アナキズムFAQ


セクションI アナキスト社会はどのようなものになるのか?

これまで、このFAQの大部分は批判に関するものだった。ヒエラルキー・資本主義・国家、そしてそれらが導く諸問題に焦点を当て、右翼・左翼の権威主義者たちが提起してきたインチキ「解決策」の幾つかを論駁してきた。そろそろアナキズムの建設的側面−−アナキストが創造するリバータリアン社会主義社会−−を吟味する時である。これは大切なことである。なぜなら、アナキズムは本質的に建設的理論であり、通常描かれるカオスとか思慮のない破壊といったアナキズム像とは全く異なっているからだ。

FAQのこのセクションでは、アナキスト社会がどのようなものになり得るのかについて簡単な概略をしようと思う。そうした社会は基本的な諸特徴−−例えば、非ヒエラルキー型であるとか、地方分権型であるとか、何にもまして、生それ自体と同様に自発的なものであるといった−−を持つ。グレン=アルブレヒトを引用すれば、アナキストは『外的力、すなわち権威の行使抜きにして、自発的秩序の自由な展開を強く強調している。』(「倫理・アナーキー・持続的開発」、アナキスト研究、第二巻、第二号、110ページ)この種の発展は、アナキスト社会が、単純なものから複雑なものへ、個人から地域社会へ、バイオリージョン(生物学的地域)へ、そして究極的には地球へと組織されるだろう、ということを意味している。その結果として、複雑で多様な秩序が生まれる。この秩序は、自然が、より大きな多様性と複雑性に向けて自由に展開する結果なのであろう。この秩序は、その他の秩序よりも倫理的に望ましいものである。なぜなら、最高次の有機的な連帯と自由を可能にするからである。クロポトキンは、真の自由社会ヴィジョンについて次のように述べている:

我々は予見する。人々が自由に創り出す何百万という集団が、様々な人間の欲望全てを満足させようとするであろう。(中略)そうした集団全ては、自由に結合する人々から成り立つであろう。(中略)フーリエは言った。「砂利を取れ、箱に入れよ、箱を振れ。さすれば、砂利は、モザイクのように整列するであろう。調和するように並べる方法を誰かに教えたところで、そのようにはなり得ないのだ。」(社会主義的進化におけるアナキズムの位置、11ページ〜12ページ)

ヒエラルキーに対するアナキストの反対は、「自発的秩序型」社会の主要部分である。なぜなら、権威こそが個人の自由な発展と成長を止めているからだ。個人・集団・全体としての社会のこうした自然な成長から、アナキストは、万人の欲望(物質的物品と個人的・社会的自由の双方)を満たす社会を期待するのである。プルードンの言葉では、『自由は秩序の母であって、秩序の娘ではない。』社会や個々人を、自由を制限する前もって決定された構造に押し込めようとする試みは、無秩序を生みだす。自然のバランスと発展が妨げられ、反社会的で破壊的な方向に向けられるためである。従って、アナキスト社会は、一連の競争型ヒエラルキー(政治的であろうと経済的であろうと)ではなく、リバータリアン構造の内部で結びついた、自由な個々人からなる自由社会でなければならない。自由の中で初めて、社会と個々人は発達することができ、公明正大な社会を創り出すことができるのである。

個人が社会的真空状態の中で存在していない以上、個人の自由が(従って、主観性や思考も)その十全な潜在的可能性にそって発達し、開花するためには、適切な社会条件が必要となる。アナキズム理論の中心的主張は、個々人とその諸組織を互いに孤立したものと見なすことはできないということであり、このことを中心としてアナキズム理論は構築されている。キャロル=ピートマンが指摘しているように、『諸制度の権威構造と個々人の心理特性や心理的態度との間には相互関係があるという論拠(中略)そして、参加が持つ主たる機能は教育的なものであるというそれと関連した論拠』が存在する(参加と民主主義理論、27ページ)。アナキズムは、これらの論拠を最も一貫したリバータリアンの方法で提示しているのである。つまり、自由は、自由の諸条件下で、つまり自治の下での活動によってのみ維持され、保護されるのだ。自由は、自由の継続に必要な成熟を獲得するための唯一の前提条件なのである。

