アナキズムFAQ


A.2.10 ヒエラルキーの廃絶は何を意味し、何を成し遂げるのか?

 リバータリアン組織に基づいて新しい社会を創造することは、日々の生活に数え切れない程の影響を与えるだろう。数多くの民衆が権能を持つことにより、今は推測するしかないようなやり方で社会が変わるだろう。
 しかし、多くの人がそうした組織形態は非現実的で、失敗するに決まっていると考えている。連邦的で非権威主義の組織は混乱と分裂を招く、と考える人たちに対して、アナキストは次のように主張する。国家主義で中央集権型のヒエラルキー組織形態は、参画ではなく無関心、連帯ではなく薄情、団結ではなく画一化、平等ではなく特権的エリートを生む。その上さらに重要なことだが、そういう組織は個人の発意を破壊し、独立した行動や批判的思考を押し潰すのである(ヒエラルキーについては、セクション B.1
「何故アナキストは権威及びヒエラルキーに反対するのか?」を参照)。
 リバータリアン的組織がうまく機能すること、それが自由に基づき自由を促進するものであるということは、スペインのアナキズム運動が証明した。イギリス独立労働党の書記長フェンナー=ブロックウェイは、1936年の革命中にバルセロナを訪れた際、次のように記した。『アナキストたちの間には大きな連帯が存在している。それは、各個人が、指導部に依存せずに、自分の強さを頼みにしているためである。組織が成功するためには、自由に考える人々が結びついていなければならない。単なる群衆ではなく、自由な個人が結合しなければならないのである。』[Rudolf Rocker, Anarcho-syndicalism, p. 67f で引用]
 これまで何度も書いてきたように、ヒエラルキー型中央集権構造は自由を制限する。プルードンは次のように記している。『大きさ・単純さ・構造という点で中央集権制度は大変結構である。だが、一つ欠けていることがある。その制度では、個人はもはや自分自身に属していないのだ。自分の価値を実感できず、自分の生を実感できず、そして、誰からも全く注意を向けられないのである。』[Paths in Utopia, Martin Buber, p. 33で引用]
 ヒエラルキーの影響は随所に見ることができる。しかも、うまくいっていない。ヒエラルキーと権威は、職場にも、家庭にも、街路にも、どこにでも存在する。ボブ=ブラックは次のように述べている。『目を覚ましている間中ずっと命令に従ったり、媚びへつらいながら暮らしているのであれば、ヒエラルキーにどっぷり浸かっているのであれば、いずれ、受動攻撃性人格のサドマゾの奴隷根性の不感症になる。そして残りの人生の全てにおいてその重荷を背負い続けるのである。』 ["The Libertarian as Conservative," The Abolition of Work and other essays, pp. 147-8]
 つまり、ヒエラルキーが終われば、日常生活が莫大に変わるのである。それには、個人を中心に据えた組織を創ることが含まれる。誰もが自分の能力を十全に働かせ、発達させることができる組織を創るのである。自分・自分の仕事場・自分の地域社会・社会に影響を及ぼす意志決定に関与し参画することで、個人の能力を最大限に発達させることが確実となるであろう。
 社会生活に万人が自由に参加するようになると、すぐに、不平等と不公正がなくなるのを目にするであろう。ヒエラルキーの終焉で目にするのは、(クロポトキンを引用すれば)『万人の幸福』であろう。資本主義下でのように、収入の範囲内でやりくりするために存在し、少数者の富と権力を増加させるために利用されている人々ではない。今や『共通の継承物に対して労働者が当然に自分の権利を主張し、労働者の所有に帰すべき時』なのだ [The Conquest of Bread, p. 35 and p. 44]。生活手段(仕事場・住宅・土地など)を手に入れることだけが、『自由と公正』を保証できる。『なぜなら、自由と公正は命じられるものではなく、経済的自立の結果だからである。個人は主人に依存せずに生き、自分の労苦の産物を享受することができるという事実からこのことは生じているのである。』[Ricardo Flores Magon, Land and Liberty, p. 62] 従って、自由は、「使用権」を支持して資本主義の私有財産権を廃絶する必要があるのだ(詳しくはセクションB.3を参照)。皮肉なことに、『財産の廃絶は、ホームレス状態と無所有状態から民衆を解放してくれるのである。』[Max Baginski, "Without Government," Anarchy! An Anthology of Emma Goldman's Mother Earth, p. 11] アナキズムは『幸福の二つの必要条件−−自由と富』を約束する。アナーキーでは『人類は自由と快適さの中で生活するであろう。』[Benjamin Tucker, Why I am an Anarchist, p. 135 and p. 136]
 社会のあらゆるレベルにおいて、自己決定と自由合意だけが、個人と社会全体の責任感・発意・知性・連帯感を養うことができる。人間性の中に潜んでいる広範な才能に接することができるようにし、才能を利用できるようにするのはアナキスト組織だけである。個人を豊かにし発達させるという正にそのプロセスが社会を豊かにするのだ。自分たちに影響する意志決定について考え、計画し、調整し、実行するというプロセスに皆が参加することで初めて、自由が開花でき、個性が十全に育成され保護され得るのである。アナーキーは、ヒエラルキーによって奴隷にされている人民大衆の創造力と才能を解放するのである。
 アナーキーはまた、資本主義とその権力関係から利益を受けているといわれる人たちにとっての利益にさえなるだろう。アナキストは『主張する。支配者も支配される側も、双方とも権威によってダメにされている。搾取する側も搾取される側も、どちらも搾取によってダメにされているのだ。』[Peter Kropotkin, Act for Yourselves, p. 83] なぜなら『いかなるヒエラルキー関係においても、支配者は従属者と同様に、高い代価を支払わされている。「統御の誉れ」の代価は実際深刻なのである。あらゆる暴君は、自分の対価に憤慨していた。暴君は、ヒエラルキー旅行の道のりで、最初から最後まで、服従者の中に眠る創造的潜在能力という死加重を引きずる羽目になっているのだ。』[For Ourselves, The Right to Be Greedy, Thesis 95]

