アナキズムFAQ

A.2 アナキズムは何を主張してのいるか?

 次に掲げるパーシー=B=シェリーの詩が、アナキズムが実際に示している思想とアナキズムを突き動かしている理想とを表している。

高潔な魂を持つ人間は
命令せず、服従もしない
権力は、悲惨なペストのように
さわったもの全てを汚す
そして服従は
才能・美徳・自由・真実全てを破滅させ
人間を奴隷に、人の肉体を機械人形にしてしまう


 シェリーの詩が示しているように、アナキストは「自由」を最優先し、自己と他者双方にとっての自由を希求している。また、個性−−それは人を唯一者にする−−を、人間性の最も重要なことだと考えている。しかし、アナキストは、個性は真空状態に存在するのではなく、社会的現象だと認識している。社会なくして個性はありえない。なぜなら人が発達し、拡充し、成長するには他者が必要だからだ。
 さらに、個人の発達と社会発展の間には、相互関係がある。個人は社会の中で成長し形作られるが、同時に、個人の思考や行動が(自己や他者だけでなく)社会の様々な面を形成し、変化させるのである。自由な個人・その希望・夢・思想に基づかない社会は、空虚であり死んでいる。『人間の形成は、集団的プロセスである。地域社会と個人双方が参加するプロセスなのである。』[Murray Bookchin, The Modern Crisis, p.79] つまり、純粋に社会だけに、もしくは、純粋に個人だけに基づいた政治思想は間違っているのだ。
 個性をできる限り伸ばすためには、次の三つの原則に基づいた社会を創ることが重要だ、とアナキストは考えている。それは自由・平等・連帯のである。アナキストは皆、これらの原則を共有している。だからこそ、無政府共産主義者ピョトール=クロポトキンは、『自由・平等・連帯という美しい言葉』に刺激された革命について語っているのである [The Conquest of Bread, p. 128]。個人主義アナキストのベンジャミン=タッカーも同様のヴィジョンについて書いており、次のように主張している。アナキズムは『社会主義を主張する。真の社会主義、無政府の社会主義を主張する。これは、自由・平等・連帯を地球上に普及させることなのである。』[Instead of a Book, p. 363] これら三つの原理は互いに依存しあっている。。
 自由は、個人の知性・創造性・尊厳を十全に花開かせるために必須である。他者に支配されることは、人が自分で考え・行動するチャンスを否定されることである。自分で考え・行動することが、自己の個性を成長・発達させるたった一つの方法なのだ。支配は、同時に、創意工夫と個人の責任感を締め殺し、画一性と凡庸さを生み出す。従って、個性を大きく伸ばす社会は、必ずや、権力と強制にではなく、自発的提携に基づくことになる。プルードンを引用すれば、『誰もが連合すれば、誰もが自由になる。』またルイジ=ガリアーニはこう言う。アナキズムは『連合する自由の中での個人の自律』なのだ [The End of Anarchism?, p.35](セクションA.2. 2 何故、アナキストは自由を強調するのか?を参照)。
 自由が個性の十全な発達に必須であれば、平等は本物の自由が存在するために必須である。権力・富・特権の莫大な不平等で満たされ階級に分断されたヒエラルキー社会に本物の自由はありえない。そうした社会では、少数者−−ヒエラルキーのトップにいる人々−−だけが比較的自由であって、残りは半ば奴隷なのだから。平等がなければ、自由は見せ掛けだけの誤魔化しである。資本主義の下でと同様に、良くても主人(ボス)を選ぶ「自由」程度のものなのだ。それ以上に、そうした情況ではエリートさえもが本当に自由ではない。なぜなら、エリートも、多数者の疎外と圧政によって歪められ、不毛にされた「発育を妨げる社会」に生きなければならないからである。個性は、他の自由な個人との幅広い接触によって発展するものである。エリート階級に属していても、相互に影響を与え合うような自由な個人が少ない社会では、自分達自身の発達の可能性も限られてしまうのだ。(A.2.5「何故、アナキストは平等を支持するのか?」を参照 )
 最後に、連帯は相互扶助を意味する。それは、同じ目的と利益を持つ人々が、自発的に、他者と協力して働くことである。しかし、自由と平等なくしては、社会は、上層階級が下層階級を支配することに基づいた競合する諸階級のピラミッドになってしまう。自分たちが今いる社会を見ればわかるように、そういう社会は「支配するか支配されるか」「食うか食われるか」「自分のことしか考えない」といったものなのである。従って、コミュニティの感覚を犠牲にした「イビツな個人主義」が助長される。底辺にいる人々は上にいる連中を恨み、上の連中は下の人間達を恐れる。そういう状態では社会全体の連帯は不可能である。利害が対立する階級間での部分的連帯だけが可能であり、このことが、社会全体を脆弱なものにしてしまうのである。(A.2.6「何故、連帯がアナキストにとって重要なのか?」を参照)
 ここで、連帯は自己犠牲や自己否定を意味するものではないということを言っておくべきだろう。マラテスタは次のようにハッキリ述べている。

