アナキズムFAQ

E.1 生態系諸問題の根本原因は何か?

 環境破壊に伴う危険は過去数十年間でよく知られるようになってきた。実際、現在直面している危機の意識は、主流派政治の一部にもなってきている。環境諸問題は重要ではないとか存在しないとか主張している人々(事実上、少数の変人や、大企業と右翼シンクタンクに資金提供されているいわゆる「科学者」)は、ありがたいことに、軽んじられるようになってきている。政治家も大企業も、自分達に「グリーン」の資格があると公言したがるようになっている。これは皮肉なことである。アナキストは、国家も資本主義も現在直面している環境諸問題の主原因だと主張するつもりなのだから。

 つまり、アナキストは、現在直面している公害などの環境諸問題は症状だと主張する。病理それ自体は現在生活しているシステムに深く埋め込まれている。こうしたより深い原因から生じるもっと顕著な結果を扱うことと平行して、病理それ自体に取り組まねばならない。そうしなければ、症状を単独で取り除こうとしたところで、ちょっとした一時しのぎ以外にはなり得ない。根本原因が取り除かれるまで何度も繰り返し現れ続けるだけなのだから、基本的に無意味なのだ。

 アナキストにとって、セクションA.3.3で記したように、生態系諸問題の根本原因は社会的諸問題にある。ブクチンは「第一自然」と「第二自然」という言葉を使い、この考えを表現している。第一自然は環境であり、第二自然は人間である。後者は、良い方向にも悪い方向にも、前者を形成出来、前者に影響を与えることができる。後者が前者をどのようにするのかは、後者が後者自身をどのように取り扱うかに依存する。適正で良識がある平等主義的な社会はそれが生息する環境を適正に良識をもって尊重しながら扱うだろう。不平等・ヒエラルキー・搾取に特徴付けられる社会は、その環境を、社会の構成員がお互いを扱うように扱うだろう。つまり、「自然を支配するという考え全ては、人間が人間を支配しているというまさにそのことから生じている」のだ。「人間による人間の支配は、自然を支配するという概念に先んじていた。実際、人間による人間の支配が、自然を支配するというまさにその理念を勃興させたのだ。」明らかに、これが意味しているのは「私たちがあらゆる形態の支配を取り除くまで、理性的な生態調和社会は真に創造されない」ということである [Remaking Society, p. 44]。

 我々は、自分達を劣化させることで、自分達の環境を劣化させる可能性を創り出している。つまり、アナキストは「生態学的劣化は、その大部分が、飢餓・物質的不安定・階級支配・ヒエラルキー支配・家父長制・民族差別・競争による人間の劣化の産物だと強調する。」[Bookchin, "The Future of the Ecology Movement," pp. 1-20, Which Way for the Ecology Movement?, p. 17] これは当然だ。「自然は、全ての唯物論者が知っているように、単に人間の外に在る何かではない。私達は自然の一部である。その結果、自然を支配する際には、『外的世界』を支配するだけでなく、自分達自身をも支配しているのである。」[John Clark, The Anarchist Moment, p. 114]

 この分析の重要性は強調してもし足りない。「社会における根深い分断がヒエラルキーや階級と共に出現した」ことを無視することはできない。このようにすることで、「社会の現実とは全く食い違っているのだが、成年も老人も、女性も男性も、貧者も金持ちも、搾取する側もされる側も、有色人種も白人も、誰もが同等に」置かれてしまう。「そして、誰もが、個々人の背負わねばならない義務が異なっているにも関わらず、この惑星の病理に同じ責任を持たされる。飢餓に苦しむエチオピアの子供達であれ、大企業の財界人であれ、誰もが現在の生態系諸問題を生み出す上で等しく有罪だと見なされる。」これらは脱社会化されており、従って、この観点は「現代の生態系攪乱の根深い社会的根元を避けている。」そして、「効果的な社会変革を生み出すことのできる実践から無数の人々を逸らす。」これは、「現代の社会的・生態学的病理を、搾取的社会の全ての犠牲者のせいだと非難したがっている特権階層の思うつぼに容易くはまっているのだ。」[The Ecology of Freedom, p. 33]

 つまり、エコアナキストにとって、ヒエラルキーこそが現代の生態系諸問題の根本原因なのである。ヒエラルキーには、経済的階級も含まれる、とブクチンは記している。「そして、階級社会を歴史的に勃興させさえした。」しかし、ヒエラルキーは「大規模な経済的階層形態に帰属されているこの限定的意味の範囲を超えている。」ヒエラルキーとは、「エリートが従属する側に対して、必ずしも搾取せずとも、様々なレベルの統制を享受する命令と服従」のシステムのことである。[Ecology of Freedom, p. 68] 彼は強調していた。アナキズムは「初めて、単に経済的階級にではなく、ヒエラルキーに生態調和諸問題の根を下ろさせたのだった。」[Remaking Society, p. 155]