A.2.11 何故、大部分のアナキストが直接民主主義を支持するのか?

 大部分のアナキストにとって、自由合意(これは「自主管理」としても知られている)に政治的に対応するものは、自由な協同組織の中で政策決定をする際に行われる直接民主主義投票である。なぜなら『支配形態の多くは、「自由」で非強制的で契約的なやり方でも実現されうる』からだ。『政治的統制に対して単に反対するだけで抑圧が終わると考えるなど、認識が甘すぎる。』[John P. Clark, Max Stirner's Egoism, p. 93] 組織がリバータリアン的になるかどうかは、組織が任意のものかどうかだけでなく、ある組織の内部でどのような関係が創り出されるのかにもかかっているのだ(詳細は、セクションA.2.14を参照)。
 当たり前のことだが、人間的生活を謳歌するためには、個人は協力して働かなければならない。そして、『他の人と協力せざるを得ないとなると』個人は三つの選択肢を持つ。『他人の意志に服従する(奴隷になる)か、自分の意志に他人を従わせる(権力者になる)か、万人に最大の利益をもたらすべく友愛を持って合意する中で他者と共に生きる(仲間になる)かである。誰もこの必然から逃れることはできない。』[Errico Malatesta, Life and Ideas, p. 85]
 アナキストはもちろん、最後の選択肢、協同組織を選ぶ。それが、個人が自由で平等な人間として共に活動する唯一の方法であり、お互いの唯一性と自由を尊重する方法だからである。直接民主主義の中で初めて、個人は自己表現できるようになり、批判的思考と自制を実践できる。そのことで、自分の知的・倫理的能力を最大限発達させることができるのである。個人の自由を増大させ、個々人の知的・倫理的・社会的力量を大きくするという点では、いつもボスの意志に従順であるよりは、時には少数派にいる方がずっと良い。それならば、アナキズムの直接民主主義の背後にある理論はどのようなものなのだろうか?
 バートランド=ラッセルは次のように書いている。アナキストは『集団的意志決定という意味での政府の廃絶を望んではいない。廃絶しようとしているのは、決定に反対する人々にその決定が無理矢理押し付けられるシステムである。』[Roads to Freedom, p. 85] アナキストは、これを達成する手段が自主管理だと考えている。個人が地域社会や職場に参加すれば、その人はその協同組織の「市民」(適当な言葉がないのでこれを使うが)になる。協同組織は、メンバー全員の集会を中心に組織される(大きな職場や町の場合、部署や町内といった機能的なサブグループが中心となるであろう)。この集会では、他の集会と協力しながら、個人の政治的責務の内容が定義される。協同組織で活動する中で、人々は批判的判断と選択を行わなければならない。つまり、自分たちの活動を自分たちで管理するのである。服従を約束する(国家や資本主義企業のようなヒエラルキー組織ではそうなのだが)のとは異なり、個々人は、自分が関与する集団の意志決定に参加し、仲間に対する自分の態度を表明することに参加するのである。つまり、政治的責務は、当該グループや社会の上部にある国家や企業のような別個の団体が負うのではなく、仲間の「市民」同士が負うのである。
 集会に集まった人々は協同組織の規則を集団的に制定し、個人としてその規則に拘束される。しかし、その規則はいつでも変更したり廃止したりできる、という意味で、個人は規則よりも上位なのである。集団として、提携した「市民」は政治「権力」となる。しかし、この「権力」は、個人間の水平的関係に基づくものであり、個人とエリートの間での垂直的関係ではないため、この「権力」は非ヒエラルキーなのである(それは「理性的な」もしくは「自然な」ものなのである−−詳細は、セクションB.1 何故アナキストは権威及びヒエラルキーに反対するのか?を参照)。プルードンは次のように述べている。

