが、アナーキーそれ自体ではない。革命は、アナーキーへの道を敷き、自由な生を可能にする諸条件を確立するためのものなのだ。』だが、『その目的を達成するために、革命にアナキズムの精神と思想を染み込ませ、革命をアナキズムの精神と思想で方向付けねばならない。目的が手段を形成するのだ。(中略)社会革命は目的だけでなく手段においてもアナキズム的でなければならないのだ。』(アナキズムのABC、81ページ)

つまり、過渡期の社会の可能性を認めながらも、アナキストは過渡期の国家という概念を拒絶しているのである。これは、極度に混乱されている(そして、マルクス主義の経験から分かるように、危険なのだ)。アナキスト社会は、アナキズムの手段でのみ確立できる。だからこそ、フランスのサンジカリスト、フエルナンド=ベルティエは次のようにコメントしているのだ。

来るべき革命が(中略)純粋な無政府共産主義を実現する(中略)などと信じている人も、期待している人もいない。(中略)アナキズム教育活動が完成する前に、革命が勃発することは疑いもない。(中略)その結果(中略)我々は完全な共産主義を伝道する一方で、(リバータリアン)共産主義が未来の社会形態となることを確信も期待もしないのである。それは人の教育を促すためである。(中略)故に、大破壊がやってくるその日までに、最大限の解放を獲得するだろう。だが、過渡期の国家を必ず認めねばならないのだろうか?過渡期の国家は必然的に集産主義的(つまり、国家社会主義的・資本主義的)牢獄になるのだろうか?あらゆる政治制度を撤廃し、生産と消費の欲望にのみ限定されたリバータリアン組織となる可能性はないのだろうか?(神もなく、主人もなく、第2巻、55ページ)

ハッキリしていることが一つある。アナキズムの社会革命や大衆運動は、それを打倒しようとする国家主義者や資本主義者から防衛されねばならないだろう。あらゆる民衆運動・叛乱・革命は、現状を支持している人々からの激しい反発に直面した。アナキスト革命や大衆運動は、そうした反革命運動に直面するだろう(事実、これまでも直面してきた)。だが、だからといって、国家と資本主義の破壊を反動勢力が敗北するまで延期する(これはマルクス主義者がいつも主張していることである)必要はない。アナキストにとって、社会革命と自由社会は、反国家主義的手段でのみ防衛できるのだ。例えば、『万人を武装させ、(中略)民衆の大多数を革命の勝利に関心を持たせる』ことで。このことに関係するのが、『自主的義勇軍の創設である。義勇軍は、地域社会の生活に介入する権限を持たずに、復興しようとしている反動勢力の武装攻撃に対処したり、今だに革命状態になっていない国々からの外的介入に抵抗するのである。』(マラテスタ著、人生と思想、173ページ、166ページ)この重要な問題については、セクションI.5.14 と J.7.6 で詳しく論じられている。

さて、国家を破壊するアナキスト革命を考えた場合、革命が創り出す経済システムのタイプと性質は地元の情況と社会の意識性レベルによって異なるであろう。個人主義者が正しいのは、現在我々が行っていることが未来がどのように発展するのかを決定する、という意味でである。明らかに、「過渡期」は今ここで始まる。これが未来を決定するのだから。つまり、社会的アナキストは、資本主義を改良し尽くすことができるという考えを通常は拒絶しているが、現在の社会の中で未来社会の思想・理想・新しい解放的諸制度を構築する上で、アナキストが今日能動的になる事が必須だという事に関して、個人主義者に同意しているのである。全面革命の「栄光の日」を待つという考えをアナキストは持っていないのだ。

よって、このセクションの初めで概略した全ての立場は、その中に真実の種子を持っているのである。その理由について、マラテスタは次のように述べている。『我々は、いかなる場合であれ、社会で活動している諸力の一つでしかない。歴史は、えてして、(社会的)諸力全てを合わせる方向に前進するものなのだ。』(マラテスタ:人生と思想、109ページ)つまり、様々な地域は、そこに存在する意識レベルに応じて、それぞれのやり方で実験を行うのである−−多くの人々が創り出す自由社会で期待されているように。

究極的に、革命のタイミングと必要諸条件について我々が言いうることの大部分は次の通りである。アナキスト社会が生じるのは民衆が自身を解放したとき(これは倫理的・心理的変換を意味する)であるが、だからと言って、民衆は「完璧」である必要はない。また、個々人が身の回りの世界を作り替え変革しながら、自分自身を作り替え変換する自主活動の期間なくして、アナキスト社会が「一夜にして」出現することもないのだ。

I.2.3 アナキスト社会が創り出される枠組みはどのようなものなのか?

