アナキズムFAQ

J.5.13 「近代学校」とは何か?

「近代学校」は、オルタナティブ=スクールであり、そこでは、近代「教育」システムが持つ権威主義的学校教育を拒絶している学生・教師・親が自主管理している。「近代学校」は、20世紀になって以来、アナキスト運動の特徴を持ってきた。その一方で、リバータリアン教育形態に対する関心は当初からアナキズム理論の特徴であった。ゴドウィン・プルードン・バクーニン・クロポトキンから、コリン=ワードのような近代の活動家まで、主要アナキスト思想家は皆、リバータリアン(「理性的」)教育の重要性を強調していた。つまり、批判的思考と精神的自由を促すだけでなく、学生の全側面(精神面と肉体面−−そのために「完全」教育と呼ばれている)を発達させる教育である。そうした教育の目的は、プルードンの言葉を借りれば、『産業労働者・行動人・知識人が、皆一つにまとまる』よう保証することである(スチュワード=エドワード著、パリ=コミューン、274ページに引用されている)。

急進的政治運動に参画している人は、国家諸制度とその代表者が我々の生活の中で果たしている役割に対して、絶え間なく一貫して挑戦する。ボス・警察・ソーシャルワーカー・諜報機関・中間管理職・医者・僧侶は皆、我々労働者階級を服従させ続けるために存在しているヒエラルキーの一部として見なされる。だが、左翼が教師の役割を疑問視することは比較的希である。大部分の左翼活動家と多くのリバータリアンは、教育は良い、教育は須く良い、教育は常に良い、と信じている。1867年に米国で初めて教育委員に就任したヘンリー=バーナードは、『教育は常に自由を導く』と熱心に説いていたのだった。

リバータリアン教育に参画している人々は逆のことを信じている。そうした人々は、国民教育システムは、盲目的に国家の命令に従う市民・政府が私的利益や理性とは逆のことを行っていてもその権威を支持する市民・ほとんど常にボスの命令に服従し、ボスを取り換えることができることを自由だなどと考えている賃金奴隷を生み出すためにのみ存在している、と信じている。そうした人々はウィリアム=ゴドゥイン(国民教育システムに対する最初の批判者の一人である)が、政治的正義の中で次のように述べていることに同意しているのである。『国民教育計画は、国家政府と明らかに提携しているのだから、阻止せねばならぬ。(中略)政府が、自分の支配力を強化し、その諸制度を永続させるために、それを活用し損なうことなどない。(中略)教育システムの扇動者として政府が持っている見解が、政治的能力に関するその見解と類似していないわけがあるまい。』(コリン=ワード著、アナーキーの実行、81ページで引用)

19世紀の産業主義の成長と共に、学校は、改良への情熱を通じてではなく、経済的必要性として成功を収めた。産業は、自由に思考する個人を欲していたのではなかった。労働者、労働の道具を欲していたのであり、労働者が時間を守り、服従し、受動的で、不利益を被る立場を喜んで受け入れるようになって欲しかったのである。ニーゲル=スリフトによれば、多くの雇用主と社会改良家は、労働者の初期の世代を統制する(つまり、賃労働と仕事場の権威に順応させる)ことはほとんど不可能だと確信するようになった。彼らは、その子供たちに期待していた。『労働者階級を現在工場に必要な労働規律の習慣に押し込むために、小学校を利用できるだろう。(中略)非常に長い時間全くつまらない題材を行わせるために学校での労働に子供たちを押し込むことは、実際的な美徳だと見なされていた。なぜなら、それが労働と疲労に子供たちを馴れさせるだけでなく、習慣づけさせるからだ。』(ジュリエット=B=スコール著、働き過ぎの米国人、61ページで引用)

従って、「近代学校」の支持者たちは、教育の役割はヒエラルキー社会を維持するという点で重要だと認識しているのである。なぜなら、政府とその他のヒエラルキー形態(賃労働のような)は、常に、支配される側の意見に依存していなければならないからだ。フランシスコ=フェレル(1909年にスペイン国家によって処刑されたことで、最も有名な「近代学校」支持者となった)は次のように論じている。

『支配者たちは、民衆の教育を支配することに常に気を配ってきた。支配者は、自分の権力がいつも完全に学校を基盤としていることを知っている。彼らは自分の独占権を保持し続けることを求めている。学校は、支配階級の手にある優越的支配の道具なのだ。』(クリフォード=ハーパー著、アナーキー:図説ガイド、100ページに引用)

だからこそ、エマ=ゴールドマンが次のように論じていることは不思議ではないのだ。『近代の教育方法』は、『私的自由と独創的思考にほとんど配慮していない。画一性と模倣性がそのモットーなのである。』そして、学校は『刑務所が受刑者のためにあり、兵士のために兵舎があるように、子供のためにある−−そこは、あらゆることによって、子供の意志を壊し、打ち、こね、徹底的に子供の意志とは無関係なものへと形作る場所なのだ。』(赤のエマ語る、118ページ、116ページ)

だからこそ、「近代学校」が重要なのである。「近代学校」は、ヒエラルキー社会の内部でリバータリアン教育を広め、この社会を支持している重要なものの一つ−−教育システム−−の効果を失わせる一つの手段なのである。ヒエラルキー教育の代わりに「近代学校」は、『知識を通じて個人を発達させ、固有の特性の無制限な活動を発展させるために』存在している。『そのことで、(子供が)社会的存在になるだろう。なぜなら、自分自身を知ることを学び、仲間に対する自分の関係を知ることを学ぶからである(中略)』(エマ=ゴールドマン著、前掲書、121ページ)シュチルナーの言葉を借りれば、それは『卑屈ではなく、自由に向かう教育』となるであろう。

19世紀の「近代学校運動」(「フリースクール運動」としても知られている)は、国家や教会が設立した学校の危険性とリバータリアン教育の必要性についての関心の一部を示している。リバータリアン教育の考えは、知識と学習は、真の生活プロセスと私的有用性とリンクしていなければならず、特殊機関を保護する場所であってはならない、というものである。「近代学校」は、過剰に構造化され、合理化された世界の中で自己発達のための環境を創り出す試みである。権威主義的管理からのオアシスであり、自由になるための知識を伝播する手段なのである。

『「近代学校」の根底にある原理は、次のようなものだ。教育は、教え込むプロセスではなく、引き延ばすプロセスである。それは可能性を対象としているのだ。子供は、自分の努力を方向付け、学びたいと思っている知識分野を選択しながら、自発的に発達するために自由でい続けなければならない。(中略)教師は(中略)子供のニーズに対して敏感に反応する道具にならねばならない。(中略)子供が、受け入れ、理解する準備ができていることを示したときに、世界に関する秩序立った多くの知識を子供が獲得できるための媒介役にならねばならない。』(エマ=ゴールドマン著、前掲書、126ページ)

「近代学校」の基盤はリバータリアン教育テクニックである。リバータリアン教育は、非常に大ざっぱに言えば、より大きな私的統御と私的選択を求め、自分で思考し、あらゆる形態の権威を疑問視する子供たちを生み出そうとしている。

『我々は、発達し続ける人々を求めている、ということを口にするのを憚らない。民衆は、自分の周囲と自分自身を破壊し、新たにすることが常にできる。民衆の知的独立は、最高の力であり、それは何ものにも勝るであろう。より良い物事を求め、新しい思想の勝利を熱望し、自分の人生を多くの生で満たしたいと熱望するであろう。子供たちに、他人に依存し続けている限りは圧制が存在するのだ、ということを示すのが、学校の目的でなければならない。』(クリフォード=ハーパー著、前掲書、100ページで引用されているフェレルの言葉)

