アナキズムFAQ


A.2.14 何故、任意主義は不充分なのか?

 任意主義とは、自由を最大限尊重するために協同組織は任意的なものでなければならない、という意味である。アナキストが任意主義者であることは明らかであり、自由合意で創られた自由な協同組織においてのみ、個人は発達し、成長し、自分の自由を表現できるようになると考えている。しかし資本主義の下にあっては、明らかに、任意主義だけでは自由を最大尊重するのに不充分なのだ。
 任意主義とは約束(つまり、契約する自由)を意味している。約束とは個々人が自立した判断をでき、筋道の通った討議をできるという意味である。さらに、これは、個々人が自分の行為と他人との関係とを評価し変えることができるということを前提としている。しかし、資本主義における契約はこれら任意主義が示していることに反している。厳密な法律解釈上「任意」だといったところで(セクションB.4に示しているように、その様なことなど本当に希なのだが)、資本主義の契約は自由の否定を生み出す。それは、給与−労働という資本主義社会の相互関係が、給与支払いの見返りに服従を約束させるからなのだ。キャロール=ペイトマンは次のように指摘している。『服従を約束するということは、多かれ少なかれ、個人の自由・平等・(自立判断と理性的討議の)可能性を行使する能力を否定、もしくは、限定することである。服従を約束することは、その約束をした人は、ある特定領域において、自分の能力を発揮する自由も持たず、自分の行為を決定する自由も持たず、平等でありさえもしない、ただただ従属するだけである、と宣言することに他ならないのだ。』[The Problem of Political Obligation, p. 19] その結果、服従する人々はもはや自分で意志決定をしないことになる。任意主義の理論的根拠(つまり、個人が自分で考える能力を持っており、自分の個性を表現することが認められ、自分の意志決定をすることが認められていなければならないということ)が、数人が管理し、多数が服従するというヒエラルキー関係の中で侵害されているのである(
セクションA.2.8を参照)。隷属関係を生み出す任意主義は、その正なる性質からして、不完全であり、それ自体の正当性を侵害しているのである。
 このことは資本主義社会に見ることが出来る。労働者は生きるためにボスに自分の自由を売り飛ばしている。実際、資本主義の下での自由など、誰に服従しようかを選ぶことができるという程度のことでしかないのだ!しかし、自由とは主人を換える権利以上のことでなければならない。隷属は、任意にしたところで、隷属でしかない。ルソーが主張しているように、主権が『それを不可分にしているのと同じ理由で、代表され得ない』とするならば、主権は、売り渡されたり、雇用契約によって一時的にでも無効にされることもできない。周知のとおり、ルソーは次のように論じていた。『英国の民衆は、自身を自由だと見なしている。しかし、それは甚だしい誤解である。民衆は議員を選挙する時だけ自由なのだ。議員が選ばれるとたちまち奴隷状態に置かれ、無価値になるのである。』[The Social Contract and Discourses, p. 266] アナキストはこの分析を拡大する。ルソーの述べていることを言い換えてみよう。

 資本主義の下で、労働者は自身を自由だと見なしている。しかし、それは甚だしい誤解である。労働者はボスとの雇用契約にサインするときだけ自由なのだ。一旦サインすればたちまち奴隷状態におかれ、命令に服従することしかできなくなるのである。

 その理由を、その不公正を理解するためには、ルソーを引用するだけでよいだろう。

 金持ちで権力のある人が、莫大な土地を所有しており、そこに定住したいと思っている人々に法律を押し付けるはずだということ。そうした人々が自分の最高権威を受け入れ、自分の願望全てに服従するという条件においてのみ定住を許可するはずだということ。さらに多くのことも想像できよう。この暴君的行為は、二重の強奪を、土地の所有と住民の自由との強奪を行っていることにはならないのだろうか?[前掲書, p. 316]