 言うまでもなく、ヒエラルキーの諸形態は、長年にわたり変化し、進化してきた。ヒエラルキーに関するアナキズムの分析は、「経済的搾取形態を充分越え、家族内、世代間、性別間、民族集団間、政治・経済・社会運営に関わる諸制度に、そして、非常に重要なことだが、私達が現実を−−自然や人間以外の生命体も含めた−−全体として経験するやり方に存在する文化的支配形態へと」進む。[前掲書, p. 46] つまり、アナキストは生態系破壊は最も大部分の人間社会に存在し、資本主義にだけ限定されてはいない、と認識しているのである。ある程度まで、あらゆるヒエラルキー型前資本主義社会にも存在していたし、もちろん、ヒエラルキー型のポスト資本主義社会にも同様に存在している。しかし、我々の大部分が今日資本主義の下で暮らしている以上、アナキストはこのシステムに自分達の分析を集中し、それを変革しようとしている。アナキストは、本質的に反生態学的性質を持っているが故に、資本主義を終焉させる必要を強調する(「『文明』史」は自然から常に離反するプロセスであり、徹底的対立へと次第に発展している」)。我々の社会が直面しているのは、「価値観と諸制度だけでなく、自然環境の破綻なのだ。この問題は現代独特のものではない。」しかし、以前の環境破壊は「産業革命時代以降、特に、第二次世界大戦の終結以降に生じた大規模な環境破壊よりも見劣りがする。現代社会が環境に負わせている被害は、全世界を網羅している。地球の搾取と汚染は、大気・気候・水資源・土壌・植物相・特定地域の動物相の完全性だけでなく、あらゆる生命が依存している基本的な自然サイクルをも損なっている。」[Bookchin, Ecology of Freedom, p. 411 and p. 83]

 これは、セクションD.4で論じた資本主義の「成長か死か」という性質に根元を持つ。永久に拡大し続ける資本主義は、必然的に、限りある惑星とその壊れやすい生態系と衝突せざるを得なくなる。成長するためにその利潤を最大限にするという目的を持った企業は、行い得るものならば誰でも・何でも大喜びで搾取する。資本主義が人々を搾取することに基づいている以上、資本主義が自然も搾取するようになるということを疑うことなどできるだろうか?従って、このシステムが富の真の源泉−−つまり自然と人間−−の搾取をもたらすことは当然である。労働者から強奪するのと同じぐらい、自然からも強奪しているのだ。マレイ=ブクチンを引用しよう。

生態系危機をブルジョアの枠組み内で解決しようという試みは、空想だとして却下せねばならない。資本主義は本質的に反生態学である。競争と蓄積がまさにその生命法則となる。この法則は「生産のための生産」というフレーズに要約される。どれほど神聖であろうが珍しかろうが、いかなるものであれ「その値があり」、市場の格好の餌食なのである。この種の社会では、自然は必然的に単なる資源として扱われ、略奪され搾取される。自然界の破壊は、単なる思い上がった大失敗の結果などではなく、資本主義生産が持つまさにその論理に厳然と追随しているのだ。[Post-Scarcity Anarchism, pp. viii-ix]

 従って、大部分、環境諸問題は、資本主義が競争経済であり、「成長か死か」という格言に主導されているという事実に由来する。これは、まさに資本主義の生命法則である。なぜなら、企業が拡大しなければ、事業から駆逐されたり、競争相手に乗っ取られたりしてしまうからだ。つまり、資本主義経済は成長と生産のために成長と生産を行うプロセスに基づいているのである。ブクチンは強調する。「最大限道徳的に語ったり、敬虔に振る舞ったりしたところで、社会の最も分子的な基盤での競争関係こそがブルジョアの生命法則であるという事実を変えることはできない。競争相手を弱体化させ、買い上げ、さもなくば吸収合併したり出し抜いたりするための蓄積は資本主義経済秩序で存在するための条件なのだ。」これは次のことを意味する。「処置されなかった癌が究極的にその宿主を破滅させるのと丁度同じように、競争のための競争・成長のための成長に基づく資本主義社会は究極的に自然界を破滅させる。良かれ悪しかれ、個人的な意図はこの無慈悲なプロセスについては何の関係もない。『成長か死か』の格言を中心に構造化されている経済は、必然的に自然界と対立し、後に残るのは生態系破滅となる。この経済は、生物圏を押し分けて動くからだ。」[Remaking Society, p. 93 and p. 15]

