アナキズムFAQ


I.3 アナーキーの経済構想はどのようなものになるのか?

このセクションでは、リバータリアン社会主義経済で考えられる様々な枠組みを吟味する。これは枠組みではなく、様々な枠組みだということを強調しておこう。なぜなら、いかなるアナキスト社会であっても、様々な地域で、その地域にいる人々が何を望んでいるのかに応じて、多様な経済システムが共存する見込みが高いからである。スペインのアナキスト、ディエゴ=アバド=デ=サンティリャンは、次のように論じていた。『それぞれの地方で、共産主義・集産主義・相互主義のレベルは、そこで優勢な諸条件に応じて異なるであろう。何故標準を描かねばらないのだろうか?自由を自分の旗印にしている我々が、経済における自由を否定できるわけがない。従って、自由な実験が為されるべきであり、組織の自由と同様に、発意や提案が自由に示されてしかるべきなのだ。』(革命の後に、97ページ)

総じて、ここで焦点を当てて論じるのは、四つの主要なアナキスト経済思想である:個人主義的アナキズム・相互主義・集産主義・共産主義である。どの学派が、個人の自由と豊かな生活を最大限にするのかを評価するのは読者にお任せする。もちろん、他の経済実践もあり得るだろうが、それらはリバータリアンではないだろう。マラテスタは次のように述べている。

アナキズムの基本原理−−誰も、他者を服従状態に矮小させ、無理矢理自分のために働かせる機会を望むべきでも持つべきでもない−−を認めることで、自由を尊重する生活方法、そして、個々人が生産手段への平等な権利を持ち、自身の労働の産物を十全に享受する平等な権利を持つことを認めるあらゆる生活方法が−−そうした生活方法だけが−−、アナキズムと共通点を持っているのである。(人生と思想、33ページ)

さらに、実際には、経済領域を社会領域や政治領域と分離することは不可能だということを心に留めねばならない。これらの領域は、多くの部分で、相互に関連しあっているからだ。実際、充分お分かりだろうが、バクーニンのようなアナキズム思索者は、自由社会の「政治的」諸制度は仕事場諸連合を基にすることになる、と論じ、その一方で、クロポトキンは、無政府共産主義経済・社会というそのヴィジョンの中核にコミューンをおいていた。つまり、社会形態と経済形態との区別はアナキズム理論では曖昧なのである−−社会が、経済と別個だとか、経済に対して下位のものだとか見なされてはいないし、そのように見なすことはできない以上、曖昧であるべきなのだ。アナキスト社会は、社会と経済を統合しようとする。経済的活動に関連した有害な外的影響(externalities)が社会に押しつけられることを止めるべく、経済を社会に埋め込むのである。カール=ポランニーは次のように論じている。資本主義は、『市場への付属物としての社会運営を意味しているに過ぎない。社会的諸関係に埋め込まれた経済ではなく、社会的諸関係が経済システムに埋め込まれているのである。』(大転換、57ページ)こうしたシステムを考えれば、アナキストがそれをひっくり返そうとしても不思議ではないのだ。

同様に、経済を最初に論じるからといって、全支配システムが持つ他の諸側面−−例えば、社会的ヒエラルキー・家父長的価値観・人種差別など−−を扱うことよりも、経済的支配や搾取を扱うことが重要だと示しているのではない。一度に一つのことを示さねばならないため、この順序で提示するだけのことである。アナーキーの社会的・政治的構造から議論を始めたとしても、同じぐらい容易い。だが、経済における経済的変換は社会革命の本質的一側面である、と論じている点で、ルドルフ=ロッカーは正しい。彼の言葉を引用しよう。

この方向(つまり、国家なき社会)への社会発展は、既存経済システムの根本的革命なしには不可能である。専制と搾取は同じ木に生えており、不可分なほど結びついているからだ。万人の経済的・社会的幸福を基礎として初めて、個人の自由は確保される。(中略)個人の人格は、地域社会に深く根ざせば根ざすほど、より崇高なものになる。人格が持つ道徳的長所の最も豊潤な源泉は、地域社会から生じる。自由の中でのみ、自分の行動に対する責任と他者の権利の尊重の意識が人間に生じる。自由の中でのみ、最も尊い社会的本能−−人間が仲間の喜びと悲しみに対して感じる共感性・その結果としての相互扶助に向かう衝動・それらが根元に持っているあらゆる社会的倫理、社会的正義に関するあらゆる思想−−が十全に展開できるのだ。(国粋主義と文化、147ページ〜148ページ)

全てのアナキスト社会の目的は、自由を、そして創造的仕事を最大のものにすることである。ノーム=チョムスキーを引用しよう:

創造的仕事や創造的探求の欲求、強制的諸制度による独断的で制限的な影響のない自由な創造の欲求は人間性の根本的要素である。これが真実であるならば−−そして、私はこれが真実だと信じているが−−、まともな社会はこの人間の根本的特徴が実現される可能性を最大のものにしなければならない、ということになる。さて、社会的諸制度だけでなく経済的諸制度をも組み込んだ自由な諸協会からなる連合的分権的システムこそ、私がアナルコサンジカリズムと呼んでいることである。そこでは、人間は、道具の立場、機械の歯車の立場を無理矢理押しつけられることはない。私はこれこそが先進技術社会に適切な社会組織形態だと思っている。

従って、お分かりだろうが、アナキズムの神髄がヒエラルキー型権威に対する敵対である以上、アナキストは、現行経済が組織されているやり方に真っ向から敵対するのだ。なぜなら、経済領域における権威は、中央集権的でヒエラルキー型の仕事場に編み込まれ、その仕事場は、私的に所有された生産手段に対する独裁統制をエリート階級(資本家)に与えて、大多数の人々を御用聞き(つまり、賃金奴隷)にしているからだ。逆に、リバータリアン社会主義「経済」は、分権型の平等主義的仕事場(「シンジケート」)に基づく。そこでは、労働者は、社会的に所有された生産手段を民主的に自主管理するのである。シンジケートの概念から考察を始めてみよう。

リバータリアン社会主義の鍵となる諸原理は、分権化・直接民主主義による自主管理・自主的同盟・連合である。こうした諸原理が、経済システム・政治システム双方の形態と機能を決定する。このセクションでは、経済システムについてのみ考察する。バクーニンは、次のように書き、そうした経済について優れた概要を示した。

土地は自分の手で耕す者にのみ属している。つまり、農業コミューンだ。資本と全ての生産手段は労働者に属している。労働者諸協会である。(中略)未来の政治組織は、労働者の自由連合でなければならない。(バクーニンのアナキズム、247ページ)

リバータリアン社会主義者の基本的経済概念は、労働者自主管理(労働者管理と呼ばれることもある)である。これは次のことを確実なものとするために必須なのだ。『平等者の社会。平等者とは、自分の手と脳を、自分を雇用してくれた人々に無理矢理売り渡すことのない(中略)だが、全ての個人の発意に対して十全で自由な領域を残しつつ、万人に対する最大限可能な福祉を生み出すあらゆる活動を組み合わせるように構築された有機的組織体の中で、自分の知識と能力を生産に応用できる人々の社会である。』(クロポトキン著、クロポトキン選集、113ページ〜114ページ)