アナキストは自由社会と現在の社会を抽象的に比較しない。むしろ、現在と、将来あり得ることとの有機的関連を見るのである。言い換えれば、アナキスト社会の初期の枠組みが創り出されるのは、国家主義と資本主義の下で、労働者階級民衆がヒエラルキーに抵抗して自分たちを組織したときである、とアナキストは考えるのである。クロポトキンは次のように論じている。

革命を引き起こすために、(中略)(民衆)蜂起がなければならない(中略)が、それだけでは不充分である。(中略)蜂起の後に、(社会を作り上げる)諸制度という点で新しいものがなければならない。これが、新しい生の諸形態を精緻化し、確立できるようにするのである。(フランス大革命、第一巻、200ページ)

アナキストは、こうした新しい諸制度は、資本主義と国家主義の害悪に抵抗する労働者階級民衆の欲求に結びついていると見なす。言い換えれば、階級闘争と、労働者階級が国家と資本主義権威に抵抗すべく行う様々な試みとの産物だと見なすのである。従って、労働者階級がヒエラルキー社会の下で自分の自由を保護し促進する闘争が、ヒエラルキーなき社会の基盤となるのである。この基本的洞察が、バクーニンやプルードンのようなアナキストに、階級闘争における労働者評議会のような(1905年と1917年のロシア革命で発展したもののような)将来の発展を予言せしめたのだった。オスカー=アンウェイラーは、ロシアのソヴィエトに関する決定的書物の中で次のように述べていた。

プルードンの見解は、ロシア評議会と直接関連していることが多かった。(中略)バクーニンは(中略)プルードン以上に、アナキズムの諸原理を革命的行動に直接結びつけていた。その結果、革命的プロセスについての驚くべき洞察にたどり着き、ロシアで後に起こる様々な出来事の理解に貢献したのである。(中略)

1863年、プルードンは次のように宣言した。(中略)「25年以上にわたって展開した私の経済思想は全て次の言葉で要約できる:農工連合である。私の政治思想全ても同様の定式で要約できる:政治的連合、つまり、分権化である。」(中略)生産者の諸企業(つまり、協同組合の諸連合)に基づいた自治国家(原文のまま!)というプルードンの概念が、工場ソヴィエトに出現した「生産者の民主主義」という考えに関連していることは確かである。この限りにおいて、プルードンを諸評議会のイデオロギー的先駆者と見なすことができる。(中略)

バクーニンは(中略)バリケード・街路・都市の諸地区の代表者で構成される革命的諸委員会の形成を示唆していた。こうした代表者は、その委任に拘束力を伴い、大衆に対して説明責任を持ち、簡単にリコールされるとされていた。こうした革命的代理人が「バリケードの連合」を形成し、他の叛乱中心地と即座に団結して革命コミューンを組織するとされていたのである。(中略)

バクーニンは、コミューン評議会を選出するための革命委員会の形成と、下から上への自由連合を通じたピラミッド型の社会組織、工業労働者と農業労働者の同盟−−最初は地域で、次に諸地域の連合を通じて地区へ、諸地区から諸国へ、諸国から国際同胞へ−−を計画していた。こうした計画は、実際、その後のロシア評議会システムの構造に非常に良く似ているのである。(中略)

革命の自発的発展と民衆が当初の組織を創る能力に関するバクーニンの思想は、その後のソヴィエト運動に部分的に反響されていたことは疑いもない。(中略)バクーニンは(中略)社会闘争の現実に常に非常に近しかったため、革命の具体的諸側面を予言することができたのである。ロシア革命中の評議会運動は、バクーニンの理論の産物ではないものの、彼の革命的諸概念と諸予測に形態上で一致し、その方向へ発展することが多かったのである。(ソヴィエト、8ページ〜11ページ)

ポール=アヴリッチも次のように述べている。

1860年代と1870年代に、第一インターナショナルのプルードンとバクーニンの信奉者たちは、労働者評議会の形成を企図していた。評議会は、資本家に対する階級闘争の武器として、そして、将来のリバータリアン社会の構造的基礎として計画されたのだった。(ロシアのアナキスト、73ページ)