 つまり、善意や良い理念は資本主義事業の生存に何の関係もないのである。資本主義経済で「道徳的」になる非常に簡単な方法がある。経済的自殺である。これは、資本主義内部のもう一つの重要な反生態傾向を説明する手助けをしてくれる。つまり、私的コストを最小限にするために生産コストの外面化を推進する(地域社会全体へ引き渡す)ことで、利潤を、成長を、最大にするのである。セクションE.3で詳細に論じることになるが、資本主義は汚染の形を取ってコストを外面化する先天的傾向を持っている。資本家の利潤を最大にするためにこの惑星を汚染するというある種の短期的観点に見返りを与えるからだ。また、これは、資本主義が拡大する必要が、量で行った意志決定を質へ変形するという事実に後押しされている。言い換えれば、何かが短期的利益を生み出すかどうかが意志決定の指針となる原理であり、価格メカニズムそれ自体が生態学的知識に基づく意志決定を行うために必要な情報を抑制するのである。

 ブクチンは次のように要約している。資本主義は「社会的進化を生態学的進化と絶望的に相容れないものにしてきた。」[Ecology of Freedom, p. 14] 資本主義は自然との持続的関係を欠いているが、それは偶然のためでも無知のためでも悪意のためでもなく、まさにその性質と働きのためである。

 幸運にも、セクションD.1で論じているように、資本主義は長い間完全にそれ自体の論理だけに基づいて作動できたことはなかった。そのように作動するときには、反対の諸傾向が発達し、市場要因と金銭を蓄積する必要とに社会が破壊されないようにする。反対勢力は常に出現し、それは国家介入の形態をとったり、改良やもっと急進的な社会変革を求めた社会運動だったりする(前者は後者の結果であることが多いが、常にそうだというわけではない)。どちらも資本主義がその最悪の傾向を抑えざるを得なくしている。

 しかし、国家介入は最良の場合でも短期的である。その理由は、国家が資本主義と全く同じ社会的支配・抑圧・搾取システムだからである。このことが、アナキストが生態調和社会を生み出すために排除しなければならないと主張する重要な制度、国家に目を向けさせる。アナキストが主張しているように、民衆の抑圧が生態系諸問題の根本原因だとすれば、論理的に言って、生態調和社会を創り出すためにも、それを管理するためにも、国家を使うことなどできないのだ。国家はヒエラルキー型中央集権トップダウン組織であり、エリート支配を維持するために圧政を行使することに基づく。セクションB.2で強調したように、国家は少数の手に権力を独占することを前提としている。つまり、成長の自由・分権化・多様性のような一般に認められている生態学原理とは反対なのだ。

 ブクチンが述べているように、「どのような国家であっても人間の自由を確立−−永続は難しくとも−−できる、という考えは全くの矛盾語法である−−明らかな矛盾である。」これは「国家主義諸形態」が「エリート諸団体の手中に権力を集中化し、官僚化し、専門化する」ことに基づいているからである。これは、その「本質的機能」の一つが「地元の民主的諸機関と発意とを制限し、限定し、本質的には抑圧することにある」という国家の性質から出てきている。国家は、公的参加・管理・精査すらをも削減するよう組織されてきたのだ。["The Ecological Crisis, Socialism, and the need to remake society," pp. 1-10, Society and Nature, vol. 2, no. 3, p. 8 and p. 9] 生態調和社会の創造が個人的自由と社会参加を必要とするなら(確かに必要なのだ)、国家はまさにその性質・機能故に双方を排除するのである。

 国家の中央集権性質は、生命の複雑さと多様性とを扱うことなどできない程である。地域社会や、これについて言えば生態系をも「代表できる行政システムは、大胆で大規模で図式的な抽象化・単純化プロセスを使う以外にあり得ない」とジェームズ=C=スコットは論じる。「これは単にキャパシティの問題だけではない。目的の問題でもある。国家の職員は全体社会の現実を表現することに何の関心も持っていない−−持つべきでもない。その抽象化と単純化は数少ない目的によって統制されている。」つまり、国家は、人間も含めた生態系のニーズを効果的に扱うことなどできないのだ。スコットは、社会改良を目的とした様々な大規模国家スキームを分析し、全くの失敗だったと示す。この失敗の根源は中央集権システム性質にあった。彼は「こうした便宜全てが提供されているような対象を考察する」よう促す。「この対象は全くの抽象だった。」国家が計画していたのは「何畳もある居住空間・何エーカーもの農地・何リットルもの清浄水・多くの輸送手段と多くの食べ物・きれいな空気・レクリエーション空間が必要な総称的対象だった。標準化された市民はニーズという点で一様だったし、交換可能でもあった。もちろん、特筆すべきことに、そうした被験者達は、計画実行のために、性別も、嗜好も、歴史も、価値観も、意見や着想も、伝統も、事業に貢献するための明確な人格も持っていない。文脈と特異性の欠如はミスではない。いかなる大規模計画を実行する際にも最初に必要となる前提である。対象を標準化されたユニットとして扱うことができる程までに、計画実行における決断力は増強される。同じ論理が自然界の転換に適用されているのである。」[Seeing like a State, pp. 22-3 and p. 346]