つまり、「近代学校」は、子供が教育プロセスにおける重心である−−教育とはそういうものであって、教え込むものではない−−と主張しているのである。

『私は、何であれ民衆を分断するものや、所有・国家・家族という誤った概念を精神から禁止することに関わる、解放の学校を作りたい。そのことで、万人が望んでいる自由と福祉を獲得するのである。私は、単純な真実だけを教える。私は、子供たちの頭にドグマを押し込まない。私は、事実をほんの少しも隠さない。私は、何を考えるのかではなく、どのように考えるかを教えるであろう。』(ハーパー著、前掲書、99ページ〜100ページに引用されているフェレルの言葉)

「近代学校」には、ご褒美も罰も、試験も採点も−−慣例的な学校教育の日常的「拷問」は−−ない。実際的知識が理論よりも有用だという理由で、授業は、工場・博物館・田園で行われることが多かった。親が学校を利用することもあった。フェレルは「人民大学」を計画していた。

『高等教育は、現在は特権を持った少数だけが受けているが、一般民衆のためにあるべきだ。全ての人間が知る権利を持っているように。科学は、あらゆる国のあらゆる年齢の観察者と労働者が生み出したのであって、階級によって制限されてはならないのだ。』(ハーパー著、前掲書、100ページに引用されているフェレルの言葉)

つまり、「近代学校」は、協同的で平等でリバータリアン的な雰囲気中で自己教育を促すことに基づいているのである。そこでは、生徒(年齢には無関係な)は、自分自身と自分の興味を、自分の最大限の能力を発揮して、発達させることができる。このようにして、「近代学校」は、個人を尊重し、何かを実行する場面の中で自分自身の能力を発達させる教育プロセスによってアナキストを創り出そうとしているのである。

「近代学校」は、1890年代後期以来、アナキスト運動の不断の側面になってきた。この運動は、ルイズ=ミシェルとセバスチャン=フォールによってフランスで始まった。フランシスコ=フェレルはそこで彼らと知り合ったのである。フェレルは1901年にバルセロナで「近代学校」を創立し、1905年までにスペイン中で同様の学校が50できていた(その多くが、アナキスト集団と労働組合によって資金提供され、1919年からはCNTに資金提供されている−−いずれの場合でも、学校の自律性は尊重されていた)。1909年に、フェレルは、暴動を主導したとスペイン政府から誤った嫌疑を掛けられ、世界中の抗議行動と彼が無罪だという圧倒的な証拠にも関わらず処刑された。だが、フェレルとその教育思想は、彼の処刑によって国際的認知を得、英国・フランス・ベルギー・オランダ・イタリア・ドイツ・スイス・ポーランド・チェコスロバキア・ユーゴスラビア・アルゼンチン・ブラジル・メキシコ・中国・日本・そして最大規模で米国において「近代学校」の進歩的教育運動を刺激したのだった。

だが、大部分のアナキストにとっては、「近代学校」は、それ自体でリバータリアン社会を生み出すためには充分ではない。アナキストは、バクーニンが次のように論じていることに同意している。『個々人が道徳的になり、十全な人間になるためには、(中略)三つのことが必要だ:衛生的な出産。労働・理性・平等・自由の尊重に基づいた躾を伴う包括的教育。人間個々人が十全な自由を教授し、権利上かつ事実上他の全てと本当に平等になる社会環境。

『そのような環境は存在しているのだろうか?存在していない。ならば、それは既存の社会環境の中で確立されねばならないのだ。(中略)(リバータリアンの)学校を離れるに当たり、彼ら(学生)は、完全に反対の諸原理に支配されている社会に入ることになる。そして、社会はいつも個々人よりも強力なのだから、彼らを説き伏せ(そして)やる気を喪失させるであろう。』(バクーニン入門、124ページ)

このために、「近代学校」は、大衆労働者階級の革命的運動の一部にならねばならないのだ。その運動は、それ以前の旧世界の中でできる限り新しい世界の多くの側面を構築し、究極的にはそれと置き換わることを目的としているのである。さもなくば、「近代学校」は、社会実験として単に有効なものとなるだけで、社会に対するその影響力もマージナルなものになってしまう。バクーニンが「国際労働者協会」の決議を指示したことは驚くに当たらない。それは次のように主張していたのだ。『(インターナショナルの)様々なセクションは、(中略)労働者が現在受けている不充分な教育をできるだけ改善するために、包括的指導に(基づいた)、(中略)民衆講座を創り出す。』(バクーニン著、前掲書、125ページに引用されている)

従って、アナキストにとって、この教育プロセスは、階級闘争の一部なのであって、その代わりになるものではない。『労働者は、自分が現在いる物質的状況の中で可能な限り全ての教育を獲得すべくあらゆることをしなければならない。(中略)(その一方で)その他のあらゆる解放の母である、自分の経済的解放という偉大なる問題に自分の努力を集中するのである。』(ミシェル=バクーニン著、前掲書、125ページ)

このセクションを終える前に、我々は、ヒエラルキー教育(メディアのような)は、民衆とその思想・意見・態度を形成したり変革したりする上で、実際の生活と活動が持つ効果を取り除くことはできない、ということを強調しなければなるまい。教育は、現状を維持し、ヒエラルキー・国家・賃金奴隷を受け入れるように民衆を慣れさせることの本質的部分であるが、民衆が自分の経験から学んだり、自分の善悪の感覚を否定したり、現行システムやその基盤となっている思想の不公正を認識させたりすることを止めさせるなど出来はしないのだ。つまり、最良の公立(もしくは私立)教育システムであっても反逆者を生みだし続けるのだ−−「教育」を通じて子供たちに一方的に教え込まれ、メディアが強化しているイデオロギーを、賃金労働や国家の抑圧(そして、最も重要なことだが、闘争)の経験が粉々にするからだ。

「近代学校」に関するさらに多くの情報については、ポール=アヴリッチ著、近代学校運動:米国におけるアナキズムと教育・エマ=ゴールドマン著、「フランシスコ=フェレルと近代学校」(エッセイ集:アナキズム、その他に収録)・A=S=ニール著、サマーヒルを参照してほしい。教育に関するアナキストの観点についての入門としては、アナキズムのためにに掲載されているマイケル=スミス著「クロポトキンと技術教育:アナキストの声」・バクーニン入門に掲載されているバクーニンの「包括的教育」が良い。協同学習の長所と利点をうまくようやくしているものとしては、アルフィー=コーン著、競争社会を越えてを参照してほしい。

J.5.14 リバータリアン自治体連合論とは何か?