個人の自由が自治と自由提携によってのみ創造し、発達し、防衛することができる以上、個性を促すシステムは、自主管理が持つ様々な責任を人々が受け入れることができる心理状態を発達させるように、分権化され、参加型のものでなければならない。資本主義などの権威主義的システム下で生きることは、奴隷のような性格を生みだす。個人が一貫してヒエラルキー型権威の下に置かれ、その批判能力・自治能力が使われないために鈍ってしまうからだ。そうした状況が自由を促すことなどあり得ない。資本主義を見てみれば、賃金労働下で、人々が、その創造的能力と自分の能力に対する制御力を、一定期間、売り渡していることが分かる。ボスは、従業員が売っている時間から剰余価値を獲得しているだけでなく、時間そのもの−−自分自身で決定する能力・労働を通じて自己を表現する能力・仕事仲間と共に自己を表現する能力−−をも奪っているのだ。賃金労働は、賃金奴隷そのものなのである。日々、仕事をする中で、自分の時間と技能(つまり、自由)を他人に売り渡しているのである。その時間を自分で買い戻すことなどできはしない。一旦無くなってしまえば、永久に無くなってしまうのだ。『個々人が自由に働くことで生活でき、自分の仕事と自分の自由を、奴隷の労働で富を蓄積している人に売り渡さなくてもよい情況を創り出す』(クロポトキン著、叛逆者の言葉、208ページ)必要があるとアナキストが考えている理由は、正にこれなのだ。

アナキズムは、資本主義下で生き残るために必要なウンザリするほど単調な「効率性」よりも生を尊重しながら、社会を変革し、あらゆる形態の権威主義的社会関係を廃絶することに関わっている。なぜなら、アナキストは『生に対する自分の積極的権利、そして、知的にも道徳的にも身体的にも生の快楽全てに対する自分の積極的権利に身を置くからだ。アナキストは生を愛し、生を充分に享受しようとしているのである。』(ブライアン=モリス著、バクーニン:自由の哲学、118ページに引用されたミハイル=バクーニンの言葉)

アナキストは、最も基本的な社会的価値とは人間的価値なのだと考えている。そして、社会は、そのメンバーの意志によって結合している諸提携の複合体なのであり、その目的は社会成員の幸福であると見なしている。提携の諸形態が、そのメンバーの消極的了解、つまり「暗黙の」了解を得ていなければならない、というだけでは不充分である。十全な意味でのリバータリアン、つまり自治的で自主管理的で平等であってはじめて、社会と社会を構成する個々人が健康的になる、とアナキストは考えている。このことは、全ての社会成員が、影響を与えたいと望むならば、その方針に影響を与える「権利」を持つべきだというだけでなく、この権利を行使する最大限可能な機会が万人に対して提供されるべきだ、ということを意味している。アナキズムは、単に消極的な市民権ではなく、社会成員の側の積極的な市民権を含んでいる。そして、この原理は、「政治」と呼ばれる「特殊な」社会行動に適用されるだけでなく、経済活動を含めたあらゆる形態の社会行動に適用される、と考えているのである。

従って、これから分かるように、リバータリアン社会主義の社会・政治・経済構造の根底にある鍵となる概念は、「自主管理」なのである。これは、仕事場の労働者管理だけでなく、直接民主主義と自発的連合を通じた地域社会の市民管理(ここでは「自治」となる)をも意味している。つまり、自主管理は、ヒエラルキー型権威に敵対するというアナキズムの「否定的」原理が持つ積極的意味なのである。なぜなら、自主管理を通じて、自主管理型仕事場と地域社会集会・評議会が分権化されると共に、ヒエラルキー型権威が「水平型」組織へと解消されるからである。水平型組織では、個々の参加者が、命令に単に服従し、他者に支配されるのではなく、自分の生に影響を与える決定に平等の声を持っている。従って、自主管理は、個々人が、自分自身のやり方で、あらゆる権威主義的権力(例えば、政府やボスのような)からの干渉なしに平等者として共に協力し合いながら、自分の夢を自由に追うことができる世界に向かうための極めて重要な条件なのである。

