アナキズムFAQ


I.1.3 市場の何が悪いのだろうか?

悪いことは数多くある。市場は「市場力」もしくは「非人間的」力と称されていることをすぐさま生み出す。この力が、経済が機能するために求められていることを、その経済にいる人々に行わせているのである。資本主義者の弁解によれば、市場システムは自由な体制として出現し、そこでは、誰も他者に何かをせよと命じることはなく、適当だと思うだけ他者と「自由に」交換する、という。だが、事実は幾分異なっている。なぜなら、市場は、自分の望んでいるのとは逆の方向に人々を行動させたり、自分が実際には望んでいない自由合意を人々に無理矢理受け入れさせたりする事が多いからだ。賃金労働はこの最もはっきりした例である。というのも、セクションB.4で示したように、大部分の人々は、他者のために働く事に同意する以外ほとんど選択肢を持っていないからである。

ここで強調しなければならないが、全てのアナキストが市場に反対しているわけではない。個人主義アナキストは市場を好ましいとしている。プルードンは競争を保持したまま市場を修正したいと思っていた。多くの人にとって、市場は資本主義と同義である。だが、(経済的)階級、つまり、生産手段を所有している人々という根本問題を無視している以上、このことは間違っている。資本主義は、それが賃金労働、つまり、労働市場に基づいているという点でユニークなのである。労働者は自分の生産手段を所有してはおらず、生産手段を所有している人々に自分自身を売らねばならない。従って、社会の中に市場が存在し、その社会が資本主義ではないということはあり得るのだ。例えば、自立職人と農民の社会で、その生産物を市場で売る、これは資本主義ではない。なぜなら、労働者がその生産手段を所有し、管理しており、その結果、賃金労働(従って資本主義)は存在しないからだ。同様に、自主管理型協同組合と相互銀行からなるプルードンの競争システムは、同じ理由で、非資本主義(さらには社会主義)となる。アナキストは資本主義に反対する。それは、資本主義が民衆の間に生み出す社会的関係の質(つまり、権威主義関係)のためである。こうした関係が除去されるなら、そこで行われる所有の種類はアナキズム的なものである。つまり、望ましい種類の関係(つまり、自由・平等・連帯に基づいた関係)を生み出す限りにおいてのみ、所有の問題は重要になるのだ。「市場」や「財産」にだけ純粋に集中することは、社会的関係・資本主義の鍵となる側面である賃金労働を無視することになる。右翼がこのようにしているのは理解できる(資本主義が持つ権威主義的中核を隠そうとしているのだ)。だが、(リバータリアンなどの)社会主義者がこのようにしなければならない理由ははっきりしない。

FAQのこのセクションでは、資本主義市場ではなく、市場それ自体に対するアナキストの反論を論じる。市場の仕組みは、賃金労働の存在とは別個の諸問題、もしくは、賃金労働の存在によってさらに悪化した諸問題をそれ自体で確かに持っている。大部分のアナキストが市場に敵意を持ち、無政府共産主義社会を望ましいと考えているのは、そうした諸問題のためなのである。

相互主義、つまり自主管理型仕事場が競争するという市場社会主義システムを仮定した場合であっても、市場力がすぐさま多くの非合理性を生じせしめるということは明らかである。最もはっきりしていることは、市場での操作は利潤基準への服従を意味している、ということである。つまり、労働者がどれほど社会基準を使いたいと望んでいたとしても、それは不可能なのだ。採算性を度外視することは、事業を破産させかねない。つまり、市場は、労働者と消費者に、自分たちのためにならないことを無理矢理決定させる諸条件を創り出すのである。それは例えば、単純作業化や公害を生み出すテクノロジーの導入・長時間労働などである。また、産業での数多くの死亡事故や怪我(米国における工業死亡事故は、控えめに見積もっても、年間14000〜25000人であり、さらに2百万人以上が怪我によって障害を負っている)、公害やストレスの増加によって寿命を縮められていることも指摘できるだろう。これらは、市場力によって、適切な安全器具や労働条件を導入することが利益を生み出さないようにされているために引き起こされているのだ。