 中央権力は、生態調和社会を創造し、人間と環境との相互作用を地元地域の諸条件と生態系を尊重したやり方で調整するために必要な参加と多様性を減らしてしまう。実際、それは社会の頂点に権力を集中させることで生態系諸問題を創り出す。複雑な社会と生態系を標準化し、退化させるだけでなく、個人・コミュニティ・民族の自由を制限し抑圧する。このように、国家は資本主義と同じぐらい反生態学的であり、これら二つは同じ特徴を数多く共有している。スコットが強調しているように、資本主義は「国家と同様に均質化・統一性・碁盤目・大げさな単純化の媒体であり、違いは、資本家にとって単純化は利益にならねばならないということだけである。市場は必ず価格メカニズムを通じて質を量に還元し、標準化を促す。市場でものを言うのは金であって、人ではない。現代の社会工学プロジェクトの失敗から導かれる結論は、官僚主義的覇権性に対するのと同じぐらい、市場主導型の標準化にも適用できる。」[前掲書, p. 8]

 短期的には、国家は資本主義の悪しき越権行為の幾つか(これは、経済規制の解除が持つ社会的・環境的影響とは無関係に、それを行う約束をする政党に資金提供したいという資本家の願望から見ることができる)を制限できるかも知れない。だが、これら二つの反生態学制度の相互作用が長期的な環境保護解決策を生み出すことは滅多にない。これは、国家介入が資本主義の反生態学・反社会ダイナミクスに利益の上での制限をもたらす可能性を持っている一方で、国家は国家それ自体の性質によって常に制限をかけられているからである。セクションB.2.1で記したように、国家は階級支配の道具であり、その結果、このシステムそれ自体を害したり破壊したりする変化を課すことなどまずあり得ないからだ。つまり、いかなる改良運動も、最も基本的で常識的な変化を求めることについてさえも苦闘しなければならず、その一方で、資本家が一貫して自分達の利益と全体としての資本の蓄積に脅威を与える改良が実際に可決することを無視したり台無しにしたりするのを止めさせようとしなければならないのである。これは、反対勢力は常に支配階級によって始められ、常識的な改良(反公害法のような)でさえも規制撤廃と利潤の名の下に覆されてしまう、ということを意味している。

 当然のことだが、エコアナキストは、全てのアナキスト同様、国家権力への要請を「常に国家を正当化し、強化し、その結果民衆から権能を剥奪する」として拒否する。エコアナキストは記している。「議会活動に参入する」エコロジー運動は「民衆権力を犠牲にして国家権力を正当化するだけでなく」、同時に、「国家内部での機能を義務づけ」られ、「『規則に従って行動』しなければならない。つまり、前もって決められ自分達が制御できないルールに従って優先順位を作らねばならないのだ。」これが、「環境崩壊を阻む」上で「微々たること」を達成するために「継続的な変質プロセス、理念・実践・党構造の一貫した退化」をもたらすのである。[Remaking Society, p. 161, p. 162 and p. 163] 世界中の数多くの緑の党が辿った運命がこの分析を支持しているのだ。

 だからこそアナキストは、ヒエラルキー社会の下で改革を成立させる手段として、直接行動と連帯に基づいた社会運動創造の重要性を強調するのである。改革を創り、実行することに強い関心を持ち、そのために行動するときだけ、改革が上手く適用される可能性がある。もし、こうした社会的圧力が存在しなければ、いかなる改革も形骸化したままとなり、民衆とこの惑星を犠牲にして利益を最大にしようとする人々によって無視され続けるであろう。セクションJで論じているように、このことには地域集会連合のような代替組織形態(セクションJ.5.1)や産業別労働組合(セクションJ.5.2)を創造することが含まれる。資本主義経済と国家双方の性質を考えれば、これは全く当然である。

 要約すると、生態系諸問題の根本原因は、人間内部の、特に国家と資本主義という形態でのヒエラルキーにある。資本主義は「成長か死か」のシステムであり、環境を破壊せざるを得ない。国家は中央集権システムであり、生態系とやり取りするために必要な自由と参加を破壊する。この分析に基づき、アナキストは、我々がすべきことは国家に経済規制をさせることだ、という考えを拒否する。国家は問題の一部であると同時に、少数者による支配の道具でもあるからだ。逆に、アナキストは生態調和社会を創造し、資本主義・国家・その他のヒエラルキー形態を終焉させようとする。これを成し遂げるために短期的な改善を求めて戦う社会運動を促すのであり、その手段は直接行動・連帯・民衆リバータリアン組織の創造なのである。

E.1.1 工業は環境諸問題の原因なのか?