 我々は、法律の代わりに、契約(つまり、自由合意)を置く。もはや、多数決による法律も、満場一致による法律さえもない。市民毎に・町毎に・産業別労組毎に、それぞれ独自の法律を持つのである。[The General Idea of the Revolution, pp. 245-6]

 もちろん、こうしたシステムでは、どれほど些細なことであっても、必要な決定事項全てに万人が参加する、という意味ではない。いかなる決定であっても集会で提起することはできる(集会でそのように決定されたのであればの話であり、多分、メンバーの一部が提起することになるのだろう)が、実際には、ある種の活動(そして純粋に職務的な決定も)は、協同組織の選任運営陣が担当することになろう。その理由についてスペインのアナキスト活動家、ホセ=リュナス=プホルスを引用しよう。『集団それ自体は手紙を書いたり、データ表の数字を合計したり、様々な雑役を行ったり出来ない。これらのことを行うことが出来るのは、個人だけである。』つまり『管理を組織する』必要があるのだ。ある協同組織が『指導的な委員会やヒエラルキー型の官職なしで組織されている』と仮定しよう。この組織は『週に一度以上総会を開き、組織が進歩するために必要な事柄全てを処理する。』この組織はさらに『厳密な管理職務を持つ委員会を任命する。』ただし、総会が『この委員会に明確な運営方針を指示したり、強制的委任をしたりする』のである。そのことで『完全な無政府状態になるであろう。』この組織が『どのように事を進めるのか予め指示された適任者に、それらの職務を委任することは、集団性それ自体の自由を放棄することにはならない。』[Max Nettlau, A Short History of Anarchism, p. 187で引用] 記しておかねばならないが、これは、プルードンの考えに従っているのである。労働者協会の中では『あらゆる地位は選挙され、様々な規則はメンバーの承認が前提となる。』[Proudhon, 前掲書, p. 222]
 資本主義・国家主義のヒエラルキーの代わりに、自主管理(つまり直接民主主義)が、自由社会を創り出す様々な自由結合組織の主導原理となるであろう。このことは、アナキズム社会が機能するために必要な協同組織の諸連合にも適用される。ホセ=リュナス=プホルスは正しくも次のように論じている。『アナキズム社会で任命される委員会や代表団は全て、交代の対象であり、自分を選出したセクションやセクション群の常時投票によっていつでも更迭される。』これは、『強制的委任』と『厳密な管理業務』と組み合わせることで、『その結果、誰もが僅かな権威をも自分のものにすることをできなくしているのである。』[Max Nettlau, 前掲書, pp. 188-9前掲書] ここでもまた、プホルスはプルードンに従っているのである。プホルスの20年前に、プルードンは、民衆が『その主権を懇願』しないことを確実にするために『拘束力のある任務の実行』を要求していた[No Gods, No Masters, vol. 1, p. 63]。
 委任と選挙に基づいた連合主義を用いて、アナキストは意志決定が確実に下から上へと流れるようにしている。自分達自身の意志決定を行うことで、共通の利益を自分たちで面倒見ることで、他者が自分たちを支配する余地を与えないのである。アナキストにとって、自主管理は、組織内部での自由を保証するための必須条件であり、組織内での自由は、まともな人間的存在にとって必要なのである。  もちろん、少数派は他者に支配される、という主張もあり得よう(『民主主義のルールは、依然としてルールなのである』[L. Susan Brown, The Politics of Individualism, p. 53])。だが、これまで述べてきた直接民主主義の概念は、多数決原理の概念と必ずしも結びついてはいない。特定の投票で少数派になった場合、少数派は、投票結果に拘束力があると認めることに同意するか、拒否するかの選択に直面する。少数派に判断や選択を行使する機会を与えないのは、自律性を侵害し、自由合意に基づかない義務を負わせることである。多数派の意志に強制的に従わせるのは、引責義務という理念に反し、従って、直接民主主義と自由提携の理念にも反する。故に、自由提携と引責義務という文脈での直接民主主義は、自由の否定ではなく、自由を育むことのできる唯一の手段なのである(『個人の自律は特定の約束事を守るという義務によって限定される』[Max Nettlau, Errico Malatesta: The Biography of an Anarchistで引用されているマラテスタの言葉])。言うまでもなく、少数派がその組織に留まった場合には、少数派は自分の言い分を主張し、多数派が誤った道を進んでいることを説得しようとすることができる。
 ここで指摘しておかねばならないが、アナキストが直接民主主義を支持しているからといって、多数者が常に正しいと考えているわけではない。とんでもない!民主的参加の主張は、多数派が常に正しいということではなく、全体の福祉よりも自分たちの利益を優先しない少数派はいない、ということなのである。歴史は常識が予見していることを証明している。独裁的権力を持つ者は皆(国家元首であれ、ボスであれ、夫であれ、誰であっても)その権力を使って、自分の決定に従う人々を犠牲にして私腹を肥やし、権力を強化するのである。
 アナキストは、多数派は間違いを犯すこともあり得るし、実際に間違いを犯していると認識している。アナキズムの組織論が少数派の権利に重点を置いているのはこのためである。このことは引責義務の理論に見ることができる。引責義務は、多数派の決定に抗議する少数派の権利の基盤であり、反対意見を意志決定における重要要素にしているのである。キャロール=ペイトマンは次のように述べている。

