アナキズムFAQ

J.4 社会におけるいかなる傾向が、アナキスト活動の手助けをするのか?

 このセクションでは、アナキストが組織を作るための潜在的好機として我々が見なしている現代の諸傾向を吟味する。こうした諸傾向は一般的性質を持ったものであり、例えば、その一部は社会闘争の産物であり、また一部は経済的・社会的危機に対する反応であり、一部は巨大政府と巨大事業に対する民衆の態度であり、一部は我々が現在経験しているコミュニケーション革命との関係によるものなどがある。我々がこのように見なしているのは、クロポトキンが論じていたように、アナキストは、『人間社会を、それが現在そうあるものとして、そして、過去にそうあったものとして研究する。(中略)彼(彼女)は社会を研究し、過去・現在の諸傾向、その増大する知的・経済的ニーズを発見し、そしてその理想においてどの方向に進化が進むのかを指摘するのである。』(アナキズムと無政府共産主義、24ページ)からだ。このセクションでは、アナキズム的方向性を示している現代社会の諸傾向をほんの幾つかだが際立たせてみよう。

 もちろん、現代社会を見てみれば、複合的影響力が分かる。ある面ではポジティブだが、別な面ではネガティブな諸変化である。例えば、ビジネスに刺激されて、政府の(ある種の)機能を分権化したり、減じたりしようという試みがある。抽象的には、こうした発展は、政府の縮小を導くわけだから、アナキストが歓迎すべきものである。実際には、こうした結論は非常に疑わしい。なぜなら、こうした発展はビジネスと資本の力や影響力を増加させ、労働者階級の力と自律性を減じてしまうことになるからだ。同様に、自営業の増加は、抽象的に見れば、賃金奴隷を減じるようにも考えられる。だが、実際には、この増加は「自主」契約者を促そうという企業に起因しているのであり、そのことで賃金カットがされ、労働条件が劣悪になり、仕事の不安定さが増大し、健康保険などの福利厚生に対する支払いが徐々に蝕まれる以上、ポジティブな兆候などではないのだ。明らかに、自営業の増加が、例えば協同組合の増加を生むのであれば、話は別なものとなろう。

 したがって、数多くの「リバータリアン」的に見える発展が、社会運動と活動主義の産物ではなく、私的利益と権力を求めたエリートのロビー活動の産物ならば、それを賞賛するアナキストなどいないのである。国家権力を(ある特定)領域において減少させながらも、資本の力をそのままにしておく(もしくは増大させる)ことは、全くではないにせよ、ほとんど点で、退行的ステップなのである。言うまでもなく、このように国家を「撃退すること」(rolling back)で、所有権・資本家階級の利権の保護者としてのその役割が危うくなるわけではない。こうした発展を導入し、支援しているのが支配階級である以上、そんなことはできはしないのである。

 こうした複合的影響力の一例として、多くの西洋諸国で1973年以来不安定になっている経済危機を指摘しよう。この危機は、当初出現した時点で、課税を減じる必要性を導いた(少なくとも、金持ちに対しては。大部分の国々で、課税は労働者階級にさらに重くなったのだった−−サッチャー政権の英国で真実だったように)。大部分の国々で、その結果、政府は金持ちを「ほっておいた」のだった(そして、さらに心地よく、我々にがみがみ言っていたのだ!)。このことは(ゆったりとした成長と共に)先進資本主義国家において所得基準の減少を創り出す手助けをし、中央政府に社会サービスをカットする理由を与えた。その一方で、地方政府が抱えていた空白状態を任意団体が満たされねばならなくなり、結果として、アナキズムの理想と合致した権力分散化に向かう傾向を生みだしたのだった。

