アナキズムFAQ


A.2.4 アナキストは「無制限の」自由を認めるのか?

 認めない。アナキストは、誰もが、「したい放題やる」ことができるようになるべきだとは思わない。ある種の行為には、常に、他人の自由の否定が含まれるからだ。
 例えば、アナキストは強姦・搾取・強制の「自由」を支持しない。権威を許容することもない。逆に、権威は自由・平等・連帯(人間の尊厳は言うまでもない)への脅威である以上、アナキストは権威に抵抗し、それを打倒する必要を認めているのである。
 権威の行使は自由ではない。誰も他者を支配する権利など持ってはいない。マラテスタは指摘している。アナキストが支持するのは『万人の自由である。そのただ一つの制限は、他者にとっても等しい自由でなければならないということである。搾取・抑圧・命令の「自由」を認めることも、尊重したいとも思わないのだ。そんなものは抑圧であって自由ではない。』[Errico Malatesta: His Life and Ideas, p. 53]
 資本主義社会においては、私的なもの(ボス)であれ・公的なもの(国家)であれ、あらゆるヒエラルキー型権威の形態に抵抗することこそ、自由な人間のしるしである。ヘンリー=デビッド=ソローがその著書「市民的不服従 Civil Disobedience"」(1847年)で指摘している。

『不服従は、真の自由の基盤である。服従は奴隷に他ならない。』

A.2.5 何故、アナキストは平等を支持するのか?

 前述したように、アナキストは社会的平等に専心している。なぜなら、それが、個人の自由が繁栄できる唯一の情況だからだ。だが、「平等」についてはナンセンスがたくさん書かれており、一般に信じられていることの多くも全く妙な場合が多い。アナキストが平等と言うことで何を意味しているかを論じる前に、何を意味「していないか」を先に論じる必要があろう。
 アナキストは「才能の平等」など信じてはいない。実際に存在しないというだけでなく、仮にあり得たとしても、少しも望ましくはないのである。人は誰でも唯一の存在である。生物学的に決定された人間の相違は、単に存在するというだけではない。『それは恐怖や悲しみの原因ではなく、喜びの原因なのである。』何故か?『クローンに囲まれた人生など生きるに値しない。正気の人間なら、自分が持たない能力を他者が持っていることを喜ぶものだ。』[Noam Chomsky, Marxism, Anarchism, and Alternative Futures, p. 782]
 アナキストが「平等」という言葉で意味しているのは、誰もが同じになるべきだ、ということだと真面目に示している人々もいる。このようなことは、現代の嘆かわしい知的文化を反映しており、言語の変造なのである。この変造を使って、不公正な権威主義システムから注意をそらし、生物学の議論へと話をはぐらかしているのだ。『自己の唯一性は、平等の原理と矛盾しない』とエーリッヒ=フロムは述べている。『人間は平等に生まれたというテーゼは、人間は皆、人間としての根本的性質を共有し、人類の基本的宿命を共有し、自由と幸福を要求するという奪うことのできない権利を共有しているという意味である。ひいては、人間関係は連帯関係なのであって、支配−服従関係ではない、ということも意味している。平等という概念は、全ての人間が同じだという意味ではないのだ。』[The Fear of Freedom, p. 228] アナキストが自由を求めているのである。万人が違っていることを認め、ひいては、唯一性の十全な主張と発達を求めているが故に、アナキストは平等を求めている。このように述べる方がより偏見がないと言えよう。
 アナキストはいわゆる「結果の平等」を支持してはいない。誰もが同じ物を持ち、同じような家に住み、同じ制服を着るといった社会に生きることなど全く望んでいない。アナキストが資本主義と国家主義に反抗する理由の一部は、それらが生の大半を規格化してしまうからである(資本主義が規格化と画一化に向かって行く理由については、ジョージ=ライツァー著「社会のマクドナルド化 The McDonaldisation of Society」を参照)。アレクサンダー=バークマンを引用しよう。

 権威・法律(明文化されていようといまいと)・伝統・慣習、これらが持つ精神は、私たちを無理矢理型にはめ、人間を主体性や個性のない無意思の自動機械にしてしまう。私たちは皆、この犠牲者なのであり、例外的に強い者だけがその鉄鎖を打ち砕くことが出来る。しかしそれでも、ほんの一部に過ぎないのだ。[What is Anarchism?, p. 165]

 アナキストはさらに深く「型にはめ」ようとは望んでいない。むしろ、まず第一に、この精神を破壊し、それが創り出す全ての社会関係と社会制度を破壊したいと思っているのである。
 「結果の平等」を取り入れ、維持するためには必ず武力が必要となり、そうすると必ず誰かが他者より大きな力を持つことになり、どのみち平等にはならないのだ!アナキストは特に「結果の平等」を嫌う。個人はそれぞれ異なる欲求・能力・欲望・関心を持つからだ。消費するものを全て同じにするなど、専制政治だ。医療処置が必要な人がいて、不要な人がいるとすれば、この人たちが「平等な」量の医療的ケアを受けることにならないのは明らかだ。このことは人間の欲求についても言える。アレクサンダー=バークマンは次のように述べている。

 平等とは、平等な量ではなく、平等な機会を意味する。自由における平等を、刑務所での強制的平等と取り違えてはならない。誰もが同じものを食べ、飲み、着なければならず、同じ仕事をしなければならず、同じやり方で生活しなければならない、という意味ではないのだ。全く違う。実際に、全く逆なのである。
 個人の欲求と嗜好は異なっている。食欲が異なっているのと同じである。真の平等とは、それらを満たす平等な機会のことである。
 皆を同じにするのとは全く異なり、こうした平等は、出来る限り多くの多様な活動と発展のチャンスを与えてくれる。人間の特徴は多様なのだから、自分の個性を表現し、行動で示す自由な機会は、自然な差異とバラツキの発展を意味するのである。[前掲書, pp. 164-5]

 アナキストにとって、「結果の平等」や「才能の平等」としての「平等概念」は意味がない。しかし、ヒエラルキー社会では、「機会の平等」と「結果の平等」は関連している。例えば、資本主義の下では、それぞれの世代が手にする機会は、以前の世代の結果に依存する。つまり、資本主義の下では、大雑把な「結果の平等」(収入と資源という意味で)なくして「機会の平等」は意味をなさないのだ。億万長者の子供と道路清掃人の子供との間には真の機会の平等などないからである。以前の結果が創り出している障害物を無視しながら、「機会の平等」を唱える人は、自分が何を語っているのか分かっていないのである。ヒエラルキー社会における機会は、進路がオープンかどうかだけでなく、スタート地点が平等かどうかにも依存するのである。この明らかな事実から、アナキストが「結果の平等」を望んでいるという誤解が生じている。しかし、このことはヒエラルキー型システムには当てはまるが、下記に見るように、自由社会には当てはまらない。
 アナキズム思想では、平等は個人の多様性と唯一性を否定するものではない。バクーニンの見解を見てみよう。