 私たちは皆、エゴイストである。私たちは皆、自分自身の満足を追求している。ただ、アナキストは、皆のために苦闘すること、自分が同胞の中の一人になれる社会、健康で・知的で・教育があって・幸福な人々の中の一人になれる社会を実現すべく苦闘することに、大きな満足を見出している。だが、考えをすぐに変える人や、奴隷の生活に満足する人、奴隷の労働から利潤を得ているような人はアナキストではないし、アナキストになることもできない。[Life and Ideas, p. 23]

 アナキストにとって真の富とは、他の人々、そして私たちが住むこの地球である。エマ=ゴールドマンの言葉では、それは『有用で美しいものから成り立っている。強く美しい肉体と、そこに住みたいと思わせる環境を創り出す手助けをする物事で成り立っているのである。私たちの目標は、個人が持つ全ての潜在的力が最大限自由に表現されることである。人間のエネルギーがこのように自由に発現出来るようになるのは、完全な個人的、社会的自由の下でのみである。』つまり、『社会的平等』の下でなのだ。[Red Emma Speaks, pp. 67-8]
 また、個性を賞揚するからといって、アナキストは、人々や思想が社会とは別個に発達する、と考えるような観念論者ではない。個性と思想は、社会の中で、物質的・精神的交流や経験に応じて、成長・発展する。この交流や経験を人々は積極的に分析したり解釈したりするのである。つまり、アナキズムは唯物論なのだ。思想は社会的相互作用と個人の精神的営みによって発展し・成長する、と考えているのである(ミハイル=バクーニンによる唯物論対観念論の古典的論議である「神と国家 God and the State」を参照)。
 これは、アナキズム社会は人間が創造するものであって、神などの超越的原理が創り出すものではない、ということを意味している。なぜなら、『何事も勝手にお膳立てされはしない。とりわけ、人間関係においてはそうだ。人が取り決めるのである。そして、人は、物事に対する自分の姿勢と理解に従って取り決めるのである。』[Alexander Berkman, What is Anarchism?, p. 185]
 アナキズムの基盤は、思想の力、そして、自分が正しいと思っていることに基づいて行動し自分の人生を変える人間の能力である。それが自由なのだ。

A.2.1 アナキズムのエッセンスは何か?