 環境保護主義者の中には、生態系危機の根本原因は工業とテクノロジーであると主張する者がいる。このため、こうした人々は「工業主義」が問題であり、排除されねばならない、と強調する。この極端な例がプリミティビズム(セクションA.3.9を参照)であるが、「ディープ=エコロジスト」や自由主義グリーンズの著作にもこれは現れている。しかし、大部分のアナキストは納得しておらず、ブクチンが次のように述べていることに同意している。「『テクノロジー』と『工業社会』に反対する叫びがあるが、社会の機械化の根底を成す社会関係に極僅かな注目しか払っていない以上、これら二つは、ブルジョアさえもアースデイ式典で激しく非難できるほど非常に安全で、社会的に中立した標的である。」逆に、生態学が実効的で、現代の諸問題の根本原因を直すようになるためには「資本主義とヒエラルキー社会とに対する対決姿勢」が必要なのである。[The Ecology of Freedom, p. 54]

 「資本主義」ではなく「工業主義」が生態系諸問題の原因だと主張することは、グリーンズが西洋諸国といわゆる「社会主義」諸国双方を挙げて、双方に何が共通していたのか(つまり、酷い環境統計データと成長心理)を導き出すことができるようにした。さらに、緑の党と緑の思想家が、社会主義と資本主義との「古い」対立より「上に」自分達がいると見なすことができるようにした(その結果が「右でも左でもなく、最前線に」というスローガンだった)。だが、この立場が人を納得させることは稀だった。真面目な緑の思想家は誰でも、環境諸問題の社会的根元を扱わねばならないということにすぐ気づき、そのことが緑の思想を現状との対立に引き込むようになったからだ(右翼の多くが環境諸問題は社会主義の一形態に過ぎないとか、米国においては「リベラリズム」に過ぎないとか見なして片付けているのは偶然ではない)。だが、資本主義に対する反対をハッキリと示さないことで、この立場は多くの反動思想を(そして反動的人々も!)環境保護運動に持ち込めるようにした(典型例が人口論神話である)。資本主義とスターリン主義の類似性を暴露した「工業主義」について言えば、アナキストが1981年以来行ってきたように、ソヴィエト連邦とその関連政権をその実質的な名前で呼ぶ、つまり「国家資本主義」と呼ぶ方が遙かに良かっただろう。

 グリーンズの中には(多くの資本主義擁護者のように)東欧などのスターリン主義諸国の酷い生態学的遺産を指摘する者がいる。資本主義の支持者にとって、これはこうした体制に私有財産がないためだった。一方、グリーンズにとって、これが示していたのは、環境保護の懸念は資本主義と「社会主義」双方を超越したところにあった、ということだった。言うまでもなく、「資本主義」という言葉でアナキストが意味しているのは、このシステムの私有形態と国有形態の双方である。セクションB.3.5で論じているように、スターリン主義下では、国家官僚制が生産手段を管理し、非常に効果的に所有していた。民営資本主義下と同じように、エリートが意志決定を独占し、労働者階級の弾圧と搾取によって自分達の収入を最大にしようとしていた。当然のことながら、「第二自然」(人間)に対するのと同じように「第一自然」(環境)にはほとんど配慮せず、双方を支配し、抑圧し、搾取していたのだった(民営資本主義のあり方と全く同じである)。

 ブクチンが強調していたように、生態系危機は、私有財産からだけでなく、支配の原理それ自体−−制度的ヒエラルキーと様々なレベルで社会に浸透している命令服従関係に具現化されている原理−−からも生まれている。つまり、「社会の最も分子的な関係−−とりわけ、男と女・成人と子供・白人とそれ以外の人種グループ・異性愛者とゲイ(実際、このリストはかなりの数になる)−−を変えなければ、『階級がなく』『搾取のない』社会主義形態であっても、社会は支配に蝕まれるであろう。それが『人民民主主義』や『社会主義』、『天然資源』の『公有化』という曖昧な美徳を賛美していたとしても、ヒエラルキーが注入されることになろう。そして、ヒエラルキーが存続する限り、支配がエリートシステムを中心に人間を組織する限り、自然を支配するというプロジェクトは存続し続け、必ずやこの惑星を生態系死滅へと導くであろう。」[Toward an Ecological Society, p. 76].