 多数派が誤った信念に基づいて行動するなら、少数派は政治行動をとらざるを得ない。適切とあらば、自分たちの市民権と主体性を守り、政治結社それ自体を守るための政治的不服従行動もそこには含まれることになる。政治的不服従は、自主管理型民主主義が基盤とする能動的市民権の一表現に過ぎない。約束という社会実践には、拒絶する権利や言質を変える権利が含まれる。同様に、政治的な引責義務の実践は、少数派が承認を拒否したり、撤回したり、必要ならば違反する権利を実際に認めないならば、意味がない。[The Problem of Political Obligation, p. 162]

 協同組織内の関係から外に目をやるなら、異なった組織同士がどうやって協調していくかに焦点を当てねばならない。想像できるだろうが、組織間の関係も、組織それ自体と骨子は同じである。個人が組織に参加するように、組織が連邦に参加する。連邦内における組織間の関係は、組織内と同じ水平的で任意の性格を持つ。メンバーが同じ「発言権と退場権」を持ち、少数派も同じ権利を持つ。このようにして、社会は、協同組織群からなる協同組織・地域社会群からなる地域社会・コミューン群からなるコミューンになる。参加と自主管理を最大限に保証することによって個人の自由を最大限にする、これが社会の基盤なのだ。
 こうした連邦がどのように機能するのかは、セクションA.2.9(アナキストはどのような社会を望んでいるのか?)で概説しており、セクションI(アナキスト社会はどのようなものになるのか?)で、さらに詳しく論じている。
 この直接民主主義システムはアナキズム思想と上手く調和する。マラテスタは全てのアナキストに対して次のように語りかけている。『アナキストは、社会全体を統治する権利を多数派が持つことを否定する。』お分かりだろうが、多数派が少数派に強制する権利はない。少数派はいつでも組織を離れる権利を持ち、マラテスタの言葉を借りれば『多数派の決定がどのようなものになるか聞く前でさえも、その決定に従う』必要はない [The Anarchist Revolution, p. 100 and p. 101]。従って、任意的協同組織における直接民主主義は「多数派支配」を創り出さないし、少数派はいかなる事があろうとも多数派に従うべきだなどということを前提にはしていないのである。結局、直接民主主義を支持するアナキストの意見は、以下のマラテスタの主張と同じなのである。

 生物が共同で生きている場所では、少数が多数の意見を受け入れる必要があるものだ。このことをアナキストは確かに認める。ある事を行うことが明らかに必要もしくは有用で、それを行うためには全員の合意が必要となる場合、少数派は多数派の希望に順応する必要があると感じるべきだ。しかし、一方で、あるグループがそのように順応しているということは、他方では、相互関係の中でのもので任意的でなければならず、強情を張ることで社会の運営を妨げることは避ける、という必要性と善意の意識に由来するものでなければならないのである。それを原則・法的規範として押し付けることなどできないのである。[前掲書, p. 100]