この意味で、アナーキーは遠い目標ではなく、支配・抑圧・搾取に対する現在の闘争の側面なのである(つまり、包括的な言葉で言えば、階級闘争なのだ。ただ、強調しておくが、アナキストは、支配に対するあらゆる闘争を取り上げるために、この言葉を使っているのである。)。クロポトキンは次のように論じている。『アナキズムは、遠い将来に対する単なる洞察ではない。既に今現在、個人の行動範囲がどのようなものであれ、人はアナキスト諸原理に従って行動することもできれば、それとは逆に行動することもできるのだ。』アナキズムは『民衆の中から−−現実生活の諸闘争の中から−−生まれ』そして『その起源は民衆の建設的創造的活動にある。』(クロポトキンの革命的パンフレット、75ページ、150ページ、149ページ)

つまり、『アナキズムは(中略)神聖なる霊感によって実現される未来の理論(中略)ではない。生活の出来事における生き生きとした力であり、新しい諸条件を常に創り出すのである。』アナキズムは『叛乱の魂を意味し』従って『工場における権威に対する直接行動・法律という権威に対する直接行動・道徳律という侵害的でお節介な権威に対する直接行動が、アナキズムの論理的で一貫した方法なのである。』(エマ=ゴールドマン著、アナキズムなどに関するエッセイ集、63ページ、66ページ)

アナキズムは、政治理論と自由社会ヴィジョン双方を特徴づけるために、自律的自主活動と闘争における労働者階級の自発性を頼みにしている。言い換えれば、ヒエラルキーに対する闘争が教えてくれるのは、どのようにしてアナキストになるのかだけではない。アナキスト社会がどのようなものになるのか・その初期の枠組みはどのようなものになり得るのか・そうした社会がうまく機能するために必要な自分自身の活動を管理する経験も教えてくれるのである。

従って、明らかなように、アナキストは、アナキスト社会がどのようなものになるのか、そして同じぐらい重要なことだが、そうした社会はどこから生じ得るのか、について明快なヴィジョンを以前から持っていたのである。当然、アナキストは『プロレタリア階級がその(国家の)位置に何をおくのかに関して、明確な考えを全く持っていない』(レーニンの主要著作集、358ページ)という国家と革命におけるレーニンの主張は誤りなのだ。アナキストは、レーニンがソヴィエトが「労働者の」国家の基礎となる、と主張する50年以上前から、国家を破壊する手段としての労働者評議会連合という考えを支持していたのである。

従って、このテーマに関するアナキストの見解を簡潔に纏めておくことが有用であろう。

例えば、プルードンは、フランスの労働者・職人・農民による自主活動に目を向け、それをアナキズム思想の基盤として使っていた。そうした活動は現実には原則的に改良主義だと思われるが、プルードンは、アナーキーの萌芽を、『資本と国家を包み込み打ち負かすことになる、民衆の奥深いところから、労働の深みから、もっと大きな権威から、もっと有効な事実から生じる』結果だと見なしていた。なぜなら、『権力所有者を変えたり、その何らかのバリエーションをその仕組みに導入したりしたところで役に立ちはしない:農業と工業の団結は、権力−−今日では社会の支配者−−をその奴隷とすることで、設立されねばならないのである。』(経済的矛盾のシステム、399ページと398ページ)これが数十年後に連合主義の原理の中でプルードンが呼んだ「農工連合」なのである。

彼は、既に創り出されていた相互銀行と協同組合の例に労働者は従わねばならない、と論じていた。協同組合の重要性を強調して、彼は次のように述べていた。

現時点で、キリスト教共同体がカトリック教の揺りかごの役目を果たしているように、労働者の組合を社会革命の揺りかごとして機能させてはならないのだろうか?組合は、理論的にも実践的にも常にオープンスクールではないのだろうか?組合において、労働者は富の生産と分配の科学を学び、教師も本もなく自分自身の経験によって、産業組織の法則を学ぶ。これが1789年の革命の究極的目標だったのである。(革命の一般思想、78ページ)