 だから、プルードンは次のようにコメントしているのである。『人は、財産によって、奴隷にも、そしてお次には暴君にもなれるのだ。』[What is Property?, p. 371] バクーニンが『最大限平等で相互関係を持ったものでない限り、いかなる身分の人との契約も』拒絶していたからといって驚くべきことではない。このことは『自分の自由を疎外』することになり、従って、『他者との任意の奴隷関係』なのである。自由社会(つまりアナキズム社会)でこのような契約を行っている人は、『いかなる意味でも個人の尊厳を欠く』ことになろう [Michael Bakunin: Selected Writings, pp. 68-9]。
 だからこそ、アナキストは任意の協同組織においては直接民主制が必要だと強調する。それは、資本主義で見られているように「自由」という概念は出鱈目でもなければ、支配を正当化するためのものでもない、ということを保証するためである。自主管理型協同組織だけが、メンバー間の隷属関係ではなく平等関係を構築できるのだ。
 この理由で、アナキストは資本主義に反対し、『労働者に、封建主義への退歩に対しては罰則を加えるという条件で、全メンバーに平等な条件を持つ民主的社会に向けて自らを組織する』ように要請してきた [Proudhon, The General Idea of the Revolution, p. 277]。同様の理由で、アナキストは(プルードンは明らかに例外だったが)結婚に反対してきた。その理由をヴォルテリーン=デ=クライアーは次のように述べている。女性を『主人の名を名乗り、主人のパンを食べ、主人の命令を聞き、主人の情念に仕え、主人の同意無しにはいかなる財産をも管理できず、自分の肉体すら管理できない、身動き取れぬ奴隷』にしているからだ [Paul Avrich, An American Anarchist: The Life of Voltairine de Cleyre, p. 160で引用]。フェミニストの扇動によって、結婚は、平等者の自由結合というアナキズムの理想に向けて改善されてきているが、なおも、ゴールドマンとデ=クライアーのようなアナキストが特定し非難した家父長制原理に基づいているのである(フェミニズムとアナキズムに関してはセクションA.3.5を参照)。
 明らかに、個人の自由を防衛するために任意的参加は必要条件だが、充分条件ではない。これは予想できることだ。なぜなら、同意がなされる社会的諸条件を無視して(もしくは当然のものだと見なして)おり、さらに、この諸条件が創り出す社会的諸関係を無視しているのだから(『自分の労働力を売り飛ばさねばならない労働者が、自由であり続けることはできないのだ。』[Kropotkin, Selected Writings on Anarchism and Revolution, p. 305])。抽象的個人主義に基づいた社会関係は、いかなるものであっても、自由にではなく、武力と権力・権威に基づくものになりがちである。もちろん、このことが想定している自由の定義は、個々人が自分の能力を発揮し自分の行為を決定するということに沿ったものである。従って、自由を最大限尊重する社会を築くためには、任意主義だけでは充分なのだ。アナキストが、任意の協同組織は、協同組織内部の自主管理(直接民主主義)によって補完されねばならない、と考える理由がこれなのである。アナキストにとって、任意主義の前提は自主管理の意味を含んでいるのだ。プルードンの言葉を使えば、『個人主義は人間の原始的事実であるが故に、協同組織は個人主義を補完する言葉なのだ。』[System of Economical Contradictions, p. 430]
 もちろん、「アナキストは、ある種の社会的関係を他のそれよりも重要視しているではないか」そして「真の自由人であるならば他人が自分なりの社会的関係を選ぶ自由を許容すべきだ」という反論もあろう。
 第二の反論から先に回答させてもらおう。私有財産(国家主義もそうだ)に基づいた社会において、財産を持った人々は多くの権力を握り、それを使って自分の権威を永続させることができるようになる。アルバート=パーソンズは『富は権力であり、貧困は弱さである』と述べている。つまり、資本主義の下では、非常に賞賛されるべき「選択の自由」など、極度に限られているのである。大多数の人々にとって、主人を選ぶ自由となっているのである(パーソンズは皮肉を込めて述べているのだが、奴隷制の下で、その主人は『自分の奴隷を選んでいた。賃金奴隷制の下では、賃金奴隷が自分の主人を選ぶ。』)。パーソンズは強調している。資本主義の下で『自分の自然権を相続していない無産者は、抑圧している階級に雇われ、仕え、服従するか、餓死するしかないのだ。他の選択肢などない。金では買えないものが世の中にはあり、その最高のものが命と自由である。自由人は売ったり雇ったりされないのだ。』[Anarchism, p. 99 and p. 98] ならば、何故、私たちは隷属状態を許容し、他者の自由を制限したいと思っている人々を我慢しなければならないというのだろうか?命令する「自由」は奴隷になる自由である。従って、実際には自由の否定なのだ。
 最初の反論に関して、アナキストはその罪を認める。私たちは偏見を持っているのだ。私たちは偏見を持って、人間がロボットの状態へと陥落させられるのに反対する。私たちは偏見を持って、人間の尊厳と自由とを好ましいものだと思う。実際、私たちは偏見を持って、人間性と個性とを素晴らしいと思っているのだ。(br>  (セクションA.2.11では、何故直接民主主義が任意主義(すなわち、自由合意)と共に社会に必要なのかが論じられている。セクションB.4では、何故資本主義が財産所有者と無産者との平等な契約力に基づくことができないのか、を論じている。)

A.2.15 「人間の本性」についてはどうなのか?

 アナキストは、「人間の本性」を無視するものではさらさらなく、この概念を深く考え、反映させるための唯一の政治理論を持っている。「人間の本性」は、アナキズムに反対する主張を弁護するときの最後の台詞として投げかけられることが非常に多い。アナキストには返答できないと思われているからである。だが、そんなことはない。
 第一に、人間の本性は複雑である。人間の本性が「人間が行っていること」を意味するのであれば、それは明らかに矛盾だらけである。愛と憎しみ・同情と無情・平和と暴力など、これらは全て人間が表現していることであり、全て「人間の本性」の産物である。もちろん、「人間の本性」は社会情況と共に変化する。例えば、数千年もの間、奴隷制度は「人間の本性」の一部であり「普通」のことだと考えられていた。同性愛は古代ギリシャでは完全に普通のことだと見なされていたが、キリスト教教会が非難して以来数千年間は不自然なものになった。国家が発展して初めて、戦争は「人間の本性」の一部となった。チョムスキーは次のように述べている。

 確かに、人は悪になり得る。だが、あらゆるものになり得るのである。人間の本性はそれ自体を実現する数多くのやり方を持っており、人間は多くの潜在的能力と選択肢を持っているのである。どの能力が現れるのかは、大部分、制度構造に依存している。病的殺人者に無制限の自由を与える制度を持っているとすれば、殺人者がその場を動かすことになろう。そうなると、生き残るためには、自分の本性のこうした要素を現れるがままにしておかねばならなくなる。
 貪欲を人間の唯一の財産にし、他者の感情と献身とを犠牲にして純粋な貪欲を促す制度があるならば、私たちは、その後に続くこと全てを含め、貪欲に基づいた社会を手にすることになる。別種の人間感情と情緒、例えば連帯・援助・同情が優勢になるようなやり方で組織される社会もあろう。そうした場合には、人間の本性の別な側面が現れ、その側面を示す人格が現れることになろう。[Chronicles of Dissent, pp. 158]