 前に見たように、「an-archy」は「支配者がない」あるいは「(ヒエラルキー)権力がない」状態を意味する。アナキストは、特別な知識を持っていたり、熟練していたり、博識だったりするエキスパートという意味の「権威者」に反対しているわけではない。ただ、こうした権威者は自分の専門的判断に人を無理やり従わせる権力を持ってはならない、と信じているのである(この区別については、セクションB.1 に詳しい)。一言で言えば、アナキズムは反権威主義なのである。
 アナキストは反権威主義者である。誰も他者を支配するべきではないと信じているからだ。L=スーザン=ブラウンは次のように述べている。アナキストは『人間個人が本来持っている尊厳と価値を信じている。』[The Politics of Individualism, p.107」支配は、本来、下劣で卑しい。支配される人々の判断や意志を支配する者の判断や意志の中に沈め、個人の自律からしか生じ得ない尊厳と自尊心を破壊するからである。さらに、支配は搾取を可能にし、たいてい実際に搾取を導く。これが不平等・貧困・社会崩壊の根になるのだ。
 アナキズムのエッセンスをポジティブに表現すれば、自由と個性を最大にするために、平等な立場の人々が自由に協力するということである。
 平等な立場で協力することが反権威主義の鍵である。協力によって、私たちが唯一者として本来持っているはずの価値を発達させ、守ることが出来る。同時に、自分たちの生活と自由をより豊かにすることもできる。バクーニンは次のように述べている。『他者の人間性を認め、その実現に協力しなければ、誰も自分の人間性を認めることができず、その結果、自分が生きている間にそれを実現することなどできはしない。私の自由は万人の自由である。何故なら、私の自由と権利が、私の平等者たる万人の自由と権利の中で確認され承認されない限り、私は思考においても現実においても真に自由ではないからだ。』[Errico Malatesta, Anarchy, p. 30で引用]
 アナキストは反権威主義でありながら、人間には社会性があり、お互いに影響を与え合うものだということを認めている。人間はこの相互影響が持つ「権威」からは逃れることはできない。バクーニンは次のように指摘する。

 この相互影響の廃絶は、死である。我々は、大衆の自由を擁護しているときでも、個人や個人のグループが及ぼす自然な影響力を廃絶しろなどと主張することはない。我々が主張しているのは、人工的・特権的・法的・公式的な影響力を廃絶することなのである。』[Malatesta, Anarchy, p. 51で引用]

 言い換えれば、こうした影響力は、ヒエラルキー型権力から生じるのである。

A.2.2 何故、アナキストは自由を強調するのか?

 バクーニンの言によれば、アナキストは『自由の熱愛者であり、自由こそが人間の知性・尊厳・幸福を育み、増大させる唯一の環境だと考えている。』[Michael Bakunin: Selected Writings, p. 196] 人間が考える動物である以上、この動物に自由を与えないことは、自分自身で考える機会を剥奪することである。それはまさに、人間としての存在を否定することである。アナキストにとって自由は人間性の産物なのだ。

 人は自己意識を持っている。他人とは異なる存在だという意識をもっている。正にこの事実が、自由にふるまいたい、という願望を作り出す。自由と自己表現に対する渇望こそが最も根本的で主要な特徴なのである。[Emma Goldman, Red Emma Speaks, p. 439]