「リバータリアン自治体連合論のテーゼ」(アナキスト論説集、Black Rose Press1986年に収録)という論文で、マレイ=ブクチンは、アナキストに非議会的選挙戦術を提案していた。彼は、この提案を、都会化から諸都市へのようなその後の著作の多くで繰り返しており、アナキストが参画する多くの代替案の一つに−−少なくとも合州国においては−−なさしめている。彼の主張の論点を以下に要約し、その後に簡単なコメントを加える。

ブクチンによれば、『プロレタリア階級は、社会の全ての抑圧されたセクター同様に、共有化(communizing)、もしくは、地域社会の政治生活への参画という自由で自発的な活動の中で、その産業的習慣を脱ぎ捨てたときに、本領を発揮する。』つまり、ブクチンは、地元地域社会の民主化は、仕事場闘争と同じぐらい、もしくはたぶんそれ以上に、アナキストにとって戦術的に重要かもしれない、と考えているのである。

地域の政治は人間的規模であるため、ブクチンは、それは議会的ではなく参加的になりうると主張している。彼は次のように述べているのである。『権力分散型で、国家のない、共同で管理され、直接民主主義の地域社会という−−連邦した自治体もしくは「コミューン」という−−アナーキーの理想は、ほとんど直感的に、そして、プルードンとクロポトキンによる最良の著作においては意識的に、解放的社会の枠組みとしてのリバータリアン自治体連合論が持つ変換的役割について述べている。』彼は、同時に、都市は歴史的に帝国主義国家と国民国家に対する主たる対抗勢力となっていた、と指摘する。多くの国々で行われている中央政府と自治体との闘争に見られるように、都市は、中央に集中した権力に対する潜在的挑戦として絶えず国家につきまとい、現在でもつきまとい続けている。

だが、都市政治が持つリバータリアン的潜在性にも関わらず、「都会化」−−疎外された生産と私的消費の領域における政治的無力感と孤独を促している、郊外の莫大な荒れ地・ショッピングモール・工業団地・スラムの成長−−は、リバータリアン自治体連合論の枠組みとして機能しうる都市の諸側面が継続的に存在することに対するアンチテーゼなのである。『都市がもはやそれ自身のアイデンティティ・文化・コンソシエーションの場を提供できないほどにまで、都会化が都市生活を完全に消し去ってしまうならば、民主主義−−この言葉がどのように定義されていようとも−−の基盤は消え失せ、革命的諸形態に関する問題は抽象物のシャドーゲームになるであろう。』

しかし、この危険にも関わらず、ブクチンは、アナキストが共に行動すれば、地方政府のリバータリアン政治はいまだに可能だと考えている。『コミューンは今でも市議会に埋没している。都市の地区はいまだに町内会に埋没している。町民会はいまだに群区の中に埋没している。連邦的自治体提携はいまだに町と市の地方ネットワークに埋没しているのである。』

地方レベルの選挙でアナキストは何を行うというのだろうか?ブクチンは、アナキストが政治諸制度を参加型のものにするために市と町の憲章(charters)を変えることを提案している。『そうした急進的参加型市民提携に基づいた有機的政治運動は、アナキストが、直接民主主義諸制度の存在を妥当なものにするように市と町の憲章を変える権利を排除しない。そして、この種の活動がアナキストを市議会に入れることになれば、そうした政治運動が議会的なものとして解釈されなければならない理由などどこにもないのだ。特に、それが市民レベルに限定され、国家に反対して意識的に突きつけられるのならば。』

その後のエッセイで、ブクチンは、リバータリアン自治体連合論は、『自治体を区に分割することを呼びかけて地域レベルで候補者を出馬するリバータリアン左翼に依存している。区では、民衆を政治的生活に十全に直接的に参加させる民衆集会を作ることになる。(中略)自治体は、そして、国民国家に敵対し、究極的には国民国家と国権主義それ自体を支持している経済的諸力とをなくしてしまう二重権力へと連邦化するであろう。』(民主主義と自然、第9号、158ページ)このことは社会規模の変換の一部となるだろう。その『最小限のステップには(中略)町内集会と街の集会を提案する左翼グリーン自治体運動を開始する−−当初は道徳的機能しか果たさないとしても−−こと、そして、そうした集会やその他の民衆諸制度の大義を押し進める町議会議員や市議会議員を選挙することが含まれる。こうした最小限のステップは、次第に、連邦的諸団体の形成を導くことになる。(中略)自治体事業や土地購入に資金提供をする市民銀行・地域が所有している新しい生態調和志向的事業の促進。』(都会化から諸都市へ、266ページ)

つまり、ブクチンは、リバータリアン自治体連合論を、民衆集会を創り出す手段として選挙を利用することで、国家を弱体化させることができるプロセスとして見なしているのである。彼は、このプロセスの一部は『財産の自治体化』となるであろう、と述べている。それは、『全体としての経済を公的領域の活動範囲に持ち込み、そこでは経済政策を地域社会全体が形成できる』(前掲書、235ページ)であろう。

ブクチンは、リバータリアン自治体連合論をアナキスト社会を創り出す重要な手段だと見なし、それに賛同しないアナキストは自身の政治運動を真面目に捉えていないと論じている。彼は次のように記している。『徹底的にブルジョア経済の枠組み内部で出現しているにも関わらず、「集産化された」産業企業の存在を、あちこちで非常に熱意を持って褒め称えている多くのアナキストが、あらゆる種類の「選挙」を必然的に伴う自治体政治運動を反感を持って見なしていることは興味深い。そうした政治運動が町内集会・リコール可能な代理人・急進的に民主化された説明責任・深く根を下ろした地域主義ネットワークを中心として組織されていたとしてもである。』(リバータリアン自治体連合論のテーゼ

ブクチンの提案を評価するに当たり、いくつかの点が思い浮かぶ。

まず第一に、地域集会を望ましいとしているリバータリアン自治体連合論の主張は重要であり、無視することなどできないことは明らかである。多くのアナキストが過去、仕事場闘争と労働者評議会を自由社会の枠組みとして余りにも強調しすぎていた、とブクチンが書いているのは正しい。我々に影響を与える本当に重要な問題の多くは、仕事場組織に還元できないものであり、仕事場組織はまさにその性質のために産業で働いていない人々(主婦や老年者など)の公民権を奪っている。そして、もちろん、仕事よりも生活の方がずっと多いわけであり、仕事場組織を純粋に中心として組織された未来社会は、いかなるものであれ、少なくともある程度まで、資本主義によるキチガイじみた経済的活動賛美を再現してしまう。従って、この意味では、リバータリアン自治体連合論は非常に妥当な観点を持っている。自由社会は仕事場だけでなく自由社会の内部で創造され、維持されるであろう。

第二に、ブクチンなどのリバータリアン連合論者が、アナキストはその地元地域で活動すべきだと論じていることは全く持って正しい。セクションJ.5.1で示したように、多くのアナキストが、そのように活動しており、その上非常に成功しているのである。だが、大部分のアナキストは、『新しい市民諸制度を古いものから創造する(もしくは古い諸制度を一挙に置き換えてしまう)ことに向けた闘争』(都会化から諸都市へ、267ページ)の実行可能な手段だという考えを拒絶している。

最も重大な問題は、大部分の都市の政治は、既に非常に中央集権的で、官僚主義的で、非人間的な規模で、資本主義の利権に支配されるようになっているため、参加型の民主化に関する政治綱領でアナキストが選挙に出たところでそれらに取って代わる可能性があるのかどうか、ということに関わっている。この疑問を提起することだけで、充分答えになっているのではないだろうか。大多数の都市ではそのような可能性などないのだ。従って、アナキストがリバータリアン自治体連合論の候補者を地域選挙で支持したところで、時間とエネルギー−−直接行動でもっと有益に使うことのできる時間とエネルギー−−の浪費でしかないであろう。中央政府は、あまりにも官僚的で鈍感であるため、リバータリアン自治体連合論者が利用できないというのであれば、同じことが地方の政府にも言えるのだ。

