遊歩道から積翠寺集落を見下ろす。右中に要害温泉。左の山は興因寺山。
武田の杜遊歩道 竜華池から湯村山まで
まだ下草が繁茂する前の春、甲府に泊まって周辺の山を歩こうと計画したが、左膝と右足首を同時に痛めてしまい、負荷の高い山歩きは無理だろうと方針転換することにした。適度に穏やかに歩けるコースはないかと探したところ、甲府市街地北辺の低山を巡る遊歩道があることを思い出し、調べてみるに、距離は少々あるが整備されていてのんびり行くによさそうだったので一日かけて辿ってみることにした。実際に歩いてみると、たしかに急な上り下りは少なく歩きやすいが、やはり長いことは長いと実感したコースだった。


遊歩道の正確な始終点はとくに決まっていないようで、本日のところは武田神社の脇、竜華池の近くから歩き出すことにしていた。甲府駅から武田神社へは大した距離ではないので歩いて行くことにし、8時過ぎに駅を北口から出て、休みの日だというのに進学塾に向かう若者に混じって車道を北上する。
上着を着込んだまま歩いたせいか、だいぶ汗ばんで到着した境内では神職のかたがたが清掃する姿があちこちに目立つ。ここはもともと武田信玄の父の信虎が城郭同等の居館として整備した土地で、周囲には深い堀もあれば土塁もある。神社そのものは大正時代に建立されたものなのだが、広い敷地に格式高そうな建造物、加えて行政主体で毎年行われる信玄公祭りのおかげでか、ずいぶんと歴史を感じさせる社になっている。敷地内には水琴窟もあり、地面に刺された竹筒に耳を寄せると、地中に響く水音が聴き取れた。
武田神社拝殿
武田神社拝殿
拝殿を左に見て境内を東側に出ると大手門東史跡公園というもので、ここで見られる石塁は武田氏滅亡後に豊臣家臣団が構築したものと考えられているらしい。社叢林のなかから出て周囲が見渡せるようになり、裏手の山側を窺うとまず目に入るのが壁のような構造物である。竜華池の堤防なのだがずいぶんと高い。いまは整備中で、工事の看板が立っている。この竜華池、神社と同じ大正時代に造成されたらしく、いまは有料の釣り場として有名らしい。
竜華池、奥に積翠寺周辺の山々
竜華池、奥に積翠寺周辺の山々、水際右端に見える三角屋根が興国寺
堤防前で見上げてみると空中を渡る回廊が浮かんでいて、どうやらこれが武田の杜遊歩道に続くものと思われるものの、堤防に上がる階段にはロープが張られて立ち入り禁止になっている。ではどうやって遊歩道に入ればよいのか。周辺をうろうろしたあげく、池の堤防に上がってみると北側に案内図があった。これに従い、水際にある寺(興国寺)を目指し、寺の左手に回り込んですぐ山側へと上がっていく。若宮八幡神社という社があり、その前で簡易舗装道が二分する。これを右に辿るとすぐ山道となり、変則十字路に出る。ここがすでに遊歩道で、案内標識も立っていた(ただし、いま上がってきたルートについてだけ案内がない)。
サンシュユ咲く里
サンシュユ咲く里
竜華池北東の興国寺付近にて。
東に向かい、正面奥の山側へと辿ると若宮八幡神社。
若宮八幡神社の右手を上がった先で遊歩道に出る
若宮八幡神社の右手を通る簡易舗装道を上がった先で遊歩道に出るするとこの標識に出会う。登ってきたコースの表示はナシ、竜華池が竜ヶ池になっている。
歩き出す遊歩道はよく踏まれており、勾配がないわけではないが緩やかなものだ。とはいえ幅の狭い山道である。山腹の崩れやすい踏み跡をたどる部分もあり、急斜面を足下に見る場所もある。歩を進めるのは林の中、右手頭上に稜線を窺い、左手下に積翠寺へと延びる人里を透かし見る。ときおり標識が出てきては、「大岩」という場所(おそらく大岩園地なのだろう)や深草観音へと続く道を案内する。春の日差しが心地良い日曜だが、自分と同じ場所から登ってきたトレランのかた一名に追い抜かれただけで、里近いのに静かな山中だ。