だが、自主管理という概念には注意深い解説が必要である。というのも、「アナキスト」や「リバータリアン」という言葉同様に、「労働者管理」も資本主義者に吸収され、賃金奴隷(つまり、資本家の所有権・権力・最終的管理権)を維持しつつ、仕事場をどのように運営するのかについて労働者がもっと発言の機会を持つ、という枠組みで述べられているからだ。言うまでもなく、本物の力を労働者の手中に置かないのだから、こうした枠組みはいかさまである。結局、所有者と経営者が最終決定権を持ち(従って、ヒエラルキーが保持され)るのだ。もちろん、利益は仕事場から搾り取られ続けるのである。

アナキストが労働者自主管理という言葉を使うとき、生産と分配の全側面を労働者が集団的に所有し、制御し、自主管理することを意味する。これは、農業と工業双方において、参加型の民主的労働者集会・評議会・連合を通じて達成される。それまでならば、資本主義的所有者・経営者・エグゼクティブ・投資家が行っていた全ての機能を、こうした集団が行うのである。それらの諸機能が実際に関係しているのは生産活動なのであって、少数者に対して利益と権力を最大にする必要性ではないのだ。仕事場集会は、民衆の金融諸機関やシンジケート連合によって補われる。それまでは、これら全ての機能を行うのは、投資資金や資源という観点から、資本主義的所有者・経営者・投資家のためにとっておかれていたのである。

つまり、アナキスト社会は生産手段の「労働者所有」に基づくのだ。

最も限定された意味で、「労働者所有」は、単に、個々の企業を労働者が所有することを意味する。そうした企業では、剰余(利益)は、協同組合の正規メンバー全員に平等に分配されるか、もしくは、成し遂げた仕事の種類に応じて不平等に分配される。後者の場合、それぞれのタイプの仕事に何パーセント割り当てるかは、一人一票の原則に則った民主的投票で決定される。だが、大部分のアナキストは、労働者所有をこのように限定的に捕らえることを拒否している。社会的アナキストは、これは正しい方向に向かう一ステップに過ぎず、究極の目標は、全生活手段の社会的所有だと主張する。その理由は、その労働者だけが所有している企業(現代の協同組合のように)には限界があるからだ。

この種の労働者協同組合には、確かに、資本による労働者の搾取と抑圧を防ぐという長所がある。労働者は賃金のために雇われているのではなく、事実上、企業の共同経営者になるからだ。つまり、労働者が管理するのは、自分の労働の産物(その結果、自分が生み出す付加価値商品が、特権を持ったエリートに着服されないのである)と労働プロセスそれ自体(その結果、自分の自由を他者に売り渡すことがなくなるのだ)の双方なのだ。だが、だからといって、労働者所有が単に個々の企業に限定されているのであれば、あらゆる経済支配・搾取が取り除かれるわけではない。実際、大部分の社会的アナキストは、この種のシステムはある種の「プチブルジョア協同組合主義」へと変質するだろう、と信じている。このシステムでは、労働者所有企業が集団的「資本家」として活動し、本物の資本家がそれまで行ってきたのと同じぐらい激烈に市場でお互いに競争し合うであろう。同時に、このことは、市場要因のために、参画している労働者が、市場で生き残るべく非合理的決定を確実に下すことになるような情況を導くであろう。こうした諸問題については、セクションI.1.3(「市場の何が悪いのだろうか?」)で強調したため、ここで繰り返すことはしない。

個人主義アナキストにとって、この「合理性の非合理性」は、自由市場が支払うべき代価なのであり、この問題を克服しようという試みは、自由に対する莫大な危険をはらむことになる。社会的アナキストはこれに異議を唱える。仕事場間の協働は自由を増大させるのであって、現象佐瀬はしない、と考えるのである。社会的アナキストが企図する解決策は、大部分の生産・分配手段を社会規模で所有することである。これは、自発的連合というアナキズム原理に基づき、二つのレベルで−−一つ目は、特定産業における全企業間で、そして、二つ目は社会全体の全産業・農業シンジケート・民衆金融諸機関の間で−−連邦諸機関もしくは調整諸評議会を持つ。バークマンは次のように述べている。

(無政府共産主義においては)実際の使用だけが、資格を−−所有に対してではなく、占有に対して−−持っていると見なされるだろう。例えば、炭坑夫の組織は、所有者としてではなく運営機関としてその炭坑に責任を持つのである。同様に、鉄道同胞団は鉄道を運営するのである。地域社会の利益のために協働で管理される集団占有が、利益のために私的に行われる個人所有に代わるであろう。(アナキズムのABC、69ページ)

多くのアナルコサンジカリストはこの構造を充分だと考えているが、大部分の無政府共産主義者は、経済的連合は全体としての社会に対して説明責任を持たねばならない、と考えている(つまり、経済は全住民で共有されねばならないのだ)。というのも、社会にいる全ての人が労働者ではなく(例えば、少年・老人・病弱者)、誰もがシンジケートに属しているわけでもない(例えば、自営業)が、なおも、経済的諸決定の諸結果を受け入れねばならない以上、何が生じるのかについて発言の機会を持たねばならないからである。つまり、無政府共産主義においては、労働者は自分の仕事と仕事場について日常的決定を行うが、その決定の背後にある社会基準は全ての人が作り出すのである。

この種の経済システムでは、労働者集会と評議会が焦点となるだろう。そこでは、個々の仕事場について政策が形成され、全ての人が意志決定に参加する全労働力の全体ミーティングを通じて、産業規模・経済規模の諸問題が討議されるのである。評議会での投票は、直接投票となり、それ故に、より大きな連邦機関での投票は、暫定的で・無給で・委任された・簡単にリコール可能な代理人が行うことになろう。この代理人は、その委任が履行されるとすぐさま通常の労働者の立場に戻るのである。

ここでの「委任された」とは次のことを意味する。様々な労働者集会と評議会からの代理人は、より高次の連邦機関ミーティングに出席するが、あらゆる連邦レベルにおいて、問題にどのように対処するのかに関して、自分を選んだ労働者によって指示されるのである。代理人は、自分が行動しなければならない政策範囲に自分を拘束する厳然たる委任(拘束力を持った指示)を与えられ、リコール可能で、与えられた命令を実行できなかったときはいつでも自分の決定を取り消されるのである(委任された代理人に対するこうした支持は、少なくとも1848年にプルードンが次のように論じたとき以来アナキズム理論に存在している。『民衆が(中略)自身の主権を破棄(中略)しない』ことを保証することが、『普通選挙の帰結』だったのだ。(神もなく、主人もなく、第1巻、63ページ))。代理人を委任し、リコーする権利の故に、労働者評議会は、あらゆる高次レベルの連邦的経済調整政策の源泉となり、最終権限になるであろう。

この種の社会規模の経済連合は、国有・国営産業という概念におけるような中央集権型国家機構とは全く異なっている。エマ=ゴールドマンは、社会化と国有化は全く異なる、と論じていた。『共産主義の第一要件は、土地・生産機械・分配機構の社会化である。社会化された土地と機械類は民衆に所有され、個々人や諸集団がその欲望に応じて決定を下し、使用される。』逆に、国有化とは、資源が『国家に所有される。つまり、政府が資源を管理し、政府の願望と見解に応じて資源が処分される可能性があるのだ。』彼女は次のように強調していた。『ある物が社会化されると、全ての個人はその物に自由にアクセスでき、他者からの何の干渉もなしにそれを使用できる。』国有財産の場合、『そうした情況は、国家資本主義と呼ぶことができるだろうが、いかなる意味においてもそれを共産主義的だと考えるのは異様なのだ。』(赤のエマ語る、360ページ〜361ページ)