 「人間の本性」がどのようなものか、それがどのように発達するのか、どの側面が表現されるのかを定義する上で、環境が重要な役割を果たす。実際、アナキズムに関する最大の神話の一つは、アナキストの考えからすれば人間の本性は生まれながらにして善だ、というものである(むしろ、私たちは、人は生まれながらにして社交的だと考えているのだが)。それがどのように発達し、どのように表現されるかは、私たちが生活し、創り上げている社会がどのようなものかに依る。ヒエラルキー社会はある種の(ネガティブな)やり方で人間を形成し、リバータリアン社会でのものとは根本的に異なる「人間の本性」を生み出す。従って、『アナキストは人間を現実よりもはるかに良いものだと考えている、ということを耳にするが、このナンセンスを繰り返すことが出来るなど、人々はどれほどの知性を持っているのだろうか、と戸惑ってしまう。人を強欲で身勝手にしないようにし、権力欲を少なくし、同時に卑屈でもないようにする唯一の方法は、自己中心主義と強欲の、卑屈さと権力欲の成長を好ましいとしている様々な条件を減じることだ、と私たちは繰り返し述べてきたのではないだろうか?』[Peter Kropotkin, Act for Yourselves, p. 83]
 このように、アナキズムに対する反対論として「人間の本性」を持ち出すのは、皮相的なだけであり、結局のところ言い掛かりにすぎない。思考停止の言い訳をしているのだ。エマ=ゴールドマンは次のように述べている。『あらゆるバカが、王様から警官、間抜け野郎から科学的に考えられないドシロウトまでが、おこがましくも人間の本性について高圧的に語っている。精神のペテン師が多ければ多いほど、人間の本性は邪悪で弱い、などと断固として主張するものだ。だが、今日、あらゆる魂が牢屋に入れられ、あらゆる心が足枷をはめられ、傷つけられ、不具にされている状態で、人間の本性について誰がどのように語ることが出来るというのだろうか?』社会を変革し、より良い社会環境を作り出して初めて、私たちは何が自分の本性の産物なのかを判断でき、何が権威主義システムの産物なのかを判断できる。この理由で、アナキズムは、『宗教支配からの精神の解放を、財産支配からの肉体の解放を、政府の束縛と拘束からの解放を意味しているのである。』なぜなら『自由・拡充・好機、そして何にもまして、平和と安らぎは、それだけで、人間の本性とその素晴らしい可能性全ての中で本当に主要な要素は何なのか、を私たちに教えてくれる』からである [Red Emma Speaks, p. 73]。
 だからと言って、人類が何から何まで環境によって形成され、個々人は、「社会」(実際にはこれは、社会を運営している人々のことである)が形作ってくれるのをただ待っているだけのタブララサ(何も書かれていない石板)として生まれるという意味ではない。ノーム=チョムスキーは次のように論じている。『私は、(人間の本性は歴史的産物であるということを)前提にして、疎外された労働という概念を合理的に説明できるとは思いません。また、人間の本性に関する様々な前提を基礎とせず、自分達の根本的性質の一部である基本的欲求の幾つかにもっと上手く適合するように社会構造をどのように修正すれば良いのかに関する様々な前提に基づかずに、何らかの社会変革に献身することに対する道徳的正当化のようなものを形成することもできないと思っています。』[Language and Politics, p. 215] 人間の特徴のどれが「生得」的で、どれがそうではないかという議論をここでするつもりはない。ここで言おうとしていることは、人間は、思考し学習する能力を生得的に持っている−−これは充分明白なことだと私たちは感じている−−のであり、自分が完全だと感じ成功するために他者との付き合いを必要とする社交的な生物である、ということである。さらに、人間は、不公正と抑圧を認識し、それに反抗する能力を持っているのだ(バクーニンは正しくも『思考する力叛逆の欲求』を『尊い能力』だと見なしていた [God and the State, p. 9])。
 私たちは、これら三つの特徴からアナキズム社会の実行可能性が示されていると考えている。自分で考えるという生得的能力は、自動的に、ヒエラルキーの全形態を不当なものにせしめる。そして、社会関係への欲求は、私たちが国家なしで組織を作ることができることを示している。近代社会を悩ましている深い不幸と疎外とは、資本主義と国家の中央集権主義と権威主義とが私達の内にある生得的欲求の一部を否定していることを示している。実際、既に述べたように、人類は、この世に現われて以来ほとんどの時代を、ヒエラルキーがほとんどもしくは全くないアナーキーなコミュニティで生活してきた。近代社会はこうした人々を「野蛮人」だの「原始人」だのと呼んでいるが、全くの傲慢だ。誰がアナキズムは「人間の本性」に反するものだなどと言えようか。アナキストはそうではないということを示す多くの証拠を蓄積しているのである。
 アナキストが余りにも多くの「人間の本性」を求めているという非難について述べれば、その主張を最も声高にしているのはアナキストではない場合が多い。これは次の理由による。『我々の敵対者は、ある種の地の塩−−統治者・雇用主・指導者−−が存在し、充分幸いなことに、悪人−−支配される側・搾取される側・指導される側−−が今よりもさらに悪くならないように防いでくれる、と認めているようである。』一方、アナキストは『主張する。支配する側もされる側も双方が権威によってダメにされているのである。』そして『搾取する側もされる側も双方が搾取によってダメにされているのだ。』従って、『そうした人々と我々との間には違いが、非常に重要な違いがある。我々は人間の本性が不完全なものだと認めているが、支配者がその例外だとは認めていない。我々の敵対者は、時として無意識にだが、例外を認めており、我々がそうした例外を認めないからこそ、彼らは我々を夢想家だと言うのである。』[Peter Kropotkin, Act for Yourselves, p. 83] 人間の本性がそれほどまでに悪いのなら、少数の人々に他者を支配する権利を与え、正義と自由が導かれることを期待するということこそ絶望的な空想なのだ。
 さらに、既に述べたように、アナキストの主張では、ヒエラルキー型組織は人間の本性が持つさらに悪いものを引き出している。抑圧する側もされる側も、そのようにして生み出された権威主義的関係によって否定的な影響を受ける。バクーニンは次のように述べている。『人間の精神と心を殺す、これが特権の特徴であり、あらゆる特権がこの特徴を有している。これは例外を許さない社会法則である。平等と人間性の法則である。』[God and the State, p. 31] そして、特権者が権力によって堕落すると、権力を持たぬものは(概して)心の中でも精神の中でも卑屈になる(幸運なことに、人間の魂は、いかなる抑圧であれ抑圧があるところには反逆者が常におり、抵抗があり、その結果として希望がある、といった具合なのである)。このように、(歪んだ)「人間の本性」をヒエラルキーが生み出しているのに、アナキストでない人々がそのヒエラルキーを正当化しているのを耳にするのは、アナキストにとっては奇妙なことなのである。
 悲しいかな、正にこのことが何度も何度も行われ、今日も続けられている。例えば、今日の「社会生物学」の勃興と共に、資本主義は人間の「本性」の産物であり、遺伝子によって決定されているのだ、などと主張する(実際の証拠などほとんどないのだが)輩がいる。こうした主張は、単に「人間の本性」論議の新しいバリエーションに過ぎず、権力者が飛び付いているのは驚くにあたらない。証拠の不足を考えてみれば、この「新しい」学説を権力者が支持しているのは、権力者にとってそれが有用だからだということ−−つまり、富と権力の不平等を正当化するためには「客観的」で「科学的」な根拠を持つことが有効だという事実−−以外の何物でもない(このプロセスに関する議論については、スティーヴィン=ローズ・R=C=ルヲォンティン・レオン=J=カミン著、「遺伝子にはいなかった:生物学・イデオロギー・人間の本性 Not in Our Genes: Biology, Ideology and Human Nature」を参照。)。