言うまでもないことだろうが、このセクションは、単なる発見的手段として、どのようにしてアナキズム諸原理が実践に具体化されるのかを読者が心に描く手助けとして、意図されている。このセクションは、どのように具体化されねばならないのか、についての決定的声明などではない(そうなるように意図されてもいないし、そのようになって欲しくもない)。少数の人々が、自由社会がどのようになるのかを正確に決定できるといった考えは、自由な成長・自由な思考というアナキズム原理に反しており、我々の意図ともかけ離れている。ここで我々は、単に、アナキスト社会に含まれる可能性を持っている構造の幾つかを、アナキストが持っている理想と思想・これまでに存在したアナーキーの実例・実例の限界と成功に関する我々の批判的評価に基づいて、示そうとするにすぎない。

もちろん、アナキスト社会は、一夜にして創造されるものでもなければ、過去と無関係に創造されるものでもない。従って、社会闘争で創り出される諸構造(つまり、資本主義と国家の内部で、それらに反対して創り出される諸構造−−セクションJ.5を参照)を当初は含むことになり、その闘争内部で着想され、そこで発展した思想に特徴づけられることになろう。例えば、スペインでのアナキスト=コレクティブは、下から上へというやり方で組織されていた。これは、革命前にCNT(アナルコサンジカリスト労働組合)が組織されていたやり方と同じであった。この意味で、アナーキーは、何か遙か遠くにある目標ではなく、むしろ、労働者階級闘争の表現なのである。現行のヒエラルキー型で抑圧的で搾取的で疎外された社会に対して代案を創造することは、階級闘争に必須の側面であり、ヒエラルキー型社会という狂気の世界で自分の自由と人間性を維持することなのだ。このように、アナキスト社会は、抑圧と搾取の全形態に対する様々な闘争において創り出された多種の「アナーキーの実行」の一般化となるであろう(セクションI.2.3を参照)。

つまり、アナキスト社会がどのようなものになり、どのように機能するのかは、アナキスト社会を創造するために使われた手段と無関係ではないのだ。言い換えれば、アナキスト社会は、先行する社会闘争と社会闘争内部に存在していた思想(これは、一定情況が課す実践的必要性によって修正される)を反映する。従って、FAQのこのセクションで示される自由社会のヴィジョンは、一夜にして創り出される何らかの抽象概念などではない。アナキストがそのように考えているのならば、我々はまさしくユートピアンと呼ばれてしかるべきであろう。だが、アナキスト社会は活動と社会闘争の産物なのだ。自分で考え、自分自身の生活に責任をとることができる個々人を包含した大衆運動を創り出す手助けとなる闘争の産物なのである(セクションJ「アナキストは何を行うのか?」を参照)。

従って、このセクションを読むに当たり、このセクションはアナーキーがどのようなものになるのかの青写真ではなく、単なる一つの可能性を示唆しているにすぎない、ということを心に留めておいていただきたい。このセクションは、思索を喚起し、アナキスト社会は可能で、そうした社会は今ここでの我々の活動の産物なのだ、ということを示すように作られている。我々は、このセクションで示される自分たちの主張と思想とが、自由社会がどのように機能するのかということに関するさらに多くの討論・議論を刺激することを願っている。同様に重要なのだが、そうした社会を創造する闘争を刺激する手助けになって欲しいとも願っているのである。結局、アナキストは、古い世界の殻の中で新しい世界を構築しようとしているのである。我々が、そうした新社会がどのようになるのかについて何らかの考えを持っていない限り、我々の今日の活動で、それを前もって示すことなど困難なのだ!クロポトキンはこの点を失うことなく、次のように論じていた。『社会生活の研究と、自分たちが何をどのように建設したいのかに関する研究に基づいて、前もって極度に注意深い考察を行わずに』『建設する』ことは難しい。『我々は、(プルードンの)スローガン(「破壊しながら建設しなければならぬ」)を拒絶し、(中略)「建設しながら破壊しなければならぬ」と宣言しなければならない。』(麺麭の略取、173ページの脚注)最近では、ノーム=チョムスキーが次のように論じている。『既存のヒエラルキー・支配・私権力・社会管理に対する代替案は、明らかに原理上では存在している。(中略)だが、それらを現実のものとするためには、それらを明言するということを含めた莫大な献身的作業が必要なのである。』(ノーム=チョムスキー著、潮流を変える、250ページ)FAQのこのセクションは、既存社会に対するリバータリアン代替案の明言、未来のために我々が建設したいものの明言に対する一つの貢献だと考えて頂いて構わない。