明らかに、アナキスト社会は自由利用権(free access)に基づくもので、資源は、それを利用する人々によって管理される。分権化され、参加型民主主義的(自主管理型)組織であり、そのメンバーはいつでも脱退でき、あらゆる権力と発意は草の根レベルから生じ、草の根レベルへと帰っていく(社会的所有が実際にどのように機能するのかに関する議論は、セクションI.6を参照)。アナキストは、国有財産は資本主義の終焉を意味するというレーニン主義の考えを、単純主義的であり混乱しているとして拒絶する。所有は司法上の関係である。真の問題は管理なのだ。資源の利用者がそれを管理しているのだろうか?そうならば、本物の(つまり、リバータリアン)社会主義社会を有していることになる。そうでなければ、ある種の階級社会を有していることになる(例えば、ソヴィエト連邦では、国家が資本家階級に置き換わったが、労働者はなおも自分の労働や労働の産物を公式的に管理できなかったのである)。

社会的アナキスト社会は、自由同盟・連合主義・自主管理をコミューン所有と結合させる。自由な労働がその根幹であり、社会化はそれを補完し保護するために存在するのである。

いかなるアナーキーが望まれようとも、アナキストは、皆、分権化・自由合意・自由同盟の重要性に同意する。クロポトキンは、アナーキーがどのようなものになるのかを要約し、アナキストがどのような社会を望んでいるのかについて優れた手がかりを与えている。

そうした社会における調和は、法律への服従や権威への服従ではなく、生産と消費のために、そして同時に文明化した存在が持つ無限で多様な欲望と熱望を満足させるために、自由に創られた様々な集団−−地域的・職業的な−−間で結論に到達した自由合意によって得られる。

こうした方向性に発展した社会においては、(中略)自発的同盟は(中略)一つの織り合わされたネットワークとなるであろう。それは、無限で多様な諸集団と諸連合−−あらゆる規模・あらゆる程度の、限定地域的・地方的・全国的・国際的な、一時的・多少とも永続的な−−からなり、あらゆる目的についてのものとなるだろう。その目的には、生産・消費・交換、通信、衛生設備、教育、相互保護(mutual protection)、地域防衛などがあり、その一方で、永続的に増大する科学的・芸術的・文芸的・社交的に欲望の満足も含まれる。

それ以上に、そうした社会は普遍のものなど示さないであろう。逆に−−概して有機的生活で見られるように−−調和は(それが強く主張されているのだが)、様々な力と様々な影響力との均衡の永続的に変化する調整と再調整から生じる。そして、国家からの特別な保護を享受している勢力が存在しなければ、この調整は容易く行われうるのである。(クロポトキンの革命的パンフレット、284ページ)

この種のシステムが「ユートピアン」に聞こえるのなら、1936年のスペイン革命中、当時進行中の市民戦争と共和党・スターリン主義・ファシストによる革命鎮圧の執拗な努力(結局これが成功したわけだが)が提示した莫大な障害にも関わらず、組織された集産主義経済で現実に実施され、非常にうまく機能していた、ということを肝に銘じねばならない(サム=ドルゴフ著、アナキストのコレクティブ:1936年〜1939年のスペイン革命における労働者自主管理において優れた紹介がなされている)。

この(そして他のものもあるが)「アナーキーの実行」の実例だけでなく、他種のリバータリアン社会主義経済システムも文書に書かれている。それら全てが、我々がここで論じ、セクションI.4においても論じている労働者自主管理・協働といった共通の特徴を持っている。そうした文書を挙げれば、トム=ブラウン著、サンジカリズム、G=P=マキシーモフ著、アナルコサンジカリズムのプログラム、G=D=H=コール著、ギルド社会主義再考、ディエゴ=アバド=デ=サンティリャン著、革命の後に、アブラハム=ギレン著、アナキズムの経済リバータリアン経済の諸原理、コーネリアス=カストリアディス著、労働者評議会と自主管理社会の経済などがある。スペインのアナキストによる自由社会に関する概略は、ロバート=アレクサンダー著、スペイン市民戦争におけるアナキスト(第1巻)の第3章に見ることができる。同様に、マイケル=アルバートとロビン=ハーネル著、参加型経済の政治経済学将来を考える:21世紀に向けた参加型経済も有用な考えを含んでいる。

小説による解説としては、ウィリアム=モリスのユートピア便り、アーシュラ=ル=グイン著所有せざるものたち、マージ=ピアーシィ著時代の間際にいる女性たち、スティーヴン=カレン著最後の資本家がある。

I.3.1 「シンジケート」とは何か?

「シンジケート」という言葉(「生産者協同組合」もしくは、縮めて「協同組合」と呼ばれることが多く、「コレクティブ」・「生産者コミューン」・「生産者協会」・「ギルド工場」・「ギルド職場」と呼ばれることもある)を我々が使う場合、それは、民主主義的に自主管理された生産事業のことである。その生産的資産は、その労働者もしくは全体としての社会に所有される。「シンジケート」は、アナキストが意図する情況を記述するのに有用な総称的言葉である。その情況では、『耕作に従事していたり、工場で働いていたり、鉱山で働いていたりする男女の様々な結社それ自体が、生産経営者となる』のである。(ピョトール=クロポトキン著、進化と環境、78ページ)

シンジケートに参加したくない人たちも、自力で働くことができるということを記しておくことが大切であろう。リバータリアン社会主義の形態がいかなるものであろうとも、その下での「強制的集産化」などあり得ない。なぜなら、人々に強制することは、アナキズムの基本原理と相容れないからだ。自営したいと思っている人々は、必要な生産的資産を自由に利用できる。ただし、自分の家族が単独で使用できる以上の資産を独占しようとしたり、他者を賃金で雇おうとしたりしない限りにおいて(セクションI.3.7を参照)。

色々な意味で、シンジケートは資本主義下の協同組合と似ている。実際、バクーニンは次のように論じていた。アナキストは『あらゆる労働部門・科学部門において、協同組合が未来の優勢な社会組織形態となる、と確信して』いる。(バクーニン入門、153ページ)従って、資本主義市場において協同組合は限定的にしか機能していないが、そこからでさえも、リバータリアン社会主義経済の本質的諸特徴を見ることができるのである。基本的な経済要素、つまり仕事場は、個々人の自由連合となり、個々人は自分たちの協同作業を協働的に組織するであろう。バクーニンを再度引用しよう。『協同労働、つまり、互恵主義と協働という原理に基づいて組織される労働だけが、(中略)文明社会を(中略)維持するという課題に適している。』(バクーニンの政治哲学、341ページ)

この文脈で「協働」が意味しているのは、自分たちの協会(association)に関連する政策を「一人一票」の原理に基づいて決定し、そして、「マネージャー」などの経営スタッフは投票で選出され、仕事場全体に対して説明責任を有する、ということである。仕事場自主管理は、多くの資本主義擁護者が示しているような、知識と技能を無視し、あらゆる決定を全員で行う、などという意味ではない。これは明らかな誤謬である。例えば、エンジニアは、エンジニアではない人々よりも自分の仕事について充分理解しているのだから、労働者自主管理では、エンジニアは自分の仕事を直接管理することになるだろう。G=D=H=コールは次のように論じている。