プルードンは、自分の考えを、労働者が既に行っていることと結びつけていた。

労働者連合は(中略)単に、互いに賃貸し合い、互いに貸し付け合うだけで、組織的労働となるということを(中略)自然に理解してきた。(中略)その結果、貸付組織と労働者組織は、全く同一のことを意味するのである。このことを述べている学校も、理論家もいない。むしろ、その証明は、現在の実践、革命的実践にあるのだ。(中略)労働者が共和国中で何らかの協定に至り、自分たちを同様の方向性に沿って組織するならば、労働の主人として、労働を通じて常に新たな資本を創り出しながら、すぐさま労働者は自分たちの組織と共闘を使って、疎外された資本を再び奪取するであろう。(中略)我々は、鉱山・運河・鉄道を民主的に組織された労働者連合に手渡すよう求める。(中略)我々はこうした連合が、農業・工業・商業のモデルとなることを求める。諸企業と諸社会の大規模連合の先駆的中核が、民主的社会共和国の粗末な着物に縫い込まれるのだ。(神もなく、主人もなく、第1巻、59ページ〜61ページ)

労働者階級の自主活動と自主組織を通じて、現在と未来をこのように関連づけることは、バクーニンにも見られる。プルードンとは異なり、バクーニンは革命的活動を強調していた。従って、彼は、戦闘的労働運動、そして革命それ自体を、自由社会の基本構造を提供するものだと見なしていたのである。バクーニンは次のように述べている。『商業諸地区と、労働会議所におけるその代表の組織とが(中略)それ自体で、旧社会に置き換わる新社会の生き生きとした種を生み出す。それらは思想を創造するだけでなく、未来それ自体の諸事実をも創り出すのである。』(バクーニンのアナキズム、255ページ)

階級闘争の必要性が、新社会、労働者評議会連合の枠組みを創り出すであろう。『ストライキは、既に、ある種の集団的強さを、労働者間のある種の理解を示している。(中略)個々のストライキが新集団形成の出発点となっているのである。』(バクーニン入門、149ページ〜150ページ)この革命前の発展は、革命それ自体によって加速するだろう。

全労働者協会の連合的同盟は(中略)コミューンを創り出す(であろう)。(中略)コミューン評議会は、全権を有しているが説明責任を持ち解任可能な為政権を与えられた(中略)代理人(中略)から構成される(だろう)。まず最初に革命の方向に再組織化することで(中略)あらゆる地方・コミューン・協会は(中略)叛乱協会・叛乱コミューン・叛乱地方の連合となる(だろう)。(中略)自衛(のために)(中略)反動を打ち破ることのできる革命軍を組織する(だろう)。(中略)あらゆるところで、革命は、民衆が創り出さねばならない。そして、最高管理は、常に、(中略)革命的代理人という手段によって下から上へと組織された(中略)農業・工業協会の自由連合に組織された民衆に属していなければならないのだ。(ミハイル=バクーニン選集、170ページ〜172ページ)

バクーニン同様、クロポトキンも、革命がそれに参画した人々を変換するということを強調していた。フランス革命に関する古典的記事の中で、彼は次のように記していた。『次第に、民衆の革命教育は革命それ自体によって達成されていった。』(前掲書、第1巻、261ページ)このプロセスの一部には、新しい諸組織の創造が含まれていた。この諸組織が、大部分の民衆を、革命の意志決定に参画できるようにしたのである。クロポトキンは、『民衆コミューン』を示し、『革命はコミューンを創造することで始まった。(中略)そして、この制度を通じて、(中略)莫大な権力を(中略)獲得した。』と主張していた。彼は、『(コミューンの)「地区」という手段によって、(中略)大衆は、全国的代表者からの命令を受けることなく行動することに慣れ、直接自治として後に描写されることを実践していたのだ。』こうしたシステムが孤立を示すことはなかった。なぜなら、『諸地区は、それ自体の独立性を維持しようと努める』一方で、『同時に、中央委員会に従うのではなく、連合的団結において、統一行動を求めていた』からである。従って、コミューンは、『地区諸組織の連合によって下から上へ作られていたのである。それは、革命的やり方で、民衆の発意から出現したのだ。』(前掲書、200ページと203ページ)

従って、階級闘争のプロセス、既存システムに対する闘争の必要性のプロセスは、アナキスト社会の枠組みを生み出すのだ−−『パリの諸地区は新しく自由な社会組織の基盤を敷いていた。』クロポトキンが、『アナキズム諸原理は、(中略)1789年に既に始まっていた。その起源は、理論的思弁にではなく、フランス大革命の行為にある。』そして、『リバータリアンは疑いもなく今日同じ事を行うであろう。』と論じていたのは驚くべき事ではないのだ(前掲書、206ページ、204ページ、206ページ)。