 このことを鑑みれば、スターリン主義体制の環境統計データが民営資本主義よりも悪かった真の理由が容易く理解できる。まず第一に、いかなる反対も警察国家によって容易く沈黙させられ、その結果、支配的な官僚は大部分の西洋諸国よりも公害をまき散らす余地を遙かに多く持っていた。言い換えれば、健全な環境には自由が必要なのだ。人々が参加し、抗議する自由が必要なのだ。第二に、こうした独裁体制は中央集権型トップダウン計画立案を実行できる。これが、生態系への影響をもっと体系的に、広範囲にするのである(ジェームズ=C=スコットはこのことを著書「国家のように見る Seeing like a State」で詳細に探求している)。

 ただ、根本的には、民営資本主義と国家資本主義とには何ら実質的違いはない。これが真実であることは、例えば、中国の環境保護法と規制が緩く、抵抗もないことを上手く利用しようとして資本主義企業が中国に投資をしようとすることからも分かる。また、競争で優位を得るために西洋で環境保護法と規制を骨抜きにしていることからも分かる。当然、抗議行動を制限する法律は、新自由主義政策を受け入れると共に、多くの国々で次第に可決されてきている。英国のサッチャー政権とその後継者がこのプロセスの先駆者である。こうした新自由主義実験に付随する集権化は、国家に対する社会的圧力を減じ、実業界の利益が必ず上位にあるように保証しているのである。

 セクションD.10で論じているように、テクノロジーが使われ、進化していくやり方は、社会内部の権力関係を反映することになる。ヒエラルキー社会を鑑みれば、所与のテクノロジーがテクノロジー自体の性質とは無関係に抑圧的なやり方で使われると考えられる。ブクチンは、イルコイ連合とインカ帝国との違いを指摘する。どちらの社会も同じ形態のテクノロジーを使っていたが、前者は充分民主的で平等主義的連合だったのに対し、後者は高度に独裁的な帝国だった。このように、テクノロジーは社会間の「制度的違いを十全に説明することや、適切に説明することさえもない」のだ。[The Ecology of Freedom, p. 331] つまり、テクノロジーは生態系損害の原因を説明しておらず、小規模テクノロジーに基づく反生態学システムというものもあり得るのである。

最も非人間的な中央集権型社会システムの幾つかは非常に「小規模な」テクノロジーで形成されていた。しかし、官僚制・君主制・軍隊がこうしたシステムを残忍な棍棒へと変え、人間を制圧し、その後に自然を制圧しようとした。確かに、大規模技術は抑圧的大規模社会の発展を促すだろう。だが、全ての歪んだ社会は、その技術の規模とは無関係に、それ自体の支配の病理が持つ弁証法に従うのだ。「小さいこと」を不快なことへ組織することはできる。これは、それを処理するエリートの顔に傲慢な冷笑を刻みつけることができるのと同じぐらい確かなのだ。不幸にして、技術の大きさ・規模・芸術性さえもを偏重することは、技術が持つ最重要問題−−特に自由の理念・自由に関わる社会的構造と技術との結び付き−−から注目を逸らすことになる。」[Bookchin, 前掲書, pp. 325-6]

 つまり、「小規模」テクノロジーが権威主義社会を生態調和社会へと変換することはないのだ。生態系に優しいテクノロジーを資本主義に適用したところで、この惑星とそこに住む人々を犠牲にして成長しようという動因を減じることもない。つまり、テクノロジーは、常に同じ(多くの場合は負の)結果をもたらす社会的に中立な道具ではなく、広域的社会の一側面なのである。ブクチンは強調していた。「解放的テクノロジーは解放的諸制度を前提とする。解放的感受性には解放的社会が必要である。同様に、芸術的技術で作られた社会がなければ芸術的技巧を着想することは難しい。『道具の倒置』はあらゆる社会的・生産的諸関係の徹底的倒置がなければ不可能なのだ。」[前掲書, pp. 328-9]

 最後に、生態系諸問題をテクノロジーや工業のせいだと非難しようとすることは、こうした諸問題の真の原因を隠し、自分達の目的を推進するために特定形態のテクノロジーを導入しているエリートから注目を逸らしてしまうだけでなく、もう一つ別な負の効果を持っていることも強調しなければならない。これは、テクノロジーを変換し、生態学的にバランスの取れた社会を生み出す手助けができる新しい形態を創り出すことができるということも否定する、という意味をも持っているのである。

人間と自然の、そして、人間と人間の調和を促す知識と物理的道具は、大部分、すぐ手の届くところにあったり、容易く考案できたりする。物理的諸原理の多くは、昔ながらの発電所・エネルギー消費量の多い乗り物・露天掘り装置といった明らかに有害な設備を建設するために使われているが、小規模太陽光・風力エネルギー装置・効率的な輸送手段・省エネ住宅の建設へと方向付けることもできるだろう。[Bookchin, 前掲書, p. 83]