 少数派には、行動・抗議・アピールを行う権利があるのと同様、組織を脱退する権利もあるのだから、多数決が原理として強いられているわけではない。むしろ、多数決は純粋に意志決定の手段に過ぎない。少数派が自分の意志を多数派に強制しないように保証しながら、少数派が反対し意見を表明する(そして自分の意見に従って行動する)ことができるようにしているのである。つまり、多数決は少数派に対する拘束力を持っていないのである。結局のところ、マラテスタは次のように主張していたのだ。

 多数者の決定は破滅を招く、このように断固として確信している人が自分の信念を犠牲にして受動的に傍観するべきだとか、さらに悪いことに、間違っていると自分が見なしている政策を支持するべきだとかいうことを、誰も期待できないし、望むことすらできない。』[Errico Malatesta: His Life and Ideas, p. 132]

 ライサンダー=スプーナーのような個人主義アナキストでさえ、直接民主主義は有用だと認めており、次のように述べている。『任意の結社の全て、もしくはほとんど全てが、多数派に、もしくはメンバー全員ではないがその一部に対して、目差すものを達成するために使われる手段に関する限り、限定された自由裁量権を行使する権利を与えている。』しかし、個々の権利を決定できるのは、陪審員の満場一致の決定だけである(陪審員は『法を裁き、法の正義を裁定する』だろう)。なぜなら、この『裁判機関は全民衆を平等に代表している』からである。『企業という立場での結社が、個人の財産・権利・人格に反して、いかなる法律も正当に施行することはできない。その組織のメンバーがその施行に同意した場合は例外である。』(スプーナーが陪審員制度を支持するのは、組織のメンバーが合意することは『事実上不可能である』と認めたからである)[Trial by Jury, p. 130-1f, p. 134, p. 214, p. 152 and p. 132]
 直接民主主義と個人や少数派の権利とが調和しないわけではない。実際に想像できることだが、陪審員制度と少数者の抗議行動や直接行動とを組み合わせながら、アナキズム社会では、直接民主主義がほとんどの組織において大部分の決定を行う上で使われ(多分、基本的な決定事項については圧倒的多数の賛成が必要となるだろうが)、少数派の申し立てや権利を保護し、評価するだろう。自由のアクチュアルな形態は、直接関わる人々の実際経験を通じて初めて創ることができるのだ。
 最後に強調しておかねばならないが、アナキストが直接民主主義を支持しているからといって、この解決策があらゆる場面で望ましいという意味ではない。例えば、多くの小規模組織では、全員一致(コンセンサス)方式の方が望ましいかもしれない(コンセンサスについて、そして、アナキストがコンセンサスを直接民主主義に対する現実的代替案だと思っていない理由については次のセクションを参照)。しかし、ほとんどのアナキストの考えでは、自由な組織内部での直接民主主義は、個人の自由・尊厳・平等というアナキズム原理と一致している、最良の(そして最も現実的な)組織形態なのである。

A.2.12 コンセンサスは、直接民主主義に代わりうるのか?

 自由な協同組織内部での直接民主主義を否定するアナキストは、一般に、コンセンサス方式の意志決定を支持するものである。コンセンサスは、決定を実行できるようにする前にグループの全員が合意していることを基礎とする。コンセンサスは、多数派が少数派を支配できないようにしているため、直接民主主義よりもアナキズム原理に一致している、と主張される。
 コンセンサスは、皆が合意するわけだから意志決定を行う上で「ベストな」選択肢である。しかし、問題もある。マレイ=ブクチンは、コンセンサスに関する自分の経験を述べながら、コンセンサスは権威主義を含みかねないとして次のように指摘している。

 一つの決定について十全なるコンセンサスを創り出すべく、少数派の反対意見は、煩わしい議題に対して投票しないよう巧妙に促されたり、心理的に強いられたりすることが多かった。自分の異議がたった独りの拒否権と実質的に等しくしなってしまうからである。この実践は、米国コンセンサス過程においては「脇へ寄る」(standing aside)と呼ばれているが、意志決定プロセスから完全に撤退するまで、全くもって、異議者を脅迫することが余りにも多かったのだ。少数派であっても自分の観点に従って投票することで、自分の異議を立派に、継続的に表明できるようにはしなかったのである。意志決定から撤退することで、異議者は政治的存在であることを止める。そのことで、「決定」ができるようになるわけだ。一つの「決定」は、反対意見を圧力をかけて静めることでなされ、そうした脅迫の連鎖を通じて、「コンセンサス」は、究極的に、意見を異にするメンバーをそのプロセスへの参加者として無効にした後でのみ、確立されたのであった。
 もっと理論的なレベルについて言えば、コンセンサスは、あらゆる対話が持つ最も活力ある側面、意見の相違(ディセンサス)を静めてしまった。継続的な異議は、少数派が大多数の意志決定に一時的に応じた後にも継続する情熱的な対話なのだが、退屈な独白−−そして、論駁のない、精彩の欠いたコンセンサスのトーン−−に置き換えられてしまったのだった。多数決意志決定では、敗北した少数派は自分が敗北した決定を覆そうと決意できる−−少数派は、論理的に考えられ、潜在的に説得力を持っている異議をオープンに一貫して声にすることができるのである。一方、コンセンサスの場合には、少数派を尊重せず、「コンセンサス」集団の形而上学的「統一」の利益となるように、少数派を黙らせるのである。["Communalism: The Democratic Dimension of Anarchism", Democracy and Nature, no. 8, p. 8]