 一旦、平等が勝ちとられ、それが充分確立すれば、個人の能力の多様性や個々人の活力レベルの差がなくなるのだろうか?残るものもあるであろう。現在ほど多くはないとしても、差異は必ず残るであろう。一本の木に全く同じ葉が2枚生えることはない、という諺にもある通り、これは不変の真理である。人間は木の葉よりもずっと複雑な生き物だから、このことは人間にはさらに当てはまる。だが、この多様性は悪しきものではない。逆に、人間の財産である。多様性のおかげで人間性は集団的全体になっている。一人が他者全員を補完しているのである。結果として、人間個々人の無限の多様性が、連帯の根本要因であり、正にその基盤となっている。これは平等を求める非常に強力な論拠なのである。["All-Round Education", The Basic Bakunin, pp. 117-8]

 アナキストにとって平等は、社会的平等を意味する。マレイ・ブクチンの言葉で言えば、「不平等者の平等」である(マラテスタは同じ考えを示すために「諸条件の平等」と述べていた)。この言葉で、彼が意味しているのは、アナキスト社会は個人の能力・欲求の差異を認識しているが、こうした差異が権力に転化することを許さない、ということである。言い換えれば、個々人の差異は『大きな問題にはならないだろう。なぜなら、不平等は、それが何らかの法的作り事や制度に付着できないようになっていれば、実際には集団性の中に埋没してしまうからである。』[Michael Bakunin, God and the State, p. 53]
 参加を促し、「一人一票」の原則に基づいた社会関係を支持することで、ヒエラルキー型の社会関係とそれを創り出す様々な力を廃絶すれば、自然な差異がヒエラルキー権力へと転化できなくなる。例えば、資本主義的所有権がなければ、少数者が生活手段(機械類と土地)を独占し、賃金システムと高利(利潤・賃貸料・利子)を使って他者の労働から私腹を肥やすことを可能にしていた手段がなくなるであろう。同様に、労働者が自分の労働を管理すれば、労働者の労働から富を成している資本家階級はなくなる。だから、プルードンは次のように述べているのである。

 さて、何がこの不平等の起源になり得るのだろうか?
 お分かりのように、その起源は、社会の中で資本・労働・才能という三つの抽象物が具現化していることにある。
 社会がこの公式の三条件に対応して三種類の市民に分断されている以上、常にこのカースト区別に到達し、人類の半数は常に他者の奴隷にされてしまう。故に、社会主義は、資本−労働−才能という貴族政治の公式を、より単純な労働の公式に減じることで成立するのだ!その目的は、全ての市民を一斉に差別なくある程度までの資本家・労働者・専門家・芸術家にすることなのである。[No Gods, No Masters, vol. 1, pp. 57-8]

 全てのアナキスト同様、プルードンは、こうした職務の統合を平等と自由に対する鍵だと見なし、それを達成する手段として自主管理を企図していた。つまり、自主管理が社会的平等の鍵なのだ。例えば、仕事場における社会的平等は、仕事場をどのように発展させ変化させるかに関する方針の決定に平等な発言権を皆が持っているという意味である。アナキストは「万人に影響することは、万人が決める」という格言を強く支持しているのである。
 これはもちろん、専門家を無視するとか、誰もが全てを決定するといった意味ではない。専門家について言えば、人々はその関心も才能も能力も異なるのだから、異なる勉強をして異なる仕事を行おうと思うのは当然である。これも当然のことだが、病気になったときは医者−−つまり専門家−−に診てもらうわけで、その医者にしても、自分の仕事について委員会から指図されるのではなく、自分で管理している。こんなことをわざわざ言わなければならないのは残念だが、社会的平等や労働者自主管理の話題になると、必ずナンセンスな横槍を入れる人がいるのだ。社会的に平等なやり方で管理された病院で、医者が手術をどのように行うべきかシロウトが投票で決めるわけがない。そんなこと当り前じゃないか!
 実際、社会的平等と個人の自由を切り離すことはできない。個人に影響する意志決定を個人が自主管理すること(自由)を、グループに影響する意志決定を集団的に自主管理すること(平等)で補完することによってはじめて、自由社会が可能になる。その両方がなければ、他者に対して権力を持ち、他者のために決定を下す(つまり他者を統治する)人が現れ、その結果、他者よりも自由な人が現れることになる。つまり、当然のことを述べるに過ぎないが、アナキストは、富という点だけでなく、生の側面で平等を求めているのである。アナキストは『万人に対する社会的富の取り分だけでなく、社会的権力の取り分をも要求する。』[Malatesta and Hamon, No Gods, No Masters, vol. 2, p. 20] つまり、自由と平等双方を保証するためには、自主管理が必要なのだ。
 社会的平等は、個人が自己統治し、自己表現するために必要である。なぜなら、社会的平等が示唆する自主管理とは、『共通の問題を解決し、共通の目標を達成する事業に自分独自の観点を持ち込むために、仲間と直に話せる関係で人々が仕事に取り組むこと』[George Benello, From the Ground Up, p. 160] を意味しているからだ。平等は個性の表現を可能にし、そのことで、個人の自由に必須の基盤となっているのである。
 平等に対するアナキストの考えは、セクションF.3(何故、「無政府」資本主義者は平等を軽視・無視するのか?)でさらに詳しく論じる。ノーム=チョムスキーのエッセイ「平等 Equality」(「チョムスキー読本 The Chomsky Reader」に収録)はこの主題に関するリバータリアンの考えをうまくまとめている。

A.2.6 何故、アナキストにとって連帯が重要なのか?

