日本初のジェットエンジン ネ-20 に賭けた情熱

 2004年10月横浜パシフィコで開催された国際航空宇宙展JA2004の石川島播磨重工の展示ブースに、終戦直前に製作され初飛行に成功した初のジェットエンジン「ネ-20」が展示されていました。このエンジンは終戦直後に米軍が接収し米国本土に保存されていたものが返還されたものです。

 そのため吸気側の先端にはエンジンスタート用の大きな電動モーターが設置されていたり、配管や補器類、そして銘板類も米国のものに取り替えられていました。唯一下の写真のところに日本語の銘板がありネ-20であることを証明しています。

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全長1800mm、直径620mm、全重量450kg、推力475kg、送風機軸流8段、回転数11000rpm

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以下に、富士重工業の航空カレンダーのコメントを書かれている鳥飼鶴雄氏の解説と、1952年に書かれた種子島工学博士の航空雑誌への投稿記事の抜粋を織り交ぜて紹介します。

 1930年、弱冠3歳のイギリス空軍士官フランク・ホイットルがガスタービン式ジェットエンジンの特許を取得した。だが、それを実用化しようとするエンジンメーカーも軍や政府機関も無かった。1935年ホイットルは特許の更新時期にあったが、子供の病気と妻の出産のために5ポンドの更新料が工面できなかった。そして3年後の1938年にイギリス空軍が目をつけ研究費1900ポンドの予算を付け、さらに1941年5月最初の実験機グロスターE28/39が初飛行するに至った。

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        Gloster E28/39 と Heinkel He178

 一方ドイツでは1936年ゲッチンゲン大学の24歳の学生フォン・オハインが、ガスタービン式ジェットエンジンのアイディアと大学で行った燃焼実験の成果を持って、ハインケル航空機の社長エルンスト・ハインケルをたずねていた。ハインケルはさすがの技術洞察力でその可能性を見抜き、オハインのエンジンを搭載した実験機He178を1939年には初飛行させ、イギリスに2年先行している。しかしドイツ空軍はジェット機の将来性を信じず無視したことからハインケルのジェット機は量産に直結しなかった。誰もが知っているメッサーシュミットMe262の生産が始まったのは、それから4年後の1943年になっていた。

 イギリスでは最初の実用戦闘機グロースター・ミーティア(右写真の手前)が1943年3月に初飛行し、9月にはデハビランド・バンパイヤ(向う側の機体)が完成した。

 さて日本では海軍に出仕して間もない種子島時休中佐(後に大佐)が1932年頃ガスタービンに興味を持ち、軍命でスイスのブラウン・ボベリー社をたずね、ガスタービンの情報を収集し、1934年11月に「航空機用ガスタービン」という報告書をまとめ提出している。 そして欧州での駐在勤務を終えて帰国し航空技術廠に着任したのが1938年(昭和13年)である。 その後しばらくは大きな進展は無かったが、種子島大佐は常にガスタービンのことが念頭にあったという。 種子島大佐は太平洋戦争の始まった1941年になって、ジェット推進法について一つのアイディアを得たことから上司に進言し、それを研究する専門チームを発足させたのであった。

 その研究は熱噴流の速度計測から始まり、水槽での水によるジェット推進の試験を繰り返し、理論と実験の裏づけを重ねながら研究を進めていった。 ターボジェットを実用化するには軸流送風機(圧縮機)を用いるか、遠心式を用いるか、両者の混用かが考えられるが、最初にカタチを成したのは遠心式で1943年に試作したネ-10型である。 ベンチテストに入るまでは順調に進んだものの、振動と熱に悩まされ送風機翼車の破損など数多くの不具合に見舞われたが、徐々に推力も向上しターボジェットの可能性に益々自信を得ることが出来た。

 1944年の春頃には戦況は益々悪化し、そのため戦局を一気に挽回する新兵器を求める機運の中で、ようやくターボジェットエンジンに注目され始め、海軍航空技術廠長和田中将の命でただちにこれを実用化させる体制が組まれることとなった。 ここに永野技術少佐や牧浦技術大尉らの優秀な技術者が派遣された。 さらに東京大学の理化学研究所も参画し、ネ-10はネ-10改となり推力は230kgレベルに達した。 更に進んで軸流送風機4段を遠心式送風機に前に取り付けたネ-12型(改?)にまで発展した。 1944年の秋には、いよいよ機体「橘花」の開発計画もスタートしたのである。 ただネ-12はまだまだ耐久信頼性の面では多くの未解決の問題を抱えていた。

 この少し前の1944年夏に日独連絡潜水艦の最後の艦がドイツから戻ってきた。 そして巖谷英一技術中佐がBMWのターボジェット全体図面を1枚持って帰ってきたのである。 実は他の詳細資料が別の潜水艦でドイツを同時に出発したが、その艦は無事には帰国できなかった。

 種子島大佐以下の研究チームはネ-12に至る経験から、このBMWの全体図だけでも十分にその内容を理解把握できた。 そして、それが既に生産設計図面であっただけに、彼らは全く感服せざるを無かった。 特に軸流送風機を用い、タービンの回転も無理をせず、燃焼室も十分に長く確保され、噴口の歪む心配もないようにし、タービン翼にも空気冷却の方法が講じてあったことに感嘆した。