 マレイ=ブクチンが指摘しているように、持続可能な生態調和社会は、その強調点を、行政の基本単位としての国民国家から、自治体−−街・村落・人間規模の都市−−へと変えなければならない。興味深いことに、福祉国家で進行している解体は、独自にこうした変化を生み出している。移動手段・住宅・社会福祉などのニーズが満たされるだいぶ前に都市居住者を自活せしめることで、経済危機は、同時に、チームワーク・協働・自己信頼の術を再学習させているのである(ブクチンのエコロジーと社会を参照)。

 もちろん、経済危機はアナキストにとって衰微的傾向も持っている。困窮と混乱は平民(ranks)を膨れ上がらせ、進歩的社会運動の戦闘性を高めるが、エスタブリッシュメントに統制を維持するために以前よりももっと権威主義的な方法を使うよう喚起するのである(セクションD.9を参照)。経済危機が次の数十年間にわたり深まるのであれば、国家の反動的諸傾向は強化されるであろう(特に、新自由主義のコンセンサスが市場メカニズムを通じて社会を原子化する手助けをし、地域と人間諸関係の破壊を招くであろう)。しかし、これは回避できないことではない。将来は今ここでの我々の行動にかかっているのだ。FAQのこのセクションでは、アナキストに有利にはたらく、もしくは有利にはたらきうる幾つかの発展に焦点を当てる。ここで挙げる実例の多くが合州国からのものであるが、それらは同様に英国やその他の先進産業国家にも当てはまる。

 このセクションでは、からの諸傾向−−国家の機能を武装した資本のごろつきどものそれへと純粋に還元するのではなく、国家を真に「撃退する」(roll back)諸傾向−−を論じようと思う。ここで議論される諸傾向は、アナキスト活動主義と諸傾向の全てでも最終的なものでもない。もっと伝統的なアナキズムの多くの「好機」(産業組合主義や地域組合主義・相互クレジット・共同組合・近代学校運動など)についてはセクションJ.5で議論するため、ここでは議論しない。だが、こうした「伝統的」好機の重要性が低くなりはしない、ということをここで強調しておかねばなるまい−−実際、ここで論じることの多くは、こうしたより「伝統的」な「アナーキーの実践」(anarchy in action)と組み合わせることで、はじめて十全なるリバータリアン的なものになるのである。

 社会におけるアナキズム的諸傾向についての膨大な議論については、コリン=ワードの古典的書物、Anarchy in Actionをお勧めしたい。ワードの素晴らしい本は、ここでカバーできる以上に、アナキズム的諸傾向を表現している数多くの領域を網羅している。社会におけるリバータリアン諸傾向は数多くある。単一の著作がそれらを正当に扱うなど望むべくもない。

 

J.4.1 何故、社会闘争は良い兆候なのか?

 民衆が既存社会に不満を持ち、そしてさらに重要なことだが、少なくとも社会の一部を変えようとしていることを示しているからである。社会闘争は、民衆の一部が、自分がおかれている状況を考慮し、少なくとも潜在的に、自分の行動によって、その状況に影響を与え、より良い方向へと変化させることができると見なしている、ということを示しているのだ。

 少数の支配者が、大多数の承認と黙認を得ていることからその強さを引き出していることを考えれば、その大多数の一部がもはや承認も黙認もしていないという事実は、ポジティブな兆候である。結局、大多数が現状を受け入れず、それを変化させるために行動しているのなら、階級システムと国家システムは存続し得ないのだ。ヒエラルキー社会が存続するのは、底辺にいる人々がその上にいる人々の命令に従うからなのだ。社会闘争が示していることは、民衆の中に自分の関心事を考慮し、自分で考え、「ノー」と言っている人達がいる、ということであり、このことは、その正なる性質のために、アナキズムを志向する重要な、実際、最も重要な傾向なのである。これは、システムを支持している古い考えを民衆が拒絶し、この拒絶に従って行動し、考えを行動に移す新しいやり方を創造することを意味しているのである。