 連帯、つまり相互扶助は、アナキズムの鍵となる考えである。それは個人と社会との連結環であり、自由と平等を養い育てる環境の中で共通の利益を満たすべく個々人が協力できるようにする手段である。アナキストにとって、相互扶助は人間生活の根本的特徴・強さと幸福の源・人間として十全な存在にとっての基本的な必要条件である。
 著名な心理学者で社会主義ヒューマニストのエーリッヒ=フロムは次のように指摘している。『他者との団結を経験したいという人間の願望は、人類種を特徴付けている固有の存在条件に根差しており、人間行動の動機の中でも最も強いものの一つである。』[To Be or To Have, p.107]
 従って、人々と「組合」を作りたい(マックス=シュティルナーの言葉を使えば)という願望は、自然な欲求だとアナキストは考えている。参加する人々を充分満足させるために、こうした組合、つまり協同組織は平等と個性に基づかねばならない。つまり、アナキズムの方法、すなわち自発的・分権的・非ヒエラルキーのやり方で組織されねばならないのである。
 連帯−−個人間の協力−−は生きるために必要であり、自由の否定などではない。エンリコ=マラテスタは次のように述べている。連帯は『人間が自分の人格を表現し、自分の最適な発達を達成し、自分の最大限可能な幸福を享受できる唯一の環境である。』このことは『万人の幸福のために個々人が団結し、個々人の幸福のために万人が団結することで』『個々人の自由が他者の自由によって制限されるのではなく、他者の自由によって補完される−−実際、他者の自由の中に必要な存在理由を見出す』ことになるのである [Anarchy, p. 29]。つまり、連帯と協力が意味するのは、お互いを平等者として扱い、目的を達成するための手段として他者を扱うことを拒否し、少数が多数を支配するのではなく万人の自由を支援する関係を構築することなのだ。エマ=ゴールドマンはこのテーマを何度も繰り返し述べていた。『人の個性が持つ唯一無二の力が素晴らしい成果を達成するのは、他者の個性と協力することでそれが強められる時である。協力−−互いに殺しあうほどの喧嘩や闘いに反対しながら−−は種の生存と進化に貢献してきた。相互扶助と自発的協力だけが、自由な個人と連合的生活の基盤を創り出すことができるのである。』[Red Emma Speaks, p. 118]
 連帯とは、共通の利益と欲求を満足させるために、平等者として連合することである。連帯に基づかない組織(つまり、不平等に基づく組織)は、組織に従う人々の個人性を破壊する。レット=マルートは、自由には連帯が、共通の利益を認識することが必要だ、と指摘している。

 人間の最も気高く純粋な真実の愛は自己愛である。私は自由になりたい!私は幸せになりたい!私は世界のあらゆる美を鑑賞したい。だが、私の自由が確保されるのは、周りの人々が皆自由である時だけだ。私が幸福になるのは、周りの人皆が幸福な時だけだ。出会う人、目にする人皆が喜びに満ちた目で世界を見ている時にのみ、私は嬉しい。そして、他の人も私と同じように腹一杯食べていると確信して初めて、私も純粋に喜んで腹一杯食べることができる。だからこそ、自分の自由と幸福を脅かすあらゆる危険に抵抗することは、自分自身の満足の問題なのであり、自分自身の自己の問題でしかないのだ。[Ret Marut (a.k.a. B. Traven), The BrickBurner magazineより。Karl S. Guthke, B. Traven: The life behind the legends, pp. 133-4で引用。]

 連帯の実践は、世界産業労働者のスローガンにあるように「一人の痛みは全員の痛みである」という認識を意味する。従って、連帯は個性と自由を守る手段であり、自己利益の表現なのである。アルフィー=コーンは次のように指摘している。

 協力について考える時、私たちはこの概念を漠然とした理想主義に結びつけがちである。これは協力を利他主義と混同しているからだろう。組織的な協力は、ありふれた利己主義‐利他主義という二元論に挑む。物事は、人を助けることによって同時に自分自身をも助ける、といったようにお膳立てされているのだ。たとえ最初の動機が利己的なものだったとしても、今では私たちの運命は繋がっている。私たちは沈むのも泳ぐのも一緒なのである。協力は、賢くて成功率の高い戦略である。職場や学校で何かをする時に、競争するよりも効率の良い実用的な選択なのである。同時に、協力すればお互い仲良くなるし、精神衛生的にも好ましいという充分な証拠もあるのだ。[No Contest: The Case Against Competition, p. 7]

 ヒエラルキー社会において、連帯が重要なのは、それが満足を与えるからだけでなく、権力者に抵抗するためでもある。ここでマラテスタの言葉を引用するのが適当だろう。

 一度たりとも完全に抑圧と貧困に身を任せず、正義・自由・幸福への渇望を示している虐げられた人々は、世界中あらゆる所で虐げられ搾取されている全ての人々と団結・連帯せずに、自分たちの解放は達成できないと理解し始めている。[Anarchy, p. 33]

 団結することで、自分たちをさらに強くし、望むものを手に入れることができる。最終的に、グループを組織することで、自分たちの集団的な問題を自分たちで管理し、きっぱりボスと決別できるのである。『組合は個人の資力を大きくし、攻撃されている自分の財産を保護するであろう。』[Max Stirner, The Ego and Its Own, p. 258] 連帯して行動すれば、現行システムをもっと私たちの好みに合ったものに取り替えることもできる。『団結は力なり。』[Alexander Berkman, What is Anarchism?, p. 74]
 連帯は、自由を獲得し保証する手段である。私たちは協力することに合意する。そうすれば他人のために働く必要はない。お互いに共有することに合意すれば、選択肢を広げることができ、楽しみが、減るのではなく、増えるのである。相互扶助は自己利益のためである。つまり、相互尊敬と社会的平等に基づいて他者と合意に達することは、自分に好都合なのである。もし私が誰かを支配するなら、それは支配を許す環境があるということだ。九分九厘、次には自分が支配されることになるだろう。
 マックス=シュティルナーは、連帯を、自由を強め、人を支配したがっている権力者から自分の身を確実に守る手段だと考えていた。『それでは、君は、自分自身に何の値打ちもないと思うのか?』と彼は問う。『赤の他人に自分を思うがままにされる運命だとでも?自分を守れ。そうすれば、誰も自分に手を触れなくなる。もし自分の後ろには何百万人もの人々がいて、自分を支えてくれるなら、君は圧倒的な力なのであり、君は何の苦もなく勝利するだろう。』[Luigi Galleani's The End of Anarchism?, p. 79 で引用。The Ego and Its Own, p. 197も別の英訳だが同じ箇所である。]
 アナキストにとって連体が重要なのは、それが自由を創造し、権力から身を守る手段だからである。連帯は力であり、社会的動物としての人間の本性である。しかし、連帯を、リーダーへの受動的追従を意味する「群集主義(herdism)」と混同してはならない。自由人が平等者として協力し合いながら創られなければ、連帯は効果的にはならない。「群集主義」への願望が連帯と団結の必要性から生まれたものだとしても、「大文字で書く我々(The big WE)」など連帯ではない。それはヒエラルキー社会によって汚された「連帯」であり、人々は指導者に盲目的に従うよう飼い慣らされているのである。

A.2.7 何故、アナキストは自己解放を主張するのか?