 「第一自然を支配するというまさにその思想は、人間による人間の支配に起源を持つ」ということを理解しなければならない。さもなくば「現代の最も重大な生態系諸問題の社会的起源について貧弱なりとも理解していることをも失ってしまうだろう。」失ってしまえば、こうした諸問題を解決できなくなる。「人間の発展だけでなく、人間以外のものの発展に創造的役割を果たすという人間性の潜在的可能性を莫大に歪めることになる」からだ。「概念的思考・道具の形成・桁外れのテクノロジーの発明をする人間の能力」は全て「生態圏を害するためだけでなく、生態圏を利するためにも使われ」得る。「人類が第一自然の進化を創造的に促すのか、非人類に対しても人類に対しても一様に高度に破壊的になるのかを決定する上で極めて重要なことは、単に私達がどのような感受性を発達させるのかのみならず、まさしく、私達がどのような社会を確立するかなのだ。」[前掲書, p. 34]

E.1.2 環境保護主義と生態学の違いは何か?

 セクションA.3.3で記したように、エコアナキストは生態学と環境保護主義を対比している。この違いは重要である。現代の生態系諸問題の原因とそれらに対する最前の解決策とについてどちらも異なる分析をしているからだ。ブクチンを引用しよう。

「環境保護主義」という言葉で、私が示そうとしているのは、自然を受動的な生息環境と見なす機械論的で道具的な見解である。この見解では、自然は動物・植物・鉱物などのような「物体」から成り立っており、人間にもっと使い勝手の良いようにしなければならない、と見なされる。この文脈で環境保護主義者が社会的自然に関する語彙を使うことはほとんどない。都市は「アーバン=リソース」となり、その居住者は「ヒューマン=リソース」となる。環境保護主義は人間と自然との調和的関係を達成するための生態調和プロジェクトを永続的均衡ではなく停戦協定と見なすことが多い。環境保護主義者の「調和」は、人間の「生息環境」の破壊を最小限に留めながら自然界を略奪する新しいテクニックの開発を軸として展開する。環境保護主義は現在の社会が持つ最も基本的な前提、特に、人間は自然を支配しなければならないという前提を疑問視せず、むしろ、見境ない環境略奪によって引き起こされる危険を低減する技術の開発によって、この考えを促そうとするのだ。[The Ecology of Freedom, p. 86]

 だから、エコアナキストは、資本主義を改良し、もっとグリーンにしようとする人々の立場を生態学ではなく「環境保護主義」と呼ぶ。その理由は明白である。環境保護主義者は「大気汚染や水質汚染のような限定的諸問題に焦点を当てる」が、解決しようとしている諸問題の社会的根元を無視しているからだ。言い換えれば、その見解は「生態系攪乱に対する道具的で、ほとんど工学的なアプローチに依存している。どう見ても、これは、人間の健康と福祉に対する害を最小限に抑える改良という手段を使って、自然界を既存社会のニーズに、その搾取的な資本主義の至上命令に適合させたがっていた。徹底的社会変革と自然界に対する新しい感受性を養うプロジェクトを策定するというもっと必要な目標は、その現実的関心事の範囲外にあることが多かった。」エコアナキストは、こうした構造の一部を支持しながらも、次のように強調する。「こうした諸問題の起源は、ヒエラルキー型システム・階級システム・今日では競争的資本主義システムにある。これが、自然界を、人間による生産・消費の単なる『資源』の凝集だと見なす見解を養っているのだ。」[前掲書, pp. 15-6]

 これが鍵である。環境保護主義は、人間は自然を支配するべきだという現行社会の根底にある概念に疑問を挟まない。だから、根底にある問題から出現する様々な症状に対する短期的解決策以外の何物をも提示できない。さらに、ヒエラルキーを問題視していないため、現状に順応するしかない。だから、リベラルな環境保護主義は「絶望的なほど無力」なのだ。「現行社会秩序を当然だと思い込」み、「市場社会・私有財産・現代の官僚主義国民国家はいかなる基本的意味でも変えることはできないという麻痺した信念」に陥っているからだ。「つまり、『妥協』や『取引』の条件を定めることが一般秩序」であり、だから「抑圧された人々を含む自然界は、全てが最終的に失われるまで、常に何かを少しずつ失う。リベラルな環境保護主義が社会的現状を軸として構造化されている限り、所有権は常に公民としての権利よりも優先され、権力は常に無力よりも優先される。森林であれ、湿地帯であれ、良質な農地土壌であれ、こうした『資源』をいずれかでも所有する『開発者』は、いかなる交渉が起こっても条件を定め、最終的に生態学的懸念よりも富の勝利させることに成功するのである。」[Bookchin, Remaking Society, p. 15]