この問題に対する反駁は、そうした候補者が選挙で選ばれる機会がないとしても、選挙に立候補することが貴重な教育的機能を果たすだろう、というものである。このことに対する返答は次のようなものだ。そうかもしれないが、立候補は直接行動よりも価値があるだろうか?教育的価値があったとしても、それはセクションJ.2.2とセクションJ.2.4で述べた選挙の持つ不利点(例えば、投票は現行システムを認可しているという事実)よりも勝っているのだろうか?大規模メディアが反体制的な候補者を軽んじることができることを考えれば、我々は、そうしたキャンペーンはそれらの不利点を克服するのに充分な教育的価値を持つなどとは信じられない。それ以上に、アナキストであるということが、人を、選挙の持つ破滅的効果に影響されないようにするのではないのだ(セクションJ.2.6で強調したように)。歴史は、急進的で政治的意識を持った運動が選挙を利用し、変革しようとしていたシステムの一部になり果てた実例であふれているのである。大部分のアナキストは、リバータリアン自治体連合論が別のものになるとは思っていない。結局、決定的に重要なことは、政党が身をおいている状況なのであって、政党が持っている理論ではないのである(言い換えれば、自分の直面する社会的諸関係が理論を変換するのであって、逆ではないのだ)。

最後に、大部分のアナキストは、リバータリアン自治体連合論が基盤としている全プロセスを疑問視している。コミューン群という考えは、アナキズムの鍵であり、今ここでコミューン群を創り出す戦略が重要なのである。だが、疎外された代議制諸制度を利用して、その諸制度を廃絶すると考えるなどキチガイ沙汰なのである。イタリアの活動(選挙ではない手段を使って町内集会を組織していた人)が論じているように、『権力を受け入れ、他人が悪しき信念で行動していると述べ、自分たちの方が良いと述べることは、直接民主主義に向かうよう非アナキストを強制するだろう。我々はこの論理を拒絶し、組織は草の根で出現しなければならない、と信じている。』(「イタリア南部における地域組織作り」、18ページ、黒旗、第210号、16ページ〜19ページ)

つまり、リバータリアン自治体連合論は、地域集会を創り出すプロセスを逆さまにしているのである。そうした諸団体を創り出すために選挙を利用する代わりに、アナキストは、自分の地域社会で直接それらを創り出すために活動しなければならないのである(詳しくは、セクションJ.5.1「地域組合主義とは何か?」を参照)地元の関心となっている特定の問題を触媒として、アナキストは、当該問題を議論するための地域集会の創造を提案し、それらを解決するための行動を組織することができるだろう。『民衆集会の制度を要求する自治体議会に候補者を擁立する連邦的自治体運動』(マレイ=ブクチン著、前掲書、229ページ)のではなく、アナキストは、そうした諸制度を自分たち自身で創り出すように民衆を勇気づけ、集団的自主活動によって民衆に権能を与えなければならないのだ。クロポトキンは次のように論じている。『法律は、達成された事実に従うことしかできない。法律が事実に正直に従ったとしても−−通常、それは真ではないのだが−−、法律に表明された諸傾向を達成された事実にするための必要な生き生きとした勢力がその場に存在しない限り、空文のままなのだ。』(クロポトキンの革命的パンフレット、171ページ)従って、大部分のアナキストは、選挙だとか地域集会を創り出したり「合法化」したりする法律の可決でエネルギーを浪費するよりも、自分の地域社会内部で直接に「生き生きとした勢力」を創り出すこと方がずっと重要だと考えているのである。つまり、地域集会は、選挙ではない手段によって、ボトムアップでしか創り出すことはできないのである。このプロセスを、リバータリアン自治体連合論は選挙運動と混乱しているのである。

リバータリアン自治体連合論は、確かに多くの重要な問題を提起しており、地域活動と地域自主管理の重要性を正しく強調しているが、選挙活動に対する強調がその解放的見込みを弱めてしまっている。大部分のアナキストにとって、地域集会は、下から、直接行動によってしか創り出すことはできない。(その選挙戦術のために)リバータリアン自治体連合運動は、最後には、それが廃絶しようとしているシステムのコピーへと変形してしまうであろう。

J.5.15 社会保障制度に対してアナキストはどのような態度を取っているのか?

現在、我々は、社会内部での国家の影響力を減じようという協同計画を目にしている。このことは、右翼が「自由」・「個人の尊厳と責任」・「効率性」の名の下に始めたものである。このプロセスに対するアナキストの立場は様々である。一方で、我々は、国家の規模を減少させ、個人の責任と自由を増大させることを好ましいとしているが、他方、このプロセスが労働者階級に対する攻撃の一部であり、国家の(直接的)影響力が減少すると、我々に対する資本家の権力が増加する傾向があると充分気がついている。従って、アナキストは、ジレンマに落ちっているように見えるのである−−少なくとも、見かけ上は。

それならば、アナキストは、社会保障制度とそれに対する現在の攻撃に対して、どのような態度をとっているのだろうか?(ビジネス型福祉に関する簡潔な議論は、次のセクションを参照)

まず第一に、我々は、「福祉」に対するこの攻撃は幾分選択的だ、ということを示さねばならない。「自己信頼」と「個人主義」というレトリックを使う一方で、そうした「愛の鞭」プログラムの実践者たちは、社会福祉を攻撃しながら、大企業が国家による施しと助成金とを確実に手にし続けるようにしてきた。つまり、社会保障制度に対する現在の攻撃は、支配階級への国家保護を増大しながら、労働者階級に市場規律を押しつける計画なのだ。従って、大部分のアナキストは、資本家階級が常に国家から受けている補助(直接的な補助金や保護も、財産を保護する法律などを通じた間接的な支援も)を考えれば当然だと思われるため、社会福祉プログラムについては問題視していないのである。そして、右翼は、個人の選択を増大するということに関するその言説にも関わらず、資本主義での労働時間に選択と個人の自由が欠如していることに関しては口を閉ざしたままなのである。

第二に、社会保障制度に関する右翼に影響された、福祉の弊害に関する攻撃の大部分は不正確なものである。例えば、ノーム=チョムスキーは、次のように書いている。『(右翼によって)逆に主張されているが、生活保護支給金と家族生活とは実際に関連している。貧困者に対する支援が減少すると、未婚者の出産率が顕著に増大する。未婚者の出産率は、1940年代から1970年代半ばに一貫して増加していた。「過去三十年にわたり、子供の飢餓率は、その十年後の十代の母親の出産率と完全に相関している」とマイク=メールズは指摘している。「つまり、子供の飢餓が十代の出産を導いていると思われるのであって、逆ではないのだ。」』(「削減 3」、Zマガジン、春号、1995年)同じことが福祉の弊害に関する主張の多くについても言えるのだ。金持ちと大企業は、そうした弊害から人々を(自分たちではなく)助け出そうとしているが、こうした利他主義は、まことに心温まるものである。

第三に述べておかねばならないが、大部分のアナキストは、集団的自助と集団的福祉を望ましいとしているが、社会保障制度には反対している。アナキストが創り出そうとしている代替案には、自主管理と公共地域福祉プロジェクト(次のセクションを参照)がある。それ以上に、過去において、アナキストとサンジカリストは、国家福祉構想に反対する最前線にいたのだ(記しておいた方がよいだろうが、国家福祉構想を導入したのは、社会主義者ではなく、自由主義者などの資本主義の支持者たちであり、その目的は、急進的代案を弱めること、そして、進歩的テクノロジーを使い、戦争を戦うために必要な教養があり健康な人材を創り出すことで長期的な経済発展を支援することだったのだ)。従って、我々には次のことが分かるのである。

『自由主義の社会福祉法案は(中略)多くの人々(英国サンジカリスト)にとって、本物の福祉改革ではなく、社会統制の仕組みとして見なされていた。サンジカリストは、そうした法案に抵抗する上で指導的役割を取っていた。その根拠は、労働に及ぼす資本主義的規律を増加させ、その結果、労働者階級の独立と自己依存を弱めてしまう、というものであった。』(ボブ=ホルトン著、英国のサンジカリズム:1900年〜1914年、137ページ)