 本質的に、自由が与えられるなどあり得ない。個人が他人から自由にしてもらうなどあり得ない。自分の鎖は自分の努力で断ち切らねばならない。もちろん個人の努力は集団行動の一部になるかもしれず、多くの場合、目的を達成するためにはそうしなければならないものだ。エマ=ゴールドマンは次のように指摘している。

 歴史は教えてくれる。あらゆる虐げられた階級(もしくは集団や個人)は、自らの努力によって支配者からの真の解放を獲得してきたのだ。[Red Emma Speaks, p. 167]

 民衆が自由になるのは自身の行動によってのみ。アナキストはずっとこのように主張してきた。このプロセスを支援すべくアナキストは様々な方法を提案してきたが、それについてはセクションJ「アナキストは何を行うのか?」で論じるためここでは述べない。ただ、こうしたやり方全てに共通しているのは、民衆が自身を組織し、自分たちの検討課題を設定し、自分たちに権能を与えるやり方で行動する、ということである。このことで、自分たちのために物事を行ってくれるリーダーを当てにしなくなるのである。アナキズムの基本は「自分で行動する」人々なのだ(アナキストはそれを「直接行動」と呼ぶ−−詳しくはセクションJ.2を参照)。
 直接行動は、参加する人に権能を与え、解放する効果を持っている。自主行動は、権威に服従している人々の創造性・主体性・想像力・批判的思考を養う手段である。この手段によってこそ、社会を変革することができる。エンリコ=マラテスタは次のように述べている。

 人と社会環境は相互作用である。現在の社会は人が作り、現在の人間は社会が作っている。結果として、ある種の悪循環となっているわけだ。社会を変革するためには人は変わらねばならず、人を変革するためには社会が変わらねばならない。支配階級は、民衆を自分たちの利益のための道具、消極的で無意識的な道具に貶めることに成功しているが、幸いなことに、今の社会を創っているのはこうした支配階級の直感的意志ではない。無数の内部闘争の結果であり、様々な人間的・自然的要因の結果なのである。
 進歩の可能性はここから生じる。我々は、現在の環境が許す限り、同胞に働きかけ、同胞の意識と要求を発達させることのできるあらゆる手段・あらゆる可能性・あらゆる機会を利用しなければならない。そして、将来のさらなる進歩の道を開く手助けを可能にし、進歩の道を効果的に切り開く大規模な社会変容を求め、負荷をかけるのである。我々は万人をして、あらゆる改善と自由とを、そしてそれらを要求する力とを、それらが欠乏する限り、望むだけ要求し、強要し、自力で乗っ取るようにさせようとしなければならない。完全解放を達成するまで、民衆が常にもっと要求するように、(支配エリートに対して)プレッシャーを掛けるようにさせねばならないのである。[Errico Malatesta: His Life and Ideas, pp. 188-9]

 社会は、個人を形成する一方で、同時に、個人の行動・思考・理念を通じて個人が創り出す。個人の自由を制限している挑戦的な諸制度は、精神的解放作用を持っている。それが権威主義的関係全般を疑問視するプロセスを発動するからだ。このプロセスが、社会がどのように動いているのかについての洞察を与え、自分たちの考えを変え、新しい理念を創造する。再度エマ=ゴールドマンを引用しよう。『真の解放は女性の魂から始まる。』付け加えた方が良いだろうが、もちろん男性の魂からも始まる。ここから初めて『我々が、先入観・伝統・習慣の重荷から解き放たれ、精神的な再生を始める』 ことができるようになるのだ [前掲書, p. 167]。ただし、このプロセスは、マックス=シュティルナーも述べているように、自律的になされねばならない。『他者から自由にしてもらった人間は、保釈された人間に過ぎない。後ろに鎖をくっつけて歩いている犬と同じだ。』[Max Stirner, The Ego and Its Own, p. 168] どんなに小さいことでも、世界を変えることで、私たちは自分を変えるのである。
 スペイン革命中のインタビューで、スペインのアナキスト闘士ドゥルティは『新しい世界は我等の心の中にある』と言った。そうしたヴィジョンを心に描くことができるようにし、現実世界にそれを実現させようという自信を与えてくれるのは、自主活動と自己解放だけなのである。
 だが、アナキストは、「荘厳な革命」後の未来まで自己解放を待たねばならない、などとは考えない。個人的なことは政治的なのだ。社会の性質を考えれば、今ここでどのように行動するのかが、私たちの社会と生活の未来に影響を与える。だから、バクーニンが述べているように、アナキズム社会成立以前であってもアナキストは『未来に関する思想だけでなく、未来それ自体の諸事実』を創ろうとするのである。これは、別種の社会関係や別種の組織を創ることで実践できる。不自由な社会において自由人として行動するのである。自由な社会の基盤を創るのは、今ここでの行動だけだ。それ以上に、この自己解放のプロセスは常に継続するのである。

 あらゆる種類の奴隷は、日々、批判的内省能力を行使している。これが、主人が妨害され、失望させられ、時には転覆される理由である。だが、主人が転覆されない限り、奴隷が政治活動を行わない限り、批判的反省がどれほどあろうとも、その服従を終わらせ、自由をもたらすことなどできない。[Carole Pateman, The Sexual Contract, p. 205]