 アレキサンダー=バークマンは次のように論じている。『我々の社会諸制度は、一定の思想に基づいて築かれている。その思想が一般に信奉されている限り、その上に構築された諸制度は安全なのだ。政府が強力であり続けているのは、民衆が政治的権威・法的強制を必要だと考えているからだ。資本主義はそうした経済システムが適切で公正だと考えられている限り、継続するであろう。邪悪で抑圧的な今日の諸条件を支援している思想を弱めることは、究極的には政府と資本主義の崩壊を意味するのである。』(アナキズムのABC、xvページ)

 社会闘争は、見解の変化・思想の変化・自由に向かう進歩の最も明白な兆候なのである。

 社会闘争は、直接行動で表現される。社会闘争と直接行動については前に(それぞれ、セクションJ.1セクションJ.2で)論じているため、ここで何故再び取り上げるのだろうといぶかしく思う読者もいよう。これには二つの理由がある。その第一として、ここではアナキスト活動を支援する社会的諸傾向について論じているのに、社会闘争と直接行動に焦点を当てないのは間違っているであろう。なぜなら、アナキズムは民衆が創り出すものであり、社会闘争は民衆が古い殻の中で新しい世界を創造する手段である以上、こうした要素がアナキズムを志向する大切な傾向だからだ。第二に、社会闘争と直接行動はアナキズム理論の鍵となる側面であり、これらがいかなるものであるかを明確にせずに、アナキズムの像を提示することなど全くできないのである。

 したがって、社会闘争は、民衆が自分で考え、自分の関心事を熟慮し、より良い方向に向けて物事を変革するために集団的に協働することを示す良い兆候なのである。フランスのサンジカリスト、エミール=プージェは以下のように論じている。

『直接行動は、(中略)既存の物事の状態にいつも拘束されている労働者階級が、外部の人々・権力・支配力からは何も期待しておらず、むしろ、自分自身の闘争諸条件を創り出し、その方法論として自分自身を当てにしている、ということを意味している。(中略)従って、直接行動は、労働者階級が、権威の原理の前にひざまずくのではなく、自由と自律の概念に賛同していることを示しているのである。現在、道徳的にも物質的にも何千という縄で縛りつけられている人間が、意志と発意を示す機会を奪われているのは、現代世界−−その最も新しい化身である民主主義−−の要であるこの権威の原理のおかげなのだ。』(直接行動

 社会闘争とは、民衆が、上司やその他の権威、例えば国家・支配的道徳、に敵対するようになることを意味している。既存諸権威に対するこの挑戦は、二つの関連しあったプロセスを生みだす:闘争に参画している人々が自分自身の活動の方向性を接収しはじめる傾向と、そうした人々相互の連帯の発達である。まず第一に、ストライキ・占拠・ボイコットなどの闘争の中で、上司や国家の一貫した指示の下に行っている民衆の平常生活は停止し、民衆は自分で考え、行動し、自分の行動を調整しなければならなくなる。このことが、闘争を導く最初の拒絶が示す自律に向かう表現を強化するのである。つまり、闘争は、参画している人々を自分で行動させることで、当初の拒絶行動と自律性を強めるのである。第二に、闘争の過程で、それに参画している人々は、闘争に勝つためには、連帯の重要性、同様の状況にいる他者と共に活動することの重要性を学習する。つまり、支援・共通の関心事・組織のリンクを構築するのである。闘争に勝つ手助けとなる連帯の実際的必要性が、自由社会を実現するための連帯の基盤なのである。

 したがって、社会闘争における現実の問題は、力を現在持ち、それを行使している経営者や国家公務員などから離れて、自身の生活に対する力の少なくとも一部を求めて格闘する試みが民衆によってなされることなのである。これこそ、その正なる性質のために、アナキズム的であり、リバータリアン的なのである。だから、政治家、そしてもちろん経営者と財産所有者は、ストライキなどの直接行動を非難することが多いのだ。これは道理に適っている。直接行動が社会における現実の権力保持者に挑戦しているため、そして、その論理帰結がもたらされるならば権力保持者を退位させるために、社会闘争と直接行動は、本質的に、革命的プロセスだと見なすことができるのである。