我々は、ギルド民主主義がどこに存しているのか、特に、一つのギルドにいる労働者の様々な階級の関係にギルド民主主義がどのように影響を与えているのか、ハッキリと理解しなければならない。なぜなら、ギルドに肉体労働者も精神労働者もあらゆる労働者がいて共益サービスに従事する以上、そのメンバーの中で機能・技術的技能・職務権限の相違が非常に幅広くあることは明らかだからである。全体としてのギルドもギルド工場も、大衆投票という方便によって全ての懸案を決定できるなどあり得ず、ギルド民主主義が、全ての問題について、メンバー個々人が一票として考慮され、一票しか持たないと見なされる、ということを意味するなどあり得ない。少数の専門家だけに理解される技術的問題について大衆投票を行うなど、明らかにバカげている。技術の要素が説明されないとしても、一貫した大衆投票によって運営される工場は効率が悪く、楽しく仕事ができる場所でもないであろう。ギルドには、その知識の故に特別な立場につく技術者がいることになり、技能・能力・個人的資質の故に特別な権限を保持する行政官もいることになるだろう。(G=D=H=コール著、ギルド社会主義再論、50ページ〜51ページ)

ある種の意志決定はこの種のやり方で委託されてきたという事実は、シンジケートは別種のヒエラルキーに過ぎなくなるのではないか、という疑問を引き起こす場合がある。この疑問に回答しよう。どのような種類の意志決定を委託するのかを決定するのは、全ての労働者にオープンな労働者集会と労働者評議会であり、それが究極の権力は大衆にあることを保証するため、シンジケートはヒエラルキー型ではない。それ以上に、権力は委託されないであろう。マラテスタは、行政上の決定と政策決定との違いを以下のように明示している。

もちろん、大規模な集団的事業全てにおいて、労働・技術管理・経営などの分業は必要である。だが、権威主義者は、労働の組織に本当に必要なことを材料にして、政府の存在理由を生み出すべく、ぎこちなく言葉遊びをする。何度も繰り返すが、政府は、法律を作り、民衆を服従するよう義務づける権利と手段を持った−−もしくは掌握した−−個々人の集合である。逆に、経営者やエンジニアなどは、特定の仕事などを行う責任を定められた−−その責任を担った−−人々である。政府は、権力の委託を意味する。万人が持つ発意と主権を少数者の手に破棄することなのだ。経営管理は、仕事の委託である。つまり、自由合意に基づいたサービスの自由交換、職務の授受である。(中略)政府の機能を経営管理の機能と混同しないようにしよう。それらは本質的に異なっており、今日、これら二つが混同されていることが多いとすれば、ひとえに経済的・政治的特権のためなのである。(アナーキー、39ページ〜40ページ)

権力が仕事場集会の手に残り続けると仮定すれば、全ての集団的事業に必要な組織を政府と同一視することはできないことは明らかである。同様に、管理スタッフは選挙で選ばれ、協会の残りの人々に対して説明責任を持つことも忘れてはならない。例えば、代理人がある種の意志決定活動を乱用していることが発覚した場合、仕事場全体がそれを無効にできるのである。この草の根コントロールのおかげで、権力の源泉になりかねない(従って、全労働者の生活に重大な影響を与える可能性を持っている)重要な意志決定活動が代理人によって行われずに、労働者集会が行い続ける、と考えることができる。現在は、資本主義の下、例えば、雇用したり解雇したり、新しい生産方法やテクノロジーを導入したり、生産ラインを変化したり、生産設備を移転させたり、生産活動の性質・ペース・リズムを決定したりといったような権威主義的やり方で経営者が権力を行使している。だが、シンジケートにおいて、この権力は関連生産者の手にあり続け、他の人に委譲されることはないであろう。

新しいシンジケートは、地域社会にいる諸個人の発意の上に創造される。生産拡張を望んでいる既存シンジケートの労働者や、現行シンジケートが特定の生活領域について適切に提供していないと考えている地元地域のメンバーも発意を示すであろう。いずれにせよ、シンジケートは、有用な製品やサービスを生み出す自発的協会となり、必要に応じて出現し、消滅するであろう。従って、アナキスト社会は、個々人が自分の欲望を満たすために、地域的・連邦的イニシアチブを取りながら自由に連合するときに、シンジケートが自発的に発展するのを見ることになるのである(投資決定の基準については、セクションI.4.8を参照)。

シンジケートに入るにはどうすればよいのだろうか?コールの言葉を借りれば、労働者シンジケートは『いかなる人であっても参加できるオープンな協会』だが、『もちろん、だからといって、誰もが、絶対的権利のようにして、自分が選んだギルドへの加盟許可を主張することができる、などという意味ではない。』(前掲書、75ページ)つまり、必要な訓練(例えばの話だが)があるかもしれないし、次のことは明白なのである。『そのギルド(つまり、シンジケート)が新しい仲間を必要としていないのならば、明らかに、誰も加入することなどできない。(労働者は)自由に選択ができるが、それは入手できる選択肢の中だけのことである。』(前掲書)明らかに、いかなる社会であろうとも、個人は、自分が最も関心を持っている仕事を行い続けることはできないだろう(だが、アナキスト社会の性質を考えれば、個々人は、その仕事を趣味として追求する自由時間を持つことにはなるだろう)。しかし、アナキスト社会が仕事を平等に分配することに関心を持つことになる以上、特定の職場が人気のあるものであれば、ワークシェアリングを準備しようとするであろう。

もちろん、シンジケートやギルドが、潜在的動機によって加入を制限しようとする危険もあろう。この潜在的動機には、もちろん、社会の他のグループに対する独占権力の搾取がある。だが、アナキスト社会では、個々人が自分自身のシンジケートを形成することができ、このことで、そうした活動が自滅的なものになることを確実にしているのである。さらに、非相互主義アナキズムのシステムでは、シンジケートは連邦の一部になる(セクションI.3.4を参照)。会員資格とシンジケートでの雇用とが反社会的やり方で制限されないことを保証する、これがシンジケート間会議の責任なのだ。一人の個人や個々人の集団が、シンジケートから不当に排除されたと感じた場合、この訴えに関する調査が会議で準備されることになる。このようにして、加入を制限しようという試みは減じられる(そもそも加入制限が生じると仮定してのことだが)。もちろん、個々人は、望むならば、新しいシンジケートを形成したり、連邦を離脱することができるのである(アナキスト社会において、誰が不快な仕事を行うのかという問題と、仕事の割り当て一般については、セクションI.4.13を参照)。

まとめよう。シンジケートは、自分自身の仕事場と仕事を管理している労働者の自発的協会である。シンジケート内部では、仕事をどのように発展させ、変化させるのかに影響を与える決定は、そこで働いている人々の手に委ねられる。さらにこのことが意味しているのは、労働力の個々の部門がその活動と部門を管理し、経営職務(つまり、「マネージメント」)の地位にある全ての労働者は選挙で選ばれ、その決定に影響を受ける人々によってリコールの対象となるのである(労働者自主管理については、セクションI.3.2「労働者自主管理とは何か?」で詳述する)。

I.3.2 労働者自主管理とは何か?