 アナキストは、日常生活で、権威を拒否し・権威に抵抗し・権威を妨害する様々な傾向を促し、その論理帰結−−自主管理型自由協同組織において平等者として協力する自由な個人からなる社会−−をもたらそうとしている。批判的内省・抵抗・自己解放というプロセスなくして、自由社会は不可能である。アナキストにとって、アナキズムは、虐げられた人々がヒエラルキー世界内部で自由な個人として活動すべく行う自然な抵抗から生じるのである。この抵抗プロセスを多くのアナキストは「階級闘争」(社会の中で最も虐げられたグループは一般に労働者階級だからだ)、もしくはもっと一般的に「社会闘争」と呼んでいる。あらゆる形態の権威に対する日常的抵抗と自由の希求こそが、アナキズム革命にとっての鍵である。この理由で、『アナキストは何度も何度も、階級闘争が労働者(などの虐げられた集団)が自分の運命をコントロールする唯一の手段を提供する、と強調する』のである [Marie-Louise Berneri, Neither East Nor West, p. 32] 。
 革命はプロセスであって出来事ではない。「自発的な革命行動」は、「ユートピア」思想を持った人々が長年にわたり行ってきた組織作りと教育という忍耐強い活動の結果であり、この活動に基づいている場合が多い。別種の機関と関係を構築することで「古い殻の中で新しい世界を構築する」(IWWの言葉を使えば)プロセスは、革命的コミットメントと革命的戦闘という長期にわたる伝統となるべき全体の一部に過ぎない。
 マラテスタは次のように明言している。『あらゆる種類の民衆組織を推進することは、我々の基本思想の論理帰結である。従って、我々のプログラムに不可欠な部分でなければならない。アナキストは民衆を解放したいとは思っていない。民衆が自らを解放することを望む。我々が望んでいるのは、民衆組織から新しい生活様式が出現することであり、民衆の発展状態に即することであり、民衆が前進するのに伴って前進することなのである。』[前掲書, p. 90]
 自己解放プロセスが生じない限り、自由社会は不可能である。物理的にも(国家と資本主義を廃絶することで)知的にも(権威に対する服従的態度から自分を解放することで)個人が自分を自由にして初めて、自由社会は可能になる。忘れてはならないが、資本主義と国家の権力は、全く持って、それらに支配されている人々の精神に及ぼす権力なのだ(もちろん、精神的支配に失敗し、民衆が叛乱と抵抗を行い始めると、相当数の武力が後ろ盾として現われるわけだが)。その結果、支配階級の思想としての精神的権力が社会を支配し、虐げられた人々の精神に浸透する。これが持続する限り、労働者階級は権威・抑圧・搾取を通常の生活条件だとして黙認するようになる。主人の学説や立場に服従する精神では、自由を得ることも、反抗することも、闘うことも望めない。虐げられた人々は、そのくびきを振り払うことができるようになる前に、既存システムが持つ精神的支配を克服しなければならない(直接行動こそがこの二つを行う手段なのだ、とアナキストは主張する−−セクションJ.2J.4を参照)。資本主義と国家主義は、物理的に打ち負かされる前に、精神的にも理論的にも打ち負かされねばならない(多くのアナキストは、この精神的解放を「階級意識」と呼んでいる−−セクションB.7.3を参照)。そして、抑圧に対する闘争を通じた自己解放こそが、これを成し遂げる唯一の方法なのである。だから、アナキストは、「叛逆の魂」(クロポトキンの言葉を使えば)を鼓舞するのだ。
 自己解放は、闘争・自主組織・連帯・直接行動の産物である。直接行動はアナキストを、自由人を創り出す手段である。故に、『アナキストは常に、資本とその擁護者たる国家に反抗する労働者の直接闘争を行う労働者組織で積極的役割を演じるように勧めている。』これは、『そうした闘争は、間接的手段よりも優れており、労働者が一時的改善を得ることが出来るようにし、資本主義とそれを支援する国家が行っている悪に対して労働者の目を開かせてくれる。そして、資本家と国家の介入なしに消費・生産・交換を組織する可能性について労働者の思考を呼び起こしてくれるのである。』つまり、自由社会の可能性を見るようになるのである。クロポトキンは、多くのアナキスト同様、サンジカリズム運動と労働組合運動を、既存社会の中でリバータリアン思想を発達させる手段だと指摘した(だが、大部分のアナキスト同様、彼も、アナキストの活動をそうした運動だけに限定しなかったが)。実際、『労働者がその連帯を実現し、自分たちが持つ一群の利益を感じることが出来るようにする』運動は、いかなるものであれ、無政府共産主義が持つ『こうした概念の下地を作る。』[Evolution and Environment, p. 83 and p. 85] 即ち、虐げられた人々の精神の中にある既存社会の精神的支配を克服するのである。
 スコットランドのアナキスト闘士が述べていたように、アナキストにとって、『人類の進歩の歴史は、様々な形態の権威に従属することで堕落した個人による叛逆と不服従の歴史だと考えることが出来る。そうした個人が自分の尊厳を保つことが出来るのは、叛逆と不服従を通じてのみである。』[Robert Lynn, Not a Life Story, Just a Leaf from It, p. 77] アナキストが自己解放(そして自主組織・自主管理・自主活動)を強調する理由はこれである。バクーニンが『叛逆』を『歴史において、集団的であれ個人的であれ、あらゆる人間的発展が持つ本質的条件となっている三つの根本原理』の一つだと見なしているのは驚くに当たらない [God and the State, p. 12] 。これは単に、個人や集団を自由にすることが出来るのは、他者ではなく、自分自身だからだ。こうした叛逆(自己解放)が、既存社会がもっとリバータリアンになり、アナキズム社会を可能にする唯一の手段なのである。

A.2.8 ヒエラルキーに反対しなくてもアナキストになれるか?

 なれない。これまで、アナキストは権威主義を嫌悪していることを見てきた。反権威主義なら、あらゆるヒエラルキー機構に反対しなければならない。それが権威の原理を具現化しているからである。エマ=ゴールドマンは次のように論じている。『個人の真価と特性を破壊しているのは、国家という意味での政府だけではない。生活を窒息させている複合的な権威と制度的支配全体もそうなのだ。権威と制度的支配を支援するのが迷信・神話・偽装・回避・従属である。』[Red Emma Speaks, p. 435] つまり、『ヒエラルキー・権威・支配からなる構造と、奴隷制・賃金奴隷(つまり資本主義)・人種差別主義・性差別主義・権威主義的学校など自由に対する足枷とを、常に永続的に発見し、克服しなければならないのである。』[Noam Chomsky, Language and Politics, p. 364]
 首尾一貫したアナキストならば国家だけでなくヒエラルキーにも反対するはずである。経済的・社会的・政治的を問わず、アナキストであるということはヒエラルキーに反対だということだ。これ以上の説明が必要だという人のために、この論拠を下記しておく。
 ヒエラルキーはピラミッド構造の組織であって、権力・名声・(通常は)報酬を大きくするための等級・地位・役職から成り立つ。ヒエラルキー形態を調べていた学者たちは、ヒエラルキーは支配と搾取という二つの原理を体現している、ということを明らかにした。例えば、「ボスは何を行うのか? What Do Bosses Do?」という近代工場を研究した著名な論文(Review of Radical Political Economy, Vol. 6, No. 2)でスティーブン=マーグリンが見出したのは、企業ヒエラルキーは主として、(資本家が主張するような)生産効率の向上ではなく、搾取をより効率的にすることを目的とした、労働者に対する統制の増大をもたらす、ということであった。
 ヒエラルキーの統制は強制によって維持される。肉体的・経済的・心理的・社会的など様々な否定的制裁措置による脅迫を使って維持されるのである。従って、異議や反抗の弾圧を含んだこうした統制には、権力集中が必然的に伴う。頂点にいる少数者(特に組織のリーダー)が最大の統制を行使し、中間層の人々はそれほど多くの統制力を持たず、底辺にいる大多数は実質的に全く統制力を持たない。こうした一連の権力関係になるのである。
 支配・強制・中央集権が権威主義の本質的特徴で、この特徴がヒエラルキーに具現化されている以上、あらゆるヒエラルキー機構は権威主義である。その上、アナキストにとって、ヒエラルキー・中央集権制・権威主義を特徴とする組織はいかなるものであれ、国家にそっくりであり、「国家主義的」である。アナキストは国家にも権威主義的関係にも反対なのだから、あらゆるヒエラルキー形態を解体しようとしない者を「アナキスト」と呼ぶことなどできはしない。資本主義企業にも同じことが言える。ノーム=チョムスキーが指摘しているように、資本主義企業の構造は実質的に極度にヒエラルキー型であり、実際、ファシストである。