アナキストは社会保障制度を一部のフェミニストと同じように見ている。そうしたフェミニストたちは『社会保障制度の男性優位構造』について述べている一方で、同時に、その制度が『男性優位の権力に挑戦し、女性の自律的市民権の基盤を提供する手助けをして』きたことにも気づいている(キャロール=ピートマン著、「男性優位の社会保障制度」、女性の障害、195ページ)。彼女は続けて次のように書いている。『女性が社会保障制度を考察してみれば、それは単に、男性への従属を国家への従属に交換するだけなのである。夫の権力と気まぐれさが、国家の恣意性・官僚制・権力に、つまり、男性優位の権力を持つ正にその国家に置き換えられるのである。(中略)(こんなことが)それ自体で男性優位の権力関係に挑戦することにはなりはしない。』(前掲書、200ページ)

社会保障制度は、労働者に、いかなる仕事であれ引き受けねばならない、もしくはいかなる条件にも耐えねばならないという以上の多くの選択肢を確かに与えている。だが、その一方で、このように市場と個人資本家から比較的独立することは、国家−−そもそも資本主義を保護し支援している正なる機関−−への依存を犠牲にしてなされるものだ。近年痛感されるようになったのだが、国家に最も影響を与えているのは支配階級である。だからこそ、どの国家予算を削減するのかを決めるときには、社会保障予算が真っ先に槍玉に上がるのだ。社会保障プログラムを管理しているのは国家であって、労働者階級ではないことを考えれば、そうした結果は驚くほどのものではない。このことに限らず、国家統制は、資本主義企業が創り出しているものと同じヒエラルキー構造を再現しているということもはっきりしているのである。

アナキストがそうした社会保障構想を全く好んではおらず、それらを自主管理という代案で置き換えたいと思っていたとしても驚くには当たらない。例えば、公営住宅の乗っ取りについて、コリン=ワードは次のように書いている。

『公営住宅の住人は、依存と憤慨の症候群に陥れられている。それは、その人の住宅状況を正確に反映している。人々は、何が自分のものなのか・何を修正でき、何を変えることができ、変化するニーズに何を合わせることができ、何を自分で改善できるのかを気にかけている。人々はそうしたことについて直接の責任を持たねばならない。

『公営財産の借家人による乗っ取りは明らかに理に適った考えの一つである。だが、公的問題に対する我々のアプローチは、未だに、19世紀の家族主義の世界で立ち往生しているため、この考えは今も潜在的なのである。』(アナーキーの実行、73ページ)

国家に支援された教育を調べながら、ワードは次のように論じている。『世界共通の教育システムは、貧困者が金持ちを補助するもう一つのやり方になっている。』だが、これは教育が抱えている問題の中でも些細なものである。なぜなら、『社会的不平等を永続させ、組織されたシステムの中で自分の地位を受け入れるように青年を洗脳することを本質的機能としている強制的でヒエラルキー型の諸制度を運営することこそ、公権力の性質だ』からである(前掲書、83ページ、81ページ)。

体系的に労働者階級を教化する手段としての公教育の役割は、ウィリアム=ラゾニックのエッセイ「労働者の資本への服従:資本主義システムの勃興」で熟考されている。

『1870年の教育法は(中略)5歳から10歳までの全ての子供たちに対する教育を義務化する(中略)諸機関を(中略)国家に(与えた)。同時に、次世代の労働者に及ぼす強力なイデオロギー管理システムを構築したのである。(中略)その機能は、国家の媒介を通じて、(資本の支配に対する労働者の)受動的に服従を受け入れる労働力を資本家階級が継続的に再生するという試みの中で、最高のイデオロギー機構としてのものだったのである。と同時に、教育法は、正反対の目的のために労働者階級が潜在的に利用できる公的機関をも築いたのだった。』(急進的政治経済学、第2巻、363ページ)

ラゾニックは、ピートマン同様に、資本主義内部にある福祉対策の矛盾した性質を指摘している。福祉対策は労働者階級を管理する手助けとなるように(そして、長期的経済発展を改善するために)導入された。だがその一方で、福祉対策は、労働者階級の人々が資本主義に対する武器として利用することができ、「労働か飢餓か」という選択肢以上のものを提供しているのである(英国における社会福祉に対する最近の攻撃−−充分皮肉なことだが労働のための福祉と呼ばれている−−に、仕事を拒否すれば生活保護手当を失うことになる、ということが含まれているという事実は、衝撃的な発展というわけではない)。つまり、福祉は賃金以下のある種の下限(a kind of floor under wages)として働くことが分かるのである。米国においては、これら二つは、共通の軌跡を辿っている(一緒に勃興し、共に破綻している)のである。福祉に対する現在の資本主義者の攻撃の真の動機は、このこと、つまり福祉が労働者にとって持ちうる潜在的な利益なのだ。

福祉が持つこの矛盾した性質のために、ノーム=チョムスキーのようなアナキストは次のように論じている。(南米の地方労働者が日常的に使っている表現を使いながら)『我々は、「鳥篭の床を拡大」しなければならない。我々は、自分たちが鳥篭に入っていることを知っている。我々は自分たちが罠にかかっていることを知っている。我々は床を拡大する。つまり、我々は、鳥篭が許している制限を拡大するのだ。そして、鳥篭を破壊しようとするのである。だが、鳥篭を攻撃せずとも、我々が無防備ならば、奴らは我々を殺してしまうであろう。(中略)私的権力のような外部からのさらに悪しき略奪者たちから攻撃されたときには、篭を守らねばならない。だから、それが篭だと認識しつつ、篭の床を拡大しなければならないのだ。これらは、全て、篭を取り除くための準備なのである。人々が、そのレベルの複雑さに進んで耐えようとしない限り、人は、苦難を被っている人々や援助を必要としている人々、この点に関していえば、自分自身にとっても無用なものになるであろう。』(「篭の床を拡充する」)

つまり、我々は、社会保障制度は鳥篭であり、階級権力の道具であることを理解しているが、さらに悪しき可能性−−つまり、労働者にほとんどもしくは全く権利を与えない、資本主義の「純粋な」防衛者としての国家−−からそれを防衛しなければならないのである。社会保障制度が矛盾した性質を、つまり、我々の選択肢を増大させるために利用できる緊張を持っていることは、少なくとも確かである。そして、そうした選択肢の一つが下からの廃絶なのだ!