 言うまでもなく、これには一欠片の真実もない。科学者のスティーヴン=ジェイ=グールドは『私たちの潜在的な行動範囲は私たちの生物学に限定されている』と述べている。そして、社会生物学が『遺伝子制御ということで』意味しているのが、これだとすれば、『私たちに異論があるはずはない。』だが、このことを意味しているのではない。むしろ、社会生物学が賛同しているのは『生物学的決定論』の一形態である。特定の人間特性に対して特定の遺伝子が存在すると述べるなど、何も述べていないようなものだ。『暴力・性差別・全般的な意地悪さは、可能な行動範囲の一つの部分集合を示している以上、生物学上のものである。』そして『穏和・平等・親切』も同様である。従って『それらが広く行われるような社会構造を創り出すことができるならば、その影響が増大するのを見ることができるだろう。』このことが真だと見なすことができるのは、人間の文化における『多様性を認めている』社会生物学者自身の著作からも分かる。ただ一方で、こうした学者は『都合の悪い「例外」を一時的で取るに足りない逸脱であるとして無視することが多い。』これは驚くべきことだ。人が『幾度も繰り返され、大抵は大量虐殺を伴う戦争が、私たちの遺伝子的運命を形成している』と信じているのなら、『攻撃的ではない人々の存在には当惑させられる』ことになってしまう [Ever Since Darwin, p. 252, p. 257 and p. 254] 。
 以前に論じられていた社会的ダーウィニズム同様、社会生物学はまず最初にそ現在の社会で支配的な考えを自然に投影してみることから始めた(多くの場合これは無意識的になされ、だからこそ科学者は問題となっている考えを「普通」であり「自然」であると勘違いしてしまったのだ)。そして、このようにして生み出された自然に関する理論は、人間社会と歴史へと連れ戻され、資本主義の原理(ヒエラルキー・権威・競争など)が不朽普遍の法則だと「証明する」ために使われ、そして現状を正当化するものとして受け止められているのだ!驚くべきことに、聡明だと思われている人々の多くがこの取るに足らない手管を真面目に受け取っているのである。
 このことは、自然の「ヒエラルキー」が、人間社会のヒエラルキーを説明し、それを正当化するために使われることを見ても分かる。このようなアナロジーは、人間生活の制度的性質を見落としているために、誤解を招いてしまう。マレイ=ブクチンは社会生物学を批判して次のように書いている。『力なく衰弱し神経の高ぶった病気の猿が「群を支配する」雄になる見込みはほとんどない。ましてや、この非常にはかない「身分」を保ち続けることなど出来はしない。逆に、人間の場合、肉体的にも精神的にも非常に病的な支配者は、歴史の中で、破滅的な影響を持ちながら権威を行使してきた。』これは『個人に及ぼすヒエラルキー型諸制度の力を示している。いわゆる「動物のヒエラルキー」において、これは完全に無効である。制度の欠如こそが、正に、「群を支配する雄」だとか「女王蜂」を語る際に最も理解できる方法なのだ。』["Sociobiology or Social Ecology", Which way for the Ecology Movement?, p. 58] つまり、人間社会を唯一無二のものにしていることが都合良く無視され、社会における権力の真の源が遺伝子検査の下で隠されてしまっているのである。
 「人間の本性」(さらに悪い場合には社会生物学)に訴えることに関わっているこの種の護教学は、もちろん自然なことである。すべての支配階級は、自分が支配する権利を正当化しなければならないのだから。だからこそ、エリート権力を正当化すると思われるやり方で人間の本性を定義した学説−−社会生物学、王権神授説、原罪など−−を支持しているのである。そうした学説がいつも間違いであったことは明白である....もちろん、それも今日までのことだ。現在の社会が真に「人間の本性」に沿ったものであることは明らかだ。現代科学の僧衣をまとった聖職者どもによって科学的に証明されてしまったのだから!
 この主張の横柄さといったら本当に驚くべきものだ。歴史すらもこれを止めることができていないのだ。今から一千年もすれば、社会は今とは全く異なったものとなるだろう。今想像してみたところで、それとも全くかけ離れていることだろう。現時点で実施されている政府機構もないであろうし、現在の経済システムも存在していないだろう。だが、唯一、多分同じだと思われることは、人々が、その新しい社会は「唯一本物のシステム」であり、過去のシステム全てがそうではなかったとしても、その社会は完全に人間の本性に従ったものだと主張し続けているだろう、ということである。
 異なる文化からやって来た人々は、同じ事実から別な結論を引き出すかもしれない−−それはもっと妥当な結論であるかもしれない−−だが、これが資本主義の支持者の心を横切ることなど、もちろんない。資本主義護教論者には、「客観的」科学者の打ち立てた理論が、自分が住んでいる社会の支配的考えの文脈中で枠付けられているかもしれないなどとは心に浮かびもしないのだ。しかし、アナキストにとって、その様なことは驚くに値しない。皇帝による専制政治下のロシアで研究していた科学者は、進化論を種間の協力に基づいて発展させたが、それは資本主義の英国にいた研究者と全く異なっていた。英国の研究者は種間・種内の競闘に基づいてその理論を発展させたのである。後者の理論が英国社会で支配的だった政治経済の諸理論(特に、競争的個人主義)を反映していたということは、まぁトーゼン、偶然の一致なのだろうが。
 例えば、クロポトキンの古典「相互扶助論 Mutual Aid」は、英国のダーウィニズムの代表者が自然と人間生活に投影していた明らかな間違いに対して書かれていた。当時の英国ダーウィニズムに対するロシア主流派の批判に基づきながら、クロポトキンは、集団や種内の「相互扶助」はその集団や種内での個体間の「相互闘争」と同じぐらい重要な役割を果たしている、と(かなりの量の実証的証拠と共に)示したのだった(詳細とその評価については、スティーヴン=ジェイ=グールドの「がんばれカミナリ竜 Bully for Brontosaurus」に収録されているエッセイ「クロポトキンは変わり者ではなかった Kropotkin was no Crackpot」を参照)。クロポトキンは強調していた。相互扶助は、競争と共に進化における一要素だった。大部分の環境下で生存にとって遙かに重要な要素だったのである。つまり、協力は競争と同じぐらい「自然な」ことなのであり、種のメンバー間で協力が個々人に利益をもたらす最良の道になり得る以上、「人間の本性」はアナキズムの障害物でも何でもないと証明されているのである。
 結論を述べよう。アナキストは、主として次の二つの理由から、アナーキーが「人間の本性」に反していないと主張する。まず第一に、「人間の本性」だと見なされているものは、私たちが生活している社会と私たちが創り上げる関係によって形成されている。つまり、ヒエラルキー社会は、ある種の人格特性が優勢になるように促しており、逆にアナキストは別種の人格特性を促そうと思っている。このように、アナキストは『人間の本性が変化するという事実よりもむしろ、本性の中には異なる環境下で異なって作用するものがあるという理論を信頼している。』第二の理由は次のとおりである。変化は『根本的な生存法則の一つだと思われる』のだから、『ある人が可能性の限界に到達した、などと誰が言うことができるのだろうか?』[George Barrett, Objections to Anarchism, pp. 360-1 and p. 360]
 人間の本性に関わるアナキズムの考えについては、ピーター=マーシャルの「人間の本性とアナキズム Human nature and anarchism」[David Goodway (ed.), For Anarchism: History, Theory and Practice, pp. 127-149] とデヴィッド=ハートレイの「コミュニタリアン=アナキズムと人間の本性 Communitarian Anarchism and Human Nature」[Anarchist Studies, vol. 3, no. 2, Autumn 1995, pp. 145-164] で有用な論議がされている。どちらも、アナキストが人間は生まれつき善だと見なしている、という考えを論駁している。