 このため、アナキズムは『個人の自尊心と独立心を、権力によるあらゆる束縛や侵害から解放しようとする。人間が十全に成長するのは自由の中でのみだ。人は、自由の中で初めて、自ら考え、行動し、自らをベストな状態にすることを学ぶ。自由の中で初めて、人々を一つにする社会的結束が持つ真の力を実感する。この結束こそが、当たり前の社会生活の本当の基盤なのである。』[前掲書, pp. 72-3]
 アナキストにとって自由とは、基本的に、個人が自分の幸福を自分のやり方で追い求めることである。そうすることで、個人の活動や力が発揮される。自分自身と自分の生活を自分で決断するからである。自由だけが個人の発展と多様性を保証できる。なぜなら、人々が自分たち自身を統治し、自分たち自身で意志決定するときには、それぞれの精神を働かせなければならず、まさしくこのことが、参画している個々人を拡充し、刺激する効果を持っているからである。マラテスタは次のように述べている。『民衆が自由になり、自身の事は自分で管理する習慣を得るためには、民衆が自ら行動し、良い結果にせよ悪い結果にせよ自分の行動に対する責任を感じることができるようにしておかねばならない。人々は間違いを犯すであろうが、犯した過ちの結果から学び、新しいやり方を試みるであろう。』[Fra Contadini, p. 26]
 自由は個人の潜在的可能性を最大限に成長させるための前提条件である。また、自由は社会的産物であり、地域社会の中で、地域社会を通じてしか実現できない。健康的で自由な地域社会が自由な個人を生む。そして、自由な個人が地域社会を形成し、地域社会を構成する人々間の社会関係を豊かにしていく。様々な自由は、社会的に生み出されるものであり、『紙切れに法的に書かれているから存在するのではなく、人々の根深い習慣となっているから、そして、それを損なおうとする試みに対して民衆が激しく抵抗するからこそ存在するのだ。人が人間としての尊厳を守る方法を知っている時、他者はその人を否応なく尊敬する気持ちになる。これは私生活だけに言えることではない。政治生活についても常に同じことが言える。』実際、『今日我々が多かれ少なかれ享受している政治的権利と特権全ては、政府の善意ではなく、民衆自身の強さのおかげなのだ。』[Rudolf Rocker, Anarcho-syndicalism, p. 75]
 この理由で、アナキストは直接行動戦術を支持しているのである(
セクションJ.2を参照)。エマ=ゴールドマンは次のように主張している。我々が手にするのは『欲しいと望むだけ多くの自由である。従って、アナキズムは直接行動を、経済的か・社会的か・道徳的かを問わず、あらゆる法律と制限に対して剥き出しの叛逆と抵抗を支持するのだ。』そのために必要なのは『誠実・自立・勇気である。つまり、自由な独立精神が必要なのである。』そして、『絶えざる抵抗だけが最終的に(我々を)自由にできる。仕事場における権威者に対する直接行動・法律の権威に対する直接行動・道徳規範が持つ侵害的で干渉的な権威に対する直接行動、これらはアナキズムの論理的で一貫した方法なのである。』[Red Emma Speaks, pp. 76-7]
 言い換えれば、直接行動は自由の活用であり、今ここでの抑圧に抵抗するために使われるだけでなく、自由社会を創造する手段でもある。自由が繁栄するために必要な個人のメンタリティと社会的諸条件を創り出すのである。どちらも極めて重要なのである。自由が発展するのは社会の中であって、社会に敵対して発展するのではないのだから。マレイ・ブクチンは書いている。

 人間がある歴史的時期にどのような自由・独立・自律を持つのかは、長期にわたる社会的伝統、そう、「集産的」発展の産物なのである。それは、個々人が、その発展の中で重要な役割を演じ、実際自由になりたいと願うならば、最終的にはそうする義務があるということなのだ。[Social Anarchism or Lifestyle Anarchism, p. 15]