言い換えれば、FAQのこのセクションは一つのガイドとして見なして欲しいのである。喩え話を使おう。休日に旅行するときに、地図やガイドブックを持って行くのは良いアイディアである。持っていかなければ、自分が何処に行くのか分からずにいるだろうし、実際、間違った場所に着いて終わってしまう可能性も高い。従って、自由社会に向かう進歩を手助けするのは、アナキズム思想とヴィジョンなのであり、さもなくば、自分たちが望んでいることとは正反対になりかねないのである。だが、そうしたガイドが予め全ての人に論じられていること、これが重要なのである。このことで、これが確実に有用なガイドとなり、全ての人の関心事と願望を反映するものとなるのである。つまり、FAQのこのセクションは、単に、この議論に対する一つの貢献なのであり、以前の貢献・ヴィジョン・闘争によって(部分的に)着想されていた貢献なのである。

FAQのこのセクションで我々が示すヴィジョンの多くがユートピアンだと多くの人々が論じるだろうが、そのようなことは恐れるに足らない。多分、そうした人々は正しいのだろうが、オスカー=ワイルドは以前次のように述べていたのだった。

ユートピアを含まない世界地図など、一瞥するに値しない。人間が常に上陸している国を省略しているのだから。人間は、そこに上陸すると、より良い国を見つけようとして外を眺め、船出する。進歩とはユートピアの実現なのである。(社会主義の下での人間の魂、1184ページ)

しかし、我々は、自分たちが夢想的であるのと同じぐらい実際的になろうとしている。当然ありそうな諸問題を退けている一連のあり得ない諸前提を示すのではなく、現実的な諸問題を提示し、それらに対する我々の解決策がうまく行く証拠(我々の一般的な考えだけでなく)を、なるべく現実生活から示しているのである。結局、最悪のケースを考えるの方が良いのである。なぜなら、最悪のケースが現れなければ、何も失うものはないし、最悪のケースが起こったとしても、少なくとも、予定の解決策の出発点を既に手にしているからだ。結局のところ、我々は、実践的ユートピアンであろうとしているのである。

だが、強調しなければならないが、アナキストは「完璧な」社会(「ユートピア」という言葉と関連づけられることが多い)を望んではいない。完全競争という新古典派のヴィジョン同様に、そのようなものは不可能であろう。むしろ、我々は、自由社会を望んでいるのである。つまり、現実の人間を基盤とし、人間自身の諸問題と難しさを持った社会を望んでいるのである。我々が「ユートピア」という言葉を使っているからといって、アナキストが全ての問題を取り除くと仮定しているとか、アナキスト社会は理想的であり完全なものになると主張しているという意味で取ってはならない。いかなる社会も完全ではなかったし、今後もいかなる社会も完全にはならないだろう。我々は、アナキスト社会は、以前の社会よりも問題が少なく、その中ではより生活しやすいだろう、と論じているだけのことなのである。完全を探し求めているのならば、他を当たって欲しい。人間的でありつつ、より良い世界を求めているのならば、その探求の一つの結末をアナキズムに見つけるかもしれない。