非常に簡単に言えば、労働者自主管理(「労働者管理」と呼ばれることもある)とは、ある意志決定に影響される労働者全員が、「一人一票」の原理に基づいて、その決定に平等な発言権を持つ、ということを意味している。つまり、労働者が『産業の真の経営者とならねばならない』のだ(ピョトール=クロポトキン著、未来の田園・工場・仕事場、157ページ)だが、前に記したように、「労働者管理」という言葉を使うときには注意が必要である。というのも、この概念は、現在、支配エリートに吸収されているからだ。つまり、この言葉は社会学者・工場経営者・社民主義組合指導者たちの中で流行するようになっており、その結果、アナキスト(この言葉を創造した)が意図していた意味とは全く異なる意味を持つようになっているからである。

現在、資本家の手の中で、「労働者管理」は、「参加」「民主化」「労働者の経営参加」「コンセンサス」「エンパワーメント」「日本型経営」といった言葉で示されている。サム=ドルゴフは次のように述べている。『先進産業資本主義の仕事場で倦怠と疎外という新しい問題を解決する役割を担っている人々にとって、労働者管理は有望な解決策だと思われている。(中略)労働者が少量の影響力を発揮できるようにし、厳密に限定された意志決定権限領域を与え、仕事場の諸条件を管理する上でせいぜい二次的な発言権を与えるという解決策なのである。資本家に認められた限定的な労働者管理など、労働者の中で増大している非経済的要求に答えるといった程度なのだ。』(アナキスト=コレクティブ、81ページの「労働者管理」)

「QCサークル」−−自社製品を改善し、生産するときの効率性を上げるやり方について労働者が自分の考えを寄与するように促される会議−−という経営上の新しい流行は、資本主義者が着想している「労働者管理」の一例である。しかし、どのような製品を作るのか・どこでその製品を作るのか・(特に)売り上げの収益を労働者と投資家との間でどのように分配するべきかという問題になると、資本家と経営者は労働者の「インプット」を求めることもなければ、それに耳を貸すこともない。「民主化」「エンパワーメント」「参加」などそんなものなのだ!現実には、資本主義的「労働者管理」とは、単に、労働者を、自分の搾取にもっと意欲的で「協働的な」パートナーにする狡猾な試みに過ぎないのである。

だから、我々は「労働者自主管理」という言葉を好む−−この概念は、集産化と連合を通じて労働者の力を行使することを意味している(以下を参照)。この意味で自主管理は『労働者と資本家ボスとの新しい調停形態などではない。逆に、労働者自身が経営者を打倒し、自分たち自身の管理と仕事場での生産管理を手に入れる正にそのプロセスなのだ。自主管理は、全労働者を(中略)労働者評議会や工場委員会(もしくは農業シンジケート)へ(中略)組織することであり、(中略)所有者と経営者がそれまで行っていた意志決定全てを行うことを意味するのである。』(ドルゴフ著、前掲書、81ページ)このように、労働者自主管理は『私的所有から集産的所有への移行』を意味しており、従って、『労働コミュニティのメンバー間に新しい関係が必要となる。』(アベル=パス著、スペイン市民戦争、55ページ)自主管理は、仕事場におけるヒエラルキーと権威主義的社会関係の終焉、そして、それらが自由合意・共同的意志決定・直接民主主義・社会的平等・リバータリアン社会関係に置き換わることを意味するのである。

労働者自主管理は、全ての工業シンジケート・農業シンジケートにおいて定期的に開かれる全労働者の様々な全体会議に基礎をおく。全体会議は、他のシンジケートとの関係だけでなく仕事場内部の政策にも影響を与える諸事項を決定する源泉であり、その最終権限である。全体会議は仕事場評議会を選定する。仕事場評議会は、こうした集会の決定を実行し、突発的に浮上する日常的な運営決定を行う。評議会は、仕事場に対して直接の説明責任を持ち、評議会メンバーは再選挙と即時のリコールの対象になる。評議会メンバーは、シンジケートの全メンバーの持ち回りとなる。そうすることで、運営上の立場を独占する人が確実にいなくなる。さらに、情況によっては、もっと小さな諸評議会と諸集会が、部門・課・作業チーム毎に編成されるかも知れない。

このようにして、労働者が、自由で平等な個々人として、自分たちの集団的作業を共に管理することになる。労働者は、自分自身の上にある権威に服従することなく、協働するために結合する。その集団的決定は、自分たちの管理下・権力下にあり続ける。つまり、自主管理は、『各人が自分の自由を十全に享受できるようにすることで、これまで権利として押しつけられていたこうした影響力なしに、いかなる政治的制度であろうとどのようなものであろうとも頼みにせずに、自分が持っている知的・道徳的性質の自然な影響力以外のいかなるやり方でも、誰も他人を超越することもできず、他人を支配できなくするように構成された組織』(バクーニンの政治哲学、271ページ)なのである。仲間に自分の考えの正しさを確信させることによってのみ、その考えが、シンジケートが合意した計画となる。誰も、単に自分の立場や自分が行っている仕事を理由に、自分の考えを押しつける立場にはいないのである。

労働者と集会が細々としたことにかかずらわれずに重要な活動に集中できるようにするためには、このようなやり方で選挙で選ばれた個々人に純粋に運営上の課題と決定を委託するのが妥当だ。これが大部分のアナキストの考えである。バクーニンは以下のように述べている。

管理上の仕事は、肉体労働ほどは生産に必要ではないのだろうか−−逆に、肉体労働以上に必要なのだろうか?もちろん、効率のよい知的管理なくしては、生産は、全く止まってしまうことはないとしても、深刻な欠陥を抱えることになろう。だが、基本的正義という観点から、また、効率という観点からさえも、生産管理は一人の個人や数人の個々人が排他的に独占してはならないのだ。経営者は、より多くの給料をもらう権利など持ってはいないのだ。協同組合労働者協会は、労働者自身が、自分の階層から管理者を選び、同じ給料をもらうようにすることで、産業を効率的に管理運営できることを証明してきた。管理の独占は、生産効率を促すことからはほど遠く、全く逆に、所有者と経営者の権力・特権を助長するだけなのである。(バクーニンのアナキズム、424ページ)

どの政策や運営を重要だと見なすか些末だとか見なすかは、その決定事項に影響される人々次第なのであり、そうした人々の継続的承認の対象となる。これが重要なのだ。アナキストは、直接民主主義を盲目的に崇拝しているわけではない。会議や投票よりももっと大切なことが人生にはある、と認識しているのだ!労働者集会は自主管理において鍵となる役割を演じるが、あらゆる決定の中心ではない。むしろ、労働者集会は、全ての重要な政策を決定し、運営上の決定を批准したり却下したりし、重大な決定だと見なされることを判断する場なのである。言うまでもなく、重要な問題だと見なされることを、労働者自身が自分たちの集会において決定することになるのである。