 さらに、直接行動を使うという正にその行為が、それを使っている人々内部の変換を示すのである。プージェは次のように論じている。『直接行動の正にその肥沃力は、それが、自身の価値の感覚を個人に吹き込み、その価値を賞賛する訓練になる、ということにある。それは、人間の資力を集合させ、性格を調和させ、エネルギーを集中させるのである。直接行動は自信を教える!自己信頼を!克己を!自力でやりくりすることを!』さらに、『直接行動は無比の教育的価値を持っている。人々に、熟慮し、意志決定をし、行動することを教えてくれるのである。直接行動は、自律の文化・個性の賞揚によって特徴づけられ、発意に対する刺激なのであり、その酵母なのである。「自己」の莫大な活力とその発芽とが、経済的な交友関係と葛藤することなどない。その交友関係は、労働者をお互いに結びつけ、共通の関心事について仲違いすることのないものであり、「自己」の活力と萌芽とを調和させ、支援しているのだ。個人の自立と活動は、共通の合意という芳醇な土壌にその根を深くはることではじめて見事に強烈に噴出できるのである。』(プージェ著、前掲書)

 エマ=ゴールドマンも直接行動の変換力を認識していた。彼女は次のように論じている。アナキストは、『自分が望むだけの自由を手にしている男、シュチルナーを信奉している。従って、アナキズムは直接行動を、すべての法律、経済的・社会的・道徳的な制限に対する明らかな反抗・抵抗を支持しているのだ。だが、反抗と抵抗は違法である。そこに、人間の救済があるのだ。違法なものはなんであれ、正直さ・自信・勇気を必要としているのだ。つまり、自由で独立した精神が求められるのである。』(赤のエマ語る、61ページ〜62ページ)

 社会闘争は、参画している人々の変換と、相互関係の始まりなのである。その外的表現は、既存権威の力と争うことにあり、その内的表現は人々を、受動的で孤立した競争者から、権能を持ち、自己指示的で、自己管理した協働者へと変換することになるのである。さらに、このプロセスは、人々が「可能だ」と考えていることの幅を大きく広げるのだ。『集団的行動による闘争を通じて、民衆が物事を変えることができるという事実がよく分かるようになり、自身と自分が生活している社会を統御する力を民衆が持つのである。つまり、闘争は民衆が持っている「可能なこと」の概念を変化させ、民衆に変化させるように促し、より良い世界を創りだすように促すことができるのである。クロポトキンは次のように論じていた:

『(第一)インターナショナル(国際労働者協会)の時代から、アナキストは、資本とその保護者−−国家−−に対する労働者直接闘争を行うよう、労働者組織に積極的に参加することを常にアドバイスしていた。

 『アナキストは次のように述べる。こうした闘争が、(中略)労働者に一時的な改善を獲得せしめるだけでなく、(中略)資本主義と国家が行っている悪に対して労働者の目を開かせ、(中略)資本家と国家の介入なしでは消費・生産・交換を組織することなどできないのではないかという考えを弱めるのである。』(クロポトキンの革命的パンフレット、171ページ)

 つまり、社会闘争は人を急進化させ政治に関心を持たせる効果を持っているのである。既存社会に新しい見識とより良い世界の可能性とを持ちこむ効果である(プージェの言葉を借りれば、『直接行動は、発意の精神と同時に人格に対する感覚をも発達させる。(中略)人々からその麻痺状態を追い払い、自覚を導くのである。』)。団結と上司に対する抵抗の実際的必要性は、労働者階級内部での分断を破壊する手助けにもなる。闘争をしている人々は、改善を得、物事を変えるために必要な力を供給するためにお互いを必要としていることを実感しはじめる。従って、連帯が広まり、黒人と白人、男性と女性、異性愛者と同性愛者、職業、工業、国民などの間の分断が克服されるのである。闘争に勝つために連帯が真に必要だということは、不自然な分断を侵食し、社会には、抑圧される側と抑圧する側の二つのグループしかない、ということを示す手助けになるのである。