A.2.16 アナキズムには「完全な」人間が必要なのか?

 いらない。アナーキーはユートピア、つまり「完全な」社会ではない。それは人類に関連した諸問題・希望・恐怖全てを持った人間の社会となるであろう。アナキストは、アナーキーが機能するために人間が「完全」でなければならないとは考えない。ただ自由にならねばならないのだ。クリスティーとメルツァーは次のように述べている。

 革命的社会主義(つまりアナキズム)は労働者を「理想化」しており、革命的社会主義が失敗の独演会となっていることこそが階級闘争説を論破しているのだ、という一般的な誤謬がある。道徳・倫理の完成なくして自由社会が存在できるなど明らかに実状にそぐわないと思われているようだ。しかし、(既存)社会の転覆に関する限り、民衆の持つ欠点と偏見という事実は、それらが制度化されなければ、無視できるものである。労働者が「インテリ」の社会的品位を獲得したり、家族の規律から外国人嫌いまで現代社会の偏見全てを捨てるようになるずっと前に、労働者が自分で自分の仕事場を管理できるという事実を何の懸念もなく考えることは出来る。労働者が主人ぬきに産業を運営できる以上、何が問題なのだろうか?偏見は自由の中で萎びる。偏見が蔓延るのは、社会の風潮が偏見を好ましいとしている時だけである。一旦、上からの権威の押し付けなしに生活を継続できるようになり、それまで押し付けられていた権威が労働者からの奉仕がなくなって消滅してしまうと、権威主義の偏見は消えてしまうであろう、このように我々は述べているのである。自由な教育プロセスだけがその治療法なのである。[The Floodgates of Anarchy, pp. 36-7]

 だが明らかに、自分の個性や欲求と他者の個性や欲求とを調和させる人々を自由社会は創り出し、その結果、個々人の軋轢は減っていくだろう、と私たちは考えている。それでも残ってしまう対人的問題は合理的方法、例えば、陪審制度や、双方にとっての第三者、コミュニティや仕事場での集会を使うことで解決されるであろう(反社会的活動や争議をどのように解決できるのかについては、セクションI.5.8を参照)。
 「アナキズムは人間の本性に反している」論法のように(
セクションA.2.15を参照)、アナキズムに反対する人々は「完全な」人間−−権威ある立場についても権力に溺れることのない人間、ヒエラルキーや特権などの歪んだ効果に奇妙にも影響されることのない人間−−を想定していることが多い。しかし、アナキストは人間の完成についてその様な主張をしない。私たちは、人間は完全ではないからこそ、一人の人間やエリートの手に膨大な権力が握られることは良い考えなどではない、と認識している。
 記しておかねばならないが、アナキズムは「新しい」(完全な)人間を必要としているという考えは、アナキズムの敵対者が提起していることが多いのである。アナキズムの信用を落とそうとしている(そして、通常、ヒエラルキー型権威の、特に資本主義の生産関係にけるヒエラルキー型権威の、維持を正当化している)のである。結局、民衆は完全ではないし、完全になることなどありそうもない。したがって、こうした敵対者は、アナキズムを非現実的だとして無視するために、政府が崩壊したあらゆる実例に飛び掛り、結局は混乱に終わるのだと責め立てる。「法と秩序」が崩壊し、略奪が行われているとき、メディアは、その国は「アナーキー」に陥ったと大喜びで宣言するのが常なのである。
 アナキストは、こんな主張には動じない。ちょっと考えれば分かることだが、このような誹謗中傷をしている人々は、アナキストのいないアナキズム社会を想定するという基本的な誤りをしているのである!(右翼「アナルコ」キャピタリストも真のアナキズムの評判を落とすために似たような主張をしている。だが、そうした人々の「異論」は、アナキストのいないアナキズム社会を暗に想定しているために、自分たちがアナキストだという主張自体を疑わしいものにしているのである!)言うまでもなく、未だに権威・財産・国家を必要だと見なしている人々から成る「アナーキー」なぞ、すぐにも権威主義(つまり、非アナキズム)社会に戻ってしまうだろう。政府が明日転覆されても、同じシステムがすぐに生まれてしまうからである。『政府の強みは政府それ自体にあるのではなく、民衆にある。大暴君はバカではありえても、超人であることはない。その人の強みはその人自身にあるのではなく、その人に従うのが正しいと考えている民衆の迷信にある。そうした迷信が存在する限り、解放者が暴政の首を切り落としても何の意味もない。民衆は別なものを作り出してしまう。民衆は自分たちの外にいる何かに依存するのにすっかり慣らされているからなのだ。』[George Barrett, Objections to Anarchism, p. 355]
 アレクサンダー=バークマンは次のように述べている。