 このことは、本物の生態学的観点は、少数が多数を支配している情況を終焉させようとしているのであって、少数者をお行儀良くさせようとはしていない、ということを意味する。チョムスキーが「企業の社会的責任」問題について記した時、彼はこの問題それ自体を論じることができなかった。何故なら、彼は「この問題の諸前提の幾つか、特に、企業権力の正当性に関わることを受け入れな」かったからである。彼は「政治領域における」もの以上に「私的権力集中化の正当化」を理解しなかった。どちらも、「社会闘争・混乱・抗議などが自分達の利益のためにそうさせるのであれば、社会的に責任あるやり方で−−慈悲深い独裁者として−−行動」するだろう。彼は強調していた。資本主義社会において、「社会的に責任ある行動は、すぐさま罰せられるだろう。そうした社会的責任を持たない競争相手が、私的利益以外の何かに関わるほど見当違いな人に取って代わることになるからだ。」これは、実際の資本主義システムが、何故常に、「多大な国家統制」によって「破壊的な民営資本主義勢力のただ中で社会的存在を保護するために必要とされ続けて」きたのかを説明してくれる。だが、企業の社会的責任を論じる際、「中心となる問題は対処されているのではなく、懇願されているのである。」[Language and Politics, p. 275]

 究極的に、リベラルな環境保護主義(自由主義一般も同様だ)に伴う重要問題は、本質的に階級とヒエラルキーを無視する傾向がある、ということである。「みんなスター」(we are all in this together)的メッセージが無視しているのは、現在の生態系混乱・社会混乱に我々を陥れた意志決定の大部分を行ったのは、資源を支配し権力構造(私的・公的双方)を支配している金持ちだ、ということである。これは、同時に次のことも意味している。労働者階級の人々がこの問題を解決するための資源を独自に持っていないこと以外にこうした混乱の理由がないとするなら、この混乱から脱出するためには、エリートから権力と富を取り返さねばならないのである。

 もっと言えば、支配階級は他の人々と全く同じ汚染された惑星に住んではいないのだ。その富は、彼等が創り出した諸問題から、実際、その富の大部分を創り出すことに貢献した諸問題から、彼等自身をかなりの程度まで保護している(そして、当然、彼等は重大問題の存在を否定するのである)。彼等は、より質の高い生活・食べ物・地元環境を入手できる(有毒のゴミ捨て場も高速道路も彼等の自宅やリゾート地にはない)。もちろん、これは短期的保護なのだが、個人投資の即座の収益に比較すれば、この惑星の運命など長期的抽象概念なのである。従って、支配階級の全員が、生態系諸問題について現実を否定していると述べるのは正しくない。気付いている人もいるが、この惑星の方が利益よりも重要だと考えている人々に対して断固たる憎悪を示している人々の方が遙かに多いのだ。

 これは、教育とロビー活動のような鍵となる環境保護活動が大した効果を持ち得ない、ということを意味する。これらは、環境への影響という点で何らかの改善を生み出すかも知れないが、この惑星の長期的破壊を止めることはできない。生態系危機は「体系的」だからだ。「誤った情報・スピリチュアルな無感覚・道徳的誠実さの欠如といった問題ではない。現代社会の病理は、現代社会に充満する見解だけにあるわけではない。結局のところ、まさにこのシステムそれ自体の、その至上命令の構造生命法則にある。成長、もっと成長、さらに成長。いかなる起業家も企業もこれを無視していれば破滅に直面する。」[Murray Bookchin, "The Ecological Crisis, Socialism, and the need to remake society," pp. 1-10, Society and Nature, vol. 2, no. 3, pp. 2-3] これを終わりにできるのは、資本主義を終わらせることだけである。環境に優しい商品を買うよう消費者にアピールしたり、資本家にそれを供給させたりすることではない。

蓄積を決めるのは、個々のブルジョアの善意や悪意ではなく、商品関係それ自体である。生産のための生産を創り出すのは、ブルジョアの邪悪さではなく、彼が取り仕切り、彼が屈服している市場の結び付きにある。この社会が倫理的議論や知的説得に応えてまさにその生命法則を取り消しできるという信念を促すなど、グロテスクな自己欺瞞、もっと悪いことに、イデオロギー的社会詐欺なのだ。[Toward an Ecological Society, p. 66]

 残念ながら、グリーン運動で通用していることの多くはこの種の見解に基づいている。最悪の場合、多くの環境保護主義者は自身の希望をグリーン消費主義と教育に置いている。最前の場合、国家の中で活動し、適切な規則と法律を可決すべく緑の党を創り出そうとする。どちらの選択肢も問題の中核には届かない。つまり、「文字通り社会を所有している圧政的人間と、それに所有されている人間」とが存在するシステムには届かないのだ。「集団的知恵・文化的成果・テクノロジー革新・科学知識・持って生まれた創造力を自身の利益と自然界の利益とのために行使する分断されていない人間が社会を奪還できるようになるまで、全ての生態系諸問題は社会的諸問題にその根を持つことになろう。」[Bookchin, Remaking Society, p. 39]

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