 戦局は急を告げ、機体の計画も始まり、エンジンの完成が急務であったことから、種子島大佐は、改めて」軸流方式で再設計するのではなく、このBMWエンジンの図面をベースに小型化することの案を採用する決断を下した。 これがネ-20型の発足である。 時は1944年11月であった。 直ちに本格的な」設計を進め、僅か2ヶ月で図面を完成させ、なんと1945年3月にはネ-20型が姿を見せて、試験台に第1号機がセットされた。 試験の滑り出しは比較的順調であったが、タービン翼の根元にクラックが入ったり、推力を受ける軸受けの不具合や、燃焼室の熱振動に困惑した。ここでは応援に派遣された永野少佐の電光石火の奮闘活躍は種子島大佐を驚嘆せしめたとある。また東北大学の沼知博士や棚澤博士、荏原製作所の南技師など民官学一体となった取り組みで克服し、かくして1945年5月末にネ-20型ターボジェットエンジンが神奈川県秦野町の噴進部疎開研究所にて完成したのである。(上の写真のネ-20は米軍でテストのときのものだろうか、航空宇宙展で見た上のカラー写真のエンジンと同一と思われる、それは後付けされたスターターモーターの形状によるが・・・?)

 日本最初のジェットエンジンはドイツBMW-003の縮小版ではあったが、それはその以前の技術者の長年の研究があってこそ可能であったわけで、また図面を見てから1年も満たない期間で完成にこぎ付けた技術者集団の情熱は現代の技術屋の認識からすれば、想像を遥かに超えるものである。 そして素晴らしい成果であり、驚嘆に値することは誰も疑う余地は無い。

 


 さてこのジェットエンジンを搭載する機体の開発は1944年夏に海軍航空技術廠にて新たな特別攻撃兵器の構想の中で「皇国2号兵器」として中島飛行機の提案したタービンロケット(当時の呼び方)を用いたジェット機案が採用され、同年9月にはそれに参加していた中島飛行機の松村健一技師から中島の小泉製作所に報告され、急遽開発体制を敷くことになった。 最初の案ではエンジンは試験機としては、「初風ロケット」と称したもので、圧縮送風機を通常のエンジンである初風(160馬力)で回し、燃焼室に送り込んで推力を得る方式のもの(ツ-11型)を使用し、その後に実用機としてはネ-12型(TR12)に換装する予定であった。 これが「橘花」の最も初期の構想であった。 ただ、このネ-12の推力は計画値で320kgに過ぎなかった。

 海軍の当初の計画では1945年2月には3機、3月に7機、4月には30機、5月にはなんと100機の生産要求であった。 この要求を満たすには1944年の10月には主要図面を完成させねばならず、中島の設計部門は俄然多忙を極めることとなった。 こういった過酷極まりないものであったが、松村技師、山田為治技師らのグループは渾身の力を振り絞って対応した。

 未知の分野であり、また短期完成のためには、種子島大佐がネ-20を決断したと同様に、中島の技術者たちも、巌谷英一技術中佐が潜水艦でドイツから持ち帰ったメッサーシュミットMe262に関する極僅かな資料を参考にすることを選択した。 しかし与えられた要件は全く異なるものであり、設計はベースから行わねばならず、形状は似ているものの、ひとまわり小型にした新設計の仕様になった。

 また海軍が約束したネ-12エンジンの進捗ははなはだ悪く、12月になってようやく「試製橘花計画要求書」がでてくる始末で、中島はとりあえずネ-12型(TR12)を前提に設計を進めたが、1945年1月になって空技廠からネ-20型の計画が提示されたが、現実には未だベンチ試験も終わっていないエンジンでありフライイングで機体設計を進めるしかなかった。 その改修を含めて第2次木型審査が2月に終了し、6月に1番機完成に向けての突貫工事体制に入った。 ここでようやくエンジンチームと開発が同期することとなる。

 余談であるが、関係者の話では、エンジンがネ-12の時には推力が少なく、単に貴重なガソリンではなく質の悪い燃料(灯油・軽油の類、ただし現実はもっと厳しく松の木から採った松根油が予定された)で飛行できる特攻機としか考えようがなかったらしい。 しかし推力が475kgと大幅に増大したネ-20型の登場により、諸性能が飛躍的に向上し実用範囲がグンと広がったのである。 つまり一気に攻撃機、戦闘機、偵察機としての考えが支配的になったという。 実際に初期段階では特攻機として着陸装置の投下式も案にあがっていたが、それ以降は全く論外となった。

 しかしこのころ空襲はますます激しくなり、中島の小泉工場は工場疎開に迫られ、2月下旬に橘花の設計スタッフは佐野市の学校や繊維工場に移転した。 また生産も分散して行われることとなり小泉工場は全機組み立てを中心に行うことになったが、3月にはB29の大空襲に見舞われ、群馬県下の農家に数多くあった養蚕小屋を利用して分割製作を行わざるを得なかったのである。

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 海軍の「橘花」、そして計画半ばだった陸軍の「火龍」のイラストページもご覧下さい。終戦直前の初飛行についても記載しています。  また現存する唯一の「橘花」は、米国スミソニアン航空宇宙博物館の付属施設(Paul E.Garber Facility)に保存されているが、ここスミソニアンに来るまでの間にレストアされたがクォリティはかなりレベルが低く、エンジンナセルの前半分は取り外されていた。その訪問したときの写真(ここをクリック)をご覧下さい。やはりエンジンをもがれた航空機は空虚であり、がっかりさせられる。

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