自主管理型仕事場は、一般的な自主管理型社会と同様に、専門知識(それが有意義な場で)を無視するとか、考慮しないといったことを意味してはいない。全く逆である。専門家(つまり、一定領域の仕事に興味を持ち、その仕事を広範囲にわたって理解している労働者)は、他の労働者同様に仕事場集会の一部である。他の人々と同じように、専門家にも耳を傾けることができるし、耳を傾けねばならない。そして、その専門的アドバイスを意志決定プロセスに含めねばならないのである。アナキストは、専門知識という考えを拒絶してもいなければ、それに関連する合理的権威を拒絶してもいない。セクションB.1 で示したように、アナキストは、一人の権威者(つまり、一定の主題について知識を持っていること)であることと、権威を持つこと(つまり、他人に対して権力を持つこと)との違いを認識している。我々は、後者を拒絶し、前者を尊重するのだ。

だとすれば、私は全ての権威を拒絶しているというのだろうか?そんな考えからはほど遠い。ブーツに関しては靴屋の権威を参考にする。家・運河・鉄道に関しては、建築家やエンジニアの権威を参考にする。これこれこういう専門知識については、これこれこういう学者に問い合わせる。だが、靴屋であれ建築家であれ学者であれ、その権威を私に押しつけてくるのは願い下げだ。私は、彼等の言うことを自由に、その知性・人格・知識に値するだけの尊敬の念を持って聞く。ただし、批判と非難という議論の余地のない私の権利は常に留保させてもらう。(中略)専門家の権威の前に頭を垂れ、ある程度まで必要だと思われるまで、その指示とその命令にさえも従う用意があると私が公言するとすれば、それは、誰もその権威を押しつけていないからなのだ。人間によっても、神によっても押しつけられていないからなのだ。(中略)私が専門家の権威の前に頭を垂れるのは、私自身の理性によってそうするよう自分に課したからなのである。(バクーニン著、神と国家、32ページ〜33ページ)

専門化は自主管理の終焉を意味しない。むしろ逆である。バクーニンは次のように論じている。『知性が最大級のものだからといって、それが全体を理解しているわけではない。そこから、産業だけでなく科学にとっても、労働の分業と提携の必要性が生まれるのである。』(前掲書、33ページ)専門知識は、提携した労働者の一部であり、労働者の上にあって権力の立場にいるわけではない。シンジケートの他の労働者は、自分が労働で得た作業プロセスに関する知識を使って、専門家の知識を補完でき、その結果、その決定を豊かなものにできるだろう。知識は社会を通じて分配される。平等者として提携した自由な個々人からなる社会だけが、確実に、知識の分配を効果的に適用できるようにするのである(資本主義の非効率性の一部は、知識と情報の流れに対して、ヒエラルキー型仕事場が障害物を創り出していることから生じているのである)。

仕事場集会は、例えば、様々な目標に到達するための様々な方法を示すエンジニアの言うことに完全に耳を傾けることができる(つまり、もしXが欲しければ、AとBを行わなければなりません。Aを行うためには、C・D・Eが必要です。Bにすると決めた場合には、F・G・H・Iが必然的に伴います)。だが、どの目標に向けてどの方法を実行するのか決めるのは、労働者集会なのであり、そのエンジニアではない。コーネリウス=カストリアディスは、次のように述べている。『人々が何を行うのか決め、そして技術者がどのようにそれを行うのかを伝える、などと私たちは述べていない。私たちが述べているのは次のことだ:技術者の言うことに耳を傾けた後、人々は何を行うのかどのように行うのかを決定するのである。なぜなら、どのようには中立ではないからだ−−そして何をは実体のないものではないからだ。何を、と、どのようには同一でもなければ、お互いに外的なものでもない。もちろん、「中立的」技術など幻想である。コンベヤーベルトは、ある種の産物ある種の生産者とに結びついているのであり、逆も真なのである。』(社会的・政治的著作集、第3巻、265ページ)

ここで強調しなければならないが、アナキスト社会は、階級社会から多様なレベルの専門知識と専門化とを「相続する」だろうが、それを不変のものだとして受け取りはしないだろう。アナキストは、誰もが科学・工業技術・その他の専門的課題に関する基本的知識や理解を確実にもてるようにする手段だとして、「十全なる」(つまり、完全な)教育に賛同している。バクーニンは次のように論じている。『労働者も学者もいなくなるべきだ。人間だけが存するべきだ。』教育は、『男の子も女の子もあらゆる子供たちに労働生活だけでなく思索生活の準備をさせる』べきだ。(バクーニン入門、116ページと119ページ)だからといって、あらゆる専門化の終焉を意味しているわけではなく(個々人は、もちろん、自分の個性を発揮し、ある種の主題についてより多くの知識を得ることになるだろう)、資本主義の下で発達させられている人工的専門化の終焉を意味しているのである。人工的専門化は、知識を経営者の手に集中させることで、賃金労働者を単純作業化し、無力にしようとしているのである。

自明のことを述べるようではあるが、自主管理は、労働者の多くが専門的仕事の適用を決定する、ということを意味ではない。自主管理は、集団的問題に対する集団的意志決定だけでなく、仕事を行う人の自律性をも意味している。例えば、自主管理型の病院では、清掃スタッフは、医者による患者の治療に口を挟むことはしない。丁度、医者が清掃員にその仕事をどのように行うべきか述べないのと同じである(もちろん、アナキスト社会で、ある人に清掃するだけで他のことは何もさせないというようなことはないが、単に、人々が理解しやすい例としてこれを使っているだけのことである)。シンジケートの全メンバーが、集団的に自分たちに影響を持っている限り、仕事場で何が起こっているのかについて発言権を持っている。だが、個々の労働者や労働者のグループが、その集団の中で自分たちの活動を管理することになるのである。

言うまでもなく、自主管理は、資本主義に固有の、命令を聞く側と命令を与える側との労働の分業を廃絶する。仕事を行っている人々が同時に仕事を管理し、仕事場を使っている人々が仕事場を管理することを保証することによって、(クロポトキンの言葉を使えば)頭脳労働と肉体労働とを統合するのである。こうした労働の統合は、疑いもなく、生産性・技術革新・効率性という点で莫大なインパクトを持つことになろう。クロポトキンが論じているように、資本主義企業は、そのヒエラルキー型疎外構造に影響される人々に対してネガティブな影響をもたらすのだ。

労働の永久的分業によって自分の仕事を専門化されている労働者は、自分の労働に知的興味を失う。大工業においては特にそうである。その人は、創意に富んだ自分の力を失っている。それ以前には、その人は非常に多くのことを創案していたのだ。(中略)だが、大工場が王位について以来、労働者は、自分の仕事の単調さによって憂鬱になり、何も創案しなくなってしまった。(未来の田園・工場・仕事場、171ページ)

人が持っている全ての技能・経験・知性は、ヒエラルキーによって吹き飛ばされてしまったり踏みつぶされてしまったりするべきなのだろうか?より良い生産組織の下で、進歩の肥沃な源泉とはなり得ないのだろうか?自主管理は、労働者の自主性・イニシアティブ・創作力(これは賃金奴隷の下で失われてしまっている)が前面に出、採用されることを確実にする。「十全なる」(つまり、完全)教育(セクションJ.5.13を参照)と共に、「万人の幸福」を確実にするために、労働者は現在の経済システムを変換できる、ということを誰が否定できるだろうか?そして、強調しなければならないが、「幸福」と述べたが、幸福とは、人間味豊かな環境での有意義で生産的な活動と適切なテクノロジーの使用・強く健康的な肉体を創る手助けとなる有用性と美しさを持った物品・生活したいと思わせ生態系と調和した環境、という点での幸福のことなのである。