 自由には、成長し発展するための正しい種類の社会環境が必要である。そうした環境は、権力分散型で、労働者による直接の労働管理に基づいていなければならない。中央集権が強制的権力(ヒエラルキー)を意味するのに対し、自主管理は自由のエッセンスである。自主管理は、そこに参画する個々人が自分の全ての能力を−−特に、その精神的能力を−−確実に行使(そして発達)できるようにする。逆に、ヒエラルキーは、そこに参画する全ての個人の活動と思考を、少数の人間の考えや行動で置き換える。個人の能力を十全に発揮させるのではなく、多くの人を軽視し、その発達を確実に鈍らせるのである(セクションB.1も参照)。
 アナキストが資本主義や国家主義に反対するのはこのためだ。フランスのアナキスト、セバスチアン=フォールは次のように述べている。権威は『二つの主要な形態を身にまとっている。一つは政治的形態、つまり国家である。もう一つは、経済的形態、つまり私有財産である。』[Peter Marshall, Demanding the Impossible, p. 43で引用] 国家同様に、資本主義も中央集権的権威に基づいている(つまり、労働者に対するボスの権威である)。その目的は、労働者の手から労働の管理を締め出すことである。バクーニンは次のように述べている。『労働者の本格的で最終的で完全な解放を可能にするのは、一つの状態だけである。資本、すなわち原材料と土地を含めたあらゆる労働手段を、労働者全体で占有するという状態だけである。』[Rudolf Rocker, 前掲書, p. 50で引用]
 ノーム=チョムスキーは言う。『筋の通ったアナキストなら、生産手段の私有と賃金奴隷に反対するはずだ。これらが現行システムの構成要素であり、労働は自由に行われるべきであり、生産者の管理下になければならない、という原則とは相容れないのである。』["Notes on Anarchism", For Reasons of State, p. 158]
 アナキストにとって自由とは、個人やグループが自主管理を実践する−−つまり自分たち自身を自分たちで統治する−−非権威主義社会を意味する。これは重要なことを意味している。第一に、アナキスト社会は強制的ではない、つまり個人に何かを行ってもらうことを「納得させる」のに暴力や暴力をちらつかせた脅かしがないということを意味している。第二に、アナキストは個人の主権を断固として支持しており、これを支持するからこそ、強制的権威に基づく制度(つまりヒエラルキー)に反対する、ということを意味している。最後に、アナキストは「政府」反対しているが、それは中央集権型・ヒエラルキー型・官僚制度型の組織や政府に反対しているだけだ、ということを意味している。「代表者」に権力を委任せずに、直接民主主義に基づいている限り、権力分散型の草の根組織からなる連邦を通じた自治政府には反対していない(アナキストの組織についてはセクションA.2.9を参照)。権威は自由の敵であり、権力の委任に基づく組織はいかなるものであれ、その権力に支配される人々の自由と尊厳に脅威を与えるからだ。
 アナキストは、自由こそ、人間の尊厳と多様性を開花させることができる唯一の社会環境だと考えている。だが、資本主義と国家主義の下では、大多数の人々に自由はない。私有財産とヒエラルキーが、大多数の人々の意向と判断を確実に主人の意志に従属させ、個人の自由を大幅に制限し、『我々一人一人が潜在的に持っている物質的・知的・道徳的能力全ての十全なる発展』を不可能にしてしまうからである [Michael Bakunin, Bakunin on Anarchism, p. 261]。
(資本主義と国家主義のヒエラルキー的・権威主義的性質に関するさらに詳しい論議についてはセクションBを参照)

A.2.3 アナキストは組織を容認するのか?

 イエス。協同組織なしで、真に人間的な生活を送ることはできない。自由は、社会や組織なしには存在しえない。ジョージ=バーレトは次のように指摘している。

 人生の十全な意義を手にするためには、協力しなければならない。協力するためには、仲間と合意しなければならない。そうした合意を自由の制限だと考えるなど、まったくバカげている。逆に、それは自由を行使することなのだ。
 合意することは自由を損なうというドグマをでっち上げれば、自由はただちに暴君と化す。そのドグマは、日常のささやかな楽しみさえ禁じかねない。例えば、自由の原則に反するとして、友達と散歩に行くことさえできなくなる。なぜなら、友達と散歩するためには、いつ、どこで待ち合わせるかを友達と合意しなければならないからだ。全て自分一人でできること以外には、手を出せなくなってしまう。それ以上のことをしようとするなら、誰かと協力しなければならず、協力することは、他人と合意することを意味し、それは自由に反することになるからだ。この主張がバカげていることは一目瞭然だろう。友達と散歩に行くことに同意するときには、自分の自由を制限しているのではなく、単に自由を行使しているだけのことなのだ。
 逆に、自分の優れた知識から、友人は運動した方が良い、友人を散歩に連れていってやろう、と決めたとすれば、自由を制限し始めたことになる。これが自由合意と支配との違いなのだ。[Objections to Anarchism, pp. 348-9]