同様に、相互扶助論において彼は次のように論じている。ストライキと労働組合は、資本主義社会における相互扶助の表現であり、『労働者の相互支援の必要性』(相互扶助論、213ページ)の表現であった。別のところで、クロポトキンは次のように論じている。フランス革命の『諸地区』同様に『労働者連合』は、『増大する少数者の権力に対する同じ民衆抵抗』を示しながら、歴史における『主要な民衆アナキストの潮流』の一つだった(クロポトキンの革命的パンフレット、159ページ)バクーニン同様、クロポトキンにとって、リバータリアン労働組合は『資本主義との直接闘争と将来の社会秩序の組立に対する自然な機関』だったのである(ポール=アヴリッチ著、ロシアのアナキスト、81ページに引用されている)。

お分かりだろうが、主要なアナキスト思索者たちは、労働者階級が自律的に創造し管理している組織諸形態を、アナキスト社会の枠組みとして示していたのである。バクーニンとクロポトキンは労働組合を基盤とした戦闘的直接行動を指摘し、プルードンは、協同組合生産と相互クレジットにおける労働者の実験を提示したのだった。

後のアナキストは彼等に従った。アナルコサンジカリストは、バクーニンとクロポトキン同様、アナキスト社会の枠組みとなり、コミューンを構成することになる労働者諸協会の自由連合の基盤を提示するものとして、発展しつつある労働運動を示していた。マキシーモフ・アルシーノフ・ヴォーリン・マフノといったロシア人たちのような人々は、1905年と1917年に自発的に創造された労働者評議会(ソヴィエト)を、自由社会の基盤、バクーニンの労働者諸協会連合のもう一つの実例だと見なしていた。

つまり、全てのアナキストにとって、アナキスト社会の構造的枠組みは、階級闘争によって、抑圧・搾取・ヒエラルキーに抵抗する労働者階級の欲求によって創造されていたのである。クロポトキンは次のように論じている。『革命の最中、新しい生活諸形態が、古い諸形態の廃墟の上に、常に発生するだろう。(中略)未来を制定することは不可能なのだ。我々が行うことができるのは、その本質的諸傾向を漠然と憶測し、未来のために障害物を取り除くことだけなのである。』(進化と環境、101ページ〜102ページ)

実際、階級闘争の必要性がこうした本質的諸傾向を発見したのだ。資本主義(他の不良環境でそうであるように)の下で生き残るためには相互扶助と連帯を実践しなければならなかった。このことが労働者などの抑圧された集団を抑圧者や搾取者と闘うために団結させたのである。従って、リバータリアン社会主義社会に必要な協働は、その組織的枠組み同様に、資本主義下での抑圧と搾取に抵抗する必要性によって生み出されるであろう。抵抗プロセスは、組織の規模を次第に大きくする。そして、闘争の必要性が、下から上への意志決定・自立・連合主義・すぐにリコールできる代理人といったリバータリアン組織諸形態を促すに従い、その組織は自由社会の枠組みとなることができるのである。

例えば、ストライキ参加者の集会は、賃金と労働条件改善の闘争において基本的意志決定のフォーラムとなるだろう。その諸決定を実行するためにストライキ委員会を作り、ストライキを広めるために代理人を派遣するであろう。そうした代理人は、闘争を調整するための新しい組織を求めながら、他のストライキを刺激する。その結果として、あらゆるストライキの代理人が会合を持ち、連合(つまり、労働者評議会)が形成されるのである。ストライキ参加者は仕事場の占拠を決定し、ストライキ集会は生産手段を乗っ取る。ストライキ委員会は、仕事場集会(それ以前はストライキ参加者集会だった)を通じた労働者自主管理に基づいて仕事場を運営する工場委員会の基礎となる。ストライキ参加者代理人連合は、地域コミューン評議会となり、既存国家を自主管理型労働者諸協会連合で置き換えるのである。このようにして、階級闘争は自由社会の枠組みを創り出すのだ。

明らかに、このことは、アナキスト社会がどのようなものになるのかに関する示唆はいかなるものであれ、現実の闘争が自由社会の現実の枠組みを生み出す、という事実に基づいている、ということを意味する。つまり、自由社会の形態は、社会変革プロセスとそのプロセスが創り出す諸機関によって形成されるのだ。これが大切なポイントであり、繰り返し述べる価値があるのである。