 ファシズム機構は絶対主義である。権力が上から下へと波及するのである。理想的国家は、本質的に命令に従うだけの大衆をトップダウンで統制する。
 企業について少し考えてみよう。実際に企業がどうあるかを見てみると、権力が厳密に上から下へと、取締役会から経営者へ、そして下級管理職へ、最終的には生産現場の人々や事務員などへと及ぼされている。下から上への権力の流れなどなく、下から上へ流そうという企画もない。人々はこの流れを妨害し、批判することも出来る。正に同じことが奴隷社会にも当てはまるのである。権力構造は上から下に向かって線状に伸びているのである。[Keeping the Rabble in Line, p. 237]

 デヴィッド=デレオンは以下のように企業と国家が非常によく似ていることを示している。

 ほとんどの工場は軍事独裁のようなものだ。底辺にいる人々は兵卒、現場の統括は軍曹、といった具合のヒエラルキーである。仕事中、自分の服装や髪型から、自分が生活の大部分をどのように過ごすべきかといったことまで、組織に命じられる。残業を命じられる。病気になると、お抱えの産業医に診てもらうように命じられる。暇な時に政治活動を行ってはならないと言われる。言論・出版・集会の自由を弾圧される。CCTVに加え、IDカードと武装した公安警察を使って監視される。反対意見を述べると「懲戒停職」(GMの呼び方だ)で罰せられ、解雇されることもある。情況によっては、こうしたことの大部分を受け入れねばならず、さもなくば何百万という失業者の仲間入りをしなければならなくなる。ほとんど全ての仕事で、私たちが持っているものといえば、離職する「権利」ぐらいなものだ。象牙の塔で働こうと坑道で働こうと、大部分の意思決定を決めるのはトップであり、私たちは服従することになっているのだ。["For Democracy Where We Work: A rationale for social self-management", Reinventing Anarchy, Again, Howard J. Ehrlich (ed.), pp. 193-4]

 首尾一貫したアナキストならば、あらゆる形態のヒエラルキーに敵対しなければならない。資本主義企業に対してもそうだ。そのようにしないのであれば、「アーキー archy」を支持しているのである−−定義上、アナキストが支持することなど出来はしないのだ。言い換えれば、アナキストにとって、『服従する約束・(賃金)奴隷の契約・隷属状態の受け入れを必要とする合意、これらは全て不当である。個人の自律を制限し抑制するからだ。』[Robert Graham, "The Anarchist Contract", Reinventing Anarchy, Again, Howard J. Ehrlich (ed.), p. 77] 従って、ヒエラルキーはアナキズムの原動力となっている基本原理に反しているのである。ヒエラルキーは私たちを人間たらしめていることを否定し、『人間の最も根本的特徴である人格を剥奪する。個人は、自分の私的生活を管理するだけでなく、その最も重要な文脈−−社会情況−−に取り組む力量を持っているという正にその概念を否定しているのである。』[Murray Bookchin, The Ecology of Freedom, p. 129]
 協同組織は任意のものだからヒエラルキー構造であるかどうかは問題ではない、と主張する人もいる。アナキストは、二つの理由でそれには反対である。まず第一に、資本主義の下で、労働者は経済的必要のために、生活手段を所有している人々に自分の労働力を(そして自由をも)売る。このプロセスは、『富の莫大な格差』を作り出すことで、労働者が直面している経済的諸条件をさらに強化する。『労働者は、資本家に自分の労働力を、実質的価値を反映しない価格で売り飛ばす』からである。

 例えば、雇用契約の当事者同士をお互いに自由で平等だと描き出すなど、労働者と雇用者の間の交渉力に大きな不平等が存在することを無視している。さらに、隷属と搾取の関係は自由の縮図として自然に生じるものだと描き出そうとするなど、個人の自由と社会公正とを嘲笑っているのである。[Robert Graham, 前掲書, p. 70]

 この理由で、アナキストは集団的行動と組織を支持する。労働者の交渉力を高め、労働者の自律を断固として主張できるようにしてくれるからである(セクションJを参照)。
 第二に、もし、協同組織が任意であるかどうかを重要な問題だと考えるのならば、現在の国家システムも「アナーキー」だと主張しなければならないだろう。現代民主主義では、特定国家に強制的に住むように強いられている個人はいない。立ち去り、どこか別な場所へ行くのは自由である。協同組織が持つヒエラルキー型の性質を見過ごすと、結局、自由の否定に基づく組織(資本主義企業・軍・国家さえも)を支持することになりかねない。なぜならそれらも「任意」なのだから。ボブ=ブラックは次のように述べている。『国家の権威主義を悪魔化しながら、契約によって神聖化されたというだけで全く同じ服従協定を、世界経済を操っている大企業への服従協定を無視するなど、最悪のフェティシズムだ。』[The Libertarian as Conservative, The Abolition of Work and other essays, p. 142] アナーキーは主人を自由に選ぶ以上のことなのである。
 ヒエラルキーに反対することがアナキズムの重要な姿勢なのである。そうでなければ単なる「任意主義アーキスト」に過ぎず、そんなものはアナキストではない。これについてはA.2.14 「何故、任意主義は不充分なのか?」で詳しく論じる。
 アナキズムの考えからすれば、組織がヒエラルキー型になる必要はない。自分たちのことは直接自分たちで管理する、平等者間の協力に基づいた組織も可能である。そのようにすれば、ヒエラルキー構造(つまり少数者の手に権力を委譲すること)なしでもやっていける。協同組織はそのメンバーによって自主管理されて初めて、真にアナキズム的になったと考えることが出来るのだ。
 長々とこんなことを述べて申し訳ないが、資本主義の擁護者の中で、自由と関連している名前だという理由で明らかに「アナキスト」という言葉を盗みたがっている者がおり、最近、資本主義者でありながら同時にアナキストであることは可能だ(いわゆる「アナルコ」キャピタリズム)などと主張しているのである。もうお分かりだと思うが、資本主義の基盤はヒエラルキー(国家主義と搾取については言うまでもない)なのだから、「アナルコ」キャピタリズムは明らかに矛盾しているのである(詳細はセクションFを参照)。

A.2.9 アナキストはどのような社会を望んでいるのか?