 我々の社会制度は特定思想に基づいている。この思想が信じられている限り、その上に構築されている制度は安全である。政府が強力なままなのは、民衆が政治的権威と法的強制を必要だと考えているからなのだ。資本主義は、そうした経済システムが適切で正当だと考えられている限り、続くであろう。今日の邪悪で抑圧的な諸条件を養っている思想が弱まるということが、政府と資本主義の究極的な崩壊を意味するのである。[What is Anarchism?, p. xii]

 言い換えれば、アナーキーを作り出し長続きさせるには、アナキストが必要なのだ。しかし、こうしたアナキストが完全である必要はない。命令−服従関係と資本主義的所有権が必要だという迷信から自身の努力で自己解放をした人であればいいのだ。アナーキーには「完全な」人が必要だという考えの裏には、自由は与えられるものであり勝ち取るものではない、という前提がある。したがって、「完全な」人間を必要とするアナーキーは失敗する、という自明の結論が導かれるわけだ。しかし、この主張は、自由社会を作り出すためには自主的活動と自己解放とが必要だということを無視している。アナキストにとって、『歴史は、支配する側とされる側との、抑圧する側とされる側との闘争である。』[Peter Kropotkin, Act for Yourselves, p. 85] 思想は闘争を通じて変化する。その結果、抑圧と搾取に対する闘争において、私たちは世界を変えるだけでなく、同時に自分たち自身を変えるのだ。自分自身の生活に・地域社会に・この惑星に関して責任を取ることができる人々を創り出すのは、自由を求めた闘争なのである。自由を求めた闘争が、自由社会において平等者として生活できる人々を創り出し、アナーキーを可能にするのである。
 したがって、政府が消滅した結果として生じる混乱はアナーキーでもなければ、実際、アナキズムに不利な実例ですらない。単に、アナキズム社会を創造するために必要な前提条件が存在していない、というだけのことである。アナーキーは、社会の中核における集団闘争の産物であって、外的ショックの産物ではない。ましてや、強調しておくが、アナキストはそうした社会が「一晩で」出現するなどとは考えていないのだ。むしろ、アナキズムのシステムを創造するのは、イベントではなく、プロセスなのである。どのようにアナキズム社会が機能するのかに関する詳細は、即座に完全な形で出現するのではなく、経験と客観的情況を踏まえて時間とともに進化していくのである(マルクス主義者は逆の主張をしているが、それについてはセクションH.2.5を参照)。
 アナキストはアナキズムが機能するためには「完全な」人間が必要だという結論を下さない。なぜなら、アナキストは『人間を自由にするという聖なる使命を持った解放者ではなく、自由の獲得を求めて闘争している人間性の一部』だからである。したがって、『そこで、もし、何らかの外的手段によってアナキズム革命が、いわば支給された既製品となり、民衆に押し付けられることがあれば、民衆はそれを拒否し、以前の社会を再構築するであろう。逆に、民衆が自由という概念を自分で発達させ、民衆自身の手で暴君の最後の砦−−政府−−を取り除いたならば、必ずやその革命は永久に達成され続けるであろう。』[George Barrett, 前掲書, p. 355]
 だからといって、アナキズム社会は、万人がアナキストになるまで待たねばならないという意味ではない。全く違う。例えば、金持ちと権力者が突然、自分たちのやり方の誤りを理解し、自発的にその特権を放棄することはまずあり得ない。大規模で成長し続けるアナキズム運動に直面すると、支配エリートは常に、社会におけるその立場を防衛するために弾圧を行使してきた。スペイン(セクションA.5.6)とイタリア(セクションA.5.5)におけるファシズムの利用は、資本家階級がどこまで深く堕ちることが出来るのかを示している。アナキズムは、少数の支配者による抑圧に直面して創造され、その結果、権威を再創造しようという試みに対して防衛されるのである(アナキストは反革命に対してアナキズム社会を防衛する必要を拒絶しているとマルクス主義者は主張しているが、この主張に対する論駁はセクションH.2.1を参照)。
 逆に、アナキストは、自分たちの活動の焦点は、抑圧と搾取の対象となっている人々を説得することであるべきだと主張する。つまり、そうした人々は抑圧と搾取に抵抗する力を持っており、究極的には、それらの原因である社会制度を破壊することで、抑圧と搾取を終わらせることができるのだ、と説得するのである。マラテスタは次のように論じていた。『大衆の直接行動によって社会的有機体を根本的に変革するという我々の明確な課題を達成するだけの充分な強さを持った勢力を構築するように、大衆を支援しなければならない。我々は、大衆に近づき、ありのままの大衆を受け入れ、その階層内部から出来るだけ大衆を「後押し」しようとしなければならない。』[Errico Malatesta: His Life and Ideas, pp. 155-6] これは、アナキズムに向かう急速な進化を可能にする諸条件を創り出すだろう。当初は少数の人々だけに受け入れられる『が、次第に一般向けの表現方法を見つけていくに従い、人民大衆の中で認められるようになるだろう。』そして、『少数派が人民に、大多数になり、貧困と国家とに反対して立ち上がった大衆が無政府共産主義に向けて前進するであろう。』[Kropotkin, Words of a Rebel, p. 75] アナキストがその思想を広め、アナキズムを擁護する主張を論じることに重きを置くのは大切なことなのである。このことが、資本主義と国家との不公正を疑問視している人々の中から意識的アナキストを創り出すのである。
 ヒエラルキー型社会の性質、そして、それが当然発達させるヒエラルキーの支配下にいる人々の抵抗が、このプロセスを手助けする。アナキズム思想は闘争を通じて自発的に発達する。セクションI.2.3で論じているように、アナキズム組織は、あらゆるヒエラルキーシステムを特徴づけている抑圧と搾取に対する抵抗の一部として創り出されることが多く、潜在的に新社会の枠組みになりうる。したがって、リバータリアン制度のの創造は、常に、いかなる情況においても可能性として存在するのだ。民衆の経験が、アナキズムの結論、つまり、国家は金と権力を持つ少数者を保護し多数者から力を奪うために存在しているという意識へと民衆を後押しするかもしれない。国家は、階級とヒエラルキー社会を維持するために必要だが、社会を組織するためには必要ではなく、万人にとって公正で公平なやり方で社会を組織することも出来ない。国家なしでも組織は作れるのである。だが、意識的なアナキストが存在しなければ、いかなるリバータリアン傾向も、大衆に及ぼす政治権力を求めている政党や宗教グループによって利用され、悪用され、最終的には破壊されてしまうだろう(ロシア革命はこのプロセスの最も有名な実例である)。この理由から、アナキストは闘争に影響を与え、自分たちの思想を広めるために組織を作るのである(詳しくはセクションJ.3を参照)。アナキズム思想が『優勢な影響力を獲得』し、『充分多くの民衆に受け入れ』られて初めて、私たちは『アナーキーを達成したり、アナーキーに向けて一歩進む』というのが真実である。なぜなら、アナーキーを『民衆の願望に反して押し付けることなど出来ない』からだ [Malatesta, 前掲書, p. 159 and p. 163]。
 結論を述べよう。アナキズム社会の構築は、人々が完全であるかどうかに依存するのではない。大多数の人々がアナキストとなり、社会をリバータリアンのやり方で再組織したいと思うかどうかに依るのである。だからといって、個人間の葛藤が減るわけでもないし、一夜にして十全に形成されたアナキズム的人間性が出現するわけでもない。社会変革の闘争が闘争を行っている人々を革命的にした後でも存在し続けるあらゆる偏見や反社会的行動を徐々に減じていくための土台を作るのである。