闘争している民衆は、世界を変える一方で自分自身をも変えるだけでなく、自分たちが社会を管理できる手段を創り出すのである。自分たちの闘争を組織し、管理しなければならないことで、民衆は自主管理と自主活動に慣れ親しむようになり、自由社会の可能性とその内部に存在する諸組織を創り出す。つまり、アナキスト社会の枠組みは、階級闘争と革命プロセスそれ自体から生じるのだ。アナーキーは、向こう見ずなことではなく、むしろ、不自由な社会における自由を求めた闘争の自然な進行過程なのである。自由社会の輪郭はそれを創り出すプロセスによって形成される。従って、社会に押しつけられた不自然な構造にはならないだろう。むしろ、労働者階級がヒエラルキーから抜け出し始めるに連れ、社会それ自体が下から上へと作りされるのである。従って、階級闘争は、社会だけでなく闘争に参画する人々を変革し、そして、リバータリアン社会に必要な組織構造と民衆を創り出すのである。

これは次のことをハッキリと示している。アナキストが支持している諸手段は、諸目的に対して直接的にインパクトを与えるが故に、重要なのである。言い換えれば、手段が目的に影響を与え、従って、手段は求めている目的を反映せねばならず、それを行使する人々に権能を与えなければならないのだ。マラテスタの言葉を引用しよう。

経済的・政治的抑圧の破壊を志向し、民衆の道徳的・知的レベルを引き上げる手助けをし、個々人の権利と力に対する意識を与え、自分たち自身のために行動しているのだと確信させるあらゆる行動は、我々の意見では(中略)我々を目的に近づけさせ、だからこそ、良いことなのである。逆に、現状を保持し、主義の勝利を求めた意志に反して人を犠牲にしようとするあらゆる活動は、悪いのだ。それは、我々の目的の否定だからである。(人生と思想、69ページ)

現在の情況は、労働者階級の抑圧・搾取・疎外に基づいている。つまり、自由社会を求めて使われるあらゆる戦術は、そうした諸悪に抵抗し、破壊することに基づいていなければならない。アナキストが、抑圧された人々の力・自信・自立・発意・参加・自主活動を増大させる戦術と組織を強調しているのは、この理由からなのだ。セクションJ(「アナキストは何を行うのか」)で示しているように、このことは、直接行動・連帯・下から上へと構築され運営される自主管理組織を支持することを意味している。自分たち自身で創り出し運営する組織の中で、自分の闘争を闘い、自分自身と自分の能力・力を頼みにすることで初めて、社会をよりよい方向に変化させるために必要な力・自信・経験を獲得でき、そして望むらくは、現在の社会に変わる新社会を創造することができるようになるのだ。

言うまでもなく、革命運動が、最初から、純粋にアナキズム的であることなどないだろう。

これまで生じた労働者運動・農民運動の全ては、(中略)資本主義体制の制限内での運動であり、その多くはアナキズムの色合いが薄かった。これは全く自然なことであり、理解できる。労働者階級は、願望の世界の中で活動しているのではなく、現実世界で活動している。そこでは、労働者階級は敵対勢力から日常的に物理的・心理的打撃を被っているのである。(中略)労働者は、資本主義体制と中間集団(intermediate groups)の現実諸条件全ての影響を常に感じている。(中略)その結果、当然のことながら、彼等が企てる闘争は、常に、現代社会が持つ様々な条件と特徴の印を持っているのである。この闘争が、思想の要件全てに一致する完全で完璧なアナキズム形態で生まれることなどあり得ない。(中略)一般大衆が大規模な闘争を行うとき、大衆は必ず、失敗を犯すことから初め、矛盾と逸脱を許す。この闘争プロセスを通じて初めて、自分たちが求めて闘っている理想の方向に、自分たちの努力を向けるのである。(ピーター=アルシーノフ著、マフノ主義運動史、239ページ〜240ページ)

アナキストの役割は、『闘争、そして新社会の建設において、大衆が正しい道を辿ることができるように手助けすること』であり、『大衆の最初の建設的活動を支援し、知的に大衆を援助すること』である。しかし、労働者階級が『一旦、闘争を極め、社会構築を開始すると、他者に創造的作業のイニシアチブを引き渡すことなどなくなるであろう。そして、労働者階級は、自分たち自身の思考によって方向付けられるであろう。労働者階級は、自身の計画に沿ってその社会を創造するであろう。』(アルシーノフ著、前掲書、240ページ〜241ページ)アナキストができることは、運動の一部となり、その主張を論じ、アナキズム思想を民衆に説得することで、このプロセスを手助けすることだけである(詳細は、セクションJ3を参照)。このようにして、闘争と論議のプロセスが、資本主義と国家主義に対抗する闘争を、アナキズムを求めた闘争へと転化することを望んでいるのである。言い換えれば、アナキストは、あらゆる闘争に存在するアナキズム的要素を保持し、拡充しようとしているのであり、そうした闘争のメンバーとして議論と討議によって民衆を意識的にリバータリアンにする手助けをしようとしているのである。