さらに、市場型システムは、我々が「数学の倫理」と呼んでいることを引き起こす可能性を持っている。この倫理では、人間よりも事物(特に、金銭)が重要になっている。このことは、非人間化効果を持ちかねない。人間が、人間よりも利益を優先させる冷徹な計算機になるのである。資本主義においてこのことは見ることができ、そこでは、経済的諸決定は倫理的諸決定よりも遙かに重要になる。そして、そうした非人間的メンタリティは市場で報酬を与えられるものなのだ。メリットは「必ずしも」成功を生むわけではなく、成功には「必ずしも」メリットがあるわけではない。真実は、ノーム=チョムスキーの言葉を使えば、次のようになる。『富と権力は、無情で、狡猾で、貪欲で、身勝手で、共感も同情も欠如し、権威に服従し、物質的利益のために原則を破棄するといった人々に対して生じるものだ。(中略)こうした性質が価値あるものとなるのは、万人に対する万人の戦争の場合だけであろう。』(国家の事由、139ページ〜140ページ)ソースタイン=ヴェブレンは、このテーマを有閑階級という資本主義心理の古典的分析の中で詳細に論述している。言うまでもなく、市場がそうした人々に成功報酬を確かに与えているのであれば、良いことだなどと考えることなどできはしない。金儲けを最も重要な個人活動の地位まで引き上げているシステムは、明らかに、人間的価値の堕落を生みだし、神経症的・精神病的行動を増大させるであろう。

当然のことだが、アルフィー=コーンが論じているように、競争は、仕事以外の場面でも我々に重大なマイナスの効果を与える可能性がある。私的心理と対人関係双方を害するのである(詳細は、彼の優れた著書競争社会を超えてを参照)。市場は、個人としての我々を貧弱にし、自尊心を破壊し、服従心を助長し、対人関係を崩壊させ、自分の可能性を役立たずにしてしまう。これは、資本主義市場だけでなく、市場それ自体の問題なのだ。

いかなる市場システムであれ、その特徴は、生産と消費の拡大を継続的に必要とすることである。つまり、市場力が、労働を継続的に拡大させ、人間と地球にとって潜在的に破壊的な結果を引き起こしているのである。競争は、我々が一度たりともリラックスすることができないようにしている。マックス=シュティルナーは次のように論じている。『止む事なき獲得は、我々に息をつく暇を与えず、穏やかな楽しみを享受することを許さない。我々は自分の所有物から安らぎを得てはいない。(中略)従って、いずれにせよ、労働が競争の下にある以上、人間の労働が自分たちの時間と苦役を和らげることはない、ということに合意することが有用であろう。』(唯一者とその所有、268ページ)

価値は創造されねばならないが、それは労働によってのみ創造できる。資本主義の支持者たちが、「仕事」は地獄であり常に地獄となるだろう、とよく述べている一方で、「仕事」と「仕事」を行っている人々を単純作業化し、自動化しながら、その「仕事」(つまり、労働)を絶えず拡大しなければならない経済システムを支持しているなど、皮肉なものだ。逆に、アナキストは、仕事は地獄である必要はなく、実際、スキルと自主管理によって充実させることで、楽しいものとなり得る、と主張する。さらに進んで、仕事で我々の時間全てが取られる必要はなく、労働(つまり、不必要で退屈な仕事)は最小限にすることができるし、そうするべきだ、と主張する。故に、「反仕事」の資本主義者が人間をさらに多くの労働に服従させている一方で、アナキストは「仕事」の解放と生活様式としての「労働」の終焉を望んでいるのである。

さらに、市場の決定は、金銭でその要求を後押しできる所得層の購買力によって大きく制約されている。市場は、商品・資源・サービスを継続的に入札する。そこでは、最も購買力を持ったものが勝者になる。つまり、市場システムは、購買力の分配が不平等になされている時には、最悪の資源割り当てシステムとなるのである。正統派経済学者が、市場型資源分配が最良だということを示そうとする(例えば、「パレート最適性」)ときに、「所定の収入分配」という便利な仮説を立てる理由はこれなのである。相互主義システムは不平等を劇的に減少させるが、長期的に見て不平等が増大しないとは仮定できない。資源の不平等が市場における力の不平等を導くからである。いかなる取引でも契約でも、力を持つものが持たざるものよりも多くの利益を得ることになるため、当事者間の不平等と力を再び強め、潜在的に増大させる可能性を持っているのである。このことは、いずれ、資本主義への回帰を導きかねないのだ(プルードン自身が記しているように、『(契約者と労働者との間にあった)元々の平等は、主人という有利な立場と賃金労働者の従属とのために、消滅する運命にあったのだ。』経済的契約システム、201ページ)。