 アナキストは自由提携を基盤とする権力分散型社会を望んでいる。これまで述べてきた価値観−−自由・平等・連帯−−を最大にするためには、この社会形態がベストだと考えている。構造的にも地域的にも権力を合理的に分散させることで初めて、個人の自由は育成・促進される。少数者の手に権力を委譲することは、個人の自由と尊厳の明らかな否定である。自身の事柄を管理することを民衆から取り上げて、他者の手に委ねさせるのではなく、アナキストは、権威を小さくし、底辺に、決定される事項に影響される人々の手中に、権力を保持し続ける組織を望ましいと考えている。
 自由提携はアナキズム社会の根幹である。個人は、自分に合っていると思うのであれば、自由に団結しなければならない。これが自由と人間の尊厳の基本である。こうした自由合意は権力分散に基づく。そうでなければ、まやかしだ(資本主義においては、まやかしなのだ)。自由が育成し発展するために必要な社会文脈を提供できるのは平等だけである。だから、アナキストは「一人一票」に基づいた直接民主主義のコレクティヴを支持するのである(自由合意に政治的に対応するものとしての直接民主主義については、セクションA.2.11「何故、ほとんどのアナキストが直接民主主義を支持するのか?」を参照)。
 ここで言っておかなければならないが、アナキズム社会は、皆が賛同する牧歌的調和といったものを意味してはいない。全く違う!ルイジ=ガリアーニは次のように指摘している。『意見の不一致や摩擦は常に存在することになろう。実際、それは進歩を続けるためには絶対に必要な条件である。だが、全くの動物的生存競争−−食物を奪い合うような−−という血なまぐさい状態から一たび脱出すれば、意見の不一致の問題は、社会秩序や個人の自由に全く脅威を与えることなく解決することができるだろう。』[The End of Anarchism?, p. 28] アナキズムの目的は『個々人と様々な集団が持つ発意の精神を覚醒させる』ことである。個人と集団は『自分たちの相互関係の中で運動を創り出し、自由理解に関わる諸原則に基づいた生活を創造する』だろう。そして『多様性−−対立でさえも−−こそが生であり、統一は死である』という認識を持つであろう。[Peter Kropotkin, Anarchism, p. 143]
 アナキストの社会は協力的対立に基づくことになる。『対立それ自体に害はない。意見の不一致は常にある(それを隠すべきでもない)。意見の不一致を破滅的にしているのは、対立それ自体の事実ではなく、それに競争が伴うことなのである。』確かに『合意にこだわり過ぎると、人々が知恵を出し合ってグループの努力に貢献することが事実上妨げられてしまう。』[Alfie Kohn, No Contest: The Case Against Competition, p. 156] この理由で、大部分のアナキストは、大きなグループでのコンセンサス意志決定方式を拒否している(セクションA.2.12を参照)。
 アナキズム社会において、協同組織は全員参加の大衆集会が運営することになろう。民衆集会は、平等者の間での包括的な議論・討議・協力的対立に基づく。様々な委員会も選出されるが、それは純粋に管理上の職務だけを行う。委員会はを構成するのは代理人である。代理人は、その職務を命じられ、リコール可能で、暫定的で、その職務遂行は、自分を選んだ集会によって監視される。つまり、アナキズム社会では『自分のことは自分で世話し、その事柄をどうするかを決めることになろう。考えを行動に移すためには誰かがその計画を管理しなければならないが、我々はその人に斯く斯く然然のやり方でそれを行い、それ以外のやり方では行わないように伝えるのである。我々の決定がなければ、何事も行われないわけだ。つまり、我々の代理人は、命令する権利を与えられた人々ではなく、権威を全く持たず、参画している誰もが行って欲しいと思っていることを行う義務のみを持つ人々なのである。』[Errico Malatesta, Fra Contadini, p. 34] もし代理人が命じられた職務に反して行動したり、集会の決定以上に自分の影響力を拡大しようとしたり、集会が決めた仕事を以上のことをしようとした場合(つまり、代理人が政治的決定をし始めた場合)は、ただちにリコールされ、代理人が行った決定は白紙に戻される。このようにして、組織は、それを創った個人の合同組織の手中に保持されるのである。
 グループの底辺にいるメンバーが行う自主管理とメンバーが持つリコール権とは、アナキスト組織の本質的信条である。国家主義システムやヒエラルキーシステムとアナキストコミュニティとの重要な違いは、誰が権力を行使するかにある。例えば、議会システムでは、民衆は一定期間、議員団に意志決定を行う権力を与える。議員が公約を実行するかどうかに関わらず、次の選挙まで、民衆は議員をリコールできない。権力はトップにあって、底辺の人々は従うことだけを期待される。同様に、資本主義の仕事場では、トップにいるボスと管理職という選挙されてもいない少数者が権力を握り、労働者は服従するはずだと思われているのである。
 アナキズム社会ではこの関係が逆転する。アナキストの地域社会で、たった一人の個人やたった一つのグループだけが(選挙されていようといまいが)権力を持つことはない。その代わり、意志決定は直接民主主義の原理を使ってなされ、必要に応じて、決定事項を遂行する代理人を地域社会が選挙したり指名したりすることができる。政策を決定すること(決定に影響を受ける一人一人の義務である)と、採用された政策を調整し実行すること(代理人の仕事である)が、明確に区別されるのだ。
 こうした平等主義の地域社会は、自由合意に基づくだけでなく、連邦という形で自由に提携する。こうした自由連邦は下から上へと運営され、意志決定は、基盤となる集会から上へと進む。連邦もコレクティヴと同じ方法で運営される。地方レベル・「国」レベル・国際レベルで定期的会議があり、参加するコレクティヴに影響する重要問題を論議する。さらに、この会議は、社会の根本的指針や思想を討議し、政策を決定し、実行に移し、再検討し、調整する。代理人が行うのは、単に『支持された任務を持って関連する会議に出席し、それぞれの様々なニーズと願望とを調和させようとするだけである。討議は常に、自分たちを代理人として派遣した人々の管理・承認に制約される。』そこで『民衆の利益が忘れ去られることほど危険なことはないのである。』[Malatesta, 前掲書, p. 36]
 必要ならば、実行委員会が作られ、上述したように厳密な下からのコントロールによって、集会と会議の決定を調整し実行する。こうした委員会に送り込まれる代理人の在職期間は限定され、会議への代理人同様に、任務は固定している。自分を代理人として指名した民衆の代わりに意思決定を行うことは出来ない。さらに、会議や大会への代理人同様に、自分を最初に選出した集会と大会による即座のリコールの対象となる。マラテスタの言葉を引用すれば、このようにして、共同行動を調整するために必要な委員会は全て『常に、民衆の直接管理下におかれる。』そして、『民衆集会で採択された決定を』表明するのである [Errico Malatesta: His Life and Ideas, p. 175 and p. 129]。
 最も重要なことだが、基本的な地域集会は、連邦が到達したいかなる決定をも覆すことが出来、連邦を脱退することもできる。協議の最中に代理人が行った妥協はいかなるものであれ、全体会議に戻して承認を求めなければならない。その承認なしには、代理人が行ったどんな妥協も、特定の仕事を特定個人や委員会に委任した地域社会を拘束することはない。さらに地域社会は、連邦会議を召集して、事態の新しい進展を論議し、実行委員会に要望が変わったことを伝え、事態の進展や提案について何を成すべきか実行委員会に指示することができる。
 言い換えれば、アナキスト組織やアナキズム社会で必要な代理人は全て、(民主主義政府におけるような)代議士ではないのだ。クロポトキンはこの違いをハッキリと述べている。