 組織に関して、アナキストは次のように考える。『権力を創り出すこととは全く異なり、権力に対する唯一の治療法である。つまり、自分たち一人一人が集団的作業の中で能動的で意識的な役割を担うことに慣れ、指導者の手中にある受動的道具としての存在を止める唯一の手段である。』[Errico Malatesta, Life and Ideas, p. 86] アナキストは構造のあるオープンな形で組織を作ることが必要だと充分認識している。キャラル=エーリックが指摘しているように、アナキストは『組織機構を作ることに反対していない。』単に『ヒエラルキー機構を廃絶したい』だけである。だが、アナキストは『組織機構を全く望んでいないという固定観念で殆どいつも判断』されている。この判断は間違っている。『説明責任・最大数の人々への権力の拡散・職務のローテーション・技能の共有・情報と資源の普及、これらを組み込んでいる組織』が基盤としているのは『優れた社会的アナキスト組織原理なのだ!』["Socialism, Anarchism and Feminism", Quiet Rumours: An Anarcha-Feminist Reader, p. 47 and p. 46]
 アナキストが組織を容認すると言うと、最初は奇妙に思えるかもしれない。それは理解できる。二人の英国人アナキストは次のように述べている。『権威主義的組織の経験しか持っていない人々からすれば、組織は全体主義的なものか、民主主義的なものかどちらかしかあり得ないように思われ、政府を信用していない人々は、同時に、組織全てを信用していないはずだと見なされる。だが、それは違う。』[Stuart Christie and Albert Meltzer, The Floodgates of Anarchy, p. 122] 言い換えれば、私たちは、実質的に全ての組織が権威主義、という社会に生きており、それ以外の組織形態などあり得ないように思っているわけだ。見過ごされていることが多いものだが、この種の組織は歴史的に形成され、支配と搾取をその原動力としている特殊な社会の中で発生したのである。考古学者や人類学者によれば、この種の社会は、奴隷の労働が剰余を生み出し、それが支配階級を養うという征服と奴隷制に基づいた最初の原始的国家と共に出現した。せいぜい五千年間存在しているに過ぎないのだ。
 それ以前の何十万年もの間、人類や前人類の社会は、マレイ=ブクチンが「有機的社会」と呼ぶ状態にあった。つまり、相互扶助・生産資源の自由利用・共同労働生産物の必要に応じた共有、こうしたことを含む協調型の経済活動に基づいていたのである。たぶん、そういう社会にも年齢による地位の上下関係はあっただろう。しかし、強制的制裁によって押し付けられる制度化された支配−従属関係という意味でのヒエラルキーは存在しなかっただろうし、結果として、ある階級による他の階級の搾取を含んだ階級分化も生じなかったであろう(Murray Bookchin, The Ecology of Freedomを参照)。
 だが、強調しておくが、アナキストは「石器時代に帰れ」と主張してはいない。ヒエラルキー−権威主義型の組織は、人間の社会進化過程で比較的最近に現われたものであって、それがどういうわけだか永久に「運命づけられている」と考える理由などない、と言いたいだけである。人間の権威主義的・競争的・攻撃的な行動が、遺伝的に「プログラムされた」ものだなどと思わないし、その主張を裏付けるハッキリした証拠もない。逆に、それは社会的に条件づけられ、学習されたものなのである。だから、学習しないことだってできるはずだ(Ashley Montagu, The Nature of Human Agression を参照)。私たちは運命論者でも遺伝学的決定論者でもない。人間の自由意志を信じている。自由意志とは、人は自分が物事を行うやり方を変えることができる、という意味だ。社会を組織するやり方だって変えることができるのだ。
 疑いもなく、社会はもっと上手く組織されねばならない。現在は、大多数が生産した富や権力のほとんどは、社会的ピラミッドの頂点にいる少数のエリートに集中している。それが貧困を引き起こし、他の人々を、特にピラミッドの底辺にいる人々苦しめている。エリートが国家統制を通じた強制的手段を握っている(セクションB.2.3を参照)ために、多数者を抑圧し、その苦しみを無視できるようになっているのである。規模はもっと小さいものの、この現象はあらゆるヒエラルキーの中で生じている。したがって、権威主義や中央集権構造の中にいる人々が、自由の否定であるとして組織を憎むようになっても何ら不思議はない。アレキサンダー=バークマンは次のように述べている。