クロポトキンが次のように論じたのは驚くに当たらない。自主管理と『頭脳労働と肉体労働との現在の区別を消滅させること』とにより、『現代の社会闘争において強く求められている利益と調和の一致』から生じる『社会的利益』を目にし、『自分が精神的力と肉体的力(中略)との双方を行使することが約束されている場合に、各々個々人にもたらされる十全なる生』を目にするであろう。これが『教養ある充分訓練された生産者(中略)が存在する結果として生じる富の増大』に付け加えられるのである。(未来の田園・工場・仕事場、180ページ)

顔を付き合わせた会議こそが、労働者を直接に経営プロセスに参加させ、自分たちの生活に影響を与える経済的決定に対する力を労働者に与える。社会的アナキズムでは、生産手段は全体としての社会が所有するため、シンジケート間で既に持っている生産手段をどのように分配するのか、剰余分をどのように分配し再投資するのか、などの問題に関する決定は、労働者評議会ではなく、草の根社会ユニット、つまり地域集会によってなされるだろう(セクションI.5.2を参照)。だからといって、労働者がそうした事柄に関する決定について発言権を持たないと言うわけではない。彼等は、地元シンジケートの労働者としてではなく、自分の地元地域の集会で「市民」として自分の発言を行うのである。前に述べたように、この理由は、全ての人がシンジケートに属するわけではないが、それでもなお、誰もが上記のような経済的決定に影響を受けることになるからである。これが、社会的アナーキーの社会的・政治的構造と経済的構造がどのように絡み合うのか、の一例である。

最後になるが、労働者自主管理の導入は二つのプロセスの産物となるであろう。

まず第一に、階級闘争である。階級闘争が、労働者が自分たち自身の事柄を管理する経験を得る手助けをするであろう。仕事場における抑圧と搾取に抵抗する闘争は、その闘争を管理するために労働者が自分たちを組織しなければならないことを意味する。これは、労働者が自分たち自身で意志決定を行うことに慣れていく大切な手段となる。階級闘争を行うために創り出した構造に参加することで、階級社会を越えて進むために必要な技能と経験を労働者が身につけるのである。闘争のプロセスは、生活手段を奪取し賃金奴隷を廃絶したときに、自分たちで自分たち自身の仕事時間を確実に管理できるようにするであろう。

第二に、今日の労働者は、確かに、かなりの程度まで自分自身の労働時間を管理している。前にも論じたが、資本家は労働者の一時間を買うかも知れないが、その時間の間は自分の命令に労働者が確実に従うようにしなければならない。労働者はこの押しつけに抵抗し、その結果、重大な生産現場闘争が生じている。例えば、フレデリック=テイラーは「科学的管理」システムを導入したのだが、その理由の一つは、労働者に自分の作業活動を管理させないようにするためだった。デヴィッド=ノーブルは次のように述べている。労働者は『多くの理由で自分のペースで仕事を行っている。自分で時間を管理するため。極度の疲労を避けるため。自分の仕事を支配するため。いわゆる割の良い出来高払いの仕事を生産過剰のために台無しにしたり、賃金カットの危険にさらされるのを避けるため。一時解雇を恐れて入手可能な仕事を引き延ばすため。自分の創造力を行使するため。そして大事なことだが、自分の連帯を表明し、経営者に対する敵対心を表明するために。』これらは、『仕事仲間との集団的協働』と『生産に関する仕事場管理』を確立するための『労働者が定めた行動規範』と結びついていたのだった(生産諸力、33ページ)。つまり、労働者は、どのみち自主管理に向かう自然な傾向を持っているのであり、ボスが戦っているのは、仕事時間中に自由に向かうこの自然な運動なのである(もちろん、誰が勝つのかは主観的・客観的圧力に依存しており、その圧力が労働者と資本家との権力バランスを揺り動かしている)。

自主管理の構築は、生産に対するこの既存の非公式的労働者管理を基にする。また、当然、実際にそれを行うことで生み出される労働プロセスに関する知識も基にする。誰が現場を管理するのか−−仕事を行っている人なのか、それとも命令を与えている人なのか−−に関わる闘争は二つのプロセスを生み出す。この二つのプロセスが、自主管理は可能だということを示すだけでなく、自主管理をもたらす方法をも示すのだ。

I.3.3 「経済」においてシンジケートはどのような役割を果たすのか?

既に見たように、生産手段の私的所有は資本主義の要である。この手段によって、資本家は、労働者から剰余価値を盗むことで、労働者を搾取できるようになるからだ。そうした搾取を撤廃するために、社会的アナキストは次のことを提案する。社会資本−−工場や農場のような生産的資産−−は全体としての社会によって所有されねばならず、直接民主主義的方法によってシンジケートと自営業者との間で共有されねばならない。地元町内の集会や連邦集会(この諸集会は、自発的連合を通じて結合することになる)における地域社会全体の顔を付き合わせた投票を通じて、所有され共有されるのだ。リバータリアン社会主義の下では国家など存在しないのだから、これは、マルクス−レーニン主義や社会民主主義のように国家が生産手段を所有する、という意味ではない。(町内集会や地域集会については、セクションI.5.1とI.5.2を参照)

利益や金のための生産ではなく、使用のための生産、これが鍵となる概念である。この概念こそが、集産主義・共産主義アナキズムを、市場社会主義や競争的相互主義(プルードンと個人主義アナキストが擁護している)と区別している。相互主義の下でも、労働者はシンジケートを組織するが、シンジケートの資本の所有は、社会全体にではなく、シンジケートの労働者に限定される。それぞれの協同組合・シンジケートにいる労働者が仕事場の利益と損失を共有するのである。利潤それ自体は存在しない。なぜなら、『労働者管理型企業では、利潤は存在せず、メンバー間で分配される収入があるだけである。従業員がいない以上、労働者管理型企業は賃金支払高を持つことはなく、人件費も、資本主義企業でそうであるように、利益から差し引かれる支出として換算されることはない。(中略)労働者管理型企業は労働者を雇わないのだ。資本と必要資材を雇うのは、労働者のコレクティブなのである。』(クリストファー=イートン=ガン著、米国における労働者自主管理、41ページ〜42ページ)

つまり、相互主義は賃労働を撤廃し、労働者と、労働者が使用する生産手段とを結合するのである。そうしたシステムは、自主管理と、生産手段の労働者管理・労働者所有に基づいているのだから、社会主義的である。だが、社会的アナキストは次のように主張する。そうしたシステムは「プチブルジョア協同組合主義」に他ならない。協同組合の労働者=経営者が、消費者・利益・原材料などをめぐって他の協同組合と市場で競争する−−これは、資本主義の下で生まれるものと同じ諸問題の多く(セクションI.3とH.7を参照)を生み出しかねない情況である。それ以上に、社会的アナキストは次のように主張するのだ。そうしたシステムは容易く資本主義に退歩しうる。協働組合間に存在する些細な不平等が競争によって増大し、弱い協同組合を敗北せしめ、その結果、自分の労働以外に売るものを持たない労働者の一群が生み出されるからだ。そして、成功した協同組合はそうした労働者を雇い、賃金労働が再導入されることになりかねないのである。