 ブクチンは、『お互いに徹底的に知りあっている人々の小集団内での意志決定形態として適切だと見なすことができる、ということは否定』していない。だが、実際問題として、彼の経験が示したのは次のことだった。『より大きな集団がコンセンサスによる意志決定をしようとすると、知的に最低の共通見解にしか到達せざるを得なくなるものだ。大規模な民衆集会が達成できる、最小限の論争しか巻き起こさない、最も凡庸な決定が採用される−−それは、正に、誰もがそれに同意するか、さもなくば、その議題に投票するのを止めるかのどちらかしかないからなのである。』[前掲書, p. 7]
 この潜在的な権威主義性質のために、大部分のアナキストは、コンセンサスが自由協同組織の政治的側面だということに異議を唱えている。コンセンサスに到達しようとすることは有益だが、その別なネガティブな効果を無視しても、そのようにする事は現実的ではない−−特に大規模グループでは−−ものである。多くの場合、コミュニティの名において個性を破壊したり、連帯の名において異議を圧殺したりすることで、自由な社会や組織を卑しめてしまうものだ。公的非難と圧力によって個性の発達と自己表現が妨げられる時には、真のコミュニティも連帯性も育たない。個人は皆唯一無二である以上、個人は独自の見解を持つ。個々人の行動と思想によって社会は進化し豊かになるのだから、この見解は表明するように勇気づけられねばらならないのだ。
 言い換えれば、直接民主主義を支持するアナキストは『異議の創造的役割』を強調するのである。この役割が『コンセンサスに必要な退屈な画一性の中で消えうせてしまう』ことを恐れているのである。[前掲書, p. 8]
 アナキストは、多数派が少数派に投票で勝ち、少数派を無視するといった機械的意志決定を支持していないということを、強調しなければならない。全く違う!直接民主主義を支持するアナキストは、ダイナミックな議論プロセスとして直接民主主義を見なしている。つまり、多数派と少数派が、可能な限りお互いに耳を傾け合い、お互いを尊重し合い、(可能ならば)皆が甘受できる決定を創り出すのである。こうしたアナキストは、直接民主主義の組織内部における参加プロセスを、共通の利益を創り出す手段だと見なしている。重要問題について議論と討論が確実に行われるようにすることで、多様性を促し、個人と少数派の表現を促し、多数派が少数派を軽んじたり抑圧したりする傾向を減じるプロセスとして見なしているのである。

A.2.13 アナキストは個人主義なのか、それとも集団主義なのか?