A.2.17 大部分の民衆はバカなため、自由社会を作れないのではないか?

 アナキズムFAQにこの質問を含めなければならないことは残念だ。しかし、多くの政治的イデオロギーは、普通の民衆はバカだから自分の生活を自分で管理したり社会を運営したりできない、と公に仮定している。左翼であれ右翼であれ、資本主義者の政治議題の隅々にこの主張を行っている人々がいる。レーニン主義者であれ、フェビアン主義者であれ、客観主義者であれ、その前提は、選ばれた少数者だけが創造的で知的であり、こうした人々が他者を統治すべきだ、である。「自由」や「民主主義」といった陳腐な文句に関する流暢で華麗なレトリックの裏に、このエリート主義は隠れているものだ。こんなレトリックなど、イデオローグどもが民衆の批判的思考を鈍らせようとして、民衆が聴きたいと思っていることを口にしているだけのことなのである。
 もちろん、何ら驚くべきことでもないが、「自然」なエリートを信じている輩はいつも自分のことをヒエラルキーの頂点に置いている。例えば、「客観主義者」の中で、自分を大勢の「古着買い」の一人である思っている人などいない(アイン=ランドの思想を猿真似しているだけの人が、他人を猿真似野郎だと片付けているのは、いつ見ても面白いものだ!)し、未だ知られざる「真の」資本主義の「理想状態」において一介のトイレ掃除人になろうしていたりする人は今のところ見つかっていない。エリート主義の文章を読んでいる人は皆、自分のことを「選ばれた少数」だと思い込むだろう。エリート主義社会において、エリートの存在を自明のことと考え、自分自身がその潜在的な一員だと思い込むことこそ、「自然」なことだろうに!
 歴史を検証してみれば分かることだが、青銅器時代に国家と支配階級が現われて以来、一つの基本的なエリート主義イデオロギーが存在し、これが国家と支配階級全てを本質的に正当化してきた。このイデオロギーは、現代においても、その衣装を取り替えているだけで、内側にある本質的な内容は変わっていない。
 例えば、中世暗黒時代において、このイデオロギーはキリスト教原理主義に色付けられており、教会ヒエラルキーのニーズを取り入れていた。エリート坊主どもにとって最も有用な「聖なるものが明らかにした」教義とは「原罪」であった。この概念によれば、人間は、基本的に「上からの指示」を必要としている堕落した不完全な生物で、普通の人間と「神」との間に必要な便利な仲介者として聖職者がいるという。平均的民衆は基本的に能無しで、従って、自分を統治できないという考えは、この教義を、暗黒時代の遺物を引き継いだものなのである。
 大多数は「古着買い」であるとか、「労働組合の良心」程度のものしか持てないという主張をする人々全てに対して、私達は次のように言うことができる。歴史を、特に労働運動を、表面的になぞってみただけでも、この主張は堪え難いほどバカバカしいことが分かる。自由を求めて闘争していた人々の創造力は、多くの場合、真に驚くべきものであった。この知的能力とインスピレーションとが「普通の」社会で見られないのであれば、それは、ヒエラルキーによる無気力化効果と権力が生み出す服従精神とを最も明白に告発しているのだ(ヒエラルキーの効果について詳しくはセクションB.1を参照)。ボブ=ブラックは次のように指摘している。