森のなかを行く ここは赤松の森
赤松の森のなかを行く
沢筋を巡り、林のなかの平地を過ぎる。ときおり木々の合間がいくらか開けて、谷間を隔てた向かい側の山腹を仰ぎ見られる。山頂部に高圧線鉄塔を乗せているのが先日登った興因寺山だ。本日はあれには登らないが、そのとき歩いた古湯坊から途中まではいまや勝手がわかっているので安心して歩けるだろう。しかしあの山腹を歩くまではまだ先が長い。
要害山が正面に
要害山が正面に
目の前に要害山が近づいてくる。山裾に見える赤い屋根は積翠寺温泉だろうか。道のりは下りだし、大きくカーブを描いて沢筋めがけて高度を落とす。出た先は深草観音から下ってくる道筋で、トイレが二基あるちょっとした平地だ。過去に二度ばかり脇を通っているが、ここが深草園地と呼ばれるのは改めて知った。園地と呼ぶには狭くて違和感があるが、誰もいなければ一息つくに悪くない。
ここから積翠寺に下っていきたくなるが、コースは逆に深草観音方面に少々上がる。遠目にもわかる武田の杜の案内板が出ているところから真ん中に手すりのついた急勾配の簡易舗装路を上がるのだが、これがほんとうに急なもので、いったいなんのために造られたのかといぶかる代物である。高度はたしかに早々に稼げるのだが、遊歩道でこれはないだろうという余裕のなさで登っていく。舗装が途切れると階段と平坦路が交互に現れ、ようやく落ち着いた山道となったところで下りだし、温泉旅館前から延びている登路に合流する。山城の跡をそこここに残す道のりを経て、本日踏む数少ない山頂の一つ、要害山に着く。
下ってくる単独の男性二人とすれ違ったが、山頂には誰もいなかった。ちょうど午時なのにじつに静かなものだ。3月の中旬ともなればハイカーはもう少し高い山に向かうのだろう。初訪時も到着時は誰もいなかったが、昼食を食べていると有名なガイドのかたに率いられたパーティがやってきて賑やかになった。なのであまり落ち着かずに山頂を辞したのだったが、今回は広い平坦部にある説明板などゆっくり読むゆとりがある。ここにいわば本丸があったことは知っていたが、庭もあり、名残の岩も残っているという。中央部に三つばかりある大きな岩がそれのようだ。昔も今も、精神の強靱さを保つためには、とくに長期間にわたって居住する空間には息抜きの部分が必要なのだろう。
要害山山頂、左手前に”武田信玄誕生之地”石標
要害山山頂、左手前に”武田信玄誕生之地”石標
その大岩の一つに腰掛けておにぎりを一つ食べる。時代が時代なら手打ちものの仕儀だろうから、かつての城主に心で断りを入れて座り続ける。食べながら梢越しに展望の開けた北方の山並みを見晴るかす。棚山水ヶ森との中間に当たる山域らしいが、みな平坦でどれがどの山なのか判然としない。通常であればお湯も沸かすところだが、展望が今ひとつなので気が進まない。遊歩道の先には休憩舎が出てくるところがあり、そこでゆっくりすることにしよう。要害山は行程上だと目立つ場所だが、遊歩道を湯村山まで行く本日の予定からするとまだ四分の一にも達していない。10時過ぎに武田神社を出て、もう午だ。さてそろそろ出発しなければ。
山頂を横切り、深草観音方面へと稜線を辿る。ところどころ竪堀といって意図的にヤセ尾根にした部分があるが、山城防衛上の処置なのだった。三叉路につきあたり、右いけば深草観音というところで、左に向かう。ここは洞遊歩道というらしく、徐々に谷間を辿るようになり、水音を聞きながら高度を下げていく。