 アナキズムは組織を信頼していないと述べている人は、ナンセンスを語っているのだ。組織は万事であり、万事が組織なのである。意識しようとしまいと、人生の全てが組織なのだ。だが、組織も千差万別だ。資本主義社会は非常に悪く組織されているため、多くの人々が苦しんでいる。丁度、体のどこかが痛いときに、体全体が痛み、病気になっているのと同じである。組織や組合のメンバーは、一人たりとも、大手を振って、差別されたり、抑圧されたり、無視されたりしてはならない。それは、歯が痛いのを無視しているのと同じである。やがては全体が病気になってしまうのだ。[前掲書, p. 198]

 これは、正に、資本主義社会で起こっていることである。結果として、実際に、『全体が病気に』なっているのである。
 このため、アナキストは権威主義的組織形態を否定し、自由合意に基づく協同組織を支持する。自由合意は重要である。バークマンの言葉を借りれば、『一人一人が自由な独立主体であり、相互利益のために自らの選択で他者と協力して初めて、世界は上手く機能し、強力になる。』[前掲書, p. 199] セクション
A.2.14で論じるが、アナキストによる自由合意の強調は、協同組織それ自体内部における直接民主主義(アナキストが通常使っている言葉では、自主管理)で補完されねばならない。さもなくば、「自由」はどの主人を選ぶかといった程度のものになり果ててしまう。
 アナキスト組織は、権力を民衆の手に、つまり、なされる決定に直接影響を受ける人々の手に戻すという大規模な権力分散に基づく。プルードンを引用しよう。

 民主主義が誤魔化しではなく、人民主権がジョークでないのならば、自分が従事している産業分野や、その地方にある個々の自治体・地区・地方議会で、個々の市民は自分が関与する利害関係を管理する上で直接的に、各々自ら行動し、そうした利害関係に対して十全に主権を行使しなければならない。[The General Idea of the Revolution, p. 276]

 これは、共通利益を調整するために連合主義が必要だ、ということも意味している。アナキズムにとって、連合主義は自主管理の自然な補完物である。国家の廃絶と共に、社会は『異なるやり方で、上から下へではないやり方で、それ自体を組織できるし、そのように組織しなければならない。将来の社会組織は労働者の自由な協同組織や連合によってもっぱら下から上へと創られねばならない。それは、当初は労働組合で始まり、コミューンへ、地方へ、国へ、最終的には国際的で世界的な大連合となる。そして、それだけで、自由と公益という真の秩序、生命を与えてくれる秩序が実現するだろう。この秩序は、個々人の利益と社会の利益とを無視するのではなく、逆に確約し、調和させるのである。』[Bakunin, Michael Bakunin: Selected Writings, pp. 205-6] なぜなら『真の民衆組織は下から始まり』従って『連合主義が社会主義の政治的制度に、自由で自発的な民衆生活組織になる』からである。リバータリアン社会主義は『特徴として連合主義的なのだ。』[Bakunin, The Political Philosophy of Bakunin, pp. 273-4 and p. 272]
 アナキスト組織は直接民主主義(つまり自主管理)と連合主義(つまり連邦)に基づく。これらは自由の表現であり、自由の環境である。自由と平等には、民衆が平等者として議論し討論できるフォーラムが必要である以上、直接(参加型)民主主義は必須である。このフォーラムは、マレイ=ブクチンが『異議が持つ創造的役割』と呼んでいることを自由に実行できるようにしてくれる。連合主義は、共通の利益が確実に論じられ、影響を受ける人全員の希望を反映するようなやり方で共同行動が組織されることを確実にするために必要である。意志決定が、少数の支配者によって上から下へと押し付けられるのではなく、下から上へと流れることを保証するために必要なのである。
 リバータリアン組織に関するアナキストの考えと、直接民主制と連邦の必要性については、セクションA.2.9A.2.11で詳しく論じる。

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