 簡単に言えばどちらでもない。自由主義の学者がバクーニンのようなアナキストを「集団主義者」だとして非難する一方で、マルクス主義者がバクーニンとアナキスト全般を「個人主義者」だとして攻撃している事実を見ても分かるだろう。
 これは別に驚くにはあたらない。アナキストはどちらのイデオロギーもナンセンスだとして拒否しているからだ。好むと好まざるとに関わらず、非アナキストの個人主義者と集団主義者は、同じ資本主義というコインの裏表に過ぎない。このことは、現代資本主義を考察すれば、非常に良く分かる。そこでは、「個人主義」傾向と「集団主義」傾向は絶えず相互に影響し合い、政治構造・経済構造は、これら二つの傾向の間を行き来している場合が多いのである。資本主義の「集団主義」と「個人主義」はどちらも人間存在の一面しか見ておらず、あらゆるアンバランスの兆候同様に、全く欠陥だらけである。
 アナキストにとって、「集団」や「より大きな善」のために個人を犠牲にすべきである、という考えほどバカバカしいものはない。集団は個人から成り立っている。もし人々が集団にとって最良のことしか考えないのだとしたら、集団は生命のない抜け殻になってしまう。集団に生命を与えるのは、集団内での人間のダイナミックな相互作用に他ならない。「集団」は考えることはできない。個人だけが考えることが出来る。皮肉にも、この事実によって、権威主義的な「集団主義者」は最も特殊な「個人主義」へと、つまり「個人崇拝」と指導者信仰へと導かれる。当然のことだ。こうした「集団主義」は、個人を幾つかの抽象的集団に分類し、個性を否定し、最終的に、決断を下すだけの充分な個性を持った人を必要とするのだから。問題は指導者原理によって「解決される」というわけだ。スターリン主義とナチズムがこの現象の良い例である。
 アナキストは、社会の基本単位は個人であり、個人だけが興味や感情を持っているということを認める。つまり、アナキストは「集団主義」と集団賛美に反対しているのである。アナキズム理論において、集団は、集団に参加する個々人を支援し、成長させるためだけに存在する。アナキストがリバータリアンのやり方で構造化された集団に大きな重きを置く理由がこれである。集団内部の個人が、十全な自己表現をできるようにし、自分たちの利益を直接管理できるようにし、個性と個人の自由を促す社会関係を創ることをできるようにしているのは、リバータリアン組織だけである。個人が参加する様々な集団と社会とがその個人を形成する一方で、その個人は社会の真の基盤なのだ。マラテスタは次のように述べている。

 人間社会における生活と進歩の中で個人の発意と社会的行動それぞれが果たす役割について多くのことが言われている。人間の世界では、個人の発意のおかげで全てが維持され、行われ続けている。真の存在は人間、個人なのだ。社会や集団−−それを代表すると公言している国家や政府も−−は、それが空疎な抽象ではないならば、個人個人が創っている。あらゆる思考と人間行動の起源は確かに個々の有機体にある。そして、その思考や行動が多くの人に受け入れられることで、個人的思考・行動から集団的思考・行動となる。故に、社会的行動は、個人の発意を否定するものでも、補完するものでもなく、社会を創る個々人全ての発意・思考・行動の結果なのである。問題は、社会と個人の関係を現実に変えるということではない。問題は、一部の個人が他者を抑圧するのを止めさせるということ・万人に同じ権利と同じ行動手段を与えるということ・万人の抑圧を必ずや生むことになる少数者の発意(マラテスタは少数者の発意が政府やヒエラルキーの重要な側面だと定義していた)を万人の発意と置き換えることなのである。[Anarchy, pp. 38-38]