出た先は舗装道だった。旅館要害の脇を抜けて太良峠に上がっていくものだ。数は少ないものの、上がっていったり下ってきたりのエンジン音が聞こえている。車道に出たところの標識を見ると、遊歩道の続きは登れとある。5分も歩くと案内板があり、左手の山腹を戻るように上がるよう図示している。
要害山から洞遊歩道を下る
要害山から洞遊歩道を下る
入ってみると一帯は植林に覆われ、3月中旬の季節感はない。だが要害山の上り下りとは違い、緩やかな行程が続く。歩いていて心地良いところだ。正面に黒木で建てられた四阿が見えてくる。甲府盆地側に張り出した尾根を乗り越すところで、遊歩道を挟んでテーブルとベンチもある。標識には天神山園地とあった。天然カラマツで建てられたという四阿に入ってみると彼方に甲府市街が霞んでいる。床の真ん中には展望案内があり、見晴らしがよければ正面に七面山、左手に雨ヶ岳、右手に笊ヶ岳に櫛形山に農鳥岳が見えるらしい。残念ながら本日は靄が濃く、櫛形山を見分けるのがやっとだった。四阿の周囲は雑木林で日が回って明るい。ベンチに腰掛け、さてとばかりにお湯を沸かし出す。
天神山園地
天神山園地
園地までは平坦路で快適だった遊歩道は、尾根を乗り越してからは徐々に下り出す。古湯坊の建物が見えてくると車道に出る。宿の敷地内外は春の花が盛りで、ミツマタがクリーム色の厚ぼったい花をつけ、紅梅が香りを漂わせる。石垣を覆うレンギョウに似た花を眺めていると職員の方々が出てきて宿の車に乗り込んでいく。甲府駅にお客様を迎えに行くのかもしれない。
古湯坊前の紅梅(”八重紅梅”)
古湯坊前の紅梅(”八重紅梅”)
 
宿泊棟奥の竹林
宿泊棟奥の竹林
 
見越沢を回り込む。右手にツクシ坂の登路(稜線に出て興因寺山への縦走路に続く)が分かれる
再び山道へ。見越沢を回り込む。右手にツクシ坂の登路が分かれる。(登れば稜線に出て興因寺山への縦走路に続く)
古湯坊の下から再び山道に入る。ここは先日、興因寺山へ登りに来たときに入ったもので、よく踏まれた道のりを迷わず歩いて行く。半時弱で右に穴口峠・興因寺山への道を分け、植林と雑木林の混在するなかをなおも行く。道幅は広く平坦でじつに歩きやすい。さほど高低の変化もなく、考え事をするにも、なにも考えないで歩くにも、どちらにもよいところだ。
梢越しに左手に午前中辿った遊歩道の山が見える。その足下にある集落の幅が広くなっていく。寄り道になる一の森園地を見送り、ヤマザクラも咲く幅広の道を快適に進む。雑木林がいまだ葉を落とした姿を広げているかと思えば、青々とした竹林が遊歩道の脇までせり上がってきていたりもする。北山園地なるものが近くなってくると、木々の合間から武田神社の社叢や竜華池の水面も目に入る。池はほぼ三方を堤防に囲まれているのがあらためてわかる。
梢越しに東山(正面)と岩堂観音奥の山々(左奥)を望む
梢越しに東山(正面)と、岩堂観音奥の山々(左奥)を望む
<font size="-1">竜華池と武田神社社叢林(右)、奥は愛宕山</font>。愛宕山にある白い建造物は甲府仏舎利塔
竜華池と武田神社社叢林(右)、奥は愛宕山。
愛宕山にある白い建造物は甲府仏舎利塔
北山園地は先ほどの天神山園地と同じような造りの四阿で、天神山とは異なり総檜造りだった。建てられて20年以上が経っており、さすがに木の匂いは薄れていたが、柱は痛みが見えず、床板もしっかりしたものだった。時刻は夕方4時近くになり、午前中は晴れていた空はすっかり曇り空となり、甲府盆地の彼方に見えるべき山々もシルエットすら判然としなくなっていた。