例えば、公営住宅に関していえば、アナキストはまず第一に、それが温情主義的で官僚的であり、すばらしい生活経験だなどとは言えないことに同意するだろう。だが、そうした土地を私有にしてしまおうと思っている「リバータリアン」右翼とは全く逆に、アナキストは『借家人管理』が、地域社会と協力して個人所有の利益を提供してくれる(そして、社会的原子化のような財産の持つ負の効果がなくなる)ため、最良の解決策だと考えている。アナキストは、『借家人管理』の要求は借家人自身の『集団的抵抗』(たぶん、それは家賃の増加に対抗する闘争から成長するだろう)によって下からなされねばならない、と考えているコリン=ワードに賛同するのである(前掲書、73ページ)。

社会保障制度を廃絶しようという右翼「自由市場」の計画にある究極の矛盾はここに見い出される−−新自由主義は(「個人主義的」「改革」の扇動者である)国家を使って上から、生活保護を終わらせたいと思っている。自己解放による依存の終焉を求めずに、依存を国家から寄付と市場へ移そうとしているのである。逆に、アナキストは、『多重的な原告・患者・被害者の相互扶助組織』によって、福祉を受けている人々の直接行動で、下から福祉を廃絶させたいと思っている。このことは、『社会保障制度を本物の福祉社会へと変換する上で、地域福祉を福祉地域へと変化させる上で、最も強力な切換レバーだ』からである(コリン=ワード著、前掲書、125ページ)。

究極的に、国家社会主義者や自由主義左派とは異なり、アナキストは、社会主義・自由社会の状況が国家を利用することで支援されるなどという考えを拒絶しているのである。右翼同様に、左翼も、国家という観点で政治行動を見なしている。左翼のお気に入りの政策は全て国権主義的なのだ−−経済への国家介入・国有化・国家福祉・国家教育などなどである。問題が何であれ、左翼は解決策は国家権力の拡充にあると見なす。だから、人々を、自分たちのために問題を解決してくれる他人に依存させ続けているのである(それ以上に、そうした国家型「支援」は、問題の中核には到達しないのだ。それが行うことといえば、根本原因−−システムそれ自体−−を攻撃せずに資本主義と国権主義の症状と闘うだけなのである。)。

国家に対するこの支持は、常に、労働者階級の人々から遠ざかり、自分自身の諸問題を整理するために自分たちを信じることや、自分たちに権能を与えることから遠ざかる。実際、左翼は忘れているようだが、国家の存在理由は資本家などの支配階級の集団的利権を防衛することなのだから中立団体だとは見なすことはできないのだ。そして、最悪なことに、国家からの自由は市場の自由と同じことを意味する、と述べる機会を右翼に与えてきたのである(詳細については、セクションCとDで説明しているが、資本主義は優越的支配−−賃金労働−−に基づいており、それが存在し生き延びるためには多くの抑圧的政策を必要としているのである)。アナキストの意見としては、国家のためにボスを変えること(その逆も)は単に一歩脇によけただけであって、前進しているのではないのだ!結局、社会保障制度がどのように運営されるのかを管理するのは労働者ではなく、政治家・「専門家」・経営者なのだ。我々は、社会保障制度の諸要素を、闘争中の人々に対抗して、階級戦争の武器として利用されると見なしてきたが、それは驚くべきことではない(例えば、1980年代の英国では、保守党政府が、ストライキ中に給付金を求めることを違法にし、闘争中の労働者が利用できる資金を減らし、ストライキ参加者を直ぐにも仕事に戻すようボスを支援していたのだった)。

従って、アナキストは、不公正を被っている人々が自分たち自身で組織を作り、政治家や「専門家」が間違っていると主張していることではなく、自分たちが実際に間違っていると考えていることを変革できるようなやり方で組織を作るように勇気づける方が遙かに良いと考えているのである。この闘争の一部には、社会保障制度の諸側面を保護する(『鳥篭の床を拡大する』)ことが含まれる場合もあるだろう。それでもかまわないのだが、我々は、そこでとどまることはなく、自主管理型の労働者階級代替案を創り出すことによって下から社会保障制度を廃絶するための一ステップとしてそうした闘争を使うであろう。このプロセスの一部として、同時に、アナキストは、自分たちが「保護」しようとする社会保障制度の諸側面の変換を希求する。アナキストは温情主義的で官僚主義的で鈍感な制度を防衛しはしない。例えば、我々が地元の州が運営する病院や学校の閉鎖を止めさせることに関わっているのなら、アナキストは自主管理と地元地域管理という問題を、現状を凌ぐものになることを期待して闘争の中に提起しようとするであろう。

このことが意味しているのは、自分たち自身の事柄を集団的に管理することに慣れることができるということだけでなく、同時に、我々が自分で創り出す「安全策」はどのようなものであれ、資本が欲していることではなく、自分たちが欲していることを行うのだ、ということをも意味しているのである。採取的には、我々が自分たち自身の活動によって作りだし、運営していることは、資本主義国家の改良主義的諸側面よりも、自分たちの欲望に、階級闘争の欲望にもっと敏感なものになるであろう。我々は、このことだけは明らかだと考えている。そして、「急進的」左翼分子と「革命的」左翼分子が、この労働者階級自助への反対を主張し(そのことで、労働者階級運動にある自助活動の長い伝統を無視し)、そのかわり、資本家によって資本家のために国家が運営している保護機関を望ましいとしているなど、皮肉なのだ!

社会内部の福祉には二つの伝統がある。一つは、『下から湧き出る友愛的で自律的な連合。もう一つは、上から命じられる権威主義的諸制度である。』(コリン=ワード著、前掲書、123ページ)アナキストは、「自由市場」企業資本主義というもっと悪いものに反対して後者を擁護せざるを得なくなることもあるが、前者を創造し、強化することの大切さを忘れることはない。この点については、自主管理型公共福祉と自助組織の歴史的実例を強調しているセクションJ.5.16において、さらに論じる。

J.5.16 集団的自助には歴史的前例があるのか?

前例はある。我々は、あらゆる社会で、労働者が団結して相互扶助と連帯を実践しているのを目にしている。これらは、労働組合や産業別組合・信用組合・共済組合・協同組合などのような多くの形態をとっている。だが、資本主義の不公正に対する労働者階級の人々の自然な反応は、自分の生活を改善し、友人・地域社会・仕事仲間を保護するために、集団的「自助」を実践することであった。

残念ながら、この『労働者自助と相互扶助の偉大なる伝統は、社会保障制度の政治的・専門的計画立案者によって、不適切だというだけでなく、事実上の妨害だとして抹消された。(中略)この理論的寛大さ全てに対して受給者がしなければならない貢献は、単に恥だとして無視された−−もちろん、それに対する支払いなど以ての外であった。(中略)誰もが全てのものについて権利を与えられるが、全てについて実際に発言の機会を持っているのは提供者だけだという世界、これが社会主義の理想だとして書き換えられてしまった。私たちは数年にわたり、反福祉という激しい反発の中で、これがどれほど脆弱なユートピアだったのかを学んできたのである。』(コリン=ワード著、社会政策論:アナキストの反応、3ページ)

ワードは、この自助(と自主管理)の労働者階級活動を『私たちが取り損なった福祉の道』(welfare road we failed to take)と名付けている。

実際、アナキストは、自助は、自由の自然な副作用であると主張する。民衆が、自分たちの問題は何か・自分たちの関心はどこに存するのかを自分たちで自由に決定し、自分たちに関して行いたいと思っていることを自ら自由に組織しない限り、急進的社会変革の可能性はない。自助は、民衆が自身の生活を管理し、自身で行動することの自然な表現である。民衆のための国家活動を主張する人は社会主義者ではない。自助に対して「ブルジョア的だ」として反論する人は反資本主義者ではない。「自助」のレトリックを独占し、それを労働者階級の直接行動と自己解放に反対する新手のイデオロギー兵器へと転嫁させてきたのは右翼である。これは幾分皮肉なことである(そうしたことを述べながらも、右翼は、個別的な自助を一般に好むものである−−ストライキやスクワットなどの集団的自助運動が生じれば、それをまず最初に非難するのは右翼であろう)。

