122 ドルニエ Do J Ub ワール 旅客(郵便輸送)飛行艇 [ドイツ]

DORNIER Do J Ub WAL PassengerMail Service Flying Boat [GERMANY

全幅:23.2m、全長18.2m、翼面積:96u、
発動機:BMW Y水冷X型12気筒600馬力×2、総重量:8,000kg
最大速度:225kmh、巡航速度:≒190kmh、航続距離2,200km
乗員/乗客:最大4/11

初飛行:1922112日(JU:1931127日)

                              Illustrated by KOIKE, Shigeo   イラスト:小池繁夫氏 2010年カレンダー掲載

 平和だった大正末期から昭和ひと桁時代に世界的な活躍をした正真正銘の Famous Flying Boat飛行艇である。 原型機は第一次世界大戦の直後に完成したが、ドイツは敗戦国であったため休戦条約によって破壊され、ボーデン湖に沈んだ。 
 だが、設計責任者だったクラウディウス.ドルニエはドイツを離れ、イタリアのピサにCAMSAという名の会社を設立し、ここでDo Jワール(鯨)の生産・販売を開始した。 当時の飛行艇は木製艇体に複葉が主流だったから、全金属製構造が創り出したスッキリした単葉の主翼、細身の艇体、水上での安定を保つために艇体下部に取り付けられた小翼、串型配置のエンジンというスタイルで、その独創性は時代の革新でもあった。
 
 そのスタイルから生まれた性能と信頼性は各国から注目を集め、イタリアのこの会社とピアッジョ社で約150機、スペインやオランダ、再建ドイツで約500機が生産され、各国の民・軍で使用されることになった。
 このため、ひと口にワールといっても、エンジンや機体の寸度、重量に多くのバリエーションが存在することになった。 この画のD-2069Monsun”(後にD-ABIR)は、ルフトハンザ航空が19336月に、南米への航空郵便事業を開始したときに使用された「8トン型」と呼ばれた機体。 しかし、この機体でも、アフリカ西海岸のバサーストからブラジルのナタールへ飛ぶには航続性能が足りない。 そこで大西洋の中間点に長大な蒸気カタパルトを設置した中継船が配置され、その傍らに着水したワールは、クレーンで吊り上げられて、船上で整備・補給のあと、カタパルトで射出されて、残されたコースを渡っていった。
 
 日本では川崎(重工)がワールの能力に着目し、1機を輸入して海軍に提案したが、採用されなかった。 そこで無理やり車輪をつけて陸上機に改造設計したDo N(ドンと称した)を陸軍に提案したが、実に醜い陸に上がった水鳥スタイルになった。 しかしなんと、これが昭和2年(1927)に制式に採用され、八七式重爆撃機として28機が製作されたが、活躍する場は無く、安定性が悪く、馬力不足、強度不足で「どん亀」とまで呼ばれた。そして次世代の九三式爆撃機にその場を追われた。

 また、日本航空輸送(株)では、輸入された試用機とライセンス生産機計5機を博多湾?大阪港間に運用した。 1932227日、その中の1機「白鳩号」が、悪天候の中を飛行中に、北九州の八幡南方に墜落した。原因は乱気流の中での激しい振動、また過度な操舵が繰り返され補助翼操縦索のターンバックル緩み止めのカラゲ線が切断し、ネジが抜けてしまい、ターンバックルが壊れてしまい、それに伴うフラッター(振動)が発生し主翼が破壊され、空中分解に至ったものと特定された。 この東京帝大航研による初めての子細な原因究明過程は、その後の航空事故調査の手法、体制の整備などに大きな貢献した。
 
 ★このワール機を含め両大戦間の民間飛行艇の歴史を簡単にまとめてありますのでご覧ください。
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この画のように、機体の前方上方から見たアングルは、小池さんの画としては珍しいですね。でも飛行艇の艇体の形状が良く分かります。 前方の操縦席はむき出しですが、その後ろ艇体内に最大10名の乗客席があります。
 そう!この頃のパイロットは騎士道精神旺盛で、「我らパイロットは顔で風を読んで飛ぶんだ!オープンコクピットでなきゃ俺は乗らねぇ」と豪語していたようです。“紅の豚”のロマンの世界ですな! ホントに飛行艇は “いいねぇ〜!”


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