古湯坊から基本的に南下を続けてきた武田の杜遊歩道は、北山園地から一転して北に向かうようになる。興因寺山が南方に張り出す大きな尾根筋を回り込むからだ。いままでは前方に市街地を見下ろしてきたが、この先しばらくは山を眺めながら行く。左手彼方、冬枯れの山腹には山中にそぐわない白い巨像が浮かんでいる。甲府市街を見渡す平和観音というものだ。太平洋戦争末期の7月上旬、市街地の7割以上が灰になった甲府大空襲の惨禍をくぐり抜けた人々が、平和を祈念して建てたものだという。昨今の日本の動きを、この観音様はどのように眺めていることだろう。
左手下には、その大空襲で最初に焼夷弾攻撃を受けたらしい塚原の家屋が見下ろされる。道のりはいったん林道に出て、再び山道に入り直す。植林のなかを行くと尾根筋を乗り越すところに出る。そこにはガードレールが設置され、古びて錆びた立て看板が「これより先平和観音境内への入山は・・・禁止・・・」と告げている。寄り道してでも観音様の前に出られるのかと期待していたが無理らしい。
歩きやすい径
歩きやすい径
予想外に大きな砂防堰堤が見られる沢筋を越えると金子峠から下ってくる道筋との十字路に出る。金子峠は淡雪山直下にある峠で、興因寺山の周遊をする人たちが通るのか、よく踏まれているようだった。いま歩いている武田の杜遊歩道は里近くを辿っていながらエスケープルートがはっきりしない。この金子峠に続く道のりはその一つになりえるので、ほどほどに切り上げたいときはここで甲府市街地に下りてもよいと思える。本日は日が沈むまで行けるところまで行こうと思っているのでまだ歩く。
やや道幅が狭くなったものの、あいかわらず歩きやすい。中峠へ続く分岐があり、峠口に立つと道の真ん中には丈高く幅広く生えるススキが繁茂し放題だ。とても立ち入りたい雰囲気ではない。中峠は興因寺山〜淡雪山山行の際、金子峠から先の稜線が快適さにほど遠く、イヤになって縦走を諦め里に下りた峠である。そのときは北側に出たのだが、農地脇を通っているからか、とくに荒れた感じではなかった。目の前のススキは最初だけで、あとは歩きやすくなっているのかもしれないが、本日は確かめる時間がない。
平和観音と積翠寺周辺の山
平和観音と積翠寺周辺の山
 
歩きやすい径が続く
歩きやすい径が続く
 
甲府市街中心部を俯瞰する
甲府市街中心部を俯瞰する 街の音が山上まで届いてきていた
中峠口からコースは再び南下基調となる。左手手前には平和観音が右を向いて現れ、背後の稜線の上には積翠寺を取り巻く山々が頭を出している。下方に目をやれば竜華池や武田神社が近い。斜光線を浴びる甲府中心部のビル群も窺える。生活空間がすぐそこなので町中の音がよく届く。なかでもよく響くのは救急車のサイレンだ。これを耳にするときばかりは慌ただしい世間が身近に感じられて山の上にいる気がしなくなる。
寄り道になる小松山園地へのルートを左に分け、何度目かの尾根乗り越しをして本日最後の北上を開始する。左手の景色は和田峠上から湯村山に続く山並みに変わる。山腹を車道がカーブを切りながら下っている。できればこの車道を歩いて下ることはしたくないものだと思いつつ歩く。
和田峠から下る車道の上に、逆光の稜線
和田峠から下る車道の上に、逆光の稜線
谷を回り込んでその車道に出る。案内板があって進む先は鳥獣センターとあった。舗装道を5分ほど下り、二車線道路の右手から土の道に入り直す。さらに5分ほどで三叉路となり、立っている標識には直進するのが鳥獣センター、右に行けば湯村山・千代田湖とある。右に入り、稜線に冬枯れの木々がシルエットとなっているのを眺めつつゆるやかに登っていく。左右に延びる道に突き当たり、標識を読む。湯村山は左へとあり、目指すべきはこちらだ。寄り道して、右、千代田湖・健康の森方面に向かい、眺望がよいと聞く白山を往復したいところだが、残念ながら本日は時間切れ、他日を期すことにする。