 さらに、闘争は、そこに参画している人々を変換するだけでなく、全体としての社会を変換する基盤にもなる。なぜなら、個々人が変換されると同時に、新しい形態の組織、闘争を調整するために創りだされる諸組織も産み出されることになり、このことが、少なくとも潜在的に、リバータリアン社会主義社会の枠組みになりえるからだ。

 従って、アナキストは、社会闘争は、自尊心と自分の長所の感覚について、そこに参画している人々の目を開かせ、社会闘争に促されて創りだされる諸集団は生き生きとした鮮やかな連合である、と主張する。そうした連合では、リバータリアン諸原理がいつも前面に出てくるのである。ほとんどすべての闘争が新しい組織形態を発達させていることは明らかである。それは、多くの場合、直接民主主義・連合主義・権力分散に基づいた組織形態なのだ。主要な革命全てを見てみれば、民衆が、自分達の生活・地域社会・仕事場を管理する力を取り戻す手段として、労働者評議会・工場委員会・隣近所集会などの大衆組織を創り出していることが分かる。このようにして、社会闘争と直接行動は、未来の土台を産み出すのである。社会生活に積極的に参画することで、民衆は新しい組織形態、物事を行う新しい方法を創りだすように導かれる。このようにして、民衆は参画・自主管・発意・自己主張により自身を教育するのである。民衆は、他者による管理の唯一のオルタナティブは、自主管理であり、それを確立するために組織を作ることである、と実感し始めるのである。

 社会を再構築することが底辺から始まるのであれば、その表現は直接行動に見出される。発意を発揮し、新しくさらにリバータリアン的な組織形態を構築し、自分達の努力で物事を変えようとする集団的行動と組織が産み出した力を行使している個々人に見出されるのである。したがって、社会闘争は、二方向にわたる変換なのだ−−新しい組織の創造と組織内部の力関係の変化による社会の外的変換と、闘争に参画している人々の内的変換である。この理由で、社会闘争は、『即時の利益を求めた闘争の実際的結果がいかなるものであれ、最大の価値は闘争それ自体に存しているのだ。なぜなら、闘争によって、労働者は、上司の関心事が自分の関心事と敵対していること、上司が自分達の状況を改善するなどできないこと、ましてや、自分達を解放することなど、連帯して上司よりも強力にならない限りできないことを学ぶからだ。労働者が自分達が欲するものを勝ち得た場合には、労働者は以前よりも裕福になり、(中略)即座に、もっと大きな要求をし、その欲望もさらに大きくなる。要求しているものがうまく得られなかったなら、失敗の原因を研究し、より親密な団結・より大きな活動主義の必要性を認識せざるを得なくなり、最終的には、自分達の勝利を確固たる決定的なものにするために、資本主義を破壊する必要があるということを理解するであろう。革命の大義、道徳的向上と労働者の解放という大義は、労働者が自分達の関心事のために団結し闘争するという事実によって益せねばならぬのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、人生と思想、191ページ)。

 だから、ネストル=マフノは次のように述べているのだ。『君がアナキズムを理解できるのは、実際、自由・平等・連帯を求めた闘争を通じてのみである。』(エッセイ集:国家に対する闘争、他、71ページ)アナキスト社会の創造は、プロセスなのであり、社会闘争は、社会内部で、アナキストが捜し求め、勇気づけ、支援している重要なアナキズム的傾向なのである。社会闘争の急進化・変換的性質は、アナキスト思想の成長、資本主義内部でのリバータリアン構造と代替案(いつの日にか資本主義と国家に置き換わる諸構造)の創造、アナキストとアナキズム思想に同感する人々の創造にとって鍵となるのだ。その重要性を過少評価することなどできないのだ!

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