 以上の考察は、アナキストが「個人主義」の方を好意的に見ているということではない。エマ=ゴールドマンは次のように指摘している。『「徹底的個人主義」は、個人とその個性を抑圧し挫折させるという目論見を隠しているに過ぎない。いわゆる個人主義は、社会的・経済的自由放任主義である。(支配)階級による大衆の搾取であり、そのために、法律で騙し、魂を堕落させ、卑屈な魂を体系的に教え込んでいるのだ。堕落し歪曲した「個人主義」は個性の拘束衣である。必然的に、それは、最大の近代奴隷制を、数百万人を配給の列に追いやった最も愚かな階級分断をもたらしたのだった。「徹底的個人主義」とは、主人にとってのあらゆる「個人主義」を意味しているのであって、民衆は一握りの身勝手な「超人」に仕える奴隷階級に属させられるのである。』[Red Emma Speaks, p. 112]
 集団は考えることはできない。個人は独りぼっちでは生きていくことも議論することもできない。集団や組織は、個人生活の本質的側面である。実際、集団は、正にその性質から社会関係を生み出すが故に、個人を形成する。言い換えれば、権威主義のやり方で組織された集団は、所属する個人の自由と個性に否定的な影響を与えるのである。しかし、その「個人主義」が持つ抽象的性質のために、資本主義的個人主義者は、権力主義のやり方で組織された集団とリバータリアンのやり方で組織された集団の違いを認識できず、どちらも「集団」だと見なしてしまう。この問題について片寄った認識を持っているために、「個人主義者」は、結局のところ、皮肉にも、既存の最も「集団主義的な」機関−−資本主義企業−−のいくつかを支持してしまうのだ。さらに、頻繁に非難しているにもかかわらず、常に、国家が必要だと考えてしまうのである。こうした様々な矛盾は、資本主義的個人主義が、不平等な社会における個人契約に依存していることから、つまり、抽象的な個人主義に依存していることから生じているのである。
 逆に、アナキストは社会的「個人主義」(この概念については「コミューン的個性」という言葉の方がより良いかもしれない)を強調する。アナキズムは『社会の重心は個人であると主張する−−人は自分で考え、自由に行動し、十全に生きなければならない。自由で十全に成長するなら、人は他者の干渉や抑圧から解放されるに違いない。これには「徹底的個人主義」との共通点は何もない。こうした略奪的個人主義は、徹底的どころか、本当に軟弱なのだ。自己の安全がほんの少しでも脅かされると、国家の庇護に逃げ込み、助けてくれと泣き叫ぶ。「徹底的個人主義」は、無制限の金儲けと政治的強奪を隠すために支配階級が被る数多くの仮面の一つに過ぎないのだ。』[Emma Goldman, 前掲書, pp. 442-3]
 アナキズムは、他者によって制約される個人の「絶対」自由という思想を持って、資本主義の抽象的個人主義を拒絶する。この理論は、自由が存在し成長する社会的文脈を無視している。マラテスタは次のように論じている。『我々が欲する自由は、我々自身にとっても他者にとっても、絶対的な形而上学的な抽象的自由ではない。これは、実際には必ず弱者の抑圧へと形を変える。そうではなく、現実の自由、可能な自由なのだ。これは、意識的な利益共同体・自発的連帯なのである。』[Anarchy, p. 43]
 抽象的個人主義を基礎にした社会では、契約する個人間の権力の不平等を生む。その結果、権威が必要だとされる。この権威は、個人に優越する法に基づき、個々人間で交わされた契約の履行を組織的に強制する。この帰結は資本主義を見れば明らかであり、最も顕著に現われているのは、国家がどのように発展するのかを説いた「社会契約」理論である。この理論では、個人が「自由」なのは、互いに孤立している時だとされる。なぜなら、それが元来の「自然状態」だからだという。社会に加わると、個人は「契約」を創り、それを執行させるための国家を創るというわけだ。しかし、現実に何の根拠もない幻想はともかく(人類は常に社会的動物であった)、この「理論」は、現実には、国家が社会に対して広範な権力を持っていることを正当化しているのである。そして、次には、強力な国家を必要とする資本主義システムを正当化する。同時にこれは、この理論の基盤となっている資本主義経済関係の結論とそっくりである。資本主義では、個人はお互いに「自由に」契約を結ぶ。しかし、実際には、契約が実施されている限り、所有者が労働者を支配するのである(詳細はセクション
A.2.14とセクションB.4を参照)。
 アナキストは、資本主義の「個人主義」を拒絶する。クロポトキンを引用しよう。それは『偏狭で利己的な個人主義』である。それ以上に『個人を軽視する莫迦げたエゴイズム』であり、『個人主義などではない。それは目標として設定されたことを導かない。つまり、個性が全面的に幅広く最も完全に発達できるようにはしないのである。』資本主義のヒエラルキーは個性の発達ではなく『個性の貧困化』を生む。これに対してアナキストは、『個人の原始的欲求・他者との関わり合い全般双方に影響することの中で最も高度な共産主義的社交性を通じて、最大の個人発達を可能にする個性』を対比させる [Selected Writings on Anarchism and Revolution, p. 295, p. 296 and p. 297]。アナキストにとって、自分の自由は、主人と奴隷としてではなく平等者として、周囲の人々と共に活動する時に、その人々によって豊かになるのである。
 現実には、個人主義も集団主義も、個人の自由の否定・集団の自律性とダイナミクスの否定を導く。付言するならば、一方は他方を含んでいるのである。集団主義は特定形態の個人主義を導き、個人主義は特定形態の集団主義を導くのである。
 集団主義は、暗に個人を抑圧しているために、結局はコミュニティを貧しくする。集団に生命を与えるのは、それを構成する個人だけだからである。個人主義は、コミュニティ(つまり自分がともに生きる人々)をあからさまに拒絶するために、結局は個人を貧しくする。個人は社会から隔絶して生きることはできず、社会の中でしか生きることができないからである。さらに、個人主義は、結局のところ、「選ばれた少数者」に、社会の大半を作り上げている人々の洞察と能力を提供しないのだから、自己否定の源なのだ。これが個人主義の致命的欠陥(そして矛盾)である。すなわち、『「美しき上流階級」による大衆抑圧状態では、個人が真に十全に発達することなど不可能である。その発達は片寄ったままであろう。』[Peter Kropotkin, Anarchism, p. 293]
 真の自由とコミュニティは、そこにはない。

[FAQ目次に戻る]

Anti-Copyright 98-forever, AiN. All Resources Shared.