最後に強調しておかねばならないが、これは、階級闘争が創り出す自由社会の初期の枠組みに過ぎない。アナキスト社会が発展するに連れ、我々には予測できないやり方で変化し、展開するであろう。民衆が自分の自由と、自分自身の生に及ぼす自分の管理を表現する諸形態は、必ず、こうした諸要件と欲望が変化するに連れ、変化するのである。バクーニンは次のように論じていた。

大部分の理性的で意義深い科学であっても、将来において社会生活がどのような形態を取るのか啓示できない。既存社会の厳格な批判から論理的に得られる否定的諸条件を明らかにできるだけなのだ。従って、そうした批判を用いて、社会科学と経済科学は、個人の世襲財産を拒絶し、その結果、未来の社会秩序の必要条件として集団的所有という抽象的で、いわば否定的な立場をとった。同様に、国家や国家主義、つまり、上から下への社会統治という正にその思想をも拒絶していたのだった。(中略)故に、それは逆の立場、もしくは否定的な立場を取ったのだ:アナーキーである。つまり、地域社会のあらゆる単位・部分と、下から上への自発的連合からなる自由で自立した組織である。いかなる権威(選挙で選ばれたものさえも含む)の命令に依らず、いかなる科学理論の指図にも依っていない、生それ自体が提起する様々な要求全ての自然な発達としての組織なのだ。

つまり、いかなる学者も、民衆を教育できないし、社会革命の翌日に民衆がどのように生活するのか、生活すべきなのかを独力で定義することさえもできないのである。このことは、まず第一に、民衆個々人の情況によって、第二に、民衆自身の内部で最も強く表現され、影響を与える願望によって決定されるであろう。(国家主義とアナーキー、198ページ〜199ページ)

従って、例えば、当初は、ストライキ集会(工場集会)とその評議会(委員会)の連合が生産を組織立てる枠組みとなるが、この枠組みは、生産と社会的欲望の変化を考慮しながら変わっていく。産業が社会と生産者の現実の欲望を満たすために下から上へと変換されるに従い、創造される現実の諸構造も必然的に変換される。クロポトキンは次のように論じていた。『これほどまで述べられている(さらに大規模なユニットへの資本の)集中化は、技術的プロセスを安価にするためではなく、市場を支配するために、様々な資本家が合同することに過ぎない場合が多い。』(未来の田野・工場・仕事場、154ページ)つまり、あらゆるリバータリアン社会の最初の課題は、資本主義下で発展した仕事と産業の構造・性質双方を変換することとなろう。

アナキストは以前から、資本主義の方法を社会主義の目的に使うことはできない、と主張してきた。仕事場を民主化するための闘争において、仕事の情況と経済的インフラ構造を変換するために直接生産者による集団的発意が大切だと認識する中で、我々は、工場は単なる生産現場ではなく、再生産−−命令を与える側と命令を受け取る側、そして、指図する側と実行する側との分断に基づいた社会的関係構造を再生産する−−の現場でもあるということを示している。労働者自主管理産業では、仕事、そして、生産の全構造と組織が変換される。だが、その変換方法については、現時点では推測するしかないのである。我々にできることは、一般的方向性(つまり、自主管理型、生態学的にバランスが取れている、分権型、連合的、権能を与える、創造的など)を示すことだけなのだ。

同様に、都市と町が生態調和的に統合されたコミューンへと変換されると共に、当初の地域諸集会とその連合は、我々の周辺環境が変化するするのに併せて、変化していくことになろう。それがどのように進化するのかは、我々に予測できないが、即座のリコール・代表ではなく代理人・下からの意志決定などは、存続し続けるであろう。

さて、アナキストは、自由社会の当初の枠組みとして「現在の中に未来を」見るが、そうした社会が進化し、変化することを認識している。だが、自由社会の根本諸原理が変化することはなく、だからこそ、そうした社会がそうした諸原理に基づいてどのように機能するのかを概説することは有効なのである。

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