 自分とは自分がやっていることだ。自分が退屈でバカバカしく単調な仕事をしているのであれば、最終的に自分自身が退屈でバカで単調な人間になってしまう見込みが高い。労働は、なぜ私達の周りの人々が恐るべき白痴になってしまうのかを、テレビと学校教育のような重大な魯鈍化メカニズムよりも遥かにうまく説明してくれる。自分の人生全てを組織化され、学校教育から仕事へと引き渡され、最初は家族で最後は老人ホームと一括り、こういった類の人々はヒエラルキーに慣れさせられ、心理的に奴隷にさせられている。本来持っていた自律への傾向が萎縮してしまっているため、自由の恐怖という何の合理的根拠もない恐怖症を手に入れるわけだ。仕事場で受けている服従訓練は、自分で始めた家族へと持ち越され、故に様々な方面でそのシステムを再び作り出し、それが政治・文化その他全てのことに及ぶ。一旦仕事場で人々の活力を枯渇させてしまうと、その人々は、全てのことにおいて、ヒエラルキーと専門家の言いなりになってしまうのである。それに慣れきってしまうのだ。[The Abolition of Work and other essays, pp. 21-2]

 エリート主義者が民衆の解放に理解を示そうとしている場合であっても、彼らの考える解放は、親切なエリート(レーニン主義者にとって)やバカなエリート(客観主義者にとって)によって、虐げられた人々に与えられるものなのである。だから当然、失敗する。自由社会を作り出すことができるのは自己解放だけである。権威の持つ壊滅的で歪んだ効果を克服できるのは自己活動のみである。こうした自己解放の実例は数少ないが、それ以前には自由など持ち得ないと考えられていた大多数の民衆がその課題に向けて非常に積極的に活動することを証明しているのである。
 自分の「優位」を主張する輩は恐怖からそうする場合が多い。権威が弱体化し、民衆がその権威の手から自分を解放し、『偉大な人間は、我々の膝の上に乗っているからこそ、偉大なのである』というマックス=シュチルナーの言葉を実感し始めると、自分の権威と権力が破壊されてしまう、と恐れているのである。
 エマ=ゴールドマンは女性の平等について次のように述べている。『人生の全歩みの中で女性が行った並外れた偉業は、女性が劣等であるという根拠のない言説のために永遠に黙殺されてしまった。未だにこの迷信にしがみついている人々は、自分の権威が挑戦されているのを見ることすら嫌なのである。これがあらゆる権威の特徴である。主人が自分の経済的奴隷に対する場合であれ、男性が女性に対する場合であれ、そうなのだ。しかし、いたるところで女性はその監獄から逃げようとしており、いたるところで女性は自由に大股で前進しようとしているのだ。』[Vision on Fire, p. 256] 同じことは、例えば、スペイン革命中に行われた労働者の自主管理実験の成功にも言える。
 そしてもちろん、民衆が余りにもバカなためアナキズムはうまくいかないという考えも、それを主張する人がしっぺ返しを食らうだけである。例として、アナーキーよりも民主主義政府を擁護するためにこの主張を使っている人々のことを考えてみよう。ルイジ=ガリアーニが述べているように、民主主義とは『民衆が自分の支配者を選ぶ権利を持ち、その権利を行使する能力を持っていると認めている』という意味である。しかし、『人が自分の支配者を選ぶ政治的能力を持っているということは、支配者なしに物事を行うことができる、ということを暗に示している。特に、経済的憎しみが根絶された場合には、そうなのである。』 [The End of Anarchism?, p. 37] つまり、アナキズムに反対して資本主義を支持する主張は、その主張自体が弱いのである。『こうした立派な有権者が自身の利益の面倒を見ることが出来ないと考えているのなら、こうした人々が自分を導く羊飼いを自分で選ぶ方法を知っているとはどういうわけだろうか?数多くのバカの投票で一人の天才が選ばれるという社会的錬金術の問題はどのようにして解決されるのだろうか?』[Malatesta, Anarchy, pp. 53-4]
 独裁制こそが人間のバカさ加減に対する解決策だと考えている人々に関しては、次のような疑問が湧く。何故、こうした独裁者は、この明らかに普遍的な人間特性から免れているのだろうか?マラテスタは次のように疑問を述べている。『誰がベストなのだろうか?誰が、人の中にある性質を見分けるのだろうか?』[前掲書, p. 53] 独裁者は、「バカな」大衆のことに出しゃばっておきながら、何故、独裁者自身の利益のために大衆を搾取し、虐げないと仮定できるのだろうか?もしくは、このことついて言えば、独裁者は大衆よりも知力が優れていると仮定できるのだろうか?独裁政府と君主政府の歴史が、こうした疑問にハッキリと答えているではないか。同様の論法が、限定された選挙権に基づいた体制のような他の非民主制にも適用できる。例えば、資産家による支配に基づいた国家というロック哲学(つまり、古典的自由主義、右翼リバータリアン)の理念は、裕福な少数者の権力と特権を維持するために大多数を抑圧する体制に過ぎなくなる運命なのである。同様に、資本家エリート集団以外はほぼ普遍的にバカだという考え(「客観主義」のヴィジョン)は、アイン=ランドの文学作品で示された完璧なシステムほど理想的ではない。というのも、大部分の人は、目的それ自体としてではなく目的達成の手段として自分たちを扱っている抑圧的なボスを我慢すると思われるからである。エリートは民衆を根本的に「野蛮な大群」だと見なしているのに、どのようにして民衆自身の自己利益を認識し、追求できるというのだろうか?この見解を両立させることなどできないし、純粋な資本主義という『未知の理想』など「実際に存在する」資本主義と同じぐらい下劣で抑圧的で疎外するものになるだろう。
 このように、アナキストは、人民大衆の能力の欠如を理由としたアナーキー反対論は、本質的に自己矛盾である(あからさまな独善ではないとしても)、と断固として確信している。民衆がアナキズムにとってあまりにもバカだとすれば、人が言及したいと思っているいかなるシステムにとってもバカ過ぎることになる。究極的に、アナキストは、こうした観点は、生物種としての人間性と歴史を誠実に分析したのではなく、分析単に、ヒエラルキー社会が創り出した奴隷メンタリティを映し出しているに過ぎない、と主張するのである。ルソーを引用しよう。

 全裸の野蛮人の群れが、欧州にはびこる肉欲を軽蔑し、自分たちの独立を保持するだけのために空腹・火災・武力・死に耐えているのを見ていると、私は、奴隷が自由を推論してはならないと感じるのである。 [Noam Chomsky, Marxism, Anarchism, and Alternative Futures, p. 780で引用]

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