『政治的左翼は、長年にわたり、この種の言葉(「自助」・「相互扶助」・「自分の二本の足で立つ」など)を政治的右翼が盗用できるようにさせるという莫大な心理的誤りを犯してきた。前世紀の労働組合断幕を見てみれば、断幕の全面に刺繍された自助のようなスローガンを目にすることであろう。官僚主義的家族主義を好ましいとして、普通の市民が自身の生活を自分で管理することに価値は無いと愚弄し、そうした価値を政治的敵対者が取り上げるままにさせておいたのは、利口なフェビアン主義者と学者的なマルクス主義者だったのである。』(コリン=ワード著、住宅について語る、58ページ)

我々は、労働者階級の集団的自助と社会福祉活動の包括的リストをここで提供できるとは思っていない。ここでできることは概略を示すことだけである。数世紀にわたる労働者階級自助と協働の議論については、クロポトキンの相互扶助論以上に良い情報源はない。ここでは、(相互扶助論以外の情報源を使って)集団的福祉が実行されている例をいくつか挙げてみようと思う。

英国の場合、『新しく創り出された労働者階級が、何もない状態から、自助と相互扶助に基づいた社会的・経済的イニシアチブの大規模ネットワークを構築した。共済組合・建築組合・病弱者クラブ(sick clubs)・棺桶クラブ(coffin clubs)・被服クラブから、労働組合運動や協同組合運動のような莫大な連合事業に至るまで、このリストには終わりがない。』(コリン=ワード著、社会政策論:アナキストの反応、2ページ)

歴史家E=P=トンプソンは、労働者階級自助組織の広大なネットワークというこの図式を支持している:

『小規模商人・職人・労働者は皆、共済組合(中略)に加入することで、病気・失業・葬儀費用に対する保険をかけようとしていた。』これらは、『独立した労働者階級文化と労働者階級諸制度の正真正銘の証拠であり、(中略)その中で(中略)労働組合は成長し、その中で労働組合幹部は訓練された』のである。共済組合は『思想「から生じた」のではない。ある種の共通経験から生じた思想と諸制度双方から起こったのだ。(中略)共済組合の単細胞構造には、相互扶助という日常的指導原理とともに、多くの特徴を見ることができ、それが、労働組合・協同組合・ハンプデン=クラブ・政治組合(Political Unions)・チャーチスト=ロッジにおけるもっと洗練された複雑な組織の中に再現されていたのである。(中略)19世紀の前半には様々な証言−−聖職者・工場監視員・急進主義の宣伝係−−が、貧民街での相互扶助の広がりについて感想を述べていた。失業・ストライキ・病気・出産といった緊急時に、「隣近所のあらゆる人を手助けした」のは貧困者だったのである。』(英国労働者階級の形成、458ページ、460ページ〜461ページ、462ページ)

合州国については、サム=ドルゴフが、米国の労働者階級による同様の自助活動について優れた要約をしている:

『労働運動が堕落し、国家が介入してくるずっと前、労働者はあらゆる種類の協同組合的諸制度のネットワークを組織していた。学校・子供と大人のサマーキャンプ・老齢者の療養所・健康文化センター・信用組合・火災保険・生命保険・健康保険・技術教育・住宅など。』(米国労働運動:新しい始まり、74ページ)

ドルゴフは、全てのアナキスト同様に、労働者が『自分の欲求に適切に応じるための、あらゆる種類の独立した協同組合社会を確立するための資金を調達する』よう主張している。そして、そうした運動は、『ほんのわずかなコストで「エスタブリッシュメント」による凄まじい虐待に対する現実的な代案を創り出すことができる。』(前掲書、74ページ、74ページ〜75ページ)

このようにして、自主管理された公共的な福祉連合と協同組合のネットワークは建設できるのである−−このネットワークは、労働者階級の人々に支払われ、労働者階級の人々が運営し、労働者階級の人々のために運営されるのだ。そうしたネットワークは、当初は、原告・患者・借家人など現行の社会保障制度の利用者(前セクションを参照)の闘争で確立され、その闘争の一側面となるであろう。

そうした協同組合的で地域に根ざした福祉システムが、一夜にして創造されることはない。容易く生じもしない。だが、それは、歴史が示しているように、可能なのだ。もちろん、独自の問題も抱えることだろう。だが、コリン=ワードは次のように述べている。『地方主義的で権力分散型の観点に反対する標準的主張は、普遍主義の主張である。全ての市民に対する平等なサービスは、中央管理によって達成されると見なされているのである。この主張への簡潔な回答はこうだ。中央管理では達成されないのだ!』(コリン=ワード著、前掲書、6ページ)彼は、金持ちの地域は、社会保障制度から、貧困地域よりも良いサービスを一般に得ているものであり、従って、平等なサービスという主張を侵害しているのである。中央集権システム(国家にせよ私有にせよ)による資源の割り当ては、十中八九、官僚や専門家の利権と知識(の欠如)を反映するであろう。最も良く使用される場所や使用者のニーズに基づきはしないのだ。

アナキストは、地域的なインプットと地域管理に基づいた相互扶助組織と協同組合の連邦ネットワークの方が、中央集権的なものよりも−−地域インプットと地域参加が欠如していることで、幅広いヴィジョンと連帯よりも、地方根性と無関心を促すことが多くなるため−−、遙かにうまく地方主義の諸問題を克服できる、と確信している。自分に影響していることについて本当の発言権を持っていないのに、何故、他人に影響を与えていることについて関心を持たねばならないのだろうか?中央集権化は無気力を導き、それが次には無関心を導く。連帯を導きはしないのだ。ルドルフ=ロッカーは、次のように書いて中央集権化の弊害を我々に思い起こさせてくれている。

『なぜなら、国家中央集権制は、政治的・社会的均衡を維持するために最大限可能な社会生活の統一を目的としているが故に、適切な組織形態だからである。だが、その正なる存在が、好機に迅速な行動を取ることに依存している運動や、支持者の自立した思考と行動に依存している運動にとっては、中央集権主義は、運動の意志決定権限を弱め、あらゆる即時的行動を体系的に抑圧するが故に、忌むべきものにしかなり得ないのである。もし、例えば、ドイツでそうだったように、全ての地方ストライキが「中央」−−数百マイル離れていることが多く、通常地方の諸条件について正しい判断を下す立場にはいない−−によってまず最初に承認されねばならないとすれば、組織機構の惰性が、迅速な攻撃を全く不可能にしているのは当然であり、その結果、次のような情勢を生み出すのである。つまり、エネルギッシュで知的に機敏なグループがそれほど能動的ではないグループに対する模範としての機能を果たさなくなり、そうしたグループを怠惰だと非難するようになり、必然的に運動全体に停滞状況をもたらすのである。結局、組織は目的を達成する手段でしかないのだ。組織が目的それ自体になってしまえば、メンバーの魂と活気あるイニシアチブを殺し、全ての官僚制度が持つ特徴である凡愚政治による支配を創り出すのである。』(アナルコサンジカリズム、54ページ)

その一例として、彼は次のように記している。高度に中央集権化されたドイツ労働運動が、ヒトラーの権力奪取という『大災害を防ぐために指一本動かさなかった』こと、そして、ヒトラーが『数ヶ月のうちに彼らの組織を完全に粉々に叩きつぶした』一方で、スペインでは正反対のことが生じていたのだった(『そこでは、アナルコサンジカリズムが、第一インターナショナルの日々から組織労働者を掌握し続けていた』)。そこでは、アナルコサンジカリズムのCNTが、『フランコの犯罪的計画を妨害』し、『英雄的実例を示して、スペイン労働者・農民を戦闘に駆り立てたのである。』アナルコサンジカリスト労働組合の英雄的抵抗抜きにしては、ファシスト反動勢力が数週間で全国を支配していたことであろう。(前掲書、53ページ)