一つの階級による生活手段の独占を伴えば、市場力と不平等な購買力の効果は恐ろしいものになりかねない。アラン=エングラーは次のように指摘している。『民衆が生活手段へのアクセスを否定されても、市場力の見えざる手が民衆のために介入することはない。需要と供給の均衡と人間の欲望とに必然的な関係などない。例えば、100万人の民衆がいる国で、90万人が生活手段を持っていない場合を考えてみよう。100万ブッシェルの小麦を購入し、全ての収穫高を10万人に対して1ブッシェル当たり10ドルで売るとする。需要と供給は均衡状態にあるが、90万人は飢餓に直面するのである。』(貪欲の使徒たち、50ページ〜51ページ)これは理論上で生じるだけだと考える人もいるだろうが、飢餓に襲われているアフリカ諸国の実例は、はっきりと、このことが現実に生じていることを示している。そこでは、金持ちの地主が換金作物を育て、食物を先進国に輸出している一方で、自国にいる数百万人が餓死しているのである。

最後に、市場システムによる流通の様々な結果を示しておこう。市場は「出口」(exit)だけで知らせる−−市場で見つけることができる産物もあるが、見つけられないものもある−−ため、「声」(voice)は存在しない。「声」ではなく「出口」を操作することで、市場での力を持っていない人々が置き去りになる。例えば、金持ちは添加物で汚染された食物を買わず、貧困者がその食物を消費する。つまり、二つの環境−−富を持った人々が住む環境と富を持たない人々が住む環境−−の分断が大きくなるのだ。発展途上国に対して「公害を輸出する」という現在の資本主義実践からも分かるように、この問題は重大な生態学的・社会的結果を持ちかねない。従って、市場は、「一ドル、一票」に基づいた「民主主義」などではなく、寡頭政治なのだ。例えば、『1987年に最低賃金を稼いでいた79000人の米国人が、それら全ての総額を「稼いでいた」マイケル=ミルケンと同じ影響力(つまり「票」)を持っている』のである(マイケル=アルバートとロビン=ハーネル著、参加型経済学の政治経済、21ページ)。

言い換えれば、市場は、効果的な要求のために、つまり、金持ちの人々の要求のために、常に歪められているのだ。市場は、パレート最適かもしれないが、最も必要としている人々に生活必需品を割り当てることなどあり得ないのだ(数学的厚生経済学の架空の抽象概念を除いて)。

さらに、市場が外的コストを内面化することはない。市場に適った商談を取り決めた二人(もしくは二つの企業)は、自分たちの取引外にいる人々に対してその取引の結果を配慮することはないし、地球に対する影響を配慮する必要もない。つまり、市場交換は、その結果がより広い社会に影響を及ぼす(例えば、公害、不平等などの点で)にも関わらず、双務契約ではないのだ。市場は、将来の世代の欲望も無視する。常に、長期的将来の価値を軽視するのである。現在から1000年間(単なる地質年代の一点である)かかる支払いの市場価値は、お馴染みの公定歩合に従えば、実質的にゼロである。競争圧力が、民衆に対する短期的観点を、現在と将来の世代だけでなく地球の生態系にも有害なものにしている以上、50年先でさえも適切に配慮することなどできないのだ。

同様に、市場は、我々が価格をつけていない事物の価値を反映しない(セクションB.5で論じたように)。例えば、市場は原生地帯を保護できない。単に、市場は、人々に、原生地帯を不動産に転化させ、商品として売らさせなければならないからだ。この新しい商品を訪れることができなければ、人が原生地帯をどれほど尊重していようとも、市場はそれを別なものに転化させる。このために、市場は合理的意志決定に必要な情報を本当に提供できず、その結果、資源は非効率的に割り当てられ、我々は皆、その影響に悩まされるのである。

従って、効率性と市場が必ずしも一致していないだけでなく、実際には必ず一致しない、という多くの理由があるのだ。事実、個々人の欲望に応じずに、市場は金銭(もっと正確には利潤)に応じており、利潤はその性質上、個々人の嗜好を歪めて示すのである(そして、きれいな空気のように集団的に享受される価値観や、人が一度も訪れたことはなくてもその存在を見て保護したいと望む原生地帯のように潜在的に享受される価値観を配慮しないのである)。

つまり、「見えざる手」と「個人の自由」について語っていても、資本主義は経済と社会において現実に生きている個人を無視しているのだ。資本主義者がその「自由な」システムの基礎としている「個人の権利」は、何を「人が欲しているのか」に関する「人類の権利」である、と言われる。だが、結局「人類」とは、単なる抽象であり、現実に生きている存在ではない。「人類」について語り、この抽象物が欲しているとされるものに対する「権利」を基礎とすることで、資本主義と国家主義は個々人の唯一性と、その唯一性を発達させるために必要な諸条件を無視しているのである。マックス=シュチルナーは次のように指摘している。『人類に夢中になっている人は、その夢中さが存在している限り、個人を論外のものとし、理想的で神聖な興味を彷徨っている。お分かりだろうが、人類は個人ではなく、理想であり、幽霊なのだ。』(唯一者とその所有、79ページ)そして、あらゆる幽霊がそうであるように、犠牲を求めている−−個性をヒエラルキーと権威の犠牲者にするのだ。