 真の代理人vs代議士という問題をより良く理解するためには、次のような情況を想像してみると良い。百人もしくは二百人の人が、毎日仕事で会い、共通の関心事を持っており、自分たちに関わる問題のあらゆる面を議論し、結論に到達する。そして、誰かを選び、同様の代理人と合意に達するようにその人を送り込む。この代理人が持っている権限は、自分の仲間が結論に到達するに至った考慮事項について、他の代理人に説明することだけである。代理人は、何事をも押し付けることは出来ず、理解してもらうだけであり、自分が委任された事項が受け入れられるのか、拒否されるのかの単純な提議を持って帰るだけである。真の代理委任が出現すると、これが実現するのである。[Words of a Rebel, p. 132]

 代議制とは異なり、権力は少数者の手に委譲されない。むしろ、いかなる代理人であろうとも、最初に自分を選挙した(さもなくば抜擢した)協同組織の御用聞きなのだ。代理人・行動委員会は全て、自分自身よりも出身の集会の希望を確実に表現するために、任務を命じられ、即時のリコールの対象となるであろう。このようにして、政府はアナーキーに置き換えられるのだ。つまり、任務を命じられた代理人・即座のリコール・自由合意・下から上への自由連合からなるシステムに基づいた平等者として協力する自由協同組織と自由コミュニティのネットワークに置き換えられるのである。
 このシステムだけが『民衆の自由組織、下から上への組織』を確実なものにする。この『下から上への自由連合』は、基本的『協同組織』で始まり、『まず最初にコミューンへ、そしてコミューン連合が地方へ、地方連合が国へ、国の連合が国際同胞同盟へと』連合するのである [Michael Bakunin, The Political Philosophy of Bakunin, p. 298]。アナキスト地域社会ネットワークは三つのレベルで機能することになろう。『地域的組織のためには独立コミューン、それぞれの職務に応じた民衆組織のためには労働組合、経済的・衛生的・教育的な全ての現実可能で想像可能なニーズを満たし、相互の防衛・思想の宣伝・芸術・娯楽などを行うためには様々な自由結合と自由協会』がある [Peter Kropotkin, Evolution and Environment, p. 79]。これら全ては、自主管理・自由提携・自由連合・下からの自主組織化に基づくであろう。
 このように組織を作ることによって、生の全面においてヒエラルキーを廃止することができる。なぜなら、組織の底辺にいる人々が実権を持っているのであって、代理人が持つのではないからだ。この組織形態だけが、政府(少数者の発意と権能)をアナーキー(万人の発意と権能)に置き換えることができる。グループでの作業と多くの人々の調整が必要となるあらゆる活動に、この組織形態が存在することになろう。バクーニンが言うように、それは『自分が理解し、管理できる構造に個々人を組み入れる』手段なのである [Cornelious Castoriadis, Political and Social Writings, vol. 2, p. 97で引用] 。個々の発意に関して、参画する個人がそれを管理することになるのである。
 もうお分かりだろうが、アナキストが創りたいと思っている社会は、どんな個人やグループも他者に対して権力を振りかざすことができない構造に基づく。自由合意・連邦とリコール権・固定した任務と限定された任期、これらは権力を政府の手から取り除き、決定に直接影響される人々の手に移すためのメカニズムである。
 アナキズム社会がどのようなものになるのかについては、セクションIを参照していただきたい。しかし、アナーキーは何か遠くにある目標ではなく、抑圧と搾取に対する現下の闘争の一面なのである。手段と目的は結びついている。直接行動は、大衆参加組織を創り出し、民衆に自分自身の個人的・集団的利益を直接管理する覚悟をさせる。この故に、セクションI.2.3で論じているように、アナキストの考えでは、自由社会の枠組みは、虐げられている人々が今ここでの資本主義に対する闘争で創り出す組織に基づく。この意味で、集団的闘争は、アナキズムが機能するために必要な組織を創り出すだけでなく、個人的姿勢をも創り出す。抑圧に対する闘争こそ、アナーキーの学校だ。それは、どのようにすればアナキストに慣れるのかを教えてくれるだけでなく、アナキズム社会がどのようなものになるのか・その当初の組織的枠組みがどのようになるのかを垣間見させ、そうした社会が機能するために必要な活動を自分達で管理する経験を与えてくれる。このようにして、アナキストは、目下の闘争の中で、自分たちが求めている世界を多少なりとも創り出そうとしているのである。自分たちの思想が「革命後」でなければ適用できないなどと考えないのだ。実際、アナキズム原理を現在に適用すれば、アナーキーはもっと近くなるのである。

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