相互主義者の中にはこの危険を認識しているものもいる。例えば、プルードンは次のように論じている。『農工連合』は、『商業と工業での相互保障を提供する』であろう。そして、『資本家の搾取と金融搾取から(中略)市民を保護する』であろう。このようにして、『農工連合は(中略)信用貸しと保険の相互主義を通じて(中略)平等の増大を促そうとする。(中略)労働権と教育権を保証し、個々の労働者が熟練した労働者・芸術家となり、個々の賃金生活者が自分自身の主人になることができるような労働組織を保証するのである。』従って、相互主義は『全産業がお互いを相互的に保証すること』そして『共に繁栄する諸条件』に配慮しているのである。(連合の原理、70ページ、71ページ、72ページ)この農工連合が、『最大利益幅と最小利益幅に関する友好的論議をふまえて』調整を行う機関となり、『市場を調節するための(中略)社会を調整する組織化』となる見込みが高い(ピエール−ヨセフ=プルードン選集、70ページ)。

つまり、相互主義者の中には、自主管理型社会主義市場に伴う危険に気づき、労働者自主管理を防衛する支援構造を創り出そうとしている人々もいるのである。それ以上に、産業シンジケートは、相互銀行(クレジットシンジケート)とリンクする見込みが高い。クレジットシンジケートは、自主管理型の新しいシンジケートの拡大に対して、利息なしで信用貸しをするために存在することになろう。そして、資本主義の経験が何かしらの基準となるならば、相互銀行は景気変動を次のものと同様の効果へと還元するであろう。つまり、『銀行中心型として一般に分類されている−−銀行が市場よりも多くの外部融資を提供し、より多くの企業がその銀行と長期的な関係を持っているからだ−−日本やドイツのような国々は、長い目で見れば、米国や英国のような市場中心型の国々よりも、より大きな成長と投資の安定性を示している。(中略)さらに、銀行と密接な繋がりを持つドイツ企業と日本企業を、銀行との繋がりのない企業と比較した研究によれば、銀行との繋がりを持った企業の方が景気変動間の投資が遙かに安定していることが示されている。』(ダグ=ヘンウッド著、ウォールストリート、174ページ〜175ページ)

さらに、相互主義の支持者たちは、既存の協同組合はそのメンバーを解雇することがほとんどなく、対応する資本主義企業よりも本質的に遙かに平等主義的だという事実を指摘できるだろう。このことについて、相互主義は、失業させられた人々が自分自身でビジネスを再開できるように信用借りを容易くできるようにしながらも、なお社会主義的であり続けることを確実にしている、と論じられるのである。

逆に、無政府集産主義と無政府共産主義では、全体としての社会が社会資本を所有する。このことで、生存競争と、労働者が自分が働いている事業に所有権を生み出す傾向双方を排除できるようにしている。クロポトキンは次のように論じていた。『工場が(中略)地域社会に属してはならない(中略)という理由などどこにもない。(中略)現在、資本主義システムの下で、工場は明らかに、村落にとっての災厄である。子供たちをこき使い、村の男性住民を貧乏人にするためにやってきているのだから。労働者がいかなる犠牲を払ってでも工場に反対しなければならない、これは全く自然なことである。(中略)だが、もっと理性的な社会組織の下では、工場がそのような障害物だと感じられることはない。工場は村落にとっての賜物となるであろう。』(未来の田園・工場・仕事場、152ページと157ページ)この「社会的に組織された工業生産」(クロポトキンの言葉を使えば)は、市場(非資本主義市場であっても)に伴う諸問題のない真っ当な生活水準を保証するであろう。商品を、消費者に対するコストを減少させるべく生産価格(もしくは人件費)で売ることもできるだろうし、共産主義諸原理に沿って(つまり只で)分配することもできるだろう。以前ならば競争していた諸事業を合併させることで効率利得(efficiency gains)を促す。そして、競争が持つ略奪的性質に起因する多くの問題(例えば、「成長か死か」原理による環境破壊・資本の集中と中央集権化による寡占の発達・周期的な不景気と恐慌を伴う景気変動・自由な人々を潜在的賃金奴隷へと転化させること)を排除するのである。

つまり、社会的アナキストにとって、リバータリアン社会主義の基盤は、自治体住民が所有するが独自に運営される労働者自主管理シンジケート(や協同組合)という枠組みの中で行われる分権型意志決定なのである:

土地や労働器具といったあらゆる資本は、社会全体の集団的所有物となり得、労働者によってのみ、つまり、農業・工業協会によってのみ利用され得る。(バクーニン著、ミハイル=バクーニン選集、174ページ)

言い換えれば、経済は自治体化されるのだ。土地と生産手段は自治体の「所有」に転じるのである。地域社会が、生産の社会的・生態系的枠組みを決定する一方で、労働力は、何を生産し、どのように生産するのかについての日々の決定を行う。この理由は、純粋に労働者集会だけを基礎としたシステムは、仕事をしていないが生産の影響(例えば、生態系崩壊)を受け入れねばならない人々の公民権を事実上奪ってしまうからである。ハワード=ハーキンズの言葉を引用しよう。『仕事場集会と地域集会との違いは、地域社会での直接民主主義が持つ内的原動力が、合意点をもたらす諸解決策について公聴会を行い、コンセンサスが得られない場合には、地域社会の全成員に対して平等な投票権が与えられる、ということである。』(「地域管理・労働者管理・協同組合連邦」、社会と自然、第3号、55ページ〜83ページ、69ページからの引用)

つまり、ある仕事場が連邦に参加すると、その仕事場は連邦化するだけでなく、自治体所有化されるのである。このようにして、労働者管理は、地域社会というより広い文脈の中に置かれ、地域社会管理の一側面となる。だからといって、自分が何を行うのか、どのように行うのかを労働者が管理しない、というわけではない。むしろ、労働者が意志決定をする枠組みが、地域社会によって決定される、という意味なのである。例えば、地元地域が、生産はリサイクルを最大にし、汚染を最小にするべきだ、と決めたとしよう。労働者はこの決定を報告され、それに従って投資決定と生産決定を行うのである。さらに、消費者グループと協同組合は、シンジケート連邦会議での発言権を持ち、個々の仕事場での発言権さえも持つかも知れない(これが現実的なものかどうかの決定は地元地域に任されるわけだが)。このようにして、消費者は、生産物の消費と創造についてもその発言権と利益を持つだけでなく、生産管理・生産物のタイプと品質に発言権を持つことができるであろう。

社会的所有と国家の欠如という一般原理があれば、集産化が取りうる特定形態−−例えば、剰余の分配方法や、金銭を使用するかどうかなど−−に関して相当の自由がある。これは、1936年〜1939年の革命中、スペインの様々な地方で成立していた様々なシステムでも見ることができよう(例えば、サム=ドルゴフ著、アナキストコレクティブを参照。)。

それでもなお、ある地域は貧困で別な地域は裕福だといった情況があるときには、民主主義は蔑ろにされる。従って、剰余の分配方法は、人間の基本的欲求を満たすように最低限の公的サービスと食料を保証するだけでなく、高次レベルの連邦が保持しているプールされた収益と資源の適切な取り分をあらゆる地域が持つことを保証しなければならないのである。

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