最後にもう一点。我々はここで幾つかの地域の社会・経済構造について論じるが、その住民の大部分はアナキストである、ということをここで指摘しておかねばなるまい。住民がアナキストではない地域は、その支配的な思想に応じて別な形態を取る、ということは明らかに真実である。従って、現在の国家構造の終焉を考えたとしても、我々は、国家主義的地域社会(資本主義や社会主義の)と共に存在するアナキスト地域社会を予想できる。そうした地域社会は、その住民が望んでいることに応じて異なる形態を取るだろう−−アナキストの地域社会では共産主義から個人主義まで、国家主義の地域では国家社会主義から民営国家まで、宗教の諸宗派に基づいた地域などである。マラテスタが論じていたように、アナキストは『あらゆる資本主義的押しつけと搾取に敵対する上で妥協してはならない。そして、他者の平等な権利と自由を脅かさない社会的概念全てに寛容でなければならない。』(人生と思想、174ページ)従って、我々は、他の人々が、自分が適当だと見なしている通りに自身の生活を実験し、生きることを尊重する。だが、資本主義などの国家主義的地域社会にいる人々に対しては、その主人どもに対する革命を惹起し、アナキスト地域の自由コミューン連合に参加するように奨励する。言うまでもなく、我々は、ここで、非アナキスト地域社会については論じない。自分たちの国家主義が望ましいという主張は、非アナキストが示せばよい話なのだから。ここでは、社会組織に関するアナキストの考えを論じることに集中する。

そこで、心に留めておいて欲しいのだが、我々は、自由社会で全ての人がアナキストのやり方で生活するだろう、などと論じはしない。そんなことは見当違いなのだ。思想の発展は地域によって異なるのだから、不自由のポケット空間は存続することになろう。だが、多くの地域社会を選択できるというだけの理由で、自動的にアナキスト社会になると仮定するのは間違いである。例えば、近代世界は、様々な国家を200以上持っていることを自慢にしている。その大部分で、国家が容認すれば、個人はある国家を離れ別な国家に加わることは可能である。世界政府といったものは存在していない。だからといって、この一連の諸国家というものがアナーキーではないのだ。同様に、様々な企業町からなる体制もアナーキーではない。諸提携の性質が、その自発的性質と同じぐらい重要なのである。クロポトキンは次のように論じていた。『次の革命で諸コミューンは、国家を破壊するだけでなく、議会支配の代わりに自由連合をおくであろう。コミューンそれ自体の内部で議会支配と決別するであろう。(中略)諸コミューンは、外観がアナキストであるように、コミューン内部もアナキストとなるであろう。』(パリ=コミューン)つまり、アナキスト社会は、自由に参加・決別する社会であり、内的に非ヒエラルキー型の社会なのだ。従って、アナキスト地域は、非アナキスト地域と共存するかもしれないが、だからといって、非アナキスト地域が形はどうあれアナキズム的だとかリバータリアン的だとかいうことを意味してはいないのだ。

FAQのこのセクションを読むときに、三つのことを心に留めておいて欲しい。一つ目。アナキスト社会は、アナキスト社会について本を書いているアナキストたちによってではなく、大衆の自律的行動によって創り出されるだろう。つまり、真のアナキスト社会は、多くの失敗をするかもしれないし、我々が予測できないようなやり方で発展するかもしれないのである。二つ目。このセクションは、アナキスト社会で物事がどのように機能し得るのかについて一連の示唆をしているにすぎない−−これは、何かの設計図ではない。三つ目。我々は、アナキスト地域は、多分、非アナキスト地域と共存するだろう、と認識している。だからといって、非アナキスト地域はアナキスト地域ではない。自身の未来ヴィジョンを示すことは、ヒエラルキー支持者たちにお任せする。アナキストができることは、自分たちが信じていることを提示し、何故そうしたヴィジョンが望ましくかつ実現可能なのかを示すだけなのである。

我々は、このセクションで示される自分たちの主張と思想が、自由社会がどのように機能するのかに関するより多くの論争と議論を刺激して欲しいと思っている。さらに、そして同じぐらい大切なことだが、我々は、このセクションが、自由社会を創造する闘争を喚起する手助けになってくれればと思っている。結局のところ、アナキストは、古い世界の殻の中で新世界を構築することを望んでいるのだ。我々が、その新社会がどのようになるのかについて某かの考えを持っていない限り、今ここでの自分たちの活動でそれを創造することは難しいのである!

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