本日の山上最後の目標地点、湯村山を目指す
本日の山上最後の目標地点、湯村山を目指す
和田峠から下る車道の上に見えていた三角錐の印象的なピークに登り着く。山名標識もなく、小広く開けているものの疎林に囲まれて展望は今ひとつだ。直下を巻いている遊歩道に戻ってみると標識があり、湯村山は先だとある。今いる場所が湯村山だとばかり思っていたので拍子抜けだ。地図をよく見ていればわかったことだが、さすがに余裕がなくなってきているのかもしれない。日が暮れるまでに本日の遊歩道踏破は可能かと思っていたが、残念ながらそうはいかなそうだ。なにせすでに17時30分、春分の日の翌日とはいえ、もう少ししたら日が沈む。
湯村山へは終日歩いてきたものとは異なり、岩がそこここに点在するコースを行く。左手前方下には陸上競技場のようなものも見えて、あれが下山地点の緑ヶ丘スポーツ公園だとわかる。下る先が見えているのは安心だ。湯村山へは高度を下げていく。ずいぶんと幅の広い石畳道になって、麓から上がってくる車道に出ると、帰りはここを下ればよいのだとさらに安心する。さて暗くなる前に湯村山を周遊してみよう。
鳥獣センター南方の稜線は、岩がちだった
鳥獣センター南方の稜線は、岩がちだった
湯村山は、南下してきた稜線では甲府盆地にせり出す最後のコブである。武田信玄の父である信虎によって山城とされたところだ。狼煙台も造られていたそうで、再現されたものが近年まであったらしい。山頂部は平坦ではないがわりと広く、細い踏み跡と遊歩道とで一周すれば、細かな石組みが残る部分や山上の井戸跡を見ることができる。山頂部突端には四阿があり、夕暮れ近くなって吹き始めたやや強い風に追われて入ってみると、驚いたことに掛け時計がかかっている。時刻は6時にあと10分。温度計もあり、14度を示していた。
湯村山の四阿。時計と温度計がかかっていた
湯村山の四阿。時計と温度計がかかっていた
さて下山である。湯村山から西へ、湯村温泉側に下るコースもあるが、もう十分に暗くなってきているので予定通りスポーツ公園方面に下る。なおこの公園名称だが、甲府市のWebサイトを見ると、スポーツ施設としては「スポーツ公園」だが防災施設としては「運動公園」になっている。
木々の合間から市街地の明かりを透かし見る
下るに従い、街の灯りが増えていった 
秋の夕暮れはつるべ落としと言うが、春先の夕暮れも暗くなるのは速い。標高差150mを舗装道で下るうちにも市街地の明かりが増えていき、公園に着く頃には空の残照がすっかり消えてしまった。ここからは街中なのだが、足下は坂道だ。まだ甲府北山の裾野なのだった。


駅まではおそらくこの方面だろうと目星をつけて歩いて行ったが、予想より長く、一時間弱かかった。到着は7時過ぎ、さすがに空腹だったので駅近くで夕食を摂った。帰りの列車に乗ったのは8時頃だった。
2015/03/22

 ←山中の複数箇所にあった武田の杜遊歩道マップ。(click to magnify)
竜華池北辺のルートや湯村山近辺のルートの記載がないのが残念だが、等高線やコースタイムも書き込まれていて、Webにある遊歩道マップよりは詳しい。
これがWebで公開されていればと思うのだが、未発見。
(なお、2015年4月現在、古湯坊から和田峠下までのルートは 昭文社の”金峰山・甲武信”にも記載がある)

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