これは驚くべきことではない。数千人の地域行動の産物以外に何を地球規模の行動だというのであろうか?我々の階級内部にある連帯は、地域の自主活動・直接行動・自主組織という土壌から育つ花なのだ。地域的に活動し、組織しない限り、いかなる大規模な組織や大規模な行動も空洞になってしまうだろう。つまり地域的組織と権能とが、より大きな組織と相互扶助を創造し、維持するために本質的なことなのだ。

自主管理型福祉システムの利点を示したもう一つの実例を取ってみれば、『共済組合がストライキの時にメンバーが資金を引き出すことができるようにしたことは、(18世紀後半と19世紀初頭の)当局には継続的に不満だった』ということが分かる(E=P=トンプソン著、前掲書、461ページのフットノート)。社会保障制度に関して同じ不満が英国でも聞かれていた。ストライキ参加者がストライキ中に手当の要求をできたためである。1980年代の保守党政府は、産業紛争に参加している人々が手当を要求することを禁じた法律を可決することで、それを変えてしまった−−そのことで、闘争中の人々に対する潜在的支援を除去してしまったのである。そうした制限を自主管理型相互扶助協同組合のネットワークに押しつけることは(不可能ではないにせよ)非常に難しいであろう。こうした諸機関は、労働者階級の人々が支払わねばならない社会保障制度や税金がそうなったように、中央政府金融政策のおもちゃになりはしないであろう。

これら全てのことは、アナキストが、我々に通常提供されている民営資本主義か国家資本主義かというインチキな選択を完全に拒絶していることを意味している。我々は、民営制度と国営制度双方を拒絶する。右翼も(資本主義の)左翼も拒絶する。国営医療保障も民営医療保障も利用者管理ではない−−一方は政策要件の支配下にあり、他方は人間よりも利益を優先するのである。社会保障制度については既に前セクションで論じたが、民営化された福祉と、何故大部分のアナキストがその選択肢を国家福祉以上に拒絶しているのかについてここで簡単に論じることは大切だと思われる。

まず第一に、あらゆる民営の医療保障・福祉は、資本家に対して配当金を支払わねばならず、広告費を払わねばならず、「介護」プロセスを標準化することで−−つまり、マクドナルド化することで−−利潤を最大にするためにコストを削減しなければならない。これら全てが、全体としての産業にわたって価格を膨張させ、低水準のサービスを生み出すのである。アルフィー=コーンによれば、『営利目的の企業が病院とクリニックをより多く運営すればするほど、多くの機関は、「消費者」を得ようと戦わざるを得なくなり、熟練した介護者よりも熟練したマーケティング=ディレクターに、より高い価値を置くようになる。他の経済セクターでそうであるように、利潤追求の競争は、コスト削減の圧力へと変換される。それを行う最も簡単な方法は、儲けの上がらない患者、つまり、持ち金以上に病気の人々に対するサービスを切り詰めることなのである。(中略)』『結論:患者を獲得する競争が激しいところでは、病院のコストは実際にはもっと高くなる。』(アルフィー=コーン著、競争社会を越えて、240ページ)英国においては、「市場要因」を国民医療サービスに導入する計画は、サービスの官僚制を膨張させるだけでなく、コストの増加も導いている。

チリを見てみれば、社会保障を民営化しようとしている人々によって誇大宣伝されているが、同様の失望する結果が分かる(以下で分かるように、少なくとも労働者階級は失望しているのである)。一見して、チリの民営システムは、投資に対して目覚ましい平均収益を確立したように思える。だが、手数料を要素として組み込むと、個々の労働者に対する実質収益は非常に低い。例えば、1982年から1986年の財源に対する平均収益率(the average rate of return on funds)は15.9%だったが、手数料を差し引いた後の実質収益はたった0.3%だったのだ!1991年〜1995年については、手数料を差し引く前の収益は12.9%だったが、手数料を考慮すると2.1%に下落する。ダグ=ヘンウッドによれば、『競争的な投資信託(competing mutual funds)は膨大な販売人員を抱え、有価証券マネージャーは皆莫大な手数料を取っている。全般的に見て、経営コストは(中略)収益のほぼ30%になっている。比較すれば、米国の社会保障システムは1%以下なのである。』(ウォールストリート、305ページ)市場競争がチリの手数料を引き下げると思われていたが、民間年金基金市場(the private pension fund market)は一握りの企業に支配されているのである。経済学者ピーター=ダイアモンドとサルバドール=ヴァルデス=プリエトによれば、こうしたことは『独占主義的競争市場』を形成しているのであって、本物の競争市場を創り出しているのではない。同様のプロセスがアルゼンチンでも生じていると思われ、そこでは、課税対象となる給与のおよそ3.5%が相変わらず手数料なのである。セクションC4で論じたように、こうした寡占的諸傾向は資本主義に固有のものであり、従って、この発展が予期されなかったなどとは言えないのである。

手数料が低くなった(たぶん規制によってだろうが)としても、1982年から1995年に見られた印象的な資本収益(この時期、実質年次投資回収率は平均12.7%だった)が持続されるはしないだろう。これらの平均回収率はチリの好況期と一致していたが、それは、政府の高い借入費用で補われていたのである。1980年代の債務危機のために、ラテンアメリカ政府は、その公債−−社会保障資金の主要な投資媒体−−に対して二桁の実物利子率を払っていた。その結果、政府は、天文学的な率の国債を支払うことで「民営」システムを補助していたのである。

このシステムのもう一つ欠点は、安定して社会保障の負担金を支払っているのはチリ労働者の半数あまりでしかない、ということである。多くの人々次のように信じている。労働者は自身の個人的な退職金口座に入金するという大きな動機を持っているため、民営システムは脱税を減じるだろう、と。だが、1995年6月に新しいシステムに加入した人々の43.4%は定期的に入金しなかったのである(詳細は、ステッペン=J=ケイ著、「チリのペテン師:南米における社会保障の民営化」、米国の見通し、第33巻、7月〜8月号、1997年、48ページ〜52ページを参照)。

全体としてみれば、チリが何かを物語っているとすれば、民営化は中産階級の人々と資本家にのみ有益だということだと思われる。ヘンウッドが論じているように、『金銭の流入』は、社会保障制度を民営化することで生じたのだが、『チリの株式市場に驚愕すべきことを行った。』『将来の退職者の半数ほどが、貧困レベルの年金を受け取るという予測がなされているのである。』(前掲書、304ページ〜305ページ)

従って、アナキストは民営福祉をペテンだ(国家福祉よりも大きなペテンだ)として拒絶するのである。そのかわり、我々は、国家であれ資本主義であれ、ヒエラルキーに対する本当の代替案を、自由で公正な社会という思想を反映する代替案を、今ここで創り出そうとするのである。なぜなら、結局のところ、自由は与えられるものではなく、獲得するものだからであり、自己解放のプロセスは、階級戦争に打ち勝つ手助けとするべく構築される代替案の中に反映されるからである。

資本主義と国権主義に反対する闘争は、未来に向けて構築することを必要とする(『破壊への情熱は創造への情熱である』−−バクーニン)。そして、それ以上に、我々は次のことを覚えておかねばならないのだ。『大衆の創造的能力を信じず、反乱する能力を信じない人は、革命運動に属していない。その人は、修道院に行き、跪いて、祈りを始めるべきだ。なぜなら、その人は革命家ではないからだ。糞野郎なのだ。』(ウルライク=ヘイダー著、アナキズム:左・右・緑、12ページで引用されているサム=ドルゴフの言葉)

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