資本主義にあるこの反個人的偏見は、そのトップダウンの性質と、現実を偽装するために使われるニュースピーク(政治家などが世論操作のために用いる表現方法)に見ることができる。例として、「労働市場の柔軟性の増加」と呼ばれることがある。「柔軟性」は何か素晴らしいもののようだ。厳格な構造は魅力がなく、人間の成長には適していない。だが、現実には、ノーム=チョムスキーが次のように指摘してる通りなのだ。『柔軟性とは不安定を意味します。夜に眠るとき、明日の朝に仕事があるかどうか分からない、と言う意味なのです。これが、労働市場の柔軟性と呼ばれています。経済学者ならば、これは経済にとって良いことだと説明できるでしょう。「経済」とは、利益を上げることだと現在我々は理解しています。「経済」は、人々が生活する方法を意味していないのです。これは経済にとって都合がよい。一時的な仕事は柔軟性を増大させる。低賃金も雇用不安を増大させる。これらがインフレを低く抑えてくれる。例えば、公債証書保有者のように金を持っている人々にとっては良いことなのです。従って、これらは全て、「健康な経済」−−つまり非常に高い利益を伴う経済−−と呼ばれていることに貢献しているわけです。利益は上々。企業の利益は急上昇。しかし、大部分の人々にとっては、非常に残酷な情況なのです。そして、残酷な情況は、将来に対する見通しが多くなくとも、建設的な社会行動を導くかも知れませんが、見通しが欠如していれば、人々は自分を暴力で表現するのです。』(野次馬を整列させる、283ページ〜284ページ)

だからといって、社会的アナキストが市場を「禁止」しようと計画しているわけではない−−全く違う。そんなことは不可能であろう。我々が計画しているのは、利潤に基づいた市場システムは、個人・社会・地球の生態系に明らかに悪い影響を持っており、そのシステムをリバータリアン共産主義で置き換えるための共通の活動を組織できる、ということを人々に確信してもらうことなのだ。マックス=シュティルナーは次のように論じている。『競争は(中略)継続的存在である。(中略)(なぜなら)万人が万人の問題を配慮し、それについてお互いに理解し合うようになりはしないからだ。(中略)競争を揚棄することは、同業組合を助成することと同義ではない。その違いはこうだ。つまり、同業組合では、パン焼き等々は組合員たちの問題である。競争では、それは任意の競争者たちの問題である。焼かれたパンを必要とする者たちの連合では、それは、組合の問題でもなければ認可されたパン屋の問題でもなく、私の問題・君の問題であり、つまりは連合者たちの問題である、ということなのだ。』(唯一者とその所有、275ページ)

それ故、社会的アナキストは、市場が持つ非人間化効果に対して闘争するときに「多元論」に訴えはせず、むしろ、エゴイズム−−協働と相互扶助は個々人として最も関心があることだ、という単純な事実−−に訴える。『連合者たちの問題』について協働し、管理することで、生活する価値のある自由社会を必ず手に入れることができるようになる。自由社会では、個々人は市場力によって破壊されず、自分自身の個性と唯一性を十全に発達させる時間を持つのである。

従って、連帯は、人間が最大限の安全と幸福を獲得する状態である。故に、もっぱら自分自身の関心事だけを配慮するエゴイズムそれ自体が、人間と人間社会を連帯に向けて駆り立てるのである。(エンリコ=マラテスタ著、アナーキー、28ページ)

I.1.4 資本主義が搾取的だと言うのならば、社会主義だってそうなのではないのか?

「リバータリアン」資本主義者の中には、この疑問に対してイエスと答える人もいる。労働価値説が示しているのは、社会主義ではなく、自分たちが「自主管理型」資本主義と呼んでいることだ、というのがその主張である。しかし、これは妥当な推論ではない。労働価値説は、社会主義(自分の労働の産物を売ること)と共産主義(欲望に応じた分配)の双方を示しうる。この説は資本主義を批判しているのであるが、必ずしも社会主義経済の基盤ではない。もちろん、社会主義の基盤となることも同様にあり得るわけだが。例えば、プルードンは労働価値説を相互銀行と協同組合という自分の計画の礎にしており、ロバート=オーエンは労働券システムの基礎として考えていた。一方、マルクスは、共産主義を望みながらも、労働価値説を純粋に資本主義批判として使っていた。

言い換えれば、協同組合型市場販売システム(これを「自主管理型」資本主義だと誤って呼んでいる人々もいる)や労働時間価値の交換は共産主義ではないだろうが、資本主義でもない。なぜなら、労働者が生産手段と分離しているからだ。従って、右翼リバータリアンがそれらを資本主義だと主張しようとしているのは誤りである。これは、国家共産主義と封建主義を除く実質的に全ての経済システムが資本主義だ、という誤った主張の一例なのである。同様に、リバータリアン=マルクス主義者(やレーニン主義者)の中には、非共産主義の社会主義は「自主管理型」資本主義でしかない、と主張している人々もいる。何故、リバータリアン=マルクス主義者が、共産主義かさもなくば何らかの資本主義か、というように人間が直面している選択肢を狭めようとしているのか、率直に言って奇妙である。ただ、資本主義下に見られる市場システムの潜在的な非人間化効果を考えれば、分からないでもないが。

共産主義(資源への自由なアクセスと資源の共有権に基づいた)は、労働者が非労働者(若者・病人・高齢者など)によって搾取されていることを意味することになる、と論じることもできよう。可哀想に、この主張を擁護している資本主義賛同者は、個人的同情心(従って、倫理)を失っているのであろう。しかし、無政府共産主義に関する限り、この主張は完全に焦点がずれている。

まず第一に、『無政府共産主義が意味しているのは、(中略)自発的共産主義、自由選択の共産主義である。』(アレキサンダー=バークマン著、アナキズムのABC、11ページ)つまり、無政府共産主義を誰かに押しつけるのではなく、それを信じている人々だけが創造し、実践する。従って、自分たちの労働の産物をどのように分配するのかを決定するのは地域社会とシンジケートであり、自分の善悪概念に合う人々と協力したり、建設的なことを行ったりするのは個々人なのである。同一賃金にすると決める人もいれば、労働時間による賃金に決める人もいるだろうし、共産主義的連合(多くのアナキストが、共産主義は民衆の自己利益になる、と考えているが、その理由は他のところで示したため、ここでは繰り返さない)に決める人もいるだろう。はっきりと理解しなければならない大切なことは、生産活動をどのように行うのか、生産物を交換するのかそれとも自由に分配するのか、を決定するのは協同組合だ、ということである。つまり、無政府共産主義は、自由合意に基づいている以上、搾取的になり得ないのだ。結局、共産主義の協同組合メンバーは、自由にメンバーを辞めることができるのである。言うまでもなく、協同組合は、通常、その産物を連邦にいる他者に分配し、非共産主義の連邦とは別なやり方で交換することになるだろう。「通常」という言葉を使ったのは、地震などのような緊急時を想定しているためであり、こうした情況では相互扶助が必要となるからである。

第二に、いわゆる「非労働者」は、それまで労働者だったり、今後労働者になったりする。著名なスペインのアナキスト、デ=サンティリャンは次のように指摘している。『当然、子供たち・老人・病人はパラサイトと見なされない。子供たちは成長すれば生産者になる。老人はこれまで既に社会的富に貢献してきた。病人は一時的に非生産的になっているだけである。』(革命の後に、20ページ)言い換えれば、一生の内に誰もが社会に貢献するものであり、だからこそ、資本主義の「会計簿」メンタリティを使用することは見当違いなのである。

資本主義が搾取的な理由は、労働者が、まず第一に雇用されるために自身の労働の産物を他者(ボス)に与えることに同意しなければならないということである(セクションB.4を参照)。資本家は、自分の資本が利益を生み出さなければ、資本家ではいられない。リバータリアン共産主義では、逆に、労働者自身が自分の生産物の一部を他者(全体としての社会・隣近所・友人など)に分配することに同意する。リバータリアン共産主義は自由合意に基づいているが、資本主義は力・権威・市場の堅固な手がその特徴である。資源が共有化されていれば、民衆は、望むならば、独りぼっちで働くという選択肢を持つことができるのである。

同様に、資本主義は、本来的に「成長か死か」のシステムであり、新しい領域に拡大しなければならない。つまり、リバータリアン社会主義とは異なり、他の社会システムを蔑ろにし、それに置き換わろうとするのである(歴史の教えるところによれば、通常、力によって)。自由は与えられるものではない。だからこそ、リバータリアン社会主義システムが、資本主義体制に虐げられている人々に対する「好個の一例」という影響力以上に拡大する理由などないのである。

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